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新潟県新発田市砂山中道下遺跡で13升目将棋札(長さん)

以前、ヘンの金の書体が、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)
で紹介される際、画像変形されている疑いが
あるとの旨、本ブログで指摘した、新潟県
新発田市砂山中道下遺跡の、銀将駒とされる
遺物が有る。web上発掘報告書が公開され、
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録されている。pdf
ファイル名は、
24225_1_野中土手付遺跡砂山中道下遺跡.pdf
であった。
銀将の写真の載った上記発掘報告書の表題は
以下の通りである。
新潟県埋蔵文化財調査報告書第164集
日本海沿岸東北自動車道関係発掘調査報告書17
野中土手付遺跡・砂山中道下遺跡、
2006、新潟県教育委員会・
財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団。
 発掘報告書の、終わりの方に近い
図版102 砂山中道下遺跡木製品(8)に、
遺物番号第262番として、前に話題とした
銀将駒の写真がある。人手が足りないのか、
突っ込まれると、

とんでも無い大発見を内在しているのに、
軽く済ませてしまったままの遺跡

なのかもしれないという旨、当方が個人的に
苦言を述べた覚えがある。
 ところが、その同じページに、遺物番号で
第264番”呪術札”という写真があるので
あるが、これにも

釈文の第1行目に、問題があるのではないか

と疑われたので以下に報告する。
 半ば遊びで、遺物をひっくり返して読むと、
普通唱導集大将棋が13升目で、駒種”龍王”
を含むという、希望的観測での

大発見になる

のだが。実際にはその

可能性は薄い

として。2行ある内の第1行目
は、”天星急々如律令”ではなくて、
”車星三十如口”等の疑いがあり、

”車星三十如口(改行)急々如律令”等と

読むべきかもしれないと、本ブログでは見る。
 取りあえず遺物は以下のようなものである。
 バラバラに2つの破片で出土したが、ほぼ
元の形は貼り付けると、図のようになると言
う事である。

野中土手13香車 (1).gif

成立は銀将と異なり、今度はノイズで無いと
すれば普通唱導集とほぼ同じ時代の、鎌倉時
代末から南北朝時代になる。銀将と番号が近
いので、恐らく近くで見つかったのであろう。
 発掘報告書には、以下の旨の釈文がある。
「天星急々如律令(改行)急々如律令」。
 つまり、1行目と2行目とは繰り返してい
ると言うのだが。私には、

韻を踏んでいる事は間違いないが、同じには
見えない。

第1行目に急の字が有るように見えないし、
律の字が、下に続くというのも、上記の写真
から自明とまでは、言えないと思う。
 1行目の急々とされる字の所は、一例だが、
三十の可能性も、完全には否定できないので
はないか。
 以上までが、今回の真面目な議論である。
 ところでこの遺物は、2行目の”急々”と
される字も、はっきりしないのを利用し、

信用しないで、王+(龍の逆立ち)と読むこ
とにした上で、出土木片本体をひっくり返す

と、以下のようになる。

野中土手13香車 (2).gif


”十三的龍王(改行)的十三香車”

つまり、”大将棋では、13筋に龍王を振る
と、13筋の香車の餌食になってしまう”と
いう、

普通唱導集時代の大将棋をするときの格言に
なる

と言う事である。つまり、
①普通唱導集大将棋は二中歴大将棋と同じく
13×13升目とみられる13筋である。
と言う事と、
②未発掘だが、龍王駒が有る
という意味になる。もしそうならば、

本ブログの探し求めていた遺物そのものだ。

 むろん、これは今の所御遊び釈文であり、
こう読むには

2行目の”律”の行ニンベンが邪魔

である。だが、web上の該遺物の画像を拡
大して良く見れば判るのだが。このケースは、
行ニンベンのノが、2本ではなくて3本有る
ように見える。
 つまり、律ではなくて三なのかもしれない
という事である。仮にそうだと、実は遺物の
字を、逆さにして読んでいた事になり、

普通唱導集大将棋に関する有力遺物に、一躍
格上げになる可能性もゼロと言うまでは、言
い切れなくなってしまう。

ようするに解析担当者が、たまたま手薄だっ
たりして、

有力な情報が、地方の遺跡発掘担当の所で、
眠ってしまっている可能性は本当に無いのか。

 新潟県新発田市の、前世紀末のこの遺跡の
発掘現場のようなケースは、以前に述べた、
天童市将棋資料館の遺跡本編集担当に、突っ
込まれたときの

一例新潟県側の、銀将画像手直しの疑惑

に加えて、呪術木簡の読みの不自然さがある。
だから、そうした問題が内在する典型的な例
の疑いが有るのではないかと、私は更に懸念
を深めた。そこでこの発掘報告書遺跡を、マー
クするように、なってきている。
 なお全国遺跡報告総覧を調べれば、その後
新潟県が、新発田市の遺跡の報告書編集担当
メンバーを拡充した事など、一目瞭然に判る。
(2021/04/20)

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奈良県興福寺出土駒1058年物8金位置間違い(長さん)

今回は、西暦1992年前後に出土し遊戯史界
では著名な、奈良県興福寺の出土将棋駒の、
スケッチの間違いの疑いについて話題にする。

釈文の一部に問題がある

というカテゴリーの話でありスケッチのときに、

駒の字の位置を、裏オモテレベルで間違えた。

ので、面逆で文字の有無が、紹介されている
疑いが、有るようだとの内容である。
 情報元は、web上に公開されている画像で
確認できるかどうか、目下不明であり、成書の
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒、2003年、
山形県天童市将棋資料館編でのみ、画像を確認
できる。興福寺出土駒を記載した、同書94ペー
ジに画像があり、金将駒とされるもので、左上
に書かれ、遺物番号第8番とナンバリングされ
ている。なお”持駒使用の謎”の図の遺物番号
と、天童市将棋資料館本の興福寺出土駒の番号
は同じなようである。ただし、駒字の金の位置
が、画像とスケッチでズレているという事なの
だが、金将駒にはまず違いはない。ので、

一般的な将棋史の議論に、ほとんど影響しない。

画像は、以下のような内容である。

1058興福寺8.gif

 スケッチでは、左側のブルーの枠内に、割れ
た破片であるにも関わらず、欠けずにほぼ、ま
るまる”金”と書いてあるかのように、示され
ている。だが、

いくら目を凝らしても、少なくとも私には、そ
の面に何か、字が書いてあるようには見えない。

 ところが、上図の右の紫色の丸と、黄色の四
角の中には、金という字が、それぞれ有るよう
にも見え、

黄色の四角の中の大きい方が、本物の墨書

のようである。なお、紫丸の中の模様の方が、
ぱっと見に、気が付き易い。が今の所こちらは、
ヨゴレによるニセモノだろうと、私は判断する。
 普通の木簡と異なり、書体が見た事も無い物
であるわけではなく、

カスレて、字が薄い事が多いという点が、
将棋駒の駒字の特定の、独特の難しさ

だ。その為多彩な木簡の解読に、むしろ慣れた
専門家はかえって、

いつもと勝手が違うので、興福寺駒の解読には
さぞ疲れた

だろうと、私は思慮する。その疲れの為か。

しっかり見えていたにも関わらず、書くときうっ
かり裏オモテで、違う所に字を書いてしまった。

今回のケースについてはたまたま、以上のよう
なエラー経過が疑われると、私は画像の様子を
見る限りは、想定しているという事である。
(2021/04/19)

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奈良県平城京左京三条三坊桂馬は銀将か(長さん)

以下、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に掲載
の奈良県平城京の出土駒の釈文が、元々劣化
した墨書の、視覚認知能力の限界によって、

何とも判定不能な”どっちつかず模様”が、
一方の極限である「桂馬」に、たまたま
決め付けられた

とする疑いについて、成書:天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒又は”天童将棋資料館本”に
記載された写真に基づいて、以下に説明する。
 問題の遺物は、前記成書の96ページに、
遺跡番号第92番、平城京左京三条(247
次)遺跡として紹介された、桂馬とみられる
字の書いたスケッチと共に、写真が掲載され
たものである。

平城京333桂馬.gif

1993年発行の、奈良平城京の発掘報告書、
平城京左京三条三坊三坪の調査(第247次)
を、奈良市教育委員会が発行しており、その
情報等に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒本
は、基づくものとみられる。
 発掘年は従って、西暦1990年頃であろ
うと推定され、遺物の成立年代は、室町時代
から戦国時代の間のようである。平安小将棋
に飛車と角行が入り、現行の日本将棋となる
時代に掛かる事になり、情報として重要な遺
物である。更に”木簡研究”の第15号(
1993年11月)に”聞香札が共出土し、
他、多数の柿経が発見された”との旨の情報
がある。
 聞香札の共存は、個人的には将棋人気が少
し後退した室町時代中期頃の、石名田木舟駒
を連想させる。
 そこで、上図を見ると、発掘報告者ないし、
木簡学会のものと見られる不成り”桂馬”と
する釈文は、

将の字の小さい不揃い銀将との間で、2点間
交互振動するように見える≪幻想的模様≫を、
取りあえず”桂馬”と、仮に決め付けただけ

だと私には解釈される。なお、第2字目を将
と考えるケースには、字の右上部分は、擦れ
て消えていると、解釈する必要がある。
 さて木簡学会でも結果として、それで”桂
馬解釈”が認められてしまったようなのは、

将棋駒の字は、限られているのでチェックは、
他の一般木簡に比べて緩くてよいとの油断

が有ったように私的に懸念される。特にこの
ケースは、

運悪く、銀将と桂馬が、たまたま見方によっ
て拮抗するという、特異な例だった

ようだ。
 無論言うまでも無く、平安小将棋には銀将
も桂馬も有る。だから、たまたま運良く、

間違えても、将棋史への影響はほぼゼロ

だった。しかし、こんな不運な例も、稀では
あるが、将棋駒の同定にも有るようだ。その
為今後は、この例を思い出し、曖昧な墨書の
別解釈が、たまたま別種の将棋駒名にならな
いかどうかには、字の擦れた駒については充
分注意する必要があろう。そして、そういう
ケースには、

当然、他の分野の木簡の読みに習い”口口”
と表記して注意喚起しないと危ない。

以上の結論に、このケースはたまたまなると
見て良いという事なのであろう。(2021/04/18)

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長野県下伊奈深山田遺跡で紀元前数世紀の国墨書(長さん)

目下の所本ブログの管理人は、国の俗字の
一種である、王を口で囲んだ書体は、”岩波
新書2006年発行の『日本の漢字』、
笹原宏之著”で、中国漢代が初出であると聞
いている。
 ところが最近、遺跡の発掘報告書の中に、
王囲み口の墨書のある甕が、中国の戦国時代
にあたる、紀元前数世紀、

長野県付近の縄文時代晩期で成立

と解説するコンテンツが有るのに気がついた。
 web上に公開されておりpdfファイル
で確認出来る。
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
8916_1_深山田・広庭・ヨシガタ・大宿遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通り。
広域営農団地農道建設工事に伴う発掘調査
高森町埋蔵文化財発掘調査報告書第10集
深山田・広庭・ヨシガタ・大宿遺跡
1994年3月、長野県下伊那地方事務所
耕地課・長野県下伊那郡高森町教育委員会。
 上記の報告書の、213ページ、
写図9『深山田遺跡合わせ甕棺の土器』の、
上の段の、左に書いてある甕の部品に、
一部、上部の向かって左側が、囲いのクニ
がまえに重なってはいるものの、

王の字が口で囲ってある

ように私には見える字が、大きな字で墨書さ
れていると見なせる土器が、掲載されている。

深山田国.gif

なお、発掘報告書に、この遺物の墨書につい
ての説明は、特に無い。王の字は、輪郭線だ
け墨で線を引いているように、私には見える。
枠のカマエの口は、普通にベタ四角形なので、
王と一部重なっていても、国の俗字、口で囲
んだ王の字のように、見えると上図より私は
理解する。
 そして、発掘報告書の本文には、この土器
遺物は、長野県付近での縄文時代末期の成立
と主張されているように、私には認識される。
 紀元前数世紀という意味ではないか。とす
れば、中国の王朝の前漢の成立よりも早いと
いう事になり、

王を口で囲んだ国の俗字は、日本で発明され
たという事にも、なりかねない

はずだ。
 甕には縄文が私には見えないので。或いは
発掘報告書の年代推定に、かなりの誤差が有
るのかもしれない。
 以前に、王囲み口と、本来書体の國との、
1世紀前後の弥生時代のハイブリッド文字墨
書を本ブログで指摘したのだが。伝来した字
を正直に真似た例も、港に近くは無い長野県
内でも、どうやら有ったようだ。
 何れにしても、王を口で囲んで国と表現す
るという統一国家思想の宣伝が、金印漢字”
國”の伝来とほぼ同時でかつ、実際の

日本の統一よりはずっと早く、弥生時代には
恐らく、大陸から来ていたのは間違い無い

ようだ。
 以上のように、私はこの遺物を見て、強く
感じるようになって来た。(2021/04/17)

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天童将棋資料館本興福寺No.4玉成りは或王也(長さん)

これまで本ブログは、11世紀の興福寺では、
平安小将棋の玉駒は、玉将が定番だとみなして
来た。今回は、それを否定する論を展開する。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(以下、天童
将棋資料館本と記す場合がある)の興福寺出土
(1058年物)駒の、遺物番号No.4と、
天童将棋資料館本でナンバリングされた玉将駒
の裏は、天童将棋資料館本では”成口”と釈文
されている。が、それが間違いであって本当は

”或王也”と書かれている疑いが出てきた

という以下は紹介である。
 さて現物の本来は何も書いて無いはずの遺物
の”玉将”の裏は、以下のようになっている。

興福寺玉裏.gif

大事な点は、以前に本ブログでも例を示したが、

”或”の字は、左側だけ不明確になると、”成”
の読み間違いが発生するという点

である。上の遺物の例では、まさしくそうなっ
ている。つまり、

”或いは王将である”との意味の字が書いてあ
る疑いがある

という事である。
 つまり西暦1058年時点では興福寺では、
本ブログが、日本の平安小将棋の伝来元として
いる大理国の、中央集権制が弱い事についての
情報が不足しており、伝来した将棋の玉駒が王
で無い理由を、計りかねていたという事なのか
もしれないという事になる。
 本ブログでは、この玉将駒の裏の墨書きを、
正確には以降、以下のように解釈したい。

或王也+(文書の校正記号の)≪削除≫

 なお、全体として字が右に偏っていると考え
る。これは或いは左隅に、墨書を入れた人間の、
署名等が、有るからなのかも知れない。その点
については私には良く判らない。何れにしても、
Jの字のような濃い墨と、”こ”に見える也に
上書きした墨と、本ブログでは解釈するパーツ
は、別の人物が「間違いである」との意味で、
書き込んだものだと、見ているという事である。
 下級とはいえ、知識人としてはエリート揃い
であったろうから。日本の将棋の玉将が王将で
はないかという議論は、興福寺の僧侶の中でも、
11世紀の半ばにはあって、モメテいたのかも
しれない。なお、本ブログでは朝廷で、(推定)
大江匡房が、王将に決定したのは西暦1080
年代頃と見ている。西暦1098年物の成立は、
その後だが、西暦1058年物は前だ。
 或いは、”或王也”と書いた人間は、

”玉将とは国王の事である”との意味で書いた
のだが、王・玉論争のときに、誤解された

のかもしれない。なおここで、國と書かないで
”或”と書いたのは、元々これだけでも国と読
めるつもりだったか、または、合戦を模したゲー
ムなので、国境線は未確定だとでも、考えたか
らなのかもしれない。しかしながら、読み手に
は”=王将”と解釈され、けしからんと思われ
て、”J+こ”校正記号で消されて、駒が廃棄
されたのかもしれない。
 何れにしても、最初に述べたように、成の字
は、左側が消えると

或と区別しにくくなり、更には上図のように、
2文字目が王であると、薄い横三本線の存在か
ら、このケースでは特に疑われる

という点に注目すべきであろう。だから今後は
今までより、興福寺駒の玉駒については注意深
い論展開をする必要が、明らかに有ると、私は
考えるようになって来ている。(2021/04/16)

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平城宮等出土の口囲み王を加味した國の草書(長さん)

以前に本ブログでは、王を口で囲んだ書体
の奈良時代付近の出土遺物の墨書を、何点
か紹介した。しかしながら奈良時代付近の
墨書と言えばやはり、平城京の木簡の存在
が著名である。その為、国の字が奈良木簡
に多数有る事は、論を待たず明らかである。
今回は今まで本ブログでは紹介しなかった、
奈良期平城京木簡の国の書体を問題にする。

王囲み口の楷書と、それを加味した國の草
書体は両方有り、特に後者は中央縦軸が、
下へ行くと向かって右に流れ、俗字”国”
とは違う書体になる。

 かなりの数見つかっていると見られるが、
以前本ブログでした予想とは異なり、
王を口で囲んだ書体を加味した上で國の草
書を書くと、以下のように、三を口で囲んだ
書体に、國の縦棒を入れた字に、私が確認
した限りでは、平城京木簡の国の字は必ず
なっているように認識された。

平城宮中間体.gif

上図は遺物の一例であり、昭和五十七年五
月平城宮発掘調査出土木簡概報(15)の、
図版4左から2番目の、「備前国」の国の
字である。
 三の崩し字に國の中央縦線を入れ、右横
の点も付けている。

俗字”国”とは①縦線が突き刺しかつ、②
右へ折れて③ハネているので、玉とは違う。

 このような書体が出来るのは、平城京で
は当時、王を口で囲んだ国の俗字が普通だっ
たからであり、下の例はその一例である。
平城宮発掘調査出土木簡概報(31)
二条大路木簡五、1995年11月の、
図版4の右端の木簡の、大和国の国の字。

平城宮王囲み口.gif

 最初の三に國の縦線等を刺す書体が出来
るように亘のような部分を、王の字を参考
に、三に変えたから、最初の字が出来た事
は、この直ぐ上の図と比較すれば明らかで
あろう。
 なお、このような事は奈良県の平城京に
限らず例えば静岡県浜松市の伊場遺跡でも、
奈良時代から平安時代にかけて、同じパター
ンで起きている。
 以下はweb上に公開され、pdfファ
イルで見る事が出来る、発掘報告書に記載
された、墨書土器の例である。
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
22981_1_伊場遺跡総括編.pdf
文献名は、以下の通り。
伊場遺跡発掘調査報告書 第12冊
伊場遺跡総括編(文字資料・時代別総括)、
浜松市教育委員会、2008年
というコンテンツ。その、
写真図版80梶子北他墨書土器赤外線写真22
(梶子北・東野宮)の、下から2段目右端
に、平城京木簡で上に示した、最初の例と
同じパターンとみられる書体の墨書土器が
有る。発掘報告書でも国と解釈されている。

伊場中間体.gif

 平城京のケースと似ているが右側の点が、
このケースには、たまたま無い事だけ違う。
このケースも王とは縦線が、向かって右に
大きくソレる点がぜんぜん違う。ハネた後、
右で抜けているのは、作成者固有の筆跡か。
 この遺跡に関しても、比較的至近の場所
で、王を口で囲んだ書体を書こうとしたと
考えられる、別の墨書遺物が、発掘されて
いる。以下の例がそれで、
写真図版79城山他墨書土器赤外線写真21
(3次・7次・九反田)の、上から2段目
左から2番目に載っている。

伊場王囲み口.gif

王の底辺が国の下線と重なっているが、こ
の画だけ二度書きらしい事は、王下線が凹
にカーブしているために、国下線が皿のよ
うな形に、変形している事から判る。
 よってこの事から奈良時代から平安早期
に掛けて、奈良からかなり離れた静岡県
浜松市付近でも奈良の都同様、王を口で囲
んだ国の俗字が、確かに存在した事を示し
ていると考える。恐らくだが、

日本全国、ほぼ同じ

だったのであろう。
 以上の結果から、現在我々が標準的に使
用している書体の国は、國を変形していっ
て到達したとは、言い難い。一旦王囲み口
国の俗字にした上で、更に右点を付けたと
主張しているとみられる”角川 新字源”
小川環樹他編の説が正しい事が、明らであ
るように、私には思われた。(2021/04/15)

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大阪府私部城跡から香車・角行画入り瓦(長さん)

出土したのは、一品が前世紀のように認識する
が。2015年の大阪府交野市教育委員会編の
遺跡発掘報告書”私部城跡”に、香車の文字と
不定形の囲みの入った瓦、及び行の字と五角形
駒の黒い影のようなものがある瓦の、以上2品
の遺物写真があるのに、本ブログの管理人は最
近気がついた。

将棋駒の影は今の五角形駒型であり、人為的作
品であるとすると、戦国時代の大阪の将棋駒は、
意匠が他よりモダンであったろう

と結論できる。
 発掘報告書はweb上にpdfファイルとし
て公開されており、いつも通り
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
17362_4_私部城跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書名は、以下の通りである。
交野市埋蔵文化財調査報告2014-1
私部城跡発掘調査報告、2015.3、
交野市教育委員会。
 私部城自体は戦国時代の城で、遺物は16世
紀半ば、一乗谷朝倉氏遺跡駒と、ほぼ同じ頃と
みられているようである。
 さて図版に瓦の写真が何枚かあり香車の文字
の入った瓦は、写真図版45の一番上の凹み側
(右)に、遺物番号第12番として掲載されて
いる2コマの写真の右側である。

私部城香車.gif

字はかなり薄い上に、香と車の大きさが少し、
チグハグかつ、位置がズレている。全体として、
台形のような枠で、囲われているように見える。
 本ブログでは、このパターンの場合、今まで、
車が本物で、他は自然模様と見てきた。むろん、
戦国時代に日本将棋は成立しており、将棋駒の
絵が描かれたとしても問題は無い。だから大阪
交野市の私部城でも、日本将棋等は指されて当
然だから、出土して当然の遺物とは言える。
 そこで、同じ発掘報告書の別の瓦を探すと、
発掘報告書が書かれる少し前に出土とされる、
写真図版54の、上から2段目右の、大きな瓦
の破片と見られるものに、五角形のカゲに、行
の字が、わずかに見える遺物を私は見出した。

私部城角行.gif

個人的見解だが、この角行駒のカゲは、今の将
棋駒とほぼ同じだと思う。一乗谷朝倉氏遺跡の
将棋駒に比べてモダンだ。江戸時代から現代へ
と繋がる将棋棋士集団が、近傍に多数存在した
との心象を、私はこの遺物から特に強く受ける。
 以上の事から、戦国時代の別の城に複数例が
有る通り、大阪府の私部城でも、日本将棋が指
された疑いがかなり濃いと、このかなり前に出
土したと見られる前者、香車の字の入った屋根
瓦に関して私は結論する。角行駒を発掘する発
端となった、新たな発掘調査事業に関し、私は
深く敬意を表したい。(2021/04/14)

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茨城県つくばみらい市鎌田遺跡の奈良平安国土器(長さん)


本ブログでは今の所字体の”国”は鎌倉時代
中期と成立と見ていた。しかるにweb上で
公開されている遺跡の発掘報告書に、奈良・
平安時代成立の”国”と書かれたようにいっ
けん見える土器の写真を、最近発見したので、
以下、そのチェック経過について述べる。

ロクロ回転模様が重なっていて”王囲み口”
の書体の国が書いてあるのに、書体”国”に
錯覚してしまうように、なっているだけだ

と疑われる。
 繰り返すと発掘報告書に問題の出土遺物
(土器)の写真があり、発掘報告書はpdf
ファイルで、web上で見る事が出来る。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
18941_2_鎌田遺跡.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
茨城県教育財団文化財調査報告第176集
主要地方道取手つくば線及び一般県道高岡藤
代線緊急地方道整備事業地内埋蔵文化財調査
報告書≪鎌田遺跡≫、2001年3月、
茨城県土浦土木事務所・
財団法人茨城県教育財団。
遺跡の位置は、筑波郡伊奈町が現在は、
つくばみらい市になっているが、発掘報告書
の当時には、次の通りだったと言う事である。
茨城県筑波郡伊奈町太字南太田。
 発掘は西暦1999年前後に行われたよう。
前記pdfのPL.63:第30・33~35・
37・38・40・43・46~49・51号
住居跡出土造物の、左下から2段目に問題の
遺物の写真が有る。遺物は第SI48-297
とナンバリングされている。

鎌田遺跡国.gif

遺物の成立時期は、第1pdfの、
18941_1_鎌田遺跡.pdf
に、漠然とであるが奈良時代ないし平安時代
と記載され、鎌倉時代中期より早く、将棋の
伝来の通説、本ブログの院政期以降説よりも、
更に早い懸念がある。
 遺物の国の王の点の存在の可否が、当然問
題である。が、良く見れば判るが、

ロクロの渦巻き跡が重なっており、点は無い

のが本当だと判る。従って本ブログでは書体

”国”の成立は、鎌倉時代中期なのでは
ないかと、依然疑う

事にしたい。
 今回は以上だが、夜象等、興味深い墨書遺
物を出土させ、本鎌田遺跡から、さほどは離
れていない茨城県つくば市の島名熊の山遺跡
からも2002年前後頃に王囲み口墨書土器
が出土したらしい。
 こちらもweb上に公開され、全国遺跡報
告総覧に登録されているのもいっしょ。ただ
し、本ブログで以前紹介した報告書とは、
コンテンツが、たまたまであるが別である。
12139_2_島名熊の山遺跡.pdf
PL.48:第1547・1556・1562・
1564・1567・1575号住居跡出土遺物
の左下隅に、遺物番号SI1556-304
とナンバリングされて、写真が有る。

島名熊の山国.gif

口の右側が二重になっているように見えて、
多少怪しいが、外の線に見える影は、偶然出
来た自然模様であろう。
 以前引用したが島名熊の山遺跡も平安時代
の遺跡なので、今回最初に指摘した遺物土器
と、だいたい成立はいっしょ。だから、この
2個の別々の場所出土の遺物土器は、類と疑っ
て良いのであろう。
 以上のように、書体”国”が鎌倉時代以前
から有ったという証拠として、鎌田遺跡の遺
物は、かなり不十分だと言うのが、本ブログ
の見解という事になる。(2021/04/13)

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九州福岡で奈良時代、國の中縦曲線は略さない(長さん)

以前国の旧字体の國の中国の草書体を紹介
した際、真ん中の上から右下に引く縦曲線
を略す例が無い事を指摘した。これは、國
から俗字の国が出来にくい事を示している
と考えられる。しかし、それは中国流であ
り、日本では奈良時代程度になると、違う
のではないかとも疑われた。しかるに、
九州福岡の福岡空港建設現場遺跡一箇所で
はあるが、漢字のこの形の字類では、日本
でも、真ん中の上から右下に引く縦曲線を
略す例が見あたらない事が判ったので、今
回は、その事について報告する。
 遺跡名は、九州福岡県の福岡空港の周辺
に有る、下月隅C遺跡であり、遺跡の今回
発掘現場付近の成立時代は、奈良時代前後
とみられているようだ。同一の発掘報告書
の出土遺物の写真3枚に関してだけ、以下
議論する。
 発掘報告書名は、次の通り。
下月隈C遺跡Ⅵ/福岡市埋蔵文化財調査報告書第881集、
2006、福岡市教育委員会。
 web上にpdfファイルで公開され、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧にそれは登録されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
20287_4_下月隈C遺跡6.pdf
 最初に紹介する出土遺物は土器に書かれ
た字であり、”或”ないし”戓”のように、
私には見えた物である。

下月隅或.gif

前記pdfのPL.80の右上隅に遺物番
号第28番として掲載されている。なお該
報告書には成であるとの旨記載されている。
 上図のように、”戓”であるにしても、
あるいはまた”成”であるにしても、右上
の点は省略されているが、中央縦曲線と、
右のノは略されていない。この字は國から、
口部分を取ったケースなので、何を省略し
て行くかに関して國に近いと考えられる。
 次の遺物は木簡で、私には”成”のよう
に見えた字である。

下月隅木簡.gif

前記pdfでなくて、トップpdf、
20287_1_下月隈C遺跡6.pdf
の、巻頭カラー図版、
図版1:第Ⅱ面出土の「皇后官職」木簡と斎串
の赤外線写真に出ている。
なお報告書では”成”ではなく”戌”と読
んで意味が通るとの旨が、記載されている
と私は承知する。
 上図のように”戌”であるにしても”成”
にしても、

中央縦曲線は略さない上で右上の点は除き、

更にノを右点に替えていると、明らかに取
れる。
 第3番目の例は、元の第4番目のpdf
20287_4_下月隈C遺跡6.pdf
の、PL.78:SD735出土墨書土器
(須恵器)の2段目左に、遺物番号第4番
とナンバリングされた土器に書かれた、”
戌”と読める字である。

下月隅戌.gif

発掘報告書でも、戌と解釈されている。こ
のケースも、

中央縦曲線は略さない上で右上の点とノの
画を書く代わりに、右横少し上に点を一つ
加えている

と解釈できる。
 このようにノの字の画と右上点は、
或、戓、戌、成の各字で、略される事があ
るが、

日本の福岡県福岡空港付近では、中央から
右下に伸ばす縦曲線を、奈良時代頃略す習
慣が見当たらない。

よって、類似の字である國は、同じく、
中央から右下に伸ばす縦曲線を、奈良時代
頃略す習慣が無いと見なされる。だからそ
の字だけから、奈良・平安期頃に、

”国”という書体または字体が國から直接
出来るとは、やはり考えにくい。

 以上のように、私には思えたのである。
(2021/04/12)

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福島県玉川村江平遺跡で奈良時代王囲み口土器(長さん)

以前述べた通り、遺物の捜索結果、国の俗字
である、王を口で囲った書体は、弥生時代に
日本に伝来していたと”國とのハイブリッド
書体”墨書土器の存在から推定した。しかし、
鎌倉時代より前に、この俗字そのものが日本
に有ったという証拠を、本ブログの管理人は、
これまで掴んでいなかった。しかるに最近、
福島空港のある、福島県玉川村の江平遺跡で、
西暦2000年前後に、土器に、該俗字が書
かれているように見える遺物が、発掘されて
いるのを写真で発見した。下のようなもので
ある。

福島空港囲み王.gif

 この遺物の写真はweb上に公開されて
いるpdf形式の発掘報告書内に載ってお
り、pdfファイルは、以下の名称である。
それは奈良文化財研究所発掘報告書データ
ベース全国遺跡報告総覧に登録されている。
23635_3_福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告12.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
福島県文化財調査報告書第394集
福島空港・あぶくま南道路遺跡発掘調査報告12
江平遺跡、福島県教育委員会・
財団法人福島県文化振興事業団・
福島県土木事務所、2002年。
 遺跡の場所は以下の通りという事である。
福島県石川郡玉川村小平字江平と、その他。
 成立年代は、年号の入った木簡が共出土し
ていて、奈良時代だと考えられている。
前記遺物の写真は、報告書の297ページの、
”70~72・74号住居跡出土遺物”の
右下隅に記載されている土器である。表面に

白抜きで王と記載された墨書が有るように私
には見える。

遺物番号は、第197-3番とナンバリング
されているようである。発掘報告書では、

付着したススのヨゴレ

と見ている旨が、本文中に記載されているよ
うである。
 このケースは上記の写真から、字が更に墨
に埋もれていて、発掘報告書の見解は否定で
きないだろう。ただし遺物を見ると、囲み王
の上部に”大”という字も読め、

大国と、国を治める大王とをかけて表現

していると見るのが、自然なように私には見
える。だから一応この遺物の墨(すす)から、

奈良時代に国の俗字として、王を口で囲んだ
ような字が有ったと、ほぼ見て良い

のではないだろうか。
 以上の事から、以前に紹介した例に加えて
この遺物からも、王を口で囲んだような国の
俗字は、少なくとも奈良時代には既に有って、

奈良時代には国の字の俗字として、日本でも
自然な書体と見られていた。

以上のように言える可能性が、かなり高いの
ではないかと、私は考えるのである。
(2021/04/11)

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