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60年モデル50年前倒と角行、竪行親鸞起源説(長さん)

以前に述べたように、奔王と横行の同じ筋での
非共存説を取るとすれば当然横行を、西暦
1255年程度にではなくて、西暦1205年
程度に数十年早めて、袖に移動させなければな
らない。その動機は、駒種の増加に求めるのが
自然なため為、日本将棋の駒として著名な

角行と、中将棋以上に存在する竪行の出現も、
同じ程度に数十年、早く見積もる必要が起こる。

増川宏一説や木村義徳説に、近寄る必要が必然
となるという事である。
 所で本ブログでは、横行から角行と竪行が分
化したのはほぼ自明だとしてその理由を考察し、
仏教宗派のひとつ浄土真宗の親鸞の教義手法が、
少なくとも影響していると見てきた。しかしそ
の説に関し、角行と竪行の成立が

数十年早まると、親鸞が居ないといったパター
ンの矛盾が起こらないかどうか

が当然のことであるが問題になる。この点では、

親鸞が長寿だったお陰で、幸いにも影響が無い

事が判る。今回はこの事を説明する。
 本ブログの今までの論だと、将棋棋士が奔横
の駒の性能(動かし方)ルールの、竪行包含の
おかしさから、横行が袖移行した少し後に、

角行と竪行を発明しておいて奔横の駒名を変化

させたという事になっていた。故にイベントが、

ヒントを与えた阿弥陀経親鸞の晩年に起こった

と推定された。普通なら、イベントを早めると、
当事者が、まだ生誕していないという矛盾が起
こりやすい。しかしながら、このケースは、
西暦1201年に親鸞は六角夢告で浄土教、判
り易くは阿弥陀教に転向し、西暦1211年に
新潟に配流されているという、時代の流れになっ
ている。
 だから親鸞上人の晩年ではなくて、若き日に、
将棋棋士達が、彼の教義を聞いて尤もだと考え、
横の他に竪、残りの奔横の動きから角を発明し
た上で、横行を角行と竪行に並べるために袖に
移動させた後に、奔横は奔王に名称変更したと
いうふうに、時代をずらしても

このケースは、親鸞は居るので幸運にも問題が
起こらない

のである。なお、阿弥陀教を将棋棋士が比較的
先行して受け入れ易いのは、そもそも将棋は当
時、博打に絡んだ行為であった。ので将棋を常
習すると、極楽浄土(天国)に成仏できにくい
立場にあると、周囲から見られると考えるのが
自然だった。だから阿弥陀教を初期に受け入れ
るのは必然であろうと見られるという事である。
 また、奔王の成立が奔横の成立より早いよう
に見えるのも、実は錯覚で、
岩手県平泉町が、徳島県徳島市よりも、親鸞が
配流された新潟県上越市に近いため、先行して
定着。それに対して地理的に遠い

徳島県徳島市では比較的後まで奔横が残存した

と考えれば、一応矛盾が起こらない。
 以上のように、親鸞の没年が1263年と、
比較的遅いにも関わらず、数十年イベントの成
立年を、前だおしシフトさせても、彼の西暦
1173年という早い生誕年のお陰で、本ブロ
グの論に、今述べた点での影響は、ほぼ無いと
見られるのである。(2021/04/26)

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