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平城宮等出土の口囲み王を加味した國の草書(長さん)

以前に本ブログでは、王を口で囲んだ書体
の奈良時代付近の出土遺物の墨書を、何点
か紹介した。しかしながら奈良時代付近の
墨書と言えばやはり、平城京の木簡の存在
が著名である。その為、国の字が奈良木簡
に多数有る事は、論を待たず明らかである。
今回は今まで本ブログでは紹介しなかった、
奈良期平城京木簡の国の書体を問題にする。

王囲み口の楷書と、それを加味した國の草
書体は両方有り、特に後者は中央縦軸が、
下へ行くと向かって右に流れ、俗字”国”
とは違う書体になる。

 かなりの数見つかっていると見られるが、
以前本ブログでした予想とは異なり、
王を口で囲んだ書体を加味した上で國の草
書を書くと、以下のように、三を口で囲んだ
書体に、國の縦棒を入れた字に、私が確認
した限りでは、平城京木簡の国の字は必ず
なっているように認識された。

平城宮中間体.gif

上図は遺物の一例であり、昭和五十七年五
月平城宮発掘調査出土木簡概報(15)の、
図版4左から2番目の、「備前国」の国の
字である。
 三の崩し字に國の中央縦線を入れ、右横
の点も付けている。

俗字”国”とは①縦線が突き刺しかつ、②
右へ折れて③ハネているので、玉とは違う。

 このような書体が出来るのは、平城京で
は当時、王を口で囲んだ国の俗字が普通だっ
たからであり、下の例はその一例である。
平城宮発掘調査出土木簡概報(31)
二条大路木簡五、1995年11月の、
図版4の右端の木簡の、大和国の国の字。

平城宮王囲み口.gif

 最初の三に國の縦線等を刺す書体が出来
るように亘のような部分を、王の字を参考
に、三に変えたから、最初の字が出来た事
は、この直ぐ上の図と比較すれば明らかで
あろう。
 なお、このような事は奈良県の平城京に
限らず例えば静岡県浜松市の伊場遺跡でも、
奈良時代から平安時代にかけて、同じパター
ンで起きている。
 以下はweb上に公開され、pdfファ
イルで見る事が出来る、発掘報告書に記載
された、墨書土器の例である。
奈良文化財研究所発掘報告書データベースの、
全国遺跡報告総覧に登録されている。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
22981_1_伊場遺跡総括編.pdf
文献名は、以下の通り。
伊場遺跡発掘調査報告書 第12冊
伊場遺跡総括編(文字資料・時代別総括)、
浜松市教育委員会、2008年
というコンテンツ。その、
写真図版80梶子北他墨書土器赤外線写真22
(梶子北・東野宮)の、下から2段目右端
に、平城京木簡で上に示した、最初の例と
同じパターンとみられる書体の墨書土器が
有る。発掘報告書でも国と解釈されている。

伊場中間体.gif

 平城京のケースと似ているが右側の点が、
このケースには、たまたま無い事だけ違う。
このケースも王とは縦線が、向かって右に
大きくソレる点がぜんぜん違う。ハネた後、
右で抜けているのは、作成者固有の筆跡か。
 この遺跡に関しても、比較的至近の場所
で、王を口で囲んだ書体を書こうとしたと
考えられる、別の墨書遺物が、発掘されて
いる。以下の例がそれで、
写真図版79城山他墨書土器赤外線写真21
(3次・7次・九反田)の、上から2段目
左から2番目に載っている。

伊場王囲み口.gif

王の底辺が国の下線と重なっているが、こ
の画だけ二度書きらしい事は、王下線が凹
にカーブしているために、国下線が皿のよ
うな形に、変形している事から判る。
 よってこの事から奈良時代から平安早期
に掛けて、奈良からかなり離れた静岡県
浜松市付近でも奈良の都同様、王を口で囲
んだ国の俗字が、確かに存在した事を示し
ていると考える。恐らくだが、

日本全国、ほぼ同じ

だったのであろう。
 以上の結果から、現在我々が標準的に使
用している書体の国は、國を変形していっ
て到達したとは、言い難い。一旦王囲み口
国の俗字にした上で、更に右点を付けたと
主張しているとみられる”角川 新字源”
小川環樹他編の説が正しい事が、明らであ
るように、私には思われた。(2021/04/15)

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