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天童将棋資料館本興福寺No.4玉成りは或王也(長さん)

これまで本ブログは、11世紀の興福寺では、
平安小将棋の玉駒は、玉将が定番だとみなして
来た。今回は、それを否定する論を展開する。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(以下、天童
将棋資料館本と記す場合がある)の興福寺出土
(1058年物)駒の、遺物番号No.4と、
天童将棋資料館本でナンバリングされた玉将駒
の裏は、天童将棋資料館本では”成口”と釈文
されている。が、それが間違いであって本当は

”或王也”と書かれている疑いが出てきた

という以下は紹介である。
 さて現物の本来は何も書いて無いはずの遺物
の”玉将”の裏は、以下のようになっている。

興福寺玉裏.gif

大事な点は、以前に本ブログでも例を示したが、

”或”の字は、左側だけ不明確になると、”成”
の読み間違いが発生するという点

である。上の遺物の例では、まさしくそうなっ
ている。つまり、

”或いは王将である”との意味の字が書いてあ
る疑いがある

という事である。
 つまり西暦1058年時点では興福寺では、
本ブログが、日本の平安小将棋の伝来元として
いる大理国の、中央集権制が弱い事についての
情報が不足しており、伝来した将棋の玉駒が王
で無い理由を、計りかねていたという事なのか
もしれないという事になる。
 本ブログでは、この玉将駒の裏の墨書きを、
正確には以降、以下のように解釈したい。

或王也+(文書の校正記号の)≪削除≫

 なお、全体として字が右に偏っていると考え
る。これは或いは左隅に、墨書を入れた人間の、
署名等が、有るからなのかも知れない。その点
については私には良く判らない。何れにしても、
Jの字のような濃い墨と、”こ”に見える也に
上書きした墨と、本ブログでは解釈するパーツ
は、別の人物が「間違いである」との意味で、
書き込んだものだと、見ているという事である。
 下級とはいえ、知識人としてはエリート揃い
であったろうから。日本の将棋の玉将が王将で
はないかという議論は、興福寺の僧侶の中でも、
11世紀の半ばにはあって、モメテいたのかも
しれない。なお、本ブログでは朝廷で、(推定)
大江匡房が、王将に決定したのは西暦1080
年代頃と見ている。西暦1098年物の成立は、
その後だが、西暦1058年物は前だ。
 或いは、”或王也”と書いた人間は、

”玉将とは国王の事である”との意味で書いた
のだが、王・玉論争のときに、誤解された

のかもしれない。なおここで、國と書かないで
”或”と書いたのは、元々これだけでも国と読
めるつもりだったか、または、合戦を模したゲー
ムなので、国境線は未確定だとでも、考えたか
らなのかもしれない。しかしながら、読み手に
は”=王将”と解釈され、けしからんと思われ
て、”J+こ”校正記号で消されて、駒が廃棄
されたのかもしれない。
 何れにしても、最初に述べたように、成の字
は、左側が消えると

或と区別しにくくなり、更には上図のように、
2文字目が王であると、薄い横三本線の存在か
ら、このケースでは特に疑われる

という点に注目すべきであろう。だから今後は
今までより、興福寺駒の玉駒については注意深
い論展開をする必要が、明らかに有ると、私は
考えるようになって来ている。(2021/04/16)

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