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奈良県桜井市山田寺跡で”五角形囲王”瓦上絵(長さん)

以下、奈良時代成立の奈良県山田寺跡
遺跡の瓦に、一文字王の将棋駒絵らしい
模様が有るとの紹介をする。

絵自体は平安末期以降制作なので、将棋の
遅い伝来論と矛盾しない

と本ブログでは考える。

将棋の遅い伝来論者にとって要注意の遺物

だ。
 情報は遺物の写真の形で当地、奈良県の
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
14499_3_山田寺発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
創立50周年記念奈良文化財研究所学報第63冊
山田寺発掘調査報告、独立行政法人
文化財研究所・奈良文化財研究所、
2002年
 写真は、前記pdfファイルの、図版:
Ph.161”平瓦28”の最上段に有り、
”103平瓦7類A。叩き締めの円弧を描
く縄叩き目”との注釈の付いた、遺物番号
103 7Aの右側、裏面とみられる方の
右上である。
pdfファイルの第1番目
14499_1_山田寺発掘調査報告.pdf
の271ページに、遺物の説明が有るが、
成立年代の説明は無い。文書の雰囲気から、
多数出た瓦のうち、余り割れていないのを、
たまたま取り出して、説明しているだけの
ように見える。その、たまたまのサンプル
の、右上隅に、

五角形で囲われ、薄いが王か馬に見える字

が浮き出ている。

山田寺王.gif

なお、発掘報告書に、この”模様”の説明
は特に見出せない。
 発掘報告書の解説を見た限り、山田寺の
瓦の成立時期は、基本的に奈良時代と取れ
るように、書かれていると感じられる。従っ
て明らかに、この模様が、将棋駒の王将な
いし桂馬から来ていると、

通説は覆る。

 そこで、この模様を更に良く見ると、
心理テストの如くに、王にも馬にも見える
一文字のような模様が、五角形型の中に納
まり、このケースは全体に対し、字は曲がっ
ていないように見える。そこでこの絵は、

平安小将棋が元であると本ブログでは推定
する。

 が次が大事だが、作者は

瓦を拾って平安時代末期以降に絵を描いた

と考えて、矛盾が無いとも本ブログでは考
える。
 というのも、同じ発掘報告書に以下のよ
うな瓦の写真も掲載されているからである。

山田寺長谷川.gif

上の図は、同じ報告書の図版:
Ph.161”平瓦3”下段の遺物で、
遺物番号第13番と、ナンバリングされて
いるようである。同類の平瓦のようである。
 左側に、”長谷川”との3文字が有るよ
うに見え、興福寺武士団の十市氏の武装集
団である、「長谷川党」のメンバーが、何
らかの、主張を書いているように私には見
える。何が書いてあるのかは、私には良く
判らない。しかしここで重要なのは、言う
までも無く、奈良県に

長谷川党が、平安時代末期以前に存在した
形跡が無い

という事である。神話では古墳時代から、
居るように言われているようだが。文献で
の史料の初出は、南北朝時代であり、
興福寺武士団発生の歴史から、長谷川党の
成立は、

遡っても平安末期

だと考えられていると、私は認識している。
 そこで明らかに、

山田寺の瓦は、平安末期以降に寺が荒れて
から拾われて、文字や絵が書き込まれた
証拠がある

と私は以上の事から結論する。
 この事は、紹介した将棋絵が、奈良時代
成立である事を、厳密に否定し得るもので
はむろん無い。しかしこの模様のような、
絵のようなものは、少なくとも、

中世成立である事を、疑えるのは確か

なのではないか。
 以上の事から今の所、ここで紹介した史
料は、少なくとも

11世紀より以前に日本に、現行の将棋類
が存在したという充分な証拠とは言い難い。

以上のように、私は結論するのである。
(2021/04/08)

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