SSブログ

石名田木舟F3・B2遺跡で将棋絵木製品3枚(長さん)

以前将棋駒が、1995年前後に4枚と聞香札の
一文字”王”札が出土した石名田木舟F3・B2
遺跡から、口車駒が出土したとの報告を本ブログ
でした。口車駒については、木製の五角形物品で
ある。しかしその後更に、木簡や四角い板等に、
将棋駒が元ではないかと疑われる絵が、同一発掘
の際に出土しているらしい事が判った。しかも、
遺物は木製品の総数で3枚になる。
 以上述べた情報は、以前に述べた、発掘報告書
の同一pdfファイルに、何れも写真が掲載され
ている。発掘報告書は、そのとき述べた通り、
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されており、ファイル名
は、繰り返すと次の通りである。
5597_13_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
5597_15_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
 最初の例は、第13番のpdfファイルに有り、
木簡とみられるものである。図版157の左上に、
遺物番号第3271番として載っている。左側が
オモテであるらしく、私には全く読めなかったが、
発掘報告書で、”九郎ゑもん”と釈文されている。
釈文は、第4番の以下のpdfにある。裏側が、
ここで問題にしているの絵であるが、釈文は無い。
5597_4_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf

石名田囲い王.gif

金車と書いてあるが、将棋駒になっていると判る
のは一文字”車”の方である。つまり第2字目の
”車”が、上図のように五角形で囲われているよ
うに、私には見える。又はっきりしないが、第1
文字の”金”の方も枠で囲われている感じもする。
 木簡で、字は板に沿って書いてあり、将棋駒の
五角形枠に対して正体していて、

平安小将棋の将棋駒をモデルにしている

と本ブログでは、今の所見る。なお元々この物品
は、もっと巾広い板の、裏面基準で左側を、削っ
たもののように見えると、少なくとも私は考える。
 次の例は、曲げ物板と共出土したように記載さ
れている、正方形の薄い木板に、五角形に囲まれ
て、”古”か”吉”、多分後者と描かれている絵
である。第15番目のpdfファイルに、写真が
有り、図版251の2段目に、遺物番号で言うと
第5349番として記載されている。
発掘報告書では、pdfファイルの第6番の
5597_6_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
に、四角い板であるとの旨等が記載され、絵の存
在に関する指摘は特に無い。

石名田五角形吉.gif

字を五角形で囲むという点で、恐らく平安小将棋
の影響なのであろうと、本ブログでは推定する。
将棋駒は、縁起の良い物品であると現地では、か
つて考えられたようだ。
 最後3番目の例は、第15番目のpdfファイ
ルに、成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒では
37石名田木舟(F3)遺跡出土駒として載って
いる、汚れた王将駒と巾の広い銀将駒が記載され
た報告書ページの、これら2枚の出土駒の直ぐ下、
5597_15_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
の、図版239の最下段右に、遺物番号5034
番として載っている。以下のように、

石名田御札.gif

元々神社のお札として見かける、五角形札型の木
札型板であるが、絵の方でわざわざ構図の中心位
置を、ずらして、かっこ付けた上で、マジナイの
言葉か何かを書いたように見える点が、天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒の図番号38(B2)
”加工金将

将棋駒”を意識している感じ

である。こんな字をずらして書く”こだわり木札
絵”付き縁起物札など、普通は見掛け無いので、

石名田木舟の将棋駒にちなんで作成されている

と私は思う。なお右面の第1字目は”王”か”主”
に見えるが、他の字は私には読めない。
 以上の事から、石名田木舟遺跡付近では、
一乗谷朝倉氏遺跡と同様、室町時代に将棋が相当
に盛んであり、その為に、形をそれに似せて作っ
たような絵の入った縁起物等が、かなりの数、室
町時代当時は、作成されていたのではないかと疑
われると、私は考えるのである。(2021/04/04)

nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:趣味・カルチャー