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西暦1170~1260年どう酔象情報は維持(長さん)

少なくとも全国遺跡報告総覧にpdfの形で
平泉町の発掘報告書が公開された2021年
4月21日以降、後期大将棋は西暦1170
年程度に成立という、増川宏一・木村義徳の
論は、通説と認識されるようになった。
 増川宏一氏は、興福寺境内跡から1098
年物の酔象が発掘はされているので、

公表はしていないものの、後期大将棋の早期
成立論で、不明期を西暦1100年程度から、
1170年の間に減らし難点をシノイでいる

と推定される。
 他方本ブログでは、12世紀の中期頃成立
との論の強くなった、鳥獣戯画の将棋図の

将棋は6×6升目の平安小小将棋であり、
酔象はこのゲームで引き継がれている

と見ていた。鳥獣戯画が1170年頃まで成
立してい無ければ、組み合わせてしまえば

増川論だと、酔象の消失期間は事実上消滅

する。
 だが、本ブログでは、王将/玉将の1:1
導入と共に、大将棋に於ける酔象の復活は、

鎌倉幕府の親王将軍が成立した西暦1260
年より少し前の、元寇の前夜と依然見ている。

そのため、西暦1170年から概ね1260
年までの90年の

鎌倉時代空白が、本ブログ方式を無理に取り
続けるとすれば、依然埋まっていない。

酔象、王将、龍王の導入は、モンゴル帝国の
脅威の増大の影響とした方が、考えやすい事
が確かな為である。そこで今回は、本ブログ
のような思考を、依然取り続けるとすれば、
鳥獣戯画のミニチュア平安小小将棋も平安末
期で廃れ、鎌倉時代前期の酔象の記憶の消失
が、そのままでは避けられないとしたならば、
それでも実際には大将棋で復活出来た

メカニズムは何なのか

を論題とする。回答から書く。

平安時代から引き継がれた、国司制度の、”
守介掾目(かみすけじょうさかん)”の第
3番目が”じょう”の掾であり、それと象と
で音と字形(ツクリ)類似なので連想できた

と考えられる。
 論を開始する。
 そもそも空白期間は、長いとは言え90年
なので、

西暦1173~1163年に生存した、親鸞
や、同時期生存の結城朝光の如くの長生き人
間が居ればなんとか回避できる時間の長さだ

とは言える。
 だから、鳥獣戯画の将棋図は依然、鎌倉前
期の15升目制後期大将棋の非存在説を取る、
本ブログにとってもありがたい存在ではある。
 しかしながら、酔象の一時的衰退問題は、
後期大将棋の平安時代末成立説が”兵奔王”
墨書土器が平泉遺跡で発見された事による根
拠の強化により、本ブログのようにその説を
取らない立場にとって、優劣を分ける点とし
て際立つようになり、特に

痛手になるように変化

してしまったと考えられる。
 そこで本ブログでは、上将の上と、象、相、
丞、掾が中国に於いて同一視され、掾を、
”じょう”と訓読みした日本では、鎌倉時代
前期に

一時期”酔掾”という言葉があって、ナンバー
3を連想させた為、象の字との類似性から、
酔象という単語を、保持する要因となった

と考える事にした。恐らく”酔掾”という文
字史料が、鎌倉前期成立の遺跡等から、将来
発見されるだろうと予想する。
 国司の階級は、そこを警護するという職業
を発生させる口実を与えるので、鎌倉時代に
も、地方武家の間では概念がほぼ保持された
と本ブログの管理人は認識する。例えば、
茨城県の豪族の大掾一族は、苗字に取り入れ
ている。
 そして、国司制度に準えて、守を玉将、
介を金将とすれば、その当時には、銀将と
怪奇小説、玄怪録岑順の上将と象とは同じで、
ナンバー3だと判って居ただろうから、
酔象や銀将という単語は、酔掾、上将に通ず
と覚えれば、酔掾、つまり鎌倉時代には武家
が勤めているので、

”自堕落した、地方国司職階のナンバー3
役人”として連想して保持されたと見なせる。

つまり酔象は、こうすれば西暦1170年か
ら1260年の間の約90年位なら、忘れ去
られずに復活出来るのではないかと、私は考
える。
 よって日本の国司制度の階級が、たまたま
”守介掾目”であって、音が”ぞう”に近い
”じょう”、字もツクリが”象”に似た形の
”彖”が第3番目であった為に、

酔象という言葉を酔掾という単語で、1世紀
弱の間、保持して保存する有力な要因の一つ
になった。

以上のように私は考えるのである。
(2021/04/30)

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