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岩手県平泉町祇園Ⅰ遺跡歩兵奔王土器のC14年代(長さん)

以下、pdfファイル
90879_1_祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書.pdf
の炭素14放射性元素測定法による、
奔王土器の成立年代に関する内容紹介である。

12世紀ではなく13世紀初頭成立と取れる

内容が記載されている。測定結果が、発掘報
告書の54ページによると、2σ値範囲で、

1042年~1104年または、
1117年~1210年となっていて、
古木効果と、平泉遺跡の最盛期が11世紀で
はないとすれば、1210年近辺になる

という事のようである。
 ここで古木効果と言うのは、木材で心材に
近い部分は、成長が終了した後に、生木とし
て存在する為に、人手の加工時よりも、測定
結果が古くなるというものとだとの事である。
 なお推定値が2山に分かれるのは、天然の
C14の存在挙動が線形で無い為、年代の推
定域が、割れてしまうためらしい。なおその
点に関して、そんな感じもするものの、私に
は今の所、この理屈が個人的に、完全には理
解できていない。
 以下もう少し詳しく述べると発掘報告書名
で岩手県平泉町文化財調査報告書第136集
祇園Ⅰ遺跡第3次・第4次発掘調査報告書、
2020年3月、平泉町教育委員会となって
いる、pdfファイルの52ページに、
(株)加速器分析研究所のレポートが転載さ
れている。それによると加速器をベースとし
た14C-AMS専用装置(日本電気㈱社製)
を使用し、14Cの計数を行って通常の手法
年代測定を出した結果との旨、記載がある。
 発掘報告書の54ページには、試料して、
歩兵奔王カワラケ破片土器そのものではなく、
出土した地点にたまたま有った木製炭化物を、
14C年代測定した別3箇所の結果も含めて、
幾つかのデータが表に載っており、その中で、
測定番号第IAAA-181999番につい
てが、共出土に該当する。その数値が、冒頭
で示した2領域の年数範囲で表された数値で
あり、結論として繰り返して述べれば、(歩)
兵奔王カワラケ土器破片の成立年代は、西暦
1210年より前だが、それに近いという旨
の結論になると見られるとの事のようである。
 発掘報告書の本文中、C14測定の説明文
以外の所には、遺物番号第13番の
歩兵奔王土器は12世紀成立との旨が書かれ
た箇所および、表が有る。がそれは平泉遺跡
の文献上の、歴史常識から来る値と私には取
れる。
 つまり純粋に形式的に

14C測定の結果の方だけを取れば問題の遺
物から奔王の成立は1210年前後が正しい

という事になるようだ。
 仮に、二中歴が使われたのが西暦1205
年まで。奔王が成立したのが1208年。
平泉町の遺跡で知られたのが1210年なら、

二中歴時代の、別々のゲームの重なりは、
数年程度の差で辛くも避けられる

とは言えなくも無さそうだ。
 だから簡単な”回避策”は本ブログの言う、
108枚制の13升目普通唱導集大将棋から、
鳳凰と麒麟を除いた104枚制の大将棋まで
が、西暦1210年までに、いっきに出来た
と解釈する事であろう。その際、その急激な
形成の原因を、二中歴そのものの普及と、考
える事にすれば、もしかすると良いのかもし
れない。懐中歴より二中歴の方が、写書部数
が多かった。そのため、大将棋の部分の記載
を、より多くの識字層が読んで、ゲーム性の
改善の試みが、いっきに進んだという事に、
してみてはどうかとも思う。1210年から
1260頃までは、内乱は激増しなかった
鎌倉時代中期ではあるが、大将棋のゲーム史
上はその後、ゲーム間で淘汰戦争が激化して、
むしろ戦国時代だったという事かとも取れる。

相当に苦しいが。

 つまりは、徳島市郊外川西遺跡の奔横の時
代より後に、平泉出土の問題土器を、年代順
に並べるのは依然として、かなり困難だとい
う事だと、私は確かに感じる。(2021/04/25)

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