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四条畷小学内遺跡で古墳時代”玉”将棋駒絵土器(長さん)

大阪府四条畷市の将棋遺物として、最古の
王将駒は有名だが、その発掘の7年程度後
の西暦1996年前後に、上清滝遺跡から
さほど離れていない、四条畷小学内遺跡で、
将棋絵が書かれていると疑われる古墳時代
の土器が出土しているとの紹介を以下する。

偶然出来たヨゴレ模様の疑いが濃い。

写真がweb上に公開されていて、以下の
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されている。
pdfファイル名は、下の通りである。
55695_1_四條畷小学校内遺跡・中野遺跡発掘調査概要報告書.pdf
発掘報告書の名称は、以下の通りである。
一般国道163号の拡幅工事に伴う発掘調査
四儀畷小学校内通跡・中野遺跡
発掘調査概要報告書、2000年3月、
四條畷市教育委員会
写真は、以下のところに掲載されている。
図版18/D地区第2遺構面出土遺物
遺物は第69番とナンバリングされている。

四条畷玉.gif

この遺物に対する説明が、本文の31ペー
ジ付近にあり、成立年代が古墳時代後期で
あるとの旨、記載されている。文字や絵が
描いてあるとの類の紹介は無い。
 さて上図を見ると、玉の字が五角形の枠
で囲われているように見える。これが本当
に、将棋駒の絵を描いたものであるとした
ならば、当然ながら

将棋伝来が11世紀初程度であるとする通
説をはるかに遡るだけでなくて、関西では、
興福寺以外で出土した事の無い、玉将の
上代初の出土

となる。
 しかしながら、

玉の字の最後の画を、駒の底面に傾けて
描いてあるように見える点がかなり不自然

である。また良く見ると、
玉の最後の画は、次の字と共有になってい
て、小さく第2字目が右下に”王”と描か
れている。そしてそれが、何か器の上に乗っ
ているようにも見える。以上のような、

意味不明の構図

になっている。さらには、駒の底面自体が、
小さな舟の類の上に、乗っているようにも
見え将棋駒の後ろの線が

厳密に言うと描かれていない。

また、玉の字の濃さも、マダラである。
 以上の事から、今の所この絵に見える土
器の柄部分は、人為的に描かれたものでは
無く、

全部、偶然に出来た自然の模様

であると、本ブログでは考える。
 すなわちこの例でも、

駒字が将棋駒本体に対して、曲がって書か
れてい無いかどうかは、本物とニセモノを
判定するのに重要である

という事を示しているように思える。それ
と共に、この例については、

将棋駒の絵の右下に、又将棋駒字が描かれ
ているという、構図の不自然さ等が、偶然
出来た自然の模様に過ぎない事を示唆

している。
以上のように言えると本ブログでは考える。
 四条畷市内では、発掘される将棋駒はや
はり、今の所は、平安時代のものからと見
て、恐らく間違いないのであろう。
(2021/03/31)

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福岡県本町遺跡の瓦に”芳車”将棋駒絵(長さん)

以前、近世近代の自作十六ゲームの出土で
紹介した、福岡県柳川市本町にある本町遺跡
から、江戸時代の瓦の裏に、将棋の絵が
描いてあるように見えるのを、本ブログの
管理人が見つけたので、以下に紹介する。
将棋を良く知らない人間による作のようで
あり、

香車駒ではなく芳車駒になっている。

 報告書は十六ゲームが掲載されていたのと
同一で、pdfファイルは次のものである。
72602_1_本町遺跡.pdf
奈良文化財研究所の発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に掲載されていて、これ
に関しても、web上で見る事が出来る。
発掘報告書の表題は、以下の通りである。
本町遺跡福岡県文化財調査報告書第265集
九州歴史資料館、2018年。
遺物の写真が今度は有り、
図版36本町遺跡出土遺物9に、
”第89図2”とナンバリングされて、右下
隅に載っている。

福岡本町香車.gif

発掘報告書に、画の指摘は特に無い。瓦に字
が描けないわけでもないし、前にどこかで、
将棋に無関係な字が、書いてある例を見かけ
ているので、一応注意していた。ので、この
ケースも発見出来た。この発掘報告書も、単
に十六ゲームが載っているだけではなくて、
将棋文献の仲間入りという事になった。
 さて上記遺物の写真を見ると、元々瓦の裏
は濃い灰色なので、何か酸化チタンの入った
白い色材で、五角形駒型を抜いて、駒字を浮
き出させている。駒は図で上部である。駒自
体は、先が少し潰れて六角形になっている。
駒名は、このケースは駒全体に対して、曲が
らずに書いてある。が、名前自体がおかしく、
飛車でも香車でも無く、第1字目が破損して
完全には判らないが、

”芳車”のようでもある。

またチタン白は、だいぶん雨で流れて、下部
に垂れているようである。何れにしても、曲
面の瓦の裏に駒絵を描く意図は、私には不明
である。業者の書いた、瓦のマークであると
しても、話に矛盾は無いかもしれない。
 成立は18~19世紀のようであり、日本
将棋が元と見られる。将棋駒名がおかしいが、
香と芳は概念が類似しており、別の将棋種と
は考えにくいだろう。単に将棋を習いたてで、

間違えたか、瓦店の屋号がたまたま”芳車屋”
だっただけ

だと今の所、本ブログではしておきたい。
 この遺物は江戸時代な為、当然これで話は
終わりである。駒字が駒に対して曲がってい
ないと、人為的な作図に見えるという一例で
あろう。この手の瓦は相当昔に成立している
物品だと認識される。よってこれが奈良時代
の遺物だったとしたら、将棋史にとっては、
たいへんな問題になったところであったろう。
(2021/03/30)

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国が単に國の草書という説への疑問(長さん)

以前に本ブログで、角川書店の新字源”
小川環樹他編者1968年に、『字体
”国”の源は、口の中に王と書く字で、
結果としてそれに打点したもの』との
旨で説明されていると、杉本つとむ氏
の漢字百珍を通して紹介した。
 だが西暦2018年前後に、別の説
を述べた成書が出版されたようだ。
青木逸平氏によると、『国は単に國の
字の草書』との事である。今回は、
後者が正しいかどうか証拠を探したが、
見つからなかったとの旨を述べる。
 比較的近年に書かれた青木逸平氏著
の成書とは、以下の通りである。
「旧字源」青木逸平、瀬谷出版、
2018年。
 89ページの”国”という『新字体
についての説明』の節に、その旨ある。
 そこで、國の草書の説明の有る成書
をあたった。が”国と國の草書”とい
う項目名でしか草書体を紹介している
本が私には見当ら無い。確かに旧字源
の論の国を崩したような草書の書かれ
た成書と、下の線が無く、国がまえが
同の構えに変えられたような字を書い
た成書は確認できた。だが、国のよう
なすこし、崩れた字が本当に

國直結なのかどうか、ごちゃ混ぜに、
字が並んでいるだけのように私には見
え、いまひとつ根拠が判らなかった。

そこで、中国式の國の字体の変形だけ
集めたと見られる、以下の成書をあたっ
てみた。
楷行草・名跡大字典、木耳社、西暦
2002年
 今述べた本の504ページに、國を
楷書や草書で書いたような名跡が12
出ているが、

国に見える字は見当たらない。

”或”の部分の、頭から右下への円弧
型の画の存在が、國の字では草書に崩
しても保存されると私には認識された。
以上の結果から、結局冒頭に述べたよ
うに。角川書店の”新字源”小川環樹
他編書、1968年に書かれたように、
”それが書かれる環境下で、俗字であ
るところの口で囲った王の字に混じっ
て字体『国』が、成立は後ではあるに
しても、従前から有るので教育漢字と
なった”とほぼ取れる内容が簡単には

否定出来るように私には見え無かった。

以上のように、現時点で私にはやはり
思えるようになった。よって漢字百珍
で杉本つとむ氏が指摘するように、

教育漢字のくにの字を国と決めるとき、
完全に公平な姿勢で決めたとは、言い
がたかった。

その結果、将棋史家だけが、法外に得
をした。以上の疑いが有るように、依
然として私には感じられたのである。
(2021/03/29)

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字体”国”は、観智院本類聚名義抄に無い(長さん)

本ブログでは以前述べたように、国語の
国の漢字の特定字体は、日本の鎌倉時代
が成立期で、玉/王1:1の大将棋が成
立した事を背景とする、日本の将棋史関
連の、国字であるとの事であった。
 しかしながら、前に紹介した、
杉本つとむ著”漢字百珍”八坂書房、
2001年によると、この口の中に玉の
字体の国の字は、鎌倉時代成立の、

観智院本類聚名義抄には無い

という事である。杉本つとむ氏は、漢字
の書体”国”について、

”第二次大戦後、個人の管見で決定され
た、勝手に作られた出生不明の記号”で
ある

との旨、前記成書の中で酷評されている
ように、同書は読み取れるようである。
よって現在皆が普通に使っている”国”
の字は、

将棋史を語るには、きっかけになり易く、
将棋史家にとってだけ、良い人間による、
鎌倉時代より後の作と見て良い

とされているように見える。
 さてそこで以下、本論に入る事にする。
杉本氏によると「”角川 新字源”
小川環樹他編者1968年に、”『字体
”国”の源は、口の中に王と書く異字体
でありかつ、俗字である元漢字に、更に
点を加えたものである』との意味内容が
書いてある」との事である。そこで実際
に、新字源の”国”の項目を見ると、確
かに、その旨のことが書いてあるのを、
私も確認している。
 本ブログでも、独立に以上の旨を予想
したが、国語学者の間では、それが正し
いとの何らかの確証が、学会では得られ
ているらしい。何れにしても

本ブログの新発見ではない

という事になるようである。王を口の中
に入れる漢字の、成立時期および発祥地
の特定は、杉本氏の前記著書には無い。
 王を口の中に入れる字体は、観智院本
の類聚名義抄にも載っているようだ。
 ”漢字百珍”には江戸時代の和算家、
中根元圭の異体字弁にもそれは載ってい
るとの紹介がある。しかし今度は、今我々
が使っている字体の”国”は載っていな
いとの旨紹介がある。二巻物色葉字類抄、
八木書店、2000の499ページの”
異字”リストには、両方無い。だから、
王を口の中に入れる字も日本では、平安
時代の間に盛んに使われる事は無かった
と、今の所考えざるを得ないだろう。
 蛇足だが、八木書店2000年版、
色葉字類抄二巻物に、

人の苗字(名字)で、一文字で國と書き、
”くに”と読むらしい例が載っている。

 何れにしても。
鎌倉時代に、シャンチーやチャンギの知
識が、識字層の間に流入する頃に、王を
口の中に入れる国の異字漢字も、日本で
は認知されるようになった。他方、
平安小将棋の伝来経緯は、その時点では
まだ記憶に残っており、院政期の(推定)
”玉・王論争”も公知だったので、将棋
の好きな”一点を加えた犯人”によって、
さほど経たないうちに、王を玉に替えた
”国”の字は成立した。
 ただし字体”国”と、王を口の中に入
れる字体は、

両方マイナー

であって、国の字に集中して異体字を指
摘しない程度の江戸時代のリストには、
玉入れの”国”は特段加えられないまま、
第2次大戦が終わった。
 そして、たまたま国語の国の字が将棋
史との間に関連有る事が知られる事無く
ごく稀に、そのような使用例があるのを、
当時の文部省お抱えの、教育漢字決定者
が史料・文献の中から見つけて、

マグレで教育漢字になった。

以上のように、本ブログでは今の所見る。
恐らくだが、それまで国は、将棋の桂馬
の桂の字の右側に、打点を付ける例が有
る程度の、王入れ口”くに”に対する低
頻度という程度のものだったのであろう。
 このように、将棋が平安時代末。国が
鎌倉時代の観智院本の類聚名義抄の少し
後に成立して、使用はなかずとばずと、
成立の下限(早い)を代表させ、成立を
とても忙しく、仮定したとしてみても、
国の字の成立は、日本への将棋の伝来よ
りは遅くなる。だから日本や伝来元国で
将棋の双玉ルールが知られていたので、

朝廷の権威を使って、例えば大江匡房が
双王ルールを強いようとすれば、大衆の
反感から、『誰とも知れ無い人物』によっ
ても、作り得たような漢字であった

と結論しても良い。以上のように、私に
は思えたのである。なお以上の仮説に従
うと、つまり八坂書房の漢字百珍にその
旨が記載された”反省すべき、国の字作
成の犯人”は、実は杉本つとむ氏と、根
底思想が良く似た鎌倉時代の人間の、疑
いが有るという意味になるとも、私は考
えている。(2021/03/28)

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福岡県比恵遺跡で五角形兵墨書弥生時代土器出土(長さん)

以前、五角形駒形の中に桂馬と書かれた、
偶然の悪戯により古墳時代に将棋が有った
かのように見える土器を紹介した。今回は、
その類ではあるが前回と異なり、

五角形がしっかりしていて将棋駒として、
おかしくない、弥生時代成立の、”兵”と
駒名が入ったように見える土器

を紹介する。

兵の字が傾いており、兵という文字以外は、
自然に出来た偶然の悪戯と考えられる。

 場所は本ブログでは11世紀に、将棋が
伝来したと見る、福岡市の比恵遺跡である。
 発掘報告書が、いつものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されている。その
pdfファイル名は以下の通りである。
20225_1_比恵遺跡群37.pdf
発掘報告書の名称は以下の通り。
福岡市埋蔵文化財調査報告書第832集
比恵遺跡37第82次調査報告、
2004年、福岡市教育委員会・
岡三リビック埋蔵文化財調査室。
遺跡の場所は、発掘報告書の奥付によると
博多区博多駅南6丁目9番7との事である。
 そこの62ページ、PL8(図版8)の
左上に、第043番とナンバリングされた
弥生土器とされるものが今回の話題の品で
ある。今度は画像を拡大しないと、駒名が
兵なのが、書いた位置が特殊な為に、よく
判らない。五角形駒枠の、先端に書いてあ
るのである。

比恵重駒.gif

 実はその上に、字が器に対して40°程
度傾いており見る際には、上図の”兵のガ
イド黄色文字”の、当方による書き込みに
合わせて、頭を傾けて見てほしい。第1画
目がやや薄く、発見しにくい。一度判れば、

比較的整った字で、兵と書かれているのが
明らかに、判るはずである。

発掘報告書に、墨書の指摘は発見できない。
なお遺物の説明は、発掘報告書の20ペー
ジ付近に有る。井戸跡(SE009)から
出土した、弥生時代後期の遺物との旨書か
れている。博多では既に”兵”という漢字
が、弥生持代の後期には知られていたので
あろう。何れにしても、この”兵が整って
いる字なので、

兵自体は、人工的に書かれた弥生時代後期
の墨書または刻書土器である

と本ブログでは見ている。それに加えて、
だふだぶの五角形の将棋駒の枠は、このケー
スでは、右辺が少し曲がっているが、比較
的将棋駒らしく、それらしい形に見える。
だからもし、

兵が将棋駒全体に対して、画像のように曲
がっていなかったら、大問題になるところ
だった

と本ブログでは見ている。
 以前、絵画としての五角形駒型のイビツ
さで、書いたか偶然出来たかの本物・ニセ
モノが区別出来るように書いたが、

間違いだった

ようだ。むしろ、今の所経験則だが、

駒字が曲がっている場合は、五角形枠は、
偶然に出来た模様

と、土器に関しては見た方が良いと、この
ケースから、思われるようになった。
 ところで、この遺物については、話がそ
れで、終わりにならない。更に”

おんぶバッタ”の如く、より小さい五角形
駒で、駒名が”王香”のように見えるもの
が、その上に乗っている

ように見えるのである。ただし、王も香も、
今度は兵のようには、はっきりとはしてい
ない。また、五角形の輪郭も、この小さな
駒は、底辺右側が今度ははっきりしない。

だから、小さな駒の将棋枠、王の字、香の
字はそれぞれ全部、偶然だ

と、今の所本ブログでは見る。
 このような、意味不明の絵画構図になっ
ている事からして、大きな駒の方の

兵の字以外は、全てニセモノの証拠

なのではないかと私は疑う。
 ”王香”と”横行”は音が同じなので、
弥生時代に平安大将棋が成立している証拠
をあたかも示しているかのように見えるが。

これら全てが、このケースは幻という、不
思議な実例が将棋伝来の地とみられる福岡
市で20年程度前に発見されたようである。

以上のように私は考えているのである。
(2021/03/27)

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佐賀県梅白遺跡で古墳時代五角形桂馬土器(長さん)

以下、古墳時代の金魚鉢型の土器に、枠の
付いた”桂馬”という字が書いて有るよう
に見える、遺物が佐賀県で1998年頃に
発掘されたという話題である。五角形の

枠が少しイビツな為等で、偶然出来た模様

であると疑われる。
 写真は、web上に公開されている、
発掘報告書に有る。報告書は、いつもの
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されていて、その
pdfファイル名は以下の通りである。
35166_1_梅白遺跡.pdf
発掘報告書の表題は以下の通りである。
佐賀県文化財調査報告書第154集
梅白遺跡、2003年3月、佐賀県教育
委員会。
梅白遺跡は、唐津市原字梅白に有るとの事
である。
写真が、PL(図版).103、
水田跡出土古墳時代土師器(5)の、
3段目中央に、遺物番号185-38と
ナンバリングされて載っている。報告書に、

梅白桂馬.gif

上図の遺物に関して墨書が有るとの旨の指
摘は見当たらない。

発掘報告書の冒頭と、この図の表題から、
成立は古墳時代と見られている事が判る。

桂と馬は曲がっているが、一応そう見える
し五角枠もあるとすれば、本来なら通説は、
相当に危ないというのが、本ブログの見方

だったはずである。
 しかしながら、今の所本ブログでは、こ
の土器遺物の表面の模様については、

偶然出来たものであると判断

する。
 根拠は、①枠の右側の末広がりが大きす
ぎであり、将棋駒を書いたにしては不自然
だからである。また②桂の字を駒に対して、

傾けて書いている理由も謎

である。左側の枠も、裾野の方がやや薄い。
何れにしても

①と②が無かったら、通説は相当に危なく
なる所だった。

以上のように、この土器の模様を見て私は、
史料の出土の力は絶大だと、身に沁みて感
じたのであった。(2021/03/26)

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兵庫県西木之部遺跡で白磁製器に仲人(長さん)

以前5箇所程度から、土器や鏃に文字の
”仲人”が書いてある話題を述べた。今回
はその系統であるが、仲人が中国伝来であ
るかのように、中国製の白磁に書いてある
例である。しかしもっと驚くことがある。

器の裏に”兵”という比較的稀な字が有る

事である。なお、この中国製の器遺物の成
立年代は、鎌倉時代と見られる。つまり

大将棋の駒名から来る字が、書いてある

ように見えるという事である。
 発掘報告書はいつものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に発掘報告書が登録され
ていて、その中に写真があり、そのpdf
ファイル名は以下の通りである。
18786_1_西木之部遺跡.pdf
発掘報告書の名称は以下の通り。
兵庫県文化財調査報告 第124冊
多紀郡西紀町西木之部遺跡、1993年3
月、兵庫県教育委員会。
写真が、この発掘報告書の写真図版62、
B地区 中国製磁器(2)の上から2段目
と4段目中央にあり、遺物番号は、たぶん
だが、2340番とナンバリングされてい
るとみられる。皿か杯か私には良く判らな
いが内面底に”仲人”底部の裏面に”兵”
と書かれてあるように私には見え、ぱっと
見で私には、

中将棋等から来ているとの印象を受けた。

西木之部仲人.gif

発掘されたのは、1981年の頃の事のよ
うである。
 しかし発掘報告書によると南北朝時代以
降ではなくて、遺物は平安時代~鎌倉時代
に成立という事である。だとすると、仲人
時代の西暦1230年頃ないし普通唱導集

大将棋がモデルという事になろうか?

この白磁の字は、使用した兵庫県の人間が、
器に書いたか彫った物と疑われる。だから、

中国に、仲人の有るゲームが存在する事は
示唆しないのであろう。

つまり材料は何でも良かったが、仲人と兵
が両方記載されている点が、言うまでも無
いがとても、ありがたかった。
 大将棋の駒が、一枚出土したに近い成果
だったと、この遺物を見て私はひどく感動
を覚えた。(2021/03/25)

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鹿児島県姶良市小瀬戸遺跡で刻書仲人土器(長さん)

これまで本ブログでは、実在が怪しい物も
含めて、篠本城跡仲人、佐賀県中原仲人、
島根県山持遺跡仲人、鹿の子C遺跡仲人の
4遺跡の仲人土器、石器を紹介して来た。
が何れも、存在が疑われるか、墨書きが、
薄く残った遺物であった。
 さいきんweb上に、同種の平安初期
以前の仲人土器であるが、刻書で書かれて、
画像がより、はっきりした例が有るのに
気がついた。
公開場所は、今回も度々紹介した、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に発掘報告書が登録され
ていて、その中に写真があり、そのpdf
ファイル名は以下の通りである。
23037_3_九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告ⅩⅢ.pdf
発掘報告書の表題は、23037_1_pdfファ
イルに有り、以下の通りである。
鹿児島県埋蔵文化財発掘調査報告書(22)
九州縦貫自動車道関係埋蔵文化財調査報告⑬
1982年3月、鹿児島県教育委員会。発
掘されたのは1972年前後のようである。
遺跡は、鹿児島県姶良市(旧・姶良郡姶良
町)西餅田字小瀬戸にあり、23037_1_
pdfファイルの54ページによると、
”奈良時代末期~平安時代にかけての地方
官衙的な要素の強い、生活址の遺跡である”
との旨のことである。本ブログに於いて、
これまで紹介した仲人土器と、概ね同様な
成立時期のものであると見て良いだろう。
 遺物の写真は、前記23037_3_の114
ページ、墨書・刻書土器にあり、左下に
載っていて、遺物番号8番とナンバリング
されている。

鹿児島小瀬戸仲人.gif

上図のように、彫ってあるので墨書よりは
見易い。ただし今度は、傷が邪魔であり、
仲人ではなくて仲人人のようにも見える。
また、人の字の最後の画のハライが、若干
短い。この例も怪しい字には間違いない。
 事実発掘報告者は、私には発掘報告書が
正確には読み取れていないが、

”仲家”と読んでいる疑いがある

ようだ。”仲家”が何処に書いてあるのか、
私には確認できていない。
 繰り返すが、家ではなくて人だとすれば、

仲人は平安大将棋の成立時に有った

のであるが、”なこうど”や”専門技術者”
が、”スパイ”や、”係争調停者”と違っ
て、将棋ゲームの最前列に置くのが不都合
だった。ので、平安大将棋では、”注人”
に変えられたとしか、説明出来ないという
性格の単語という事になるのであろう。
 以上の事は、鮮明に、平安大将棋の平安
時代末~鎌倉時代草々の時代以前の土器に、
仮に書いてあれば、そう考えるしか無い。

その証拠が現実に40年前に出土している。

今回紹介した遺物は、以上を示す物品であ
るというのが、本ブログの今の所の見方と
いう事になる。(2021/03/24)

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富山県中名Ⅴ遺跡より成り一文字金竪行駒(長さん)

従来、摩訶大大将棋、摩訶大将棋
パターンとして矛盾の無く、裏オモテ
の字が書かれた出土駒は、鶴岡八幡宮
境内遺跡の汚れた歩兵駒(本ブログ説)
の他、堅田B龍馬駒、小山神鳥谷曲輪
角行駒の3枚である。今回は本ブログ
管理人が遂に

4枚目となる、成り一文字金竪行駒ら
しい出土遺物をweb上の発掘報告書
上で発見

したので報告する。出土場所は、
富山県婦負郡婦中町中名の中名Ⅴ遺跡。
遺物が発掘されたのは、前世紀の末の
1999年頃のようである。

呪術符とされ、底部がはっきりしない。
墨書は今述べたようにも読める。

 詳細は以下の通りである。web上、
にpdfファイルとして写真があり、
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に登録されていて、
そのpdfファイル名は以下の通りで
ある。
14202_11_中名Ⅴ・Ⅵ遺跡、砂子田Ⅰ遺跡発掘調査報告.pdf
発掘報告書の名称は以下の通り。
富山県文化振興財団
埋蔵文化財発掘調査報告第26集
中名Ⅴ・Ⅵ遺跡、砂子田Ⅰ遺跡発掘調査報告
2005年、財団法人富山県文化振興財団
埋蔵文化財調査事務所。
なお今述べた表題は、表紙として以下
の、別のpdfファイルのトップペー
ジに有る。
14202_1_中名Ⅴ・Ⅵ遺跡、砂子田Ⅰ遺跡発掘調査報告.pdf
写真はpdf11番の方のpdfファ
イルの”写真246”、
出土遺物(木製品)中名Ⅴ遺跡E1・E2地区
の左上にある。

富山県中名V竪行.gif

説明が、表紙の有るpdf1番の55
ページ等に有り、発掘者は呪術符と見
ている事が判る。
 オモテは3文字、裏が2文字と見て
いるように、スケッチ図は14202_5_
別の第3のpdfの、”図面317”
に書かれている。が、左側の写真で、
”る”に見える墨跡で最後の”丸まり”
部分が連続しているように私には写真
を見ても見えず、また、右側の写真の、
”る”に見える墨跡は、存在するよう
に、写真を見ても私には見えない。つ
まり私には、左は3文字ではなくて
2文字、右は2文字ではなくて1文字
のように見えるという意味である。
 ただし報告者が指摘しているように、
ちぎれていて、底部が無く、

はっきり将棋駒であるとは証明困難

である。ようするに報告者の言うよう
に、墨跡が両面に有るように、私にも
見え、右側が崩しの弱い”金”のよう
にも見えるので、将棋駒の遺物のよう
にも見えるという事である。繰り返す
が、左側も2文字有り、上はいっけん
記号のようだが、2文字目は見ように
よっては行のようにも見える。一文字
目も、行駒だろうと見て角か横か竪か
と3タクで読もうとすると、字の下部
が”立”のようにも見えてくる。その
為よって、

大将棋系の駒だとすれば、未発見だっ
た、不成りか金成りかの竪行の類であっ
て、実物は金成りの竪行かもしれない

という事になる。そこで八木書店の
色葉字類抄・二巻物(2000)の、
”大将基馬名”の記載内容を、さしあ
たり、混乱を避ける為に考えない事に
して将棋纂図部類抄等の摩訶大大将棋
の駒類に限定して、文献との対応に、
忠実に見る事にすると、

その摩訶大大将棋の竪行が発見された
という結論になる

と、一応考えられる。
 なお、遺跡は中世とされているだけ
で、成立年ははっきりとしない。が、
冒頭pdf1番の2ページ付近の記載
によれば、中名Ⅴ遺跡が文献に盛んに
書かれたのは、南北朝時代の頃だとい
う事である。よって誤差が甚だしいも
のの、

今回の出土駒は、小山神鳥谷曲輪駒の
成立年に近いとも取れる

という事になるようだ。
 やはり問題は底部が切れているので、

呪術符の誤認であって将棋駒ではない

という可能性であろう。そこで他の遺
物を見てみると、この遺跡では、他に
も将棋駒ではないかと疑われる五角形
木板が出土している。写真の記載場所
は、今度は発掘報告書のpdf11番
の、写真234、出上遺物(木製品)
中名Ⅴ遺跡A1地区の3段目の、左か
ら2番目であり、遺物番号は028で
ある。

富山県中名V将棋.gif

上記図の遺物については説明が、発掘
報告書のpdf1番の22ページ付近
にあり”木板”とだけ書いてあり、

縮尺が良く判らない。

形は、将棋駒のようにも見える。
 遺物が何れも南北朝時代とは確定出
来ないのが残念だが。

悪狼・猛豹・猫叉発見以前に、金成り
だが、竪行らしき駒が発見された

事は、普通唱導集大将棋の108枚説
にとって

また1歩前進。

以上の心象を受ける、状況のようになっ
たと感じる。なお、摩訶大大将棋では
なくて今回の遺物を普通唱導集大将棋
駒と見る場合に於いて不成でないのは、
鎌倉末期に”小将棋・少将棋用別書体
成り金”を開発した麒麟抄が成立して、
大将棋の金に成る駒の管理がしやすく
なった事。および、角・横・竪行を、
”悪行・善行”では無くて、”行を行
う者”と見る傾向が増した事。以上2
つの理由で起こった成りルールの変更
(不成→金将成り)であると見るのが、
本ブログ従来の見方である。(2021/03/23)

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山形県大楯遺跡の桂馬駒。実は”紅楓”か(長さん)

以前述べたように、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒の遺跡番号9に記載された
スケッチの、山形県大楯遺跡の桂馬は、
写真とかなり違う。

紅楓(もみじ)とは読めないか。

山形県大楯桂馬.gif

以上のように、私が思考した事を以下報告
する。
 繰り返すと、web上に公開された、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧のpdfファイルは以下
の通りである。
6199_2_大楯遺跡第1次発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は、
山形県埋蔵文化財報告書121
集、大楯遺跡第1次発掘、1988年、
山形県・山形県教育委員会編である。
写真は、図版15の左上に有る。
遺物番号は、19-1とナンバリングされ
ている。
遺跡は山形県飽海郡遊佐町大字小原田にあ
り、遺物は1987年に発掘されたようだ。
聞香札風の木製品が共出土しており、室町
時代風である。良く見ると、

2字目は楓と読むのが自然

である。とすれば1字目は、楓が紅葉樹の
代表樹木であるから、

紅の字の最後の2画が、特に目立って残っ
ていると見ても、矛盾が無い。

ヘンは”王”のように見えるが曖昧で薄く、
糸ヘンを否定するだけの根拠は乏しい。
 なお、以下のサイトによると紅楓は普通、
「こうふう」と読むが、近代の小説に、
「モミジ」と読んだ例が幾つか有るとの事
である。
https://furigana.info/
右上の検索窓に”紅楓”と入力すると、記
載されるようだ。
 よって、山形県大楯遺跡の桂馬とされる
木製品は、モミジに掛けられた”紅楓の表
示札”であっても矛盾が無い。
 確かにこれでは余り時代感が出ておらず、
話として、ほとんど面白みが無いかもしれ
ないが。室町時代頃の日本人の、自然に対
する感覚が、現代人と余り大きく変わらな
い事が判ったとしても、このケースには特
に、大きな問題は無いのではないか。
 よって、この木製品には桂馬ではなくて、

紅楓(もみじ)

と書いてある疑いがある。以上のように、
本ブログでは今の所、判断致す事としたい。
(2021/03/22)

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