静岡県浜松角江遺跡で弥生の玉将墨書木製舟形(長さん)
以下web上で公開されている、発掘報告
書で紹介された、弥生時代成立の出土遺物
の写真に関する話題である。
祭事用の木製舟形に、玉将という文字が
書いて有るように見える。
当然だが、将棋から来るとすれば通説は、
容易に崩れる。ただし、良く見ると
玉将では無くて、王井だとみられる。
出土場所は静岡県浜松市入野町角江遺跡で、
発掘報告書の抄録によると、出土したのは
1991年~1994年までの発掘調査の
最中だったようだ。
その発掘報告書は、何時ものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されていてpdf
ファイルで、web上で見る事が出来る。
写真の出ているファイル名は、以下の通り
である。
1122_1_角江遺跡Ⅱ遺物編2木製品.pdf
なお、本文ファイルは連続したヘッダ番号
のpdfファイルとしては、見当たらない。
このpdfファイルに関して、表題が
以下のように付いている。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第69集
角江遺跡Ⅱ遺物編2(木製品)、1996年
財団法人 静岡県埋蔵文化財調査研究所。
問題の祭事用木製舟形は、発掘報告書
巻末の図版63の下部に有る。遺物には、
遺物番号第447番とナンバリングされて
いて、裏オモテの写真と、裏側舟底につい
ての舟頭と、後尾部分の拡大図2枚がある。
全体オモテすなわち上側と、裏側つまり下
側についての両端の写真、計3枚は、以下
のような感じに紹介されている。
ここで問題にしている文字は、舟頭部分の
裏の方の黒い字である。写真は先端と後尾
を撮影した写真が、別々のコマであり、
光源の当てかたが、舟頭撮影のとき撮影の
仕方がマズく、帯状の黒い影が出来ていて、
文字はそれに埋れている
ようだ。なお”舟頭には先に≪黒い点≫に
見える、別の舟ないし部材との接続接点が
付いている”との旨の説明が有る。
そこで、本ブログの上図では、画像処理
を掛けて、舟頭部分の文字を、浮き出させ
る処理をしている。元の発掘報告書で、発
掘担当者が撮影した写真も、よって別途確
認されたい。
上記の図のように、右側に墨の濃さにつ
き玉の点が色違いで本当は王ではないかと
いう第1字目と、いっけん将だが、影に埋
れて井のようにも見える第2字とからなる
墨書が見えているようである。これが玉将
かというと、
本ブログでは今の所、否
だと思う。なお、発掘報告書に墨書の指摘
は見当たらない。実際にはかなり小さい字
であろうと予想される。
蛇足だが、図の左の舟尾側にも”王”と
も読める字が一文字で、薄く書いてあるよ
うにも見える。本ブログでは、
この王も有り、王の字の類に関し2つある
と見ている。そして舟頭の問題の字は、”
玉将”ではなくて王井と書いてあると見る。
井は、正しくは♯記号だと思う。マジナイ
で、しばしば見かける”記号の井”の形
という事である。”王”も恐らくは、乗っ
ている者の意味では無くて、何かマジナイ
のための字なのであろう。だから、
この遺物の墨書は、将棋とは無縁であり、
弥生時代に成立していたとしても問題ない
と本ブログでは、今の所見ている。
ただし、2文字目の♯は、明解ではない。
実物を見たら”玉将”がやはり、書いてあっ
たという確率は、ゼロでは無い
だろう。
よってこの静岡県浜松市出土の遺物は、
存在についてだけは、忘れずに記憶してお
きたい遺物だと考えている。(2021/03/15)
書で紹介された、弥生時代成立の出土遺物
の写真に関する話題である。
祭事用の木製舟形に、玉将という文字が
書いて有るように見える。
当然だが、将棋から来るとすれば通説は、
容易に崩れる。ただし、良く見ると
玉将では無くて、王井だとみられる。
出土場所は静岡県浜松市入野町角江遺跡で、
発掘報告書の抄録によると、出土したのは
1991年~1994年までの発掘調査の
最中だったようだ。
その発掘報告書は、何時ものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されていてpdf
ファイルで、web上で見る事が出来る。
写真の出ているファイル名は、以下の通り
である。
1122_1_角江遺跡Ⅱ遺物編2木製品.pdf
なお、本文ファイルは連続したヘッダ番号
のpdfファイルとしては、見当たらない。
このpdfファイルに関して、表題が
以下のように付いている。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第69集
角江遺跡Ⅱ遺物編2(木製品)、1996年
財団法人 静岡県埋蔵文化財調査研究所。
問題の祭事用木製舟形は、発掘報告書
巻末の図版63の下部に有る。遺物には、
遺物番号第447番とナンバリングされて
いて、裏オモテの写真と、裏側舟底につい
ての舟頭と、後尾部分の拡大図2枚がある。
全体オモテすなわち上側と、裏側つまり下
側についての両端の写真、計3枚は、以下
のような感じに紹介されている。
ここで問題にしている文字は、舟頭部分の
裏の方の黒い字である。写真は先端と後尾
を撮影した写真が、別々のコマであり、
光源の当てかたが、舟頭撮影のとき撮影の
仕方がマズく、帯状の黒い影が出来ていて、
文字はそれに埋れている
ようだ。なお”舟頭には先に≪黒い点≫に
見える、別の舟ないし部材との接続接点が
付いている”との旨の説明が有る。
そこで、本ブログの上図では、画像処理
を掛けて、舟頭部分の文字を、浮き出させ
る処理をしている。元の発掘報告書で、発
掘担当者が撮影した写真も、よって別途確
認されたい。
上記の図のように、右側に墨の濃さにつ
き玉の点が色違いで本当は王ではないかと
いう第1字目と、いっけん将だが、影に埋
れて井のようにも見える第2字とからなる
墨書が見えているようである。これが玉将
かというと、
本ブログでは今の所、否
だと思う。なお、発掘報告書に墨書の指摘
は見当たらない。実際にはかなり小さい字
であろうと予想される。
蛇足だが、図の左の舟尾側にも”王”と
も読める字が一文字で、薄く書いてあるよ
うにも見える。本ブログでは、
この王も有り、王の字の類に関し2つある
と見ている。そして舟頭の問題の字は、”
玉将”ではなくて王井と書いてあると見る。
井は、正しくは♯記号だと思う。マジナイ
で、しばしば見かける”記号の井”の形
という事である。”王”も恐らくは、乗っ
ている者の意味では無くて、何かマジナイ
のための字なのであろう。だから、
この遺物の墨書は、将棋とは無縁であり、
弥生時代に成立していたとしても問題ない
と本ブログでは、今の所見ている。
ただし、2文字目の♯は、明解ではない。
実物を見たら”玉将”がやはり、書いてあっ
たという確率は、ゼロでは無い
だろう。
よってこの静岡県浜松市出土の遺物は、
存在についてだけは、忘れずに記憶してお
きたい遺物だと考えている。(2021/03/15)