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奈良で1961年イスラムシャトランジ絵発掘(長さん)

以下、web上で公開され、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録済みの、
奈良国立文化財研究所発行の、奈良平城宮
出土墨書土器集成の中に1961年出土の、
イスラムシャトランジ・ゲームを漫画で書
いたような、台付き土器の足先部が紹介さ
れているようだという話題である。
遣唐使の吉備真備等が紹介したと見られる

イスラムシャトランジが9世紀初に、日本
の識字層の間で、有る程度知られていた事
を示しているという仮説と、矛盾は無い

とみられる。
 写真が前記データベースの以下のpdf
ファイルに紹介されている。
63054_1_平城宮出土墨書土器集成1.pdf
上記刊行物の名称は以下の通りである。
国立文化財研究所30周年記念史料(史料第25冊)
平城宮出土墨書土器集成Ⅰ、奈良国立文化財研究所、
1983年。
 写真は、上記のPL(図版).6に有る。
台座型の土器であり、脚先の部分に下記の
ような絵がある。遺物番号は第9番と、
ナンバリングされている。そして、
イスラムシャトランジの立体馬駒のそばで、
布のようなシート状の平面物に、多角形の
形の、枠のように見える物に書き字した、
ショボくれたように私には見える”王駒”
を、同様に記載の、より勢いの有りそうな
”兵駒”が立ち上がって、何か宣言してい
るような絵が書いてあるように、私には見
える。兵の

平城宮シャトランジ.gif

宣言の内容は”王手”であろう。

 ポイントは、斜め前に兵駒があるのに、
王手が掛けられる事であり、その点で、こ
の絵は、

日本の将棋駒型を連想させるが日本の将棋
の絵では無い

と私は考える。取るときだけ前斜めに進む
から、兵は王に対して”取り”を掛けられ
るのであり、西洋チェス系のゲームを指し、

イスラムシャトランジの絵のように見える

という意味である。なお、この遺物は出土
地点の井戸の木簡解析から、平安時代初頃、
9世紀初のものだと考えられているとの旨
が、前記文献の第2ページ、
”SE311B井戸”の説明の箇所に有る。
 さて従来本ブログでは、玄怪録で牛僧儒
は、長安で指されている、アッパース朝よ
りのイスラム教徒の来訪者のゲームである、
イスラムシャトランジは知っていた。が、
物語り”岑順(小人の戦争)”に於いて、
物語り上の将棋については、実在する南詔
のゲームを紹介したと見ていた。いわゆる、
遊戯史界で”宝応将棋”と、命名されてい
るゲームの正体である。そして、
イスラムシャトランジは、そこそこの棋力
なら普通には、何手指しても勝負は着かず、
そのうち、マグレで

大悪手を指した方が負けるような低レベル
のゲーム”だと中国では唐代見られていた

とした。しかしながら、作り物の怪奇小説
であるとはいえ、そのようにとれる内容を、
岑順(小人の戦争)で書くと、指している
人間が直ぐそばに居るのでマズイと考えた。
ので、わざとチェス系系統の別ゲームであ
る、雲南(当時)南詔国の貴族が指してい
たとみられる、金銅駒を使うゲームに、記
載を入れ替えたと、本ブログでは見ていた
のである。
 当然吉備真備も長安等でイスラムシャト
ランジを見て、8世紀に日本に伝来させた
と、本ブログでは見ていた。囲碁を盛んに
打った中国人及び日本人によって

ゲームが低水準と見られて、廃れた

というのが、本ブログの従来からの主張で
あった。
 が以前にそう論じた際、根拠はほぼ、そ
の旨を記載している江戸時代の
”本朝俗諺誌”だけだった。
 しかるに、上記の絵は、書き字駒が書か
れているように見えるという点で、チェス・
将棋系のゲームを書いているようであるし、
兵で王手が掛かるような配列で、”王手”
と兵が叫んでいるようにも見えるという点
でも、その雰囲気が、全く無いとまでは言
え無いだろう。
 なお、写真を載せた前記文献には、この
絵の部分に関し、特に言及は見当たらない。
 全体として、人間の欲得の幾つかのパター
ンを、散漫に書いたような悪戯書きの絵の
ようである。しかしながら明らかに、字の
書ける人間の手によるものである。だから、
平安時代の初期には、日本の識字層の間で、

西域のイスラム教徒がチェス系のゲームを
指している事は、中国人から聞き取った、
遣唐使からの知識等によって、知られてい
た疑いが有る。

やはり依然、私はそのように、上記の史料
からも結論するという事に至ったのである。
(2021/03/16)

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