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富山県石名田木舟遺跡より”輜車”付札木片出土(長さん)

今回は、富山県の石名田木舟遺跡で西暦
1995年頃、将棋駒が出土した発掘で、
中国唐代の、牛僧儒の玄怪録「岑順(小
人の戦争)」に登場する、車駒の名称、
輜車または戦車とおなじ名称の将棋駒名
が書かれている疑いの有る付札が、出土
しているという話題について紹介する。
 石名田木舟遺跡で将棋駒等が5枚出土
した発掘報告書に記載されていて、その
報告書がweb上に公開されている。そ
のため問題の付札も、オンラインで確認
できる。
 発掘報告書は、今まで何回も紹介した
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
5597_13_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
報告書の名称は、以下の通り。富山県
文化振興財団埋蔵文化財発掘調査報告
第14集石名田木舟遺跡発掘調査報告、
財団法人富山県文化振興財団埋蔵文化財
調査事務所、2002年。
 この報告書は出土将棋駒等を5枚紹介
しているもので、将棋史上は重要である。
遺物の写真は成書、天童市将棋資料館発
行の、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒、
2003にも載っている。それらの既知
の出土平安小将棋の将棋駒等については、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の図番号
と、前記発掘報告書の対応は以下の通り。
37(F3)左王将 → 図版239番号5033
37(F3)右銀将 → 図版239番号5032
38(B2)一文字王→ 図版158番号3283
38(B2)加工金将→ 図版145番号2626
38(B2)銀将  → 図版158番号3284
一部上の2個は、次のpdfファイルに
なっている。
5597_15_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
ちなみに発掘報告書の冒頭によると、
遺跡名の石名田木舟とは、
富山県小矢部市石名田と、
富山県西砺波郡福岡町木舟に、遺跡が跨っ
た位置にある為、こう呼ばれているとい
う事である。その部分は以下のファイル
に、web上では同じく分割されている。
5597_1_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
 さて、問題の遺物は、前記発掘報告書
の図版142に番号2537の遺物とし
て出ている、以下のようなものである。

石名田木舟口車.gif

発掘報告書のpdf本文ファイル、
5597_4_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
の163ページに、遺物番号2538の
説明の後に、入れ替わっているが、この
遺物の説明が書いてある。”付け札で、
墨書が有るが判読不明”と、発掘報告者
は見ている事が判る。
 上図より、牛僧儒の玄怪録「岑順(小
人の戦争)」に登場する、車駒の名称、
輜車または戦車は、どちらでも、ほぼぴっ
たりなのは、明らかである。
 言うまでも無いが、太平広記が日本に
伝来したかどうかは謎だが。状況証拠と
して、平安大将棋の横行は、知り得た人
間の作のようであり、平安時代院政期の
事であるから、遺物の成立年代よりは、
かなり前である。よって、

この遺物が牛僧儒の玄怪録から来ていた
としても、基本的に矛盾は無い

と本ブログでは見る。
 宝応将棋が、富山で中世指されたかど
うかだが、

先をちぎったような造りが、将棋駒とし
て例が無い為、知識に基づいて字を書い
ただけで、宝応将棋は指されなかった疑
いが濃い

と私見する。
 なお、遺物の第一字目は、輜であって
も戦であっても、かなり曖昧である。よっ
て”馬車”等全く別の字を書いた疑いも、
このケースに関しては、否定は出来ない
だろうと考える。(2021/03/01)

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