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岐阜県大垣市荒尾南遺跡で五角王駒絵入土器(長さん)

今回は、弥生時代成立とされる土器の中に、
一文字だが王と墨書きされ、五角形の枠で
囲まれたように見える絵が、描かれている
という話題である。

枠は破片の貼り付け跡ないし偶然の産物で
あり弥生時代の将棋類の存在は示唆しない

とみられる。
 写真がweb上で公開され発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は以下の通りである。
1365_3_荒尾南遺跡A地区Ⅰ.pdf
発掘報告書の名称は以下の通り。
荒尾南遺跡A地区Ⅰ(第3分冊)、
2012年、岐阜県文化財保護センター。
 王が五角形の枠で囲われた遺物の写真は、
図版63出土遺物:土器(3)の左上にあ
る。遺物番号は65番である。2006年~
2008年の間頃に出土したようである。
 さてpdfファイルの、
1365_1_荒尾南遺跡A地区Ⅰ.pdf、
(第1分冊)の、46ページ”SZ002、
遺物出土状況”の所によると、この遺物は、
弥生時代中期成立との事である。1世紀前
半、イエス・キリスト誕生の頃だという事
だ。これだと、インドのチャトランガより
も前となり、チェスや将棋がもとであると
すれば、定説は大きく覆る。

荒尾南王.gif

 しかしながら、遺物を見てみると、枠に
見える部分の右側と下の部分の大部分は
破片の接合部であり、枠の他の部分もひび
割れのように見える。本ブログは、この遺
物に関しては、枠が

墨書やたぶん刻書では無いから、王の字以
外は、自然に出来た割れ

であると考える。ただし王の字は書いたも
のだろう。ちなみにこの発掘報告書の別の
所に、王の字が書いてある遺物が、少なく
とも別に、1個は紹介されているようだ。
 以下は、1620番とナンバリングされ、
前記”第3分冊”の”図版125出土遺物:
土器(65)の左下に載っている例である。

荒尾南王2.gif

この王も、上部にヘの字型の出っ張りがあ
るので、ちょっと見で将棋の駒に見えるか
もしれない。が、はっきりした枠が、良く
見ると無いとみられる例である。
 この遺跡が弥生時代の有力なものである
との旨が第1分冊の冒頭”序”にあり、王
と名乗る人物が居たとして、不思議は無い
と私は思う。だから複数の、王という字の
書いた土器が発掘され、ひび割れの形で、
五角形駒の絵に、たまたま見える遺物があっ
たという事で、説明が付くと考える。
 逆に言えば、墨書として五角形枠も書い
てあると明らかに判る、弥生時代の”王駒”
土器が仮に有ったとしたなら、それだけで
通説は相当に、不利になるという事である
と考えているのである。(2021/03/21)

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仙台市沼向遺跡で将棋絵年号木板(長さん)

以下、近世西暦1770年成立の、年号の
入った出土木札だが、発掘担当者が、どう
やらの見落したと見られる、”将棋駒絵”
が描かれているらしいという指摘をする。
意匠上最初から、わざと輪郭を歪ませて書
いてあるのではないかと私には思われるが、

五角形駒で、”歩”と書かれた将棋駒が、
年号の背景に、薄く書かれている。

web上に公開されている、発掘報告書に
写真がある。報告書はいつものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に以下のpdfファイル
名で、登録されている。
10017_1_沼向遺跡第4次~34次調査.pdf
その”第18次西調査 写真図版-52”
の右上隅の、木の板がそれである。
遺物番号としててNo.18140SD
1893と記載されている。少なくとも
本ブログの管理人の能力では

一見して、歩と書かれた絵が薄く見え、
年号が、明和7年7月と入っているのは
見落とす。

 だが発掘報告者には、どうやら年号の方
だけ見えたらしい。以下の表題の発掘報告
書の267ページの右下に、年号の入った
だけの、スケッチが書かれている。
仙台市文化財調査報告書第360集、
沼向遺跡第4~34次調査第5分冊、
2010年3月、仙十台市教育委員会。
この木板で重要な点は、いうまでも無く、
将棋駒の”歩”が書いてあるのかどうかと
いう事ではなくて、他の共出土の遺物の、
成立年が推定できる、年号が書いてあると
いう点である。
 つまりは一番重要なものだけ見て、議論
を混乱させ無い≪賢い目≫を、この報告者
は持っているという事だ。そうだとすれば、

これはたいしたものだ。

沼向遺跡歩.gif

なお、沼向遺跡は、宮城県仙台市宮城野区
中野字沼向(他)に有るとの事である。
仙台城の東にあるようであり、報告書によ
るとその頃、”遠藤城”という、別の城が
あったそうである。
 言うまでも無く明和7年、西暦1770
年は、近世であり、江戸時代の将棋将軍、
徳川家治(第10代)の時代である。すな
わちこの遺物は、将棋将軍を記念した絵柄
のように、私には見える。
 消えていて日が見えないが、日付は正確
には7月7日であり、徳川家治好みの、
七国将棋とひっかけられているのかもしれ
ない。なお”詰将棋”で七と言う字の形に、
駒が並んだものが、徳川家治作として知ら
れる。この事から徳川家治が単に七国将棋
を知っていただけでは無く、自分のトレー
ドマークという程の認識をしていたらしい
事が、古文書とは別に推定できるように、
私は個人的には思っている。
 何れにしても、中世日本の将棋ゲームの
内容史を中心とした、本ブログの論題から
は少し外れるが。風流な遺物を発掘してみ
せたものだと担当者の腕に感心させられる。
(2021/03/20)

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将棋の遅い伝来説。漢字”国”と矛盾しないか(長さん)

漢字の国という字は本来は、國と書き、
”国”は俗字であるとされている。
(漢字の語源、山田勝美著、角川書店、
1976年)
この字は国がまえ”口”の中に玉が書
いてあり、将棋盤の中に玉将が置かれ
ているという姿を連想させる。従って、
この字の成立が10世期以前とすれば、
日本の将棋の遅い伝来の通説にとって
不利であると考える事も出来る。今回
は、この点を問題にする。つまり

①”国”は日本の将棋がモデルの、”
國”の俗字と考えてよいのかどうか。
②国の字の成立は平安時代に遡るのか

というのが、今回の論点である。結論
から書くと
①については本ブログではYes.と
考える。
②については、モンゴル帝国の来襲以
降であり、No.と考える。
 では、以下に説明する。
この字が、将棋から来るのは、国の他
の異字体、国構えに民や国構えに王の
存在から見て、

日本の将棋起源が自明なのではないか

と考える。俗字には色々な発生場所が
あるが、外国であるという証拠がある
とは、少なくとも”国”について、私
には考えられない。”圀”は八角駒
チャンギの韓国、”国”は玉を玉駒と
する日本なのではないか。
”圀”は、則天文字の一つだが・・。

少なくとも”国”については、日本の
使用が先で、外国は後なのではないか。

 そして恐らくだがモンゴル帝国来襲
の時の、亀山天皇の敵国降伏の国構え
に王と、起源が関連するのではないか
と、私は疑う。元々は或という音・意
の文字の外側に国構えを書いた、中国
流漢字作成法の典型が、わが国に伝わっ
た。が、”或”がワクだかコクだか、
訳がわからなくなっているうちに何処
か中国・韓国・日本の中で特定できな
いが、漫画のような、国構えに王を入
れた字が、先に発生したのであろう。
 しかし国構えに王が、国構えに玉に
代わるには、

やはり、玉将と王将共存の日本に於い
て、日本の将棋の存在が不可欠

なのではなかろうか。チェス型遊戯盤
を国構えに見立てたとすれば、その中
に王が有るのが国だとすれば、王の代
わりに玉を持ってきたのは、

日本の将棋の愛好者だと考えた方が、
中国人や韓国人作だと考えるよりは、
ずっと自然

だと、私は思う。よって①はYes.
が、かなりの確率で起こりうると私は
疑う。
 次に②だが、亀山天皇の王に国構え
が、やはり先なのではないか。つまり
元々は俗字である”国”の成立は、

鎌倉時代であって、平安時代末期には
まだ無い

のではないか。
 その証拠に、色葉字類抄(二巻物)、
尊経閣文庫蔵、八木書店、2000年
には、国という俗字は載っていない。

本文中では、國と書いてあるし、巻末
のいつ成立したか不明な”異字体注記”
部に”国”は、入っていない。

なお”異字体注記”については、本当
は何時の成立であるにせよ、加筆がバ
レないように書いてあると、私は解釈
する。
 つまり色葉字類抄の成立よりも、国
の字の成立の方が、明らかに後だと私
は思う。だから、象戯の字が記録され
ている色葉字類抄より後なら、成立時
期は鎌倉時代以降だし、それまでには
存在した、平安小将棋をイメージして、
国という俗字を作ったとしてもおかし
くない。
 以上の事から将棋が11世紀伝来と
しても国の字は13世紀頃成立だから、

将棋よりも俗字”国”の方が後という
事になり、”将棋の遅い伝来説”でも
元俗漢字”国”の存在とは矛盾しない。

以上のように、少ない情報であるのが
難点だが、今の所本ブログでは見てい
るのである。(2021/03/19)

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山形県大楯遺跡の不成り桂馬の写真は異常(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、山形県
の大楯遺跡の不成り桂馬が、遺跡番号9番
で紹介されている。元文献はそこに示され
たように、山形県埋蔵文化財報告書121
集、大楯遺跡第1次発掘、1988年、
山形県・山形県教育委員会編である。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に以下のpdfファイル
で報告書が、電子媒体で見られるので確認
した。その結果、

写真の駒名が桂馬に全然見えない

のに、私は気がついた。
 pdfファイル名は、以下の通りである。
6199_2_大楯遺跡第1次発掘調査報告書.pdf
写真は、図版15の左上に有る。

山形県大楯桂馬.gif

桂馬の桂も馬も、私には上記の写真からは、
そのようには読めない。

今の所、何を意味する字なのかは、私には
良く判らない。
 最初ちらりと見たときには、

”注風”とうっかり読んでしまった。

が、これももちろん違う。
 何れにしても、共出土品の感じからして、
室町時代以前の、貴重な木製遺物に間違い
無いと思う。(2021/03/18)

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平城京池跡で奈良時代の大象口土器杯(長さん)

以前、web上で公開されている
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録済みの、
奈良国立文化財研究所発行の”奈良平城宮
出土墨書土器集成”を紹介した。pdfファ
イルで登録されており、ファイル名は、
63054_1_平城宮出土墨書土器集成1.pdf
であった。
 同じ文献の別の場所に、

大将棋を連想させる、奈良時代成立とみら
れる、大象口と読める墨書土器の杯が有る

ので以下紹介する。

”大象兢”と書いてあり、大象戯では無い

とみられる。
 書いてある場所は、前に紹介した文献の
PL(図版).59の3段目の左端である。
遺物番号として1060番とナンバリング
されている。

平城宮大象口.gif

発掘されたのは、文献の出た1983年
よりも少し前のようである。場所は平城京
の奈良時代の池跡、SG5800番地点と
いう場所との事である。遅れたが、文献名
は、国立文化財研究所30周年記念史料
(史料第25冊)平城宮出土墨書土器集成Ⅰ、
奈良国立文化財研究所、1983年、
である。報告者は、

3字共に不明と見た

ようである。3字目はごく一部を除いて、
上図より明らかなように、残っていない。
第1字目の上に、更に何か書いて有るかど
うかは、上記文献からは判らない。発掘者
の、遺物を見たときからの感触である合計
3文字との見解に、頼るしか無いだろう。

大将棋を意味する、大象戯だとすると、
奈良時代成立が間違いなければ、藤原頼長
の日記を約400年遡る事になる。

 しかしながら、明らかに第3字目が、

戯や棋、棊であるとは考えられない。

何故なら、上図のように長さは短いが、

右下から右上に向かって墨跡が出ている

からである。ただし、字が全体として、
右から左に流れている上に、特にうまい字
という訳では無い点に、注意する必要は有
るだろう。
 第3字目が何なのかは、私にも確定出来
ないが。一例”兢(恐の意味と見られる)”
と書かれているとしても矛盾は無いと見る。
 2字目は象に、ほぼ間違いなく、最後の
画の消えた象という字が書いてあるのであ
ろうと本ブログでは見る。

”戦象を恐れる”といった意味か、あるい
は、インドのガネシャ神のような姿を連想
した上で”畏れおおい大象”といった意味

では無いのだろうか。
 よって、将棋に無縁では無いかもしれな
いものの、この墨書遺物が残念ながら、

奈良時代の大将棋の存在を示唆する可能性
はほぼ無い。

以上のように今の所、本ブログでは考える
のである。(2021/03/17)

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奈良で1961年イスラムシャトランジ絵発掘(長さん)

以下、web上で公開され、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録済みの、
奈良国立文化財研究所発行の、奈良平城宮
出土墨書土器集成の中に1961年出土の、
イスラムシャトランジ・ゲームを漫画で書
いたような、台付き土器の足先部が紹介さ
れているようだという話題である。
遣唐使の吉備真備等が紹介したと見られる

イスラムシャトランジが9世紀初に、日本
の識字層の間で、有る程度知られていた事
を示しているという仮説と、矛盾は無い

とみられる。
 写真が前記データベースの以下のpdf
ファイルに紹介されている。
63054_1_平城宮出土墨書土器集成1.pdf
上記刊行物の名称は以下の通りである。
国立文化財研究所30周年記念史料(史料第25冊)
平城宮出土墨書土器集成Ⅰ、奈良国立文化財研究所、
1983年。
 写真は、上記のPL(図版).6に有る。
台座型の土器であり、脚先の部分に下記の
ような絵がある。遺物番号は第9番と、
ナンバリングされている。そして、
イスラムシャトランジの立体馬駒のそばで、
布のようなシート状の平面物に、多角形の
形の、枠のように見える物に書き字した、
ショボくれたように私には見える”王駒”
を、同様に記載の、より勢いの有りそうな
”兵駒”が立ち上がって、何か宣言してい
るような絵が書いてあるように、私には見
える。兵の

平城宮シャトランジ.gif

宣言の内容は”王手”であろう。

 ポイントは、斜め前に兵駒があるのに、
王手が掛けられる事であり、その点で、こ
の絵は、

日本の将棋駒型を連想させるが日本の将棋
の絵では無い

と私は考える。取るときだけ前斜めに進む
から、兵は王に対して”取り”を掛けられ
るのであり、西洋チェス系のゲームを指し、

イスラムシャトランジの絵のように見える

という意味である。なお、この遺物は出土
地点の井戸の木簡解析から、平安時代初頃、
9世紀初のものだと考えられているとの旨
が、前記文献の第2ページ、
”SE311B井戸”の説明の箇所に有る。
 さて従来本ブログでは、玄怪録で牛僧儒
は、長安で指されている、アッパース朝よ
りのイスラム教徒の来訪者のゲームである、
イスラムシャトランジは知っていた。が、
物語り”岑順(小人の戦争)”に於いて、
物語り上の将棋については、実在する南詔
のゲームを紹介したと見ていた。いわゆる、
遊戯史界で”宝応将棋”と、命名されてい
るゲームの正体である。そして、
イスラムシャトランジは、そこそこの棋力
なら普通には、何手指しても勝負は着かず、
そのうち、マグレで

大悪手を指した方が負けるような低レベル
のゲーム”だと中国では唐代見られていた

とした。しかしながら、作り物の怪奇小説
であるとはいえ、そのようにとれる内容を、
岑順(小人の戦争)で書くと、指している
人間が直ぐそばに居るのでマズイと考えた。
ので、わざとチェス系系統の別ゲームであ
る、雲南(当時)南詔国の貴族が指してい
たとみられる、金銅駒を使うゲームに、記
載を入れ替えたと、本ブログでは見ていた
のである。
 当然吉備真備も長安等でイスラムシャト
ランジを見て、8世紀に日本に伝来させた
と、本ブログでは見ていた。囲碁を盛んに
打った中国人及び日本人によって

ゲームが低水準と見られて、廃れた

というのが、本ブログの従来からの主張で
あった。
 が以前にそう論じた際、根拠はほぼ、そ
の旨を記載している江戸時代の
”本朝俗諺誌”だけだった。
 しかるに、上記の絵は、書き字駒が書か
れているように見えるという点で、チェス・
将棋系のゲームを書いているようであるし、
兵で王手が掛かるような配列で、”王手”
と兵が叫んでいるようにも見えるという点
でも、その雰囲気が、全く無いとまでは言
え無いだろう。
 なお、写真を載せた前記文献には、この
絵の部分に関し、特に言及は見当たらない。
 全体として、人間の欲得の幾つかのパター
ンを、散漫に書いたような悪戯書きの絵の
ようである。しかしながら明らかに、字の
書ける人間の手によるものである。だから、
平安時代の初期には、日本の識字層の間で、

西域のイスラム教徒がチェス系のゲームを
指している事は、中国人から聞き取った、
遣唐使からの知識等によって、知られてい
た疑いが有る。

やはり依然、私はそのように、上記の史料
からも結論するという事に至ったのである。
(2021/03/16)

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静岡県浜松角江遺跡で弥生の玉将墨書木製舟形(長さん)

以下web上で公開されている、発掘報告
書で紹介された、弥生時代成立の出土遺物
の写真に関する話題である。

祭事用の木製舟形に、玉将という文字が
書いて有るように見える。

当然だが、将棋から来るとすれば通説は、
容易に崩れる。ただし、良く見ると

玉将では無くて、王井だとみられる。

出土場所は静岡県浜松市入野町角江遺跡で、
発掘報告書の抄録によると、出土したのは
1991年~1994年までの発掘調査の
最中だったようだ。
 その発掘報告書は、何時ものように、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録されていてpdf
ファイルで、web上で見る事が出来る。
写真の出ているファイル名は、以下の通り
である。
1122_1_角江遺跡Ⅱ遺物編2木製品.pdf
なお、本文ファイルは連続したヘッダ番号
のpdfファイルとしては、見当たらない。
 このpdfファイルに関して、表題が
以下のように付いている。
静岡県埋蔵文化財調査研究所調査報告第69集
角江遺跡Ⅱ遺物編2(木製品)、1996年
財団法人 静岡県埋蔵文化財調査研究所。
 問題の祭事用木製舟形は、発掘報告書
巻末の図版63の下部に有る。遺物には、
遺物番号第447番とナンバリングされて
いて、裏オモテの写真と、裏側舟底につい
ての舟頭と、後尾部分の拡大図2枚がある。
全体オモテすなわち上側と、裏側つまり下
側についての両端の写真、計3枚は、以下
のような感じに紹介されている。

静岡角江玉将.gif

ここで問題にしている文字は、舟頭部分の
裏の方の黒い字である。写真は先端と後尾
を撮影した写真が、別々のコマであり、

光源の当てかたが、舟頭撮影のとき撮影の
仕方がマズく、帯状の黒い影が出来ていて、
文字はそれに埋れている

ようだ。なお”舟頭には先に≪黒い点≫に
見える、別の舟ないし部材との接続接点が
付いている”との旨の説明が有る。
 そこで、本ブログの上図では、画像処理
を掛けて、舟頭部分の文字を、浮き出させ
る処理をしている。元の発掘報告書で、発
掘担当者が撮影した写真も、よって別途確
認されたい。
 上記の図のように、右側に墨の濃さにつ
き玉の点が色違いで本当は王ではないかと
いう第1字目と、いっけん将だが、影に埋
れて井のようにも見える第2字とからなる
墨書が見えているようである。これが玉将
かというと、

本ブログでは今の所、否

だと思う。なお、発掘報告書に墨書の指摘
は見当たらない。実際にはかなり小さい字
であろうと予想される。
 蛇足だが、図の左の舟尾側にも”王”と
も読める字が一文字で、薄く書いてあるよ
うにも見える。本ブログでは、

この王も有り、王の字の類に関し2つある

と見ている。そして舟頭の問題の字は、”
玉将”ではなくて王井と書いてあると見る。
井は、正しくは♯記号だと思う。マジナイ
で、しばしば見かける”記号の井”の形
という事である。”王”も恐らくは、乗っ
ている者の意味では無くて、何かマジナイ
のための字なのであろう。だから、

この遺物の墨書は、将棋とは無縁であり、
弥生時代に成立していたとしても問題ない

と本ブログでは、今の所見ている。
 ただし、2文字目の♯は、明解ではない。

実物を見たら”玉将”がやはり、書いてあっ
たという確率は、ゼロでは無い

だろう。
 よってこの静岡県浜松市出土の遺物は、
存在についてだけは、忘れずに記憶してお
きたい遺物だと考えている。(2021/03/15)

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大阪四條畷市蔀屋北遺跡で古墳時代歩兵墨遺物(長さん)

以下、web上に公開された情報である。
 すなわち、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録済み発掘報告書に、

古墳時代成立と見られる”歩へい”と書か
れた木製品の写真が有る

という旨の紹介である。”い”の字が、
ヨゴレで覆われ等しており、

確定的では無い。

発掘報告書は、以下のpdfファイル名で
前記データベースに登録されている。
5215_8_蔀屋北遺跡Ⅰ.pdf
 なお、本文ファイルが別に有り、
5215_1_蔀屋北遺跡Ⅰ.pdfとなっていて、
この遺跡は”讃良藩条里遺跡”とも重なっ
ているとの事である。
 発掘報告書の表題は、以下の通り。
大阪府埋蔵文化財調査報告2009-3
蔀屋北遺跡Ⅰ、大阪府教育委員会、
2009年。
 なお発掘作業は2001年~2007年
の7年間、少しずつ行われたようである。
遺跡の場所は”大阪府四條畷市砂・蔀屋に
所在する蔀屋北遺跡”との旨ある。
 発掘報告書、図版編の5215_8_・・・の
図版298 出土遺物木製品(23)の
右下に、ぶら下げる形の長い長方形札の遺
物に、”歩へ(い)”の黒い模様が有るよ
うにも見える物品である。なお発掘報告書
に、本遺物に関して”墨書”有りとの旨の、
指摘は無い。遺物番号は675-7とある。

蔀屋北遺跡歩兵.gif

上記遺物の写真から判るように、歩へいの

 いの字の第1画目は全く残っていない。

 発掘状況のおおまかな説明が、”総括・
分析”に関する本文が記載されている、
pdfファイル、
5215_10_蔀屋北遺跡Ⅰ.pdf
の”古墳時代の木製品”の説明の中の、
143ページの”18.その他・不明品”
にある。その箇所に記載されている遺物の
類という事だろう。この物品、そのものに
ついてのコメントは、特に記載が見当ら無
い。発掘者は成立を、古墳時代と見ている
ように、報告書の構成から取れるだけであ
る。但し平安後期より、かなり前の成立の
ようである為、模様が本当に将棋の

歩兵駒から来ているとすれば、通説は当然
覆る。

 ただし遺物を見て判るように、兵の”へ”
が平仮名であると解釈出来る上に、
”い”がはっきりしない。よって今の所、
本ブログでは、

”歩”と書いてあるだけであり、”へ”と、
”い”の第2画目はヨゴレであって、そう
見えているだけ

だと判断したい。元々札に”歩”と書いて
ある理由については、残念ながら私には判
らない。”一番最後の部材”という意味で
”止”と書いたら、墨が流れたという解釈
でも、個人的には、余り矛盾を感じ無いが。
(2021/03/14)

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奈良県平城宮東官衙より”女王に成り”木簡(長さん)

以下奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に有る、奈良時代成立と
みられる平城宮出土の木簡の中に、
”女王に成り”とも取れる、

極めて断片的な木簡の切れ端がある

という紹介である。
 西洋チェスで女王が成立したのは、日本の
中世であり、木簡の成立年代が奈良時代で間
違い無いとしたら、

文面が西洋チェスの女王を指すとして全く謎

である。
 遺物の写真は、以下の発掘報告書に有る。
15062_1_平城宮発掘調査出土木簡概報.pdf
 発掘報告書文書の名称は、以下の通り。
平城宮発掘調査出土木簡概報(39)、
奈良文化財研究所、2009年11月。
 この発掘報告書の、図版8の下段左から2
番目に、縮尺1/2で写真が載っている。
木簡遺物番号は第106番となっている。

平城宮女王.gif

 本文の釈文も、ずばり、”女王枕成”と、
”女王枕成成”となっている。本文の第1ペー
ジ目によると、2008年~2009年に発
掘されたようである。”大極殿東方官衙ブロッ
ク”と呼ばれている場所らしい。
 以下の事情が無いと仮にすると。奈良時代
に日本では、イスラムシャトランジ系のゲー
ムの駒がその形態から”枕”と呼ばれていて、

日本では、奈良時代に既に女王が有って

女王に成る、”ポーン”と言うべき駒が有る。
 そして松岡信行氏の言うように、進行方向
が長辺なのが”意外”だが、元々長方形駒だっ
たという事を、示しているようにも見える。
だが実際には違う。つまり、上下に文が続い
ている木簡の切れ端のようであり、別の字が
オモテ裏、それぞれの面に、更に書いてある
ようである。だからポーン、

農夫つまり女王に成る事が決まった駒が、
女王に成る、すなわち”元々女王に成るルー
ルである駒が、実際に女王に成る”との意味
であるとは到底考えられない。

余りに断片的すぎて、西洋チェスと、この、
奈良時代とみられる木簡とが、関係があるの
か、または、関係が無く全くの偶然なのか。
他の手掛かりは、

ほぼゼロ

のようである。遺物が切れ端にすぎないのが、
何とも残念というところである。(2021/03/13)

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山形県八幡町沼田遺跡で部分枠付成兵墨書土器(長さん)

以下、奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に有る、かなり以前発行
の発行の山形県教育委員会の発掘報告書に、
部分的に五角形枠があり、その中に”成兵”
と記載されているように見える、9世紀成立
の墨書土器の紹介である。

本ブログの管理人が”貮六”の旨と書かれた
文字を誤読している

とみられる。
 全国遺跡報告総覧に登録されたpdfファ
イル名は下記である。
6273_2_沼田遺跡発掘調査報告書.pdf
発掘報告書の名称は以下の通り。
山形県埋蔵文化財調査報告書第78集
沼田遺跡発掘調査報告書、1984年、
山形県教育委員会。
 発掘された場所は
山形県飽海郡八幡町沼田遺跡で、本文74ペー
ジ付近に、墨書土器で

王と書かれた土器等が40枚ほど同時に出土

し、各々成立は9世紀と記載されている。
将棋の存在を示すとすれば、

通説の”11世紀初め”はあっけなく覆る。

 遺物は、pdfファイルの図版53、
包含層墨書土器(3)の右上に有り、
遺物番号第312番とナンバリングされてい
る。割れており墨書の左上部は残っていない。

山形沼田遺跡成兵.gif

第2字とみられる”兵”は六でも矛盾は無く、
”成”は左側が欠けていて、相当曖昧。
部分五角形枠に見える所は、底部がない事か
らみても、全部墨書では無く、ひび割れであ
る可能性がある。つまりかなり多数

ヨゴレが付いているようであり、元々の字の
他にその為の黒い点や線が見えるとみられる。

なお、発掘報告書には”墨書は有るが判読
不能”とある。

部分的右上にだけ、五角形模様が有り”成兵”
ではないかと見たのは本ブログの管理人だけ

である。
 そこで、更に発掘報告書を調べてみると。
一文字”王”墨書土器が、特異的にたくさん
出る場所であるだけではなくて、墨書きの有
る漆紙が、別の完品に近い土器に張り付いて
いて、紙が薄くて剥がせない遺物がそれより
も前の発掘で出土したと、図版29に写真で
紹介されていて、更には本文”前書き”に、
説明が有る。
 赤外線を使って透視画像を見た図版30に
対する本文の説明により、「”有”という字
が漆紙に書いてあるのを裏から見ている」と
発掘担当者は考えたようだ。が、この点につ
いて、本ブログの管理人は、

間違いである

と考える。
漆紙のオモテに書いてあるか、土器に書いて
あって透けて見えるのかの何れかで、

2(貮)と書いてあるのであり、元々の字を、
普通に見ているだけだというのが、本ブログ
の独自見解

である。しかも、図版30の上の写真から、
2(貮)の左に六と書いてあるのを、この
報告書で発掘担当者は、見落としていると私
は思う。ようするに。
漆紙に右から左に読むとして、”貮六”と書
いてある。そして次が重要だが、同じ字が

縦に、上記の土器破片の写真にも書いてある

と私は見ている。偶然、同じ字の書いた土器
が、2枚出土したと見るのである。だから、
前記の写真の文字は、2×6=12の意味の、
”貮六”であって本ブログの管理人の、

ぱっと見の”成兵”は誤読

であると考える。そしてこのケースは”貮六”
で良いと判断出来るのは、

王という字を分解すると、十と二になるから

であると私は考える。つまり、この遺跡で、
40枚程度出土したとして紹介されている、

”王”墨書土器の”貮六”は仲間なのであり、
中国から古代に伝来した掛け算九九の暗誦が、
古代に、中世時衆の”南無阿弥陀仏”と同様、
まじない効果があったという意味

と見るのである。つまり今回紹介した土器は、
将棋に因んだものではなくて、マジナイ用で
あると考えられる。
 恐らくだが”にろくじゅうに”と唱えなが
ら、一文字”王”土器を神棚にそなえるとい
うセレモニーが、9世紀の半ばに山形県では
行われたという、類の事なのではなかろうか。
 つまり、”王”、(誤読)”成兵”土器は、
”「はっく七十二、くく八十一」墨書木簡”
の類の、マジナイ用の9世紀出土遺物なので
はないかと、私は考えるのである。(2021/03/12)

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