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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡木札発掘時解釈(長さん)

さいきんweb上、奈良文化財研究所の
発掘報告書のサイトのどこかに有ると見ら
れる”木簡研究の報告集”の中に、西暦
1988年頃、電話で鎌倉考古学研究所の
河野真知郎氏から聞いた事の有る、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
の外部へ調査調査した結果得られた、読み
下しが載っているのを発見した。
サイトは以下の通りである。

https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/8605/1/AN00396860_11_074_075.pdf

「今日いめ参られ かし故上り□ にも□□れ」

と読んでいる。今回は、

この読み下しには、1箇所は間違いがある

との旨述べる。
 なお河野真知郎氏は文献の中で、「釈文
は鎌倉国宝館長三浦勝男氏によるものだが、
「『ひとつの読み方として示』されたもの
なので、(三浦氏の)最終判断ではない」
と述べている。本ブログでは、

「上り□」は「上わゆ」の間違いと見る。

では説明を加える。
 成書、”
よくわかる「くずし字」見分け方のポイント”
齋藤均監修、山本明著、メイツ出版、
2017年の70ページに、”
第三章すらすら読み解くための必勝方程式、
Point11
酷似する「り」と「わ」”という項がある。
 この平仮名が、元漢字利の崩し方の少な
い”り”の”中間的変体カナ”で書いたと
きに”わ”に酷似しているという旨の内容
である。

三浦氏は、”わ”を捨てて”り”と釈文

している事が判るが問題があるとみられる。
 前記成書に、以下のような見分け方の説
明がある。

・・ともに字母が「禾」(のぎへん)ゆえ
に、筆の運びが似通った結果である。
 でも安心してほしい。昔の人も似ている
事を自覚していて、「わ」に比べて「り」
はやや小ぶりに書いていた。つまり大きさ
を目安にすれば判読は容易になるという事。
「り」は「わ」よりも小さく書け。寺子屋
の子どもたちも、そう習ったことだろう。”
 以上の記載をもとに、出土木札を再度見
てみると、

「上」と「わ」ないし「り」は同じ大きさ
に書いてあり、「り」とは考えにくい。

 なお”万の書き順の間違えた『猛虎は』、
ないし『盲虎は』”の意と本ブログが取り、
他方前記釈文では”にも口”と読んでいる
と取れる”万うこ”の”う”または、
”にも口”の”も”の前半は、小さく書い
てあり、問題の木札の作者は、字を全部大
きく書く”書き癖”は無いとみられる。
 つまり、ここには「あがり」ではなくて
「うえは」と現代訳出来る内容が、明らか
に書いてあるという意味である。だから、

三浦氏の釈文のこの箇所は、成書”
よくわかる「くずし字」見分け方のポイント”
と、前記字の読みが、整合していない

と私は考える。
 そして「あがり」ではなく「うえわ」と
すると、入れ替えてみると判ると思うが、

三浦氏が示唆して、河野真知郎氏が解釈し
たように、伝言板としてしまっては内容は
ほぼ不明

になる。「あがり」は肝だからである。
 河野氏は、後日良く考えた結果、そう結
論されたと見られるが、結局は釈文出来る
とは思っていない事が、
”よみがえる中世 武士の都鎌倉”の記載
からも判っている。何れにしても三浦勝男
氏の釈文には、

少なくとも、中央行の下部の”上”の字の
次の文字の読みについて、明らかに問題が
ある

と、本ブログでは以上の結果から結論する
のである。(2021/03/11)

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愛知県豊橋市普門寺跡から将棋駒模様の土器鍋(長さん)

以下、発掘報告書に墨書の指摘がないのだが、
将棋駒名を散りばめたような柄模様のある、
戦国時代成立とみられる、土器群の出土の話
題である。
 場所は愛知県豊橋市雲谷町の普門寺旧境内
跡遺跡。発掘されたのは、西暦2017年、

報告書が新しく、2020年3月発行

である。
 奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺跡報告総覧に登録され、pdfファイ
ル名は下記である。
70383_1_普門寺旧境内.pdf
報告書の表題は以下の通り。
愛知県埋蔵文化財センター調査報告書第216集
”普門寺旧境内”、2020年、
公益財団法人愛知県教育スポーツ振興財団・
愛知県埋蔵文化財センター。
 報告書の写真図版11に2個、写真図版
13に遺物番号第68番として、2段目右に
写真があり、3個分の写真が有るようである。
”渥美窯の土器”という事であるが、写真図
版11に戦国時代の土器との旨の説明がある。

普門寺金銀2.gif


普門寺金銀.gif

上図から金将は金と、銀将は銀と、歩兵は歩
と省略されているが、土器の表面に散りばめ
られているような柄が付いていると、少なく
とも本ブログでは見る。
 図11で左の破片には、歩銀金銀が左→右、
右の破片には銀金銀銀と左→右へ書かれてい
るように見える。図13では金銀と左→右へ
並んでいるようだ。

この黒い模様については、偶然にしては相当
不自然であり、戦国時代に将棋駒をモデルに
書いた模様

なのではないだろうか。たまたま土器の焦げ
目模様と良く似ているために、発掘担当者に、
約1年間全く注目され無かったという事情だ
と、かなり疑われる。
 何れにしても雰囲気から察するに。少なく
とも15世紀頃までは飛車・角行が、日本の
小将棋類には無かった事を良く示す、説得力
の有る、重要でかつ、

貴重な遺物が、ごく最近愛知県で見つかった

という事だろう。文字情報は木製品に限らず、
遺物のいろいろな箇所に存在するとの印象を、
私はこの遺物群から、強く受けたのだった。
(2021/03/10)

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長野県佐久穂町小山寺窪遺跡より中世五角形木片(長さん)

以下、比較的新しい発掘報告書に、無地
の将棋の駒形の木片が紹介されている例
である。場所は表題のように、
長野県南佐久郡佐久穂町小山寺窪遺跡で、
遺物の成立は中世、発掘年は2010年
で少し前である。
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に登録され、pdf
ファイル名は下記である。
72616_1_奥日影遺跡小山寺窪遺跡上野月夜原遺跡満り久保遺跡馬越下遺跡.pdf
巻頭口絵にカラー写真があり、本文の第
109ページ付近に解説がある。
番号61-5と、ナンバリングされてい
るようである。たぶん中世に成立とみら
れるが、発掘時の状態が、はっきりしな
いらしい。

小山寺窪無地.gif

写真のように、五角形と言っても

一角が極狭く将棋駒だとすれば半分破片

である。報告書の109ページ付近に書
いてあるように、右下が少し欠けていて、
将棋の駒の半分強ではなくて

塔婆の切れ端のようにも見える。報告書
の見方がほぼ正しく、中世の頃のもの

だろう。他の根拠として、共出土してい
る番号61-6の棒状木片と木質が似て
いるが、

墨書で一箇所”山門”と記載されている

ようにも私には見える事実も挙げられる。
 中世の修験者信仰を連想させるので、
その時代のものかもしれない。なお、
同じく共出土の番号61-1~61-4
の木製品は、”布着せ人形”の頭部だと
言われているとの事である。
 この遺跡からは、平安時代の土器も多
数出土しているようである。しかしなが
ら、上記の特徴から、木片の成立は中世
に下るようであり、字の書いてない将棋
駒の破片だとしても、たまたまだが特に
問題は無かったようである。ただし無論、
鎌倉時代の

大将棋の駒だったとしたら、駒名が不明
なのはたいへん残念

だと感じられる。(2021/03/09)

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岡山城二の丸遺跡から別の成り一文字金銀将駒(長さん)

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、
成り龍馬角行の出土駒例があり、その
他以前に、別途不明の石製駒を本ブロ
グで紹介した表題の、岡山市の
岡山城二の丸遺跡から、前記角行駒が

出土した後直ぐに、水無瀬駒とみら
れる銀将駒が出土している

らしい。
 情報はweb上で公開されており、
スケッチだけだが、発掘報告書に記載
されている。
 その発掘報告書が、度々紹介した、
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス全国遺跡報告総覧に登録されている。
pdfファイル名は、以下の通り。
13224_1_岡山城二の丸跡.pdf
駒名の判らない石製将棋駒とファイル
名が類似であるが、全く別の報告書で
ある。発掘報告書の表題は以下の通り。
岡山県埋蔵文化財発掘調査報告175
岡山城二の丸跡、岡山県教育委員会、
2003。
 なお、石製駒の記載された報告書は、
70104_1_という番号である。
 2000年前後に発掘され、発表が、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒とほぼ
いっしょなので、たまたま間に合わな
かったようである。
 おまけに、pdfファイルを作成す
るときに、何か問題があるらしく、

アクロバットリーダーで、コンテンツ
の文字列が、ほとんど検索できない。

その事故が無ければ、検索キーワード
の将棋でヒットするのでもっと早く、
この出土遺物の存在には、私も気が付
いていただろう。
 スケッチを見ても、水無瀬駒かどう
かは良く判らない。写真は巻末写真集
から抜けているようだが、事情は良く
判らない。
 私から見ると、たまたまの情報欠落
によるヌケに近い状況のように感じる。
普通の、今様の将棋駒の少しだけ細長
い駒を、スケッチしたような駒として、
本文の144ページの”
第135図 木製品5(1/3)”に
姿が書いてある。解説は141ページ
付近に、”水無瀬駒である”との旨が、
説明されているだけである。
(2021/03/08)

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石名田木舟(2002)王将駒オモテ面余白模様(長さん)

今回は以前紹介した、富山県文化振興財団
埋蔵文化財発掘調査報告第14集
石名田木舟遺跡発掘調査報告、2002に
あり、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、
”37.石名田木舟(F3)遺跡(富山県)
の王将”と紹介されている出土将棋駒の、
オモテ面余白に、別文字が書いてあるのか
どうかを問題にする。

オモテ面は凸凹の凸部への墨の付着。裏面
に、”將”の上部を書いたとき滲んだ墨

であると推定する。
 では説明を始める。
 発掘報告書では、元々字の書いてあった
板材の再利用との見解で、オモテ面の王将
面にも、別の文字が書いてあると見ている。
そして読もうと試みて失敗したとしている。
”王将の左に『口三直謹』か”とも考えて
いるようである(報告書の、本文426ペー
ジのスケッチ横)。また遺物番号を発掘報
告書では、第5033番としている。詳し
くは下記発掘報告書pdfファイルの、
416ページ等を参照されたい。
奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス、全国遺跡報告総覧に登録されている。
5597_5_石名田木舟遺跡発掘調査報告.pdf
 が、良く観察してみると、オモテ面には、
左上から右下に向かって筋が付いている。

石名田木舟5033.gif

筋の左側だけ、毛管現象で薄く墨が付いた
だけ

と私は見る。その薄く付いた墨が、

オモテ面の”ざらざら”のうち、出っ張り
部分でだけ目立っていて模様が出ている

ように、私には見える。裏面についたボタ
墨が、水に溶けて広がったのではないか。
 では、なぜ裏面に”・・”の形のボタ墨
跡が、有るのかだが。

この駒の王将の将の字は、爿のヘンに、
新字体の将の右側がツクリで付いている。

当時としては変わった字を書いたので、他
人が濃い墨で裏に”將”の上部を書いたと
きに、墨が滲んだようにも見える。つまり、

爪では気に入らないので、然の1~4画目
を書いて、字体がおかしいのを指摘した

という意味である。
 よって、実用上は問題が無かったが。
発掘報告書解釈のようにオモテ面では無く、
裏面に、別の字の一部が書き込まれていて
墨が乾いていないのに使用したので、

広がって滲んで、オモテ面にヨゴレが出た
だけの可能性も有る。

以上のように本ブログでは推定するのであ
る。(2021/03/07)

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静岡県浜松市梶子遺跡より複数の卆墨書土器(長さん)

以下奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、写真を掲載した発掘報告
書が登録されている、静岡県浜松市梶子遺跡
より出土した、かなりの数の”卆”の字のはっ
きり書かれた、墨書土器の出土の紹介である。

発掘報告書に”祭事用であろう”と書かれてい
てその通りであり、中国シャンチー成立以前の
日本の遺物とみられる。

報告書はWEB上に、以下のpdfファイル名
で登録されているファイルに、写真が掲載され
ている。
63248_8_梶子遺跡19・20次本文編、古環境調査編、写真図版編.pdf

浜松市梶子遺跡卆.gif

発掘報告書の表題は、以下の通り。
梶子遺跡19・20次、浜松市教育委員会、
2019。
遺物の発掘は、西暦2017年頃とみられる。
遺物は上図のように、卆の字の杯型土器の束で
あり、今回は多い。実際には同じ墨書土器の紹
介がもう一ページ有り、報告書に写真は13枚
載っている。
 成立時代は、同じpdfの末備の報告書抄録
に、説明が載っていて、平安時代の10世紀以
前とされる。中国シャンチーが成立する前であ
り、チェス系のゲームとの繋がりは無いと、言
う旨とみられる。祭事用だとされ、”得”とか、
”得上”と書かれた土器も大量に出土している。

他の墨書の書かれた土器の墨書の漢字との
繋がりは、私にはさっぱり判らない。

卆に関連する字は、私には発見出来ない。個人
的には、

土器に書く字としては珍しい部類

なのではないかと認識する。
イスラムシャトランジと無関係で有る事を、私
には正直な所証明出来ない。
 疑いを僅かだが、残して置いた方が安全かも
しれない。墨は充分に鮮明であり、相当強固な
貯蓄倉庫を所有する、豪族識字層によるものだ
ろうとの印象を受ける。(2021/03/06)

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雲南省大理市から個々独立の宝仏塔出土(長さん)

以前述べたように、埼玉県美里町の
猪俣の百八燈の中心藁塚”五重塚”は、
同町出土の五色宝塔(南北朝時代・
小山若犬丸の乱の頃成立か?)と、概念
類似で関連性が疑われる。その後者

法事用財宝出土遺物

と、雲南省博物館のマトリョーシカ方式
五色宝塔は、名前が同じである事からも
判るように、遺品として

カテゴリーがいっしょの物品

であるという事であった。あくまで
本ブログの見解だが、これは平安大将棋
の将駒が、

玉将、金将、銀将、銅将、鉄将と5色で
あるのと関係する。

ずばり”鎌倉時代~南北朝時代の大将棋”
を、猪俣の百八燈の塚は、その数108
基で模しているという意味である。また、
これは、

日本の南北朝時代にはまだ、日本の将棋
が、大理国の上流階級王侯貴族の将棋の
輸入品であるという記憶が、日本の知識
人層の間では残っていた

と言う意味でもある。
 しかし、冒頭で述べたように、雲南省
博物館の五色宝塔はマトリョーシカ方式
であり、本来1塔な仏塔具が、5つに分
解可能という型式のものである。この点
で埼玉県児玉郡美里町広木上宿遺跡出土
の、五色宝塔(金、金銅、銀、銅、鉄)
とは形式が違う。
 だが最近、広木上宿遺跡のミニチュア
仏塔と同じ形式の出土遺物が、雲南省
大理市から発掘され、大理国時代成立と
みられて、雲南省博物館に展示されてい
る事が判った。web上以下のサイトに、
物品が公開されているようである。

https://www.sohu.com/a/438066214_772510

出土場所は”大理弘経寺塔”とある。

雲南宋代宝塔.gif

大理市の三塔は確か”崇聖寺三塔”と言
うはずであり、名前が違う。両者の関係
は、私には不明である。
 大きさは高さ10センチ足らずで、
埼玉県児玉郡美里町広木上宿遺跡出土の
五色宝塔とオーダーでいっしょの大きさ
である。4つだけ発見されており、金箔
が施されているというので、こちらも、
埼玉出土の五色宝塔より、現状の見かけ
はより劣るように見えるが、やはり元々
は、絢爛豪華な宝塔だったと判る。
 大理国は仏教が盛んで、また前に文献
で紹介したが、雲南テン国等の古代王朝
は、”支配層が古来より贅沢である”と、
漢王朝時代から見られていたようだ。そ
の為、五色宝仏塔が雲南の大理市の仏塔
で、発掘される事自体に不思議は無い。
 南北朝時代に日本の朝廷が、やや振る
わなくなって、土や木で仏像を造るのが
主流になった頃、その日本で藤原摂関時
代の如くの、金銀黄金貴族時代の唐物の
国内置き換え、つまり内製品のような
広木上宿遺跡五色宝塔が出土している事
の方が、当然だが謎と見るべきなのであ
ろう。成書の指摘の旨通り、

他に類例の無い、特別な遺物(たとえば、
ときの鎌倉公方がたまたま、特殊な事情
で、肝入りで作った物という事)である

等と見るのが、やはり常識から見て尤も
なのではないか。以上のように日本の対
応遺物についてだけ、依然私は疑いを持っ
て見ているのである。(2021/03/05)

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富山県射水市赤田遺跡で成りルーク墨書土器(長さん)

以下、古代に成立の遺跡から、アルファベッ
トの墨書に見える土器が出土した話題である。

×の印のある土器に、このように見えるもの
が有る

のではないかと疑われる。
 成Rと読めるので、チェス駒のルークが、
相手陣で、成るルールの意味のように取れる。
 出土場所は、富山県射水市橋下条地の
赤田Ⅰ遺跡であり、西暦2018年頃の発掘
で出土したようである。遺跡自体は縄文時代
から平安時代までの、幅広い遺物が出土する。
最も遅く見積もって平安末期としても、チェ
スは成立せず、城駒も無いので表題のように
解釈すると謎である。
 写真はweb上で公開されており、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に写真を掲載した発掘報告
書が登録されている。pdfファイル名は、
以下の通りである。
72203_1_赤田Ⅰ遺跡発掘調査報告2.pdf
報告書の表題は以下の通り。
赤田Ⅰ遺跡発掘調査報告(2)、
富山県射水市教育委員会、2019年3月。
 写真は、この発掘報告書の、写真図版6、
”出土遺物(2)”の、2段目左に掲載され
ている。

富山射水赤田成R.gif

 杯のような形をしている、土器遺物の底面
に、いっけんすると潰れた”成”とRに、見
える部分が、縦に書かれているようでもある。
 しかし、

良く見ると違う。切り跡の円周模様を含めて
しまう錯覚で、そう見えるだけ

である。また”成”は潰れていて、無理読み
すると、そう見えるだけだと考えられる。
 実際には、Kのような書き順で書かれた

”×”という、古代土器に良く見かける記号

のようである。
 よって、たとえば平安時代に日本人が英語
のアルファベットを知り、チェスが存在して、
その車駒が城(ルーク・R)であり、その駒
が成れるという意味で、書いてあるとは到底
考えられない。
 出土遺物の墨書に関して前に述べたように。
2文字のうちの1字が曖昧な場合、何らかの
事情による、偶然を疑うべきという経験則の、
これも一例だと言う事だろう。(2021/03/04)

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富山県富山城跡から江戸時代の学習用五角形木片(長さん)

以下、いっけん将棋駒を思わせるような
木製品遺物が富山県の富山城跡から、西暦
2008年前後に出土しているという話題
である。発掘報告書には、用途不明品のよ
うに紹介されていると取れるが、

子供に漢字を学習させるための道具を、城
内で作成したもののように見える。

遺物の写真は、web上に公開されている。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に写真を掲載した発掘報
告書が登録されている。pdfファイル名
は、以下の通りである。
5744_2_富山城跡発掘調査報告書.pdf
 発掘報告書の表題は、以下の通り。
富山市埋蔵文化財報告書36、
富山城跡発掘調査報告書、
富山市路面電車推進室・富山市教育委員会、
西暦2009年。
 この報告書の末備の方の、写真図版30
”工事立会調査出土遺物2”の中央下から
2段目に、遺物番号64として、今回話題
にしている遺物の写真がある。

富山城工航.gif

形からすると将棋駒であり、左の写真の文
字はうっかりすると”王”と読みそうだが、

違う。

本ブログでは、上記の写真の左記載面は、

”工”、右記載面は”航”と読む。

どちらも音読みが”こう”の漢字である。
よってもとより確証を得るのは困難だが、
子供の漢字の学習用の道具では無いかと、
私は疑う。なお将棋駒で無い事は、
①上部に小さな穴が開いていること。
②10センチ四方の大きさであり、将棋駒
より3~4倍大きい事。
以上の点からも、このケースに関しては、
明らかである。
 発掘報告書に、将棋駒を匂わせる言及が、
全く無いのは当然であろう。
 しかし珍しい物品が、富山城から出土し
たものであると感心させられた。(2021/03/03)

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富山県増山遺跡より戦国時代の龍馬記載木製品(長さん)

以下、富山県砺波市の増山遺跡の2016年
前後の発掘調査で、戦国時代頃成立と見られ
る龍馬という文字が、記載されているように
見える、木製品が発掘されたとの話題である。

中将棋が成立している時代なので、不自然感
は無い。

 情報はweb上に公開されている。
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に、写真を掲載した発掘報
告書が登録されているからである。pdf
ファイル名は、以下の通りである。
71939_1_増山遺跡発掘調査報告.pdf
 発掘報告書の名称は、以下の通り。
増山遺跡発掘調査報告、
富山県砺波市教育委員会・北陸電力株式会社・
株式会社上智、2018年3月。
 写真は前記発掘報告書の巻末部の
”写真図版20 出土遺物(4)”にあり、
上段右から2番目で、遺物番号が166番と
ナンバリングされている。

増山遺跡龍馬.gif

図のように、龍馬の馬は比較的濃いが、

龍の字の右側が無い

ように見える。
 成立年代は、表紙に戦国時代の集落の発掘
であるとの旨記載が有り、日本将棋が成立し
た頃であるから、

当然龍馬駒は中将棋に有るので、問題は無い。

 ただし、この遺物に関して、本当に龍馬と
墨書きが有るのかが問題だろう。同様な状況
の遺物について、過去本ブログでは何回か紹
介している。
 こうしたケースが、かなりの確率で偶然の
悪戯であって、

全く字など無いのに、有ると結論されると考
えて良い根拠を、本ブログの管理人はさいき
ん発見

した。
同じ奈良文化財研究所発掘報告書データベー
ス、全国遺跡報告総覧の以下のpdfファイ
ルに、次のような例が有る。
5833_1_稲積川口遺跡.pdf
 この遺跡には、かなりの量の縄文時代成立
の遺物の出土があり、以下の写真は、そうし
た遺物の一例である。

稲積川口耐熱.gif

上記写真は、図版17の遺物写真(6)の右
下隅にある。遺物番号76番とナンバリング
されている。縄文式土器の大きな破片である。
なお、遺跡の名前は富山県氷見市稲積地にあ
る、稲積川口遺跡という場所で西暦2008
年前後に発掘されたものとの事である。
 上記写真のように、”耐熱”という文字が、
大きく書いてあるように見えるが、

熱はかなりはっきりしているが、耐の字が、
ぼんやりしている。

そして、このような熟語は、縄文時代の土器
に書かれるとは考えられない。熱伝導度等を
工夫して、

加熱しても割れない器を作成するようになっ
たのは、少なくとも日本では近代から

なのは明らかであるからである。つまり、

2文字墨書で、内1文字がぼやけたという遺
物の墨書が、偶然の悪戯である事を示す好例

だと私は思う。今まで紹介した、特に成立年
の定説とは合致しない、薄い文字が書かれて
いるように見える遺物が、単なる偶然の悪戯
であっても、おかしくない証拠と、上記例は、
言えるのではないか。
 今回の冒頭の龍馬木製品は、存在しても、
おかしくは無いのだが。この遺物の文字が、
本当に人手によるものであるという証拠とし
ては弱いのだろう。
 同様に、以前紹介したうちで、”地方でも、
玄怪録の収録された北宋時代の『太平広記』
が読まれていた”という証拠の遺物といった
例に関してはその遺物を根拠に”北宋稀少書
は、室町時代には地方にも伝播したと考えて

100%間違いない”とは言わないように、
今後は注意したい

と私は思う。つまり、そうした遺物の存在は、
論の、わずかばかりの、仮説に対する補強材
料でしか無いと言う意味である。(2021/03/02)

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