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宮崎県都城市母智岡原遺跡で平安期金将墨書土器(長さん)

今回は平均10世紀前半と、ちょっと早めの
成立年代の土師器土器に、金将ではないかと
見られる模様の在る、九州宮崎県都城市の遺
跡の出土遺物の話題である。

将棋駒名を書いた疑いも在あり、成立が11
世紀初よりも、少し早いように見られている
ので注意が必要

である。
 遺物の写真がweb上に公開されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース
全国遺報告総覧に登録・公開されている。
 pdfファイル名は以下の通りである。
3051_1_母智丘原第1遺跡県指定志和池1号墳.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
母智丘原第1遺跡・県指定志和池1号墳、
1989年、都城市教育委員会。
 なお、以下に紹介する遺物は、母智丘原第
1遺跡で出土し、前記2箇所の遺跡はかなり
距離が在り、相互に無関係と見られる。
 発掘報告書冒頭の例言によると遺跡の場所
は、宮崎県都城市横市町6691番地。遺物
が出土したのは、冒頭調査に至る経緯による
と西暦1988年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、発掘地点の土師器の形
態から、9世紀後半~10世紀と見られると
の旨が、発掘報告書の第19ページ付近に記
載されているように読取れる。11世紀初頭
でも誤差を考えれば問題は無いと私見するが、
以下、平安時代の11世紀初よりは少し早め
として議論を進める。
 遺物の写真は、発掘報告書の写真図版第3
の、左下カラム:”土師器杯底面(ヘラ切り
跡)”の左上に在る。遺物番号は私にはつか
めてい無い。

母智岡原金将.gif

 上図のように、写真の左下に漢字で”将”
(旧字)のように見える模様が在り、その右
に、はっきりしないが”金”のように見える、
ぼんやりとした模様がある。よって金将だが、

将棋駒名から来ているのかどうかは微妙

かもしれない。というのは、その更に右に、
横に並んで、漢字で”奉奉”と書かれている
ようにも見えるからである。
 奉奉金将か、奉奉王将のように見え、茨城
県の平将門関連と疑われる墨書土器が連想さ
れるからである。
 ただし、宮崎県と茨城県とは地理的に離れ
ている事はいうまでも無い。
 はっきりし無いが、将棋が成立した後に
墨書が書かれていても、全く説明困難ではな
いので、将棋関連ではないかと”?”マーク
を付ける必要がある出土史料のように疑う。
(2022/10/31)

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