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群馬県高崎市上野国分尼寺跡で平安期奔王墨書瓦(長さん)

今回は、群馬県高崎市の国分尼寺跡の出土瓦に、
奉奉王王と4文字墨書されている疑いがあると
いう旨の紹介である。
 遺物の写真がweb上に紹介されていて、
発掘報告書に載っている。発掘報告書が、
奈良文化財研究所発掘報告書データベース、
全国遺跡報告総覧に登録・公開されている。
pdfファイル名は、以下の通りである。
115419_4_上野国分尼寺跡、上野国分ニ寺中間地域.pdf
 発掘報告書の名称は以下の通りである。
(財)群馬県埋蔵文化財調査事業団調査報告第157集
上野国分尼寺跡・上野国分二寺中間地域、1993年、
群馬県教育委員会・財団法人群馬県埋蔵文化財調査事業団。
 今回紹介する遺物は、上野国分尼寺跡にて出
土したようである。
 発掘報告書第1pdf冒頭例言によると、遺
跡の場所は、群馬県高崎市(群馬郡群馬町:当
時)東国分小字礎。遺物が出土したのは、西暦
1970年前後の事のようである。
 遺物の成立年代は、遺物は国分尼寺の第6ト
レンチで出土したが発掘報告書第1本文pdf
の第37ページ付近の記載によると、9世紀、
平安時代前期の瓦ではないかと推定されている
ように読取れる。
 遺物の写真は第4写真図版pdfの写真図版
第17の左上に在り、第6トレンチの遺物番号
第10番とナンバリングされている。平瓦のよ
うに私には見え、凸部の方に文字のような模様
があり、写真では右側のコマである。

上野国分尼寺奔王.gif

 上図のように薄く奉+濃く奉+薄く王+濃く
王と4文字書いてあり、「奉奉王王」と読める
ようにも見える。国分尼寺であるから、仏教寺
院ではあるが、創建の基となった朝廷への、敬
意を表したもののように見える。2つ書いてあ
るのは、薄い方が消え掛かったので、書き直し
たのであろう。

奉王と書いてあるのと実質同じ

とみられる。瓦に墨書する際に、ウラの方が、
字は書きやすいのでオモテに書いてあるのは、
珍しいと私は認識するが。人目に止まるように、
目立つようにオモテに書き、摩耗したら、再度
目立つように書き直すべき内容と、当時の関係
者には意識されたという事なのであろう。
(2022/12/31)

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