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後期大将棋。中将棋の成りを取り入れたのは誰が初めか(長さん)

将棋纂図部類抄を読むと、安土桃山時代の後期に、15升目130枚制
後期大将棋は、成りが太子と麒麟と鳳凰と、ひょっとして歩兵が中将棋
と同じであって、その他の駒は不成りだったと読める。なお、歩兵の
金将成りは、鶴岡八幡宮出土駒からの、本ブログ独自の解釈であり、
水無瀬兼成は、歩兵も後期大将棋は、不成りのように書いている。
 江戸時代の将棋の書物でも、その点は概ね反映されるが、少なくとも
平成の現時点では、大将棋の成りは、中将棋の成りに準じるものとされ
る。
 では、現代の後期大将棋の中将棋型の成りは、誰が始めたのかという
のが、今回の論題である。なお、重要な点は、犯人ではなくて、何を根
拠に、そう結論するのかと言う点である。まず、犯人の答えを書くと、

将棋纂図部類抄に出てくる、行然という僧侶であると結論される。

 そして、より重要な点は、その根拠である史料が、

ほかならぬ、将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部の記載

とせざるを得ないと、言う点である。
 なお後者は、本ブログの独自の解釈である。以下、以上の結論につい
て、詳しく述べる。
 本ブログの解釈によると、行然和尚まとめ部の、大将棊の二行目の
成り駒に関する記載は、

泰将棋に関するものに見えるが、実は後期大将棋に関するもの

となる。すなわち、その一行目の”大将棊駒総数”に関する記載は、
以前述べたように、

水無瀬兼成によって、後期大将棋の130枚から、泰将棋の254枚に
改竄されたもの

と本ブログでは見ている訳である。つまり、この部分の著者の

行然和尚は”後期大将棋の成りが、中将棋に順ずるもの”と考えていた

と見られるわけである。
 そして、後世、明治時代頃の将棋の棋士は、当然だがこの水無瀬兼成
の改竄に、気がついていたので、

中将棋の成りを、後期大将棋に当てはめて、それまでの成りの少ない
後期大将棋を捨てた

と、ここでは推定する。そもそも泰将棋で、成り駒を少なくするため
の、”大将棊”という表現の意味を、後期大将棋から、泰将棋にすりか
える水無瀬兼成の改竄は、

泰将棋に関する泰将棋畧頌(原題:大将棊畧頌)で、水無瀬兼成が、
自在王と玉将を間違えており、その経緯すなわち、一つごまかしをした
事によって、更につじつまあわせが必要にという、よくあるパターンの
典型である事に、明治時代に気がつけば、明治以降の駒数多数将棋の棋
士には、その意味が明らかだった

だろうと、私は考える。
 またもともと、

後期大将棋は、成りの規則を、不成りから中将棋型に変えた方が、ゲー
ムとしても、マシになるし、近代の中将棋の棋士にとっても、ルールは
彼らが比較的頻繁に指した、中将棋と同じになって把握しやすかった

とみられる。そこで、安土桃山時代後期の

行然和尚案が、近代になって普及した

と見るのが、私の考えである。
 なお行然は”中将棋の成りについて、小将棋に準じる”と記載する等、

本当に、駒数多数将棋に詳しかったのかどうかは、謎の人物である

とも見られる。なお、当然だが、将棋纂図部類抄の中将棋には、成りの
図が、現代と同じ形で載っていて、金将が飛車に成る等、金将は不成り
ではないので、日本将棋や平安小将棋(群)とは、全く違う。
 しかし今となっては、安土桃山時代に、中将棋の成り規則で、後期
大将棋が指された事はなかったという、反証も困難である、なぜなら
たとえば、水無瀬の中将棋駒と、水無瀬兼成が、豊臣秀次に献上したと
見られる、後期大将棋の駒とを、適当に組み合わせれば、現代流の、
後期大将棋を指す事も、原理的には可能なためである。つまり当時、
そのような事は、絶対にしなかったとは、保障もできないと見られる。
 以上の結果から、

少なくとも史料に基づく限りは、後期大将棋の中将棋型の成り規則を
発明したのは、安土桃山時代の水無瀬兼成の知人の、行然である

と現行は、せざるを得ない状況なのではないかと、少なくとも本ブログ
では考えるのである。(2018/04/30)

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