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(コラム)72候は、瞬間か、ある期間を指すのか(長さん)

本論題は、将棋史ではなくて暦学の問題なので、コラムにした。
 前回述べたように、webのページによっては、72候の定義を、
日本の文部科学省管轄の、国立天文台の暦学ページとは異なり、
ある72候の時刻(A)と、次の72候の時刻(B)の間の期間を、
(A)という72候の期間を指すと、説明したものがある。ここで
の論題は、

国立天文台の解釈が間違いであるとしたら、なぜ彼らは間違えてし
まったのか

と、いうものである。以下は私見であるが、

期間と見る、一部のwebページに、多少の利がある

と私は見ている。根拠は渋川春海作の72候で、具体的内容を見る


大暑の次候と、大寒の次候が、それぞれ暑さと寒さの頂上という、
内容となっており、その他の70候は、動植物、生き物等の動きで
表現されている

という点が挙げられる。
 つまり土潤溽暑、水沢腹堅のように、地質・水質が暑さと寒さの
極みになっているという表現が、72候には含まれるのである。こ
の事は、

72候が、24節気の0点、1/3点、2/3点を示す時刻である
と、国立天文台のように解釈すると、かなり不自然

だ。

なぜ、24節気の1/3点という、中途半端なポイントを、極みに
わざわざ渋川春海はしたのかが謎

だからである。

1/2のあたりに、極大点を持ってくる方が、絶対とは言えないま
でにしても、かなり自然

なのではないかと、私は考える。つまり、

日本の国立天文台の72候の時刻解釈には、なんと約62時間もの、
”早すぎる”という誤差がある疑いが存在する

と言うことである。
 そこで次に、以上を前提にして、その原因について考えてみる。
 これは、国立天文台等が、72候の定義を瞬間ではなくて、期間
にしなかったのかを、説明するという内容である。
 答えを書くと、

国立天文台等が、期間に名前を付けるという仕事が余り無く、瞬間
や地点に名前を付け、その精度だけ問題にするという仕事を、ずっ
とする習慣が、長年に亘り続いたことによる、近現代の天文台文化
の影響

だと私は推定する。そもそも本ブログで、増川宏一氏著書の碁打ち
将棋指しの江戸を紹介した時に、渋川春海は、根っからの囲碁の棋
士だったと、結論づけた。だから少なくとも、彼自身の心の中には

天文方の文化は、もともと無く、だから日本式72候も、暑さ寒さ
の極大点を、24節気の、大暑~立秋と大寒~立春の真ん中に持っ
てくるという、どちらかと言えば、常識的感覚が強かった。

ところが、その点をチェックしないで、国立天文台等は、渋川春海
を、単なる自分達の類と見ているので、

渋川春海のきめた72候の、注意深いチェックが抜けてしまい

いつもの24節気の感覚で、72候の定義を、決め続けてしまって
いる。以上のように推定すると、事実が旨く説明できると、私は考
えるのである。(2018/04/28)

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大大将棋と摩訶大大将棋。駒数192枚は偶然の一致か(長さん)

 大大将棋は、摩訶大大将棋よりは小さな、17升目盤を用いるが、
初期配列で駒の密度が、摩訶大大将棋よりは高くなっており、駒の
総枚数が、同じ192枚である。今回の論題は単純で、

これが偶然の一致なのか、あるいは意味が有るのか

を問題にする。
 さっそくだが、回答を書くと、

どちらも24節気+72候の96枚を、片側の駒数、96枚とした
ものであるため、必然的な一致

と私は見る。太陰太陽暦が発生すると同時だと言うのは、24節気
については自明だが、72候についても中国にて、暦が作成される
と、さほど遅れる事なしに、6世紀に作成されたもののようである。
 なお72候の存在のため、一年は72に区切られる。
96に区切られるのではない。或節気の第n項と表現し、その時点
で、何処の季節なのかを示すために作られたもののように、web
の説明図等からは、理解される。ただし現在では72候は、72候
の起点時刻を指すような説明を、国立天文台等はしている。つまり、
72候はそれぞれ瞬間であり、特に初候の時刻と、各24節気の時
刻は一致すると、日本の国立天文台は、事実上説明している。同じ
概念に、別の名前をつける無駄を、国立天文台がなぜするのかにつ
いては、私見もあるが、将棋史とは関係ないので、ここでは述べな
い。余裕があれば、コラム等で論じたいと考える。

何れにしても72候の成立よりは、11世紀の日本への、
将棋の伝来の方が、遅いとみられる。

 以上のように、大大将棋と摩訶大大将棋の総駒数の一致について
は、更に根拠を示す必要の無い、気がついてしまえば、そのもの
ずばりの理由であろう。なお、摩訶大大将棋と大大将棋の後先関係
については、諸説ある。が、仮に本ブログのように、前者が先だと
すると、一方の側の左右袖のどちらか半分について、中段の空き升
目が2~4段に関して、摩訶大大将棋では3-4-3升目になって
いるのを、3段目だけ残し、6升目減らして、列が左右1列づつ減
り、6升目減少したのを補えば、大大将棋の配列は簡単に作れる。
 この事から、大大将棋も摩訶大大将棋も、異制庭訓往来との後先
関係も不明だが、ともかく

異制庭訓往来の、”数の多い将棋が、一年の日数に則ったもので
ある”という記載と、気候を関連付け、結果としてつじつまが合う
ように作成されたもの

である事と推定される。また以前、本ブログで指摘したように、
恐らく

17升目の大大将棋については、囲碁盤が古代17路制であった事
が日本に普及してから、古式の囲碁盤にちなんで、”大きい将棋”
を作成したという経緯のゲーム

と予想される。
 なお、本ブログでは、日本の将棋の成立年代を、室町時代前期と
遅く見ているために、異性庭訓往来の”大きい将棋”は、実際には
中国の、晁補之(ちょうほし。晁無咎と同一人物)が11世紀に作
った広将棋を、指すのではないかとの立場を、今の所とっている。
中国では、シャンチーが成立すると、シャンチーのゲームとしての
出来が良かったために、日本より駒数多数将棋の衰退は、明らかに
早かった。
 それに対して、日本では駒数多数将棋は、昭和の時代まで生き残
った。そして少なくとも日本の将棋は、陰陽道とも関連する、暦と
の関連へのこだわりが、江戸時代の大局将棋まで、続いたように見
えるのである。(2018/04/28)

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