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シャトランジが10世紀日本公知なら、平安大将棋に飛車があるはず(長さん)

本ブログでは、日本の古文書に将棋が記録されなくても”10世紀には
中国唐~五代十国経由で、イスラム(アラブ)シャトランジが、ぽつり
ぽつりと、日本に伝来していた”との立場を取る。しかるに、それなら
シャトランジにあり、このゲームの性格を決めるのに、決定的な役割を
果たしていると少なくとも本ブログでは見る、飛車動きの車駒の存在は、
10世紀末時点で、日本の専門家のゲームデザイナー層には、知られて
いたと見るのが自然である。ところが実際には、本ブログで西暦1110
年頃の作ではないかとみる、平安大将棋に、十字走りの車駒は無い。
 他方現在の定説では”平安大将棋に飛車が無いのは、その時代には、
単にまだ、発明されていなかったため”とされる。しかし冒頭のように、
本ブログのように、”イスラムシャトランジが流行らない程度に、ぽつり
ぽつりと10世紀までに伝来説”を取ってしまうと、

”飛車が日本では、12世紀の初頭に知られて居無い”という、逃げの手
が許されなくなる

のである。そこで今回は、本ブログのように、イスラムシャトランジ・
開封市に10世紀頃存在の立場を取った時に、イスラムシャトランジ、
中国シャンチー、朝鮮チャンギのいわゆる車駒が、なぜ12世紀の、日本
の二中歴の平安大将棋に、飛車として入らないのかを、論題とする。
 そこでいつものように、その原因について結論を書く。

平安大将棋を作成する時点ではまだ、飛車動きの駒の安易な導入は、取り
捨て型将棋ゲームを、つまらなくする元凶だいうのが、日本のゲームデザ
イナーには常識だったため

だと、私は考える。すなわち、飛車の王手を掛ける手の定跡化と、それだ
けでは、玉が長手数踏んでも詰まないという否定的な性質が、日本の大将
棋のデザイナーには、ほぼ行き渡っていた。そこで、横行、奔車、飛龍を
平安大将棋に西暦1110年頃に導入しても、たとえば奔車の代わりに、
飛車を入れると言う事を、しなかったのではないかと、私は考えるのであ
る。
 むろん本国のアラブ人も、シャトランジのこの欠点を、充分に承知して
いたと私は認識する。イスラムシャトランジの系統で、ビザンチンチェス
というゲームがある。方形の升目盤ではなくて、時計の文字盤のような盤
の形のために、升目が結果として扇型になるような、循環盤を作り、4列
16升目のエンドレスな丸い盤の上に、32枚のシャトランジの駒とみら
れるものを置いてするチェス・将棋類の、取り捨てルールとみられるゲー
ムである。
 このゲームでは、間に遮へいする駒が無いと、飛車動きの車駒の利き筋
が実質、普通の盤の2筋分に及ぶことになる。この点が普通のシャトラン
ジとの最も大きな差だと、私は考える。その結果、飛車で王駒が詰む確率
が、ビザンチンチェスの方が、普通のイスラムシャトランジより多くなり、
イスラムシャトランジの王手は掛けやすいが、車駒だけでは、相手王が、
なかなか捕まらないという欠点が、幾らか緩和されるようである。なお、
中国シャンチー等では、言うまでも無く砲の存在が大きく、その他帥・将
や楚・漢の動きを8方隣接升目動きから、少し弱めたり、九宮内に制限し
たり、王不見王の細則ルールを作成したりして、調整したと見なせる。
 すなわち、ビザンチンチェスの話は別として、飛車の問題は、西暦
1110年頃の日本の将棋ゲームのデザイナーには、知れ渡っていたと
仮定するのが、本ブログの特徴である。

知っていたのでわざと、飛車は平安大将棋には、入れなかった

と、ここでは見る。
 その後、平安将棋には、徳島県川西遺跡の出土駒からみて、

西暦1230年頃には横行、奔車、飛龍、奔横等が存在するようになった。
の結果、単独飛車だけの、終盤攻めが回避されるようになった。その事が
はっきり日本でも、ゲームデザイナーに認識された時点で初めて、この頃
に飛車が、大将棋に取り込まれた

と、本ブログでは見る。
 むろん、そうなったとしても、デザイナーの飛車に対する警戒心が、完
全には、無くなった訳でも無かったのであろう。

西暦1300年の普通唱導集の大将棋になっても、飛車は反車と香車に耳
を破られて、序盤に活躍を終えるよう、端列に置かれた

のである。何れにしても、将棋が10世紀には流行らなかったとしても、
外国の将棋の駒のルール情報が、断片的には入ってきていたと仮定する限
り、例としてイスラムシャトランジの象・馬・車駒は、日本では未知と、
決め付ける訳には行かない。よって将棋の伝来に関して、本ブログのよう
に、ある意味での”早い伝来説”を取る場合には、論を展開するときには
注意が必要と、私は考えるのである。(2018/04/11)

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日本の大将棋の牛駒の元駒は、なぜ”猛牛”という名前なのか(長さん)

容易に入手可能な漢和辞典で、最も詳しい内容の全書に、大修館書店の
「大漢和辞典」(1958)というものがある。それには”猛”と付く
各種の単語が記載されているが、”猛牛”という記載は無い。猛の付く
動物名で代表的なものは、虎である。その他この辞書には、馬、犬、狗、
猪と、結構な数の動物名が載っている。なお、猛猪は、正確には猛諸の
誤用で、中国の鬼人(妖怪)の名のようである。現代では、日本のプロ
野球のあだ名にまで使用されている”猛牛”だが、南北朝時代より前の
将棋の駒名に、この単語が使用され得るという根拠を示すのは、実は容
易な事ではない。たとえば、その先行研究として、大阪電気通信大学の
高見友幸氏による、源平盛衰記の、木曽義仲による、平家、火牛攻めに
関連した、牛の字使用の研究が、webで公開されている。それによる
と、源平盛衰記には単に「牛を集めて、いわゆる火牛攻めを行った」と
の旨の記載(火牛の単語も無い)しか、現われないとの事である。では、
鎌倉時代中後期の、普通唱導集の大将棋に、未確定ではあるものの、
猛牛という駒が有るとしたら、どこからこの単語を、普通唱導集大将棋
のデザイナーは、持って来たのだろうか。これが、今回の論題である。
 実は最近、私はさんざんこの問題を考えたのだが、結論を先に書くと、
次のような答えになった。

猛虎の猛をそのまま、牛に付けたのであり、作者は陰陽師か、ほかなら
ぬ普通唱導集大将棋のデザイナー自身とみて、どうやら間違い無さそう

である。
 つまり、

現在のプロ野球チームのあだ名等にもなっている、猛牛という単語は、
鎌倉時代中に作成されたボードゲーム、大将棋が起源である疑いが、
極めて高い

という事である。
 では以下に、その説明をする。
 まず、猛牛という単語を、より普遍的な、猛虎から持ってきた、動機
は、以下のように推定される。ずばり、

鬼門の方向を中心に、猛のついた動物を、左右に2頭置くため

である。鬼門は、丑寅方向なため、平安大将棋の猛虎だけでは、片方が
足りない。そのため、牛駒を加えたというのに、間違い無さそうだ。
そう考えられる根拠として、私が推定した普通唱導集大将棋には、
平安大将棋の

飛龍と、嗔猪という2種類の駒が更にある事が、確定している

からである。これらは、陰陽道の、十二支で方位を現すシステムに於い
て、龍は兎を挟んで虎の一つ跳び先だし、猪は鼠を挟んで牛の一つ跳び
先になる。だから、

牛駒を入れさえすれば、鬼門方向を中心に、対称的に動物が取り入れら
れる

という事である。つまり、牛駒は、五将制を取る等、陰陽道の影響が
たいへん強いと、かなりの数の将棋史研究者が賛成する、大将棋(平安
大将棋系)に於いて、

牛駒は、絶対に必要な不足駒

だったのである。またそれは、虎と共に、鬼門の左右を守るためのもの
であった。既に将棋の虎には、代表的な修飾詞”猛”が付いていたので、
守り神の力に、左右で寸分の差が出て、守りが崩れないようにするため
に、修飾詞を揃え、

普通唱導集大将棋のデザイナーは躊躇なく、造語の”猛牛”を選択した

と、いうわけであろう。その結果、私が13升目制と推定する、
普通唱導集時代の大将棋の2段目は、私によると、以下のようになった
とみられる。

二段目:反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、麒麟、酔象、鳳凰、猛虎、
猛牛、嗔猪、飛龍、反車(以上13枚)

ちなみに、冒頭でも述べたように、猪駒が嗔猪であって、猛猪にならな
かったのは、正確には猛猪が猛諸だった為であり、中国の妖怪は使用せ
ず、日本書紀の、雄略天皇に関する故事に出てくる、嗔猪(いかりゐ)
から取ったのであろうと、今の所私は推定する。
 以上のように、”牛が猛獣である”という、通常の感覚からすると少
し違うのではないかと思われるような、”猛牛”という単語が、恐らく
日本の中世に発生した主な理由は、

普通唱導集時代の大将棋に、他の動物駒として、12支の猪、虎、龍が、
その前に存在し、鬼門方向を固めるためには、不足が牛だけだったため

というのが、私の現在の考え、というわけである。(2018/04/10)

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大宰府条坊遺跡木簡の、駒名同士の間隔(長さん)

前回本ブログに於いて、”松岡信行氏は「解明:将棋伝来の謎」の中で、
京都、一条帝宮廷サロン発祥説を展開する中で、発明された将棋駒が、
最初期には長方形と、想定しているようだ”との指摘をした。つまり、
最初期の将棋駒を細長い、板状木簡等から作成するときに、五角形の先
の出っ張り分の

小さな三角山型部分を、考慮に入れずに、横に木簡を切ってゆくような
将棋駒の作成方法が取り得た

と、みられるという事である。彼は特に、その著書の中では、本ブログ
とは異なり、経帙牌については、触れて居無い。つまり、松岡氏言うと
ころの、長方形の最初期将棋駒の、作りかけの木簡がもしあるとすれば、
駒の字と駒の

字の間隔が、三角山部が無い分だけ、詰まっていた

とみられると言う事である。実は、京都からは、そのような作りかけ品
を連想させる木簡は、まだ発見されていない。だが、彼の説によれば、
京都よりも、駒制作では後発なはずの、九州福岡県大宰府条坊遺跡から、
作りかけ駒とも、習字の練習とも考えられる、12世紀(伝来100年
後)の木簡が、既に発見されている。「将(?)桂馬香車歩兵」と書か
れた木簡である。実際に、この木簡を一瞥して判る事は、

上記の三角山部の分だけ、駒名と駒名の間は、離している

と言う事である。桂馬の桂と馬、香車の香と車、歩兵の歩と兵の字の間
には、隙間がほとんど無い。が、互いの駒名の間には、桂馬と香車は、
いっぱいいっぱいに見えるものの、五角形駒とすれば、三角山分の、間
隔がある。つまり、

大宰府では将棋伝来後、約100年で、四角形駒が、ほぼ駒師の意識か
らは、完全に消えていた

と、少なくともこの駒からは、推定できるのではないかと思う。もし
四角形駒の発祥地が、九州大宰府や博多付近なら、

この木簡の、駒名の字と字の間は、その記憶から、詰まって来る可能性
が、結構高いのでは、あるまいか。

 つまり、博多近郊からは、この大宰府の木簡の他、鎌倉時代とみられ
る、博多遺跡の玉将駒等、この地域は出土将棋駒等の遺物が、過去発掘
された事の多い所である。むろん、この程度では、全国平均に近く、突出
しては居無いのだが。だから、この地域から、ひょっとすると、上記木簡より
も古い、出土駒が将来発掘される期待も、あると私は思う。しかし、今
述べた木簡の様子から見て、

この木簡出土物は、博多から長方形駒が将来出土する可能性が、少ない
事を既に示唆

しているのではないか。つまり、九州大宰府の伝来100年程度後の木
簡は、

大宰府に将棋が伝来していた時点で、五角形駒の形は、確定していたと
見られる兆候

を示しているもの、なのではないかと私は思う。だから逆に言うと、

将来京都府から、平安時代の長方形駒が、ある程度まとまって出土する
と、松岡氏の一条帝宮廷サロン将棋発祥説にとっては、相当に有利

になると私は想定する。他の場所からの遺物の出土にも注目したいが、
京都府からの古い遺物の出土には、特に注目したいものである。
(2018/04/09)

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京都一条サロンで作成された木製将棋駒。最初期は長方形だったのか(長さん)

最近、たびたびこのブログで引用した、松岡信行氏の2014年の著作、
「解明:将棋伝来の謎」(大阪商業大学アミューズメント産業研究所)
によると、一条帝宮廷サロンで作成された、最初期の木製将棋駒は、
五角形ではなくて、四角形だったと見ているようである。そして、五角
形に変化した原因は、敵味方を区別するという、機能的な理由とされて
いる。そこで今回は、この松岡説を支持する遺物が、どの程度現実に存
在するのか、出土将棋駒をチェックした結果を紹介したいと、考える。
 簡単に、結果から述べると、

長方形的な駒は全部、近世(江戸時代)のものとされており、4枚程度

ではないかと、私は認識する。なお、五角形の駒で最も古い駒は、言う
までも無く平安時代中期、西暦1058年前後作と見られる、興福寺出
土駒である。ここからは2003年時点で、四角形駒等、五角形駒以外
は、出土して居無い模様である。
 次に、出土物から、松岡初期駒に結びつくとみられる、遺物の抽出
基準を述べる。ずばり四角形の駒は、東京都港区の愛宕下から1枚と、
大阪城下町遺跡から1枚の計2枚と認識される。なお前者は「天童の将
棋駒と、全国遺跡出土駒」には、記載が無い。が前に、本ブログで紹介
した、東京の港区愛宕下遺跡発掘の「裏金将鉄(新字体)将遊戯駒」が、
四角形であるため、ここでは四角形将棋駒としてカウントしている。
 がその他に、四角形の頭の両角を切り落とした形の、

六角形駒も、松岡説の範疇に入るものとして、ここではカウント

した。理由は、敵味方の区別をするためであれば、五角形ではなくて、
四角形の頭の両角を、切り落として六角形にしても、ほぼ同じ機能があ
ると、私は考えるからである。なお、その類の六角形の駒は、東京都港
区の汐留遺跡と、京都府の妙心寺境内金牛院遺跡から1枚づつ、計2枚
出土している。その他に、五角形の駒が崩れて、四角形や六角形かもし
れないものは何枚かあるが、どうもはっきりとはしないので、ここでは
除外した。

すると、古代・中世の長方形駒類は、今の所見つかって居無い

と結論できると、私は考える。
 以上の結果から、表題の論題についての結論を述べる。
今の所、松岡氏の将棋駒の最初期の

形に関する考えを、支持する出土史料は、まだ発見されていない

と、私は認識する。
 そこで、次に出土駒の史料を、どう解釈するか、本ブログの見解(私
見)を以下に述べる。結論を先に言うと、今の所、兆候が全く私には感
じられないのだが、

京都から、興福寺出土駒よりも古い、四角形駒が出土すれば、それは、
松岡氏の、日本の将棋一条帝宮廷サロン生成説にとっては、かなり有利
な材料になるだろう

と推定する。私見だが、今の所の史料の解釈としては、

現実の出土駒の状況は、江戸時代に、都市部だけで別目的の長方形木札
の使用がある程度は”はやり”、その流行に引きづられて、長方形駒等
が、幾らか作られる事があった

でつじつまが合うように、私には見える。ただし、私には、お茶の種類
を当てるゲームや、香の種類を当てるゲーム、あるいは将棋以外の絵双
六等のボードゲームも、都市部では盛んに行われたせいなのか、賭博の
札なのか、何が元だったのか、詳細は良く判らない。逆に言うと、本ブ
ログの言う、九州博多の最初期、五角形駒将棋具は、

後発地の京都では、比較的その通り真似られて、かつ後世まで良く保存
されたと、今の所は、考えざるを得ない状況

なのではないかと、私は思う。こうなってしまったのは、恐らく
(1)唐物の荷揚げ港の文化を真似るのが、長い期間流行だったのと、
(2)五角形の形に、威厳や呪術性(願掛けの成就等)を感じる感性が、
古代から中世の日本人にはあったため、五角形は親しみやすい形であっ
た、ためだろうと私は理解する。
 何れにしても、日本の将棋が、京都を発祥の地としているとするなら
ば、

一条帝宮廷サロン作成の四角形駒を真似た、かなり多数の、平安時代後
期の将棋駒が、京都府近辺から、将来出てくる可能性が有るはずだ

と私は考える。
 なお、松岡氏は、前記の「解明:将棋伝来の謎」に於いて、江戸時代
の古文書、「二見之字羅」(1773年)に、”将棋の駒は、貝の形を
かたどったもの”と書かれているとされる例があると、指摘している。
しかし残念ながら、これは、

最初期の将棋駒として、長方形型の駒が有ったのではなくて、貝型の駒
が含まれていた事を、示唆している

のではないかと、私は思う。すなわち、後一条天皇に与えられたとみら
れる、

金や銀の将棋駒で飾った将棋盤が最も目立つ、将棋用の玩具の歩兵駒が、
現タイ国将棋のポーン駒型と同じ、貝型であったのかもしれない、

と言う、”伝来立体駒が意匠として、タイ国仏塔型”であった可能性を、
むしろ示唆するものなのではないか。伊勢貞丈の「二見之字羅」の記載
は、わが国では朝廷内に於いてだけ、西暦1010年代から1080年
代頃まで存在した可能性が高い、金・銀等の製品である

立体駒将棋具時代のから、五角形駒将棋具時代へ、移行するまでの混乱

を、示唆している記載なのかもしれないと、本ブログでは見ているので
ある。(2018/04/08)

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五角形将棋駒に、行き所ルールの印を付けた出土駒は、全部教育用か(長さん)

本ブログでは、先に述べた通り、日本で最初の五角形駒は、経典の整理
のための札、経帙牌であり、その第1号は、原始平安小将棋のルールの
防忘録のための、メモ用紙の機能を持つ物だったと、推定されている。
つまり、五角形将棋駒の第一号は、将棋具の一要素である、駒ではなく
て、ルールブックに近いものだったという事である。なお、これが遊具
としての将棋駒に、思考の上で進化するのに必要な時間は、私の推定で
は、唐物・金銀装飾品・珍鳥・経典等を主な物とする輸入品の、日本側
検査担当者の求めに応じて開かれたとみられる、北宋商人による説明会
の中の、”金銀装飾玩具将棋具のルール説明のセクション”が終了した
瞬間から、発明者の僧侶の本来業務である、輸入経文の整理・処理業務
が完了し、発明者の寺に、寺で写経等の作業をする分の、経文の束を持っ
て、寺にたどり着くまでの、2時間ないし、数時間程度の後であっただ
ろうと考えている。つまり、

経帙牌が道具としての将棋駒になる前に、ルールの忘備録であったと
言う状態が、最大数時間位は、あったという事である。

 他方増川宏一氏は、著書、ものと人間の文化史、将棋Ⅰ(1977年)
で、出土将棋駒等に、その駒の動かし方ルールの、記号をつけたものが
有る事を指摘している。一番有名なのは、そこに書かれているように、
戦国時代、一乗谷朝倉氏遺跡の、裏龍馬角行駒であろう。増川氏は、こ
のような遺物を、教育用と特定し、他に、江戸時代の中将棋の駒を描い
た小謡本の、中将棋駒の絵、近代のドイツの遊戯書に書かれた、日本将
棋の「蛸島女流対石橋女流の解説図」等を例として挙げている。つまり、
少なくとも、増川氏は、

一乗谷朝倉氏遺跡のような、行き所記号の有る裏龍馬角行駒は、単純な
書駒より派生した、教育用のより新しい時代に発生したものである

と、ほぼ断定していると言う事である。これは、冒頭のべた、

経帙牌メモ用紙としての使用説とは、基本的に時間的順序が逆であって、
合致していない。

そこで、今回の論題は、どちらが正しいのか、何らかの方法で推定でき
るかどうかを、論題としてみた。回答を書くと、
今の所、行き所記号のある出土駒は全部、教育用に記号をつけた物であ
るという説を、はっきりと否定する材料は、発見されていない。ただし、
100%全部そうである事を、証明する事も困難なので、

全部が教育のために、後世成立したものであるという先入観を、持たな
いほうが良い

と、私は考える。
 そこで、まずは事実認識から始める。そもそも、将棋駒第一号と、本
ブログが目している、九州博多付近から”いろいろ将棋のルールの書き
込みのある、西暦1015製の経帙牌”は、2018年の3月末時点で
は、発見されていない。最も古い五角形の将棋駒は、西暦1058年の
興福寺出土駒である。だが、行き所の記号があるかどうかまでは、はっ
きりとは判らない。
 その後、中尊寺付近の平泉町の遺跡や、京都府等の近畿圏、博多付近
には、比較的古い時代の出土駒や、遺物が出土した記録がある。それら
でも、ルール記号は、はっきりとは確認できない。
 行き所ルール記号の有る出土駒で、最も古いものは、鎌倉時代とみら
れる。すなわち鎌倉の鶴岡八幡宮境内から発掘された、何らかの大将棋
系の駒であると疑われている、裏奔王鳳凰駒の、鳳凰側に付けられた、
白い打点が、それだとするものである。
 ついで増川氏が紹介した、戦国時代、一乗谷朝倉氏遺跡の裏龍馬角行
の、両面走り線記号駒や、長野県塩田城遺跡の同じく裏龍馬角行の、
両面走り線記号駒、兵庫県姫路市の御着城遺跡の裏飛鷲(?)龍王駒の
表面龍王部分の走り線、斜め打点記号駒の3例が続く。
 最後に、江戸時代には、仙台城本丸遺跡から八方打点付きの玉将駒が
出土している。
 少なくとも、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」(2003年)から
の情報を頼りにすると、出土駒の状況は、以上のようである。
 以上の結果から、次のように考えられるのではないか。確かに、初期
の時代の出土駒には、行き所記号が、はっきり書かれている例が、まだ、
見当たらない。だが、大将棋、中将棋の駒は、出土例が稀であるにもか
かわらず、ルール記号を付けた駒の例が、2例もある。よってこの事か
ら、より使用頻度が低い駒種には、初心者ではなくても忘れないように、
駒の行き所ルールを付けるケースが、多かったと疑われても、否定しに
くい状況なのではないかと、言う事であろう。それは、

将棋駒であるはずの五角形木片を、忘備録メモとして使っている事を、
一応は疑わせる

と思う。残念ながら、平安小将棋については、駒種数が少なかったので、
忘れにくいのであり、一旦、ボードゲームの駒として用途が固定される
と、ルールブックとして、記号をつける習慣は、短期間に消えたのであ
ろう。しかし、初心者で無くても、覚える事柄の多い、大将棋系では、

五角形の将棋駒の第一号は、ボードゲームの駒としてではなくて、メモ
用紙代わりに使うものであったという記憶が、ある程度の期間は残って
いた

事を、打点等の書き込み行為の正当性の根拠に、しているのかもしれな
いと疑われる。従って、確かに日本将棋の初期の駒らしい、一乗谷朝
倉氏遺跡の駒や、日本将棋が、既に充分に盛んだった、江戸時代の仙台
城玉将駒の記号は、教育用で間違い無さそうであるから、

教育用の、行き所ルールを書いた五角形駒は、意外に多く出土している

と表現しても良いと、私も見る。しかしながら、もともと複雑なルール
を覚える事自体に慣れている、ベテラン棋士用のはずの、大将棋や中将
棋の駒に、まるで入門者や初心者に、使わせるためのような、駒の動か
し方の、ルール記号の有る駒の出土割合が、若干だが高い事から、

冒頭に述べたように、日本の五角形駒には、ルールブックとしての、
最初期の将棋駒の歴史が、隠れている可能性も、完全には否定出来ない

のではないかと私は疑う。従って、駒の行き方記号の書かれた出土駒を
見て、

100%、初心者用の教育・普及用の記号であると、決め付けるまでに、
思考パターンを定型化させるのは、歴史解明作業にとってはかなり危険

な事なのではないかと、私は以上の出土駒の状況から、一応は疑ってい
るという事なのである。(2018/04/07)

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王将~桂馬が同じで成ルール・香車が違うゲームの日本の将棋との差(長さん)

前回、駒が相手陣の3段目で金将に成るという、中盤以降金塊を盤に飾っ
て楽しむ、原始平安小将棋の性質だけが無く、その他がほぼ、平安小将棋
の、仮説11世紀のアンコール王国の象棋を紹介した。その場合、確かに
中盤、盤面に成りの金が出来ないと言う点では、平安小将棋とは違うの
だろうが、王将、金将、銀将、桂馬が、元の駒としては、全くルールが
同じで成らないだけであり、歩兵は、相手の駒を取るときには、斜め前
に進むにしても、その他の動きは、日本将棋と同じなわけであるから、
全体の雰囲気に、日本将棋らしさが、少しは有るのではないかと疑い、
その点に私は興味が有ったので、実際に3局程度、指してみた。ちなみ
に、再度掲載すると、この将棋は、以下のようなルールである。
 初期配列は、8×8升目象棋であって、1・2段目だけに駒を並べ、

二段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
一段目:飛車桂馬銀将王将金将銀将桂馬飛車

とする。
 次に成りは、つぎのようになる。

二段目:飛車桂馬銀将金将不成銀将桂馬飛車
一段目:不成不成不成不成不成不成不成不成

ただし、成りの条件が、日本の将棋と全く異なる。すなわち歩兵だけが、
相手陣の最奥で、其処に居る、相手の駒に成る。駒を取った時斜めに進む
ので、上の成りの図は、厳密には正しくないが、平均的なケースが、書い
てある。なおこれは、インドの10世紀頃の、四人制時代の二人制チャト
ランガの成り方と、同じルールである。
 なお前回と異なり、ルールを間違えそうなため、香車は飛車で表記した。
 実際に差してみると、

イスラムシャトランジの地方変種そのものであって、日本の8升目型平安
小将棋の香りは、全くしないゲームである。

 金将や銀将が、確かに存在するのに、日本の将棋の懐かしさは、まるで
感じられない。駒が成らず、本来の香車の位置に、

飛車が居るというだけで、こんなに違う物かと、驚かされるほど

である。すなわち、金将や銀将等が有ると、最大限好意的に11世紀のカ
ンボジアのゲームを仮定しても、それは、

飛車が2枚あるし、成り金は余り出来ないので、イスラムシャトランジの
類と結論できる。

 指していて、この玉・金・銀・桂馬のそっくりさんゲームは、カンボジ
アから、日本にたまたま10世紀中頃に漂着した、船乗りに実際に指され
ていて、彼の道具箱が将棋盤、桂馬以外が仏塔のような立体駒が駒のゲー
ムが、本当に有ったのではないかとの、空想を描きたてた。日本の港に、
彼が漂着するとそこで、誘われて指した、港の日本人が、本当にいたので
はないかと、私には思えてきたのである。その日本人は以前、中国五代~
北宋の交易商人等から、イスラムシャトランジを、教わった事が有ったの
かもしれない。が、車で、終盤に王を追い掛け回すだけのゲームであった
ため、「興味が無いのだが」と言ってみた。しかし今度は、イスラム帝国
のゲームではなくて、アンコール王国のゲームだと、カンボジアから来た
船乗りが言うので、付き合って指したみた。だが、やはり車で、終盤に王
を追い掛け回すだけの、ゲームである事には、変わりが無かった。
 そのため象棋というものは、皆こういうものかと、その日本人は考える
ようになり、その後二度と、将棋というものを指す事はなかった。つまり
本当に、そう言う事があったのではないかと思えるほど、この主に香車だ
け違う、日本将棋の駒を大部分使うゲームは、実際に、イスラムシャトラ
ンジが、最も近いゲームになっているのである。(2018/04/06)

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本ブログ”日本の将棋が東南アジア伝来では無い”と言う根拠(長さん)

本ブログでは、将棋の伝来元は、現在の中華人民共和国の雲南省に、北宋
の時代に存在した、大理国と、繰り返し主張している。大理国の将棋は、
伝来時点では、8升目型の平安小将棋と同じルールで、立体宝玉駒を使う
ものである。そこには日本将棋の特徴である、(1)歩兵が三段目に配列
されて、相手陣のそこで、少なくとも歩兵は、副官である金将へ成る(大
理の将棋では、日本の将棋そのものであるから、玉と金以外が皆金へ成る。)、
(2)銀将の動きが、東南アジアと、現代用語のインド・ャトランガの象
と一緒で、斜めと前の升目、計5方向へ歩みである、との東南アジア系ルー
ルの特徴を持っていると、している。
 ちなみに(1)は、タイとカンボジアの象棋では、この通りであるが、
他の東南アジア各国の象棋では、その通りではない。しかし(2)につ
いては、インドと東南アジア各国で概ね、現在このルールであると、
私は聞いている。では、以上の事から、日本の将棋が大理国伝来である
という、主張は判ったが、

タイまたは、カンボジア伝来ではないという根拠は何んなのであろうか。

 そこで、何時ものように答えから書く。
タイおよびカンボジアの象棋では、日本の8升目原始平安小将棋に近い
形に進化していたとしても、最良のモデルを採用した場合でも、上の
(1)の3段目で、ほぼ

全ての駒が金将に成るルールに、11世紀にはなっていなかった。

そのため、特に歩兵起源の金将が、多数出来ないので、大宰府の、やん
ごとなき武者が喜んで指すとの、流行の動機を持ち得なかったからだ
と、私は推定する。なお当時、タイはタイ人が大理国に居た為、存在し
なかった。だから、そもそもタイのマークルックが、日本の将棋の起源
とは、最初から本ブログでは考えて居無い。それに対して、増川宏一氏
が過去示唆したカンボジアに、11世紀のアンコール時代の王朝(仮に
アンコール王国とする)があったので、そこで指された象棋は、日本に
やって来た可能性があると見る。そこで、そこで指された象棋を、最も
日本の原始平安小将棋に、移行しやすいような、最良の形で推定したと
して、次のようなルールだったとみられる。
 まず、初期配列であるが、8×8升目象棋であって、

二段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
一段目:香車桂馬銀将王将金将銀将桂馬香車

となる。
すなわち駒名も、日本に着いたら、今の日本の将棋と全く同じに呼ばれ
ると、好意的に仮定した。
 次に成りであってこれが問題である。日本将棋と違って、歩兵だけが、
相手陣の最奥で、其処に居る、相手の駒に成るはずである。つまり、当
時のインドの、四人制時代の二人制チャトランガと、同じルールである。

二段目:香車桂馬銀将金将不成銀将桂馬香車
一段目:不成不成不成不成不成不成不成不成

 以上のように、カンボジア・アンコール王国の11世紀の象棋の推定
モデルで、最も日本の原始平安小将棋に近い、バージョンでは、
成り歩兵用に金将1~2枚と、銀将2~4枚の立体黄金駒を、推定北宋
交易商人、周文裔は、大理国ルールのケースと違って、用意するだけに
なっていたとみる。そのため、

将棋の道具の、金や銀の着飾りが地味すぎて、日本では流行るきっかけ
にならない

と、私は推定するので、アンコール王国起源ではないと考えるのである。
 以下、もっと詳細な説明に入るが、まずは上記、カンボジアのアンコー
ル王国推定11世紀の象棋(最も日本の将棋に近い例)の、詳細ルールを
少し説明する。
 元駒で王将は、たとえば少し大型の、金の塊で作成した、立体駒であっ
たために、日本に来ると王将と呼ばれただろうと、仮定する。その動き
は、玉将、働きも玉駒で同じである。ネフライトが、カンボジアでも珍
重されているかどうか謎なため、玉将から王将に、仮に名前を変えている。
 金将は、現地では参謀と呼ばれていたのかもしれないが、立体駒の材質
から、この名称になったと考えよう。ルールは金将の動きで、金将と同じ
と、好意的に仮定する。
 銀将は、現地では単に将と呼ばれていたが、やはり伝来駒の材質で、こ
の名称になったと考える。仏塔の形を考えると、実際に近いかもしれない。
この駒は、伝来の少し前に角行の動きだったが、大理国から銀将が伝来する
と同時に、銀将の動きに、東南アジア全体で変化したと、推定される。
 桂馬は馬の形であって、ルールは、この時代のチャトランガといっしょ
で、八方桂ではなくて、桂馬の動きであった。
 問題は香車である。本ブログの推定では、カンボジアの象が将に変化し
て、銀将の動きになると同時に、

香車は香車の動きから、飛車の動きに変わると考える。

つまり、走りが強くなって、象の代わりになったと考えられるのである。
この変動はカンボジアだけでなく、インドを含めて、東南アジアの全体で
起きたと、本ブログでは推定する。もともとこのルールに変えたのは、恐
らくインドで、その本拠地のインドが、イスラム文化の影響で、シャトラ
ンジのルールが進入し、象が銀将動きになった替わりに、ここでの香車が、
いわゆる、イスラムシャトランジの車の動きに変わって、攻めのバランス
を取ったと、考えられるのである。すなわち、推定される最良のルールの
ケースでも、

歩兵は、今度は香車に喰われて、大宰府の武者が望んでいるように、と金
が、余りできなくなる

と、考えられる。
 また、歩兵も多少問題がある。この歩兵は、前に一歩の動きであるため
日本に来ると、兵は歩兵と呼ばれたと考えるのは自然だが、相手駒を取る
と、斜めに進んだとみられる。これを日本の将棋にするには、日本で、前
の駒を取るように、変える必要がある。また、上で示した、王将以外の相
手陣の、初期位置に居る駒で成る成りのうち、桂馬に成るものは、行き詰
まりになる。そのため成りで発生する桂馬は、身動き取れない駒として、
残るものとみられる。いわゆる、四人制チャトランガルールの、”ガーター”
のケースである。
 以上のように、歩兵の成りのルールの違いと、香車が飛車動きで強いた
めに、この、東南アジアの当時の象棋文化の代表国、カンボジアのアンコー
ル王国から来た象棋には、

大理国のと金のたくさんできる将棋と違って、流行る要因が無い

事になるだろうとみられる。よって、中国北宋交易商人の周文裔は、

大理国の象棋は持参しても、同じく初期配列には金・銀で飾りは有るもの
の、中盤の盤上の駒に成り金が少なく、中盤の盤上の内容が地味な、東南
アジアの王侯貴族象棋は、海路で運ばない

と、私は推定するのである。
 そこで次に、カンボジアの象棋が、そのような流行しないゲームに進化
すると推定される、歴史的な原因についての、本ブログの見解を説明する。
 結論を先に言うと、冒頭で述べた(1)の歩兵が三段目に配列されて、
相手陣のそこで、少なくとも歩兵は成るというルールは、中国の雲南で
発生したとしか、現在のこのルールを取る地域の分布からみて、考えられ
ないのである。これも事実として、既に冒頭で述べたが、この分布は、

タイとカンボジアに限定されていて、13世紀のモンゴル帝国の時代に、
大理国から、タイ民族がインドシナへ拡散した領域と同じである。

つまり、他の地域で9~10世紀に、このルールが発生してしまうと、跡
としての分布が、この形にならないはずだという事である。その点、
松岡信行氏が「解明:将棋伝来の謎」で述べられている、「これだけでは、

伝来の謎を解く、情報になりにくい」との主旨の内容の記載に、私は反対

だ。逆にたいへんに重要な情報であると、私は考えている。冒頭の特徴
(2)の、象駒を銀将の動きに、インドでもしているという情報と、
”いっしょ”ではないと、私は見るのである。なおいっしょにならなかっ
たのは、

(1)を取り入れると、玉駒を詰ませるという、象棋・チェスゲーム本来
の姿からはズレてくるので、南詔国~大理国の周りの国が、誰も10世紀
ころまでには真似なかったため

である。従って、将棋具の副官金駒等が、立体金塊等で無い場所で、この
ようなゲームに移行する、視覚的な動機づけが無いという、性質をも持っ
ていると私は見る。
 よってこの事から、

タイ人が、まだ移動していなかった、現在のインドシナのタイとカンボジ
アには、歩兵が三段目に配列されて、相手陣のそこで、少なくとも歩兵は
成るというルールは存在せず、11世紀には、歩兵列は2段目で、成りの
ルールは、当時のインドチャトランガと同じだったはずだと、考えるのが
妥当

と、私は見るのである。
 なお、冒頭で紹介した仮説的な将棋から、日本の原始平安小将棋へは、
今述べた、視覚的動機の欠落から見て

10年20年程度の短期間に、日本では移行できない

と、私は見る。よって、カンボジア等、東南アジアの、11世紀初頭当時
の将棋が来ていたとすれば、

不成りの駒が、興福寺から大量に発見されるはずである。しかし、実際に
はそうで無い

から、日本の将棋は、11世紀のカンボジア、アンコール王国等、東南
アジア起源とは、考えにくいと私は思う。
 さて、先行研究の紹介が最後になってしまい、誠に心苦しいが、日本の
将棋が東南アジア起源ではない証拠として、前述の「解明:将棋伝来の謎」
で松岡信行氏は、
(1)その国の将棋だけを伝来させるほど、東南アジアには、文化の進ん
だ、模倣すべき強国が無い事。
(2)途中に、日本の将棋の伝来の足跡となる、副伝来地を発生させて居
無い事
を、根拠として挙げている。しかしながら、この2つの指摘は、

何れも、証拠になるのかどうか、怪しいものなのではないか

と、私は疑っている。なぜなら
(1)については、その伝来小国の伝来品の将棋具が黄金であって、それ
に強い棋士になれば、その黄金が自在に扱えるような、ご身分になるとい
う、金銭的欲求が満たされるという、欲望が満足される場合は、強国の文
化を取り入れる事によって、科学技術文明の担い手として社会的に評価さ
れ、出世して良い身分の人生が送れるという、きれいな立身出世ではなく
ても、曼殊院出土の「将棋馬写」記載の”邪”の心だが、金持ちになって、
良い思いが出来るという欲望を、とりあえず満たす起点として、国の
存在が、やっと確認できる程度の小国伝来のゲームが、流行るという事も、
充分に考えられる事。
(2)については、増川宏一氏が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」で示唆
したように、中国の交易商人が、途中に何処でも停泊せず、まっすぐ将棋
具を運べば、情報が漏れずに、日本だけで流行ると考えられる
ためである。
 以上のように私は、東南アジアから日本の将棋が伝来しなかったのは、

ゲームの中盤、盤上に銀ないし金塊を陳列して楽むという嗜好を、発明し
たのが東南アジアではなくて、インドシナより北にあった、今の中国の
雲南省の、南詔国~大理国の貴族棋士であったため

と、今の所は推定しているのである。(2018/04/05)

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宝応将棋や原始平安小将棋は、中国シャンチーの成立に無影響(長さん)

本ブログの、日本の将棋、中国南部伝来説の根幹は、日本の将棋ではな
くて、実は、中国の将棋の性格に関する認識が重要とみる。具体的には、
中国シャンチーの成立に必要な、既成のゲームが、イスラムシャトラン
ジただ一種であって

宝応将棋や原始平安小将棋は、中国シャンチー成立には無影響であると、
仮定している

所にある。つまり、宝応将棋や、原始平安小将棋は、中国シャンチーの
形成原材料ではないのだから、特に後者すなわち、

原始平安小将棋が、中華人民共和国内で、11世紀末までには指されて
いても、その内容は、中国シャンチーとは全く似て居無い、日本で最も
初期に指された日本の将棋と、全く同じゲームであって特に問題は無い

という認識から、出発しているのである。つまり、宝応将棋や原始平安
小将棋は、どちらも中華人民共和国内で、11世紀末以前に指されてい
ても、12世紀初めに成立した、中国シャンチーの材料には、全くなら
なくてよい、と見ていると言う事である。
 では以下に以上の論を、もう少し詳しく解説する。
 そもそも少なくとも、中国シャンチーの成立前の、既成ゲームとして、
中国国内(本ブログの推定では、北宋の首都開封付近)には、イスラム
シャトランジが有ったとする認識は、現在の中国のゲーム史研究家には、
自明であると、考えられているのであろうと、私は見る。根拠としては、
李松福著「象棋史話」に、”中国の象棋は、唐代には(具体的ゲーム名
を挙げて)チェスのように、形で駒を表現していた”と記載されている
点が、挙げられる。これは、イスラムシャトランジから、中国シャンチー
が分かれて出来た事を、”宝応将棋”という意味に解釈できる語句を、
文中に挿入したとしても、半ば認めているようなものである。すなわち、
これと唐代には、アラブ・イスラム教徒が、大食人として一定数、国内
に居住していたとの、中国史の常識と組み合わせると、中国の象棋のゲー
ム内容が、イスラムシャトランジを知った上で、形成されたものである
と、中国のゲーム史家が現在見ていると、前記書籍の内容を読み取るの
は、ごく自然であると、私には考えられる。
 なお、今回の論旨からは少し外れるので、「象棋史話」の解説のため
の蛇足だが、指摘のチェス型の立体駒(たまたま鉱山地帯なため、実は
ネフライトと純金と銀)が、中国シャンチーの成立時点で、それとは無
関係に、カマボコ型駒とは別に、まだ残っていたとしても、それも一向
に構わない事だと、本ブログでは見ている。つまり、円筒形への変化は、
首都開封付近の方が、地方よりもずっと早かったと言う事である。
 そこで更に、本ブログの見解の特色は、

具体的に、中国シャンチーを作るには、イスラムシャトランジを知った
上で、炮という、跳び越え駒を、ゲームの中に取り入れようとする努力
以外に、必要な原材料が、実質的に存在しない

と、認識している点にある。必要なのは、以上の駒種メンバーだけを
使って、塞馬脚や塞象眼、王不見王等、駒の行きや一部ルールの制限と
変更、兵で駒を取った際の、斜め動きを、成りで擬制する等の細則を加
えた上で、そもそも盤路を、8×8ではなくて、どうするのか、その上
で、材料をいくつ、どう配置するかという点を実質的解決すべき課題と
する、ルール整備の問題に、集約されるとするのである。個人的には、
このルール集約の難易度が、炮を要素に加えるという条件では、元駒と
して

駒の格とか、升目数の制限の無い、大きな動きの跳び越え駒を、駒要素
として加えるという、ゲームのデザイン方針が、チェス・象棋系ボード
ゲームとしては、常識はずれだったために、桁外れに難しくなった

と考えている。私なら、こんな

開発の失敗のリスクの大きなゲームのデザインは、最初からしない

と明言しても良い。ただし、開発担当者は、以上の開発テーマに集中し
さえすれば、それで良く、

当時雲南に存在した、日本の将棋と同じゲームの事など、開発の途中に
全く考えなくても良かったはずだ

と、私は断定する。従って、日本に伝来する中国の将棋が、シャンチー
の先祖では、全く無いのだから、それは、シャンチーとは似ても似つか
ない、

何々将という名称の、2文字で呼ぶしか、表現しようの無い駒が、3種
類も存在する、世界に類の無いゲームであって、なんら差支えが無い

と私は考えるのである。むしろ、象/相が、イスラムシャトランジの象
ではなくて、イスラムシャトランジの車の動きだったり、車が飛車では
なくて、香車の動きだったりする宝応将棋や、象が一匹だったり、角行
の動きだったり、馬が桂馬の動きだったり、歩兵が相手の陣の歩兵段で
成ったりする原始平安小将棋(大理国・含象駒型)の事を、開発の段階
で考える事は、

シャンチーの開発担当者にとっては、思考の集中にとって、邪魔以外の
何者でもなかった

はずだとさえ、私には思えるのである。
 他方、従来の日本の将棋の中国伝来説は、シャンチーの起源を、イス
ラムシャトランジ一本と、言い切る事ができ無かった。そのために、
宝応将棋→日本伝来将棋→中国シャンチーと、暗黙の内に進化を一本線
で並べてしまい、いたずらに、中国シャンチーへも移行可能な、原始的
な将棋を、日本への伝来将棋と仮定しなければ、ならなくなってしまっ
たのである。そのため、”日本での進化の時間が、それでは足りない”
と、私に言わせると批判の側はみなして、単に議論を、複雑化させてい
ただけなのではないかと、私には疑われるという事である。(2018/04/04)

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カンボジアの9路→8升目象棋進化は、なぜ起こったのか(長さん)

前回と同じく、松岡信行著「解明:将棋伝来の謎」(2014)には、
東南アジアを含む、外国の将棋類のゲームの紹介がある。内容は、
世界の将棋の著者、梅林勲氏の研究にも、拠る所が多いようである。
 その中で、類書に重要な論点の記載が、余り見当たらない国のゲー
ムとして、増川宏一氏が、かつて将棋Ⅰで、”日本の将棋、伝来の元
地ではないか”と示唆していた、カンボジアの象棋がある。現行は、
オークシャトランジと言うそうであるが、古くは、シャッツロンと
言ったとの事である。
 問題は、このゲームが日本の平安小将棋同様、本ブログ言う、

8升目型と9升目型との間で、進化した記録がある

という点である。なお、少なくとも現在のカンボジア将棋の馬、車駒
は、マークルックと同じく、八方桂、飛車型なので、9路型の古形も、

旦代の難点は、9升目の標準平安小将棋とは異なり、回避されている

と、みられる。なお、副官駒の動きを、金将から猫叉に変えても、
旦代の難点は、無くならないと、私は認識する。歩兵をポーンにして
も、概ねだめなはずである。なお歩兵列を、9路型シャッツインのよ
うに、平安小将棋の3段目とは違って、4段目にしても、行き詰まる
までの手数が、短くなるだけであると、私は考える。そこで、今回の
論題は、このカンボジアのシャッツロンが、

旦代の難点が生じない筈のに、9升目標準型平安小将棋タイプから、
本ブログの言う、8升目原始平安小将棋型へ、逆戻り進化をしたのは
何故か

という内容にしてみた。回答を、いつものように初めに書くと、
元王朝が東南アジアに席巻したときに、カンボジアには、こっそりと
反中国的な思想が広がった。そのため、八方桂馬と飛車型だった、
シャッツロンの馬、車駒は、

一旦、当時のカンボジアのアンコール王朝には”同胞”と見られてい
た、大理国の桂馬と香車動きのルールに、元王朝文化への同化や属化
を嫌って移された。

その結果、本来シャッツロンには、生じないはずであった旦代の難点
が、9路置きシャッツロンでも発生してしまって、8升目へ変えざる
を得なくなったのではないかと、本ブログでは推定する。ようするに、

旦代の難点が発生すると、9升目の標準型の平安小将棋を指すのは止
めて、8升目の原始型の平安小将棋を指そうとするのは、誰でも同じ

なのではないかと、私が言いたいわけである。

少なくとも私は、カンボジアのシャッツロンの進化の写真を見せられ
て、ただちに連想するのが、旦代の難点である事だけは、確かだ。

恐らく、後鳥羽上皇の時代(鎌倉時代前期)に、9升目型の標準的平
安小将棋を指すのは、皇族の見ている前だけで、裏では8升目型を指
しているといった事は、日本でも、実際にも有った事を、外国の将棋
の進化が、半ば証明している、という事ではないのだろうか。
 少なくともカンボジアの9路象棋が、日本の9升目平安小将棋と同
じく、中国古代官製の、左右対称から来た、12世紀の頃の物である
事は明らかだろう。むろん、12世紀の時点に、カンボジアの象棋で、
馬が八方桂で、車が飛車である事は、シャンチーに左右対称について、
合わせた事の継続と考えれば、自然であろう。
 次いで、カンボジアの当時の王朝であるアンコール王国が、13世
紀にモンゴル帝国が、東南アジアへ進行してきたにも係わらず、表向
き、降伏と恭順の意を表明して、なんとか、征服は免れた事は史実で
ある。しかし、降伏と恭順は、中国側への表向きの態度であって、実
体は元王朝の一部になる事を、少なくとも精神的には免れるために、
カンボジアのシャッツロン(オークシャトランジ)の

象棋の馬・車ルールを、少なくともアンコール王国の宮廷では、イス
ラムシャトランジと同じ形の、中国シャンチーから、日本の将棋型(
大理国の王宮将棋型と同じと推定)に、少なくとも一時的には変えた
としても、余り不思議ではない

のではないか。その結果、日本の9升目の平安小将棋のごとくに、旦
代の難点が発生して、ゲームとして成立しなくなってしまった。そこ
で、マークルックのような、8升目型に直した。以上のような事が有
ったのではないかと、私には思える。なお元が滅んで明王朝の時代に
なると、明が、東南アジアの独立を支持した事から、中国との友好関
係は戻り、恐らく馬と車は、桂馬と香車の動きから、元の八方桂と飛
車の動きに、戻ったのであろう。しかし、その頃になると、タイの王
朝が勢力を増し、マークルックの影響が拡大し、元の9路型には、
戻すことは出来なかった。その結果、現在のカンボジアのシャッツロ
ン(オークシャトランジ)に、なっていったのかもしれないと、私に
は今の所想象される。(2018/04/03)

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将棋で”将碁”という表現を使うのは、藤原姓の人間の特徴か(長さん)

大阪商業大学アミューズメント産業所編、松岡信行著「解明:将棋伝来
の謎」(2014年)に、”古文書で将棋を『将碁』と表現するのは、
古い表現”との旨の記載と、一覧表が載っている。ここでは、その一覧
表の著者名という項目に着目し、現代において、「藤原」が、その人物
の、苗字であるかのように呼ばれる人物は、”将碁”という字を使うと
仮定し、その原因を考えてみる。なお、表によると、60余り挙げられ
た著作物に関して、”将碁”を使う、苗字的人名の藤原氏としては、
藤原行成、藤原明衡、藤原頼長、藤原定家の4名だけが挙がっている。
また逆に、表で藤原と書かれていて、他の字を使う人物名が載ってない。
逆に、藤原以外が「苗字」なのに、『将碁』を使う例外として、
当世武蔵野俗談の馬場文耕が、『将碁』を使っていると、いう事である。
言い忘れたが、現代人は碁を、囲碁の碁として使う。将棋の駒で、特に
玉将が、木の板ではなくて、もともと石系であった事を連想させる、
言わば、「藤原さんの仲間内漢字」のようにも、私には見えるものであ
る。なお表のこの見方は、本ブログの独自印象読みであり、著作者の
松岡信行氏は、”藤原”には特に着目しておらず、”麒麟抄の元本が、
平安時代11世紀である根拠”であるとしている。すなわち本ブログで
は、表のうち、

西暦1129年の長秋記の源姓、源師時の将棋表現が、”将碁”には
なっておらず、”将棊”になっている点を、重大視している為

松岡氏とは、松岡表の見方の切り口を、変えているという事である。
 そこでまずは、本ブログ流の認識で行くとして、”将碁”という表現
が、平安時代から鎌倉時代にかけての、藤原姓・貴族言葉であったか
どうかについて、見解を述べる。答えは、

有り得る(yes.)と私は見る。

ただし、ローカル表現だったので、社会の趨勢に押されて、後代の藤原
氏も、使用しなくなったと同時に私は見る。安土桃山時代になると、
水無瀬兼成も、将棋を”将碁”とは書かなくなっている。また、二中歴
の大将棋の将棋が”将棊”なので、

藤原定家の時代に既に、大将棋を載せて居る事から見て”藤原びいき”
と私には疑われる、二中歴の三善為康ですら、方言としての”将碁”
の字は、使わなくなっていた

ようである。
 なお前に本ブログで紹介した、台記(”古事類苑”抜粋)と、「解明:
将棋伝来の謎」に写真で載っている”台記”の将棋の字は、合って居無
いことが判った。
 そこで台記の大将棋が、二中歴大将棋であるという根拠は、よって

こんなおかしなゲームを記載しているのだから、三善為康らは藤原頼長
を尊敬していて、同じ将棋を紹介したに違いない

とするより、今の所はっきりとした理由を指摘できなくなってしまった。
残念な事である。
 またこのように、平安時代以降の藤原姓の貴族以外、余り正字として、
使用した形跡の無い”将碁”という字だが、増川宏一氏が、著書”、
ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」”で、中将棋の初出文献として著名な、

南北朝時代の遊学往来の、系列本の一つと見られる、新撰遊学往来に、
”将碁”の文字が使われている

と、”凡例”の所で紹介している。ただし、岡野伸氏の自費出版書の、
「中将棋の記録」(2004年)の、”遊学往来”の写真の”大将棋、
中将棋”は、”棊”となっていて、増川氏の著書と話が有って居無い。
 以上の事実を総合すると、平安時代に将棋が”将碁”と、藤原姓の貴
族は、ローカル表現していたという、事情と情報が、南北朝時代頃まで
は、残っていたのではないかと、疑える事だけは確かであろう。つまり
本人に、なりすまそうと、努力している

麒麟抄の偽藤原行成が、”藤原行成なら将棋は『将碁』と書く”という
事実と、原因となる事情に関する情報を、南北朝時代には知っていた

事だけは確かなのではないかと、私は想像している。本ブログの見解で
は、ようするに、8升目型の原始平安小将棋から、9升目の標準平安小
将棋が院政派によって作られたときに、それを不服に思っていた藤原摂
関派は、独自に、平安大将棋という、藤原将”碁”文化を、平安時代後
期に作っていたという意味であろう。そもそも、8升目型の原始平安小
将棋が伝来したのも、もとはと言えば、三条天皇の住居が火災で焼けた
ので、金・銀の装飾品を北宋交易商人の周文裔らに依頼した、当時の首
領、藤原道長の行為が発端でもあったと、少なくとも本ブログは、みな
している。以上のように、将棋史において藤原氏自身が、藤原一族を、
その中心的存在と位置づけ、その象徴として「我々藤原一族は、将棋は
”将碁”と書く」と、一族内ではそれで通じる、ローカル用語を示して
見せたのが、すなわち、”将碁”という、書き方表現だったに違いない。
そして日本の

南北朝時代には、一例として上記のような、”日本の将棋前史”がまだ、
誰にでも思い出せる状態

だったのだろうという、これは根拠の一つではないかと私には疑われる。
(2018/04/02)

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