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大将棋は鎌倉時代以降なぜ発展し得たのか(長さん)

 増川宏一氏の研究等によると、10行以上ないし、
10列以上の升目多数盤の将棋・チェス類ゲームは、
世界中にあり、一地域で複数のゲームの記録が残る
ケースもあるという。
 しかしながら、平安時代の西暦1100年ころに
13行および13列の平安大将棋が発生し、それか
ら850年後の西暦1950年以降まで、形は変遷
しながら、9行および9列81升目を超える、中将
棋ないし、それより盤升目多数将棋の形で、大判将
棋が切れ目無く存在した例は、わが国以外に、余り
例が無いようである。
 その最初期の大判将棋である、平安大将棋は、少
なくとも1100年より100年後の西暦1200
年まで、藤原氏には良く指されていた。2つの日記
のほか、奥州藤原氏の住居跡のある、平泉の駅近く
の遺跡にて、両面飛龍駒が一枚、発見されている。
日記類から推定して、この将棋は京都で最も良く指
されていたとも考えられるが、道具としての将棋駒
は、都から遠く離れた岩手県だけに出土している。
将棋の駒は木製のため腐りやすく、時代が遡るほど
発見されにくくなり、一例だけでははっきりしない
と考えられる。がひょっとすると、都から下った公
家の持ち物は、田舎の民衆に珍しがられ、その公家
が亡くなった後、長い時代にわたって、その公家の
人となりの記録として、繰り返し記録に基づく複製
が行われる傾向が、有ったからなのかもしれない。
なお、前記両面飛龍駒は草書体で駒名が表され、そ
の字は即興で書かれたようであり、庶民から高貴な
者への、後世の供え物のような印象も受ける。
 さて冒頭で述べたように、日本以外では、初期に
大判将棋が発生しても、小型の盤の将棋がより多数
局指されてゲームとしてルールが改善されと、やが
て大判の方が淘汰されて、小さい方が発展していっ
た。たとえば副官と象駒が走りの大駒に改善されて
チェス等になったり、走り駒として砲を更に加え、
玉に当たる駒の動く範囲を九宮に制限して、シャン
チーやチャンギに発展する、といった具合である。
 ところが日本の場合、平安大将棋と同じく、大将
棋と言われる将棋が、別のルールに改善されながら
より下った時代に存在する事からもわかるように、
平安小将棋の改善の立ち上がりが、かなり遅かった。
その原因について私は、

8×8升目制の平安小将棋が、日本将棋から飛車角
を除いた形の9×9升目の平安小将棋より先行して
原始平安小将棋として鎌倉時代の草創期まで存在し、
更に平行して二者とも指された一方で、9×9升目
型を指すように強いる勢力が、少なくとも、知識人
の有力者の階層の中に有り、かつ、実際に将棋を指
す特に下流の知識人が、9×9升目の平安小将棋を
指すよう無理強いさせられていることに、ゲームの
性能上嫌気がさしていたため、小将棋系から離れて
しまって、ゲームの改善が、なおざりになっていた
ためではないかと疑っている。

おそらく9×9升目制を強制する勢力は、宮廷の官
職が左右対称になっている事にちなんで、将棋を奇
数列制に変えることを主張する、都の宮中の有力者
達の類であろう。特に彼らは院政期に力を持ってお
り、他にはカナ文化等、文化の日本化を全般的に推
進した、識者勢力だったと見られる。
 実は厳密には彼らがしようとしたことは、奇数列
の将棋の普及のはずだったのだが、結果としては
「9行の将棋ゲーム」という、世界に余り類を見な
い、桂馬が互いにぶつかり、局面が、行き詰まりや
すくなる将棋を推進してしまった。ちなみにシャン
チーとチャンギは、9列奇数路だが、行は10行で
あって9行には、なっていない。
 以上の経緯から、8×8升目型の原始平安小将棋
を、従来は指していた特に知識人が、権威者筋から
「9行将棋」を無理強いされると、以前のゲームよ
りも改悪させられたとの嫌気から、小将棋から離れ
てしまい、ポテンシャルの”高い山”を越えた所に
存在する、改善の正着手である「持ち駒ルールの発
見」が、遅れてしまったと思われるのである。
 逆に言うと、その分だけ大将棋系には、彼ら知識
のある棋士に、肩入れしてもらえるようになった。
結果、平安大将棋に不備が万が一あれば、小将棋へ
移らずに、大将棋に残って、そのルールを改善する
複数の棋士が現れたと見られる。特に二中歴が確立
した頃の鎌倉時代の草創期に、小将棋のゲームとし
ての立ち上がりが遅れた結果、大将棋は実は少しづ
つ改善され、その後の存続に繋がって行ったと考え
られる。(2016/11/20)

平安大将棋の起源(長さん)

平安大将棋の13という升目が、12に玉将列の1
列を増やした13×13升目であり、それが左右を
対称にした古代官職や官位を象っているとの指摘は
割りに良く聞く。いわゆる「官位12階」により、
大将棋が13升目になるという考えである。しかし、
12階の官位が、その最初の制度で有名であったと
しても、時代により数が変遷しており、n+1で、
n=12の将棋を作成しようという、スタートの
動機付けとしては、何か弱いものを私は感じる。
そもそも9+4m(mは0,1,2・・)という
升目数には、桂馬が端から3列目で、互いにぶつか
りやすいという点で、特に目立った利点がある升目
とも私には考えられず、この升目数をピンポイント
で狙って、大将棋がデザインされたとは、私には、
ちょっと思えない。
 よって平安大将棋は西暦1100年時点で、最初
にできた駒数多数将棋では、ひょっとして無かった
のかもしれないと私は思う。
前回に述べたように、成り金の作り方のタッチから、
仮に藤原氏の誰かが、”最初の大将棋”のデザイ
ナーでは無いとすると、他に複雑系の将棋をデザイ
ンできるような知識人として、安部晴明タイプの、
陰陽五行、宇宙天文哲学に通じた知識人が、
考えられると思う。そのような人間は、暦学にも通
じておりゲームの盤を、暦にちなむように、19×
19の計361升目にする等、陰陽道流の、実際に
プレーされた13升目型よりも、更に複雑な将棋を
最初から考えていた可能性が強いように思う。
 19升目型の将棋は、そもそも中国では19路の
広将棋が、前のところで述べように、その少し前に
作成されていたから、駒数98枚の広将棋に習って、
駒数100枚前後の、日本制の19×19升目
将棋を、頭の中で思い浮かべる事位までは、こうし
た知識人には、余り難しくなくできたはずである。
 むしろ文書でゲームの内容を書く方が、めんどう
だっただろうから、将棋ゲームの好きな知識人同士
で、互いに会話しながら、実際に将棋盤を作って
ゲームできる程度に、駒数と升目数を減らして、
ついには現在の平安大将棋を作ってしまう事位は、
彼らの能力なら、なんとかできたのではないか。
 むろん計361升目が暦の一年に近いという縁起
から、19升目将棋を推薦したいという気持ちが、
オリジナルの、占い専門のデザイナーには、会話の
後も残っていたのかもしれないが、「日本で最初に
できた官位にもちなむ」という、後付程度の理由で
13升目型が、藤原一族等のユーザーには賞賛されて、
13升目制の平安大将棋が、成立するという論も、
余り無茶ではないと私は思う。
 盤升目数が天文暦法、宇宙哲学陰陽五行道にちな
むように、19升目×19升目制の将棋を、更に
それを圧縮すると13升目制の現平安大将棋になる
ように、例として考えてみると、たとえば次の感じ
だろうか。
 そもそも19升目制将棋として、摩訶大大将棋を
知っている我々には、初期の出現として不自然な
無明と提婆を除いて、五行で形のある、”木”を加え、
瓦と石を除いて、象と馬を入れれば、一段目は簡単
に配列できる。
つまり真ん中の列に玉将を置き、金将、銀将、銅将、
鉄将、土将、木将、酔象、桂馬、香車で、陰陽師作の、
19升目型の架空の原始平安大将棋の、一段目配列に
なる。更に、ここから土将から酔象までを除けば、
13升目の平安大将棋になるのである。(木将は、
大大将棋にある。)
ついで13升目制平安大将棋の二段目が、通説の一つ
の、横行、空き、猛虎、空き、空き、飛龍、奔車だ
とすれば、19升目架空原始平安大将棋では、四神
を置いたのち、後に色を示す文字を少し変えたと考
えても良いだろう。つまりたとえば、19升目では、
中央から横行、空き、白虎、空き、玄武、空き、朱雀、
空き、青龍、奔車と配列するということである。
そして3段目には、平安大将棋と同じく、歩兵を
このケースは19枚並べ、中央の歩兵の頂上に注人を
置けばよい。以上で19×19升目で駒数100枚
の将棋ができる。なお、白虎、玄武、朱雀、青龍の
駒は、泰将棋等の駒にあるので、動かし方は、それ
をらイメージしても、後に平安大将棋の猛虎と飛龍に
一致するように、適当に調節しても良いだろう。
 つまり19升目架空原始平安大将棋は、文章で
書いても上の程度のものなので、五行や四神
を知っている平安時代末の、将棋のデザイナーや、
大将棋が指せる程度の知識人には、頭の中で容易に
イメージできて、その出来栄えの賛美性について、
議論できる内容だったろうと思われる。つまり
たとえば「亀や鳥は、龍や虎より弱そうだから 
四神は、13升目制で2つだけ残すとすれば、龍と
虎だけにしよう」とか、そういう程度の会話で、平安
大将棋は、作れるのではないだろうかと、私はここ
では言っている。
 従来は、将棋の駒の枚数は、少しづつ多くなったと
議論され、それが定説だが、人間の頭は、複雑であ
っても、概念として理解できる形の方が、容易に把
握できるという性質が、あるのではないか。よって、
上に述べた要領で、大から小を作ったとしても、
余りおかしくないのではないかと、私には疑われる。
(2016/11/19)

平安大将棋の成りの謎(長さん)

 以上ののべた事から、平安時代1100年程度以降に
存在したと目される、13×13升目、駒数68枚制
の平安大将棋は、文献記録としては二中歴、史料としては、
平泉駅近く、中尊寺にほど近い遺跡より出土した、飛龍駒
一枚が対応するとみられている。平泉は奥州藤原氏の拠点
で、この藤原氏は鎌倉時代草創期に源頼朝に滅ぼされてい
るので、二中歴の成立期と同じ時代であり、それがその以
前に存在しているとみなされない、他の駒数多数将棋の道
具とは、単純に言って考えにくいからである。ただし「平
安大将棋の説明で二中歴に説明の無い部分は、平安(小)
将棋とルールが同じである」という考えと、この出土駒
「飛龍」の形状は良く有っていない。成りが金ではなくて、
「飛龍」と両面に書いてあるからである。
 興福寺の出土駒に、玉将と両面に書いたものがある事か
らの類推で、この飛龍は、平安大将棋の飛龍が不成りで
ある事を示すと解釈する意見が多いと認識している。この
事から、二中歴の著者には、平安大将棋のルールの記載に
関して、不備があるとも取れるのであるが、更に難しい事
に、二中歴の平安大将棋の記載部分に、誤写による、判読
不能部分が有って、二中歴の著者の「手抜き」と、あなが
ち断定もできないという、解明の困難さ、問題の複雑さが
このケースには存在している。つまり次のように書いてある
部分が、意味がはっきりしていない。

如是 一方如此行方准之

 駒数多数将棋の成りの論点は追々詳しく見てゆく事にし
たいが、日本の将棋では摩訶大(大)将棋と、それと成り
様が準じると仮定した場合の泰将棋では、小将棋の類より
成りが金(将)であるケースが多くなる。しかし一般には、
この二種は例外であり、むしろ全体としてみると「成り金」
駒種を、減少させる傾向があると、個人的には認識してい
る。原因の一つは、大将棋系が指される要因が、恐らく
藤原一族の外国人から見たイメージチェンジのためだった
ため、単に平安小将棋より複雑な将棋をしてみせるだけ
ではなくて「歩兵がベルサイユ宮殿の白痴の姫様のような
駒に成る」という、藤原貴族に対する、否定的な見方を
連想させないようにゲームを、作り変えたためであったか
もしれないと私は思っている。事実、藤原隆家の子孫であ
る水無瀬兼成が、安土桃山時代に将棋部類抄で、平安大将
棋の後継である、15×15升目制の(後期)大将棋を、
成りが金将になる駒を一切除いた将棋の意で注記している
のはその表れなのかもしれない。更に詳細不明だが、同期
の大大将棋では成る駒自体が少ない。
 ただし時代が下ると、ゲームとしての性能の強化のため、
成りの調節が進んで、金将に成る駒が少なくなっただけと、
明らかに見なされる例も多い。具体的には、南北朝時代以
降に現れた中将棋がその典型例であり、銀将が金将ではな
く竪行に成る等、変化は多彩である。
 さて、平安大将棋の成りの問題に戻ると。
前に述べたが私も「大将棋のルールが小将棋に有る部分は
それに準じる」というつもりで、二中歴著者は書いている
と思う。従って成りについても、歩兵と銀将、桂馬、香車、
および明らかに、銀将と類型の、銅将、鉄将、以上
1段目と、注人の下列の歩兵の駒の成りは、全部金将だっ
たと私も考える。更に、
以下私見だが、二中歴の平安大将棋の記載の、誤写「判読
不明部分」には、成り様を判定できるようにするための、
何らかの記載が有ると私も考えている。私は二中歴大将棋
の飛龍は不成りが正しいと考え、それはゲームの作者が、
人間の類では無いと解釈したからだと思っているが、結局、

飛龍、猛虎、横行だけ、不成り、他種は玉金除いて金成り
だったのではないかと私は思う。

そして判読不明部分
「如是 一方如此行方准之」には、

「その駒のすぐ後ろに初期配列される駒に準じて、駒の
性質が決められており、後ろの駒の成りを邪魔して、相手
の陣の手前で、後ろの駒の身動きが取れなくしてしまう
ような、動きの不足のある動かし方ルールの駒は、
駒が人間を表しているかどうかに係わらず、後ろの駒の動
きに準じる」と書かれ、成りも後ろの駒に準じて、金に成
るようにしたのではないかと私は思う。

このような「規定」は、小将棋では人間駒で無い、桂馬や
香車が、相手陣の奥で、今度は自身が身動きが取れなくな
るという、ルールの不自然さから、金将に恐らく成ってい
ると見るのが自然と、棋士やゲームのデザイナーにはみな
され、新たに注人と奔車も、桂馬や香車同様、金将に成ら
せたのではないかと、私が推定しているということである。
 つまり、基本的には人間とは、見なしがたい名称の駒は、
元来金成りでは、無かったのではないかと私は推定する。
なお、私がここまでに、このブログで書いた内容で、人間
を表さない駒を、基本的には金将へは成らさないようにし
ないと、変形平安小将棋の駒と、私が想像した平安時代の
酔象に、成りが無いという事実の説明はつかない。
 他方以上の事から、少なくとも、平安大将棋のデザイ
ナーは、水無瀬兼成ほどには、成り金のケースを減少させ
ようとはしなかったように、私には感じられる。平安時代
末に大将棋を藤原貴族が家訓で指したとしても、それは、
たまたま平安小将棋より、複雑なゲームが出来ていたから
であって、平安大将棋は、彼ら自体による作では、無かっ
たような心象である。
 では、平安大将棋を作成したデザイナーは、どんな経緯
でこの将棋に到達したのか。その点についても、追々考察
してみたいと思う。(2016/11/18 将棋の日)

大陸で注目された将棋棋士は藤原道長か藤原頼通か?(長さん)

 前のところで、平安時代中期、摂関政治の中心にあった藤原
の頭領(長者)が、中国(北宋)等で平安将棋の棋士としても、
注目を浴びたと述べ、特に藤原道長がその棋士と、表現した。
ところで道長以降、摂関政治の全盛期は、次の代の藤原頼通へ
引き継がれたわけであるから、実際には、大陸で注目された
セレブ棋士が、道長ではなくて頼通等、少し後の代の藤原氏
の頭領であっても、おかしくは無いように思えるかもしれない。
 むろん前回述べた話は、文献等の客観的根拠が知られている
訳でもないため、後世、「眩いばかりの将棋道具で平安小将棋
を西暦1020年頃指したのが、藤原頼通である」という意味
の古文書でも発見されれば、前回の内容で道長を、頼通に変え
るつもりでいる。しかし以下の理由で、それまではその棋士を
「平安時代中期の藤原道長等の藤原氏長者」と、私は表現する
ことにしたい。だだし藤原道長の方が、良く聞く名前だからで
は実は無い。前に少し述べたが、水無瀬兼成の先祖の藤原隆家
を刀伊の入寇での不遇の後、都で復権させたとされるのが、藤
原頼通等、少し後の藤原長者ではなくて、藤原道長であると、
聞いているためである。以下も私の想像の域を脱していないの
だが、

藤原道長によって厚遇された藤原隆家の存在が、
日本に、将棋を始めて流行らせる、主要因だったのではないか?

と、実は私は疑っているのである。ただし藤原隆家にも、彼の
時代に将棋を指したとの記録は無く、私は藤原隆家も道長同様、
特段将棋に興味が強かった訳でもなかったかもしれないと思っ
ている。実は彼は棋士として将棋を普及したのではなく

「刀伊の入寇後、都で返り咲いた」という、彼の生き様が、
平安小将棋等、将棋類の隆盛に寄与したのではないか

と思っているのである。
きわめて洗練された現代の日本将棋については、その面白さの
要因は幾つもあり語りつくせないのであるが、鎌倉時代末期程
度の時点では、小将棋普及の要因2本程度の柱のうちの1本は、

歩兵が敵陣で、それよりずっと強い金将に成る

と言うルールの斬新さとされていた。普通唱導集の「小将棋」
の項で、そのように表現されている。

小将基 伏惟 々々々々
昇歩兵而成金 入聖目既無程
飛桂馬而替銀 驚敵人亦有興

刀伊の入寇の時点で、歩兵の一つ一つを都から離れた大宰府の
軍隊の兵士やその司令官の藤原隆家、玉将を藤原道長、金将を、
都の藤原長者(道長)の側近に例えると、それは、さながら
藤原隆家の、出世の姿と言うことになるのではないか。藤原道
長は、当時の都の空気に逆らって、歩兵が敵陣で活躍すると、
自分の副官や側近の、金将に変身させるという、小将棋のルー
ルと同じ善政をしたと、国内では見られたはずと言う事である。
仮に九州大宰府の兵士に、平安小将棋を指す者が居るとすれば、
将棋を指すたびに、今は「黄金の煌びやかな世界」に居る、か
つての上官の上記のエピソードが、指すたびに、地味な現在の
自分の姿と対比して思い出された事であろう。将棋は賭博とし
て早い時期に禁止されたのとも言われるが、大宰府では、恐ら
く以上のようなわけで、将棋ゲームに比較的寛容な空気が、
平安時代中期には、みなぎっていたのではないか。つまり、
単なる遊びではなくて、将棋を指すことが自分の境遇に関連性
のある行為のように感じられたため、大宰府の兵士の間では、
それまでに外国から輸入されたいろいろなボードゲームに比べ
て、小将棋が西暦1020年頃に、爆発的に盛んに指されるよ
うになったたのではないだろうかということだ。なお大宰府か
らも、将棋の史料(木簡等)は、出土している。
 そして安土桃山時代に、水無瀬兼成が将棋の世界に入ったの
も、日本の将棋の礎に、ほかならぬ自分の先祖の藤原隆家が、
関与していた事を、家伝等、何らかの方法で、知っていたから
なのかもしれないと、私は疑っているのである。
 以上の藤原隆家に関する話が、万が一正しいとすると、小将
棋で「玉将」になぞらえられるのが、藤原長者の中でも、特に
藤原道長であって、藤原頼通等では無い事になる。そこで私は、
大陸で将棋を指すことで注目された藤原長者には、現時点では
藤原道長に代表させておいて、将棋史エピソードを覚えやすく
するのが良いのではないかと思っている。実際には、小将棋
が普及したので、藤原頼通の時代に、「人並みに」、ただし、
最上級の将棋道具を土御門邸に置いただけなのかもしれないが。
(2016/11/17)

宋・金・元国での日本の将棋棋士の評判の推定(長さん)

 通常将棋の棋士のうちで世間から話題となるのは、その
棋士が強いからである。しかし2つ前で、私は中国で評判
となった、日本の将棋の棋士は、藤原道長のように、将棋
が強いからではなくて、最高級の将棋道具を所持している
からだと述べた。これは一見すると、読者にはおかしいよ
うに感じられるかもしれない。が平安時代から鎌倉時代に
中国(北宋・南宋・金・元等)ではゲームとしての平安小
将棋に興味を持つ人間は、ほぼ皆無であろうから「日本で
小将棋が指されている」という話題が伝わったのは、以下
のように「交易の相手として、日本のセレブの羽振りが良
い」という話をする文脈で、情報として伝わっているだけ
のためと考えれば、実はつじつまが合うと考えている。
 上記の話の出所は、中国の商船のオーナーであり、その
話の聞き手は、交易商人以外には、考えにくい。すなわち
日本人と最初に接する人間が商船の船主、および、その情
報に基づいて、日本人とコンタクトするかどうかを、決め
る必要がある人間が、交易商人だけに限られるため、ほぼ、
そう断定できると言うことである。私には平安時代中期、
上記の二者のケース以外、日本の平安小将棋の棋士につい
て、中国人等が興味を持つ動機を、全く考え出すことがで
きない。
 たとえば交易商人として有名な例では、中国が元の時代
で、日本が鎌倉時代に、現在のイタリアから中国へやって
きて東方見聞録を書いたマルコポーロの一団があり、彼ら
は「日本が黄金の国であるとの知見を得た」とある。「日
本には白人が住み、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠があ
る。」等と記しているという。情報の出所は別の商人とも
言われるが、最初に日本に来て、その印象から上記の話の
オリジナルを作成したのは、輸送船の船主であったに違い
ない。
 そもそも、マルコポーロのような交易商人に対し輸送船
の船主が、交易相手が羽振りが良いという話以外、利害上
する訳が無いと私は思う。彼らの輸送船でマルコポーロの
ような交易商人に、相手国と交易をしてもらえれば、彼ら
は、恐らく莫大な輸送賃が稼げるからである。
 従って輸送船の船主としては、平安小将棋が、中国の
シャンチーとは、別のゲームである事が判ればよいだけの
説明をし、藤原貴族が、最高級の将棋の道具を、どんどん
購入するような、交易商人にとっての良いお客さんである
事を示す事に力点が有ったはずである。
 特に日本の将棋の、玉将、金将、銀将という鉱物の付く
駒の名は、イメージとして、その藤原貴族の将棋の道具の
高級感を出すには、日本は黄金の国という伝説とも相まっ
て、相応しいものだっただろう。なお鉱物名が駒の名につ
く将棋類のボードゲームとしては、唐の時代のボードゲー
ムについて書かれているかもしれないとされる玄怪録に於
いて、駒名かどうかは不明であるが、「金象将軍」という
単語が現れる、という例が、他には知られている。
 更に交易商人には副次的に、平安小将棋の性質を通じて、
藤原貴族の長が「羽振りの良いのを煽てさえすれば、たい
がいの贅沢品を購入してくれる程度の、お人好しの客」で
あるとの心象が持てるようになるため、輸送船の船主は、
平安小将棋がシャンチー等に比べて、中国人なら子供でも
できそうな、レベルの低い、簡単なゲームである事も、
披露したはずだろう。こうして中国等では、日本の棋士の
うち、将棋の道具が高級な、藤原長者等の話だけが、棋士
の将棋の力とは全く関係なく、広く知られるようになった
のだろうと、私は推定する。
 当然それは、海千山千の交易商人等の、取引相手に対す
る良く有るパターンの陰口であるから、それが藤原貴族へ
約100年かかって伝わると、藤原氏は当然、相手に、なめ
られないように対応しようと大将棋を指したと、私に言わせ
れば、比較的楽に、説明できるのではないかと言うことに
なる。(2016/11/15)

大将棋はいつ成立したのか?(長さん)

 以下、読者の方に、自分が新ゲームのデザイナーに
なったつもりで、その立場で考えて頂ければ、御同意
頂けるのではないかと思うのだが、ゲームができたと
言うのと、ゲームが成立したというのは、指す人口の
多少に係わらず、別物である。
 あくまで以下私見であるが。wikipediaのシャンチー
の項によれば。
西暦1050年~1100年ころ中国で、19×19路の
「広将棋」が、晁補之(ちょうほし)によって、作成されて
いたと言われている。よってその19×19路、98枚制
の将棋新ゲームの情報が、期間が開いても、50年以内
には日本に入り、入り次第、恐らくその年の年内には、
19×19の361升目の将棋が、少なくとも日本の
誰かの頭の中には、存在したという意味で、
出来てはいたのだろうと私は思う。しかしたとえば。
(葉室∈藤原 ?)仲房のように、彼の家人である侍男
にも、平安大(?)将棋を教えて一緒に指し、この例では
平安大将棋を他人に、広める行為まで行われなければ、
たとえば平安大将棋について、ゲームが社会化したという
意味で、「成立した」とは言えないと私は思う。
当然だが以下は、今述べた後者の意味での大将棋の成立
年代に関する絞込みである。
前回までに述べた結論から言えば、大将棋の成立の上限
(数値が大きい、つまり新しい)は、藤原頼長の台記の、
「大将棋を彼自身が指した記載」の1150年頃程度で
あり、下限(数値が小さい、つまり古い)は、
興福寺出土駒の製作年代と目される、1050年代頃で
ある。
 つまり、興福寺出土駒のうちの木簡と、駒の「酔象」が、
大将棋類の駒かどうかに、それはかかっている。なお、
少なくとも製作途中品以前である、木簡の酔象が「不成」
なのは当然であるが、興福寺の遺跡から最近発見された
駒の方も、不成りであるとみられており、成らないとい
う事の、意味を考えてみる必要がある。私見では、この
点が重要だと思う。
 そこで、既知の日本の将棋ゲームのルールから、不成り
酔象がどのゲームのものかを対応させると、「対応する
ゲーム無し」との結論になる。
 酔象は朝倉小将棋では太子、(麒麟・鳳凰が獅子と
奔王に成る)摩訶大将棋及び、(同じく麒麟・鳳凰が、
大龍と金翅に成る)摩訶大大将棋(以上、仮分類)で
王子、その他の中将棋より駒数の多い日本の駒数多数
将棋で太子に成り、酔象が不成りのゲームは存在しない。
従って、この興福寺の酔象は、未知の将棋ゲーム用で
あると、結論してよいと私は考えている。ただし、私は
この未知のゲームは、大将棋の類ではなくて、平安小将
棋に分類されるとして、今のところ矛盾は無いと思う。
遺跡から玉将、金将、銀将、桂馬、歩兵が他に複数出土
して居るのにもかかわらず、酔象(今のところ1枚)
以外に、駒数の多数な将棋に使われると疑われる出土駒
が、全く知られていないからである。この点で「奔横、
あるいは本横駒」が発見されている、徳島県徳島市付近
の川西遺跡の将棋駒出土の事情とは、大きく異なって
いると私は思う。
 以下更に私見であるが。興福寺の酔象駒は、繰り返し
になるが、太子に成らないから、(朝倉)小将棋に使う
駒でも無いと思う。
 平安小将棋の原型が日本に伝来した時、銀将として
伝わった駒が、シャンチーやチャンギが、日本でポピュ
ラーになってきた時点で、「象」に相当する事が
広まって来たので、恐らく釈迦伝説でその固有名詞が
出てくる事を記憶していた、国内で将棋を指す僧侶が、
2文字化して酔象を作ったというのが、私の想像する
所である。よって、この酔象は、シャンチーの相や
象と同じく、斜めに2升目跳び越えのルールであって
後の朝倉小将棋の、真っ直ぐ後退できない酔象の
ルールと違っていたり、初期の位置も、玉将や王将の
前升目に置くのではなくて、片方の銀将と交換して
置く等、既存の将棋には無い、未知のルールで使われ
た可能性もあるのではないかと、私は疑っている。
 以下現時点では、私の妄想に近い空想でしかないの
だが。原始平安小将棋で右銀将を、斜め2升目先跳び
酔象に交換すると、玉、金、銀、象が1枚づつになり、
体裁は8×8升目制原始平安小将棋(仮称)より、
良いようにイメージしている。
 以上だいぶん長くなったが、興福寺の1058年頃
作成の出土駒の酔象は、少なくとも、大将棋系のゲーム
の道具ではないと、私は考えている。私見では、
伝説の「日本将棋の発明者」。西暦1100年頃の
大江匡房の時代が、大将棋の成立期として、むしろ
順当ではないのだろうかと考えているのだが。
 よって前回述べたように、「藤原道長の時代
(西暦1000年)より、更に100年~150年後
に、平安大将棋ないし、その類型が、わが国で成立し
た」で、大きな間違いは無いのではないかと、今の
ところ私は考えている。(2016/11/15)

藤原道長と将棋(長さん)

藤原道長は、西暦1000年前後に藤原摂関政治の全盛
時代を築いた、藤原氏の頭領(長者)で、当時日本の
権力トップに居た人物である。将棋に関連した記録は
残っておらず、たまたま記録がないためか、あるいは、
将棋類のゲームに、彼自身は、特別には興味が無かった
のかもしれない。道長と将棋との関連性では、前回最後に
述べた、水無瀬兼成の祖先、藤原隆家が刀伊の入寇で、
後に金王朝の軍隊の、主要部となるとみられる刀伊軍の
日本侵略を、九州大宰府軍を繰り出し、果敢に防いだ
大きな功績にもかかわらず、京都の政府との連携性が
悪かった事を口実に、戦後冷遇された事を道長自身が
批判し、藤原隆家を戦後厚遇したとされる事が、僅か
にあげらるだろうと私は思っている。
 ひょっとすると道長は全く将棋を指さなかったのかも
しれないが、権力トップ、大金持ちの身分ゆえ、彼が
将棋の道具を、土御門の自宅に一応所持はしていたとは
充分に考えられると思う。もしそうだとすれば、当然
の事ながら、その道具は、当時としては最上級のもの
だったに違いない。
 道長の将棋道具が非常に高価で良いもので、ひょっと
するとその事が、外部に良く知れ渡っていたため、
それがたとえば、当時は普通の平安小将棋を指すための
道具だったとしても、

絢爛豪華な最上級の道具、そのものが特に目立つために、
藤原道長こそが、平安小将棋の棋士の象徴と、特に外国
からは考えられていても、おかしくは無いと私は思う。

 実際、西暦1000年当時には、他の氏(うじ)、
たとえば、源氏の誰それとか、平氏の誰それかが、
藤原道長とその一族ほどに、羽振りが良かったと
言う話を私は聞かない。なお、平安時代中期の藤原氏と
ともに大金持ちの対抗馬としては、一条天皇等、天皇が
居るが、日本が帝と武官とが別の国、すなわち平安時代
は軍事国家では無かった故、一条天皇自身が、最上級の
将棋道具を使って、武芸としての将棋を研究していると
いうイメージが、第三者、特に中国の知識人には、起こ
りにいのではないかと私には疑われる。
 中には「将棋を嗜む天皇」も居たのだろうが、天皇は
「日本人の象徴」で有っても、日本人の将棋文化の象徴
には、イメージとして、当時もなりにくかったのではな
いかという私見が、私には有る。
 しかし、そのありきたりのゲームが、中国北宋・高麗
の同類のゲームに比べて、性能がかなり劣っていたとし
たら、その100年後~150年後には、あるいは国の
イメージとして、外交上問題になってきたのかもしれな
い。藤原道長と同じく藤原氏の長者で、その150年位
後の後継の、院政から武家の台頭時代の藤原頼長が、
「大将棋」の文字を唯一日記に残しているのは、たまた
ま台記という文献が良く保存されたという偶然だったの
かもしれないが、大将棋の発生要因を示唆する、重要な
ヒントも秘めているように私には思える。(2016/11/14)

大将棋類の出土駒とその持ち主の氏(うじ)(長さん)

現在、出土した将棋駒のうち、最大で5箇所のものが、大将棋
ないしそれより駒の数の多い将棋の、日本の将棋類の駒と
見られている。駒の種類等から見て、大将棋類の将棋駒として
確定的なものから、かなり不確実なものへと並べると、

1)平泉駅前の遺跡より出土した飛龍駒(1枚)
2)徳島市に比較的近い、川西遺跡より出土した奔横駒(1枚)
3)栃木県小山市神鳥谷曲輪から出土した裏金角行駒(1枚)
4)鶴岡八幡宮出土の鳳凰と不成の香車駒ペアー
5)奈良興福寺の酔象駒一枚と、酔象の字の木簡1枚

のたかだか5つだけである。私見では5)は朝倉小将棋類の駒
の可能性が強いと思う。
なお、遺跡の年代は、

1)が鎌倉時代草創期、2)が鎌倉時代中期、3)が南北朝時代
4)は鎌倉時代から室町時代前期、5)は最も古く平安時代後期
と、私は認識している。

ここでは、前回述べたように、これらの駒の使い手と氏(うじ)
の関係を対応させてみる。この先説明は、そのつどしようと思う
が、ここでは結論だけを書くと、

1)は奥州藤原氏、2)はたぶん源氏(佐々木氏か、小笠原氏)、
3)は藤原氏(小山氏か、私見で宇都宮氏)、
4)は源氏(北条氏か足利氏)、5)は不明だが藤原貴族の
将棋を真似たもの、と、それぞれ私には推定される。

よって5つの大将棋類の道具のうち、約3箇所のものつまり
全体の60%が、藤原の氏(うじ)の人間の所有物か、ないしは
それにちなむと考えるのが、もっともらしいと言うことである。

 当然平安時代と異なり、鎌倉時代に入ると藤原貴族の時代は
徒然草にもあるように終わっていた。だが、なぜかその末裔は、
将棋類のうち、大将棋の類をたしなんだようなのである。更に
これと、前回の結論である、文献の中で、恐らく平安大将棋を
指したであろう、上流階級の知識人が、5人中4名程度、藤原氏
ないし、その使用人である点加味すると、

少なくとも鎌倉時代ころまでは、藤原氏の流れの人間ならば
大将棋をたしなむ必要がある

というしきたりの理由が知られていたか、あるいは、忘れられて
いるにしても、比較的強固に、そのしきたりそのものが残ってい
て、少なくともそれに従っていた藤氏系の知識人は、大将棋には
ゲームとして、たとえ難点があったとしても、それを無理にでも
指した可能性もあるのではないかと、私には疑われるという事
になる。

 残念ながら現在では、その鎌倉時代には落日の藤原氏(うじ)の
末裔が、「しきたりで、大将棋等、駒数の多い将棋を指した」
経緯については、記録が残っていない。たとえば、水無瀬兼成著
の将棋部類抄にも、氏と駒数多数の将棋を指す棋士との関係が
記載されている訳でもない。これより後代の将棋の著書は、
成文化された情報としては、この著書が、ほぼ唯一であったため、
戦国時代を生き残った日本の将棋の情報を集めた、将棋部類抄に
記載が無ければ、残念ながら他に情報は無いに等しかった
ようである。なお、兼成の苗字である”水無瀬”が、そもそも
藤原隆家関連の藤原の姓であるから、水無瀬兼成自身は、「藤原
氏の子孫なら大将棋は指すべき」と、なぜ言い伝えられたのか、
その事実そのものと、さらにその理由を知っていたのかもしれ
ないと思う。実はそれが、藤原一族にとってネガティブな内容、
つまり、たとえば「8×8升目制の原始平安小将棋しか指す能力
の無い、中国等の大陸の人間より劣った人間として、日本人の
中でも、特に平安時代中期の藤原貴族の頭領がイメージされて
いた」というような事でも万が一あれば、藤原氏の末裔である
兼成が、自身の著書には、当然その内容は書かず、黙々と
駒数多数将棋の著書だけを残した理由にはなるのではないかと、
実は私は疑っているというわけである。(2016/11/13)

藤原氏と二中歴時代の大将棋(長さん)

 前回、二中歴時代に大将棋(平安大将棋か?)を指したと推定
される人物として、”仲房”、彼の侍男子、藤原定家、藤原頼長
、源師仲の5名を挙げた。ここで仲房についてであるが、web
の情報を調べた程度では、”氏”が簡単にはわからないようである。
 以下、今後の私の調査等で、結論が変わる可能性があるが、
(四位)仲房は、葉室仲房という人物が、西暦1213年の
日記で比較的、高齢の人物として出てくるとすれば、一応合って
いるようである。(ただし葉室仲房の官位が四位ないし、それより
上だったかどうかについては、私には、まだ良く判っていない。)
以下は、暫定的に明月記の”四位仲房”は、葉室仲房であるとして
論じる。結果として、二中歴の成立期に平安大将棋らしき将棋を
指したのは、
葉室(藤原)仲房、彼の侍男子、藤原定家、藤原頼長、源師仲
の計5名と言うことになる。なお苗字の葉室はwebの情報によると、
”藤原北家勧修寺流。甘露寺為房の次男顕隆を祖とする。”とある。
 以上の事からデータは少ないものの、5人中ほぼ4名が、藤原の
氏の公家とその家来となり、大将棋(平安?)が藤原氏(うじ)の
公家に指される傾向が、特に強い疑いが有るように、私には見える。
なお、鎌倉時代専門の歴史学者、細川重男先生より、鎌倉草創期の
氏の人数勢力は、源氏が一位、平氏が二位、藤原氏が三位と聞いて
いる。このことから源の姓、平の姓を持った公家の名前が、大将棋
に関連してもっと出てこないと、ランダムとは言えないと、私には
思われるという事である。
しかしこれだけでは、いかにも情報が少なすぎるとの批判があろう。
そこで次回は、大将棋の棋士に関する別の観点として、平安大将棋も
含む、大将棋ないし、それより駒数の多い将棋用と見られる、各地
出土駒と、藤原氏(うじ)の関連について、更に論じてみるつもりでいる。
(2016/11/12)

二中歴の時代の「大将棋」人口(長さん)

増川宏一著書の「ものと人間の文化史 23 将棋Ⅰ
(1977年初版)」の第Ⅲ章「日本の将棋」によれば、
二中歴の時代、ざっと平安時代中期の11世紀から、
鎌倉時代初期の13世紀四半期最初期の225年間の間で、
自身の日記の類にて、(小)将棋、大将棋を指したと記載
した文献はたった5つと言われる。
従って、一応将棋には、最低でも計10人程度の棋士は
存在したことになる。
しかし実は、そのほとんどが「(小?)将棋を指した」と記載
されているだけのもので、はっきりと「大将棋を
指した」と名乗りを挙げているのは、一例だけである。
 よって単純に考えると、大将棋の棋士とみなせるのは、
10人のうちの、ざっと20%の二人だけと言うことになる。
それは誰かと言うと、すなわち、藤原頼長著書の台記の
(西暦1142年(康治元年)宣命歴9月12日)の所に、
「崇徳上皇の御前で(源)師仲と大将棋を指す」という
意味の「十二日一新院參、於御前与師仲朝臣指大將碁、余負」
との記載があり、藤原頼長と源師仲が「大将棋の棋士」
と言うことである。

実際学会では、「日記が今に残る公家なら、そこで『将棋』と
表現されていればほとんど大将棋だったろう」という意見も
ある中で、「二中歴に、『将棋』と記載して、小将棋が説明
されているから、日記に『将棋』と記載されていれば、
小将棋だろう」との意見もあり、大将棋のゲームとしての
流行度は、いまひとつ良く確定していない。

私は、単に「将棋を指した」との記載しかなければ、保留とし、
日記の中身に何かヒントがあれば、よく読んで、大将棋の可能性
が大と見れば、それを合計して集計したものが、日記を残せる
上記時代の上流階級の、大将棋人口の最適値に、だいたい近いの
だろうと考えることにしている。そして可能性が、ある程度大
な他の日記類というのは、
藤原定家の明月記(西暦1213年(建暦3年)宣明暦
4月27日)の、次のような記述、他にはこれだけだと思う。

「四位仲房、此間聊病気、昨日自云、心神已不弁前後太惘然、
是已及死期、試差将棋、即與侍男始将棋、其馬行方皆忘、
不終一盤云、已以爲覚悟、是即死期也、太心細、慾見家中懸、
侍男巡見家中了、安坐念佛二百反、即終命、不幸短命太可悲」

以上の記載から、明月記を読むと、将棋類の棋士が計3名
居ると推定できる。仲房、彼の侍男子、それに恐らく
藤原定家の三人である。
そこで問題はこの「将棋」が大将棋かどうかであるが。

小将棋だとして。計6種しかない平安小将棋の駒の動かし方の
ルールを、体調が悪いからと言って、はたして本当に忘れる
のかどうかが疑わしい、

というのが、私がこれを大将棋と見る、大まかな根拠である。
また、細かくこの漢文を眺めると。「私が言ったのではなく、
他人から聞いた話である」を意味する「云」が、不自然に
2回出てくる点も、あげられると思う。
この云の字は、「(四位仲房の)死」の字に併せて出てくる
と解釈する事は、恐らく倫理的にみて確かだと思う。他人の
死を軽々しく、第三者が断定できないので、「当人が言った」
と強調するための「云」の字だと読める。
ただ、前の方で「自云」と書き、以下の部分は全部、
四位仲房から聞いた話であることは、文脈より明らかなのに、
「云、已以爲覚悟、是即死期也」とは、やや、くどい気も、
私にはする。
二番目の「云」は、本当は不要なのではないだろうか?
なぜなら、この二番目の「云」により、「其馬行方皆忘、
不終一盤」から「已以爲覚悟、是即死期」とは一般的には
考えられない。

つまり、四位仲房の奇説である。

とも、読めてしまうからである。これは「云」の一字を
試しに消してみると、たぶんお分かりではないかと思う。
つまり、「まともで元気な人間は皆、『そのゲームは指して
いるうちに、どの駒をどう動かしてよいかわからなくなり、
一局終わるのも、容易ではないのが普通だから、自分はまとも
であり、元気である』と考えるのに、
四位仲房だけ、『自分が気が狂って、身も心も破滅が近い』
と考えている」と、藤原定家は明月記で記載していると、
とれてしまうからである。

前回、平安大将棋では、シャンチー等と異なり、攻め走り駒
を多少増やしたものの、玉将の動きは、八方隣接1升目の
ままとし、玉の詰めが難しいままにした点を示唆した。

つまり平安大将棋は、比較的終局に、なりにくい将棋である。

大将棋をある程度指していた藤原定家は、当時の常識として
以上の事を知っていたと、私は思う。従って、「四位仲房は
耄碌して平安大将棋の欠陥は忘れているようだが、大将棋を
指す能力自体が残っているから、本当は彼の死期は遠い」と、
明月記のこの部分は解釈すべきなのではないかと、私は考える。

よって、仲房、彼の侍男子、藤原定家、藤原頼長と源師仲
の計5名が「大将棋の棋士」。もろもろの日記全体で、棋士
は11名程度となるから、将棋を指す知識人の約45%が、
二中歴の時代は大将棋棋士というのが、だいたい妥当な
線なのではないだろうかというのが、私の意見である。
(2016/11/11)