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藤原氏と二中歴時代の大将棋(長さん)

 前回、二中歴時代に大将棋(平安大将棋か?)を指したと推定
される人物として、”仲房”、彼の侍男子、藤原定家、藤原頼長
、源師仲の5名を挙げた。ここで仲房についてであるが、web
の情報を調べた程度では、”氏”が簡単にはわからないようである。
 以下、今後の私の調査等で、結論が変わる可能性があるが、
(四位)仲房は、葉室仲房という人物が、西暦1213年の
日記で比較的、高齢の人物として出てくるとすれば、一応合って
いるようである。(ただし葉室仲房の官位が四位ないし、それより
上だったかどうかについては、私には、まだ良く判っていない。)
以下は、暫定的に明月記の”四位仲房”は、葉室仲房であるとして
論じる。結果として、二中歴の成立期に平安大将棋らしき将棋を
指したのは、
葉室(藤原)仲房、彼の侍男子、藤原定家、藤原頼長、源師仲
の計5名と言うことになる。なお苗字の葉室はwebの情報によると、
”藤原北家勧修寺流。甘露寺為房の次男顕隆を祖とする。”とある。
 以上の事からデータは少ないものの、5人中ほぼ4名が、藤原の
氏の公家とその家来となり、大将棋(平安?)が藤原氏(うじ)の
公家に指される傾向が、特に強い疑いが有るように、私には見える。
なお、鎌倉時代専門の歴史学者、細川重男先生より、鎌倉草創期の
氏の人数勢力は、源氏が一位、平氏が二位、藤原氏が三位と聞いて
いる。このことから源の姓、平の姓を持った公家の名前が、大将棋
に関連してもっと出てこないと、ランダムとは言えないと、私には
思われるという事である。
しかしこれだけでは、いかにも情報が少なすぎるとの批判があろう。
そこで次回は、大将棋の棋士に関する別の観点として、平安大将棋も
含む、大将棋ないし、それより駒数の多い将棋用と見られる、各地
出土駒と、藤原氏(うじ)の関連について、更に論じてみるつもりでいる。
(2016/11/12)

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コメント 3

mizo

前回の話ですが、『明月記』の話は、将棊のわずか6種しかない駒の動きを忘れたとしないと面白味が出ない気がします。大将棊では、しばらく指さなければ、忘れて当然という気もします。
証拠がない話なので感覚ですが。
by mizo (2016-11-16 13:32) 

mizo

二中歴時代という言葉は、いつ頃のことですか?
平安時代ですか?(別名「平安大将棋」ですから)
by mizo (2016-11-16 13:36) 

df233285

漢文得意では有りませんが「云」にこだわってみました(長さん)

コメントどうもありがとうございます。
御指摘の通り、葉室(?)仲房が平安小将棋のルールを忘れた
方が、病状のひどさは引き立つと思います。しかし「葉室(?)仲房が
もうおしまいだと推定される」という論理に、なぜ定家は「よって」の
接続詞ではなくて、「彼の言い分では」を示唆する「云」をわざわざ
つけているのか。「云」で「よって」では国語として通るのか、と、
問題提起してみたわけです。漢文を大量に読んでいる方に判定して
もらえれば、恐らく以上の論点の正否が、判断できるのではないかと、
私は期待しています。

次に”二中歴時代”は、興福寺出土駒の西暦1058年から、
徳島県川西遺跡奔横駒の西暦1250年前後」を、漠然と示すつもりで
本文では書いています。あいまいな用語の使い方でした。
深くお詫びします。なお、上記文を書いた時点では、普通唱導集の
成立の時代、西暦1300年前後は、含まれないように意識して
いました。次のページで、少し広がってしまいますが・・・

by df233285 (2016-11-22 10:25) 

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