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天童の将棋と全国の遺跡出土駒(長さん)

本日、山形県天童市と、実体天童市の研究熱心な将棋駒店組合の
合同著作、「天童の将棋と全国の遺跡出土駒」を再度見直してみ
た。
 2003年の著作であり、当時は鎌倉の鳳凰駒等だけが、大将
棋の疑いのもたれた遺物であり、中尊寺の「両面飛龍駒」も広く
は知られていなかったと、私は記憶する。12年位前に、個人的
にはチェックした記憶があるが、3月30日に再度良く見てみた。

奈良県とみられる平城京遺跡で、表面の文字が薄いものの、「不
成りの疑いのある桂馬駒」を、私は新たに見出した。

かつては、表の「桂馬」の字が薄いと、裏面の「金」は消えたの
だろうと、勝手に私は判断していた。が、このブロクを、最近始
めてからは、「桂馬の不成り駒」には、注意するようにしている。
ただし、山形県遊佐町小原田大楯の不成り不明瞭な桂馬駒も、赤
外線で、おもて面の桂馬の文字が、やっと判別できる程度だった
と見ているが、この奈良県の出土駒も、表面の桂馬は薄く、かな
り退色している。
 しかしこれと鎌倉の、これも香車の「香」の字が、やっと判別
できる程度の「不成り香車駒」とを合わせると、「桂馬や香車が
不成りの将棋」、たとえば後期大将棋の駒が、実際に存在する可
能性は、少なくとも否定は出来ないように、思えてきた。ちなみ
に私は12年位前には、「大将棋の出土駒は無い」と、勝手に判
断していた。

ただし議論が進んだ今となっては、香車や桂馬が不成りの将棋が、
具体的にどんな「大将棋」なのかとなると、実の所、この範囲の
内容では、全く定かでは無いと思う。

残念ながら、天童市等が出版した、この、出土駒が多数掲載され
ている、2003年まで出土の駒の記録だけからは、大将棋の
具体的実体、つまり普通唱導集の大将棋がどのようなゲームなの
かは、それ以上やはり絞りきれは、し無いと、再度チェックした
今回私には、残念だが感じられた。(2017/03/31)

電王戦、名人対コンピュータソフト対局2日前(長さん)

明後日2017年4月1日、栃木県日光市の東照宮にて、現将棋
名人の佐藤天彦氏と、コンピュータ将棋ソフトのポナンザが、
2番勝負2017年版電王戦の第1局を行うと聞いている。

 万が一明後日、人間の名人が敗れれば、日本将棋は日本国内だ
けにプロ棋士がおり、佐藤天彦氏より、将棋の強い人間が想像し
にくいため、チェスのかつての名人、カスパロフが、コンピュー
タチェスソフトの、ディープブルーに負けたときに匹敵する、
社会的に、大きな影響を及ぼすイベントになるに違いない。

さてこのブログの目的は、日本に日本将棋以外の将棋・チェス型
ゲームも存在し、それはゲームの能力からすると、メジャーにな
りうるものであるという認識を、広める狙いもあるものであった。

つまり、コンピュータの次の目標を、作り出す準備と、言えるも
のである。そのためには、たとえば大将棋というゲームが、それ
だとして、大将棋が、コンピュータよりも、人間に有利であると
みられる性質が有る事と、日本将棋レベルで奥が深い、要素を
備えている必要がある。

チェスより日本将棋の方が、名人に追いつくときが、20年近く
も遅かったのは、持ち駒ルールがあり、局面評価値のばらけの多
彩さであると見られるが、チェスも、駒数を増やして、性質が、
チェスのままであれば、更に、中段を透かさなくさせたり、玉が
生き埋めのまま、捕まらないようにしたりするために、ルールに
は、更なる工夫は必要なのだがそれさえすれば、チェス自身より
は、強いコンピュータ・プログラムを、ハードの制約から、作り
にくくはなるだろうと、私は漠然とだが、以前より考えていた。
 しかしながら、「だから、そのチェス型駒数多数ゲームの一つ
が、日本では、中世に指された大将棋なのだ」と言えるためには、
日本の大将棋類が、西洋チェスの拡張の形に、なっていなければ
ならない。だが、

平安大将棋、後期大将棋共に、その点ではかなり力不足である。

どちらも、大型チェスの類にしては、走り駒等の大駒が、小駒の
数に比べて、少なすぎるのである。
 そこで私は仮説的に、13×13升目104枚制の普通唱導集
大将棋の一種にそれを託した。ただし、この将棋は、普通唱導集
の内容に合致する以外、存在の証拠が、まだ乏しい。このブログ
ではその少ない証拠として、
1)走り駒の一種、”奔横”駒の出土による、平安大将棋と、
後期大将棋の間の遷移型の存在。しかも初期に加わるのは走り駒。
2)平安大将棋に無くて、後期大将棋にある駒で、駒の名前が、
平安大将棋の駒名の組み合わせで、作れるものは、奔王、龍王、
龍馬、角行、竪行、飛車という走り駒だけである事からくる、
これらの駒種の導入の、後期大将棋の小駒に対する早期性。
以上を挙げて、駒数多数チェス型の、普通唱導集大将棋の実存在
を、サポートしようと勤めた。本ブログでは、昨年10月頃から、
その他の証拠を集めるため、これまで期限いっぱいの活動をして
きたが、

新たな情報は乏しく、このブログに紹介した内容の収集が、精一
杯の活動結果だったと振り返れる。

しかし思えば、どんなに微かではあっても、誰かが声を挙げなけ
れば、

日本人は鎌倉時代に、西洋チェスに漸近的に接近するゲームを、
作る方向で進んでおり、現行の日本将棋以外にも別の、できの良
いものが出来うると約束された、将棋型のゲームが存在した

という、指摘自体を、誰もwebで述べる事もなく、ソフト対人
間名人の頂上決戦日を、ずるずる、また日本将棋連盟のトップ層
の戦略の巧みさにより、牛歩でジワジワと、迎えただけ、だった
のかもしれないと、私には思える。
 このブログに関しては、所詮その活動が、ほぼ一人の力だけに
よるものであるため、これまで以上のような、ごくささやかな結
果に終わるものであった。が、今にして思えばこれでも、個人の
レベルでは全く何もやらないより、やっただけ、ずっとましでは
あったと思う。
 思えば彼の子孫が、文明開化の世の中への変化に、乗り切れず
に没落した、徳川家康の霊前、日光東照宮で行われる、人間対機
械の頂上決戦・2017年の電王戦第1局を、このブログの内容
の存在下で迎えられて、第二次世界大戦に、物量主義には、全く
太刀打ちできずに負けながらも、笑顔で戦死していった、多くの
旧日本軍の兵士の気持ちに、私も少しは、近づけたような気が、
現在はしている所である。(2017/03/30)

埼玉県越谷市大松(おおまつ)の寺、清浄院(しょうじょういん)周辺調査(長さん)

「わが町の歴史越谷」および、webの情報から、戦国時代の
西暦1550年頃に、埼玉県越谷市の現在の古利根川西岸の寺、
清浄院に、高賢という坊さんが住んでいて、僧侶でありながら、
その領域を支配する、武家でもあったたという情報を得た。そ
こで、現在の埼玉県越谷市大松にある清浄院も、中世の館跡と
してみなして、3月28日に、周辺部を捜索した。

寺の西側に空き地があり、古い墓の破片とみられる、字の書い
てある石製の破片等を見かけたが、地上を見ただけでは、その
程度の手掛りがあるだけであった。

その他、同じ場所に前回訪れた際、字の書いてある瓦の破片が
散乱していた記憶もある。寺の古い墓碑の破片の周囲への散乱
とみられ、館跡の証拠とは、少なくとも言えないように思われ
た。寺に井戸跡があれば、掘れば近世の木製遺物の出土程度は、
恐らく充分に期待できるだろう。ただし、そもそもこの寺には、
江戸時代の石製の墓石は、一目して多数現存する。
 また当日は「埼玉県越谷市向畑の墓守堂が、上記越谷市大松
の清浄院の、現在も所有物である」との情報を入手したため、
墓守堂も武家館関連と見て、もう一度、周辺部を捜索した。
 実はwebの情報では、墓守堂を中心とする領域が、以前調
査した向畑(むかいばたけ)館跡ではなくて、そこから、
約300m西側が、向畑館跡、または新方(にいがた)館跡だ
という情報があり、船の沈没位置の捜索も、webの情報に基
づいて、この日にやり直した。その結果驚いた事には、

webの言う船の沈没位置の様子は、その約300m東の、
墓守堂の、対応する農道附きの部分と、ほぼそっくりだった。

つまり、同じような場所が、300m置いて2箇所見つかった、
という事である。違いは、整備済みの用水路が、web版の
船沈没予想地には存在するが、墓守堂北地点には、存在しない
点位である。どちらも、畑ではあるが、現在、栽培物等が、
ごちゃごちゃある場所である事には、なんら変わりがない。
だから、

すでに私が書いたコメントは、どちらの船沈没候補地点につい
ても、当てはまると思う。

 それ以上何も書かなかった方が、混乱も少ないかとも、上記
部分の書き込みには躊躇したが、一応結果を述べる。
 なお、当日webの方では、農家の方が畑仕事をしていたが、
高齢者だけで、若者の姿は、特に見当たらなかった。また文献
のように、確かに遺構は整備し尽くされた(web地点のケー
ス)か、または、存在しない(墓守堂地点のケース)が正しい
が、

webの言う船の沈没予想地点近くにも、文献の位置とは、
何れも合わない、対応する館周りの、時計回り90°ズレた
位相の互いに等しい位置に、似たような盛土のような物があり、
こっちは墓守堂北部のように、”低木”ではなくて、”笹”が
生えていた。

なおゴミは、”墓守堂”の方にはあるが、”web”の方には、
埋められてはい無い。よって、

埼玉県越谷市向畑の新方氏の戦国時代屋敷は、並んで複数軒
建てられていた事すら、現在でも判る程度に、何か残っている
可能性が依然有るのではないかと

と私には疑われた。なお、この周辺にも、墓石の破片のような、
何か字が書いてある、手のひらに乗る程度の、石製の小物が見
られた。墓守堂の古い墓石等の、石物の散乱ではないかと想像
された。

向畑館に関しては、「今は何も無い」と広報して、「行政は、
もはや何の手も、打たなくても良い」という、私に言わせると
”妙な空気作り”の手助けになる事だけは避けたいと私見した。

 何れにしても、越谷市大松の清浄院周辺と、越谷市向畑の
墓守堂の周辺とは、持ち主が同じなため、現在は似た状況に
あると考えて、どうやら良さそうである。(2017/03/29)

妖怪駒から割り出す、摩訶大大将棋および後期大将棋発祥の地(長さん)

さいしょに個人的な心象から結論を敢えて書くが、

私は摩訶大大将棋と後期大将棋が、京都の曼殊院内で、発明されたので
はないかと疑っている。

ただし、はっきりとした物証を、私は持たない。
そこで後期大将棋と摩訶大大将棋にあり、小・中将棋には無い「猫叉」、
後期大将棋には無いが、摩訶大大将棋の成り駒として存在する「山(乳)
母」という、2種の妖怪駒に着目してみる。両方とも、今では全国に知
れ渡っていて、この名前から、駒の出身県を推定するのは困難であるが、
伝説や文書で記録が残っていれば、無い県よりも、その妖怪はメジャー
で、大将棋、摩訶大大将棋の出身地である、可能性がより、高いとして、
以下、文献の出現県に注目して、この妖怪の記録の出土状況から、将棋
の出身地を推定してみる。

ここでは私が手持ちの、1995年に小学館から出版された、
千葉幹夫氏の「全国妖怪事典」と、徒然草のみを参照する。

 最初に、妖怪「猫叉」を用いて絞込みを行う。猫叉は有名な妖怪だが、
記録となると全国べったりではない。
まず後者の、吉田兼好の徒然草に「猫叉」が出てくるのは有名である。
よって、京都からは、猫叉が現れる文献が発掘されていると結論できる。
次に「全国妖怪事典」を見てみると、類似の「猫の怪」は多いが、尻尾
が2つに分裂する「猫叉」は、群馬県と香川県にのみ文献があるという。
ただし、群馬県の方は、江戸時代、寛政8年の”イベント”を記録した、
三好想山の「想山著問奇集」によるものなので、後期大将棋等には結び
つけにくい。香川の方は、「香川郷土研究」に、ほぼ猫叉=老いた猫の、
よく知られた内容で、記録があるという。その他、webでは、富山県
の猫叉山の記載などがある。
 次に、「山(乳)母」が出てくる県がこれに重なるか、どうかを調べ
ると、

徒然草の故郷、京都府だけが、「山母」も記録された場所である。

すなわち、「全国妖怪事典」によると、「ドルメン」という文献に、
”山姥は京都府右京区の畑に正月に現れる、いたずら好きの神様で、山
の神が畑に、人間のために作物の種を撒いた直後にやってきて、茨の種
を撒いて悪さをするという伝説がある”という内容になっている。
なお、山乳母、山姥伝説は、妖怪事典にはここも含めて、7箇所紹介
されており、京都の他には、山形、長野、愛知、島根、徳島、熊本に
分布となっている。たとえば徳島の伝説は、三好郡祖谷山地方にあり、
”山姥は、小豆3斗ほどの体重があり、山で『登山に疲れたので背負っ
てくれ』と言われても、必ず携帯する、背負い縄を短くしておいて、
断らなければならない。ただ彼女は、田を開発したり、洗濯物の取り込
みを、手伝ってくれたりもする。”という内容のようだ。その他、神奈
川県には、足柄山の金太郎の母の山姥が居る。他方、群馬と香川、およ
び富山では、この時点1995年には、少なくとも伝説は文書としては、
発見されては、いないらしい。

以上の事から、摩訶大大将棋に存在する「猫叉」と「山母」の伝説が、
両方見つかっているのは、上記2文献等を参照したのみでは、京都府だ
けである。

従って、摩訶大大将棋および、それと対ではないかと疑われる後期大将
棋は、京都府近郊で発祥したものであり、京都の曼殊院内起源と考えて
も、今の所矛盾はないというのが私の個人的認識である。
 しいて言えば、香川県と徳島県は隣接しているから、

徳島市の川西遺跡周辺も、2番目に怪しい、

と、調べてみて一応言えるのかもしれないとは思ったが。(2017/03/28)

遊学往来(西暦1372年)には、将棋、大将棋、中将棋が有る(長さん)

以前、岡野伸さんの、中将棋の記録(一)(2004年)にも書かれた、
「遊学往来」で、5月7日の状に、「大将棋、中将棋のみで、小将棋の
記載が欠落している」と、このブログで書いたが、

岡野さんの著書を、私が読み間違いしたものだった。

 もう一度、岡野さんの文を読むと、古文書からは、はみ出ているが、
岡野さんの文で、将棋、大将棋、中将棋が記載されている旨書いてある。
別の文献の「遊学往来の紹介」でも、同じ内容を確かめた。この「遊学
往来」には、長い名前の、双六の記載もあり、南北朝時代の大将棋は、
その時点で古典的、かつマニアックな、ゲームと見られていた事をも、
示唆しているように思う。

後期大将棋は、南北朝時代には存在したが、私見では、その数十年前には
13×13升目104枚制程度の、普通唱導集大将棋が、ときのエンター
ティナーによって、対局されていた。そして普通唱導集大将棋から中将棋
へ、その後数十年で改善され変化した結果、中将棋が成立すると、ほぼ同
じくして、別の大将棋、すなわち15×15枚目130枚制の後期大将棋
の形に、大将棋も”朝鮮の14×15路(駒数不明)制広将棋に習って”
整えられたのだろう。しかし、後期大将棋や、それと同時に現在に近い形
に少なくとも、初期配列までは作られたとみられる摩訶大大将棋は、事実
上以後、ほぼ形式的にのみ存在し、ゲームの出来が、大駒の割合を上げ、
師子の規則を、たくみに作成した中将棋よりも劣るため、中将棋のように
盛んには、指される事は無かったのであろうと、私は見る。

 以上のように遊学往来に従えば、南北朝時代には少なくとも中将棋が成
立し、室町時代前期以降、飛車角が持ち駒将棋に組み込まれてそれを凌駕
する、日本将棋が成立するまでのしばらく間、主流の座に納まったと見て、
確かに間違いがないように私にも思えた。(2017/03/27)

埼玉県越谷市の新方氏、向畑(むかいばたけ)館跡の確認(長さん)

 2017年3月24日と25日の2日間、埼玉県越谷市向畑の
古利根川を航行した、沈没船が埋設しているとされる場所を、
ほぼ正確にチェックした。なお、関連性が、私には良くわからな
いが、そこより100m程度西に、武蔵国の源姓太田氏の流れと
言う、新方氏の戦国時代の館跡、向畑館跡があるとも言われてい
る。場所は墓守堂という、お寺の近くである。
 昭和59年(1984年)に出版された、「わが町の歴史・越
谷」(竹内誠、本間清利共著。文一総合出版)によると、昭和の
初期までは、向畑館(または、城)の、遺構が残っていたとされ、

昭和59年時点までには、開発が進んでいて、跡形も無い旨と、
記載されているが、”跡形はない”については誤りのようである。

1980年以降現在までの間に、埼玉県越谷市向畑は、東武
スカイツリーラインの大袋等の駅からはかなり遠いため、住宅は
バブル崩壊後は、めだっては建設されていないようで、開発はゆ
っくりである。そしてその間に、主に農家を営む付近住民の高齢
化が進んでいるようで、

伝説の船の埋設地は私有地で、本来畑のようであるが、耕作は、
現在、精力的には行われておらず、庭先の延長でもあるような場
所なのだが、現地はいろいろ物等が散乱して、荒れた状態になっ
ている。

恐らく持ち主に、船を掘ろうという意思があれば、特にここを発
掘しても、街中とは違って、大きな支障も無い、空いた土地状況
なのではないかと観察された。
 また、紹介した上記書籍では「新方氏の館の遺構は、すっかり
無くなった」と書いてある。確かに、館の遺構とされる、書籍に
載っている、写真の溝については跡形も無いが、土塁の一部を、
思わせる、低木の生えた盛り土が、農家の直ぐ横のごちゃごちゃ
物がある、畑の中に見出された。なおそれは現在放置され、頂上
に、噴火口のように穴が掘られ、建築資材らしきものが、穴の口
を塞がずに、その中に埋設・廃棄し放置されている。同著による
と、戦国時代、西暦1500年ころのこの遺跡跡は、埼玉県越谷
市では、”はっきりとした事象としては、最も古い史料遺跡”の
ようだが、保護の手はこれからといった所のようだ。
何れにしても、

 館跡から将棋駒でも出れば、源姓太田氏が戦国時代~安土桃山
時代に、将棋を指したという証明には、あるいはなるのかもしれ
ない。それに対して、船の沈没跡から、仮に木製遺物が出土した
ケースには、その遺物は船員の物であるから、持ち主の素性等は、
残念ながら、余り良くわからないに違いない、

とは言えるであろう。
 なお私の前の報告にも、一部間違いがあった。古利根川の、こ
の辺りの川原には、川洲が少しある。ただし清掃が行き届いてい
て、ゴミ・遺物の散乱は、このあたりには、ほとんど無い。
(2017/03/26)

世界の主な将棋に紹介された、西洋系駒数多数将棋(長さん)

前回、チャンギの駒数多数系将棋を紹介した文献として示した
岡野伸さんの「世界の主な将棋」には、侍従駒を大駒に変えて
いるという点で、西洋チェス的な、ローカルカントリー・ゲー
ム(古典将棋版)として、インドと、スペインの、今は廃れた、
将棋を紹介している。廃れた訳なので、出来はかならずしも良
くないわけであるが、web等では、余り見かけない、貴重情
報なので、ここでも、ゲームそのものを紹介しておく。
 インドのゲームは、シャトランジの大型版で、以下の、世界
の主な将棋で紹介されている、インドのシャトランジ自体が、
副官駒を、チェスの女王に変えているので、チェス型とみなせ
ると、私は考える。つまり、シャトランジは、岡野伸さんの
上記書では、次のようなゲームである。

8×8升目で、王を中央左として、相手を見る形として、次の
ように配列する。
一段目:車、馬、象、将、王、象、馬、車
二段目は兵が計8枚。
動かし方は、
王:縦横斜めへ隣接升目へ1升。1度だけ八方桂の動きが可能。
将:チェスの女王の動きである。
象:斜めへ2升まで。
馬:八方桂馬。
車:飛車の動き
兵:チェスのポーンと同だが最初だけ2升目というルール無し。
兵だけ成り、そのとき居る列筋の自陣最下段の駒と同じ駒に成
る。(チャトランガタイプ)ただし、王の段に居る兵は将に成
る。
以上のように、将がチェスの女王の動きのため、この著書で
紹介されているシャトランジは、侍従ゴマを大駒に変化させた
よりチェスに近いゲームである。

そして、インドのシャトランジと同じ系統で、駒を新たに加え、
駒数多数化した将棋が、12×12升目48枚制の以下の、
アトランジというゲームである。このゲームは、文献には現れ
るが、現在では、ゲームされていないようとの事である。ルール
は、以下のようになっているようで、玉は中央の左として、同じ
く相手を見る形で、次のように配列する。(チェスとは違う。)
一段目:車、馬、旗、戦車、象、帥、王、象、戦車、旗、馬、車
二段目は兵が計12枚
動かし方は、
王:玉将の動きのみ。
帥:チェスのクイーンの動き。
象:角行の動き。
戦車:飛車の動き。
旗:角行の動き。
馬:八方桂馬。
車:飛車の動き。
兵:チェスのポーンと同だが最初だけ2升走というルール無し。
成りは、シャトランジのパターン。ただし、王、帥列の兵は、
チェスと同じルール。また、昇段しようという駒は同じ種類の
味方の駒が無くなった分しか作れない。そこで成る事によって、
過剰な数の状態となってしまう、奥2段目兵は、消耗するまで
そのまま動けず、成り後の味方駒種の1枚が、相手に取られた
らその兵を、1段目に上げなければならない。
またステイルメイトの規定が特殊で、回避させるために、相手
の王以外の駒を、盤上から取り除ける。

つまりアトランジは、駒の種類は増えたが、動かし方は角行や
チェスのビショップの動きの駒以外、新しい動きのタイプの駒
が現れない。馬を除いて、大駒は皆、走り駒である。
以上が、インドの12升目タイプの紹介されている古典、駒数
多数タイプの将棋で、これはチェスタイプの拡張型である。

 次に以下が、同じく岡野さんの著書で紹介されている、古い
時代のスペインのチェス型ゲームで、グランド・アセドレフで
ある。
 このゲームは、次のようなルールになっている。
初期配列は、チェス同様、先手の黒が王が中央の左、後手の白
の王が、中央の右となり、白から黒を見わたす向きで、次のよ
うに、初期配列される。
一段目:城、ライオン、ユニコーン、キリン、ワニ、グリフォ
ン、王、ワニ、キリン、ユニコーン、ライオン、城
二段目と三段目は全部、空き升目で、
四段目に兵を合計12枚、配列する。
駒の動かし方のルールは、以下の通り。
王:玉将の動き。ただし初手だけ、大局将棋の玉将や白象の動
きができる。(初期配列からは縦、横、斜め8方向、2升目ま
で走りという事である。)
グリフォン:斜め1升目と、そこから縦横に動く。前の地点と、
1筋ズレて走ると言うことである。
ワニ:角行の動き。
キリン:縦横3升目まで走りに加えて、3升目の地点から、斜
めで、遠ざかる2隣接升目へ1升目歩む。
ユニコーン:初期配列位置からは八方桂馬。ただし、そのとき
相手の駒を取れない。別の升目に移動したのちには、角行と同
じ動きに変わる。
ライオン:縦横3升目まで走る。
城:飛車の動き。
兵:チェスのポーンと同だが最初だけ2升目というルール無し。
兵だけ成り、そのとき居る列筋の自陣最下段の駒と同じ駒に成
る。(チャトランガタイプ)ただし、王の段に居る兵はグリフ
ォンに成る。(この点でも、チャトランガに似ている。)
裸王は負けだが、スティイルメイトもあり、自分の別の駒と、
王との位置を交換する手を特別に指して、回避できるという、
特殊ルールがある。

以上のように、スペインの古い時代の駒数多数将棋、12×1
2升目48枚制グランド・アセドレフも、チェス型の拡張ゲー
ムではあるが、単なるチェスの拡張ではなく、その系統では
あるものの、特殊な動きの駒を加え、その割合が多い。たと
えば、クィーンに当たる駒が無いのも、大きな特徴である。

以上のインド、スペインのそれぞれの、古典、駒数多数将棋は、
岡野さんが確認した範囲では、現在は盛んではない、日本の
中将棋のような境遇のゲームである。チェス型で大駒を更に増
やしても、その点ではゲームの劣化が起こらないが、盤升目数
を二桁とすれば、大駒が中央段に来ないで、真ん中がガラ隙に
なるという棋譜の見栄えの悪さ、「中央大穴」の問題が発生す
ると、私は認識している。そのため、ヒャーという特殊なルー
ルを持つ駒を導入するなどして、問題を回避したモンゴルの、
ヒャーシャタルは生き残り、インドのアトランジと、スペイン
のグランド・アセドレフは、余り指されなくなったのだろうと、
考えるのである。(2017/03/25)

シャンチーの升目中置きから交点置きへの変遷(長さん)

 前回のべた、北朝鮮チャンギの古い時代の駒数、盤路数の多い
ゲームは、指された時代の特定が大切なため、ここでそれ以前と
される中国チャンチーに於いて、駒の升目中置きから、交点置き
に変わった経過について、補足しておきたい。
 ここで紹介する文献は、岡野伸氏の「世界の主な将棋」という、
自費出版冊子で、1999年に出版されたもののみである。
 岡野氏の同書によると、北宋時代の終わりに微宋という皇帝が
おり、侍従駒の士が、西暦1125年までの、微宋の在位期間内
に成立し、シャンチーは、現在の形になったとの事である。なお、
北朝鮮15段チャンギの成立時代を特定するには、升目中置きか
ら、交点置きに移行した時代を、はっきり特定しなければならな
いが、移行期には、両方が並存と記載してある。文面からは、

升中から交点への移行期そのものの年代は、ほぼ西暦960年~
1125年までのうちの一部ととれ、岡野氏の著書では、残念な
がら、実は年代がはっきりとは、しないようであった。

 しかしながら、彼の著書をよく読むと、別の手がかりが存在し
た。

つまり、そもそもチャンギの原型が発生したのは、シャンチーが、
北宋で皇帝が微宋に、西暦1100年に交代して確立した後に、
中国から朝鮮に伝わってからであり、チャンギ類そのものが、そ
れ以前には、存在しないと、とれるのである。

そしてその後、チャンギにも変遷があり、現在の形になったのは、
李氏朝鮮王朝の成立した、1392年以降と、岡野氏の同著には、
記載されている。
 そこで、彼の著書の内容に、誤りが無ければ、14筋15段型
北朝鮮古チャンギの発生と、日本への伝来時期は、その間から、
成立後50年程度後までの事と思われ、西暦1100年から西暦
1450年前後の、どこかであるには、間違いが無いのだろう。

 その中でも中心時期の、西暦1200年~1350年程度が、
前回のべたように、やはり14筋15段型北朝鮮古チャンギの、
日本への伝来時期というのが、よほどの不運が無ければ一応、
確実視できるのではないかと、私には判断された。

鎌倉時代の初期、大将棋は二中歴の記載のように13升目であ
った。が、鎌倉時代中期から、南北朝時代にかけて、北朝鮮の、
15段チャンギが紹介されると、それが、ひょっとすると原因で、
大将棋が15升目制へ、12升目制の中将棋が成立した、恐らく
日本の南北朝時代頃になってから、変化していったのかもしれな
いと、私は思う。(2017/03/24)

日本の大将棋の升目数は、北朝鮮の広将棋の路数の影響か?(長さん)

先に半澤敏郎先生の童遊文化史に、大将棋と広将棋とが、同じ物との
記載があるという、文書の存在を、このブログで述べた。が更に、
岡野伸さんが自費出版した、「世界の主な将棋」(1999年)の、
チャンギの歴史と現状の所で、荻生徂徠の広将棋でも、中国北宋時代
の晁補之の、19×19路98枚制の広将棋でもなく、北朝鮮の
古象棋の広将棋という、第3の広将棋が存在し、しかもこれについて、
このゲームの路の数が、後期大将棋の升目数の、根拠となっている
のではないかという点を示唆する、重要情報を述べられているのに、
ようやく昨日私は気がついた。「世界の主な将棋」記載に沿ってのべ
ると、以下のような趣旨となる。
 朝鮮版の広将棋については、北朝鮮のチャンギが掲載されている本
の中に、一部で紹介されている。たとえば「雷淵集」によると、西暦
900年代から1392年まで続いた高麗時代に、その広将棋があっ
た。盤は縦(筋の数)が14、横(段数)が15(段)。宮に当たる
と見られる内営があるほか、上軍、中軍という、駒の段組とみられる
ものがある。詳しいルールは、残念ながら、記録が無いようである。
従って駒は、升目の中ではなくて、交点に置くタイプが指された
時代のもののようである。岡野伸さんは中国象棋の所で、日本の時代
で、平安中~末期の時点で、シャンチーが、将棋のような升目の中置
きタイプから、交点置きタイプに変化し、それが中国と朝鮮半島へ、
広がったとの旨、紹介されている。従って、上記”北朝鮮の広将棋”
は、鎌倉時代初期~末期のころのものとみられる。そしてこのゲーム
は、日本の大・小将棋間の関係といっしょで、駒の数がチャンギより
も多く、ルールが普通のチャンギよりも複雑である。なお「このゲー
ムは後に日本にも伝来した」と、上記朝鮮の文献には記載されている
という事らしい。
 以上の岡野さんの「世界の主な将棋」の記載をまとめると、つまり、
大将棋は、14筋15段のチャンギの仲間の、北朝鮮チャンギ類の
広将棋という、古い時代のゲームとの、関連性が疑われ、江戸時代の
著書には、「同じ物である」と断定するものも、あるという事に、
どうやらなるようである。

二中歴の平安大将棋の記載には、「13升目の将棋である」と明確に
記載されているにも係わらず、後期大将棋が15升目なのは、あるい
は、鎌倉時代末期程度に、北朝鮮の広将棋が伝わり「これが中国北宋
時代の、シャンチーの類の広将棋である」とされると「平安大将棋が
13升目である」との、二中歴の記載は無視され、「大将棋は、中国
北宋広将棋である」との、鎌倉時代末期時点での日本の伝説に従って、
升目の数だけを、とりあえず大将棋について、チャンギ系広将棋の
15升目に手直ししたためではないかという事に、あるいはなるのか
もしれない。

私見では、鎌倉時代末期、西暦1300年頃の普通唱導集の大将棋は、
13×13升目盤だとする、私は少数意見論者である。が、13を、
15に変えても、文句が出ない根拠が、いままで、もやもやとしてい
て不思議でならなかった。しかしそれが、なんと外国のゲーム、チャ
ンギの歴史に関係があったとは。今、この情報にとても驚き、貴重な
ものと、関心しているところである。(2017/03/23)

童遊文化史の「玉将攻め将棋」(長さん)

以前紹介した半澤敏郎先生の表題著書は、もともと子供の遊びの研究書
なため、かなりの分量を割いて、本将棋以外の将棋遊びについて、紹介
されている。書かれている遊びのうちの多くは、よく知られている物ば
かりのようだが、webも含めて、余り他で、言及されていないものに、
表題の”玉将(王将)攻め将棋”というのがあるらしい。
これは、守り方が玉一枚を、盤の恐らく中央(天元)に置き、攻め方が

一定枚数の、玉駒以外の一般駒を、最初から”持ち駒”として持って、
先手で打ってゆき、通常の、駒の動かし方で、後手の守り方の、最初か
ら裸の玉将を詰める

というものである。ただし、童遊文化史によると、攻め方は駒を打つ事
は許されるが、同じ駒は移動できず、利き筋に玉が入れないだけであり、
打つ手しか指せない。それに対して、後手の守り方には味方駒も、持ち
駒もなく、玉将が逃げる事だけ、許されるらしい。つまり、

この将棋は必ず、攻め方が最初に持つ持ち攻め駒の数の、2倍の着手で、
終局になるのである。

むろん、玉が詰まれたら攻め方の勝ち、逃げられたら、守り方の勝ちで
あり、相互に攻めと守りを交代して、攻め方のときに詰んだ局数が多い
方が、総合的に勝ちと判定される。
 童遊文化史の玉将詰め将棋の記載は、比較的短く、出典も謎なので、
この本の全体的な流れから見て、江戸時代の将棋遊びについて、述べて
いるのだろうと、推測するしかない程度の確かさしかない。だが、攻め
駒の構成に関する、この成書の記載からみて、

洗練されて、流行った遊びとは言えないように、私見される。

すなわち、記載された初期攻め持ち駒の数が、9×9升目上を逃げ回る、
裸玉を詰むには、やや多すぎるのである。実際にざっとやってみると、
将棋が指せる方なら確認できると思うのだが、裸玉を、日本将棋の9×
9の盤上で並べ詰みにするには、

金将2枚、銀将2枚、桂馬3枚、歩兵3~4枚の計10~11枚程度の、
先手最初からの持ち駒で、充分ではないかと私は思う。童遊文化史に書
かれた、必要攻め持ち駒の数が、これよりかなり多く、ゲームデザイン
上、優れたゲームとは言えないように、私は思うのである。

また、飛車1枚と、香車が2枚の計3枚で、中央玉は、”割り箸詰み”
になるので、飛車、香車を、攻め駒の構成メンバーに入れない事が、記
載されていないのもおかしな点だと私は感じる。つまり、アイディア倒
れで、実際には、少なくとも上記のような単純なルールでは、
玉将攻め将棋は、江戸時代には、盛んに行われたという事は、なかった
のではないかと、私は予想している。ただし、この”遊び”が仮に、も
っと古い時代に行われていたとしたら、事は重大だと思う。

何故なら、玉将攻め将棋が有ったという事は、小将棋に持ち駒ルールが
その時点で有った、というのと、だいたい一緒ではないかと、私が考え


からである。たとえば、南北朝時代の小山義政が、出家して小山永賢に
なった西暦1381年時点で、息子の隆政といっしょに、玉将攻め将棋
の類をやっていたという史料でも見つかると、鎌倉時代末期の普通唱導
集に記載された小将棋には、持ち駒ルールが有ったと、ほぼ断定できる
ようになる。そのため将棋史への影響が、はかりしれないものがあると、
私は思う。玉将攻め将棋は、本将棋とは全く違うものであるが、本将棋
が指せないと、遊べないという点が、たいがいの子供の将棋遊びとは、
大きく違っている。それで、大人が玉将攻め将棋の類を、全くしないと
も決めつけられないだろう。本来指せるはずの本将棋をしないで、同じ
道具を用いて、玉将攻め将棋で遊ぶのは、たとえば”武将には本将棋が
難しいから”ではなくて、

 指し手総数が、せいぜい一局20~30手で終わり、100手前後の
日本将棋や、数百手必要な、大将棋系ゲームとは、勝負が付くまでの時
間が、全く違うためと思われるということである。

 仮にそれを文献にまれに出ているように戦場でするとして、その戦場
の、息抜き程度の時間で済むから、武将は本将棋を指すのではなくて、
家伝の将棋具を持ち出して、玉将攻め将棋遊びを、するのだろうと私は
思う。
 豊臣秀吉の後継者が、水無瀬兼成より進呈された、泰将棋や摩訶大大
将棋の駒を、どう使用したのかについては諸説あるが、個別の例につい
ては、いちいち使用方法の特定が難しく、必ずしも本来の、本将棋用に
使用してばかりいたとは、決め付けられないという点が、将棋史研究の
確かに難しい所だと、私も思っている。(2017/03/22)