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”す~ぱ~えっじ”さんのブログの改善大将棋ゲーム”大将棋復活”の成り条件則(長さん)

 駒数多数の将棋について、A-Kasakaさんと同様の紹介
ブログに、す~ぱ~えっじさんの、古典将棋の紹介ブログという
のが以前からある。このブログも残念ながら、現在は、ほとんど
動きが無いようである。ここに私が以前作成した、後期大将棋の
ルール変更版の将棋が紹介された。今も閉鎖されずに見れるのは、
たいへんありがたい事である。具体的なルールは、ページを見て
頂けるとわかると思うので、オリジナルの記載に、事実の確認は
任すことにしたい。そのルール改善で、最も作用が大きいのが、

成り条件の変更則で、その中の③、
”③自陣の最も奥にある駒、即ち金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
桂馬、香車については特例があり、自陣のすぐ外(六段目、自軍
の仲人が配されている段)以降の上段では①と同様、日本将棋の
成りと同様な方法で成る。これを早成りと言う。”である。

これは、このブログで以前明らかにした、

”駒は最前列に出て、2番手の駒より段数が一定数量以上大きく
なったら成れる(このケースは、具体的段差は「4段以上」で良
いと思う。)”という”逆オフサイド成り”と同じ効果を、別の
ルールで、発生させるもの

である。

ここでは、どちらがより優秀なのか。この点がかなり大事なので、
その点だけ述べておきたい。なお、前者より後者の方が新しい
ルールである。結果を言うと、

後者の方が、必要な目的をより完全に達成できるので、より優れ
ている。

なぜかというと、

後者のルールで、特にその列に、小駒が一枚だけ残ったとき、そ
の駒について着手すれば成れるので、侍従駒が終盤で、より消え
やすくなるからである。

そもそも終盤、大将棋では依然玉将は、1段目か2段目にある場
合が多い。従って、侍従小駒が6段目まで上がらないと成れない
のでは、侍従駒が成るケースは、ほぼ無いと見てよい。すると終
盤、成り麒麟の侍従駒喰い競争による、詰め合いパターンが増え
るという展開を、”早成り法”では”成りが依然遅すぎて”、防
ぎきれないのである。
よって、”早成り法”より”逆オフサイド成り”の方が、より優
秀なルールである事が、今では判っているのである。
以上の点を変更すれば、す~ぱ~えっじさんが紹介している”大
将棋復活ゲーム”は、最悪出来が悪くても、西洋チェスレベルで
は、面白く楽しめる将棋だろう。

本人は忙しくて、古典将棋のページがなかなか現在更新できない
ようだが、削除されないように長年、維持してくれている点には、
私としては、ただただ頭が下がりっぱなしである。(2017/02/28)

「懐古主義者の新しもの好き」ブログ、A-KASAKAさんの拡張チェス紹介(長さん)

 ここのところしばらく、更新の止まっているブログで、駒数
多数系将棋も紹介されているサイトに、A-AKASAKA
さんの、表題のブログがある。このブログの特徴は、チェス
の駒数多数ゲームについて、特に詳しい事で、16×16升目
128枚前後制チェスの紹介と共に、日本の大将棋と駒数多数
系チェスの発展が、比較されている。桂馬類の発展が、日本の
駒数多数系の大将棋系ゲームには無かったという点が、特異的
であるとし、ルールの表現方法が古文書の著者にとって、煩雑
だったためではないかと、指摘されている。

 基本的に、安土桃山時代から江戸時代、将棋本を作るための、
駒数多数系将棋であったような所があり、定規と筆で升目を
作成するのが煩雑で、桂馬跳びの表現が難しかったために、
そのような駒種は、作らなかったのだろうというのが私の考え
のため、彼のこの認識には基本的に、私は賛成である。

そもそも西洋チェスの場合、盤升目が15を超えたのは、前世
紀になってからであり、どう遅く見積もっても、天竺大将棋の
歴史が400年を超え、また印刷術も大陸より遅かったわが国
とは、「桂馬跳びの図示のしやすさ」は、条件が全く違って
いたように、私には思える。また彼は、「チェスでは玉囲い戦
術が、余り発達しなかったために、日本将棋と異なり、ナイト
拡張駒が多くなった」と、指摘している。これについては、

彼の議論は、天竺大将棋クラスの駒数のゲームを対象にしてお
り、そのクラス駒数、盤升目数のゲームについては、彼の言う
とおりだと私も思う。

ただし、私の場合は、

駒数数千、盤升目数十×数十のゲームを、典型的駒数多数ゲー
ムとイメージするため、このクラスになると、彼の言う「ナイ
ト拡張駒」は、私の言い方だと「利き筋が1升目ズレた走り駒」
でしか無い。つまり、実質走り駒を増やしたのと、ほぼ同じで
あると言うのが、駒数千オーダーの、仮想のチェス拡張ゲーム
に関する私のイメージだ。そもそも私の認識によると、今の所
西洋の駒数多数チェスゲームで、ナイト拡張駒というのには、

「ナイト型の動きをしてから、走る」という駒が主流で、
「走ってから、最後にナイトの動きをする」という駒種が、
余り見あたら無い

と感じている。これは、玉囲いの侍従駒を、相手走り駒はかな
りのケースに跳び越せない、日本将棋と、盤升目がどんどん
増えてゆくと、実質ほぼ同じに、なってしまうのではないかと
私は思う。つまり、16升目×16升目程度のチェスでは、
升目の数が20も無いわけだから、桂馬跳び超えは、戦術とし
てかなり目立つのかもしれないが、これが例えば、81升目×
81升目のゲームともなれば、最初の跳びついで走りの動きは、
単なる走りとほとんど同じであって、せいぜい利き筋が、1升
目ズレる程度の、効果でしかないケースが多いように、私には
思えるというわけである。
よって、私に言わせると、

ナイト拡張駒がそれなりにある西洋チェスの駒数多数ゲームと、
走り駒等の大駒だけを増やし、小駒の数はもとのままの、
私言うところの、日本の
「鎌倉初期に、大将棋が本来目指したタイプの駒数多数将棋」
とは、
盤升目が、数十程度以上になると、結局ほとんど、同種のゲー
ムにしか、見えなくなってしまうのではないかと

いうのが、目下の所の私の予想と言う事になる。なお、A=
KASAKAさんのブログは、現在休止の状態が続いている。
一日も早い御再開を、心より祈りいたしたい。(2017/02/27)

東京都港区愛宕下遺跡の裏二文字金将鉄将駒状木片(長さん)

 2017年2月25日、3年強前に出版された、考古学の成書
を読んでいて、web上では聞いたことの無い、「大将棋駒」が
書いてあるのに、仰天させられた。東京都港区の虎ノ門・新橋・
芝公園等に囲まれた愛宕で、恐らく2011年頃に、「大将棋駒
と特定される、成りが二文字の金将である、鉄将の駒に、大きさ
が近い木片が見つかっていた」と書かれていたのである。書籍の
名前は、

「事典・江戸の暮らしの考古学」2013年発行、執筆担当者は、
小平市教育委員会の小川望先生

である。なお書籍にはこの「将棋駒状木片」の図面も載っている。

形が特異で、五角形ではなくて、長方形の「将棋駒」である。

なお、個人的に私は、

この駒が「典型的な大将棋の駒」ととれる、小川先生の表現には、
賛成できない。以下に述べるように、”大将棋”の成りルールは、
不成りの説も強いし、更には、成りが一文字金で表現、表記され
ていなくて、ルールのまんまの、二文字金将なのが、”近世の将
棋駒の表現方法”として、余り見かけないものだからである。

 なお、この駒の出土した東京都港区愛宕下遺跡は、都心にあり、
高速道路の工事で破壊する前の発掘調査で、期間は長かったが、
多分出土は2011年頃。発表は、前記事典・江戸の暮らしの考
古学が発行される、少し前だったろう思う。webから察するに、
現在は、東京都市整備局が、現地で出土した別の遺跡といっしょ
に、保管していると思われる。
 また、この界隈に人が多く住みだしたのは、江戸時代初期であ
り、従って「遺物は江戸期のもの」と特定されている。武家屋敷
に居た人間の作のようだが、汚れており、もともとのできばえも、
今の出土物からは、もはや良くわからない。だから駒を”鉄将”
とした根拠も、やや弱い。”鉄”厳密には”鐵”の字の、ツクリ
の部分は、残念な事に、かなり擦れていて、読みにくくなってい
る。江戸時代だとすれば、”銀将”木片が出るというのが、常識
的に見て最も自然だと私は思うが、それにしても成りを、現代の
銀将駒とは全く違って崩さず、更に”金将”と書いている理由は、
やはり腑に落ちない。なお、駒名の”鉄将”の”鉄”に、間違い
ないかどうか、私は確認していない。疑いも持てると私見する。
書籍の図を見る限り、鉄の字が、旧字体の”鐵”ではなくて、本
当に、新字体の、”鉄”と認知されている疑いすらあるほど、字
ははっきりしない。なお、この駒が仮に”後期大将棋の鉄将の成
りが、金将である場合がある事を示している”のだとすれば、江
戸時代の将棋の本”将棋図式”の記載が、引用元は依然謎である
ものの、中身が一応正しかった事を証明する、初の物的証拠にな
るはずである。つまり江戸時代の古文書によると、この出土駒は、

「有る説」によると”(後期)大将棋の鉄将”だと言う事である。

 なお大将棋類でも、
天竺大将棋の鉄将は竪兵へ成り、
摩訶大大将棋の鉄将は奔鉄へ成り、
大大将棋と泰将棋の鉄将は不成り、
大局将棋の鉄将は大局将棋の白象へ成り、
更に先に述べたように、平安大将棋の鉄将の成りは不記載、
水無瀬兼成の将棋部類抄では、後期大将棋の鉄将は不成りである。
そして

「成りが、とにかくルール上”金将”である鉄将」というのは、
江戸時代の将棋本「将棋図式」で初めて、
「(後期大将棋の)鉄将は不成り。
ただし敵陣に入って、定説は不成りだが、ある説では金成りであ
るともされる。」という所でしか、”大将棋(類)駒の証拠”と
して、従来は、そもそも、サポートされていない情報

だったからである。
形が長方形だったからであろうか。はたまた鉄の字が擦れていた
ためであろうか。これだけの重大な情報を孕む遺物が、発表から
3年以上たった今でも、web上の遊戯史関連サイトで、まった
く言及された例が発見できないほど、情報が埋もれていたと思わ
れる事は、この将棋駒の存在を知らなかったのが、私だけではな
いとすれば、実に驚くべき事だったと言えると思う。(2017/02/26)

モンゴルには8×8升目32枚制シャタルの他になぜヒャーシャタルが存在するのか(長さん)

 日本には鎌倉時代末期まで、概ね主な将棋として、「将棋」と
略称されることもしばしば有る、小将棋の他に、大将棋が常に、
平行して存在し続けた。実は世界には、同様なパターンがもう一
地域あり、それは、モンゴルである。すなわちモンゴルの古典チ
ェスゲームに、シャタルという、西洋チェスと実質同じと見なし
てよいゲームがある他に、10×10升目40枚制のヒャーシャ
タルという、日本の大将棋様のゲームが存在する。日本の場合、
私見では、9×9升目36枚制取り捨てタイプの平安小将棋
(定説型)が、ゲームとして出来が悪かったための、新規開発と
既に述べたが、モンゴルの場合については、大小シャタルが、
どうして並存して居るのかを、ここでは考察する。結論としては、

盤升目を10升目四方にした時に、既に発生して居る、”中盤の
中央大穴棋譜の見栄えの悪さ”を隠すための工夫に成功して、
大盤升目ゲームが、たまたま生き残ったためとの説

を私は取る。なお、キャスリングが無い以外は、シャタルは、細
かい問題に目をつぶると実質チェスと同じと見てよいから、現在
チェスに、9×9升目36枚制取り捨て平安小将棋(定説型)
タイプのような、欠陥は無い。ので、鎌倉時代等の日本の将棋の
大小の並存とは、事情が明らかに別と考えられる点だけは、確か
と考える。
 そもそも、チェスの場合、8×8升目なら、中段の段数が少な
いので目立たないのだが、ポーンとキング以外は大駒ばかり、更
にナイトを更に除けば、全部走り駒なので、走り駒が中段に留ま
る確率の低下の効果は、2桁升目の10升目になれば、じわじわ
と目立つようになる。そのため、中段に空隙が出来た、棋譜の見
栄え悪いヒャーシャタルが、ヒャー駒(白象動きの駒)を、単に
加えただけでは増加した。そこで、10升目にすることによって、
チェスゲームは、見栄えに難が出来るので、普通は8×8タイプ
に駆逐されてしまうと、考えられるのである。
 前に、その回避策として、私もたとえば「女王」「僧侶」「城」
駒の少なくとも一部、たとえば前二者を、初期位置では、日本将
棋の金将や銀将のように小駒に変え「その列で最前列に出て、し
かも2番目の駒との段差が2段以上(前の前の升目)になったら、
初めて、本来の女王や僧侶に成る」といった、いわゆる、「サッ
カー逆オフサイド成り」のルールを、導入する案を、出した事が
あった。これなら、女王や僧侶が、10升目チェスでも、中段に
配置されるような、中盤の棋譜が生じやすくなるのである。
 ただし、この「中段大穴問題」は、回避の方法がむろん、これ
に限定されるとは限らず、ヒャーシャタルでは、ヒャー駒につい
ての、特別な規則を作り、

味方のヒャーの隣接升目を、女王(シャタルでは虎)、僧侶(同
じくシャタルではラクダ)、城(シャタルでは牛車)等の走り駒
が、通過する確率が大きいため、そこで止まって、先に行けない
ルールが適用される事によって、走り駒が中段に有る棋譜の出現
確率を増やしている

のである。ちなみに相手のヒャー(参謀)の隣接升目へは、相手
のヒャーの利き升目なため、多くの場合、経路が塞がれているの
と、実質同じと考えられる。なお、ヒャーの動きは、先に述べた
ように、大局将棋の白象の動きであるから、隣接升目はすべて、
利いている。
 以上のような状況から、モンゴルに「大きな」シャタルが有る
のは、チェスとほぼ同等のシャタルの升目を一旦増やして、大盤
升目チェスを、最初は気まぐれで、たまたま作ろうとした所、
「中段大穴問題」が発生。その回避策が思考錯誤された結果、
モンゴルでは、その方法が、たまたま発見されてしまって定着し、
すなわち味方走り駒の、休憩地点のような役目をするヒャー(参
謀)駒の発明に至って、大・小シャタルの並存が最近まで続いた、
という事なのであろう。
 何れにしても西洋チェスの大型化は、日本の大将棋の初期の方
法論と同じと、少なくとも私は見ているから、モンゴルのヒャー
シャタルは、日本の大将棋と同系統のゲームと、明らかにいえる
と、少なくとも私は考えている。(2017/02/25)

「中将棋の記録(一)」岡野伸著の中将棋初出記録(長さん)

 もう13年前の事になるが、「世界の将棋」の著者の一人として
知られる、神奈川県の岡野伸先生より、表題の成書を直接、譲って
いただいた事が有る。最近、この本を見直して、気がついたのだが、
中将棋の初出文献とされる、南北朝時代の遊学往来の記録は、遊学
往来そのものの記載ではなくて、それを書写したという、近世製作
の「尊円流庭訓続遊学往来」の記録が根拠との事らしい。

つまり初出文献として、内容に信頼性が、充分にあるという記録で
は無いと、少なくとも岡野伸さんが指摘している。

なお、岡野さんのこの著書では2番手は、西暦1424年の花営三
代記の「奔王出す」と記載されている、有名な一文の文書、となっ
ている。現在では以前と異なり、西暦1300年前後とみられる、
普通唱導集の、大将棋の記載に注目されており、ここで記載された
”一定の定跡を持ってしまっている”大将棋が、1350年頃まで
続いて、そこで定説のように中将棋に取って代わられたのか、ある
いは、1400年まで続いて、南北朝時代が終わって、”楽しみで
将棋を指す15世紀に入った”後に、中将棋が発生したのかは、以
前より増して、どちらかでかあるかが、シビヤで重大な、問題にな
っていると、私は思う。

 よって、この50年余りの、ナンバーワンの文献が、書写本であ
る事から起因する、中将棋発明時期に関する不確定性は、2010
年代の将棋史に、興味を持つ者としては、かなり痛い点だと感じら
れる。

あくまで私見だが。通説の「中将棋・南北朝時代発生」説は、普通
唱導集の記載からしても、大将棋の何らかの手直しを、南北朝時代
には誘発したであろうから、この書写という「大将棋と中将棋は賭
博の道具」で、小将棋にはその賭博性について、なぜか言及が無い
点が謎の、遊学往来写しは、正しい伝承だと、今の所、私は信じた
い所である。しかしできうれば、「遊学往来」の、より原典に近い
ものが、今後発掘されるとかして、更に証拠が強められることを、
私としてはただただ、期待するしか無い。もどかしい所だと正直感
じる。(2017/02/24)

埼玉県春日部市赤沼南部の調査(長さん)

2月22日、前に”大川戸の八幡神社(はちまんじんじゃ)を
調査したとき、その北の部分であった、埼玉県春日部市赤沼の
南部分を、地面を目視により調査した。

有望なのは、埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸の八幡神社の、一角
だけで、その北の、春日部市赤沼の南の方には、特に遺物は、
広がってはいない事が判ってきた。

ただし、”赤沼”という停留所のある、東武スカイツリーライ
ンの千間台(せんげんだい)駅から見て、古利根橋を渡って、
その向こう側、橋の西側の古利根川沿いのタモトに、弱い土器
片のような、陶器のカケラが見られるようだ。なお、松伏町大
川戸の東側に、盛り土と人工池を造って、ごく最近作成した、
緑の丘公園と称する所が有るが、この施設は、遺跡の類とは全
く無関係に、造られたもののようだった。
恐らく、ここの八幡神社は、比較的近世からの由緒のある所で、
さまざまな、お祝い事等に過去長い間使用された結果、境内に
比較的多数の、遺物の散乱が、見られると言う事のようである。
(2017/02/23)

「如是一方如此行方准之」の溝口和彦さんの解釈(長さん)

 二中歴の大将棋の記載については、その末尾の10文字が、意味不明
で「誤写」が定説である。その部分について、故溝口和彦さんが、どう
解釈されていたのか。彼のブログが閉鎖される前に、記録しておきたい
と思ってこのページを作成した。結論を言うと、彼のブログの比較的初
期の方の記載から明らかなように、二中歴・大将棋この部分の

①溝口和彦氏の解釈は、

ある方の駒は必ず一方だけに属し、必ず取られた後もこれに準じる。
(敵のものにならない)

であった。つまり

「平安大将棋が持駒ルールではなくて、取り捨てルールである事が、記
載されている」というのが、故溝口説である。

むろんこの部分は「准之」のすぐ前に、古文書文法では頻出すると言う、
明確な「題目化した目的語」が見当たらず、誤写が正論と見られる部分
なので、他にもいろいろに解釈されている。
たとえば、

②wikipediaでは現在、

以上の配列は一方について述べたものであるが、相手側もそれを点対称
に映したものになっている。

という意味とされている。つまり、

「平安大将棋は、敵味方が平手で始まるゲームである」という事につい
て述べているというのが、wikipediaに記載された解釈である。

③なお私は以前幾つかのブログで昔、次のようにコメントしていた。

後方の歩兵に押さえられて、注人は実質一方にしか進めないので、注人
は、その(歩兵の)類「準歩兵駒」である。

つまり、この部分は、実際にはその前段の注人の説明の続きで、本当は、
”如此行方歩兵准之”とすべきところ、”歩兵”の2文字が、題目化し
た目的語として、脱落していると見ていたという事だ。

ただし、現在は、二中歴のルールの説明の構成上、成りの規則が見当た
らないのが不可解で、これが両面”飛龍”の平泉出土駒との、整合性を
欠いており、よって成りの規則が、脱落部分に記載されていると見て、

④今の私の説は、
「まず、

『(それ自身とその後方の駒の動きの性格上、後方の駒に常に押さえら
れて、元の動きの後方部分は無いに等しく、)前の一方にしか実質進め
ないような駒は、もともとその一方にしか進めない、それらと同じ動き
の駒種と、同様のルールに従う(「金」に成る)ものとする。』
と二中歴の末尾10文字を解釈する。

結果として、「注人と奔車が、歩兵と香車と同様に金に成る事」が述べ
られていると解釈される。なお、二中歴には、全く言及されてい無いが、
銀将同様、銅将や鉄将は、平安(小)将棋のルールが援用され、金に成
るとみるべきだと私見する。その結果平安大将棋に有って、平安将棋に
無い駒で、注人、奔車、銅将、鉄将が金成りとなるから、横行、猛虎、
および平泉出土駒で知られる飛龍は、不成りになっていると、見るべき
だと考える。」

である。
④の説では、准之の「題目化した目的語」は「駒レ如キ此(一方)行方ノ」
という事になる。
なお③・④共に、今の所「賛成」者は、い無い。この点につき、以前、
何らかの同意者が、あたかも居るかのように書いたが、勘違いであった。
なお、ここではどれが正しいとは、特に述べない。

正否の判定は、これだけの情報だけでは、土台無理だと私は思う。

溝口氏は、平安(小)将棋との関連で、解釈を述べているが、このブロ
グの範囲からは外れているので、ここではコメントはさけたい。将来
別の史料等が見つかり、どれが正しかったのかが判ったときに、彼も、
この問題にも、一定の切り口から、言及されていた事を証明するため、
公平を期して、ここにも彼の説を記録した。

当方、ここ2~3日風邪気味で、フィールドワークを休んでいる。そこ
で本日は一呼吸、この表題の内容についても触れた。本日あたりから、
また元気に、屋外での活動を再開したいと希望している。(2017/02/22)

故溝口和彦さんの歩兵四段配列型の平安大将棋(長さん)

 wikipediaの2017年2月時点での平安大将棋にも
書かれているが、通常成書では、初期配列が歩兵列3段とされる
平安大将棋には、初期配列について異説があり、以下のように、
故溝口和彦氏によって、四段型が提案されている。平安大将棋
の初期配列に、不確定性があるのは、言うまでも無く、二中歴の
記載が、単に一文に過ぎないこと、「Xの前の升目にYを置く」
と記載しても、直ぐ前の升目か、1升目挟んで2つ前なのか、
Xの1手で進める位置に、Yという駒を置くのか、いろいろに
解釈できるからである。なお、溝口氏は二中歴の記載について、
「前」の表現方法が、横行、猛虎、飛龍について、順に「頂方」
「頂」「上」と、それぞれ異なる事を、彼の4段歩モデルの根拠
として挙げている。その結果、通常の歩兵列3段組モデルでは、
横行、猛虎、飛龍を、それぞれ、玉将、銀将、桂馬の隣接する直
ぐ前の升目と解釈したのだが、

故溝口氏は、横行は玉の二つ前の升目、猛虎だけは銀将の隣接
する直ぐ前の升目、飛龍は、桂馬の行き先で、盤の内側の方と、
二中歴の”大将棋の記載”を解釈して、以下の図のように、平安
大将棋の、歩兵4段配列の平安大将棋案を、発表した。
平安4.gif
これが、現在wikipediaの平安大将棋の所でも、紹介さ
れていると見られる「自陣4段モデル」というわけである。
 そして溝口氏の指摘で重要なのは、結果としてみると、二中歴
の不確実な、将棋ルール説明の問題の指摘と言うよりは、

平安大将棋は、歩兵が四段目の配列であった可能性がある

という点の方であった。歩兵配列が4段目である事の重要性の、
まず第一点目は、以下の通りである。すなわち、
彼の指摘のおかげで、徳島県徳島市に近い川西遺跡で「奔横駒」
が発見されたとき、横行を2段目に下げて、奔横駒を直ぐ前の
3段目の中央升目に置けば、香車と奔車、横行と奔横は、同様の
配列パターンになる事が、ただちに判ったのである。その結果、
大将棋は進化することが良くわかり、更に進化するにしても、具
体的に、どういう変化なのかが、よりスムーズに理解できた。次
に第2点目は、一段目の桂馬と、2列違いの、

5段目の仲人という配列が、ただちに想像できたため、普通唱導
集大将棋の2行目記載で、5段目端から4列目で「支えなければ
負けを喫する仲人」というイメージ化が、ほぼ、ただちに可能に
なった事

である。第1・第2の点何れもが、固定された平安大将棋、固定
された後期大将棋という定説を、彼が打ち破ってくれなかったら、
恐らく、大将棋のその後の歴史の解明の展開は、実際よりも、か
なり遅れたに違いないと、今さらながら、彼の先見性が偲ばれる
所である。(2017/02/21)

下河辺荘赤岩等調査のまとめ(長さん)

 2月の上旬から中旬にかけて、既に述べたように、静岡県
焼津市西小川の小川城跡から、裏飛鹿盲虎駒および裏飛鷲龍
王駒を出土させた、長谷川氏の本家、下河辺氏の館跡がある
とも、webでは記載される、埼玉県南東部、埼玉県北葛飾
郡松伏町下赤岩を中心とする、大落古利根川沿いの、地表面
の目視による、遺物の調査を行った。
 現在までの所、大落古利根川については、東岸としては、
埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸の、八幡神社以南、大川戸、
松伏、田中、松伏(西部)、上赤岩、下赤岩、(以下、明治
時代以前の大落古利根川の東岸で)埼玉県吉川市川藤榎戸、
同吉川市須賀、同吉川市川野西飛び地、と見て来た。
 また大落古利根川西岸では、以下何れも埼玉県越谷市の域
内、埼玉県越谷市向畑、同大吉(おおよし)、同増林(丁目
表示無しの領域)、同増森(同じく丁目表示無しの領域)、
同増森二丁目、同増森(丁目無し領域南側)、同中島、と見
て来た。
 そのほか、現在の大落古利根川の東岸である、埼玉県吉川
市川藤東部や、同八子新田、埼玉県北葛飾郡下赤岩東部、
埼玉県吉川町南広島、同吉川町下内川も見た。そして、
 この領域の中で、土器の破片が散乱していて、最も有望な
のが、

埼玉県吉川市川藤榎戸と同須賀の境付近、

であった。
もっとも、過去1979年に実際に埋蔵金等が出たことで
知られる、

埼玉県北葛飾郡松伏町上赤岩、

には、依然注意が必要と、思われる。
またその他では、そこの八幡神社の神社紋が、下河辺氏の
兄貴分である、小山氏系二巴紋である等で、

埼玉県北葛飾郡松伏町大川戸の八幡神社付近

以上3箇所には、注意が必要であるとの結果となった。
なお、3番目については、埼玉県北葛飾郡松伏町と埼玉県春
日部市の境に近く、

埼玉県春日部市赤沼の南端部分にも、注意すべき

かもしれない。地名からすると、埼玉県春日部市赤沼は、昔
の湿地帯であるが、南端については、埼玉県北葛飾郡松伏町
大川戸の、地形的には続きのようにも見えるからである。
何れにしても、この3地点の中でも、私には特に有望に思わ
れた、

埼玉県吉川市川藤榎戸・須賀付近は、大落古利根川、新方川、
そして、地名からして、埼玉県越谷市中島の北の縁に流域の
北分岐が通っていたと見られる元荒川、更には近代は、庄内
古川(中川)の4河川の、明治以前の全合流点の東側風砂丘
の、ほぼ中心地点と見られるから、鎌倉時代に、実際に
下河辺荘にいたとして、この地点に、仮に何も作らなかった
としたら、”下河辺氏”は、よほどの間抜け

と、とれるような地理的環境であるとは言えると、私は現在
の所考えているのである。(2017/02/20)

松伏町松伏の調査(長さん)

 前々回述べた経緯から、下河辺氏の伝説的な館跡と目される
埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩に近接した、同松伏町松伏付近を
2017年2月18日、チェックした。なお、松伏町松伏と、
松伏町下赤岩の間に、埋蔵金の所でのべた、松伏町上赤岩とい
う場所があり、ここは下赤岩を調査した際、いっしょに調査し
ている。さて松伏町松伏は、現在では松伏町の中心であるが、
見て回ったところでは、

松伏町松伏は、下赤岩と同じように、古利根川の川岸には
あるのだが、松伏町の中では比較的新しい、近代の新たな開墾
地ではないかと疑われるような、不思議と痕跡の少ない所で
あるようだ。

事実、上赤岩付近には、それでも3つほどの寺院、上赤岩香取
神社等の古そうな神社があるのだが、そこから北の松伏町の、
松伏に入ると、古い寺や神社は、余り見当たらなくなる。また、
松伏のあたりにも、ヒトケを感じさせる、土器の散乱等は無い。
なお、中心部へ行くと、ごく最近建てられた、住宅の密集地と
なり、松伏町の町役場中心の、歴史の痕跡は、さすがに地表を
見た程度では、よく判らなくなった。更に川沿いについては既
に調査が終わっている、松伏町大川戸近くの、松伏町田中も見
たが、ここもたぶん、新しい町だと思う。近世迄古利根川沿い
の、松伏町上赤岩と大川戸の間で、小さな湖のようになってい
た古利根川の場所を、”間潰し”して整地し、新たに開墾した
所に、近代、町の賑わいがたまたま、できたのかもしれない。
 以上の経過から、現に埋蔵金が、1979年に上赤岩で出土
しては居るのだが、残念ながら埼玉県北葛飾郡松伏町には、地
中に何かが、まだ埋まっているという兆候を、私は検知する事
が、今の所まだできていない。あるいは松伏町の中心部の地下
深くに、まだ遺物が埋もれているのであろうか?
(2017/02/19)