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木製品遺物初発見!。ただし場所が「謎」(長さん)

2017年1月28日土曜日午後4時、

松伏町・下赤岩/吉川市・川藤・須賀遺跡(仮称)を調査中、
ついに私は、木製の遺物類似の物体1品に、初めて遭遇した。
無題.gif
しかし、
この物体の発見場所は井戸跡とか、発掘中の遺構ではなくて、
細い農業用水路の、コンクリU字溝の付け替え現場の近くの
道端であり、
余り劣化が進んでおらず、年代は謎の、中世にも使用された
と、図解・日本の中世遺跡(2001)東京大学出版協会の
127ページの上段に記載がある、衣類を製造するための、

糸巻きのリールの輪部分に似た、ドーナツ状に穴の有る
木製板で、

発見場所が、吉川市須賀西端の、土器の破片の分布中心点か
ら、ちょうど1km西にズレた、松伏町でも吉川市でもない、
埼玉県越谷市増林三丁目の、

奇しくも、越谷市教育センターの玄関前の道路端であった。

 なお、この施設は館内の案内図を見る限り、越谷市市内の、
小中学校の管理職が、自身の学校で使用する教科書を決める
ため、使用教科書を検討したり、打ち合わせをするための施
設と取られるような、表示となっている。なお越谷市増林の、
地区内の集会のための施設が、同じ棟に同居している。
 社会科の先生が、埼玉県越谷市市内の遺跡について研究す
るのに場所が適しているので、比較的交通の便の悪いここに、
越谷市は教育センターを、建設した訳では、どうやらぜんぜ
ん無さそうであった。
ではいったいどこで、埼玉県越谷市では

実体として、歴史の研究をしているのかと言うと、
今の所、少なくとも私には、実態が良くわかっていない。

 ところで私には、この遺物の発見場所が、吉川市須賀の土
器分布中心点からは、かなり離れているという懸念を、感覚
的には受ける。1kmちょうどだから、許容圏内とは、言
えるのかもしれないが。そこで、念のため、越谷市教育セン
ターのまん前で、細い用水路工事をしている、工事現場へ行
き、他に遺物があるかどうかも、チェックした。ここでも、
何か、陶器の破片のような細かい物体は、比較的簡単にみつ
かる。
 従って、私の発見した「糸巻きのリールの輪状」の遺物も、
せいぜい、明治以降の近代のものであるにしても、用水に落
ちていたため、余り腐食せず、今回工事でたまたま掘り出さ
れて、道路に土砂といっしょに積まれた物が風で少し飛んで、
越谷市教育センターの門前の道路に、たまたま落ちていたで、
余り不思議ではないように思われた。用水に落ちる前も、
軽い物体である事を考えると、たまたま東風に飛ばされて、
吉川市須賀付近から、飛んで来たものであったとしても、こ
の点も、特におかしくは無さそうだった。道端に散乱する、
破片程度の小ものであれば、中心点から、たまたま1km
程度、何らかの原因で移動しても、有り得ないというほどの、
事でも無いのだろう。
 風に乗って飛ばされる等して、少し移動する、木製遺物、
出来れば将棋の駒を今後も求めて、埼玉県吉川市川藤・須賀
発生源の遺物を、隣接する埼玉県越谷市増森や、
埼玉県越谷市増林等、中心点からやや離れた所で探す事も、
これからも、一応覚悟しなければならないだろうと、今回の
経験から私は、真剣に考えるようになったのだった。
(2017/01/31)

埼玉県吉川市須賀南側調査(長さん)

前回述べたように、土器の破片等、古代人の営みを感じさせる
領域は、どうやら、古利根川に面した、埼玉県北葛飾郡松伏町
下赤岩よりも少し下流の、中川合流後の地点で、旧中川が消失
した後の同じ側の岸辺、埼玉県吉川市須賀の北西端付近のよう
に思えた。ただ、この段階では、その中心が中川ではなくて、
新方川の岸べである疑いも、なおも捨て切れなかった。そのた
め、土器の頻出した領域の南に位置する、埼玉県越谷市増森の
新田側、同じく吉川市須賀の南西部から南部、吉川市の川野の
飛び地を、順次新方川に沿って、2017年1月27日の午後
にチェックしてみた。
 あいにく、埼玉県の土整備部により、新方川の護岸工事が、
だらだらと現在続いており、盛土で、新方川の岸が覆われてい
て、歩いただけでは新方川の、この地域の東の川岸については、
遺跡がありそうかどうかが、良くわからないのであるが、少な
くとも、吉川市須賀南西部と、同じく吉川市川野の飛び地には、
土器破片が多い場所が無いという事だけは、以下のようにかろ
うじて判った。よって遺跡の中心点はやはり、昔の中川の当時
の東の岸辺である、吉川市須賀の北西端付近にある事は、間違
いが無さそうだとの確信を、今回の捜索で初めて私は得た。
 すなわち新方川に沿って歩くと、埼玉県越谷市増森の新田か
ら、埼玉県吉川市須賀に入った直ぐの所で、土器のカケラの数
が急激に増加した後に、更に須賀の南西に進むと、土器が急速
に見つからなくなっていった。昔の中川の当時の東の岸に、細
長く、遺跡が存在するが、まだ今の中川は交わらないが、消え
た旧中川は既に合流した後の、更に下流の北岸には、もう集落
は無いと仮定すると、挙動が旨く説明できそうであった。
 また、再度帰りがけに、土器の破片が最もたくさん見つかる
地点にも立ち寄り、その多さの状況を他と比較した。やはり、
かなり狭い領域に、土器の小さなカケラが固まっているとの印
象を、私は受けた。
 ちなみに遺跡らしい証拠としては今の所、土器破片しか、私
には発見できない。むろん、将棋の駒が目当てであるから、今
後も、別の物体が無いかどうかを、逐次探してみるつもりだ。
恐らく住んでいる方にとっては、”地面に落ちているゴミとし
て、これが普通の姿”と思い込めば、土器の破片が、誰にも拾
われずにここで、たくさん残っている状態で、一生気がつかな
いで、終わる程度の、ありふれた焼いた土の破片に見えたのだ
ろう。私も栃木県栃木市星野で、土器のカケラを観察した経験
が過去に無かったら、注意が、全く向かないような、特長の乏
しい小物体である。また周囲を見回しても、埼玉県の土整備部
の護岸工事の、吉川市と越谷市を跨いで、連続的に続く、
機械的なやり方からみても、この遺跡について、気がついてい
る者は私以外、今の所誰も居ないように、私には感じられた。
 中川の付け替えが、恐らく明治時代位に行われた結果、ここ
の遺跡が護岸のための、客土による盛り土から、現在免れてい
るというのは、まさに幸運としか言いようも無いと、私は工事
現場を通って、つくづく感心させられたのだった。(2017/01/30)

埼玉県越谷市の吉川市川藤・須賀と接した増森の北部調査(長さん)

前々回、調査した中川、古利根川、新方川の合流地帯の川の蛇行
地帯の岸辺と思われる、埼玉県吉川市須賀および吉川市川藤の北
西側、埼玉県越谷市増森の工場団地地帯付近を、2017年1月
26日の午前にざっと調べてみた。
 前回の場所は、消えた旧中川の東岸の、円弧状の蛇行地帯の中
央やや西の点を中心として、砂ないし火山灰の堆積土壌の中に、
土器片と見られるものが、容易に見出せたので、それが、北側の、
旧中川土手外に向かって、どう分布が、続いているのかに注意し
た。
 結果、旧中川の東土手とみられる場所を中心として、土器片が
多く、北の古利根川側に外れると、そこから平行に西に、吉川市
須賀北西端の”土器出土中心点”に対して反時計回りに、古利根
川を遡るように進んでも、土器数の多い所は、特に無いようだと、
認識された。この事から、恐らく埼玉県吉川市須賀の西側、およ
び川藤の西のはずれ、この両者の境目付近に、古くから(古墳時
代ぐらいか?)の集落が、あったのではないかと、私には推定さ
れた。つまり、未だはっきりとはしないが、古利根川に接して分
布するというよりは、旧中川の旧東側岸辺に、「ひとけ」がある、
という印象である。

つまり今の所、埼玉県松伏町下赤岩よりも、吉川市須賀と川藤の
飛び地の西外れ付近の方が、より強く「ひとけ」を感じる

と言う事である。
 栃木県小山市を中心とする、下野小山氏の祖、小山政光の兄弟
関連の、下河辺氏、大河戸氏については、埼玉県北葛飾郡松伏町
に、大川戸という大字名があり、松伏町では著名なため、松伏町
だけが、特に調査が熱心であり、越谷市では、武蔵七党の野与党
や、徳川家康の鷹狩り基地の研究等に比べると、関心はいまひと
つ。埼玉県吉川市も中世・下川辺荘に属していたとの記録に関心
は有るものの、古文書に材料が少ないため、追求は低調のような
印象である。そのため、

このような状況比較は、たとえばこのケースは、埼玉県の発掘担
当者が、過去ここに、直接乗り出していれば、明らかになってい
たのだろうが。このケースのように、不運にも、現在の行政区分
の境界に、たまたま複雑に跨いで存在していたため、調査チーム
を、作る事自体が、行政の縦割り組織の関係で、現実には困難で
あった。そのため松伏町による古地名調査程度に、これまでは
留まらざるを得なかった。そうした事実があるのかもしれないと、
私には推定された。

やはり、このように複数の行政区に跨る遺跡の調査は、私のよう
な、特殊な問題意識を持った自由な民間人の方が、よく見かける
パターンで、研究停滞の打開要因になる、そんなケースが、結構
多いように思われる。そこで更に近々、東埼玉道路の近辺の、
新方川に沿って、吉川市須賀/川藤中心点から越谷市増森の新田
方向に西に向かって離れた場合は土器等の分布が、どうなるのか
等について、調査してみようと今の所考えている。(2017/01/29)

埼玉県越谷市には奈良県出の世阿弥で知られる能楽の施設が何故あるのか(長さん)

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡付近に、室町時代に存在したと
見られる、小山市の当時尼寺、のち江戸時代には真言宗系の
男寺の青蓮寺の住職が、奈良県ゆかりの長谷川氏の子孫で
あると、前に推定したのは、栃木県小山市のこの寺からみで、
つぎのような、奈良県とのつながりが、検知されたという
経緯である旨の点を、以前このブログでのべた。

①小山市の江戸末期廃寺の青蓮寺の親寺が、奈良県出の、
奈良時代の人、弓削道教開祖の持宝寺になっており、奈良県
と繋がる。
②青蓮寺と言って、尼寺となれば、奈良県宇陀市の中将姫の
青蓮寺が有名である。
③小山氏の祖、小山政光の弟の下河辺行義の子孫に、奈良県
で長谷川へ苗字を変えたと伝わる、長谷川氏が居る。
④小山市の青蓮寺は、小山市天神町の天満宮を別当として支
配しているが、これと、奈良県田原本町の法貴寺が、池神社
という、天満宮を別当として支配しているのは、曼殊院~北
野天満宮方式で、そっくりである。

ただし、この程度なら、小山市の廃寺・青蓮寺の住職等の氏
素性を特定するには、まだ不足であろう。実は、小山市には、
まだ、奈良県とつながりを暗示させるものが、あるのである。
つまり、まず、
⑤奈良県より伝わった、下野人形がある。それどころか、こ
れも、「弓削道教が伝えた」との伝説がある。つまり「弓削
道教」という”キャラクターコード”を「奈良県人」に置き
換えれば、小山市へは、かつて、「奈良県出の人間が、
流れ込んで、持宝寺を造り、下野人形を伝えた」と言ってい
るのと、この伝説は、同じことである。
⑥地元で、古くから知られる酒造メーカーに、若駒酒造とい
うのがあり、関連蔵元が奈良県にある。それどころか、若駒
酒造の家の苗字は、初瀬川を連想させる、”柏瀬”家である。

なお柏瀬は、長谷川と、同系統の苗字である。

以上が、小山市についての将棋駒出土と、静岡県焼津市等で、
中将棋の駒を出土させている、長谷川氏との関連の項目列挙
であるが。下河辺本家の遺跡が、仮に前回のべた、埼玉県吉
川市、松伏町、越谷市の境付近で、仮に見つかったとして、
そこに、駒駒数多数系の将棋が出土すると、期待するために
は、この地域にも、小山市と奈良県との関係に当たる、吉川
市なり、松伏町なり、越谷市と奈良県との関係が、示唆され
なければならない。そうでなければ、その城跡は、存在した
としても、静岡県焼津市小川や栃木県小山市神鳥谷曲輪と、
同じ成果を狙うだけ、最初から無駄という事になるだろう。
そこで、吉川・松伏・越谷に、奈良県関連を探してみると、

越谷市花田に花田苑という、能楽堂がなぜかある

という、要素がみつかる。埼玉県内ではwebを調べた所、
能楽堂があるのは、越谷市のここだけのようである。なお、
世阿弥の出所で有名であるから、能楽と奈良県との関連性は、
自明である。
さらに、
①能と田原本町法貴寺は、たとえば近くで能面が出土した事
で、関連が有名だし、長谷川党に属するとも言う河勝が、世
阿弥の師匠であるから、長谷川党と能楽も繋がる。 また、
②能と小山市が繋がるのは、そもそも青蓮寺という名は、中
将姫の謡曲「ひばり山」そのものである。また、小山市では、
最近は「小山安犬」という新作謡曲が、上演される地でもあ
る、と以上、複数の関連付けが可能である。
そこで、
③能と越谷市が繋がるように見える、越谷能楽堂の花田苑は、
奈良県と、何かつながりがあって、作られたのかどうか、
webで調べてみた。すると、
「越谷市蒲生に、関根家という、埼玉県さいたま市岩槻区の
旧家と繋がる家があって、江戸時代から能を伝えて、越谷市
に広めていたのが、ここに能楽堂が出来た、端緒である」と、
10年くらい前の、某氏のブログに記載がある。よって結局、

越谷市と奈良県は、能では直接的な繋がりが、今の所発見で
き無いようである

という、結果になった。
 今の所、6つの要素で奈良県と強く繋がる小山市とは違い、
吉川市~松伏町~越谷市については、奈良県関連が疑われる
要素は、これ一つであり、しかも繋がりは、いまのところ明
確ではない。”越谷の能楽堂”は、まぐれの疑いも残念なが
ら、かなり強いと私は感じる。
ただし、この能を伝えた旧家とみられる関根氏の素性が、実
のところwebでは良くわからない。ので、これら埼玉南西
端部の地域と、奈良県との繋がりを、完全否定できるとまで
は、まだ行かないのだろうと、淡くは期待しているところで
はある。(2017/01/28)

埼玉県吉川市須賀等の調査(長さん)

1月24日午後、前回のべたように、埼玉県吉川市須賀へ
行ってみた。現地は畑作地帯で、現在は中川に面しており、
河口の扇状地帯の、土砂が溜まったような場所であった。
なお、ざっとで私見だが城跡の雰囲気は、無いように思う。
 旧中川の弧状の川底地帯は、現在西側が舗装された車専
用の道路、南側に小さな用水が流れていて、南側の昔の護
岸は、帯状の更地になっていてちょっと高く盛られており、
公園もあるが、主要部分は柵が作られ、中に入る事ができ
ない。
 弧状の旧中川東岸でかつ、現在の中川の西岸に位置する、
吉川市須賀地区は、ほぼ全面がやわらかい、火山灰状の、
畑の土で覆われており、土器の破片が比較的簡単に、発見
できる。かなり前から人は、暮らしていた場所のようであ
る。あるいは、中川の上流からの堆積物の中に、遺物が混
じっていて、この場所に散乱しているようにも見えた。
 なお、弧状の旧中川跡の東でかつ、現在の中川西地帯の
北側は、吉川市川藤という地名になっているが、”カジワ
ラ”という工場があって、そこには盛り土が大きくされて
おり、須賀の畑に比べて、幾らか高台になっているように
も見えた。地図で確認したところでは、旧中川の北端の
土手跡に建つ、工場のようであった。なお、北側の境界線
の外は、越谷市増森という所であり、昔は、旧中川に向か
って、東側に天狗の鼻のように張り出した所だったようで
あるが、現在は、工業地帯になっているようである。
 とりあえず、須賀と川藤のあたりを、ざっと本日は見物
して終わった。その北の、越谷市増森工業地帯へは、
別途行ってみたいと思う。なお、増森工業地帯の更に北に
は、前々回紹介した、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩がある。
ここは、吉川市、松伏町、越谷市の何れも境になっており、
3つの町の、どの場所の、代表的地帯と言う訳でもなく、
よって今の所は、この3つの町のどれからも、あまり大き
く取り上げられてはいないような場所である。(2017/01/27)

埼玉県古利根川流域の中世の城の捜索(長さん)

結局、昨日のべた、埼玉県北葛飾郡松伏町下赤岩の
下河辺氏城跡の候補地は、確かに鎌倉時代中期に、
下河辺氏の何がしかが居住したようではあるにして
も、遺物が出土する程度の遺跡のようには感じられ
なかったので、google地図上にて、別の候補
地を探してみた。
 結果からみると、下河辺荘や新方荘に、はっきり
と、城跡だとわかるような、道路は、残っていない
ようであった。
 ただし、地形をよく見ると、埼玉県越谷市増森と
吉川市須賀にまたがる領域に、”川にぐるりと取り
囲まれて、堀の中の城”になりうる領域が、ある事
がわかった。
 ヒントは、埼玉県越谷市と埼玉県吉川市の、市ど
うしの境界線にあった。吉川市須賀というところが、
越谷市の方に、張り出しているのである。この張り
出しは、地図をよく見ると、中川が昔蛇行していた
のを、最近になって、南北にまっすぐに、直した事
から来るのは、容易にわかる。吉川市須賀と、同じ
く、吉川市川藤の一部は、現在では中川の西岸にあ
るのだが、昔は、川が蛇行していて、中川の東岸に
有ったのである。そして、吉川市と越谷市の境が、
この、古い川の跡に沿っている。
 ただし、現在の中川の川筋も、もともと低地であ
ったために、その位置にもってこれたのだと、想像
できる。だから、この吉川市須賀という地域と、
吉川市川藤の一部は、もともとはぐるりと堀状に、
川に囲まれた、大きな中州だったのかもしれないと
思う。
 これは、ある意味ここに城があったとすると、天
然の要塞状で、あったのかもしれないと私は思う。
だから、ほかの領域よりは、「城ではないか」と
疑って、調査してみる価値も、あるいは、あるかも
しれないと、思われた。そこで私は近々、この場所
に、試しに行ってみようと、考えている。(2017/01/26)

松伏町下赤岩、香取神社を調査する(長さん)

先に、埼玉県越谷市増林城ノ上の調査をした所で述べた、
静岡県焼津市小川の中将棋の駒を2枚出土させた長谷川
平蔵の先祖、下河辺流長谷川氏の本家、下河辺行平の、
少し下の代の館跡とも目されている、埼玉県北葛飾郡
松伏町の下赤岩にある、香取神社を、2017年1月
22日に調査した。
 特に地面を掘ったりするような調査ではなくて、ざっ
と、現地を見て回っただけなので、めぼしい物体等は、
今回については発見できなかった。見た目で通常の集落
である。
 この界隈に行くと、私にはただちに、気がつくことが
ある。それは、住所標識等が仮に無いとすれば、ここは

栃木県小山市網戸と、そっくりであると言う事である。

ちなみに、GOOGLE地図等で見て頂けると、ただち
に判るかと思うのだが、栃木のケースには、網戸神社と
いうのが、小さな寺を併設して存在しており、小山氏の
始祖、小山政光の妻、寒河尼の墓が横に小さく置かれて
いる。
この網戸付近を流れている、思川を、埼玉県松伏町赤岩
のケースには、古利根川に置き換え、集落の家々を、川
に沿って並べると、まるでここは、埼玉県ではなくて、
栃木県小山市の小山駅より一つ南の駅、間々田駅から、
歩いて30分の、栃木県小山市網戸とそっくりな、農家
の多い家並みが、規模もそっくりに細長い形で、神社ま
で続く。
 そして、栃木県小山市網戸と同様、ほどよく、その家
並みを抜けてゆくと、網戸神社ではなくて、香取神社に
到着するというわけである。鎌倉時代中期が、当然基点
なのであろうが、よくもこう、そっくり同じ発展を、
互いに無関係な両方の地域が、800年間続けたものだ
と、私にはここへ行くとただちに感心させられた。
 ちなみに、栃木県小山市の網戸神社周辺で、遺跡が、
発掘されたという話は、聞かない。だから、埼玉県北葛
飾郡松伏町下赤岩のケースも、発掘による成果自体は、
余り期待できないのではないかと、ほどなくして直感し
た。
 なお、栃木県小山市網戸に遺跡が無いのは、結城氏の
分家が、一時的に館を作っただけだからだと、私は理解
している。おそらく、埼玉県松伏町下赤岩の館も、下河
辺氏の分家筋が、鎌倉時代の比較的初期に、館を作成し
ただけの所なのではないのだろうか。
 理由は、利根川川岸の隆起台地の幅が、小山市網戸の
思川の川岸の隆起台地の幅同様、たいしたことが無く、
本家の城を築くには、いまいち、厳しかったからでは、
無いかと、私は考える。
 やはり、もう少しGOOGLE地図等で、利根川や
荒川流域の地形を更に良くチェックして、下河辺氏本家
の城跡を探した方が、良いのかもしれないと思う。
(2017/01/25)

図解・日本の中世遺跡(長さん)

 さいきんになって私はようやく、東京大学出版社にて、
既に16年も前に出版されている、この古典的な、中世の
考古学・発掘図説をチェックした。
 興福寺出土駒が、古代に入るために記載されていないが、
一乗谷、酔象を含む将棋駒出土等、幾つかの将棋駒出土に
ついて、本書では、「Ⅴ生活の諸相 4.遊戯具154ペー
ジから157ページ」のところで、紹介されている。将棋
駒の出土地点については、新たな情報は無いが、出土駒数
が、少ない幾つかの、遺跡の駒の図に目が引かれる。なお、
図版と説明文を、比治山大学(広島県)の志田原重人先生
と、広島県埋蔵文化財調査センターの下津間康夫先生が、
執筆されているとの事である。図版では、一乗谷駒が多数
あるほか、
1.岩手柳之御所の歩兵駒(2枚)
2.山形県遊佐町小原田大楯の不成り不明瞭な桂馬駒
3.富山・石名田木舟の銀将駒
4.富山弓庄城の銀将駒
8.長野塩田城の裏”竜”馬角行駒
9.東京葛西城銀将駒
11.愛知清洲城下町裏金歩兵駒
以上が、目に付く。特に
2の遺跡は、鎌倉期といい、小将棋か普通唱導集期の大将
棋の駒と考えられる。「大将棋の駒は基本的に不成り」を、
示唆するのかもしれないものとして、特に貴重に見える。
 次にこの図鑑を見て私が直ぐに目に付くのは、そもそも
将棋駒と、賭博の一種と聞く、闘茶や聞香に使用される
”札”とが、材質および形ともに、比較的近似していると
いう事である。たとえば、福井県の一乗谷遺跡は、将棋駒
の出土で著名であるが、聞香の札も出土しており、この書
の図版を見ると、五角形で将棋駒に形の近い、「裏”客”
秋」駒らしきものが出ている。闘茶や聞香の札は、将棋駒
の出土よりは少ないとも聞くが、山形県遊佐町小原田大楯
でも、闘茶札と将棋駒とが同時に出ている。作者に何らか
の繋がりとか、将棋の賭博との繋がりとか、遊戯の近親性
が感じられ、将棋駒以外の遊戯具の出土にも、こんご注意
すべきと、私には痛感された。
 更に、神奈川県鎌倉市の無量寺、今小路西遺跡で出土し
た、2・4・6の目しか無いさいころ等の出土や、そのサ
イコロの貴重な現物模写図も、この本では紹介されている。
この情報から、
鎌倉時代初期1221年の後鳥羽上皇と将棋について、私
が前に紹介した古文書に出てきた、

「今小路の御所」は、
京都市ではなくて、神奈川県鎌倉市の間違いであるようだ

と、まだ確かめていないが疑われた。
それでは鎌倉だとして、今小路の御所と、京都に居たり島
流しだった後鳥羽上皇とがどう繋がるのか、私にはまだ掴
めてい無い。あるいは、栃木県鹿沼市粕尾の超能力医師、
中野智玄の所へ、治療の礼でも言いに上皇がたまたま赴か
れたときに、鎌倉にも立ち寄ったという事なのであろうか。
 以上のように図版に圧倒されたのちに、本文を読むと、
出土将棋駒を説明したところで、「中世の出土駒としての
主流は、静岡県焼津市小川の中将棋駒の出土を例に引いて
中将棋駒や、一乗谷遺跡の酔象駒を例に引いて、朝倉小
将棋の駒である」とあった。16年前の状況から考えると、
この「ざっくりとしすぎた説明」は、致し方無い所なので
あろう。
 なお、遊戯具のすぐあとの158ページから、佐藤仁彦
先生(神奈川県逗子市教育委員会)の「化粧と装身」の項
がある。そこには本文で、博多遺跡群にて女性の木棺墓か
ら、櫛等が副葬されていた等の記載が、下駄の出土図等と
ともに、紹介されていた。
 栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の場合も、1000坪位の
発掘現場でばらばらに、将棋駒・下駄・櫛が出土していた
としたら、「単なる典型的な中世遺跡」だったのかもしれ
ないのだろうが。これら3品が、特定の8号井戸にだけ、
集中していたともなると、”女性の副葬品のカテゴリーの
出土なのではないか”と、私のように邪推する者が出ても、
遺跡発掘学の過去の傾向からみて、致し方ないのではある
まいかと、私には思えた。(2017/01/24)

豪族の館跡の検知方法(長さん)

 現在の駒数多数系将棋の出土状況を見ていると、寺院または
その跡、神社や豪族の館跡で、将棋駒が出土している、という
事実がある。このうち建造物が現存せず、跡である場合、それ
が実在した場所を、確かに発掘しているのかどうか、推定する
必要がある。古文書や前の調査等で、もとの建造物の存在が、
確定的である場合は、問題ないとしても、先に述べた下河辺氏
本家の館跡のように、その場所そのものが特定できない場合は、
どうアプローチしたら良いのだろうか。
 この点に関しては遺跡発掘の専門家の間では有名なようだが、
私が前に講演会で聞いた話では、城跡は、現在の道路の様子か
ら、場所が推定できる場合が、あるそうである。私が聞いたの
は、栃木県の小山氏と同族で、長沼宗政を祖とする、長沼氏の
栃木県内の城跡の発掘の際の、城跡の位置推定の話についてで
ある。古地図の館を示す地名と、今も余り変化していない、
現地の曲がりくねって、ヒトデのような形の道路の走り方から、
戦国時代タイプの平地の城の存在を推定して、みごとに合致し
た例と聞いている。
 実は少し前に述べた、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、角行駒が
出土した遺跡から、小山氏の中心館の距離、”約1km”は、
現在の小山城(祇園城)本丸(本多正純・江戸時代の城)から
の距離ではなくて、小山市八幡町1丁目の小山第2中学校のグ
ランドからの距離で、私は示している。観光地・祇園城本丸か
ら、神鳥谷曲輪遺跡までの距離は、これより少し遠くて、
1.7km位である。ただし、他の出土駒の遺跡もそうだが、
出土地点と、本当の主な建物までの地点は、遠くて1km程度
が、普通なのではないかと、私は思っている。
 このグランド周りの道路付きには、謎があり”航空写真から、
このグランド付近が、ホントの南北朝時代頃の中心館”との指
摘が強いのである。すなわち、栃木県小山市の市街地図を、
たとえば、GOOGLE地図等で見てみると判るのだが、道路
が、だいたい思川と略平行に走っている。ただしその向きは、
地理的南北線や東西線と平行ではなくて、これらとは傾きがあ
る。ところが、この八幡1丁目8番地の場所に、思川と平行及
び垂直に走った道路で、長方形ができる区画の中に、東西南北
にきっちりになるように、それより少し小さな長方形を内接さ
せて、はめたような、幾何学的に奇妙な向きで道路の走った領
域が、1箇所だけ有るのに、おそらく誰もが気がつくのではな
いだろうか。この”誰もがWEBで判る、秘密の城跡”こそが、
地下を掘ると鎌倉古道付きの道が、皆そこに収斂すると言われ
る、小山氏の本当の中心館跡、”龍ゲ岡城”跡であると、言う
事のようである。
 なお、龍ゲ岡城跡が、このように考古学的に高い位置づけに
なっている事については、小山市当局には当然察知されていて、
どうやら公然の秘密になっているようだ。つまり以前から、
学校のグランドや、青少年相談室等、市が直接管理する土地に
全部、”それとなく編入(地上げ)”されているようである。
 なお私は、この地図上の幾何学状の道路が、実際にどうなっ
ているのかを、以前実際に見に行った事がある。

内側の長方形道路も、外側の川と平行な道路も、ごく丁寧に、
きれいに舗装されていた。

 つまり市はこの”陰陽道に従い、きちんと東西南北に作られ
たような道路”自身も、遺物として重要である事には、とうの
昔に気がついていて、道路を”知らない人間から見ると、誠に
不自然に”全部舗装して、現状保存しているのである。そして、
この小さな長方形の中が、北の一部の区画を除いて全部、中学
の学校の校舎から”不自然に”離れた所に作った、運動場にな
っており、現在グランドの中に建造物は、全く建っていない。
 なお、この地点の調査は、恐らくまだ充分には、行われてい
ない。他方、神鳥谷遺跡の発掘報告会等に於いて、小山市の担
当よりは、小山氏の中心的館跡の推定地点が、このグランドで
ある事は、発掘報告会の説明会で事実上、公開されたに等しい
説明がされていて、公然知られた状態と、私は認識している。
 ちなみに仮にこの地点が調査されたとすると、祇園城の発掘
や神鳥谷曲輪の発掘結果から察するに、大量の”かわらけ”等
の他、

 中国、明時代等のかなり高価な陶器・磁器の少なくとも破片
が出土する事は、ほぼ確実視されるように、私見される。

結局、栃木県小山市の龍ゲ岡跡を、仮に急いで調査したとして
も、祇園城、神鳥谷曲輪と同一パターンの発掘になるだけであ
り、ただし、鎌倉古道はここが終点なので何も無く、従って特
に、急いで発掘は、しないのだろうと、私は了解している。
 ついでに言うと現在は、この区画の直ぐ西まで、思川が侵食
し、西の袖が、城にしては妙に狭くなっている。南北朝時代に
比べて、かなり城の西側が、川に削られてしまっているのだろ
う。
 従って以上のように、将棋駒等を出土させるためには、主館
跡や寺院の、主伽藍等を特定させなければならないが、それが
あるかどうかは、別途発掘した後でなければ、不能と言う訳で
もないようだ。
 つまり、その井戸跡等の付近1km以内に館が有る、という、
古地名の示唆情報、および、”現在の道路・農道等”に、
”異変”が無いかどうかを調べて、それらがすべてそろえば、
その地点から1km以内のその古井戸の跡から、木製品の出土
が、地下水脈の存在によっては、期待できるという事が、どう
やらありえるようである。(2017/01/23)

私の人工遺物発掘の歴史(長さん)

 私の場合、発掘作業の経験も無い者であるため、遺跡を掘り
返した場所で、何か昔の人に係わる人工遺物を手にした経験も
少ないのであるが、出土物そのものが、きわめて多い、著名な
遺跡で、人工遺物を、目にした事が全く無いという、ほどでも
ない。遺物を目にした、著名な遺跡として、栃木県栃木市の星
野遺跡があり、考えてみると思い出はたぶん、全部ここに限ら
れるのではないかと思う。なお、栃木市星野遺跡には、税理士
の斉藤恒民氏が開設した、「星野遺跡記念館」があり、ここで
遺物はそもそも多数見られるのだが、以下は、私自身が発見し
たとか、「ミニ発掘」に立ち会ったいう意味で、遭遇した遺物
に関するものである。
 まず、私自身が発見した、古代に遡ると見られる遺物として
「輪石」というのが挙げられる。元々が平たい、円盤状の手の
ひらに乗る位の石の中央部に、明らかに、人の手によるものと
みられる、穴がドーナツ状にあけられて、縄か何かを、通すこ
とができるようにした、普通の石である。たぶん、錘等、魚を
取るときの、仕掛けに使うのではないかと、想像する。以下、
私の発掘は、全部地面を掘らずに、地表で見つけたものに限ら
れるのだが、この物体の場合も例に漏れず、遺跡地層探検館の
すこし谷倉山という裏山に入った所の、山道から、沢に降りた
ところの、工事業者が廃棄したとみられる、砂利の山の中から
見つけたものである。現物はただちに、遺跡記念館の斉藤さん
に寄贈してしまったので、あるいは、今でもそこに有るのかも
しれない。
 なお以下蛇足で話は飛ぶが、この遺跡地層探検館の前の山道
を、林道「寒沢」線という。ところでこの林道が、小山よし姫
の墓を通過するだけでなく、谷倉山を越えて、反対側にも、
林道「寒沢」線が有るという、不自然で紛らわしい
ダブル「寒沢線」の謎というのがまずある。更に、「杉の林が
無ければ暖かい沢である」という、地元で、この林道を経由し
て、粕尾側から星野側に歩いて嫁に来たという、女性からの聞
き取りによる、”寒いから「寒沢」にしたのではない”という
”暖かい寒沢の謎”がある。これら、林道寒沢線の名前がらみ
の知見が大きく効いて、個人的に、

小山よし姫が、平安時代末期の”寒”川(河)尼の、南北朝時
代版とでも言える女性と特定され、よって、結婚前のもとの苗
字は「宇都宮」に間違いないと、私は結論づけている。
つまり栃木県栃木市と鹿沼市に1本づつ、谷倉山の表と裏にあ
る”寒沢”は、”『寒』川(河)尼とは、同族関係にある女性、
小山よし姫の墓の有る、山越え街道の『沢』”の意味であって、
「日当たりの悪い、寒い沢」の意味では、無いと言う事である。

以上の付けたりの話については、必要があれば、又取り上げる。
さて、話を元に戻す。
 他に顕著な物は、鏃発見を自慢話にする、箒星の捜索家、S
さんの、「やじり捜索」に立ち会ったときの、彼と共同の、や
じり発見がある。これも栃木県栃木市星野での事で、場所は、
前述の星野遺跡記念館の近くの、休耕中の田の中だったと思う。
このケースは、鏃であるので、材質は同じく石である。
 次は、おなじく星野遺跡記念館隣の、遺跡公園内で、土器片
を発見した事である。なお、この公園内で土器片を発見するの
は比較的容易であり、注意すれば、たぶん誰にでもすぐに見つ
かると思う。なお、きわめて細かく分解された、焼いた土の破
片にすぎないから、価値は全くゼロで、こうした土器片を収集
している人が居る、という話は全く聞かない。
 残りは、星野遺跡近くにある、小山よし姫のお堂のある、大
応寺の境内で、江戸時代のものとみられる鐚銭を、数年前1枚
拾った事があった。なお付近には、賽銭の置かれた、地蔵が古
くから有る。たぶん江戸時代のままなのであろう。この古銭は、
拾った時点で、錆びてぼろぼろになっており、ケースに入れて
持っていたら、こなごなに砕けて、ほどなく蹉跌状化してしま
った。
 またこの寺では、一昨年、ちょっとした整備工事が行われて
いた事があり、寺で明治時代の初期頃に使っていたとみられる、
油台のような瀬戸物が、無造作に野ざらしになっているのを、
見かけた事がある。あまり興味も無かったので、そのまま私も
スルーした所、そのうち風に吹かれたように、消えてしまって
いた。大応寺の備品にしても、小山よし姫の墓石にしても、
この界隈では、誰も用事が無いので、山の中の事ゆえ、すべて
がそのままで、200年前程度の物が、野ざらしでほったらか
しなのは、ごく当たり前で、珍しくもないようである。ただし、
そこに残っている物は、誰もわざわざ持ち去りたいとは、とて
も思えないような、代物ばかりではある。
 その他、前述の林道寒沢線から、里に近いところで、二股
(その後、又2つに枝分かれ)になる、林道山口沢線の、沢の
自動車道が切れる手前で30年くらい前に、錆びた馬の蹄鉄を
拾った事があった。山口沢や寒沢は途中で無くなるので、奥に
牧場はその跡も含めて存在しないし、中粕尾へ馬で抜ける者が、
最近になって居たとは考えにくい。”大越路”という、粕尾と
星野を繋ぐ車道がまだ無い、大正時代前後の馬車馬の蹄鉄の遺
物のように、私には思えた。なお、現在撤去されてしまってい
るが、かつて30年ほど前までは「林道寒沢線を通って、粕尾
側に抜けられる」との旨の標識が、ここにはまだ残っていた。
 たとえば、栃木県鹿沼市中粕尾の粕尾城の状況も、栃木市星
野と似ているので、漠然と行って、単に歩き回って何か無いか
どうかを探しただけでも、近世の終わり頃からの遺物程度なら、
全く遭遇できないとは、街中の遺跡と違って言い切れないよう
に私は思う。
 ただし、木製品となると話は別で、私には発見の経験は、全
く無い。たとえば、朽ち果てるのが、とても容易に見える小物
の”100年前の、野ざらし状態の将棋駒”が何で、水中なら
保存できてしまうのか、個人的には本当なのかが、現時点でま
だ、実の所信じられないでいる。(2017/01/22)