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奈良県県内、将棋駒出土の候補地(長さん)

前回、奈良県県内には依然、少なくとも中世の将棋駒の遺
物が眠っているとみられ、中世の武装集団の館跡の、ゴミ
捨て場井戸跡等が、候補として、有力ではないかと述べた。
奈良県は鎌倉時代・室町時代共に、武家幕府の勢力が及ば
ず、守護が置かれずに、興福寺の支配下に有ったというの
で有名である。興福寺は、松本清張・樋口清之氏の著書、
「奈良の旅」光文社文庫(1984年版)の44~52
ページ付近によると、奈良県の政治の中心であったばかり
でなく、文化の中心でもあり、イメージとしては百貨店
を経営しているような寺だったという。百貨店には、中世
鎌倉時代以降になると、武家の嗜みとして、武具のほかに、
将棋の道具も取り扱うようになり、よって、興福寺の廃棄
物置き場からは、将棋駒が出土するという経緯のようであ
る。従って、売り場の興福寺で、まだ未発掘の、より新し
い、鎌倉時代作の将棋の遺物が、新たに発掘される事も
期待できるが、「それを買った客」が、その将棋の駒を
使った後、自分の屋敷近くに廃棄した駒が出土する事も、
同様に期待して良いのではないかと、私には思われる。
さて、奈良県には古来から、大和四家と言われる

①大和郡山市付近の筒井氏
②高市郡付近の大和越智氏
③田原本町付近の十市氏
④北葛城郡付近の箸尾氏

等の、有力な武家が居たらしい。鎌倉時代には、興福寺の
僧兵の一部であり、ほとんど、どの家も目立たなかったよ
うだ。彼らが注目され出したのは、現地が戦乱に巻き込ま
れた、南北朝時代かららしい。
なお、彼らの宗家が中心になり、奈良県では、それぞれの
武装勢力の集合体、”党”が結成され、

①筒井氏を盟主とする集団を乾(戌亥)党、
②大和越智氏を盟主とする集団を散在党、
③十市氏を盟主とする集団を長谷川党、
④箸尾氏を盟主とする集団を中川党、

と言ったそうである。
これらの党は、宗家の城を中心に武士の溜まり場を形成し
ていたようだから、栃木県小山市の神鳥谷曲輪遺跡の例の
ように、宗家の居城の中心点から概ね、1km前後以内の、
古井戸の跡とか、隣接した関連寺・神社の遺構・ゴミ捨て
場・廃井戸等に関して、上の①から④の何れかに該当する
奈良県内の地点の館城の周辺では、あるいは今後、将棋駒
等が出土する可能性が、充分に期待できると私は思う。
興福寺周辺から、現状の11世紀の駒より、やや新しい、
駒数多数系将棋の盤・駒の遺物が出るとか、上記の豪族の
館跡の、古井戸跡から、同様に駒数多数将棋の盤・駒が、
栃木県小山市のケースに似たパターンで出るとかが、実際
に起こり、知りうる情報が少ないために、解明に困難を
きたしている大将棋の謎の解明も、今後、より進むよう、
私は心より期待したいと思う。(2017/01/15)