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埼玉県吉川市の市史を読む(長さん)

 さいきん、静岡県焼津市小川の中将棋出土遺跡、小川城遺跡
の主、藤原秀郷流長谷川氏の本家、下河辺氏の、埼玉県南部の、
伝説的な館跡に関連して、埼玉県吉川市編纂の吉川市史に、
接する機会があった。具体的には、通史、および古代・中世史
資料編をざっと眺めた。吉川市市史によると、下河辺氏本家の
住居跡の地とも伝わる、埼玉県北葛飾郡松伏町の、下赤岩を中
心とする、下河辺荘の赤岩郷は、中世史の史料として、この界
隈では充実した記載が、多数残されているとの事らしい。
 ただし吉川市史・通史によると、この地区の下河辺本家によ
る管理は、平安時代末期から鎌倉時代初期の三浦氏の乱ころま
での数十年程度の、行平~行光の短い期間内に限られ、古代中
世史料を見る限り、主には北条氏の分家の金沢氏や、金沢氏ゆ
かりで、彼らが領地を寄進した寺、称名寺の領地であった時代
が、建武新政まで続いたようである。その後は、小山氏の本家、
小山義政らが、支配力を強めながら、北条氏勢力の残党と南北
朝時代に戦うものの、小山氏一族の領地への復活は、果たされ
ず、のちに1380年~82年の小山義政の乱以降は、金沢氏
から鎌倉公方方に、旨いこと鞍替えした、称名寺の勢力圏内へ、
再び返り咲いたという事のようだ。

 つまり、下河辺本家の館ができるほどの、下河辺氏系の定住
が、埼玉県北葛飾郡松伏町下・上赤岩に有ったかどうか、いま
いち不明という訳で、館が万が一、将来見つかっても、例えば、
北条氏関連の金沢氏の、年貢取り立て用の代官屋敷であると
いう事になる

のではないかと、通史を読んだ限り、私には疑われた。
なお、吉川市市史、通史によれば松伏町下・上赤岩については、
過去の発掘で、大量の、年貢を換金して、ストックした金品と
見られる”埋蔵金が発掘で出た”というので、有名らしい。
ちなみに、吉川市川藤榎戸と須賀も、鎌倉時代頃、下河辺荘の
赤岩郷の下・上赤岩地区に含まれていたと、吉川市市史執筆者
は、推定している。

つまり松伏町で出た埋蔵金の一部は、本来吉川市の物と言う事
になるのだろうか。

なお、松伏町町史には、当然かもしれないが「下河辺荘赤岩郷
の下・上赤岩の村域は全部、松伏町の領域内だけで構成されて
いた」と書いてある。
ちなみにどういうわけか、この「埋蔵金話」は、WEB上には、
どこにも書いていないように、私には認識される。もっとも、
私にとっては、以下の話の方が重要だが。ほかに木簡の出土も、
同じ発掘のとき、恐らく水没した部分から、有ったようである。
つまり、松伏町下・上赤岩については、実際には本格的発掘で、
遺物の出土は既に、かなりの量あり、かつ、

発掘は相当昔に、だいたい終わっているようだ。

またこの界隈は、過去に中川の付け替えが行われ、中川が南北
直線で、古利根川に合流するようになったのは、大正時代以降。
またこれとは別だが、江戸時代に江戸川が整備されたため、江
戸時代のその時点で、赤岩郷の中川沿いの寺院関連の建造物が、
埼玉県北葛飾郡松伏町・埼玉県吉川市と、千葉県流山市との境
の、江戸川の近くの特定の場所へ、移動されたとも言う。ただ
し、この旧跡の移動は、赤岩郷でも、下・上赤岩地区には影響
せず、同じ赤岩郷の別の場所、赤岩郷内河という所で、江戸川
形成により、江戸時代に起こった事態だったようだ。なお、埋
蔵金の出た下・上赤岩付近は、正式には「赤岩郷外河」と言う
らしい。ただし、

下河辺氏の館が、埼玉県吉川市下・上内川と特定される、
千葉県流山市に近い、”下河辺荘赤岩郷内河”には無かったと
いう、保証はどこにも無い。同じ赤岩郷でも、内河の方は、
現在は江戸川の河川敷にあり、ゴルフ場になって消滅したり、
水没して、遺物が流出、そして消滅したとされる。

 他方吉川市市史には、”松伏町下・上赤岩には、中世遺跡が
よく残されている”と、書いてある。がなぜ、吉川市川藤榎戸
のように、土器の破片が多くなく、ヒトの気配が、余り感じら
れないのか、私には良くわからない。なお、私が見た限り、
少なくとも埼玉県吉川市川藤榎戸の、江戸時代の寺院関係の
建造物の、別の場所への移動は、特に行われてはいないように
見える。

だから、吉川市川藤・須賀が”かすかな望み”と言った所なの
だろうか。

 更に良く考えてみると。下河辺氏が栃木県小山市を中心とす
る、栃木県の下野小山氏の、兄弟格と言う事ならば、下河辺家
の殿様、下河辺行平や、その次男かと見られる、下河辺行光は、
家族で一緒に、下河辺荘野方の、茨城県古河市の古河城付近に、
鎌倉時代を通して、居るのが自然なように私には思える。その
下河辺氏の本家筋が、あえて水浸しの「下河辺荘赤岩郷に、
年貢米運搬所ではなくて、中心的屋敷を、わざわざ造って住ん
でいた」のか。その話自体に、そもそも謎が、全く無いとは言
えないと思う。そこで、埼玉県吉川市の、吉川市史を読んだ印
象では、近代どころか、同じ中世の150年後の南北朝時代中
期・小山義政の時代の頃であっても、館(城)の存在自体が、
既に、伝説化していたのではないかと、私には思えて来る。つ
まり、場所の特定以前に、住居館の存在自体が、ホントに有っ
た話なのかと思えるほど、実は「埼玉県南部に下河辺氏本家館
跡が有り」との話には、相当な不確実性が、付きまとっている
のである。(2017/02/11)