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新安沖沈没船木製遺品の一つ”五目並べ盤”の謎(長さん)

ちょうど2年前くらいの事であるが、将棋史研究家の故溝口和彦さ
んの指摘で、新安沖沈没船の木製遺品の一つ「遊戯盤」、定説では
”五目並べ盤”を、私は成書でチェックした事があった。
増川宏一先生の遊戯史本「囲碁」に載っている写真で、後期大将棋
の盤を試作した経験を持つ者からみても、写真を見ると、いっけん
すると、溝口さんの言うように15升目の後期大将棋用の盤と、
思いたくなるのも、しかたないというしろものである。すなわち、
格子を升目と見る場合であるが、下から五段で龍馬と角行の前升目
に配置される、歩兵の頭同士に接して、聖目が来るように、5目ご
とに、星が打ってあるように、写真からは見える一品である。
ただ、実際の所、この盤が線盤としても、何路×何路の盤なのかは、
良くわからない。写真からは”数学的に”、

16+5×m,16+5×n 盤と、表現できるものである。

ここでmとnは或る自然数である。このように表現できるのは、
写真には縦列の右袖の縁が写っていて、16路×16路盤だとした
ときには、上と下と左の端線だけが、ちょうど、欠けているような、
写りになっているからである。ここで係数の5は、聖星と聖星が、
5線ごとにあるから、見栄えからすると、その倍数パターンで、
盤の線が、写真の外側で引いてあるのだろうと、推定されるという
意味だ。成書で五目並べ用の盤(?)となっているのは、m=0で
かつ、n=0の場合のようである。むろん、現物は韓国の博物館に
あるのだから、

情報が失われてしまったのではなくて、単に我々が、教えてもらっ
ていないだけである。

 現物に定規をあてればそれまでなのだが、この升目が碁石を置く
間隔なのか、将棋駒で、ちょうど良いのかは、我々には良くわから
ない。当時溝口さんと議論したときには、この遊戯盤をカヤの柾目
の板と仮定し、

木目の間隔が4mmの未満であるとすれば、 問題の盤の縦横線の
間隔、升目と見たときのその大きさは、2cm以下の可能性が
大きい

としたものだったと記憶する。これから、個人的に私は

新安沖難破船出土、遊戯盤は、定説通り碁盤盤の類と結論した

のだが、何とも、頼りない議論ではある。
 むろん、この盤が将棋盤なら、

普通唱導集大将棋は、定説の通り15×15升目の疑いが濃くなる
ので、このブログに関連しては、きわめて大きな影響がある。

 その後、この盤に関する情報量は、残念ながら特に増えていない。
”韓国人が騒がないのだら、朝鮮高麗時代~李氏朝鮮時代の広将棋
関連という事でもないのだろう”と、間接的に推定して、泣き寝入
りしているのだが、考えてみれば情けない話だ。がそれが、この学
術領域の現実だ。現物の写真に、縮尺が入るだけで良いのだが、
どこかに再度、この遊戯盤が発表される機会というものが、本当に
ないものなのであろうか。(2017/04/30)

三井文庫?”象棋十三種”の大将棋の謎(長さん)

webだけではなく、盛書を見るなどしても、詳細が良くわから
ない将棋種に、表題の三井文庫版大将棋がある。
 webの情報をざっと見ただけなので以下確定的ではないが、
三井家の所蔵する、恐らく三井文庫の古文書の中に、以下
三井文庫版大将棋と表現する、
15×15升目142枚制三井文庫版大将棋(駒種類7種増)と、
15×15升目138枚制中大将棋(駒種類3種増)と、
15×15升目130枚制小大将棋(恐らく後期大将棋と同じ物
で、駒種数も、後期大将棋と同じ。)が記載されていると、
言われている。なお後期大将棋の、初期配列時における駒種は、
私の数え間違いが無ければ、29種のはずである。
その他三井文庫または、三井家文書の象棋十三種には、25×
25升目254枚制泰将棋と同じ升目の、25×25升目360
枚制前後大将棋(”まえのごだいしょうぎ”か?)という、
南北朝時代の古文書の異制庭訓往来の”多い将棋”を意識したと
見られる将棋種も載っているという。なお、駒種数は、泰将棋
より、前後大将棋の方が、5種類程度少ないとの情報もある。
 ただしこれらの将棋種の、具体的な駒名とその初期配列、
駒の性能、成り先、成り条件等、詳しいルールはいっさい私には
判らない。
 もともとwebの情報によれば、三井家文庫は、江戸時代以降
の古文書集とされているため、三井家の「象棋十三種」が、三井
文庫に含まれないものであるとの情報が、出てこない限り、上記
15×15升目142枚制三井文庫版大将棋等、四種の将棋は何
れも、江戸時代以降に作成されたものと、今の所、暫定的には、
仮定して進むしか無さそうである。
 特にこれらの4種の将棋種の中では、
15升目142枚制三井文庫版大将棋が、後期大将棋より駒の
種類数が7種類多いため、後期大将棋に駒を12枚、6種類駒を
非対称に加えても、既存の後期大将棋の駒種で2枚あるものの一
種の片方を、別の駒に変えないと、その将棋は作成できない。
加わる7種類が具体的に何なのか、私は現時点で知らない。
が心当たりとしては、後期大将棋には12支の動物の駒として、

鼠、兎、蛇、羊、猿、鶏、犬、以上7種が欠けている

という特徴がある。もしこの7種が加わるとすれば、大将棋の駒
種の決め方に関して、重大なヒントが得られる可能性が大きく、
今後の将棋史の研究に対する影響が、特に大なのではないかと思
う。何れにしても、三井家文書又は文庫の象棋十三種の内容につ
いては、詳細な記録が、もし残っているのであれば、現存する情
報が全て明らかになるよう、今の所、せつに望むしか無い状況で
ある。(2017/04/29)

木製遺物の保存処理の確認(長さん)

「木製遺物は、長い間に水溶性成分が遺物中の木材から流れ出て、
水分と置換し、ぶよぶよの状態で、水中から主として発見される。
水に浸かっていると、菌類による繁殖が、酸素不足によって妨げ
られるので、腐食が進まない。そのため、そのような環境におか
れた木簡・将棋駒・将棋盤等、いろいろな歴史上遺物が、あると
すれば、保存されるのである。しかしながら、ひとたび発掘
され、空中に置かれると、水分が蒸発して体積が急激に減少し、
木製遺物は、変形・劣化してしまう。そこでPEGという薬品
で処理し、遺物が原型を保てるようにしている」
以上が、web上でも記載が簡単に見つかる、「PEGによる、
遺跡の木製遺物の処理」の趣旨に関する、記述である。
 ところで、この「処理」は、処理にしては、妙に長時間と設備
を要するのが、個人的にはこれまで不思議とも思えた。そこで
今回、木材事典等で、木材の化学を勉強しなおして、とりあえず
上記の疑問を晴らしてみた。その結果

以下に述べるように、この「処理」という言葉は、少なくとも
私のイメージしていた、表面処理のような”処理”ではないと
理解できた。

PEG処理については、専門書木材事典では、「木材の改質」と
いうカテゴリーの中で、説明されていた。それによると、木材
成分の改質パターンは、以下のような旨で分類されるという。

木材成分の改質パターンの分類
1.木材と合成樹脂の複合化(広義の木材合成樹脂複合体)
 1.1合成樹脂モノマーを木材に添加しさらに重合するタイプ
  1.1.1 ビニル・アクリル重合型(狭義の木材合成樹脂複合体)
  1.1.2 開環重合反応型
  1.1.3 重縮合・付加重合型
 1.2. 高分子を注入添加し成分混合して複合化するタイプ
(PEGすなわちポリエチレングリコール処理が、これ↑)
2.木材分子=セルロースの誘導体化。化学反応させる。
 2.1 耐湿処理木材(アセチル化木材。ホルマール化木材)
 2.2 熱可塑性木材(エステル化、エーテル化等)
3.液体アンモニア処理による、木材分子の可塑化

ここで、PEG処理とは、ポリエチレングリコール処理の事で、
改質のカテゴリーの中では唯一、化学反応は係わらない。ただし、

表面処理ではなくて、”成分混合”工程の一種である事が判る。

なお、混合した後、水分は加熱や吸引等で、蒸発され系からは、
かなりの部分が、取り除かれるという”後処理”があるわけだ。
以上の事から、もともとが熱硬化性プラスチックの一種とみな
せる、木材のセルロース等の成分に、こちらは熱可塑性だが、
別の高分子、

ポリエチレングリコールを混合する工程が、実際には行われる
訳で、遺物が破損するため、攪拌が出来ないわけであるから、
短時間で、この”処理”が終わるはずが、私の知っている
高分子化学の常識からみて無い

とは、私にはようやく合点された。化学反応はなく混合である
から、化学コンビナートでなければ作業できないという、ほど
の事までは無く、将棋の駒程度の大きさの遺物であれば、

中学校の実験室程度の、加熱や吸引、分留設備があれば、
作業ができるだろうという事は、私には容易に想像できた。

 なお、ポリエチレングリコールは高分子量のものが、白色の
粒子状の固体、低分子量ならば無色透明な液体が、専門の
薬品会社から販売されていると、私は認識している。個人的
には現物は、若い頃に私は何回も見た。
が、混合作業中の遺物を、1~数ヶ月保管・管理しておく場所
等が必要等、個人でやるなら作業場所を手配するなど、一から
準備が必要なわけで、それなりにたいへんそうである。そこで
安直には、専門業者に頼んだほうが、遺物にとっては安全であ
る事は、私にも以上学習したので、一応理解できるようになっ
た、つもりにはなった。(2017/04/28)

埼玉県加須市旧北河辺町、古河公方別邸跡西地帯のチェック(長さん)

前回までの下河辺荘の探索で、残りが古河市周辺だけとなった
ため、今回、手始めに西のエリアで、東武スカイツリーライン
沿い、柳生駅から、新古河駅付近を見て回った。
現在の地名で、埼玉県加須市柳生、同じく埼玉県加須市小野袋、
埼玉県加須市柏戸、埼玉県加須市陽光台、埼玉県加須市向古河
と見た。なお、このエリアは平成の合併以前は、埼玉県の北川
辺町だった所である。
 この付近には、”鷲神社”が多く、小山義政とも繋がりが、
感じられたため、だいぶん開けていると聞いている、古河市の
市街地よりは先に、ここをみてみる事にしたのである。
 ただし実際に見たところでは、東武スカイツリーラインの、
柳生駅と新古河駅付近は、開けていて遺物は転がっていない。
また、一帯で貝塚のような所や、陶器の破片のようなものが、
たくさんあるような所には、遭遇しなかった。が、柳生駅と新
古河駅の中間地点の神社には、瓦や神社特有の遺物が、けっこ
うたくさん転がっていた。ただし、ここ付近の神社の、幾つか
の建て看板を読むと、このあたりの”鷲神社”等の創建は、
残念ながらさほど古いものではなく、江戸時代末から明治に
かけてのものが、多いようである。
 よって遺品も、近世末期や近代のもの、だけなのであろう。
 恐らくは、利根川の工事に関連して、よそから移されたか、
その工事での安全を祈願して建てられたか、そうした意味合い
の神社ばかりのようであった。従って、中世の小山義政と関連
する、鷲神社と言えるような証拠には、今回調べた範囲では、
遭遇しなかった。
 最後に帰りがけに、渡良瀬川の河川敷に登り、対岸の茨城県
古河市を遠望した。が、三国橋の対岸の橋のたもとは、やはり
かなり、開けている街中のような印象で、少なくとも古河公方
別邸付近には、遺物の散乱等は、余り期待しないほうが良く、
そのうちざっとチェックする程度で、良いのではないかと感じ
られた。(2017/04/27)

一遍上人絵伝「囲碁盤」の謎(長さん)

普通唱導集の成立とだいたい同じ、西暦1299年完成という
鎌倉時代の絵巻物で、一遍上人絵伝という国宝の絵巻がある。
2種類あるらしく、ここで問題にするのは、静岡県三島の民家で、
囲碁をする人物像が描かれている、京都の歓善光寺本(12巻)
と言われる方である。絵師は円伊という方で、民家は、駿河三島
神社の近くにあるその当時の家屋内を模写したということだ。
下の方に囲碁等に興じている人物達が描かれており、囲碁の道具
のうち、囲碁盤とされるものは、下のようなものだ。私の画像処
理の仕方が悪いため、盤は左下が欠けて歪んでいるが、実際には
絵からは厚みは感じられないが、平らである。これは定説では
「囲碁盤」とされるが、以下に普通唱導集時代の大将棋との関連
で論じる。絵については、国立博物館で現物か、平凡社版の、
渋沢敬三著「日本常民生活絵引」等で、確認をしていただきたい。
一遍上人絵伝.gif
ところで、この絵に描かれた遊戯道具は囲碁盤とされているよ
うであるが、囲碁盤にしては、路の線が、縦横19本の線では
なくて、行段が、左端が悩ましいが13~14本、縦筋が10本
あるように、私には見える。ようするに、

升目にすると、9×12升目か9×13升目の将棋盤状である。

ただし、聖目は書かれてい無い。以上から、
ひょっとして、普通唱導集大将棋の13×13升目盤の、縦筋だ
けはデフォルメかと、私は、この絵を見たときに色めきたった。
しかし、盤の上の方に、僧侶らしい対局者の一人の手が見えてい
るが、大将棋・中将棋にしては、”駒”らしきものを、盤面から
高く、持ち上げすぎているようにも思える。握っているのは将棋
駒ではなくて、やはり碁石なのであろうか。なお、たいがい囲碁
の図にあって、将棋盤には描かれないので区別が付く、

碁笥が、この絵には載っていない。

更に、升目の大きさは縦がリアルだとすれば、対局者の手の大き
さから、縦一升目2.7センチ程度かと思う。将棋の升目が
3.1センチ、囲碁盤の路の間が2.2センチ位だろうか。
どちらともいえないだろう。以上の通り、なんとも悩ましい絵だ
と私は感じた。
 もっと、大将棋と一目でわかる”道具”が、この絵に描かれて
いたとしたら、今頃この絵は将棋史上は、最重要な史料の一つに、
なっていたに違いないのにと、惜しまれる。何れにしても、
この史料からは、

将棋盤の升目の史料が出る事も、大将棋の今後の研究にとって、
たいへん大事な情報である

ということが、はっきりと判る例だと思う。
現物の普通唱導集の大将棋用の将棋盤が、どこかで出土するのが
ベストだが、絵として、もっと判りやすい例でも良いので、その
ようなものが、見つからないものかと、私にはこの絵を見て、し
みじみ感じられる。(2017/04/26)

埼玉県春日部市の旧北葛飾郡庄和町中心部付近の下河辺荘のチェック(長さん)

前回に引き続いて、埼玉県春日部市の西宝珠花より、旧埼玉県北葛飾郡
庄和町の中心部である埼玉県春日部市金崎、東武アーバンパークラインの
南桜井駅付近までの、下河辺荘の地理的中心点付近をチェックした。
 実際には、今回は西宝珠花の宝珠花橋のたもとから、旧北葛飾郡庄和町
の中心部やや西の、現在の埼玉県春日部市下柳の北東端、南桜井小学校
付近までは、バスに乗り、その車窓から様子を眺めた。
 バスの経路上、埼玉県春日部市西宝珠花からは、埼玉県春日部市上吉妻、
同春日部市神間、同春日部市立野、同春日部市上柳、同春日部市下柳の
北東端と進んだ。地図上の道路の様子から、私は田んぼが続いているのだ
ろうと、想像していた。だが、実際には畑が続き、人家もけっこう建っ
ていた。結局この、下河辺荘の、野方と下方の、は境も、調べるだけ全く
ムダとまでは、言えない場所のようだ。ただし、城跡を感じさせる場所
までは、特に見当たらない。下河辺行平はやはり、下河辺荘のちょうど
真ん中には少なくとも、大きな城は作らなかったようである。
 下柳の縁でバスを降り、ここからは徒歩で、旧埼玉県北葛飾郡庄和町の
中心部、埼玉県春日部市金崎、同春日部市西金野井の西域、春日部市大衾、
を見て、春日部市米島にある東武アーバンパークライン線の南桜井駅に、
到着した。春日部市金崎より後の部分は、旧庄和町役所・学校関係の
大きな建物や、それを囲んで整備された公園が続いていて、だいぶん
開けてしまっており、遺物の散乱は、期待薄のようであった。以上の結果、
埼玉県北葛飾郡松伏町築比地より、埼玉県春日部市米島までを調査した、
以前の調査経路とは繋がった。ので、前回の埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣
付近から、埼玉県春日部市西宝珠花までの調査と合わせれば、茨城県
古河市の古河公方記念公園付近を除けば、だいたいの下河辺荘を、私は
全部ざっと見て回りきった、という結果にはなったように理解された。
(2017/04/25)

埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣周辺の下河辺荘のチェック(長さん)

4月23日、埼玉県南埼玉郡杉戸町目沼、鷲巣、および埼玉県春日部
市西宝珠花(にしほうしゅはな)付近をチェックした。なお、杉戸町
目沼には、目沼古墳という6世紀から7世紀にかけてのものではない
かという史跡がある。
 そもそも、この地域をチェックしたのは、南北朝時代に第3次
小山義政の乱が終結した際、室町時代の小山持政ころの小山氏家伝に
よれば、
「もともと南北朝時代中期には小山氏の領地であった、下河辺荘の
鷲巣郷を、小山義政の乱の終結に際して、鎌倉公方の足利氏満が、
小山氏から戦利品として取り上げ、氏満の配下の梶原道景に与えた」
という記録から、神鳥谷曲輪遺跡将棋駒と関連する、南北朝時代の
栃木県小山市に居住の、小山氏の大将

小山義政と、下河辺荘鷲巣郷すなわち、埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣
とは繋がる

と私は見たからである。実際には下河辺荘鷲巣郷というのは、最近に
なって把握した。ただし、以前からJR宇都宮線の東鷲宮駅近くにあ
る鷲宮神社に、小山義政は刀を奉納したり、小山市小山城の南西に、
鷲城を作ったりしているので、埼玉県南埼玉郡杉戸町鷲巣という
地名に、私が小山氏臭さを感じていたことは事実である。なお、第3
次小山義政の乱(西暦1382年)以後、鎌倉公方の足利氏満が、
小山義政から取り上げたと、される領地には、他に埼玉県越谷市付近
の下河辺荘新方郷や、埼玉県北葛飾郡松伏町付近の下河辺荘赤岩郷の
記録もある。が、このへんは既に調べてある。また埼玉県さいたま市
岩槻区付近もそうだが、ここは個人的には、数十年前に良く行った事
のある場所であり、現在はかなり開けて、地上を見て遺物が見つかる
環境では無いと把握している。蛇足だが中世史家は、この”鎌倉公方
の小山氏からの取り上げ領地のリスト”から、小山義政時代の、
小山氏の領地の最大版図を、推定していると聞いている。
 さて実際の調査は、杉戸町深輪でバスを下車し、同産業団地から
鷲巣鷲神社へまずは行ってみた。いかにもソレという名前の神社だが、
特に小山義政臭さは、感じられなかった。ただし、立て看板によると、
西暦1299年記銘という石碑が、この神社に残っているといい、
小山義政より前の鎌倉時代後期ではあるが、普通唱導集の成立年代と
は、ぴったり同じなので、その石碑の話には興味を引かれた。ただし、
現物がどれの事なのか、私には良くわからなかった。
 現鷲巣の地名のついた場所については、鷲神社から鷲巣のバス停を
超えて、鷲巣の場所を幹線道路375号線に沿って往復した。道路脇
を見ただけなのではっきりとはしないが、「古墳が分布する」とされ
ているものの、地上を見ただけでは良くわからない。なお、鷲巣を
北西に抜けて、埼玉県南埼玉郡杉戸町宮前、同杉戸町目沼と進み、
目沼古墳へ向かった。
 ちなみに、埼玉県南埼玉郡杉戸町目沼より北の下河辺荘では、茨城県
結城郡五霞町小手指の間に、せいぜい同じく同五霞町の原宿台貝塚が、
それらしい地形の場所として、見残した程度だろうと、私は見る。
 さて、それで目沼古墳についてだが、この古墳は特に整備はされて
はおらず、雑然とした住宅地の中に、数メートルの小山が有った。
また、周囲に特に遺物の散乱は無かった。なお、鷲巣付近にも遺物は、
私には見つからない。そこで杉戸町鷲巣を、375号線に沿って往復
した後、今度は南東に出て、同じく375号線に沿い、埼玉県南埼玉郡
杉戸町木野川、埼玉県春日部市西親野井、同春日部市西宝珠花と、
江戸川沿いを調べた。ここも幹線道路沿いを見ただけだが、特にヒト気
や遺物は無いようだった。埼玉県春日部市西宝珠花には宝珠花橋という
橋が、江戸川に架かっており、橋のたもとが、少し開けている。今年の
ゴールデンウィークには、ここの大凧公園で、凧揚げがあるらしく、
宣伝の看板が立っていた。なお、たぶん西宝珠花の大王寺という橋の
たもとの、寺のあたりだと思うが、戦国時代の武将の館跡があると、
ものの本で読んだ。大王寺は今回は、看板だけ見て通り過ぎた。
 結局埼玉県南埼玉郡杉戸は町であるが、そのはずれに近い鷲巣も、
比較的開けた場所で、住宅も結構建っていた。中世の面影は、残念な
がら、この一帯では検出できなかった。(2017/04/24)

小将棋に於ける”増川宏一パラドックス”の原因(長さん)

かつてこのブログで私は、「9×9升目36枚制平安小将棋
の、開戦にらみ合い局面での、ドン詰まり問題は、持ち駒
ルールの導入によって、解決する」との旨を記載した。しかし、
最近良く考え直してみると、

この私の考えは、間違いなのではないかと思うようになった。

持ち駒ルールを導入しても、開戦直前にらみ合い局面での、
ドン詰まり、あるいは行き詰まりは、解決できないので、それ
をきっかけに、9×9升目36枚制平安小将棋持ち駒有りタイ
プ(恐らく普通唱導集に唄われている、「小将棋」)が爆発的
に流行るという事は起こら無いのではないかと、言う事である。
 従って増川先生とは異なる意見となるが、普通唱導集小将棋は、
持ち駒ルールであっても、爆発的には流行らないので、パラ
ドックスは起こらず、持ち駒ルールは1300年頃からある、
としても、じつは問題が無いと私は考える。つまり、持ち駒制
有りの方の普通唱導集時代以降と見られる、9段制平安小将棋の
木村義徳氏の「持ち駒使用の謎」における、行き詰まり局面図
を見てみると、まだ駒の取り合いが起こっていない。だから、
ルールに持ち駒制が有っても無くても、ドン詰まり、あるいは
行き詰まりになるかどうかには、そもそも差がないはずである。
 よって、西暦1300年頃の普通唱導集の時代に、小将棋に
持ち駒ルールが発明されていたとしても、小将棋が、9×9
升目36枚制(飛車角抜き)平安小将棋の初期配列形だと、

増川氏の言う、「直ぐに爆発的に小将棋が流行る」という事は、
持ち駒ルールが、それほどまでには、良い思いつきとまでは行か
ない為に、持ち駒ルールの発明だけでは、実際には起こらなかっ
たのではないかと言う事になる。

 ようするに、小将棋に飛車角を更に導入しないと、木村義徳氏
の「持ち駒ルールの謎」に、テスト指し結果が表現されている
ように、小将棋開戦直前ドン詰まり問題は、完全には解決しない
のではないか。持ち駒ルールがあれば、確かに問題は、それ以前
よりは、小さくはなるのかもしれないが。よってそれ以降も、
ドン詰まり問題を、抱え続ける事になるので、小将棋が中将棋に
比べて優秀なケームになったとまでは、飛車角抜き型については、
中将棋がぼ完成したと見られる西暦1350年頃にも、そう認識
されては居なかったのではないかと言う事になる。そこで、

 9段制小将棋の行き詰まり問題は、持ち駒ルールの発明だけで
は回避できなかったので、西暦1300年頃のその導入の後、
中将棋から、竜王成り飛車と、竜馬成り角行が、15世紀の終わ
り頃に9×9升目36枚型平安小将棋で持ち駒有りタイプに導入
され、40枚制になってから解決され、以上が理由で、それ以降
に、日本将棋は中将棋を、徐々に駆逐していったと考えられる

と、これからはこのブログには、上記の仮説の内容で記述しようと
私は考えている。何れにしてもこの問題は、このブログの本流
からは外れるので、詳しく検証はしない。が、将棋史上は最重要な
問題である。なので、私としても一人でも多くの方が、100
ショップの将棋等を使用し、上記見解の当否を、こののち判断し
て頂けるよう、心より望んでやまないところである。(2017/04/23)

下河辺氏の城や館の位置に関する一考察(長さん)

これまで、鎌倉時代草創期の下河辺行義の兄、小山政光子孫である、
小山義政時代の小山城や、下河辺行義の次男の子孫である、静岡県
焼津市小川城跡の小川法長者の城跡から、前者について、裏一文字
金角行駒、後者について裏飛鹿盲虎駒および、裏飛鷲竜王駒という、
駒数多数系将棋(前者は摩訶大大将棋(?)、後者は中将棋)が
出土しているため、駒数多数将棋の道具の出土が期待される、
下河辺行義の息子と孫(?)、下河辺行平と、下河辺行光の、
城を探す活動を行ってきた。しかしながら、いまの所私の調べて
いない、古河城跡を除いて、はっきり豪族の城跡だと感じられる
ものに、遭遇したような気は私にはしていない。そこでここらで少し
冷静に、これはどういう事かと、じっくりと読みを、入れてみること
にした。すると、以下のような事ではないかと、考えられた。
 そもそも前回調査した、栗橋城近辺にしても、下河辺行平の城で
はないかとされる理由の付け方だが、「古河城が、下河辺荘全体か
らみると、北に偏りすぎている。」という、考えによるものだと、
私は聞いている。この考えだと、下河辺荘の中心部分に、下河辺
行平、行光の城跡を探せばよいと、いう事になる。だが、

下河辺氏は下河辺荘の中心点付近に、中心城を作る気など、最初から
そもそも無いのではないかと

私には思えてきた。いわゆる”一円支配”という言葉が南北朝時代
頃現れるが、実際に調査してみると実感できる事は、それにしても、

何とも下河辺荘は全体の形が細長すぎだ、という事だ。

 川筋の直角方向に少し行くと、近くにライバルの氏族が居るとして
も彼らをを攻めずに、なぜ、下河辺氏は、こんな細長い領地だけを、
支配しようとしたのかと、考えるというのが利口かと、私には思われ
てきた。恐らく下河辺氏は戦いのとき、船を使うのが、当たり前の
豪族だったのだろう。だから、

彼らにとって、川筋の距離は陸路の十分の一の感覚だったに違いない。

でないと、こんなへんな形の領地には、しない、はずだからである。
しかも、ある程度の大きさの船が入る、川の上流端の川岸に、城を
作るという事は、彼らにして見れば、

山城の主郭を、山の頂上に置くというのと、ほぼいっしょであたり前

だったと思われる。つまり、いざ合戦のときには、上流から船団で、
わーと攻めて、敵をやっつけ、戦いに勝つと戦利品を持って、ゆっく
り川を上って、根城に帰るという、作戦が普通と、水軍的な発想の、
下河辺氏には、当たり前に考えられたに違いない。以上の事から、

恐らく下河辺行平については、下河辺荘でも、その北端の、茨城県
古河市付近に城を構える事以外、考えた事も無かったのではないかと、
私は推定する。

そして、下河辺荘の一番下流の端には、船の停泊場と見張りの砦を
置き、手下の兵隊に、守らせていたのではないかと思う。それが、
時代によって変わったのかもしれないが、

埼玉県八潮市の潮止、東京都足立区の神明、埼玉県吉川市の川藤のど
れかは不明だが、その辺りに有った可能性はあるのかもしれない。

以上の事から、たとえばバナナのような形の下河辺荘の実際の地理的
中心点、

埼玉県春日部市の旧庄和町役場付近の一帯には、下河辺行平の屋敷跡
等の存在など、余り期待できないのではないか

と、私は考えるようになって来ているのである。(2017/04/22)

下河辺の荘に関して、南栗橋駅付近をチェック(長さん)

今まで述べた所では、下河辺行光の館跡と称される地点として、
下河辺荘でも南の方、すなわち埼玉県南部の”下方”の調査を
中心に行ってきた。
そこで、今回は趣を変え、同じ下河辺荘でも”下河辺行平の
館跡が有った”とも伝わる、下河辺荘”野方”、茨城県南西端
の、茨城県五霞町元栗橋付近の調査を行った。この場所は、
最寄駅として、東武スカイツリーラインの南栗橋駅がある。
 事前に地図を用いて、道路付きで、城を連想させる所の
チェックは行った。私が見た限りでは、栗橋城跡自体は、
大規模な城郭が、かつて有ったようには見えなかった。そも
そも、現在の川筋から、その道路の向きが決まり、それが
”館”に見えるような所が有ったとしても、鎌倉時代には
川筋が違うのだから、下河辺氏の館跡では無いだろうと考えて、
私なりにチェックをした。その結果、

茨城県五霞町小手指という、キューピーマヨネーズ五霞町工場
のある場所で、南栗橋駅から見て、向こう側になる字地名で、
”赤法花”と記載された付近の場所が、山のぐるりを、道路が
囲んでいるようにも私には見えたため、ひょっとして”城山”
と見て、その辺りを重点的に、チェックしてみる事にした。

なお、この付近には遺跡、古墳の類がもともと多く記録され、
webを使って13箇所前後が、抽出された。
小手指および、その近傍にも5~6箇所程度遺跡情報がある。
 実際に行ってみると、そこは中心に雑木林のある場所で、
周りより、わずかに盛り土はされた雑然とした畑の土地だった。
実際”山林に立ち入り禁止”という、妙な看板も目に付いた。
なお付近に明快な山のようなものは見当たらない。また、

貝塚があるというのだが、貝殻等は、余り散乱していない。

小手指を初めとして、五霞町の元栗橋の一帯で、特に強いヒト
気のある場所は、見当たらなかった。わずかに、小手指の西に、
”川妻”という場所があり、穴薬師古墳という、整備された
遺跡があるのだが、この付近で、近所の寺の遺品の、カケラの
ようなものが、少し散乱していただけだった。
 以上茨城県五霞町小手指をざっと見た後、その南の同じく
五霞町元栗橋にある、栗橋城跡へも行ってみた。ここにも、
遺跡等が3~4箇所、城跡とは別に周りにあるというのだが、
五霞町に隣接する、埼玉県幸手市に属する、外国府間の遺跡も
含めて私には、遺物が散乱しているようには、見えなかった。
なお、栗橋城跡は民家の敷地内であり、堀跡が見られたが、
雑木林になっていた。遠めに眺めた限りでは、やはり最初の
予想通り、狭い領域に留まりかつ、今では何も、残ってはい
無いようであった。
 結局当初私が期待した、茨城県五霞町小手指赤法花は、
山ではなくて逆に窪み、すなわち以前は、調整池と、その周囲
だったとも疑われる場所だった。ここは下河辺行平の館跡とは、
今の所確実ではないが、少し違う所のような気がしている。
(2017/04/21)