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将棋大橋家文書で渋川春海時代の日本の天文学が低水準であると判る(長さん)

11月22日に東京千代田区の日比谷図書館で開催された、将棋史等研究者
で遊戯史学会の会長である、増川宏一氏の江戸時代将棋「大橋家文書」の
解説を聞き取った。個人的には、それがきっかけとなり、同氏の「碁打ち・
将棋指しの江戸」を熟読する機会を得た。その結果、実際には後者の成書の
第一章「新事実の発見」の記載が発端となり、江戸幕府に天文方が出来る
きっかけとなった、渋川春海について、だいぶん以前とは別のイメージを
持つ事ができたので、今回はその報告である。なお、渋川春海に関する同じ
話が、22日の講演会でも、直接有った。
 以前は、だいたい天文学書としてしか、渋川春海に接する事が、個人的に
は私の場合無かったので、

青年時代から、天文マニアだった若者が、後に大成して、大天文学者になっ
た、という先入観・感覚でしか、渋川春海を見ていなかった。

むろん、江戸幕府関連の囲碁”所”に随伴する人物である事は知っていたので、

囲碁も強かったが、渋川は「囲碁がどこか自分が一生を賭ける分野とは違う」
と判断して、のちに天文方に転向したのではないか

と、漠然と、増川宏一氏の話を聞いたり、「大橋家文書発見本」を読むまで
は、勝手に想像していたのである。

そもそも、トップランナーが、二足ワラジで頂点に立てるわけが無い

という、素朴な発想である。その私の予想は、「碁打ち将棋指しの江戸」
の第一章、「新事実の発見」の章で、だいぶん揺らぐことになった。
 1674年に、お城碁に出る事になった、当時30代の渋川春海に関し、
”お城碁の直前に、急に病気になり、彼が出られるかどうかで、すったもん
だがあった”、という「大橋古文書」が、1990年代に発見されている
というのである。そのため渋川の代わりの囲碁棋士を急遽、お城将棋の棋士
として、再選択する事になった。ところがそのときの対局相手の、当時の
3代目、本因坊家の本因坊道悦が、

渋川春海相手以外、お城将棋で指したくないと、だだをこねた挙句に、
彼まで病気だと言い出し、結局本因坊がその年の城将棋に出席しなかった

と、いう話が発見されたようなのである。つまり、

渋川春海は根っからの囲碁の棋士であり、相当に強く、

囲碁の棋士のまま一生を送っても充分であった

という事を、増川宏一氏は「新事実」として掘り出したという訳である。た
とえば将棋のプロ棋士は、子供の頃から将棋を指さないと、脳が将棋に適し
たように成長しないため、少なくともトップランナーになれないと、私は
複数回教わっている。

それと同様、天文少年が、それように脳を成長させたから、トップランナー
を走る天文学者になったという方が、40歳で転向して、そうなったという
話よりは自然

だと、私は思う。つまり、本因坊道悦の渋川春海に対する評価からみて、

渋川春海の場合、明らかに天文脳ではなくて、囲碁脳を持っているとみられ
るにも係わらず、第一線の天文学者になったと、少なくとも天文成書では、
紹介している

と、私は理解しているのである。
そこで私の言うところの、この不可解な”現象”は、

当時の江戸幕府の暦学分野の天文方のレベルが、お偉方に顔が効けば、余り
高いレベルでなくてもなれた証拠

と考える事によってしか、説明できないと思えるようになった。webには、
改暦した新暦のもとになっている中国暦には、渋川春海より数学者の関孝和
の方が詳しかったとか、ぼんやりと、それを示唆する事は書いてある。しかし、
関孝和の仕事は、幕府には余り評価されていなかった。これは、

改暦に必要なのが、当時の未開の国日本で、そのための数学を、今更新たに
作る事ではなかった証拠

なのかもしれないと私は思う。必要な数学は、その中国の暦法には、全部含ま
れていて、ようするに、書いて有るとおりに真似れば良い、状態だったのでは
ないか。日本人が、物理学として超越した仕事を完成させ、ケプラーの
三法則やニュートンの重力の逆二乗則にまで、完全にたどりついているという
のなら、話は別であるが、

関孝和らの仕事は、数学に留まるので本質的に、江戸幕府にとっては不要
だったのかもしれない

と私は思う。そこで、天文学者としての渋川春海に戻って、webの情報
から、彼が、本当は、和暦を作るのに必須だった経度観測を、どのくらい
精度を上げて行おうとしたかを、私はざっと調べてみた。

元の都(北京か?)と京都の位置差が、食の予想の当否を決める

と彼は主張しているが、そうであるとすれば、経度の測定の精度向上には、
あらん限りの神経を使うだろうというのが、天文学的な感覚である。その為
には、懐中時計で良い製品を、渋川春海は必死に探しただろうと、ただちに
私にも予想できる。ところが、渋川春海が実際にした事は、恐らく関係者へ
の説得等の用途で、

単に地球儀を作っただけ

だと言うのである。これでは、確かに中国が日本の西に有る事は判るだろう
が、

正確な中国の暦地方時の基点と、日本の京都間の経度差を測ろうという
”精神”が、私には余り強くは感じられない。

囲碁棋士として育った脳には、この「観測精度にうるさい感覚」が、無いよ
うに、私には見えるのである。実際には食の予想は、経度が5°程度のズレ
なら、外すのはよほどの不運だった。

だから、中国と日本は地球上で別の位置に有るという、渋川春海の気がつい
た牧歌的な感覚が有りさえすれば、当時の日本では、トップランナーに立て
るほど、徳川幕府の17世紀後半の天文学は、世界水準に比べて低かった

と結論できるように、私には思えた。
 なお将棋史について、日本将棋が優勢になってからの状況は、このブログ
とは、少し論が離れるためもあって、増川氏の大橋家古文書の研究から、今の
所はっきりとした、ユニークな古代~中世将棋史関連の知見を、私は発見し
ていない。気が付いた事が有れば、これから書きたいと考える。
 しかし、遊戯史と天文学史を横断した渋川春海について、大橋古文書で記載
があるのを発見した増川氏の効果は、少なくとも私の感覚として、天文学史上
の渋川春海という人物の描き方という点にとっても、かなり大きい影響があっ
たと、充分に感じられるようになってきた。(2017/11/24)

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