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平安小将棋”旦代理論”の木村義徳氏/持駒使用の謎での表現の復習(長さん)

このブログでは、過去何回も、9×9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒、
有りないし無し)における、”後手真似将棋、仕掛け直前の行き詰まり問題”
を指摘してきた。この事実が実際に有る、というのが、結局本ブログでの、
根幹であり、それが正しいという前提が崩れてしまうと、

”この現象の存在を根本原因として、平安末期の将棋史が展開した”とする、
このブログでの、私流の大半の議論が灰になるほど

である。そこで、今回は、一名”旦代の9升目平安小将棋に関する
難点の議論”、木村義徳将棋九段の持駒使用の謎(2001)における
略称”旦代理論”の内容を、明確にしておきたい。
 個人的には今の所、の現象をまとまって取り上げている成書が見当たらな
いため、持駒使用の謎の記載で、それを定義するのが、最も確かだと、私
は考えている。木村義徳日本将棋九段により、2局の棋譜の形で、行き詰
まりの状況が説明されている。以下の2例である。

例1:持ち駒無し将棋に関する、公開された棋譜

⑨⑧⑦⑥⑤④③②①
香口口口口口口口香一
口口口口口玉口口口二
歩金桂歩口金桂口口三
口歩歩銀銀歩歩歩歩四
ほ口口口口口口口口五
口歩歩歩銀歩歩歩歩六
口金桂玉銀金桂口口七
口口口口口口口口口八
香口口口口口口口香九
(駒は一段から四段が全部、後手。
六段から九段が全部、先手のである。
⑨五の位置の”ほ”は、先手/こちら
側の、歩兵である。

なお、ここまで、▽⑤五歩▲同歩▽同銀▲⑤六銀▽⑥四銀(と引く)▲5七銀
▽④二玉(?)等と指されたらしく、先に無理攻めした”後手が、先手に反撃
された”との旨、同成書で記載されている。なおこの後は、▲⑨六金▽⑨四歩
▲同歩▽同香で、先手の金が死んだ(金と香車の斬り合いになった)との旨が、
記載されている。

例2:持ち駒有り将棋に関する、公開された棋譜

⑨⑧⑦⑥⑤④③②①
香口口口口口口口香一
口口金口玉口金口口二 後手:持ち駒無し
口口桂銀口歩桂口口三
歩歩歩歩歩銀歩歩歩四
口口口口口口口口口五
歩歩歩歩歩銀歩歩歩六
口口桂銀口歩桂口口七
口口金口玉口金口口八 先手:持ち駒無し
香口口口口口口口香九
(駒は一段から四段が全部、後手。
六段から九段が全部、先手のである。)

上記のように、棋譜は点対称ではなくて、五段目のラインに対して、線対称に
なっている点に、注意が必要である。つまり、厳密には真似将棋の定義からは
外れるが、線対称になるように、後手が駒を組んだ場合を、想定しているの
である。

例1と2から、何れも”中間段へ向かって、ほぼ線対称型に、後手も目いっぱ
い陣を、せり上げたときに、9×9升目36枚制平安小将棋では、持ち駒ルー
ルが有りでも無しでも、先に攻める側に、有利になる手が無いという現象があ
る”というのが、旦代理論の意味である事が判る。個人的には、桂馬が常に
3×3の位置に4枚とも並び、特に陣が完全に線対称であるケースが、典型的
だと考えている。つまり、特に

例2の棋譜のケースが典型的であり、持ち駒ルールが有ろうが無かろうが、
この局面で、平安小将棋は行き詰まっている

と私も考える。ただし、旦代氏の原因考察は私とは大きく違う。歩兵が4段差
配列なっているのが原因と、彼は考えている(らしい)からである。他方、
私は、桂馬が互いに当たらないようにすれば、とにかく、この行き詰まりは
解消するとの立場を、このブログでは、複数回表明している。
 また、持ち駒使用の謎の記載と、合わない所もある。私は8×8升目32枚
制原始平安小将棋では、持ち駒ある無しに係わらず、この行き詰まりは無いと
いう立場を取っている。が、木村義徳九段を初め、賛成者の例は、オリジナル
の旦代氏を除いて、私は余り知らない。
 なお、この種の研究は、日本将棋が、これだけ普及した中にあっても、これ
以上、ほとんど進んで居無いと認識している。以上の情報を基に、私流の
言い方では、旦代現象の定義がより明確になると共に、その内容がより鮮明に
なるよう、今後の、百円ショップの将棋道具等を用いた研究の高まりに、ただ
ただ期待するしか無い所だと、心の奥底から考えているのである。(2017/10/31)

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松浦大六氏所蔵象戯図式(江戸時代)。泰将棋ルールで横龍が無い訳(長さん)

前回述べたように、”水無瀬兼成の将棋部類抄の、泰将棋の表面図のルール
の図示内容には、将棋史に関する情報が乏しい疑いが強い”との事だった。
他方、泰将棋自体は、江戸時代の将棋ゲーム本でも、取り上げられ続け、
たとえば、ものと人間の文化史、将棋Ⅰ(1977)にあるように、表題の、
象戯図式(松浦大六氏所蔵本)でも、初期配列図と共に、駒の動かし方
が、図と文で記載されている。
 ただし、水無瀬兼成とは異なり、江戸時代の将棋ゲーマーは、泰将棋の
駒の動かし方のルールは、それより下位、摩訶大大将棋等に、同じ種類の駒
が存在するときには、下位の将棋のルールと同じという、考え方をするケー
スが多かった。表題の象戯図式(松浦大六氏所蔵本)でも、そのシステムで
ルールが記載されている。であるから、泰将棋の象戯図式部分には、概ね
泰将棋でだけ、現われる駒の動かし方のルールが、説明されている。とこ
ろが、泰将棋でしか現われない駒で、

横龍だけ、象戯図式(松浦大六氏所蔵本)で、説明が無い

ことが判っている。この事の中に、何か将棋史に関連した情報が、
かろうじて微かに、隠れていないかというのが、今回の論題である。結論を
書くと、

摩訶大大将棋の横飛は、もともと横龍で、水無瀬将棋部類抄の時代ないし
その以前に、転記で間違えたのではないか

と、私は疑う。そしてこの事は、摩訶大大将棋の龍駒が、もともと、龍王、
龍馬、臥龍、飛龍の4種類ではなくて、横龍も入れて、5種類有った事を
示しているのかもしれないと思う。つまり、概ね

鎌倉時代中後期から室町時代時代前期(~1443年頃)にかけて作られた
将棋では、龍駒を将棋駒種に、やたらとたくさん、入れる傾向が有った事を、
より強く示唆する材料

ではないかと、私は疑っているという事である。
 つまり、江戸時代の象戯図式(松浦大六氏所蔵本)の著者は、”摩訶大大
将棋に横龍は有る”と、頭の中では記憶していて、泰将棋の所で、その動き
のルール図を、書き忘れてしまった、と私が見ているという事である。なお、
江戸末期に完成したとみられる大局将棋では、横飛の成り駒が横龍という、
密接な関係になっている。よって、

少なくとも、横飛と間違えるとすれば、元は横龍以外に、有り得ないように
私は思う。

なお、横飛の横も飛も、本来は修飾字であって、修飾字を2つ重ねた駒名
は、奔王等極少数で、特徴的である。象戯図式の著者が、思考で落としにく
い不自然性がもともと有ると、私は見る。
 そして、摩訶大大将棋でいわゆる12支駒のうち、龍の種類だけ、5種類
と、飛びぬけて多いという事から、その傾向は、その成立の約150年前
にもおよび、

大将棋に龍王と龍馬が、何時からか導入されるにしても、比較的早くに、
優先的に、奔横か奔王の傍らに、入っていった

と、推定できるのではなかろうかと、私は考えているのである。
 なおいわゆる、普通唱導集大将棋に”飛車以上の強力駒が、出土している
奔横は別として、本当に早期に導入されていたのか”という点について、
過去、溝口和彦氏と私の間で論争になった事があった。私は、蒙古来襲の
頃の、龍神信仰の高まりの影響で、普通唱導集成立の西暦1300年頃に
は、龍王、龍馬を、大将棋には、既に導入させていたという、立場を
今の所取っている。
 他方摩訶大大将棋については、私に言わせると、老鼠の成りが本当に、
最初から古時鳥ではなくて蝙蝠であったのかどうか、太子が何故王子に
なっているのか等、伝承の過程で改ざんが、本当に無かったのかどうか、
かなり疑わしいと、思っている。

恐らく横飛は改ざんではなくて、横龍を単に書き間違えただけ

の疑いが濃いと私は思う。が、そのような変化が、有ったのかもしれないと
思って一応疑っている。思えば、日本将棋にも龍駒が成りにある事。甘露寺
親長の跡取り息子で、皇室にも恐らく顔が利く、東寺の高僧の覚勝院了淳が、
従兄弟の三条西実隆が不成り飛車角駒を送ったときに、丁寧に突っ返したの
は、皇族に、龍神の無い、親父の指していた、不成り飛車角の将棋の存在が、
バレるとまずい等、何かあったのかもしれないとも疑われる。そのように、
多少の想像を膨らませると、龍駒の有無が、将棋の公的な良否判断の、材料
になって、存続か廃止かの運命を、かつては決めていたのかも知れないとも
想定される。よって泰将棋の横龍の、表題に示した上記本の脱落には、少し
注意が必要なように、今の所私は考えているのである。(2017/10/30)

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水無瀬兼成が泰将棋の駒ルールを、他将棋種と大変更したのは何故か(長さん)

たまたまだろうが、web上で公開しされている泰将棋の駒の動かし方の
ルールについて、水無瀬兼成オリジナルの、将棋図、将棋部類抄に書いて
ある内容が、紹介される事は、実はほとんど無い。ただ現実には、島本町
教育委員会編の冊子・象戯図の、水無瀬兼成将棋部類抄の巻物の、泰将棋
の駒に付けられた打点を見る限り、内容は、

だいぶん気になるほど、一般の、別の古文書に基づくルールとは違うもの

である。実は、将棋部類抄に限定しても将棋種により、同じ駒のルールが、
かなり違うのである。そこで以下、

泰将棋が、そもそも美術品だったからだろう

という仮説から出発して、
他の将棋種の、同じ種類の駒の動かし方と、泰将棋・水無瀬バージョンの
差を、幾つかの項目について、比較してみる。まず、項目1・2として、
1つの駒に、何種の動かし方があるかを比較する。

以下の項目1では、明らかに水無瀬兼成将棋部類抄の泰将棋では、簡素化
をめざしているように思え、項目2についても、弱いながら、簡素化する
傾向があると言う結果になっている。
理由は、この図を見る人間が、神経を使わなくても、内容が一目把握しや
すく、満足感が味わえるように、配慮しているから。つまり殿様に献上する
ための図であるから

のように、私には思える。
では、以下具体的な調査内容を示す。

項目1:方向により、動かし方の種類に差がある場合で、8方向で3種類
以上、動かし方形態に、種類数があるはずの駒について、泰将棋・水無瀬
バージョンでも3種類以上になっているのか、どうか。
(結果)
なお①~④は、何れも3種類から2種類へ減少する例である。
①白虎:歩み、踊り、走りがあるはずだが、水無瀬泰将棋では歩みと走り。
②大龍:(無変化)踊り、3踊り、(3跳び)走りがあるはずだが、水無瀬
 泰将棋では、前後3踊り、斜め走りの大局将棋に似たルールになり、2種
 類。ただし、大大将棋の水無瀬バージョンとは同じなのでカウントとして
 は、無変化扱いになる。
③金翅:(無変化)踊り、3踊り、走りがあるはずだか、水無瀬泰将棋では
 踊りと3踊りが全部3踊り。結果2種類。ただし大大将棋水無瀬バージョ
 ンとは一致。大龍と同じパターンである。
④青龍:歩み、踊り、走りがあるはずだが、水無瀬泰将棋では歩みと走り。

(なお3種類以上を、3種類以上のままにしたケースは、見当たらない。)

項目2:同じく方向により、動かし方の種類に差がある場合で、8方向で
2種類、動かし方形態に種類があるはずの駒について、泰将棋・水無瀬バー
ジョンでも2種類になっていないものの、状態。
(結果)
①力士:歩みと3踊りの2種類が、水無瀬泰将棋では3踊りだけに減少。
②金剛:歩みと3踊りの2種類が、水無瀬泰将棋では3踊りだけに減少。
③麒麟:歩みと跳びのはずだが、水無瀬泰将棋では跳びだけに減少。
④鳳凰:歩みと跳びのはずだが、水無瀬泰将棋では跳びだけに減少。
⑤東夷:歩みと跳びのはずだが、水無瀬泰将棋では歩みだけに減少。
⑥左車:摩訶大大将棋では左に歩めるはずだが、泰将棋では走り1種類。
⑦右車:摩訶大大将棋では右に歩めるはずだが、泰将棋では走り1種類。

なお、龍王、龍馬、鳩槃、奔鬼、猛鷲、毒蛇、飛鷲、横龍、羅刹、夜叉、
盲熊、猛牛、羊兵、孔雀、古鵄、行鳥、角鷹、南蛮、北狄、西戎、
水牛、踊鹿、前旗、猛熊、堅行、横行、驢馬、馬麟、き犬の、ざっと以上
29種は、動き自体が変化するものも多いが、動かし方の種類数については、
2種類のままである。

また、以下の反例が有る。尚①~⑤は1種類が2種類に、逆に増えるケース
である。
反①天狗:(ただし他の文献と同じ)大大将棋では角行2回だけのはずだが、
他の文献と同じく、泰将棋では、縦横に歩めるようになる。
反②盲猿:歩みだけのはずだが、水無瀬泰将棋では斜め前と横が踊り、斜め
後ろが歩みの2種類に増加する。
反③鉄将:歩みだけのはずだが、水無瀬泰将棋では跳越え(?)と、歩みの
2種類に増加する。
反④木将:踊りだけのはずだが、水無瀬泰将棋では前歩みと、斜め前踊りの
2種類に増加する。
反⑤変狸:踊りだけのはずだが、水無瀬泰将棋では斜め踊りと、前後走りの
2種類に増加する。
反⑥奔獏:2種類が3種類の例。5踊りと走りのはずだが、水無瀬泰将棋では、
 後ろが3踊り、斜め後ろが不行となる。つまり、3踊りと5踊りと走り。

次に、以下の項目3についても比較する。

以下の項目3で、水無瀬兼成の泰将棋では、走り駒等、類似のルールの駒を
集める傾向があり、盤駒が美術品として美しいだけでなく、この泰将棋の
将棋図も、線のマークが適度に規則的になっている事によって、抽象(?)
絵画としても、美的に見栄えが、より良い物になる効果を、作者が、最初
から狙っている

ようにも見える。
では具体的に、調査内容を以下に示す。
項目3:互いに3つ並んだ駒が本来、走らず・走り・走らず、か、
走り・走らず・走りのはずが、走らずだけや、走りだけ、その他それに類す
る変動が起こって、いないかどうか。

①飛車・鳩槃・天狗:本来、走り、踊り、大走りだが、水無瀬泰将棋では、
走り、走り、大走りになっている。鳩槃の動きは、大局将棋に類似である。
②猛牛・羊兵・白駒:本来は、踊り・走り・走りのはずだが、猛牛が走りに
なったため、3枚とも走りである。
③変狸・馬麟・き犬:本来は踊り、踊り、走りのはずだが、変狸と馬麟が
走りとなったため、3枚とも走りである。

反①銅将・鉄将・瓦将は、鉄将が跳び越え等の不明な動きになっているため、
従来の歩み・歩み・歩みかどうかは不明。

以上の事から、水無瀬兼成の将棋部類抄の泰将棋のルール図は、島本町教育
委員会のバージョンしか、今の所チェックしていないので、確定的とは言え
ないが、

情報の正確さや、過去の将棋史の情報の内在は、もともと期待薄であって、
水無瀬兼成にとっては、内容の体裁を整え美術品としても価値が有るように
する事に、主眼があった

と疑われるものであると、私には思われた。(2017/10/29)

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現在のタイ人が、玉・金・銀将の将棋を指して、い無いのはなぜか(長さん)

あくまで、このブログ内での立場であるが、唐代から北宋の時代、中国雲南
で、六詔国の一翼をなしたり、南詔国や大理国の支配下にあった、タイ民族は、
すこし後の日本人同様、金将・銀将ないし玉将・金将・銀将という駒が、初期
配列の中央部にある象棋を指す国に、住んでいたと考える。しかし、現在タイ人
は、玉・金・銀が、君主・種・根に置き換わったマークルックや、インドチャ
トランガ系の、王、貴族、象の駒名の将棋を指している。つまり、このブログ
の論旨で行くと、

タイ民族は、もともと日本の将棋と駒名までいっしょの、共通祖先の象棋を
指す国に居住していたが、日本の将棋と異なり、9世紀よりかなり前の、雲南
への象棋伝来から現代までの間に、彼らの象棋駒名を、日本と違って、大きく
入れ替えた

と認識される。では、それが以上の仮説にとって、よくある攻撃法である、
”駒名をわざわざ変える事自体の、不自然であるが故の難点”には、本当に
当たらないのであろうか。そこで回答を書くと、

難点にはならない

と私は見る。すなわちタイ民族のケースは、

タイ人がインドシナに、タイ人の国家を建国したために、置き換わった変化
と考えれば矛盾は無い

と思うからである。そして、その原因はインドシナ地帯が、大乗仏教で無かっ
た事、つまり、自力でそこに建国した事によって

改宗が必要となり、実際、大理時代までの貴族的な大乗仏教から、上座部仏教
にタイ民族内では、中国雲南居住の時代から、インドシナ移住の間に、宗派が
変化した。そしてそれがために、蓄財としての玉・金・銀等を、象棋の駒名と
して、使いにくくなったための、変更

と、私は見る。すなわち

大乗仏教では修行僧が、現世で財宝を持っているかどうかは、たとえば
成仏とは無関係であるが、上座部仏教では修行者の蓄財に関して、根本分裂
の経緯からみて、もともと否定的であり、その差の影響が、大乗仏教から
上座部仏教へ改宗すると、発生するとみられる

という事である。
以上の結果タイでは、象棋で後半成金が、たくさん出来るルールで指す将棋を、
近隣の国のゲームの影響を受けて、じょじょにルールが変化して、必ずしも
そうならないようになるまでの間は、当分続けるとしても、当座成金が多数
できて、修行僧が喜んで指している象棋は、戒律上よろしく無いという事に
なった。そこで成金ではなくて、成種とか、成貴族とか呼ぶように、強制的に
変えられた。つまりは、玉、金、銀は、王、種、根っこにするか、近隣の他の
民族とほぼ同系統の、王、大臣ないし貴族、象に、インドシナ建国のタイでは、
恐らく権威のある僧によって、建国後まもなく入れ替えられたと、私は見るの
である。
 なお、隣国ミャンマーの象棋シットゥインで、兵が副官に1個しか成れない
のも、上座部仏教の上記、修行者の蓄財に上限をつける戒律という、宗教的
理由が背後にあっての事であって、ゲームの改良が理由ではないかもしれない
と、私は疑っている。
 それに対して日本では、許容できる程度に、雲南大理国と日本仏教の宗派は、
どちらも在来大乗仏教系であって、近似していた。そのため、たとえばタイ
民族で起こった、将棋ゲームにおける駒の名称の入れ替えは、以上の経緯では、
伝来以来日本では、ざっとで言えば、ほとんど起こらなかったのではないかと、
つまり私は、以上のように、考えているというわけなのである。(2017/10/28)

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現インド用語チャトランガ象とタイマークルック根駒の銀将動きの源(長さん)

日本将棋九段の大内延介氏の著書、”将棋の来た道”に表としてまとめられて
いるように、日本将棋と類似点が多いとされる、タイのマークルックの根、
インドの現時点での土着古典将棋を表す、”チャトランガ”というゲームでの
象は、日本将棋の銀将の動きである。一般に西洋のチェス史の研究の歴史が
厚いため、理由は、インドチャトランガで、ある時点で象駒が、走りから
銀将の動きに変化し、それが、アジアには伝わったのが原因と、いう説が、
今は強いと私は認識している。しかしながら、本ブログの論の流れに従う限り
は、

中国雲南で、銀将が発生した影響で、象が世界的に走り駒から、銀将の動き
に置き換わった

と、結論するしかない状況である。なお正直

私には、インド/チャトランガ(現代用語)の象駒の起源は、確かに中国雲南
の白族の王室、大理国起源である

と、言い切れる自信は、今の所は無い。しかしながら、
インド人も、大理時代、四人制チャトランガのルールを記述している時点で
は、”王より象を可愛がってはいけない”と、ルールブックにまで書いてい
る点から見ても明らかに、駒の中で最も強く、象は飛車か角行のルールで
あったはずである。そしてその象を、銀将の動きにまで弱体化させた、理由
について、大理国起源と思われる、一応心当たりは私にはある。

純銀で作られた、おおかた”相”と名づけられた駒が、茶馬古道経由で雲南
から、ミャンマーやインドに、”将棋の来た道”とは逆方向に、他の銀製品
と一緒に伝来する、という事は、実際に充分有り得る

と、考えるからである。つまり銀が大理からインドに輸出されていた事は、
少なくともweb上には、出ているのである。ひょっとすると、

大理国から来た、純銀でできた銀将駒の姿に圧倒されて、ミャンマーやイン
ドの王室や、一般社会のゲーム棋士も、象を、銀将の動きに変える気になった

のではないか。なお、インドチャトランガの、恐らく角行動きの象が、
銀将動きになった原因については、増川宏一氏の先行研究が有名である。

増川宏一氏の”ものと人間の文化史”将棋Ⅰでは、戦象の兵器としての
難点が、時代を下るに従い露呈して、使用頻度が低下し、象駒の動きが弱体
化する原因になったとみて、矛盾が無い

との旨、書いてある。

どちらが正しいのか。実の所、私には良くわからない。
しかし、大理国の原始平安小将棋に、ホータン玉が導入された結果、銀将を
今の金将から銀将の動きに、押せ押せで変えなければならなかったという
立場を、このブログで現在取っている

以上、今のマークルックの根駒や、インドチャトランガ(現代用語)の
象駒の動きの起源等は、中国雲南省に、11世紀に居た、チベット・ビル
マ系の白族の王家一族と聞く、段一族の発明を真似たものであるという立場
を、ここでは、当分取らなければならないと、承知している。(2017/10/27)

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水無瀬兼成、将棋部類抄(島本町教育委員会編)泰将棋のチェック(長さん)

本ブログでは、為政者の飾り物であったと推定している、泰将棋の駒の
動かし方ルールについて、前回の大大将棋同様、水無瀬兼成の象戯図、略称
将棋部類抄のうち、島本町教育委員会の「冊子 象戯図」で紹介の巻物
について、ざっとだが今回調べてみた。着眼点は、他の将棋種、特に
後期大将棋等に関して、何かヒントになる情報が、含まれて居無いかと
いう点にあった。結論を先に書くと、

天竺大将棋は、水無瀬兼成の象戯図(将棋部類抄)には、記載されて
いないので有名(?)だが、大大将棋や泰将棋が成立した頃には、
有ったのではないかと、思えるふしが有る

ようだった。他には、残念ながら、今の所ユニークな情報を、内在させ
ている兆候を、私には察知できない。
 なお、水無瀬将棋部類抄の泰将棋は、裏面図が無いと言う、特徴がある。
前に、恐らく無明と提婆程度が成るだけで、水無瀬駒の泰将棋は、不成り
が多かったのではなかろうかと、述べた。この点に関するヒントとしては、
泰将棋の直ぐ後に現われる、”行然和尚の摩訶大大将棋のまとめ表”に、
存在するらしい点に、最近気が付いた。行然和尚の表で、

後期大将棋の説明文が、泰将棋の説明文であるかのように見せかけるため、
間違いなく水無瀬兼成本人によって、改ざんが行われている

という点が指摘できる。

もともと行然和尚は、摩訶大大将棋についての”まとめ表”を作ったのだが、
水無瀬が、泰将棋の説明に転用するため、もともと「大将棋:馬数130枚。
右成り駒中将棋と同じ」だった部分を「大(泰)将棋:馬数354枚。右成
り駒中将棋と同じ」に改ざんして、泰将棋の説明文にしてしまった

という事である。その結果、水無瀬がたとえば、豊臣秀次に贈答する泰将棋
の駒は、最低、中将棋に関する成りが、付いていれば良くなった。水無瀬が、
こんな細工をした理由は、

豊臣秀次の付き人でも、中将棋位は知っているだろうから、中将棋に有る駒の
成りは書いても、豊臣秀次の客間で、泰将棋を飾るとき、配列を間違えない

と踏んだからだと、私には容易に想像が付く。以下は繰り返しになるが、
その他せいぜい”行然のまとめ表”と、矛盾しないように、無明の成りを法性、
提婆の成りを教王には、したと私は推定する。
 さて以上を踏まえて少なくとも、水無瀬の花押が奥付に有る、島本町教育
委員会編の水無瀬兼成の、将棋部類抄の泰将棋(大将棋)を見ると、

他将棋種の将棋図と違い、泰将棋表面の将棋図は、びっしりと左右駒とも、
動かし方の点が、ほとんど全部の駒について打点されている

という、特徴もある事が判る。省略は歩兵と、狛犬と太子と、右の奔王位で
ある。理由は、

この図を見るのが、ゲーマーではなくて、美術品として駒を贈答された
殿様だから

だというのが、私の推定である。ゲーマーなら、左辺の駒に打点がなければ、
対応する右辺を見に行くのが自明だが、それを為政者に要求しているような
表現にすると、後で水無瀬兼成に対して、たとえば豊臣秀次から苦言が
来るといけないと、水無瀬兼成は当然考えた。ので、単純に並べた駒と、
この図を比べれば、駒の動かし方が、一目で視覚的に容易に判るように、

泰将棋の表面だけ、ルール図を駒ごとに全部作成している

のであろう。それに対し、水無瀬将棋部類抄の島本町教育委員会編を見る限
りは、体裁とは裏腹に、

個別の駒のルールは、水無瀬将棋部類抄の他の将棋種に比べて、中身が
幾分ぞんざいである。

たとえば、飛鷲と角鷹のルールが反対になっているし、麒麟や鳳凰の一升
歩み点が、落ちたりしている。その他、他の将棋種類と、ルールが合わない
駒は、多数有る。ただし、泰将棋は、

盤面が広いため、他将棋種に比べて、駒の動きを大きくしている傾向

はある。
たとえば、前旗は水無瀬将棋図の大大将棋では、いわゆる方行の動きだが、
水無瀬将棋図の泰将棋では、角行の動きと、後ろを除く縦横3方が、いわ
ゆる夜叉の5踊り動きに、大きく変化している。また、大大将棋で、縦横
4方向踊りと表現されている変狸が、泰将棋では、前後走りの斜め踊りと、
走り駒に変化。また斜め前踊り、斜め後ろ1歩の、私も始めて見るような
”特殊なルール”の大大将棋の馬麟が、泰将棋では、前三方走りの斜め後ろ
踊りの同じく走り駒に変わる、といった具合である。しかし、恐らく水無瀬
が、

左の古猿の和将棋の天馬の動きを、右の古猿では盲猿と間違えていたり、
奔鬼の動きが左右で違っていたりするのは、はしょって打点した証拠である
事は明らか

だと私は思う。これは、たとえば豊臣秀次が、何か駒に点が打ってあれば、
きちんとルールを、水無瀬が説明してくれていると、思ってくれればそれ
で良く、お偉方が、この将棋をまじめに指す可能性は、ほぼゼロと、水無瀬
兼成が、最初から読んでいたからなのではないかと、私には推定される。
ただし、泰将棋の鉄将が、前だけ鉤行動きを示すような、妙な印が付いてい
て、何かこの時代にも、鉄将を含む、泰将棋のルールに影響した、滅びた
別の将棋種があった事を、示唆しているのかもしれない。そうしたルールの
混乱の中で、

水牛のルールが、いわゆる銀兎の動きに、大大将棋でも、泰将棋でも、統一
して同じ形になっている

点が私には、むしろ際立って見えた。言うまでも無く、

水牛は天竺大将棋の駒として、比較的特徴的

であり、天竺大将棋では動きは、斜め後ろへも走れるバージョンの奔鬼の
動きを、前後5踊りから単なる2踊りに変えた形になっている。水無瀬
将棋図のルールは、この通常の水牛ルールとは異なる。だが、動かし方の
ルールが特殊ななりに、水無瀬将棋図の中では、統一されており、安定
していると言う事は、水無瀬将棋図発生の時点で、水牛の有る将棋種
が、別に知られていたという事。つまり、

安土桃山時代の末期に、天竺大将棋が既に有ったという事

を、ひょっとすると示しているのかもしれないと、私は思うようになった
という、冒頭に述べた結論になるわけである。
(2017/10/26)

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大大将棋は”習字用の手本”が用途かもしれない(長さん)

古将棋のルールブックを、文献ごとに比較すると、大将棋までは、駒の
動かし方のルールに関して、文献間差が少ないのに、駒数の急激に増加
する、大大将棋から急に目立ってくるのに気が付く。ところが、水無瀬
兼成の将棋部類抄の、巻物同士を比較すると、たとえば将棋図式(松浦
大六氏所蔵)と、将棋部類抄の適宜な1つの間に大差があるにも係わら
ず、同じ将棋部類抄の巻物同士、たとえば水無瀬神宮所蔵の一巻かと
思われる、島本町教育委員会編集「冊子/象戯図」の将棋部類抄と、
加賀前田家文書の中に含まれる、国会図書館にマイクロフィルムで閲覧
可能な文書とみられる、例えば岡野伸氏所蔵の、将棋部類抄コピーとの
間の、大大将棋表面の駒の動かし方のルール差は、極めて僅かである。
具体的には、島本町教育委員会将棋図で、馬麟の右斜め前の点は1個だが、
国会図書館にあるとみられる、マイクロフィルムの将棋部類抄の、馬麟
の右斜め前の点は2個であって、駒192枚のうち、動きの説明の無い
歩兵等は除かれるが、差は、今述べたわずかに1箇所だけである。なお、
駒名の字体が、白虎と猛虎について、虎が島本町のでは、”席”に見える
ような別字体になっているが、マイクロフィルムのは普通の虎である。
 つまり、将棋部類抄の現状保管の4巻について、大大将棋の駒の動かし
方のルールが、巻物間でほぼ等しいにも係わらず、将棋部類抄を
元ネタにしたとみられる、江戸時代の将棋文献の、大大将棋に関する駒
の動かし方ルールに、大幅なフレが随所にあるのは、どういう事情なのか
というのが、今回の論題である。結論を先に言うと、残念ながらこの点に
関する証拠を、まったく挙げる事ができないのだが、推定される回答は、
次の通りである。

江戸時代に一時的に、水無瀬兼成の模写、又模写物が、かなり大量に
存在した。そのため、孫、ひ孫の模写物では、かなり駒のルールを示す
文や打点が、多くは消えたり、時として間違って打たれたり、表現され
たりした。江戸時代の将棋本は、情報の出所がはっきりしないものを、
根拠とした事が多かったため、恐らく、水無瀬の現行保存文書が、
オリジナルに近く、江戸時代の将棋本のルールには、誤記が多い

のではないかと、私は疑う。
 一例を挙げれば、大大将棋の猛熊は、前へは行けないとの認識が強い
と私は理解しているが、水無瀬/将棋部類抄では、前に打点があり、大
局将棋の猛熊の動きになっている。これは、模写する間に、

点を打ち忘れる事が、多いため

だと私は思う。
 このような事が起こるのは、模写物の打点がけっこう、曖昧な文書
が、江戸時代に大量に出回り、どれが正しいのか、判りにくい状況だ
ったからではないのだろうか。
 また、大大将棋の青龍は前後に踊り、関連駒の白虎は前後は走りで、
左右に踊りが、通説だろうと私は認識する。しかし、将棋部類抄では、
青龍が前後走りで、白虎が左右走り前後踊りであり、これも大局将棋
のルールと同じで、通説と反対である。この例は、伝承中に勘違いで、
たぶん逆転したのであろう。
 なお、大大将棋に関しては、水無瀬兼成の将棋部類抄を見ると、
大大将棋のオリジナルとおぼしきルールに、次の問題が有る事に気が
付く。すなわち、

駒名が違っても、動きが同じになってしまうようなルールに関して、
細かい気配りが、余り感じられない。
 例として、飛車、走車、方行が全く同じ縦横走りである事や、
東夷と西戎、南蛮と北狄が、全く同じ動かし方のルールになっている

ことをあげることが出来る。大局将棋はこれを踏襲したのだが、他の
江戸時代の文献の大大将棋では、打点が抜ける事を逆用して、東夷と
西戎、南蛮と北狄のルールを変えたり、配列から推定して、飛車、
走車、方行のルールを、互いに違うように後2者を変えるという、
”工夫”が凝らされていると、私は認識している。逆に言うと、

もともと大大将棋は、駒種がなるべく多種類ある事に、意義があった
のであり、ゲーム性を、さほど重視していなかったのではないか

と、将棋部類抄が、もともとのオリジナルであるとすれば、私には
疑われるのである。原因は、

大大将棋は、習字の手本に使うという、別の用途があった

ということが有るのではないのだろうか。これに合理的なゲーム性を、
付け加えようとして、江戸時代になってから、将棋本でルールに関して
変化が起こったのではないかと、疑われると言う事である。
 なお、水無瀬兼成の本人の作と、私は疑う泰将棋は、盤駒を美術品
にするのが、作成の目的だったのではないかと疑う。従って、ほぼ中世
からある将棋で、本来のゲームの目的で作られたものは、

小将棋、中将棋、大将棋、天竺大将棋、摩訶大大将棋

の5種類だけであるように、私は疑っているのである。(2017/10/25)

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9升目制平安小将棋。発生~400年二段目に駒が無かったのは何故(長さん)

このブログの見解によれば、9×9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒無し)
は、西暦1080年頃、大江匡房等の進言により、朝廷で発生したものであり、
西暦1480年頃に、成り龍王飛車および、成り龍馬角行が取り入れられて、
40枚制(当時は持ち駒有りのタイプ)になるまで、長らく二段目には、走り
駒等を加えない状態で、指されたと考えている。他方前回述べたように、駒の
一部を落とすなり、二段目に、平安大将棋のように奔王でも横行を加えるなり
すれば、この将棋が、持ち駒ルールの有り無しに、ほぼ関係なく存在する、
後手真似駒組による、仕掛け直前行き詰まり問題という、ゲームの難点が、
簡単に回避できるはずなのであった。従って、西暦1080年~西暦1480年
の400年間、この小将棋には、2段目に走り駒を加えるという試みが、絶え
間なく行われたと考えたほうが、自然だと私には思われる。ところが、実際
にはその間、この標準タイプの平安小将棋が、二段目に駒を加える方向で、
進化していたと見られる兆候は、出土駒からも、異制庭訓往来等の古文書から
も得られない。考えみれば、これは不思議であり、いったい、何故なのであろう
かと考えたくなる。
以上が、今回の議題である。そこで、まずは先に回答を書くと、

二段目に駒を加える試みは、逐次行われたが、朝廷によって排除される力が
働いて、導入が永続しなかった

と、私は考える。つまり、

朝廷としては、西暦1080年の失敗を認めたくないので、平安小将棋が進化
する動きを、少なくとも古代から中世前期には、排除するような動きを絶えず
行っていた

と、私は見る。つまり、たとえば1350年ころ、不成り飛車角を導入した
小将棋を指しても、京都の北朝朝廷では無視された、という事なのであろう。
盤駒という道具の整備が、室町将軍家を除けば、天皇の身の回りで最も普及し
ていたために、改善された小将棋は、指しても見栄えで見劣りして、長い寿命
を保てなかったのかもしれない。
 そして、後奈良天皇が、酔象を削除して、40枚制の日本将棋を標準化すると
いう詔を出したときにさえ、実際には、飛車角が入った将棋を、没落したとは
いえ、天皇家で、新たに標準化して良いのかどうかという議論が、内々には、
恐らく有ったのではあるまいか。
 しかし、戦国時代1530年頃のケースは、飛車にしても、角行にしても、
中将棋から、それを取り入れる事になった。その際中将棋の

飛車角は、成りが龍王、龍馬となっており”日本国が奥底に於いて、龍に守ら
れている”という、思想と親和性が良い

という理由等で、当時の天皇や貴族も、それを受け入れたのではないだろうか。
そして、詔には露に、飛車角の問題に言及しない形で、”酔象を落とした”
日本将棋を推薦するように、表現されたのではないだろうか。なお、以上の論
は今の所、想像の域を脱せず、証拠となる史料が乏しい。
 ひょっとすると、京都の内離跡を発掘すると、何か証拠が出てくるのかもしれ
ない。が、そのような発掘は今の所無理だろう。しかし、天皇家が将棋の進化
に関与しているという証拠が挙がれば、一般に南詔国とか、大理国とか、外国
の王室で、専用の将棋種があるという根拠にもなり、今後その証拠の片鱗でも
見つかれば、遊戯史にとって、大きな影響を及ぼすことが、期待できるだろう。
(2017/10/24)

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後鳥羽上皇御前で将棋を指した清寂。今小路と同じ小将棋を指したか(長さん)

鎌倉時代前期の将棋の史料として名高い、隠岐に配流となった後鳥羽上皇の
御前で、静寂という元武家で、元上皇家来の僧侶が、西蓮という、将棋が余
り強くないとされる上皇のお供に、指して負ける大日本史料に載った将棋逸
話がある。
 前段で、静寂は、自己が鎌倉(?)今小路の賭博場(?)のランキングで、
①B組の上位に居る事、個別調子の良い局では、A組の下位のような差し回
しをするとの旨を、自慢している。
更に自慢話は続き、②上皇の付き人の一人で、かなり将棋が強いと、考え
られる、蓮家という者とは、仮に蓮家桂馬落ちで指せば、楽に静寂の勝ちと
なり、たぶん蓮家歩兵落ちでも、静寂は勝てるだろうと、上皇の面前で言っ
てのけたようである。
 ところが、この史料によれば、③上皇の家来の内で、もっとも将棋が弱い
とみられた西蓮と、静寂が、恐らくその場で、実際に将棋を指した所、西蓮
と自慢した静寂に関しては、棋力で西蓮の方がだいぶん上と、御前将棋の場
に居た面々に、目撃されたとの落ちになっている。
 ところで前回述べたように、本ブログでは、鎌倉時代前期、小将棋には、
8×8升目32枚制原始平安小将棋(持ち駒無し)と、9×9升目36枚制
標準平安小将棋(持ち駒無し)とが混在していたとの立場を取る。では、

鎌倉今小路で指されていた将棋と、隠岐島の後鳥羽上皇の御前で、
西暦1221年指された将棋は、小将棋であるとして、どちらがどちらなの
であろうか。

一般には清寂が、別のゲームを持ち出して、己の棋力を自慢するとは考えに
くいので皇室御前であるから、どちらも9×9升目36枚制標準平安小将棋
(持ち駒無し)なのではないかと考えるのかもしれない。が、私は、

ひょっとすると、それは間違いなのではないか

と、少なくとも今では考えている。つまり、静寂が

鎌倉今小路の賭博場で指したのは、8×8升目32枚制原始平安小将棋、
後鳥羽上皇の御前で西蓮と静寂が指したのは、静寂歩兵程度落としの本来、
9×9升目36枚制標準平安小将棋だった疑いが有る

と、私は思っているという事である。理由は、

①の特定の局での棋士の調子は、平手の原始平安小将棋(持ち駒無し)で、
裸玉を目指した差し回しの局面で、発揮されやすいように、私には思える
こと、②の駒落とし将棋について、上皇の御前で指す将棋のケースにしか、
静寂が言及していない点を、怪しいと感じるからである。つまり、敢えて
上皇の御前では、平手将棋に言及せず、

9升目制標準型平安小将棋の序盤の後手真似将棋による、仕掛け直前行き詰
まりが、後鳥羽上皇の目の前では起こらないように、静寂が、話の言い回し
を皇族に対するときには、配慮及び工夫しているように、私には感じられる

と、言う事である。つまり、

どちらかが駒を落として指せば、9升目標準平安小将棋の粗が見えてこない

という訳である。他方、①の鎌倉今小路の賭博場での自己の活躍について、
静寂がハンデ戦の状況を、ゴタゴタと述べて、い無いのは、当然、普通は
その当時から見て”昔ながら”の、8×8升目32枚制原始平安小将棋を、
平手で指して、Aブロックに配置されるか、Bブロックに落とされるかが、
決められているからなのではあるまいか。なお、以下は、私の個人的な
認識で、一般に認められているようには思えない話なのだが、

9升目36枚制標準平安小将棋では、桂馬にしろ歩兵にしろ、駒を一枚
落とすと、形勢に大差がつく。

と私は理解している。つまり西蓮と静寂が、静寂歩兵落としで9升目36
枚制標準平安小将棋を指せば、西蓮が、よほど棋力が無いなら別だが、
静寂には楽に勝てただろうと、私は予想している

と言う事である。なお、

9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒無しタイプ)については、その駒
落としルールによるハンデの程度について、現在でも余り研究例を、私は
見ない。

しかし、それを確かめるのは、100円ショップの将棋具を見る限り、困難
だとは私にはとても思えないので、今後以上の議論に関連して、多くの研究
例が現われるように、期待したいと私は考える。(2017/10/23)

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平安小将棋へ飛車角導入。普通唱導集大将棋時代に無かったのは何故(長さん)

このブログのこれまでの議論によると、9×9升目36枚制標準タイプ
平安小将棋に、後手真似駒組みによる仕掛け直前行き詰まりが、ずっと
存在し続けたことになる。他方、普通唱導集の大将棋部分より、西暦
1300年の鎌倉時代後期には、飛車が存在した事は確実であり、本ブ
ログの仮説が正しければ、角行も存在した可能性が高い。その時代の
大将棋の飛車・角の成りが今とは違うとしても、標準タイプ平安小将棋
へ、それを今と同じ位置に導入すれば、問題は一応解決したはずである。
 では、1300年には飛車角が有るのに、導入されたのが1500年
近くになってからなのは、いったい何故なのであろうか。回答を先に書
くと、

9×9升目36枚制平安小将棋は、新安沖沈没船出土駒の時代、鎌倉
末期までは、指される頻度が、比較的少なかった

からだと私は思う。すなわち、

対応する将棋盤が、皇族や貴族等、一部の人間の所有に限られ、それの
無い将棋指しは、布に8×8升目の盤型を書いて、8×8升目32枚制
原始平安小将棋を指す事が、鎌倉時代には多かった

と、私は見ているのである。この見方は、鳥獣戯画の将棋が、9升目制
であるかどうか、疑問である事、冒頭で述べた、普通唱導集の小将棋の
第1節が、行き詰まりの無い、8升目原始平安小将棋の、歩兵進みの自
由さを唄っているように、私には見える点からみて、今の所、大きな矛
盾が無いと私は見ている。むろん、藤原定家の日記に出てくる将棋盤や、
後鳥羽上皇の御前で指された、桂馬や歩兵を落とす駒落ち将棋は、基本
9×9升目36枚制だったのであろう。それらの将棋には、ゲームとし
て難が有ったので、皇族等が問題視し続けたことは、確かなのだと思う。
 しかしながら、宮中以外の所で、大衆が指す場合、9升目制に難が
有るのが、棋士にわかっていたなら、一般人は8升目の、原始平安
小将棋を指せば、それで良かったのではないかと、私は素朴に考えるの
である。少なくとも鎌倉時代前期の小将棋界は、概ねそのような状態だ
ったのではないのか。
 それに対し、蒙古来襲以降、交易が盛んになり、大陸から聖目が升目
を同じ数で区切る盤の、賛美性が伝来すると、それまで限られた階層に
しか所有されなかった、いまでは100円ショップで手に入る、3段目
に4つ聖目が付いた、今ではありきたりの将棋盤が、そこそこ、いろい
ろな階層に普及していったに違いない。その根拠としては、太平記の将
棋盤の出てくる場面などが、挙げられると思う。そして、南北朝時代の
末期、西暦1380年頃になってやっと、8×8升目制の小将棋は、
普及した将棋盤と、形が違うという理由で、標準的な9×9升目36枚
制の平安小将棋に、一般にも、ようやく置き換わったのではないのだろ
うか。そしてその時代は同時に、4升目ごとに、聖目で区切ると指せる、
12×12升目92枚制中将棋の発生、勃興時期でもあった。だから、

結果として飛車角の導入は、大将棋からではなくて、たまたま中将棋
からに、なった

のだと私は考えるのである。
 以上のように、9升目制標準平安小将棋の問題に、誰もが困るように
なって、結果的には初めて、対策が試行され、結果として40枚制の
現行の日本将棋が、かなり遅くなって、ようやく生まれたのではないか
と、私は今の所、ざっくりとは以上のように考えているのである。
(2017/10/22)

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