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(続)荻生徂徠の日本の180枚制広将棋のチェック(長さん)

射る駒が多数存在する事が判っている、江戸時代の将棋、19×19囲碁盤
使用180枚制広将棋(伝・荻生徂徠作)を再びェックした。前回問題にな
った、”騎総での食い荒し急戦定跡”については、騎総の駒を4枚とも、
とりあえず取り除き、それらを全部、馬兵に取り替えて、今回は指してみた。
その他のルールはオリジナルのままで、最初のチェックとの違いは、今回は
比較的丁寧に、1局指してみたという点である。
結果だが、

終盤には、まともに指せば両者、射程距離の最も長い仏狼機しか、射る駒は
残らず、たまたま、力士(中将棋等の獅子と、ほぼ同じ駒)が1枚残った側
が、相手陣を簡単に潰して勝つ

という将棋になるようであった。それにしても、12枚づつ有る、弓、弩、
砲は、この将棋では明らかに、彼らが主役であるにも係わらず、結局ほぼ、
相討ちになって消える運命なのが、悲しい将棋である。恐らく、現行のルー
ルのように、すれ違いのときに、ほぼ相討ちになって、しまわないように、
動かす前に射るルールにして、間に別の種類の駒を、両軍のどちら
かが、挟んだ状態で、互いにすり抜けられるようにすると、弓、弩、砲は、
弓×2、弩と砲が一枚づつあれば、現行の将棋よりも、これら3種の駒は
かなり残り易く、終盤の攻め合い駒に加わって、終盤に活躍する駒の数が、
オリジナルより更に多い、より良い将棋になりそうであった。
 確かに、成り麒麟が獅子の摩訶大将棋ではしばしば、後期大将棋では、
ほとんどの場合にそうなる、終盤、成り麒麟だけの寄せ合いという将棋から、
力士と仏狼機の2種を使った、寄せ合いにはなっているので、獅子駒が寄せに
使われやすいのは、一緒のような気もするのだが、仏狼機が加わる分は
摩訶大将棋等よりは”上品な将棋”に、なっているようだった。よって、

相手の射る駒が、自分の重要な駒に、当たっているのかどうか、確認するの
が、かなりめんどくさいという、大きな問題は有るものの、荻生徂徠の狙い
自体は、片山兼山の言うように、一応は成功だった

とは、言えるのではないだろうかと、結論された。(2017/09/30)

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なぜ黄金の立体駒で9×9升目36枚制標準平安小将棋は作られなかったか(長さん)

既にのべたように、西暦1015年に北宋の交易商人、恐らく周文文裔・周良史
親子によって、駒が貴金属製で立体かつ写実的な、8×8升目の原始平安小将棋
の将棋具が、九州大宰府経由で、結局京都三条天皇の居所の内裏にもたらされた。
そして、西暦1019年の、刀伊の入寇のすぐ後に、藤原隆家がなんらかの形で、
それと接触した事により、大宰府から、代用品、経帙牌に駒名を印字した、同じ
ルールの将棋が、急速に普及したのが、日本の現在の将棋の起源と考えられる。
そして常識的には、玉将がホータン玉を彫刻した将軍人形の駒、金将が純金地金
を彫刻した将軍人形の駒、銀将が銀の地金を彫刻した将軍人形の駒だったとみら
れる、西暦1015年製の輸入黄金将棋具は、しばらく朝廷の内裏に、保管され
ていて、側近貴族等の目には止まっていたとみられる。
 そして、それから時代は少し下って、西暦1080年の白河天皇の代頃に、
大江匡房等の働きかけにより、朝廷でイベント等として指される、御前将棋が、
8×8升目32枚制原始平安小将棋より、9×9升目36枚制標準型平安小将棋
へ、切り替えるようにされたとみられる。このときもし、それに伴って作成され
た朝廷で指される将棋具が、三条天皇の時代(西暦1015年当時)と同じく、
上で述べたような、中国雲南省の大理国から輸入された、黄金立体将棋具の国内
生産品であったなら、現代にも記録が伝わるほど、著名であっただろう。しかし
ながら実際には、後三条天皇や白河天皇の時代(西暦1060~1080年頃)
に、そのような、宝物の将棋道具を、朝廷が保持していたという形跡は、今の所
発見されて、い無い。恐らく、西暦1080年頃の朝廷の御前試合等で行う、
標準型の平安小将棋も、現代と同様、経帙牌型、つまり五角形の木製の将棋駒を
使う形になっていたものと思われる。むろん黄金の立体駒製作には、莫大な費用
がかかるとみられる。しかしそれにしても、西暦1080年頃の皇室に、それが
絶対に準備できないとは、一見して考えにくい。なんらかの理由があり、
西暦1015年型の立体駒将棋具の、国内生産による同等品の作成は止めて、
その頃には既に普及していたとみられる、五角形木製駒の将棋具に、代えた理由
が存在したと思われる。では黄金将棋具を朝廷が、西暦1080年頃に、自力で
作成しなかった理由は、いったい何だったのであろうか。
そこで次にその回答を、まずはずばり書くと、

王将という駒が、作成した立体宝物駒で、充分に表現できていないという噂が
世間にたつのを、朝廷が恐れたため

だと私は考える。なお王将は、実際の国の政治を動かすのが、藤原長者という
イメージを嫌い、初期院制派である大江匡房らが、玉将と、取り替えようとして
作成した、翻訳駒ではない、最初の国産の駒と私は見る。簡単に言うと、従来は
金将や銀将同様、

玉将も、材質のホータン玉が、将であっても玉将である事を示してくれていた。
だが、これを王将に代えたので、天皇の息子が鎧兜の姿で、武将の大将になった
とのイメージの王将というキャラを、材質ではなくて、意匠(人形の形)で表現
しなければならなくなって、将棋駒のような小型の場合は、それに頓挫した

のであろうと、私は考えていると言う事である。
 むろん、西暦1080年頃に、天皇の御前で試合をする際の、有力将棋棋士は、
地方の国府の役職者等で、将棋を指すのが、うまい人間という事になり、皇族の
宝物に手を付けるには、やや格下だったという事もあったのだろう。刀伊の入寇
で、女真族を追い払って手柄を立て、都の貴族生活に返り咲いた、藤原隆家が、
後一条天皇や藤原頼通が見ている前で、将棋を指す程度なら、宝物を使わせても
よかったのだろう。が、某下野の国の介といった身分の人間に、黄金の将棋具を、
触らせたくは無かったという事も、朝廷側としては、あるいはあったのかもしれ
ない。しかし、それ以上に、「皇室に置かれた将棋の駒のうち、王将と言われる
駒は、何故ソレが王将なのか、形を見ても、よく判らない」という、朝廷の備品
に対するネガティブイメージの噂が、都で囁かれるほうが、朝廷には、打撃が大
きかったのではなかろうか。なぜなら前者の場合は、破損や紛失が無ければ、
実害は無いが、後者では、大江匡房等、初期院政派にとって、つごうが悪いばか
りでなく、皇室の権威が低下するからである。
 よって西暦1080年頃になると、五角形駒を使う、日本の将棋は、興福寺
出土駒を見ても明らかなように、普及していたとみられることから、院政派は、
普通の将棋具で、材料は一級品を使って、我々には普通の将棋道具の高級なもの
に見える、皇室使用の将棋具を作ったに違いない。その結果、これをもって
西暦1080年頃

日本では立体駒の平安小将棋が、完全に終焉したのだろう。

 そのあと、藤原長者が恐らく後ろ盾になり、13升目制の平安大将棋が
西暦1110年頃作られ、藤原頼長が棋士となって、西暦1140年代に、
崇徳上皇の御前で、指す事になったのだが、

大将棋も貴金属製の立体駒で作成された事は、基本的に無かった

と私は見る。理由は、たとえ財力で、玉、金、銀、銅、鉄製の、おおかた宝塔の
形で、各将駒を表現した、黄金の平安大将棋具を作る余力が、藤原貴族に、
西暦1110年頃有って、一度位は製作が試みられたとしても、

院政派が五角形の将棋具で作った、標準型平安小将棋に対抗するのが、
摂関貴族残党の本来の目的であるなら、道具を別系統にする理由は、基本的
には、特には無い

と、私は思うからである。その結果、13升目制平安大将棋でも、形により、
駒名を現し難かった、横行、奔車、注人等も、五角形の駒に名前を字で書くこと
により、なんなく表現できたという訳なのであろう。(2017/09/29)

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荻生徂徠の広将棋には初期配列から、判り易すぎる”攻め手順”がある(長さん)

この記事を書いた前の日、ぼちぼち江戸時代の、荻生徂徠の180枚制広将棋
の射る駒の、チェックをしようかと思い、先だってタックシールを貼り付けて
作成した、碁石の駒を並べてみた。
 ただし、実は射る駒の調整の前に、この将棋に関して、私には少々気になる
事があった。初期配列から、左騎総を、単純にくり出してゆくと、始まった
ばかりで、大駒、玉駒が、身動き出来ない駒だらけの陣が、総崩れになるの
ではないかと、懸念されたのである。そこで、自分の左騎総一枚で、初期配列
の相手陣が、崩せないかどうかを、射る駒が活躍しだす局面のチェックよりも
先に、試してみた。結論を書くと、何度も本ブログにnice!マークを
付けてくださった恩人、はじドラさんの、ブログの言い回しに似せて書くと、

広将棋『超急戦戦法』での相手陣攻略方法、正解ルートの2017年秋版は、
①▲15の十二車
②△5の八車
③▲17の十五、15の十四騎総
④△3の五、5の六騎総

である。遅れましたが、

はじドラさんの本ブログに対する、常々よりの御支援、誠に感謝しております。

 さてその後の手順は、主に相手の車等、相手の駒が当たっていない交点に、
2回桂馬跳び動きの騎総を、進めるように注意しながら、先手、後手どちらも、
騎総を単純に、前出しして行くだけである。端から6列目の歩兵や、7列目の車
を取って、騎総が天馬に成ると、まだ身動きできない相手の仏狼機(ふらんき)
に、只取り(必死)がかかり、8列目の歩兵を取って騎総が、天馬に成ると、
同じ理屈で相手の将に、早くも必死が掛かる。なお、先手が1手先にその状態に
達するので、後手から、中央の2つの馬兵と弓を、1手づつ使って動かす等して、
8列目の歩兵の所等へ天馬ができず、仏狼機も逃げられるように、予めしておく
必要がある。つまり開始早々10手位で、この将棋は、騎総各々一枚を使った
だけの”寄せ合い”になるように、やはり私には懸念されるのである。
 何れにしても、これだけの駒数の多い将棋で、特定の”騎総”という駒を動か
すだけで、約10手で大駒や玉駒が危うくなるような将棋は、調整が駄目である。
 私の読みが本当に間違って居無いかどうか、更に、よく考えてみようと思うが、

広将棋の場合、現行の、互いにばらばらで、つながりの薄い、牌、車、歩兵、馬兵
の初期配列の状態で、八方桂馬弱2回動きの”騎総”を、無造作に、直ぐ出せる
駒の仲間に加えたのは、かなりまずかった

可能性が有るように、私には思えてきている。(2017/09/28)

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異制庭訓往来の”多い”将棋の正体(長さん)

異制庭訓往来の将棋の説明で、”少ない”将棋は、その駒数については、一応
9×9升目36枚制標準平安小将棋と合っている。私見だが”玉や金・銀まで
獣の例(または列位)”を形どっているのは、書いているのが臨済宗か天台宗
の坊さんであるから、仏教の”戦をする人間は畜生の類”との感覚から、かも
しれない。それに対し、その十倍の、”多い”将棋は定説では、摩訶大大将棋
か泰将棋か、である。この”定説”は、私見だが、江戸時代からあり、栃木県
小山市出土駒は、江戸時代に、この”定説”に基づいて、なんらかの土地の
伝承の復元のために、製作されたものと、このブログでは考えている。
ただし、本ブログでは、恐らく、

摩訶大大将棋や泰将棋は、西暦1350年頃の、異制庭訓往来の時代には無い

と考えている。数十年程度、早すぎるのではないだろうか。
摩訶大大将棋は形状から見て、後期大将棋と同一年代作成であり、後期大将棋
が普通唱導集時代の大将棋ではなくて、曼殊院将棋文書作成期、西暦1443年
より、少し前に作成の将棋、と考えているのである。また、泰将棋は水無瀬
兼成の作成した、安土桃山時代の将棋というのが、今の所このブログの見方で
ある。では、異制庭訓往来の、盤升目数か駒数が、365.2422に近い将棋、
というのは、具体的には何者か。むろん、以上は確定するのは難しい問いである
が、

中国北宋期の、19升目98枚制の広将棋か、高麗の終わりごろのものかとも
見られる、朝鮮の15列×14段広将棋といった、外国の将棋を指す疑いも有り

と、みるべきかと私は思う。つまり、南北時代頃には、日本には108枚制以上
の有力な将棋は、知られて無かったのではないかと、見ているという事である。
なお、

平安時代中期には、100枚制を少し超える程度の、19×19、361升目の
将棋は、有った可能性がある

と私は見ている。ただし、この将棋は二中歴時代以降には、指されておらず、異制
庭訓往来で”存在する”と主張するには、やや無理があると、現在では考えている。
また西暦1300年ころ、普通唱導集の大将棋の私なりの解釈では、何回も述べ
たが、

その時代の大将棋の”横行前升目への麒麟突入を狙った、”飛車を退ければ勝ち”
の端攻め定跡”の発見により、大将棋は、行き詰まっていた。

従って、南北朝時代(1336~1392頃)に”一年の日数にちなんだ、日本
の将棋”が成立しているとすれば、普通唱導集時代(西暦ほぼ1300年)の、
大将棋とは別の将棋がもとであろう。もしこれが、1300年頃の大将棋の、
南北朝時代の日本人の改良将棋を、更に大型化したものだとすると、社会が、
50年位で、日本人の改良将棋を受け入れて、その改良将棋は、相当に優勢で
無ければならないはずである。しかし、実際には、その改良将棋の有力候補の、

中将棋は、西暦1350年頃に”大いに盛ん”との日記等の史料は、まだ発見
されていない。

従って、普通唱導集の大将棋が、異制庭訓往来の頃を境に、衰微していると
すれば、1350年頃にはわが国でも、記録がまだ残っていて知られていた、

外国の将棋、実際には中国の将棋を、日本でも幾らかは指される”多い”将棋
とするしかない

のではないか。つまり、確かに南北朝時代にも、普通唱導集を改善した将棋が
日本人によって、作られてはいたのだろうが、その当時の社会は、

その日本人作の改善大将棋が有ったとしても、それよりも、中国の宋時代の
19升目の文献に見える”広将棋”等の方に、権威を感じていた可能性が強い

と、私は思う。むろん異制庭訓往来には、多い将棋に関する、書いてある事
以外のヒントは、全く無い。だから、普通唱導集大将棋の没落とは対照的に、
無傷で残った、駒数多数将棋が、無いと断言する事は、現時点では無理だろう。
なお、当時の日本人の将棋観には、

中国の将棋が、平安将棋類とは違い、外国のものという、はっきりとした感覚が、
南北朝時代の、特に上流階級の知識人層に、現代人のように、本当に有ったのか
どうか疑問

のように私には思える。シャンチーに平安小将棋のような、はっきりとした難点
が無かったため、中国の駒数多数系将棋は、中国では文献にしか、残らなかった
とみられる。しかし、それを読んだ、南北朝時代の知識人には、誰か日本人が
改善した、普通唱導集の大将棋の改善ゲームよりも、中国のマイナー駒数多数
ゲームの方が、権威があるように見えたのではないかと、私は疑うという事で
ある。前に述べたが、江戸時代の倭訓栞等文献2~3に、「大将棋とはすなわち、
広将棋の事」との旨の記載が有る。”朝鮮広将棋と後期大将棋に、類似性が
乏しいとみられるため、不思議だ”との話を、このブログで前に述べた。が、
南北朝時代にはそもそも、

大将棋とか泰将棋とかいう名称が付ける事のできる将棋が、中国宋代の98枚
制広将棋か、15×14路の朝鮮広将棋以外に無い

とすると、後期大将棋が現われる以前の常識が、江戸時代に残存して伝説的に
残っていて「大将棋=広将棋(外国の)」になったと考えても、一応説明が
できるように思えてきている。すなわち、

普通唱導集時代の大将棋と、恐らく1440年代少し前からの、後期大将棋の
時代の間、すなわち、異制庭訓往来の時代の、”多い”将棋の時代の大将棋は、
中国宋代”広将棋”等、大陸の将棋を指すのが、特に日本の知識人の間では
常識であった

可能性も、無きにしも非ずと、言う事かもしれないと思うのである。(2017/09/27)

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太平記11「筑紫合戦の事」少弐直資の将棋盤の描写の意味(長さん)

南北朝時代、西暦1370年頃成立とされる戦記、太平記の11に筑紫合戦の
記載が有り、その中に出てくる九州の豪族少弐氏の統領のものとみられる、

少弐直資の将棋盤の記載

がある。明治時代の古文書紹介集、古事苑類に記載されたその内容は、人名を
webで判りやすくなおすと、およそ、次のようなものと私は読む。

 鎌倉時代の最末期、九州鎮西探題の北条英時は、大宰府の武官、少弐頼尚
(しょうに よりなお)に謀反の企てが有ると知って、配下の長岡六郎を、
少弐の所へ送って様子を調べることにした。
長岡は、少弐頼尚との面会を申し込んだが、”立て込んでいる”と、言われて
断られた。長岡はがっかりしたが、代わりに少弐頼尚の息子で、筑後の国の、
少弐直資(しょうに なおすけ)の様子を見に行くことにした。
(中略)長岡は、少弐直資に対面した。そして座席につくなり、”思っても
見ない奴らの、裏切りだ”と、怒鳴ったかと思うと、刀を抜き、少弐直資に
向かって飛び掛った。しかし少弐直資は、元来機転が効く人だったので、傍ら
にあった将棋盤を、さっと取り上げたかと思うと、即座に、長岡の突いた刀を
それで受け止めた。そのため少弐直資に、長岡の体は引き込まれて、両者、体
を押し合い、睨み合いになった。すると更に少弐直資は、手にした将棋盤を、
上を下へと振り回し、長岡の刀のきり返しに掛かったのであった。

以上、余り自信の無い古文の現代語訳なので、詳細は原文等を参照されたい。
 さて、上の文面から、以下、少弐直資の将棋盤が、どのようなものである
かを推定して、それから何が判るのかを、考えてみる。回答を先に書くと、

南北朝時代には、恐らく9×9升目36枚制平安小将棋用の、江戸時代の将棋
盤並みに、厚みが厚いものが、武家の統領には所持されており、比較的、小将棋
が優勢であった

という事が判ると思う。ただし、少弐直資が実際に、上記で述べた性質の、
将棋盤を所持しているというよりは、太平記の作者が、西暦1370年頃に、
武家統領の将棋盤とは概ね、上記のようなものであると、イメージしていた、
というのが正確であろう。ちなみに、少弐氏は元来、駒数多数将棋の藤原氏系で
ある。
 また将棋盤が、今述べたように、全体として、四角い木の切り株の、塊の
ようなものであるというのは、

小型でなければ、重くてとっさに取り上げられず、盾の代わりにはならない事、
厚みが無ければ、刀が通ってしまい、刺客に即切られると見られる

から判るのである。太平記の作者がイメージしている将棋盤は、従って、戦国
時代初期の”厩図”に描かれたような、薄い盤ではないと私は思う。なお、
南北朝時代作の教科書、異制庭訓往来には、
”将棋は合戦を模したものであり、小さい将棋は36の獣の序列に基づいており、
大きな将棋は、360の暦の1年日数に則り、将棋で兵法を知る事の無い将は、
合戦に勝てずに滅びるものである”
と言った旨の事が書いてあったと、記憶する。少弐直資の、取り上げた将棋盤
は、太平記では、少弐氏の統領としての、彼自身の宅の客間の、有力な部屋飾り
といった、設定なのであろう。
 なお、まもなく室町時代に入り西暦1400年を過ぎると、小将棋より中将棋
が、にわかに盛んになったと見られる。よって、普通唱導集大将棋から中将棋へ、
駒数多数将棋が移行する境目に、小将棋が上流階級の社会で、比較的堅調であっ
た時期が、恐らくあったという事が、これから推定できると、私は思う。
 既に述べたように、この時代に指されていたと見られる、標準平安小将棋持駒
有り型は、依然”後手まね駒組みによる仕掛時の行き詰まり”が、解決されては
いなかったとみられる。しかし、将棋が兵法と見られていたために、上流階級の
家には、江戸時代の大名の娘の、婚礼用の三面のボリュームに近い将棋盤が、
既に普及していたと見られる。そのため小将棋の伝統は、それゆえに文献等にも
残り易く、混乱の南北朝時代を境に、日本将棋の源が途切れる事も、従って
無かったであろうと、私は考えるのである。(2017/09/26)

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深川美楽市の見物(長さん)

2017年9月24日、東京江東区の白河にて開催された、ボードゲーム等
を含むイベント、表題の深川美楽市の見物を、昼過ぎに行った。
 どうぶつしょうぎcafeいっぷくに、本部が置かれており、その店の前
の通りで、どうぶつ将棋、連珠、将棋、囲碁等のブースが出されていた。
ただし、詳細に内容を見てみると、

駒数を極力落としたゲームが、意識的に集められているという、大きな特徴

があった。もともと、どうぶつ将棋は駒数が8枚しかないが、将棋も、上手
が、歩兵と玉将だけで対局するという、30枚制の指導対局が一セットのみ。
囲碁は、9路盤にて指されていた。

普通の駒数40枚制の日本将棋のブースも全くないのが、印象的

だと思われた。
 以前このブログで紹介したように、私がここに、中将棋盤駒セットを置い
たが、いささか場違いだったようだ。ここの客層は、単純ゲーム系の好きな
方が、恐らくほとんどなので、当然こうなるのであろう。

 駒数多数系の将棋を指す方であれば、東京都内なら他で指す場所を探した
ほうが、気持ちよく指せそうだと、今回観察して始めて気が付いた。

ここの中将棋の道具は、”関連する場所への宣伝活動”程度に留めておいた
との、位置づけにした方が、良いように感じられた。追々もっと駒数多数
ゲームが気持ちよく指せる場所を具体的に探し、このブログでも、紹介する
事にしたいと考える。
 駒数多数系の方は、ここの中将棋の道具を見て思い出したら、実際のプレ
イする相手の捜索は、以降は別の場所を当たるように、私は御薦めする。
(2017/09/25)

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広将棋の駒を作ってみた(長さん)

近くのディスカウントショップで、囲碁の道具の中古の一式が、安く売られて
いたので、購入し、下の写真のように、碁石にタックシールに駒名を書いて、
広将棋の駒を作成してみた。
広将棋.gif
全体を写真に取ると駒名の字が細かくなり見え無いので、以下は下段中央の、
拡大を示した。
広将棋拡大.gif
 たまたま囲碁盤が、私の購入した中古は、折りたたみ式だったので、持ち運び
もできそうであった。駒名のタックシールの手書きと、その貼り付けで、3時間
位かかってしまった。ので今回は、詳しいルール調整結果までは、このブログで、
今回の所は述べる事はできない。追々結果を公表したいと思う。それでも完成後、
片付けついでに、ざっと1局通して指し、チェックしてみた。
 やはり射る駒が露出するまで、陣が崩れる程度に中盤局面が進むと、射る駒で
の、両方の陣の喰い荒し合いが起こるだけの、将棋になりそうな感じだった。ま
た、射る駒が、お互いに当たり易い。ので注意深く指すと、硬直化して、局面が、
なかなか進まない将棋に、なるのかもしれないとも思われた。雑に受けると、
陣は、相手の射る駒で喰い荒されて、もともと玉囲いは薄い陣なため、玉駒の
将と中軍、旗は簡単に危なくなるようだ。
 ただし、前々回述べたように、オリジナルルールの”射る駒”の攻めは、
詰めが甘いので、将には概ね逃げられて、相手陣で将を追いかけながら、更に、
残りの相手の駒を、無くなるまで喰い荒すような、終盤泥沼の将棋になる感じが
する。広将棋は、古文書によれば上品なはずだが。ざっと見た感じでは、
オリジナルは終盤、”泥沼将棋”になるという印象だ。
 結論として、前々回も示唆したが、射る駒の効き升目が多いため、

この将棋は”射る駒”である、弓、弩、砲、仏狼機の相討ちが、過剰に起こり
すぎる

との印象である。
 そのため、こんなにたくさん、13枚も、”射る”というルールの超大駒を、
3段目に置かなければ、ならなかったのだろう。そこで、前回述べたような、
相討ち、しにくいルールに”射る駒のルール”を替えると恐らく、射る駒の枚数
が、こんどは、現行の13枚では、ダブついて来るに違いない。
 ので、玉への真っ直ぐな攻撃力の強い射る駒のルールに、前々回述べたように、
替えるとしたら、

射る駒の枚数自体も、調節して減らさないと、ひょっとするとこの将棋は、
オフェンスが強すぎて、詰むのが簡単すぎる将棋

になってしまうのかもしれない。(2017/09/24)

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花営三代記の”将棋”は、本当に中将棋か(長さん)

それが属する一部の駒名から、特定の将棋種が指されていると、されてしまった
文献として、15×15升目130枚制後期大将棋とされた、普通唱導集と同様、
奔王という駒名が出てくるという理由だけで、中将棋とされた、室町時代の古文
書、花営三代記の”将棋”がある。普通唱導集が13升目の大将棋であると、
このブログで、何度も述べたのと同様のパターンで、花営三代記、
応永32年宣明暦2月7日等の”将棋”が、中将棋では無い可能性は、本当に無
いのであろうか。そこで、先ずは結論から書くと、

花営三代記の”将棋”は、中将棋である可能性が高いが、室町時代前期に、
大御所御前試合では、中将棋の奔王に関して、トライ・ルールを作っていた
疑いがある

と、私は思う。理由は、

中将棋は、駒の損得がどちらか一方に傾いて、損側が投了するのが普通であり、
その局面で普通は、奔王の位置が、余り関係ないように思える

からである。なお、花営三代記の”将棋”の記載は、復習すると、次のような
内容である。

応永31年(西暦1424年)宣明暦正月2日に大御所御前試合で、元行が、
貞彌と11局対局し、貞彌の9勝であった。そのとき貞彌は、元行の方の陣
に、奔王を出した。翌3日、貞彌と上総国の介である元行は、同じく大御所
御前試合で、将棋を指した。
応永32年(西暦1425年)宣明暦2月7日に大御所御前試合で、下条と
貞平が将棋を指し、奔王を出して勝ちの試合となり、勝者には賞品として、
太刀が、与えられた。

つまり、上記の文面に表れているように、恐らく二十数局のうち”奔王出し
の勝ち”と称する、勝敗の決まり方が、かなり割合が多かったと、いう印象
の文になっている。これは、中将棋の現在の相手玉を、詰めて勝つルールと
はかなり違う。そもそも、応永31年(西暦1424年)宣明暦正月2日に、

同一の二人が、中将棋とすれば、11局一日に指したというのは不自然に多い。

恐らく、今のルールで指すよりも、勝敗が早く決まるような、ルールになって
いたのではないか。一日に11局させると言う事は、たとえば

奔王が、相手陣の最奥に侵入できた局面で、勝負を付けるように、御前試合
では日程上、調整されていた

可能性が強いように、私には思える。御前試合なため作法もあり、急戦形
にはせずに、奔王を最奥に置いて、前線をしわじわ上げてゆくような、中将棋
を指す、一定パターンになっていて、対局者は二人とも持ち時間を、余り使わ
ず、将棋を指せたのかもしれない。”じわじわ中将棋”を指せば、

陣を破った方が、奔王のトライができるので、指しているのが中将棋な感じ
はする

と私には思える。が、恐らく玉を詰むまで将棋は指さずに、トライで、勝負
を決めたから、一日に11局も、同一人の組み合わせで、指せたのでは、
あるまいか。何れにしても、

”構成する駒の一部が出てきたから、指している将棋種は、
それが含まれる著名な将棋種と、決め付けるのは、危ない”

という故溝口和彦さんの教えが、今や私にとっては、当たり前のように思え
ている。(2017/09/23)

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広象棋、ミニ将棋で弓駒のルールをチェック(長さん)

前回述べたように、広象棋の射る駒には、いたずらに効き筋が複雑なルール
があり、もっと簡潔な駒の動かし方ルールに変えても、将棋の質が低下しな
い疑いが持たれた。とりあえず、生の広象棋のチェックでは煩雑すぎるので、
今回は、下記のような、取り捨て型の9×9升目24枚制のミニ広将棋に、
弓を入れ、ルールを変えて、前回のこのブログの主張をチェックしてみた。
 初期配列は、こちら側から見て、自分の陣の配列が、4段目まで示すと、
その段から下の段に駒が有り、以下のようになるものとした。

4段目:歩兵 空升 歩兵 空升 歩兵 空升 歩兵 空升 歩兵
3段目:空升 八馬 空升 八馬 空升 八馬 空升 八馬 空升
2段目:空升 空升 試弓 空升 空升 空升 試弓 空升 空升
1段目:空升 空升 空升 空升 将帥 空升 空升 空升 空升

実際に、初期配列に並べた姿は、以下の写真のようになる。

ミニ広象棋.gif

上でで示した将帥は王将で、八馬で示した八方桂馬は桂馬で代用した。
上で試弓と現したのが、試験的に入れた弓駒の事である。
注意すべき点としては、歩兵が広象棋のテストであるので、嗔猪の動きにな
る。
 実際の広象棋では、玉駒の周りに、たくさんの子駒があるし、歩兵の上に、
車と碑駒が並ぶ。ただ、車は序盤で消耗すると見られるし、碑は実際の広象
棋では、弓に当たらないので除いた。
 ここで、弓は、実際の広象棋のルールであるイ、と他の二通り、すなわち、
イ、斜め隣接升目に移動してから、八方3升目まで1つ射る。
ロ、八方3升目まで1つ射てから、玉将の動き。
ハ、八方3升目まで1つ射てから、玉将の動き、またはジッとしていても良い。
の3通りについて、テストしてみた。
結果、ロは、イ・ハに比べて、やや駒の動きが鈍いようであった。それに対
して、

イとハは、ゲームのおもしろさに、さほどの差が出ないように、私には思えた。

相手の弓に当たっているどうかの判断は、ハの方が楽ではあるが、

前回このブログで披露した、効き升目の図が頭に入れば、慣れれば、イの
ルールでも、弓だけならがまんできないほど、複雑という訳でもなさそう

だった。ただし、弓ではなくて仏狼機になると、前回のべた、弓と弩の効き
図形の法則だけでは不足で、もっと複雑になるようである。なお、イとハで
は、

イの方が、効き升目が多いので、弓駒の相討ちが起こりやすくなり、ハにした
方が、広象棋の引き分けは、より少なくなるのではないか

と、私は思った。従って総合すると、

ハの方が、不規則な駒の動きに、比較的に経験が豊富な私に言わせると、
引き分けが少なくなる分だけ、幾らか良い程度

のように、思われる。むろん普段日本将棋しか指さず、規則的な駒しか使わ
ない方にとっては、ハの方が、格段に読みは楽になるだろうとは、想像され
た。今の所、「射る駒のルールには、過剰な煩雑性が有る」、との私の推論で、
一応間違いは無さそうなように思える。(2017/09/22)

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荻生徂徠の広将棋は、片山兼山主張”摩訶大大将棋の難点を克服”したのか(長さん)

先だって紹介したが、明治時代に刊行された古事類苑に、江戸時代の学者、片山
兼山著の広象棋譜の序文の写しがある。それによると、荻生徂徠が、七国将棋
の煩雑さ、小将棋、大将棋、摩訶大大将棋の余りの単純さを克服するために、
”仲を取っ”て、広将棋を作成したとの旨、書かれているようである。なお、
原文の漢文の、”鄙陋甚ク”が、摩訶大大将棋の単純さを、言っているのだと、
私は見ているが、私には、最初の2文字が正しく解釈できない。摩訶大大将棋が
”ひろうはなはだしく”つまり、”著しく下品で”とは、いったいどういうこと
なのか、繋がりが良くわからない。よって正直、上記の解釈の自信は無い。
 私の漢文解釈が正しいとして、以下、片山兼山が主張するように、広将棋では、
摩訶大大将棋の”欠陥”が、克服されているのかどうか、考えてみる。いつもの
ように結論から書くと、

克服されたが、射る駒の具体的なルールの設定は、ベストとは言えなかった。
そのため、この将棋は、余り流行らずに終わってしまった

と私は見る。まず、広将棋が摩訶大大将棋から、駒の動きについて、前者が
後者を取り入れている事は、明らかである。一段目と二段目の広将棋の駒は、
名前こそ、摩訶大大将棋系列とは異なっているものの、その動きは、少なくとも、
成りについては考えないことにすると、高道等一部を除けば、だいたい摩訶
大大将棋にあるようなもの、ばかりである。また、それより上の段については、
シャンチー流の駒を、混ぜ込んでいる事も明らかであろう。従って、この将棋の
特徴は、

弓、弩、砲、仏狼機等、射る駒があるというルールになっている

事である。そこで次に、上記の射る駒の中では、最も単純な、”弓”を例にとり、
その導入が、摩訶大大将棋の弱点を変えたたのかどうかを、チェックしてみる。
射る駒は、着手後、元の位置から、余り離れていない所にしか移動しないという
点では異なるが、

その性能は2歩走り駒、すなわち、鉤行の走り範囲を、最大射る射程+移動距離
に限定した性能の駒

に近いと見られる。たとえば、駒の効き範囲を考えると、
弓は、
(弓の効き範囲)
○●○○●○○●○
●○●○●○●○●
○●○○○○○●○
○○○○○○○○○
●●○○□○○●●
○○○○○○○○○
○●○○○○○●○
●○●○●○●○●
○●○○●○○●○
である。ただし、□は元の位置(ここも効いている)。○効いている●効いていない。
なお、この範囲以外に、効いている升目は無い。この駒自体は猫叉と同じ動き
だが、空いている升目にしか、移動できない。また、利き筋は、移動先とその
升目の間に駒があると、矢が届かないので、効きが途切れる。
ちなみに、以下の議論に重要なため、この駒の成りの広弓騎についても考えると、
(広弓騎の効き範囲)
●○●○○●○○●○●
○●○○○●○○○●○
●○●○○○○○●○●
○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○
●●○○○□○○○●●
○○○○○○○○○○○
○○○○○○○○○○○
●○●○○○○○●○●
○●○○○●○○○●○
●○●○○●○○●○●
である。ただし、□は元の位置(ここは効いてない)。○効いている●効いていない。
なお、この範囲以外に、効いている升目は無い。この駒自体は八方桂と同じ動き
だが、空いている升目にしか、移動できない。また、利き筋は、移動先とその
升目の間に駒があると、矢が届かないので、効きが途切れる。
 上記の効き升目の図のように、弓、広弓騎ともに、縦横ともに端側に●●と、
行けない升目が2升目ある事、
弓では、
○●○
●○●
○●○
という、行けない升目、●の作る菱形模様、
広弓騎では、
●○●
○●○
●○●
という、行けない升目、●の作るサイコロの5という目の模様
が、四隅に有るのが特徴的である。なお参考までに弩や仏狼機のケース、つまり、
射る距離が4以上のケースは、元の位置に近い、4隅の○●パターンが、それぞ
れ上のようになるように、○と●とで、市松模様ができるようになる。以下が
大切だが、縦横には●が続く。むろん、相手の弓や広弓機に、睨まれているか
どうかは、行き先から、奔王形の効き路を伸ばして、射程以内で到達できるか
どうかでも、察知はできる。よって上記図は、これらの駒の動きをイメージする
ための、第二の手がかりと言う事になるだろう。結局の所、弓については上記の
図形、弩や仏狼機については、その拡張形がイメージできさえすれば、

このゲームは、ひょっとして、たいした事が無いのではないのか。

摩訶大大将棋の鉤行や、摩竭に当てられているかどうか、チェックするのと、
ほぼ同程度の”難易度”である。従って、射る駒が、一方に13枚存在する
広将棋は、摩訶大大将棋の2走り指し駒鉤行と摩竭、一方2枚に比べて、

広将棋は摩訶大大将棋よりも、読みのストレスがかなり増えたものの、桁違いの
レベルに達したとまでは、言えない

と、私は考える。ではこの、著しく強い駒の導入は、ベスト選択だったのかと
言えば、

否だ。

動ける先を玉将と同じく、隣接八方升目にして、動いた後ではなくて、動く前に
射るルールにしたとしても、摩訶大大将棋の欠陥を緩和すると、私は思う。そも
そも、摩訶大大将棋については、前に述べたが、大駒が途中で切れがちである事
が、問題であった。つまり、相手の玉周りの侍従駒を、喰い荒らす駒が、
摩訶大大将棋の麒麟の成りを、大龍から獅子に改善した摩訶大将棋化であったと
しても、その成り麒麟程度に、敵陣喰い荒らし駒が、限られてしまい、そこが、
”鄙陋甚ク単純すぎる”のであった。従って、広将棋が摩訶大大将棋の弱点
を克服すると言うのならば、

弓が敵陣で成ってできる、広弓騎に、相手侍従駒を排除する能力が高い方が良い

のである。ところが、弓も猫叉であるが、広弓騎も、動きが八方桂になっている。
そのために、侍従駒が直線的に前から、槍つき攻めができないルールになっている
のである。上で示した、効き筋の図で、縦横斜めに、”●の切れ込み”が入って
いるのが、”頂けない部分”と言う事である。つまり、斜めに進む猫叉や、桂馬
跳びする八方桂よりも、嗔猪の動きの方が、むしろ良いのではないかと、私は思
うのである。また、もともと喰い荒らすのであれば、

移動先で射ても、移動前に射ても、相手玉駒前方槍つき攻めにとってはほとんど
同じで、効きどころを約2.4倍(弓)、約4倍(広弓騎)にする効果は、
余り無い

と、私は思う。移動前に射るルールならば、効き筋の読みの難易度は、制限走り
駒の、狛犬と余り違わない程度に、単純化するのである。以上の事から、

広将棋には、射る駒のルールの設定に、”無駄な複雑化”があった疑いがある

と私は、思うようになって来ている。なお、弓と広弓騎の差は、前者が嗔猪で、
後者が玉将の動き、しかも後者は、じっと、止まって射ても良い程度の差で、
構わないのではないか。以上の、改善した射る駒ルールの広将棋を、仮に指し
たらどうなるのだろうか。そのうち、暇なときにでも、試してみようかとも思っ
ている。(2017/09/21)

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