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ものと人間の文化史チェス増川宏一2003のアラブ・シャトランジルール(長さん)

何回か前のこのブログのコメントで、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一
1977年に載っている、西暦800年よりすこし後の、アラブ・シャトランジ
ルールを、アラブ人の文芸家のアル・アドリが述べた内容とみられるものが、
ものと人間の文化史「チェス」増川宏一2003年に載っている、との旨を
述べた。

西暦800年~825年頃に車が飛車動き、馬が八方桂または桂馬跳び、象が
後期大将棋で踊るを跳びに変えた飛龍の動きである、

という内容である。
しかし、さいきん、ものと人間の文化史「チェス」増川宏一(2003年)を、
詳細に読み直した所、別の箇所の記述から、上記は、内容が間違っている事が
判った。結論を書くと、西暦800年~825年に車が飛車動き、馬が八方桂
または桂馬跳び、そして問題は

象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”猛牛”の動き

の疑いがあるらしい。理由は、ややこしいのだが、

同一西暦800年~825年頃にアル・アドリという人物が、アラブ・シャト
ランジに関連して2人居る

らしい。つまり、将棋Ⅰ記載のアラブ人の”文芸家のアル・アドリ”ではなくて、
西暦800年~825年頃に、アラブ・シャトランジの名人(アリーヤ)で、
当時「チェスの書」という成書を著作したとされる、同名の”アル・アドリ”
が、H・J・Rマレーの「チェスの歴史」(1913年)によると、文芸家の
アル・アドリが、認識するように、”アラブ・シャトランジの象は西暦800
年代の初め頃には、飛龍”ではなくて、”アラブ・シャトランジの象は、
西暦800年代の初め頃には、猛牛の動きである”
と、発表していると、「チェス」増川宏一(2003年)の別の箇所に、書い
てあるからである。つまり、つじつまを合わせると、

アラブ人の文芸家の方のアル・アドリが、自分の国のゲームルールを、誤って
覚えていると、するしかない

と、言う事である。なお、このブログのコメントで述べたが、ものと人間の文
化史「将棋Ⅰ」に出てくる、アラブ人の文芸家の方のアル・アドリが、
西暦800年代の初頭に述べた、アラブ・シャトランジ・ルールは、「チェス」
増川宏一(2003年)では、文芸家のアル・アドリが西暦800年の少し後
ではなくて、

”旅行家のアル・ビルニが西暦1031年頃に述べた内容”と、恐らく
増川宏一氏が、人間違いをして紹介していると、私は考えているという事に
なる。

1977年と2003年の間に、何が合ったのか。何ともこんがらがった、話に
なってしまったものである。
 なお話は少しズレるのだが、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年
では、「チェス」増川宏一(2003年)で旅行家のアル・ビルニが、
西暦1031年頃に述べた内容であるとして、増川氏が紹介している、アラブ・
シャトランジではなくて、インド・チャトランガのルールに関して、象の動きが
互いに別々で矛盾する情報を、”哲学者で博識なアル・ビルニが、同年代に述べた
内容”として紹介している。つまり、2003年「チェス」本の”旅行家のアル・
ビルニ”が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年では、”哲学者
で博識なアル・ビルニ”と肩書きが変化した上で、
”象がインド・チャトランガでは、飛車の動きではなくて、銀将の動きである”
と、矛盾する見解を述べているという事である。
 なおこれらの”アル・ビルニ”が同一人物かどうかも、私には確認できない。
”アル・ビルニ”の生没年が、ものと人間の文化史「将棋Ⅰ」増川宏一
1977年にも、ものと人間の文化史「チェス」増川宏一2003年にも書いて
あり、実は

数値が互いに違う

のである。
 こっちも、ひょっとすると別人かもしれないのだが。記載内容からみると、
そうでもないように、私には思えてならない。矛盾する内容とは、繰り返すと
アラブ・シャトランジのルールではなくて、インド・チャトランガのルールに
関するものである。アラブ・シャトランジ・ルールについては、ものと人間の
文化史「将棋Ⅰ」増川宏一1977年の”哲学者で博識なアル・ビルニ”の
情報には、言及は無い。

つまり、両者で、内容が合って居無いというか、「チェス」本に、インド・
チャトランガの象駒について、銀将の動き説の紹介そのものが無いと言う点
で、謎がある

という事である。そこで、前に述べた、インド・チャトランガのルールの
変遷の、このブログでの以下の、下段袖3駒の動かし方ルールのまとめは、
私の個人的な試案と、今の所しておきたい。

インド・チャトランガのルールの変遷(暫定)
西暦0800年~0900年:車駒が跳ぶ飛龍、馬駒が桂馬、象駒が飛車
西暦0900年~1000年:車駒が跳ぶ猛牛、馬駒が桂馬、象駒が角行
西暦1100年~1100年:車駒が飛車、馬駒が八方桂馬、象駒が銀将

 なお「チェス」の方には、「将棋Ⅰ」で登場した西暦800年初期に活動し
たとみられる、”アラブ人の文芸家のアル・アドリ”という人物は”著名な
チェス名人”に隠れてか、特に記載されていない。
 何れにしても私の、増川氏の2著書の、内容比較解釈が、以上で正しいと
すれば、アラブ人の文芸家のアル・アドリは、西暦800年代の初期に、
インド・四人制チャトランガのルールについて、何らかの言及を、して
いた事になる。しかし実は、これは現在の遊戯史学会の認識とは、全く
合って居無いようだ。

四人制チャトランガについては、恐らく西暦1031年頃に、哲学者で博識な
アル・ビルニが、”インド四人制チャトランガの象は銀将の動きになっている”
と、恐らく述べた時代以前には、世界のチェス史学会では、何らかの情報、
そのものが、存在し無い事になっているらしい

からである。よって、インド・チャトランガのルール変遷については、将棋Ⅰ
の”アラブ人の文芸家のアル・アドリが西暦800年代に、インドを旅行した
際に、象が飛車の動きだった”とする情報そのものが、その内容以前に、そも
そも、なぜ存在したかのように、増川宏一氏が、将棋Ⅰでは記載しているのか
についても、もう少し調査が必要という事になるだろうと、私には思われた。
ともわれ、以上をまとめて、表題の結論を述べると、

アラブ・シャトランジの下段袖3枚駒の動きのルールは、
西暦800年~825年頃に車が飛車動き、馬はひょっとして桂馬跳び、
象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”猛牛”の動き
西暦825年以降には、車が飛車動き、馬が恐らく八方桂、
象が後期大将棋で踊るを跳びに変えた”飛龍”の動き

だったと、思われる。ここで馬駒は、暫定的に西暦825年で私が切り替えた。
 西洋の遊戯史研究者で、チェスの祖先に、日本将棋の桂馬の動きがあると
イメージしている者は、あるいは、ほとんど居無いのかもしれない。何れにし
ても、アラブの天文学は、もともとはギリシャの科学の継続で、最初から
高度に発達していた。そのため、馬が日本の将棋のように、最初は桂馬の動
きであったとしても、天文学とシャトランジを結びつけた結果、八方桂に変化
するのは、シャトランジが伝わって、そう経たずにそうなったに違いないと、
私は個人的には思って、上記のように仮定したのである。(2017/08/31)

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中将棋の繋駒の有る師子互い取り規則は、成り直前の麒麟に適用されるのか(長さん)

4回前に、中将棋の師子に関する特別な規則について述べた。そのとき、
繋ぎ駒のある師子を師子で取る、「中将棋の師子に関する特別な規則」のうち
の最も、中心的な部分については、表現は、まどろっこしくはなるにしても、
なんとか、問題の出ない、より精密な規則にできるとの内容を、ここで書いた。
しかしその後、特殊な場合で、師子の規則が、師子に成る直前の、麒麟に適用
されるのか否かが、問題になるような局面も、起こりうるのに気が付いた。
以下の例のような場合である。


〇六|空升目、△盲虎、空升目、△仲人、空升目、空升目、△歩兵・・・
〇七|△玉将、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目・・・
〇八|△白駒、空升目、▲金将、空升目、空升目、空升目、▲歩兵・・・
〇九|空升目、空升目、空升目、△師子、空升目、△麒麟、▲銀将・・・
〇十|空升目、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目・・・
十一|空升目、▲師子、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目・・・
十二|▲龍馬、▲竪行、空升目、空升目、空升目、空升目、空升目・・・
▲側・ ̄12・・・・・・11・・・・10・・・・・・9・・・・・・8・・・・・・7・・・・・・6
(下段が▲陣、上段が△陣とする。)△9九師子までの局面図。

ここで、上の棋譜は、中将棋盤の概ね、一方の左袖の、約1/4を、表現した
ものである。図の左下部分の▲軍の角行がある部分が、盤の左下の角である。
局面は、△側が、7七位置付近から△9九師子とし、10八位置の相手▲金将
を、次に居喰いして取るのが狙いである。△側としては、7九位置の、熟慮の
結果、予め成らないで置いた麒麟で、動かした師子には繋ぎ駒が付いていると、
解釈したのであろう。

では、この△麒麟は本当に、問題の無い”△師子の繋ぎ駒”なのだろうか。

ここで、仮に次の手で、▲同(9九)師子と、▲側が、師子で師子を取った
とする。普通は麒麟は中将棋でも、相手陣に入った所で相手の駒を取ったに
しても、成るのかどうかは自由なので、その後△同(9九)麒麟不成りの
はずで、普通は単純に、▲側の反則負けになるはずである。だがこの場合は、

△同(9九)麒麟成りと、成らざるを得ないと思われる

のである。何故なら、△同(9九)麒麟不成りだと、次に▲11七金将で、
△の玉将が詰んでしまうからである。そこで、△同(9九)麒麟成りだとする
と、▲同(9七)龍馬が可能であるから、既に4回前に述べたように、元々の
▲同(9九)師子が、合法手のようにも見えると言うわけである。つまり、

たぶん麒麟は、敵陣入りでも、次の機会の敵陣内相手駒取りでも、不成りも
良いだろうから、取り合い局面で麒麟が師子に成るケースでの、繋ぎ駒の有る
師子を師子で取る規則は、考える必要が無いだろうとタカをくくると、上の
ような例外も有り得る

というわけだと思う。つまりこのようなケースも、合否どちらであるのかを、
予め決めておく必要がありそうだ。いっけんは、▲の禁手負けのようにも
思えるのだが。しかしながら師子を師子で取る規則を、禁手と決めた、

”そもそも論”を、たとえばこの場合、▲側に持ち出されてゴネられると、
きちんとしたルールブックが、予め古文書等とは別に、用意されて居無いと
以後の対局のスムーズな継続は、かなり厳しい

のかもしれないと、私は思う。
何れにしても、中将棋の師子に関する特別な規則には、複雑な問題が多い
という事だけは、揺るが無いだろう。なお、現実には上の例では、先師子
の規則を持ち出して、相手の△側が、切り替えしを図る手が、更に存在す
る。そこでこのケースは、先師子の規則の適用範囲の議論も二重に加わり、
現実の論戦は、更に混迷を深めるだろうと、私には予想される。(2017/08/30)

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中将棋作者。西暦1300年頃大将棋記載の普通唱導集作者、良季の可能性(長さん)

普通唱導集の大将棋の記載を読むと、その作者が、その当時の大将棋と、
その問題点を、良く把握していた事が判ると、私は見ている。他方、普通
唱導集で大将棋の部分を記載したのが、その編集者の良季であるとは、限
らないだろう。が、ここでは、普通唱導集大将棋を唄ったのが良季か、そ
の仲間であるという意味を、以下単に、”良季(等)”と、表現する事に
して、議論を進める。そこで、

普通唱導集で、その当時の大将棋の弱点を、良く把握していたのだから、
いっその事、西暦1310年頃、良季(等)が、中将棋を創設したと

という事は、無いのだろうか。回答から、何時ものように書くと、

ゼロとは言えないが、中将棋の作成者が良季(等)の可能性は、かなり
少ないのではないか

と私は思う。理由は誰でも全員が、

良季(等)で無くても、普通唱導集時代の大将棋を指せる者は、まず右角行
筋で、相手の、右仲人~右横行を崩し、できれば、相手右反車まで討ち取っ
て、相手の右端列をある程度壊しておく。次に相手右端筋を、反車と香車で
破り、右横行方向に対する右飛車の横利きも、消滅させる。こうして置いて
から、相手の右横行の前の歩兵の位置に、麒麟を進めて、この位置で成らせ、
以下相手陣を、成り麒麟で喰い荒らすことによって、ゲームの終端に到達す
るのが、このゲームの進行の、唯一一本道である

と、以上のように思っていたに違いないと、私は推定するからである。つま
り、仲人位置というよりは、普通唱導集大将棋では、相手の右角行で自分の
右横行が、余り強固に守られることもなしに、睨まれているのが、むしろ
やけに目立つ、初期配列であると言う事が、

この将棋が、指せれば、誰にもそう見えた

という事である。

(私説)13×13升目108枚制普通唱導集大将棋
段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升
⑥空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
⑦空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
⑧空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
⑨空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升
⑩歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
①飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、麒麟、酔象、鳳凰、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車

そこで、対局中相手も、上記のように攻めて来る訳であるから、右横行を
守るために、その手前で角筋に当たる自分の右仲人には、”弱い駒の右嗔
猪と、右桂馬を繋ぎ駒として利かせるのが、最も最善の対策法”だと一回
そう教われば、誰でも当然の戦法に見えたはずだと、私は思う。つまり、

右仲人に右嗔猪と、右桂馬で繋ぎを付けるというのは、良季(等)だけが
知っていた普通唱導集大将棋の、相手”右横行先歩兵位置での成り麒麟作
り作戦の最善防止策”だとは、考えにくいと私は思う。よってこの定跡を、
新型将棋(中将棋)では、恐らく完全に排除しようとして、嗔猪、桂馬を
忌み嫌って、桂馬まで無くしてしまうような中将棋は、良季(等)だけに
製作可能だったとは、ちょっと考えにくい

と私は見るのである。
 ただし、普通唱導集の大将棋の唄われた内容が、それを小将棋のように
賛美したものでは、明らかに無く「指し方が、上記の私の説明のように、
余りに一本筋である」という、

普通唱導集大将棋は、欠陥のあるゲームである

という嘲りが、私に言わせると唄の内容である。よって中将棋の出現が、
西暦1300年より、ずっと後ではなく、間近である事を、この唄自身が、
明らかに示していると、私は解釈する。

つまり普通唱導集は、大将棋がこの時代、有る程度指されている事を示すと
同時に、13升目、自陣4段と見られる普通唱導集の大将棋が、衰退間近で
ある事も、同時に示している

と私は見る。あるいは、普通唱導集に大将棋が唄われてから、かれこれ20
年経った西暦1323年の、新安沖沈没船の頃には、既に4升目ごとに聖目
がある12升目盤を使う、中将棋に近いものは出現していたのかもしれない。
そして、沈没船の船員は、小将棋が3升目ごと聖目盤、中将棋が4升目ごと
聖目盤を使うことから、大将棋は、15升目の聖目5升目ごとの”将棋盤”
で指すべきゲームなのだろうと、漠然と考えたのかもしれない。そこで、
新安沖沈没船将棋盤(?)を、暇つぶしに作成した可能性も、皆無とは言え
ないのかもしれないと、最近は、私にも思えてきた所である。(2017/08/29)

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チャンギの兵が、最初から横動きできる理由(長さん)

少し前に、中国シャンチーの兵卒駒の成り段の議論の所で、朝鮮チャン
ギの兵卒駒が、最初から成りの状態で、存在するルールになっている、
原因について、このブログでは謎であると述べた。しかしながら、
実際に、それが原因だったかどうかは、実証困難であるが、チャンギの
兵が、最初から横動きできないと、どんな支障があるのかについては、
私にも、ようやく判るようになった。

砲が動かせないためである。

チャンギの砲は、シャンチーの砲と異なり、駒を取らない時にも、他の
駒を、跳び越えなければならないルールである。従って、明らかに、
砲の居る列筋の、隣りの筋の兵卒が横に動かせないと、かなり局面が
進んでからでないと、砲がほとんど動けないと思う。
 砲のルールを、チャンギでは、常に駒を一つ跳び越さないと移動でき
ないルールとした。そのため、跳び越される駒としての兵卒が必要にな
り、砲の列筋に、隣列筋の兵卒が、一手でいつも、移動できるように、
恐らくはその理由も有って、兵卒はチャンギでは最初から、横動きが、
できるようにした、という事だろう。では、

チャンギの砲は、シャンチーの砲と違い、なぜ、常に駒を跳び越さない
と動けないように、したのだろうか。

この問いについては、私の力では的確な答えが出そうに無いが、

兵が動かない初期配列から、唯一、砲が移動できる合法手である、別の
自分の砲の隣端列の、のちに禁手となる移動の手に、チャンギのデザイ
ナーは、ひょっとすると、当初興味があったからかもしれない

という程度の答えしか、私には考え出せない。シャンチーやチャンギ流
の棋譜表現を、説明してから、具体的手順を説明すると、めんどうなの
で、以下、日本の将棋の棋譜表現方式で、初手から現すと、
▲8七兵△9五兵▲9八砲△8五兵▲9七兵△9五兵
とした所で、砲で砲は跳び越せないとか、砲で砲は取れないといったルー
ルを調整して、シャンチーと違ってチャンギでは、序盤から、つばぜり
合いが起こりやすい、”繋ぎ駒を序盤は、増やしてゆくのがコツ”と私
は聞くシャンチーとは、感じの異なるゲームに、チャンギデザイナーは、
あるいは、あえてしたかったのかもしれない。
 チャンギでは、駒が枯れてくると、砲が残っていても身動きできなく
なるので、シャンチーのように砲が終盤で、寄せに関与する確率は、
恐らく減るのだろう。終盤が日本人にとって、戦術が難しいのは
朝鮮チャンギより、砲も幾らでも移動だけなら出来るという、ルールを
見落とすと、命取りになりやすい、ひょとすると、中国シャンチーの方
が多いのかもしれないと思う。(2017/08/28)

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新安沖沈没船出土、定説”五目並べ盤”に関する、韓国所蔵博物館の見解(長さん)

2016年11月ころ韓国で、西暦1323年頃沈没したとされる、新安沖沈没船
の発掘品展があり、表題の、増川宏一著「ものと人間の文化史 囲碁」に写真のあ
る、定説”五目並べ盤”に関し、韓国の所蔵博物館側より、

将棋盤であった

との、新聞発表があったという記事を、最近私は見にした。日本の国立の民俗学
の研究機関よりの、韓国側にもたらされた情報との旨のようである。つまり、

日本の国立の民俗学の研究機関が、15升目の日本の将棋盤と判定したらしい。

それ以上根拠等については、韓国の新聞の邦訳等に、情報はない。

ただし、ありがたい事に、この定説”五目並べ盤”の、全体寸法が、韓国の研究者
によって、測定されたようである。長辺について、59.7センチ

短辺が43.5センチメートルだそうである。

実は、「ものと人間の文化史 囲碁」に写真から明らかなように、この盤は、段側
つまり、将棋盤なら長い15升目辺の方が、短辺の端から端までを使って、升目が
続いている。従って、

升目1個の大きさは、43.5センチの1/15で前後が約2.9センチ、幅が写
真から見て、2.6センチ位であると

間接的な盤の全体寸法情報から、ほぼ割り出すことが可能である。なお、盤の長辺
は、先手側からみて、右側余白になるような、写真が「ものと人間の文化史 囲碁」
には、載っているのである。webの写真は、ひっくり返って、余白が右が左に移
る可能性も有るが、よく見ると、webの写真からでも、その感じが判るだろう。
 以下は、上記の日本の国立の民俗学の研究機関ではなくて、私による考察である。
すなわち、この升目の大きさから、これが囲碁や五目並べの碁石を、交点に置くも
のか、将棋駒を升目の中央に置くための物かが、判定できると私は見る。

縦2.9センチ、横2.6センチは、たとえば現在の将棋駒を置くには、ぎりぎり
のため、ぎゅうぎゅう詰めである。

だから、将棋盤である事を、否定するまでには至らないが、升目が少し小さい盤だ
と私は見る。特に、いっしょに出土した、天童の将棋駒と全国の遺跡出
土駒に記載されている、新安沖沈没船出土駒が、升目よりも最大で1センチ近く縦
長なので、共出土した歩兵や香車以外は、縦がはみ出る事が多いと思う。つまり、

実際に船にいっしょに積まれている、将棋駒を置いて使えるかどうか、試さないで、
やや升目の小さい”将棋盤”を作成したとしたら、なぜ出土駒で、升目の大きさを
チェックしてから、線を引かなかったのかが謎

と言う事である。なお、この将棋盤は、冒頭の韓国の所蔵博物館の説明によると、恐ら
く沈没船の船内で、船員が作成したものに、間違いないとのことである。ちなみに、
沈没船の将棋駒は、後期大将棋の駒ではなくて、平安小将棋の駒と見られるが、同
じ種類の駒が後期大将棋に、全部含まれているので、出土駒と盤のゲーム種の違い
で、升目の大きさのチェックに、使用し得ないと言う事は、少なくとも無いはずであ
る。更に言うと、

仮にチェックして作成すれば、板の縦横を90°回転して、長辺を段が増える向き
に、升目を作っていたとしたら、このケースは、実は沈没船の出土駒に、ほぼぴっ
たりの寸法のものが、作れたはず

だったのである。
 以上のような理由から、日本の国立の民俗学の研究機関は、新安沖沈没船の定説”
五目並べ盤”を、昨年秋に”将棋盤”と判定したようなのだが、私は、同時出土の新安沖
沈没船出土駒が、升目からはみ出す大きさなのが不自然と言う理由で、

この盤を”新安沖沈没船の将棋盤(?)”と、クェスチョンマークをつけて、以降
表現する事にしたい

と思っている。(2017/08/27)

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中将棋の「師子に関する特別な規則」の未来(長さん)

前にこのブログで、中将棋が成立した時点で「取り返されるとき、師子は師子
で取れない」という内容の、”師子に関する特別な規則”は、存在したと述べ
た。現在では、これに更に、先師子の規則と、付け喰い則、付け喰いの直後に
前師子の規則が適用されないという師子討ち則の、3つが加わって、師子の規
則と呼ばれていると、私は認識している。ただし、そもそも先師子則は、前の
手で師子が取られたケースを、例外にするような内容なため、”繋ぎ駒”とい
う概念に、複雑化をもたらし、中将棋のルールの標準化をしようとする団体に
は、煩雑で頭の痛い内容になっているような、気がしてならない。ここは、
個人のブログで、本来言いたい放題が書ける場なので、個人的意見をまず、
ずばり書くと、

先師子則は、繋ぎ駒のある師子に適用が限定される等、比較的出現がレアーな
ため、いっそ廃止してしまってはどうか

と、私は思っている。また、そもそも取り返せる師子を師子で取れる規則も、

「実際に取り返されたら、取り返された側を負け」にしてしまえば、”繋ぎ駒”
という言葉の、曖昧さからも解放されるような気もする。

ただし最近、上記の単純に”師子を師子で取った後、その師子が取り返された
ら負け”の私説の単純化したはずのルールでも、合否判断が、なおも、よく判
らない、煩雑な例があるのに気が付いた。以下のように盤面に

相手成麒麟、空升目、相手師子、空升目、味方師子、味方飛車

と1列に続いているケースで、相手成り麒麟は、相手師子の”繋ぎ駒”と言え
るのかどうか、と言う問題である。ただし、このケースの次の手番は、味方と
する。このケース、味方の師子で、はたして相手の師子は取れるのか。
取ると、相手成り麒麟で取り返されるが、味方飛車で更に取り返せるケースな
ので、相手の成り麒麟が、そもそも相手師子の、”繋ぎ駒”だったのかどうか
が、謎と言う事である。

上の例では、私の示した元々の表現のように、取り返された時点で終局として
しまうと味方の反則負けなのだが、もう一手進めて良ければ、相手の師子が、
味方飛車で取られた事が重視されるので、もともとの手が合法のはずである。
 個人的には上のケースは、相手成り麒麟は、相手師子の繋ぎ駒とは言えない
ような感じが、私にはする。という事は、”実際に取り返されたら、取り返さ
れた側を負け”ではなくて、

”実際に取り返されたら、師子で取り返されたかどうかをチェックし、師子で
無い場合は、取り返された側を反則負け。師子である場合は、特別に次の手ま
で進んで、更に取り返した師子が、他の駒で取り返されるかどうかチェックす
る。取り返されない場合は、師子で取り返された側が反則負け。更に、もとの
方の別駒で、取り返した師子が、取られてしまう場合は、もともとの手は合法。
必要なら、後半の手続きを順次繰り返し、合否はそのたびに反転する。”

と、長々とルールを、書き換える必要があると言う事になろう。
 以上をまとめると、恐らく次のように結論付けられようか。
 もともと、師子に関する特別な規則を、初めからひっさげて、中将棋のデザ
イナーは、この将棋を作成したのであろう。そして、中将棋は、現実には流行
ったのである。しかし中将棋には、その前の、普通唱導集大将棋の時代からの
流れで、麒麟が師子に成って、師子が二枚できる可能性があった。だから、
師子に関する特別な規則が、次の手を問題にする形のため、師子が合計で4枚
有ると、最大4手先を問題にしなければならなかった。そのため特別なルール
の中心部分である、師子を師子で取るルールを、歯切れのよい表現に、簡略化
するなり手直しするのは、永遠に無理なように、私には思われてた。せいぜい、
上記の、かなり煩雑なルール表現が、最も短くなる例の、ひとつにすぎないの
では、ないのだろうかと思われる。(2017/08/26)

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極端な跳び駒の無い、大局将棋型の将棋は引き分け必然かも(長さん)

 特に最近はその傾向が顕著だが、これまでコンピュータ将棋の研究が、
主として、人間に勝てるプログラムを、作成する事を中心的課題として
発展した。が、そのほかに本来は、ゲーム理論への寄与、すなわち、ゲー
ムの完全解析を、コンピュータ科学技術も、目指すべきものと私は、
電気通信大学での、社会人向けの講義等で聞いている。
 人間の名人に勝ったソフト・ハードと、完全解析に成功したコンピュー
タ・ハードの到達点の中間に、ゲームの先後手どちらが必勝なのか、とい
う問題の解明の、成功が有ると私は聞く。これらは、ゲームの駒と升目数
が少ないほど、結論が出るのが早いと、一般的に考えられているように思
う。
 しかしながら、ひょっとして、非常に駒数が多い将棋で、ぎっしり駒を
初期配列する、大局将棋のような取り捨て型の将棋で、極端な跳び駒、
すなわち、大局将棋で言えば、

車兵の成りである、四天王のような駒が、存在しない、”ゆったりとした
大局将棋”は、引き分け必然ではないか

と、私にはさいきん思えてきた。理由は、先手・後手どちらにしても、

玉駒が、盤の最下段に近い中央部に配列される、極端な跳び駒の現われな
い、大局将棋状の初期配列駒数超多数将棋は、先手を取ったつもりでどん
どん攻めると、どう攻めても必ず敗北する

ように、思えてきたからである。つまりどちらかが攻めた、一局の終末は、
両者が最善を尽くすように、ある程度努力すれば、必ずその局でより多く
攻めた方の、負けになっているのではないか、と思えると言う事である。
こう思える理由は、このタイプの将棋で、

ざっとだが、先手を取って攻めた側が、結果として陣形が有利になり、勝
てそうになる方法が、私には発見できないから

である。
だから、こうした将棋に勝つためには、攻めないで、ひたすら出来る限り
守りを固める、風車作戦のごとくに、双方駒を動かす事になるのではない
かと、疑われる。そのため、いわゆる”終末局面”が∞手になるまで、
数学上、帰納法的に手数が長手数へと増大し、

手数で、はてしなく大きなループを描く、千日手模様になって、引き分け
になる

のではなかろうかと、私には疑われ出した。
 なお、こうした考察は、現在のコンピュータ将棋の主流のように、せい
ぜい2桁までの、先の手数の局面評価のミニマックス解析では、研究でき
ない。

∞手数先だが、何れはそうなる局面で、玉駒が危ないのは、どちらなのか、

という洞察力が、必要だからである。コンピュータが強くなったのはいい
のだが。コンピュータ自体に今述べた、現行は、人間しかやらないような
解析的な洞察が、AIの発達によって、当然にも可能になる以前に、将棋
等のゲーム理論に関する研究自体のブームが去ってしまう。また、プロの
将棋棋士の勢力も、数十年というタイムスパンで、対コンピュータ対局で
の、2017年の名人敗北が、根本原因で衰微してしまう。すると、

そもそも、この分野の学術研究の本道であるはずの、完全解析や、先後手
必勝の解析的といった、破壊現象の数理と言うカテゴリーでの基礎研究ま
でもが、結局今世紀末までには、すっかり廃れて、無くなってしまった。

こんなことが無いように、自然による破壊的な災害の多い国に住む人間の
一人として、”破壊ゲーム”の数理解析の研究までもが、衰退しないよう、
個人的に祈らないわけにはいかないと、私は考えるのである。
(2017/08/25)

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はこだて未来大学・松原仁氏の「人工知能は世の中をどう変える」の聞取り(長さん)

2017年8月23日14時30分より1時間半、東京千代田区神田駿河台の、
駿台電子情報ビジネス専門学校の校舎にて開催された「人工知能が将棋の世界
等、世の中をどう変えたのか」についての、講演会の聞き取りを行った。
 コンピュータ将棋研究世界の現状について、先を読む頭脳の著者の一人とし
ても名高い、松原先生の弱点の指摘は鋭かった。

コンピュータは、自分の指し手の意味を、将棋観戦愛好家に説明する能力が
乏しいため、人間のプロの業界に、致命的な打撃を、まだ与えて居無い。

との旨を、野球の昔の選手、長島茂雄氏の、彼のプレーの自己ピーアールの仕方
の、問うた者から見た、不明朗な表現を、たとえ話に引いて説明された。
この情報が、この講演を拝聴した中では、最大の価値の有る物に私には思えた。
 ただし、この点はコンピュータ将棋業界では、問題点として把握した上で、
改善策が、現在も盛んに研究されていると言う。だから、
コンピュータ将棋のソフトが、コンピュータ対コンピュータの日本将棋の
対局について、自分達で観戦記を生成し、たとえば大手新聞の将棋欄に投稿し、
それが将棋観戦の愛好家に、読まれる時代に行く行くなる事が、日本将棋連盟
にとっては、最も痛い手になりそうだと、私にも、この講演の開催主眼点が、
漠然とだが、理解できたような気がした。
 また、プロ棋士新人の藤井聡太四段が、コンピュータを教師として、特に腕
を挙げている棋士であるとの紹介も、情報としては、ありがたいものであった。
つまり、この藤井聡太四段の生き方については、彼が高齢化し、コンピュータ
同士の将棋が、大衆の観戦対象の主流になったときに、彼の更に次の世代が、
藤井四段を、単なるコンピュータ将棋の”太鼓持ち”と見てしまうことになり、

彼の後を追う更に次の世代が、日本将棋連盟という立場での、人間の将棋団体
棋士を”格別に重要な存在”と、それまでのように、考えるのかどうかという点
で、不安材料である

という事のように、私には思えた。これは、現在のアマチュア将棋団体と、
プロ将棋棋士との比較イメージとほぼ同じ物が、日本将棋連盟と、コンピュー
タ将棋トップソフトとの関係について、近未来にはスライドして形成されるよ
うになる、と言い変える事も出来るように、私には公演を聴いて取れた。
 よって藤井聡太四段の姿勢に関する、松原仁先生から得た情報は、藤井聡太
四段自身の将来についての”暗雲とも表現され得る、悪い、しかし単なる噂”で
あるよう、祈りたいというのが、私のこの点についての、個人的には基本的な
見方に、ほかならない所である。(2017/08/24)

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シャンチーは、なぜ10段9行路で、兵卒の成りが河を越えたところなのか(長さん)

表題で2つの課題を述べたが、最初の問いで9行なのは士駒を宮廷の制度
にあわせて、シャンチーでは、将や帥を頂点にして、左右対称にしたため
である。これは、恐らく中国シャンチーの九宮成立から、さほど経たない、
平安時代後期の院政の時期に、日本の将棋が、そっくりそのまま、ま
ねて、金将を片方棋士につき2個にした、原因だろうと、私は考えている。
なお、士は元々、偏と碑だったという話も聞いている。また最初の問いで、
10段なのは、九宮の直ぐ前升目で、兵卒が、それを守る形にした方が、
見栄えがよいという、

10段なのは、初期配列の見栄えが理由

だと、私は私見する。つまりゲームとしては、9行8段でも、恐らく成立
はしたのだろうと私は考えている。その場合の歩兵の段は、日本の小将棋
や、タイのマークルックのように、3段に配列されたはずである。砲も2
段目に下がり、有る意味、日本将棋に似た感じになったかもしれない。こ
のようなシャンチーも、微調整すれば作れたはずだと、私は考える。
 さて、最大の問題は兵卒の成りが、河を渡ったところにしたのが、どん
な人物かという事と、何故かという事である。前者については、このケー
スは恐らく、実際にプレーした、ゲーマーの調整だと思われる。問題は、
何故というか、

何を考えて河を作り、しかもそれを渡ったところで、シャンチーの兵卒は
成る事にしたのか

という事である。私見だが、これはアラブ・シャトランジが指せる人物の
発案であり、かつ更に大事な事は、

アラブ・シャトランジの兵駒バイダクは、その時点で、恐らく相手の駒は斜
めに居無いと、取れない現在の西洋チェスと同じルールになっていただろう

と私は推定する。つまり、シャンチーで中央で兵卒が成るのは、

兵卒同士が取り合いを開始したときに、下段の走り駒の”車”が、
チェスのように、相手陣に直射するように、兵を横にどかすためである

と私は考える。この場合の兵卒は、インド・チャトランガのように、行き止
まりだから、成るわけでもなく、日本の平安小将棋やタイのマークルックの
ように、後半、駒数が減少して戦力が落ちるのを、成りを増やして補うとい
う効果を狙ってもいないと思う。つまり、

シャンチーの河を作り、兵卒の河渡り成りを考えた人物は、アラブ・シャト
ランジの影響を、シャンチーを調整する際、強く受けていた

と推定できるように、私には思える。すでに、上記のシャンチー兵卒の成り
ようの原因については、日本でも、持駒使用の謎で、日本将棋の木村義徳九
段が、先行して研究され言及している。私の読み間違いが無ければ、

シャンチーの成りは、タイのマークルックの兵成りの効果の、中国による
輸入

と持駒使用の謎では、書かれていたように思う。が、これは

私は違う

と思う。兵卒が横に動ければ、車筋が通り、斬り合いが盛んになる効果の方
が、兵卒の戦力の増強による、駒枯れの防止よりも、現実には効果が、大き
いのではなかろうか。なお、中国シャンチーとゲームが類似の、朝鮮チャン
ギでは、兵卒駒は最初から横にも動けるので、河を越えても性能が変化する
駒が無くなる。後者については、チャンギの対局経験が2局しかない私には、
今の所意味が、よく判ら無い。
 話を戻すと、中国シャンチーについては、兵卒の成りの調整者は、タイ・
マークルックではなくて、アラブ・シャトランジに効果が合うように、調整
していると思う。なぜなら、もしタイ・マークルックにあわせるとすれば、

相手陣の兵卒の居たもう一つ奥の段で、味方の卒や兵を、成るようにしそう
なもの

だからである。何故なら、河を越えた所で成るのと、相手の兵卒の居た段で
成るのとでは、1段しか差が無いから、変えるとゲームが、全く成立しなく
なるとまでは、考えにくいからである。
 持駒使用の謎で、木村義徳九段は、少なくともインドよりこちら側の、チェ
ス・象棋類の変化は、互いに強く結びついて、1本路で進んだと、考えて、
ストーリーを組み立てておられたと、私は”持駒将棋の謎”を読み理解して
いる。これも、

違うと私は思う。2本路だったのではないか。

つまり、私に言わせると、インド→アラブ→中国というシルクロード経路と、
インド→チベット→中国雲南→東南アジアという、茶馬の(裏)道の2経路が
あった

のではないかと言う事である。原因は率直に言って、

中国唐~宋時代の、都の文化を支える、人の心

に原因が有ったと思う。中国唐~宋時代に限らず、また民族にもほとんど無
関係に、一般に都会人の心というものは、グローバリゼーションといった言
葉を好み、その実は、その時代の最先端科学技術地域の文化を、選択吸収し
ているという、性質がある。つまり都会に住むと、隣接した地帯から、じわ
じわと伝わった結果存在する、地域文化を、彼らの言う”最先端文化”に比
べて、相対的に排除するようになるのだと私は思う。これは、唐~宋代の中
国人で無くとも、日本人でも、都市部に住めば、時代によらずに、皆そうな
っているのではないか。
 他方、都市ではなくて地方では、上に述べたように、隣接地帯から、じょ
じょに伝播してきた文物を、吸収しつづける、地方文化が、実際には存在し
つづけ、しばしば地域文化を形成する。その結果

アジアの東側の象棋は、都会人が作ったインド→アラブ→中国型と、縁在っ
て、たまたまこのケースは、日本将棋の形成の元ともなった、地方人が作っ
たインド→チベット→中国雲南→東南アジアという、2本路が、木村九段の
言うのとは違って、2筋別々にできてしまっている

のだと、私見するのである。つまりはっきり言うと、

宋の都のチャンチーのデザイナーは、大理の将棋は、知っていても考え方を、
田舎臭いと見てまねなかった

と私は見ると言う事である。前にシャンチーの象が、アラブ・シャトランジ
型であって、銀将の動きで無い事を、証拠としてあげた。それに加えて、兵
卒の成りの段が、日本の小将棋や、タイ・マークルックのように、相手陣歩
兵段に、なぜかなっていないというのも、

”先端地帯”の文化だけを吸収しようとする、都会人の心が、シャンチーを
作成したデザイナーの、心の根底にあるからではないか

と、私は以上のように疑っているという事になる。(2017/08/23)

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平安大将棋の一段目鉄将と桂馬の間に、酔象は何故配置されなかったのか(長さん)

実際の平安大将棋では、1段目は中央より、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、
桂馬、香車と配置され、5種類(5色)9将に、桂馬×2、香車×2の構成
で、13升目となっている。平安小将棋で酔象が、先手で3八の位置にあっ
たとしても、恐らく大江匤房によって、取り除かれたのは、玉を中心に古代
日本の左右対称の、官職制度からはずれる為であった。だが、もともと、升
目数に初期制限が無い平安大将棋では、9将、酔象×2、桂馬×2、香車×
2の15升目制にしたとしても、実際の13升目制平安大将棋とは、さほど
の遜色は無かったはずである。すなわち、酔象は平安大将棋では、鉄将と
桂馬の間に、残っていても良さそうなのに、実際には、鎌倉時代草創期まで
には、消えてしまったのは、いったいなぜなのだろうか。最初に、いつもの
ように、私見を書くと、

酔象という、象使いに制御されて居無いことを、暗示させる修飾詞を付けた
のが、平安大将棋から消失してしまった原因

だと私は思う。すなわち、名前の付け方が、悪かったと言う事である。
 9×9升目制平安小将棋標準型と同様、平安大将棋も、玉将を中心とした、
大和王権の軍隊を模したものにすべきという点では、平安小将棋標準化を
推進した、院政派と一致していたのだと思う。ただ、藤原守旧派にとっては、
自分達を、その枠組みが中に存在する、宮中自体から排除しようとしている、
院政派が気に入らなかったのである。そこでよりかっこの良い、日本の将棋
を作って、主導権を取り戻そうというのが、平安大将棋を推進した、藤原守
旧派の心であった。そのため、9升目平安小将棋(標準型・取捨て)よりは、
よりカッコがよく、日本の官職制度をより正確に模したような、平安大将棋に
したかったはずである。だからたとえば、13升目と奇数升目の将棋にした
のである。そして、1段目の玉将の居る段には、官製の軍団が、そのカテゴ
リーでずらりと並んだ方が、途中に神獣や魔物が、はさまったよりも、見栄
えが良かったのである。実際、香車は車隊を構成する。軍人が制御するのが
自明だし、桂馬も、騎馬隊を意味するから、軍団名である。ところが、

酔象は、制御されない、象使い団の存在しない、軍団とは言えない、キャラ
クター名に、たまたま最初にしてしまった。そのため、平安大将棋の1段目
には、酔っていて制御不能な象というネーミングの仕方が原因で、入れにく
くなってしまった

のであろう。仮に、

最初に、象を酔象にせずに、たとえば緋象とか、仏教の経典に、出てくる事
にこだわるなら、白象にでもしておけば、平安大将棋は15升目制になった、
可能性が実はある

と私は思う。ここで緋象は、輸入品の象駒が、桂の木の木彫りの象として
現物が存在しないと、イメージできない名称である。だから、酔象が気に
入らなくても、緋象に変えるのは、文献でしか、”戦象”を知らない日本人
には、困難だったと思う。そこで結局の所、酔象は、酔象とする以外に、
平安大将棋の作者の頭の中でも、とりあえずは、どうしようも無かったので
あろう。そして他方、

中国人からの情報として、当時は象駒は、(武)士駒と馬駒の間の1段目に
挟む以外に、置き場所が無い駒

と考えるのが、常識だったのであろう。玉将の前升目というのは、酔象が、
釈迦を殺そうとした刺客なので、成りが釈迦を実は意味している”太子”で
あって、おかしくないとのアイディアに、鎌倉時代になって気が付いてから、
考え出された場所と、私は独自に見るのである。そこで実は、最下位の将駒
と馬の間という、”本来の”置くべき所に、ネーミングが悪くて、置きよう
が無かった。そのため、結局削除して、平安大将棋から、象は消えざるを、
得なかったのではないか。と、結局以上のように私は考えるのである。
(2017/08/22)

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