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興福寺出土の酔象駒は、とのような動かし方ルールだったのか(長さん)

以前述べたように、西暦1000年ころ、大理国の写実的立体駒を用いる
8×8升目32枚制原始平安小将棋将棋(右銀と象を交換)は、次のような
初期配列になっていたと、私は推定する。
相手陣を見る表現で
一段目:車、馬、象、金、玉、銀、馬、車。
二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。象は
上の表現は相手陣を、こちらから見る向きなので、右辺に居る。
そして、この将棋は西暦1058年頃、奈良の興福寺で指され、酔象駒が、
出土していると、私は考える。が、動かし方のルールは、どうなっていたの
であろうか。以下、結論から書くと、

確定は困難だが、興福寺で指された、上記大理国の将棋の象、すなわち日本
名の酔象は、”角行の動き”とするのが、最もありそうな答え

と、私は思う。ここで酔象が角行になるのは、西暦900年~1000年頃
の、

インド・四人制生成期2人制チャトランガの象が、角行だから

である。
ただし、日本に大理国から原始平安小将棋が伝来した、概ね西暦1010年
頃、インド・チャトランガの象は、増川宏一著「将棋Ⅰ」から、銀将の動き
だったと思われる。では、なぜ大理国で、酔象を銀将の動きに変えなかった
のかと言えば、

銀将の動きは、大理国の原始平安小将棋へは、第3の将となった銀将の駒の
動きに当てたため、酔象の方は、元のままの角行にせざるを得なかった

と考えるのが、一応尤もらしいと見ている。なお、大理国では、それ以前の
馬と車は、桂馬と跳ぶ猛牛の動きであったが、こちらの2枚は、問題なく、
インド・チャトランガ、西暦1000年~1048年バージョンの、桂馬な
いし八方桂と、香車ないし飛車に変えたと思う。なお日本の将棋について、
馬が桂馬、車が香車になったのは、

4つの地方変種のうち、日本の大宰府に伝来したバージョンが、たまたま
それだったから、

と私は、もとよりはっきりしないが、今の所推定する。なお、話が前後した
が、上記3将以前の、南詔から引き継いだ、五代十国期の大理国までの、
プレ原始平安小将棋の、一段目配列は、次の通りである。

一段目:車、馬、象、銀、金、象、馬、車。

二段目は全部空升目、三段目は全部兵なので、以下2~3段目は略す。金将
は、元々は玉駒で、中央部の左側に配列されていたとみる。また、五代十国
期時代までの大理国の、ブレ原始平安小将棋の、金将と銀将の

動かし方ルールは、金将が現在の玉将の動き、銀将が現在の金将の動き

だと、私は推定する。つまり2将から3将になったのは、銀将の加入ではな
くて、玉将が発生して、金将・銀将が、ずれたからだと、玄怪録の金象将軍の
文字列から、私は推定するのである。
 だからブレ原始平安小将棋期や玄怪録の将棋の歩兵は、副官格である、
当時の金将動きの銀将に、3段目で成ったとするしかないだろう。また玄怪
録の解析により、車駒が出しやすい、3段目歩兵配列であるとの溝口和彦さ
んの説には、説得力が有ると私は考えるので、中国雲南では3段目歩兵配列
が、比較的早く発生したと思う。
 なお、私の推定だと、興福寺の酔象は、西暦1080年頃の院政期に、
大江匡房の、9×9升目標準平安小将棋(玉駒王将型)の提案で一旦消えた
後、蒙古来襲前後の西暦1250年頃に、平安大将棋と普通唱導集大将棋と
の間に位置すると、私が推定する13×13升目駒数96枚程度の大将棋

段目
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、空升、空升、猛虎、空升、酔象、空升、猛虎、空升、空升、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔横、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

へ、上のように、玉将の直ぐ前の升目の、太子に成る酔象として、復活した
とみる。復活した理由は、猛古来襲期の当時の世相を反映して、”宗教的な
もの”と、私は見ている。なお、このときの酔象の動きは、鎌倉時代中期に
は、南宋の中国シャンチーは、充分によく知られていたので、角行や飛龍と
バッティングしてしまう、大理国の象の動きではなくて、シャンチーの象の
動き、すなわち、2升目のみでしか止まれない、2升目までの、斜め走り駒
とリニューアルされて、いたのであろう。なお私見では、更に

 酔象が、現在の7方向動きになったのは、ディフェンスの調整を念入りに
行うことにより、西暦1400年以降急速に盛んになった、南北朝時代の
中将棋の発生以降

だと見る。
根拠は、上記の96枚制に、後に猛牛、嗔猪、成りが奔王の鳳凰、成りが
師子の麒麟が加えられ、108枚制の普通唱導集大将棋に西暦1300年ま
でにはなったが、猛牛、嗔猪、という十二支駒の動きを決定する上で、酔象、
猛虎の斜め動きを、縦横に変換して、猛牛、嗔猪の動きを決めた、と考える
のが、自然とみるからである。
 ちなみに、酔象は大理国で角行になる前、西暦900年以前にまで遡ると、
前に述べたように、玄怪録の上将、すなわち飛車の動きになる可能性が、あ
ると思う。以上まとめると、日本で

酔象と称される駒は、

800年~900年は飛車、900年~1010年は角行で、以上中国雲南
省に存在。1010年~1080年も角行で、日本に存在。その後日本では、
院政期の、平安小将棋9升目化改革政策により、一旦消失。ついで1250
年~1350年はシャンチーの象(日本で使用)動きで大将棋に復帰。
1350年以降は、日本の中将棋・朝倉小将棋等で、7方向隣接升目動きで、
現在に至る

という結論になる。(2017/08/10)

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