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酔象が、他の将棋駒に比べて、伝来が遅い根拠(長さん)

前々回述べたように、本来、原始平安小将棋の伝来と、同時に日本に紹介
されるはずだった、8×8升目32枚制大理国小将棋に、”含まれる”象は、
西暦1010年代前後には伝来せず、1050年代の興福寺に於いて、使用
されたと私は推定した。西暦1010年代頃に、他の駒と、いっしょに来な
かった理由は、私によると、貴金属写実将棋駒を特徴とする、藤原摂関用の
贈答品を、より目立たせるために、純銀製の、銀将を棋士の一方に1個から
2個に、増加させる為等という事である。その結果、本来上記の大理国
小将棋に、片方に1個有った象駒は、削除されて、1010年頃には伝来
しなかった。

 しかし遅くとも40年程度後に日本でも、恐らく中国の文献等を介して、
大理国小将棋の本来の駒の構成が伝わったため、1058年頃の、興福寺
出土駒に、酔象が含まれるという、仮説になった。

 さて以上の仮説は、藤原摂関用の、黄金の将棋具が出土していないため、
あるいは、そこに酔象が存在しないという証明には、なっていないのでは
ないか、考える向きもあるかもしれない。しかし、私は藤原摂関用の原始
平安小将棋遊戯具に、象は確かに無いと思う。根拠は、

桂馬、香車の、”桂””香”という修飾詞の系統とは明らかに違う”酔”
が使用されている

ためである。桂や香は、桂製将棋盤そのものと、その性質という点で共通
である。しかし、その香りで酒のように酔うという話は無い。桂は、たと
えば葉が、醤油の良いにおいと表現されるから、醤油で酒酔いはしない。
また逆に酔から辿ると、酔うというのは飲酒を連想し、これは、仏教の戒
律違反行為である。しかし、桂や香に、仏教の戒律違反を連想させる意味
はない。たとえば、香は、逆に、それを用いるのは、仏教では推奨される
行為であるから、類語にならない。むしろ反対語である。
つまり、

桂、香という修飾詞と、酔という修飾詞は互いに、明らかに別の時点でか
つ、たとえば九州大宰府と奈良の興福寺というように、全く別の場所で、
命名に使われた文字

である。なお、象という駒に付ける修飾詞として、酔以外が考えにくい、
特別な事情があるなら、九州大宰府の武士が、酒に酔いながら将棋を指して、
その勢いで、象に、酔象という修飾詞を付ける事も、考えられなくは無い
とは思う。そこで、将棋盤の桂の木の芳香に感動した、大宰府国境警備の
武家が、仮に象駒も、そこに存在したとすれば、”酔”以外に、単語が無
いのかどうか、さいきん一応考えてみた。webを調査したところ、結論
を書くと、

象が馬、車といっしょに伝来したとすると、緋象という名称にする可能性
も有る

と私は思う。これは、桂板に緋桂と青桂という2種類があり、前者の方が
柾目の板で高級品だと、net上に公開されているためである。なお、緋
色は、官位が成立した時代から有り、平安時代後期なら、緋桂板の概念も、
日本に桂の木があるため、存在しただろうと私は今の所、考えている。
なお、桂の木は日本が著名だが、中国にも自生が少数あると、専門書で
別途確認した。中国の桂の木は、葉の裏に毛があるので、日本の桂の木と
は、違いが少しあるらしい。少なくとも、中国産の桂の木を良く探せば、
緋桂板の将棋盤は、中国でも、作れ無い事は無いと、私は思う。
 以上のように、現実には馬と車駒の2種だったので、大宰府将棋対局場
の盛り上げ言葉は、実際には「将棋盤の高級桂は良い香り~」だったのだ
ろうが、仮に象、馬、車の3種だったら、これが、

「将棋盤の高級”緋”桂は良い香り~」

と、少し変化したのではなかろうか。
つまり、

象駒には酔だけでなく、緋という修飾詞も考える事が可能なわけだから、
伝来将棋道具をほめている流れの中で、それとは関連の薄い、仏教の戒律
関連の内容を入り込ませる可能性は、かなり薄い

のではないかと、私はやはり考えるのである。(2017/07/31)

興福寺出土駒1993年No.4”裏面成将?玉将”駒が物語るもの(長さん)

上記年の興福寺の出土駒には、玉将が3枚含まれるが、そのうち2枚に、裏面
にも、文字が書かれているという特徴がある。一枚は両面が玉将というもので、
玉将が不成りである事を、示すもののようにも見える。ところが、もう一枚の
”両面文字記載玉将駒”は、成りの字がはっきりしないのだが、”成将”である
との説が、行き渡っているように、私は認識する。この”成将”とは、いった
い、どのような、ルールの駒なのであろうか。まずは何時ものように私見による
と、

玉将の事

だと私は思う。ただし、上記の問題は、

答えが大切なのではなくて、それの意味する事

だと思う。私見だが、これは、日本では全く流行らなかったが、

北宋将棋が西暦1058年までには、日本の少なくとも奈良の興福寺には伝来
していた事を示す

と私は見る。なぜなら、大理国の将棋しか、その当時知らなければ、一文字の
”将”が、玉将、金将、銀将のうちのどれを意味するものか、日本人は、明確
には、理解できないはずだからである。つまり、「玉将は成ると、将になる」
と示せば、玉将だと判る棋士用の駒、つまり、西暦1058年当時に、玉駒が
”一文字の将”である北宋将棋を、知っていた人間が、興福寺境内内に、存在
するという事だと言う訳だろう。
 なお、玉将の裏に、玉将等を書かなければならない理由としては、棋士が、
三段目に入ると、金将以外は、駒をひっくり返す癖が付いている上に、玉将の
成りは、ルールブックには特に露に書いていないため、徹底させる必要がある
事。駒箱から出したとき、金将および、ひょっとすると酔象と区別つきやすく、
盤に駒を正しく並べやすくするため。場の雰囲気を盛り上げるための、単なる
御ふざけ。習字のための駒。等、いろいろな可能性が考えられるため、確定は、
し辛いかなと私は見る。
 恐らく、興福寺に1058年頃、北宋から渡来した僧も居て、日本の将棋を
指したので、将という一文字で、玉駒を現す、原始シャンチーとしての北宋将
棋の知識が、興福寺の僧へは、伝わっていた。そのため、これで判ると思って、
このような駒を、駒師は作成したのではないかと、私は推定する。
 なお裏成将玉将駒の裏面”成”の字は、余り明確なものではないようである。
 よって、以上の説は”出土駒の字の読みが、正しいとすると”という条件付
きである事を、予め断っておきたい。(2017/07/30)

興福寺出土駒の酔象の不成りは、誰の発案か(長さん)

前に、興福寺出土駒の酔象の不成りの事実も含めて、平安大将棋の猛虎、飛龍の
動かし方のルールに関して、

人間を現さないと思われる駒の、平安時代の将棋の成りは、行き止まりになる
等の事情を例外として、不成りにする規則が有った

のではないかとの趣旨を、述べたことがあった。後退できず、行き止まりになる
ために、平安小将棋の桂馬と香車は、特別に金成りなのであり、平安大将棋では、
奔車と注人が、実質的に直ぐ下の升目に配列される、歩兵と、香車に抑えられて、
奔車は香車、注人は歩兵と、実戦での性能に大差が出無いために、金成りにした
という考えである。二中歴の大将棋の記載で、文末の書写ミス部分は、私の説に
よると、以上の内容に近い、何らかの成りのルールが、本来記載されていると
言う事になる。従って、興福寺の酔象は、象が動物であって、動かし方のルール
で左右に移動でき、かつ後退できる動きのルールであれば、大理国直伝の、
興福寺特有の変形原始平安小将棋の駒だとすれば、出土駒の形態通り、不成りで
確かに合っている。
 ところで、こうした成りのルールは、

誰が、日本人の棋士に教えたのだろうか。

 これについては、現時点では確定するのは困難な問いだろう。そもそも、

(1)興福寺出土駒の酔象は、成りのルールが判らないまま、単に作ってみただ
け。

だった可能性も、現時点では否定も出来ないように、思われるからである。また、

(2)上記で尤もらしそうな、動物駒の成りのルールは、日本人が、酔象を使っ
た時に、後付で考え出した

可能性も、特に否定は出来まい。ただ、この北宋商人が、”(ロ)象が何者かも
多分わからない大宰府の武士”に、詳しい話をじかに教えたくも無く、ごまかし
て銀将に交換し、(イ)藤原道長等の、ご機嫌だけを取りたくなるような、
(ハ)説明するのも、めんどうなルールは、

(3)大理国から、正しい大理国原始平安小将棋(右酔象有り)が、1050年
代に伝来した時に、文献等によって、成りのルールも日本人の棋士は、知った

可能性も有り得るように思う。根拠としては、北宋の商人が、象を銀将に改ざん
する理由付けとして、上の(イ)(ロ)の有りそうな理由に加えて、更に(ハ)
が、ダメ押しとして加わり、いっそう改ざんが、有りそうな話になるからである。
とすれば、こうした非人間駒・動物駒一般に拡張のできる、

上位概念で表現された、成りのルールが、大理国には存在した事になろう。

つまり、もしそうだとすると、大理国にも、一例を示せば、以下のような形の、
”10×10升目大理国大将棋”が、ひょっとすると10世紀に、少なくとも
西暦1050年までには確実に、存在したかもしれないと言う事になるかもし
れないと思う。

一段目:車、馬、象、銅、金、玉、銀、鉄、馬、車
二段目:空、龍、空、虎、空、空、虎、空、龍、空
三段目:兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵

これだと、日本の13升目制大将棋よりは見劣りするが、埼玉県美里町で出土し
た5色の宝塔に近い、タイのマークルック風の駒を1塔づつ、入れて、出土
5色宝塔の起源となったと、まさに言える、大理国大将棋道具風にする事も、
可能ではあると、いう事にはなる。
 さて個人的には、

興福寺原始平安小将棋の酔象の駒の動かし方は、平安大将棋の”猛虎”と同じ、
”斜め4方に隣接升目に、一升目程度行ける”で有れば最低良く、不成りでも
ゲームに、大きな支障はきたさない

と私見する。出土駒が、”間違った酔象”である、可能性は少なかろう。何れ
にしても、外国の将棋ゲームの、ルール情報まで含んでいる可能性が有り得る
ため、

興福寺の不成り酔象出土駒は、最大限の注意が必要な遺物に、間違いないもの

であると、私は考えている。(2017/07/29)

中国の古星座、星名と玄怪録の将棋類似物語の駒名と疑われる名称(長さん)

前々回、玄怪録の将棋類似物語で、軍隊名を指すと見られる、金象将軍の軍
と、天那国の軍のうちの後者は、中国の古星座名称風であると述べた。なお、
”那”という国なら、中国の四川省に、実際にあったらしい。そこでその後、
疑駒名称の方も、中国古代の星座名ではないかと、疑ってみた。それで中国の
宋の時代の星座で、唐代から、ほとんど変化しなかっただろうと、成書で解説
してあるリストを調べた所、輜車座という星座は見当たらなかったが、六甲座
というのは、存在する事が判った。平凡社、薮内清先生の著書で「中国の天文
歴法」1969年発行の、第一部・第五章に載っている。それによると、
六甲座は、ケフェウス座の44番星のあたりを指すらしい。すると残りは、
天馬と上将であるが、天馬は最初から、私は探さなかった。唐代にはシルク
ロードが発達していたので、西洋の星座が、中国にも伝来していたはずで、
天馬は、西洋星座のペガスス座と同じに違いないと、私は最初から考えたから
である。
 問題は上将で、星座には存在し無い事が判った。恐らく薮内先生の著書を調
べなくても、webの情報で、この辺りまでなら、誰でもわかるだろうと思う。
そこで、上将についてだが、

上将は星座名ではなくて、中国では星の固有名称である。右垣墻座と左垣墻座
に一つづつ、計2つあり、しし座シグマ星と、かんむり座42番星

の事とのようである。上将は中国で一般によく使われる、宮中の役職名称なの
であろう。玄怪録の著者は、中国人でかつ、王朝官僚の中に居る人物なため、
中国古代王朝の官職名で、中国古代の星座や、星の固有名にも共通する名を、
玄怪録の将棋類似物語の、駒名と疑われるものに、使用しているようである。
 それに対し、モデルになった、雲南省、当時の南詔国は、漢民族とは別の民
族の国家であるから、恐らく

将駒に、上将という名称は使用しない

のではないか。よってやはり、前々回の結論のように、南詔国8~9世紀頃の
将棋の将駒は、金将、銀将、象将の方が、金将、上将、象将に比べて、より、
もっともらしそうだと、私には以上のように、結論された。つまり”上将”は、
物語の中で、玄怪録の作者が、たまたま象将に音が近いため、使っただけだっ
たのであろう。(2017/07/28)

原始平安小将棋は、大理国の11世紀の象棋の、一部改変品か?(長さん)

前回述べたように、大理国時代の中国雲南省の象棋は、南詔国の時代の、金、銀、
象を、玉、金、銀に、1つづつスライドさせたものかもしれない、と言う事であ
った。すると、将駒が3種だと、スライドした結果、象がハミ出して、消えてし
まう事になる。そこで勿体つけるのはよしにして、答えを先に書いてしまうと、

原始平安小将棋では、将駒を4種類にする事は、可能である。

つまり、初期配列を、将駒は将を略して書くと、次のようにすればよいのである。
相手の側の駒を見る形で書くと、

一段目:車、馬、象、金、玉、銀、馬、車
二段目:空、空、空、空、空、空、空、空
三段目:兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵

なお、厳密には私は、南詔国の将棋の象将は、大理国の将棋では、象一文字にな
ったと考える。こうしないと、それが日本に伝来してから、修飾詞の”酔”を、
改めて付けようとしても、付けようが無いからである。
ところで、この配列の将棋は”興福寺出土駒の酔象を説明するため”として、私
が溝口和彦さんのブログで、かつてコメントしたものである。当時は、象駒が
少し後に、シャンチーと共に、中国から日本に伝来したときに、銀将に相当する
ものであるために、日本で、銀と象を一枚交換したものが、

試作的に、興福寺で作成されて、8×8升目変形原始平安小将棋として指された

と私は考えていた。なお、興福寺からは、銀将が出土駒総数18枚程度のうち、
1枚しか出土していないから、上記の配列の将棋は、出土駒の数パターンと、
特に、ずれては居無い。
 今述べたように、当時は平安時代の日本作のゲームと、私は考えたのだが、

仮に、上記が”本物の大理国の11世紀の象棋”であったとしたら、
南詔国の時代から大理国の時代の間で、象が消えないので、象が生息するのに、
大理国の11世紀の象棋には、象が無いという矛盾が、そもそも起こらない

のに、私は気がついた。では、どこで上記の、本当の大理国の将棋が、

一段目:車、馬、銀、金、玉、銀、馬、車
二段目:空、空、空、空、空、空、空、空
三段目:兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵、兵

という配列の、8×8升目制原始平安大将棋に変わったのか。答えは、

北宋から、日本に伝来する時点である

と私は思う。もっと詳しく言うと、北宋の交易商人が、藤原摂関用の黄金の将棋
具を作成するときに、象を削除して、左右どちらも、銀将にした結果、銀将が、
2枚づつに、増加したのではないかと私は推定する。どうしてそんな事をしたの
かと言えば、

桂の木を彫刻して作った象を減らして、銀製の銀将駒を倍にすれば、貴金属製駒
の数がトータルで益々増加するので、藤原道長か頼道等、贈られた何れかかが、
更に喜ぶだろうと、北宋交易商人は、予想したから

だと、私は思う。そもそも、大理国の将棋文化を伝えるという、崇高な目的で、
摂関に、黄金の将棋具を贈答している訳でもなく、象と銀とを交換しても、将棋
の質に大差が無い事位には、北宋交易商人も、気がついていただろう。だから、
単純に相手国のお偉方・お客様が、より一層喜ぶように、

大理国将棋を一部手直しして伝えても、特に不思議は無い

と私は考える。従って象が消えたのは、伝来国から寒冷地日本の間であって、た
だし、以上のような経緯であるから、日本人は誰も、その”新作ゲーム”の創作自体
に関与・工夫はしていないと、私は予想する。よって今まで、大理国の将棋の、
一ローカルルール種と、原始平安小将棋とは同じものだと、このブログでは、
さんざん何度も表現してきたので、はなはだ心苦しいのだが、ひょっとすると、

原始平安小将棋と大理国発将棋には、右銀将が”象”に置き換わるという、差が、
もともとあったのかもしれない

と、私は最近思うようになってきた。むろん、月日が経つと、この”改変”には、
日本のゲーマーも、何らかの手段によって、気がついて、しまったのであろう。

将棋の人気が急激に立ち上がったと私の考える、西暦1019年から39年経った、
西暦1058年には、正しく右銀を酔象に変えた将棋も、興福寺では、少なくと
も部分的に指されたのが、そこに酔象が出土する理由

なのでは、ひょっとしてあるまいか。興福寺の出土駒に、酔象が混じっているのは、
大理国の将棋で、伝右銀将が、実は大理国では、ただの一文字”象”である事に、
日本人の少なくとも興福寺の僧が、気がついて、酔象を作成したからかもしれない
と、以上のように私は考えるようになってきたのである。(2017/07/27)

唐代玄怪録の将棋と疑われるものの”駒”は、何故2文字表記なのか(長さん)

前々回に、原始平安小将棋に象駒が無いにもかかわらず、玄怪録の創作話に
現われた、将棋を示唆すると思われる記載に、金象将軍の軍隊という、象駒
が存在すると匂わせる表現があり、玄怪録を南詔国時代の雲南の象棋を、元に
したものと考えると、象が存在する状態で、南詔国から大理国へ移行する
間に、象が消えなければならないので、論理的に思わしくない旨を述べた。
 なお、玄怪録で将棋を紹介する際、自国唐のシャトランジ型ゲームをさし置
いて、隣国南詔の象棋を、持ち出してきたのは、作者が対、吐蕃国、南詔国
政策に於いて、穏健・融和派の唐代指導者だったからだというのが、私の説で
ある。
 そこで、上記の問題を解明する第一歩として、以下の疑問について、今回
は、まず考えてみた。
 すなわち、中国のシャンチーが1文字表記であるにも係わらず、なぜ玄怪録
の”将棋類似物語”では、駒らしきものが全部2文字なのか。これをひとまず、
玄怪録の表現の範囲内で、推定してみる。結論をいつものように、先に述べる
と、

”金象将軍の軍隊”と表現する事で、作者が金将と象将という、将駒が2種類
存在する将棋を、物語の下敷きにしている事を、白状しているのだ

と私は考える。根拠は単純で、

”金象将”という3文字の将棋駒名を考えるというのは、”古時鳥”とか
”自在王”という駒名とは違い、作成する事自体、意味不明で不自然

だからである。つまり、

金将、象将を略して、金象将と表現した

だけなのではないのか。なお、金象将軍の軍隊の相手の、天那軍の天那は、中
国の星座に、天の字のつくものが多いため、実際には無いが、ローカルな星座名
としては、有りそうな名前であると、私には感じられる。元にする将棋が一種
なため、韻を踏むような、相手軍隊名称を、作者は考え出せなかったのだろう。

 そしてその結果、他の駒種も、馬、車、甲(卒)駒について、天、輜、六の
修飾詞を、2文字に揃えるために、作らざるを得なかったのだと私は思う。

なお、この天、輜、六という修飾詞は、特に縁起のよい字という訳でも、無い
ように思う。軍隊内での役割等をも表現する階級名について、中国では古代より、
二文字で表現して、細分化した、いろいろな階級を表しており、それらしい感
じを出すための、修飾詞の付与ように私には見える。そもそも、将棋の駒名で

2文字将棋駒の修飾詞というものは、それをプレーする時々の、競技の場の
雰囲気を盛り上げる為に、さまざまの事情で、臨機応変に考えるという性質の
もの

なのでは、ないのだろうか。つまり、兵は動かし方ルールが元だとして、日本
伝来オリジナル、原始平安小将棋の将棋盤が、超高級品で桂の木で良い香りが
した、という知見を、実際それを自分が目の当たりにした事があるという、
自慢話として表現するため、駒の命名者は馬には桂を、車には香を修飾詞とし
て使う、という具合にである。
 なお、シャンチーの私に言わせると元になったとみられる、アラブ・シャト
ランジは、玉が王、金将駒(副官駒)が、候というタイプの名称だったため、
中国語に翻訳しても1文字になり、2文字化は、煩雑を避けるため、たまたま
しなかったのではないかと、私は考える。更に、シャンチーの成立時には、砲
が加わったが、これも1文字で表現できたため、結局シャンチーは、

中国軍隊流にしては、”珍しく”、1文字名の駒でプレーする、戦略ゲームに
なった

と考えている。
 さて玄怪録の将駒であるが、何回か前に私は、南詔国の3種の将駒について、

金将(今の玉将)、上将(今の金将)、象将(今の銀将)である

事に基づくという仮説を述べた。ただこう考えると、どうしても

象が消えて、銀になった理由

という考えに、縛られてしまうようにも思えた。もともとはっきりしない話な
のであるから、いっそ南詔国の3種の将駒について、

金将(今の玉将)、銀将(今の金将)、上将あるいは象将(今の銀将)

と考えてみたらどうかと、さいきんふと考えた。なおこの考えは、将棋研究家
の故・溝口和彦さんの説から、ヒントをもらった。後者の対応付けは、溝口説と、
よく合致するものである。
 つまり結局私は、”南詔国伝来前に、象が消える”という仮定を、あきらめて
しまった。

チベットで、象が僧に、特に変化はしなかったのであろう。

なお、少なくとも日本語では、”上”と”象”はローマ字で表現すると、”Y”
が入るか、入らないかで似ているから、ひょっとして、上将と象将は、南詔国
では、別名であって同じ駒種かもしれないと、溝口さん同様、私も思ったので
ある。そしてこうすると、前と違うのは、象が大理国時代に銀に変わったのでは
なく、唐から五代十国、宋の時代に移り変わるとともに、吐蕃国が衰退して、
西域で戦争が少なくなったために、大理国時代なると、ウイグルの和田(ホー
タン)から、玉が雲南に伝来しやすくなって、

玉将が、大理国の時代になって、始めて発生

して、以下、金と銀が一コマづつズレた、と考える事もできるのではないかと、
私は思う。すると、

”象将は、その結果余分になるのでハミダシて、消えてしまうのか”と考えた
くなるが、そこで私はふと、”ある事”に気がついた

のである。さてここから先の話は、別のカテゴリーになるので、以下は次回に、
この続きを述べたいと希望する。(2017/07/26)

取り捨て将棋は駒数を多数にしても引き分けが多く、駒枯れがしやすいのか(長さん)

チェスやマークルックの解説書を読むと、高段者同士の対局では、引き分けが
多いとの旨、記載されている。取り捨ての将棋は、引き分けが多いという意見
も、日本将棋で、他のチェス・将棋・象棋系を熱心に指す、棋士が評する事も
ある。
 引き分けは、駒の数を多くし、盤の升目を多くすれば、小さな棋力の差が、
手数の多さで拡大して、防げるのではないかと言う予想もあるかもしれないが、
実際は、どうなのであろうか。あくまで私見であるが、

跳び越え駒を適度に、中盤以降増やさないと、日本将棋のような、逆転が多く
引き分けが少ないゲームはできない

というのが、私の予想である。持ち駒ルールという一種の”跳越え”が、日本
将棋の終盤の局面評価値の、フレの増大を作り出しているのであり、走り駒だけ
増やしても、日本将棋並みに、勝負をどちらかが勝つように調節するのは、無
理だと私は思う。そのケースは駒数をよほど増やして、走り駒が切れないように
しても、走り駒の類の有る将棋だけでは、終盤は日本将棋のほどに、手に汗握る
ような、展開にはならないと私は予想する。つまり、手数が多い西洋チェスに、
なるだろうという事である。だから逆に言うと、

駒の動かし方ルールで、跳びの類でかなりの大跳びで、かつそれが、成り駒だけ
で生じるような、特殊な動かし方ルールの駒を、出現数を調節して、取り捨て
将棋に少量まぶせば、日本将棋のように、終盤局面評価が発散して、引き分けは
少なくなる

という”持ち駒ルール無しでの解決方法”は、具体的に存在すると、私は予想
している。
 次に駒枯れは、持ち駒ルールのある、日本将棋には原則無縁だが、取り捨
て将棋の類では、日本将棋よりも少なくするのは無理である。
 ただし、玉将の初期位置を、中段に浮かせる等して、最後に失うのが玉駒に
なりにくいようした、余り見かけない初期配列の駒数多数系将棋は、玉駒の底
にも、走り駒を、多数まぶしておけば、駒枯れは防げると私は思う。つまり、
極めて駒数の多い将棋は、相対的に、その玉底の”地面駒”の数を、視覚的に
めだたないようにして、数学上はいくらでも増やせるため、理屈の上からは、

駒数多数将棋は、地面底の駒層を作るような配列にすれば、事実上、極めて
駒の数自体が多い将棋は、駒枯れには、かなりなりにくい

と私は予想している。つまり、引き分け問題は、駒の数の多少に、さほど強い
依存性の無い、駒の動かし方ルールの工夫の問題。駒枯れ問題は、駒の数を
充分に増やすと、棋譜の体裁を損なうこと無しに、駒枯れがかなりしにくい
将棋になると、私は思う。むろん駒枯れより引き分けの方が、深刻だろう。
引き分けは、駒の数を充分に増やせばなんとかなると、実は私には、残念な
がら思えない。(2017/07/25)

チベットにはアジア象が居無いことの確認(長さん)

前回、日本の将棋が11世紀前後の大理国起源とすると、象が中国雲南に当時生息
していたにもかかわらず、象駒の無い将棋が、大理国で発生するという問題が、
あると指摘した。私見だが、はっきりとした、この矛盾の回避方法は、まだ無いと、
考える。そこで、その後とりあえず、中国雲南省に将棋が、私によると8世紀程度
には伝来する時点で、伝来元のチベットのラサ付近には、アジア象が居無い事を、
確認した。講談社発行西暦2000年版の、動物世界遺産「レッド・データ・アニ
マルズ 第四巻 インド・インドシナ編」編者 小笠原秀雄氏他によれば、

1995年時点で、中国でのインドゾウの生息数はゼロ

になっていた。
 むろん、中国には象牙を取るためや、骨を漢方薬に使うために、アジア象が捕獲
される以前には、生息していたし、大理国のあった、中国雲南省は、生息域の北限
の近くであるから、なおさら、11世紀には、象は居たのだろう。ただし、同書に
よると、

ヒマラヤ山脈の北側には、アジア象は、もともと生息していなかった

との事である。つまり、大理国へ来る前の、原始平安小将棋の伝来ルートであると、
私が個人的に推定する茶馬の道は、象の住めない寒冷域だった事が判る。
 もし仮に、ここがインド・チャトランガの象駒の、”一旦の消失地”であったと
したら、

チベットが、平安小将棋の銀将駒のある意味、発祥の地

と考えれば、日本の小将棋に、象駒が無い理由は、旨くすると説明できるのかもし
れないと、私は考えた。つまり、チャトランガの象は、チベット・ラサ付近で、象
が居無いために、戦争に象を使用するという、概念が例えば、当時の吐蕃国に起こ
らず、

象が僧に変化した

という経緯は、どうだろうかと思う。つまり、750年頃に、インドの僧と一緒に、
インドチャトランガが、インドからチベットに伝来したという考えである。もし、
そのような事があれば、南詔国に入ってから、大理国で銀将として成立するまでに、

象→僧→銀僧→銀将

と、象駒は一旦消えて、仏像と大理国の出家王族との類推から、将駒へ変化したの
かもしれないという事、なのかもしれない。
 これでも玄怪録と比較すると、金象将軍国の名に、象が入っているという点で、
完全に矛盾の無い説にはまだ見えない。が、少なくとも、チャトランガから、日本
の平安小将棋までの、私の説の伝来ルートでは、象の住めない寒冷域として、当の
日本以外では、チベットしか考えられない事は、調査の上、取り合えず鮮明になっ
たとは言えると思っている。
(2017/07/24)

”仮説”大理国の原始平安小将棋に、象の無い理由(長さん)

私が若い頃聞いた話に、西洋流の星座に”わに”や、”象”が無いから、
エジプトやペルシャ起源ではなく、メソポタミア(イラク)起源だという話
がある。その類推からすると、もし、原始平安小将棋が、大理国起源とすれ
ば、大理国には象が余り居無いので、象駒が銀将へ変化した事になる。
しかし実際には、東南アジアに近い中国の雲南省には、所々の森林に、今も
インド象(アジア象)が生息していると、聞いている。これは、星座の話と
は合わないが、どう説明すべきなのであろうか。結論を述べると、

象を武器として盛んに使用する地域が、インドからヨーロッパ・北アフリカ
までであるためだと思うが、びしっとした説明は出来ない

ように、私は思う。なお、現在インド象は、インド・ビルマ・タイと、その
周辺だけに居るが、昔は中国の南東部や、中東はペルシャまでが生息域だっ
た。だから、シャトランジに、象駒が有るのは同然であって、更にはヨーロ
ッパ人も、アレキサンダー大王が遠征の結果、武器としてのインド象を、
ペルシャから持ち込んだため、ヨーロッパ人にも、象をチェス型ゲームの駒
に加えるという点で、違和感は無かったとの事である。いずれにしても、
中国や、ほぼその伝来と推定される、朝鮮半島の象棋には、中国人が古代よ
り象を知っていたため、象が有っても不思議はない。なお、象棋の”象”は
天象の”象(しょう)”であって、動物の象ではないと、私は聞いている。
そして、

日本には象が、居無いので、北から小将棋が伝来したとか、国内起源だった
としたら、象が銀将に代わって、当然だったのかもしれない。

ただし、モンゴルのシャタルは、象駒は確か”ラクダ”だから、何れにして
も伝来だと、びしっと説明できたとはならない。更に「タイのマークルック
が、象駒が”根”になっていて、日本の将棋とは、象が無いと言う点で同類
である」という説を聞いたことがある。が今の所、タイの象棋の象駒は、
”根または象”であると、個人的には認識しているので、上記”根と銀将を
同質化する説明”にも、私は充分には納得はしていない。なお、タイ王国は、
戦いに象を使った、最後の国との情報がwebにもある。
 何れにしても今の所、

象を銀将にしたのは、象はその地域に居たが、北宋時代の大理国が初めて
だった、

という線で、私は理由を考えてみるつもりで居る。イメージとして、山岳地
帯の戦闘では、象は山登りが苦手でかつ、人力等別の力を使って、象の山越
えをする事も、重量が大きすぎて困難なため、川沿いで農業用の家畜として
は使えるものの、軍人や敵を蹴散らす武器として使用するための、象使いの
乗り物等には、使用し辛いのが、理由かもしれないと思う。がこの説明が、
銀将に置き換える理由付けとして、どんぴしゃであるとは、私は思って、い
無い。雲南の鉱山の銀の産出量が、南詔の時代より、大理の時代の方が格段
に多くなり、王朝宮殿での、銀の食器や装飾品等の使用量が増えたため、

駒としての象の名称が、雲南では、象→象将→銀将と変化した

とか、何か経緯があるのかもしれない。何れにしても、2~3の既存の説明
を、私も知っているが、

既存の説には、充分に納得すべきものが無い上に、だからといって私にも
良い案が無い

と、このブログには現時点では、とりあえずはっきりと表明しておくことに
したいと考える。(2017/07/23)

大理原始平安小将棋駒の抽象化。元代”サイイド・アジャッル統治”が原因(長さん)

先に、原始平安小将棋用の立体写実駒が、マークルックの抽象的な仏塔駒に変化
したのは、(1)11世紀~12世紀と、比較的早い時期の、タイ国内モン族、
海岸交易国家での、イスラム教の受け入れと、私は説明した。しかし、良く考えて
いるうちに、(2)日本の戦国時代後期の山田長政が活躍した時代の、タイの交易
都市での、ムガール帝国文化との接触による、マークルック駒の抽象化でも、説明
が出来る事に気がついた。なお、(2)だと、マークルック駒が仏塔に抽象化した
のは16世紀だから、モン族とタイ族は、どちらもタイ国内に居る事になる。
 ところが、その後web等で、中国雲南省の歴史を調べていた所、タイ人自体
が、原始平安小将棋を11世紀初頭の日本へ伝えたすこし後の、13世紀、蒙古
帝国の支配下の時代に、イスラム文化と、表題に示したように、接触していた事
が判明した。従って、(1)で、マークルック駒の抽象化を説明した、私のページ
は、他に幾つもの説明が有り得るという点で、不十分だったと、深く反省させられ
た。ここで、雲南省のたとえば盆地で、蒙古帝国支配下の時代に農業を営んでいた
タイ人が、イスラム文化と接触したというのは、

蒙古帝国が中国雲南省を管轄する、提督として派遣した(3)サイイド・アジャッ
ルという人物が、ジンギスカンに忠誠を誓った、イスラム教徒だったためである。
つまり、タイ人の多くもその影響を受けて、立体原始平安小将棋駒を、偶像崇拝を
連想させない、抽象的な駒の形へと、変化させた

可能性があるという、意味である。なお、大理国の王族だった、白族(ペー族)の
段氏一族は、蒙古帝国支配の時代には、蒙古の提督の補佐官へ、降格していたと、
私は理解している。なおその後の調査では、タイ国内モン族が、日本の平安時代に、
海岸交易国家を形勢していたとしても、影響度は、イスラム教よりも、インドの
ヒンドゥー教の方が、大きかった疑いが強いと調べがついた。なおモン族自体も、
大理国の王族といっしょで、仏教徒として、かなり厳格な民族だったようである。
 従って、以前の私の、”(1)11世紀~12世紀と、比較的早い時期の、タイ
国内モン族の海岸交易国家での、イスラム教の受け入れ”説は、可能性が比較的
小さく、

(2)日本の戦国時代後期の山田長政が活躍した時代の、タイの交易都市での、
ムガール帝国イスラム文化との接触による、マークルック駒の抽象化

が、一番可能性としては大きく、つづいて、(3)サイイド・アジャッルという
人物が、ジンギスカンに忠誠を誓った、イスラム教徒だったため、元代にタイ人
の多くも、その影響を受けて、象棋駒を偶像崇拝を連想させない、抽象的な駒の形
へ、変化させた可能性も、否定できないという事ではないかと、修正を余儀なく
された。なお、(3)より(2)の方が、可能性が大きいと私見するのは、

蒙古帝国は、個別の征服地域の文化に寛容で、サイイド・アジャッルという人物も、
雲南では当時人気が高かった

という情報から、個人の宗教を、現地のタイ人に、余り強要しなかった可能性が、
強いのではないかと、推定されるからである。しかし、可能性が薄いと、その後
思われるようになった日本の平安から鎌倉期の(1)の他に、戦国時代後期の(2)
と、鎌倉時代の(3)の可能性が有り得、解明が簡単で無いという事だけは、
マークルックの駒の形の歴史に関して、ほぼ確かだと、現時点で私も、さすがに
思い知らされた格好である。(2017/07/22)