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大理国のミニチュア五色舎利塔(長さん)

前に、埼玉県児玉郡美里町広木の広木上宿遺跡にて、五色の小型宝塔が出土
していると述べた。そして、これは中国雲南省の大理市の三塔主塔で発掘さ
れた、いろいろな貴金属素材で作られている、仏像に関連性が高いとの私見
を述べた。しかし、同じく仏教に関連するとは言え、仏像と宝塔とは、別物
であった。
 ところが最近、雲南省博物館の陳列品について更に調査した所、仏像だけ
でなく、ミニチュア舎利塔も、下図のように大理の三塔主塔で発掘され、
陳列されているのを、発見した。しかも、こちらも、美里町と同じく”五色”
である。
大理仏舎利.gif
美里町のミニチュア宝塔も、舎利塔関連と、日本の発掘者に見なされており、
中国の雲南省大理市と日本の埼玉県美里町からは、ほぼ同じ遺品が発掘され
ていると、見て良い

と私は思う。なお、美里町広木上宿遺跡の五色小型宝塔は、下図のようなも
ので、仏塔であるという点で類である事は、形から見ても明らかだと思う。
美里宝塔.gif
ただし、雲南省大理市の仏舎利塔は、何か5つの遺品をそれぞれに納める、
美里町の五色宝塔とは異なり、ロシアのマトリョーシカ人形のように、内部
に、それぞれの、より小さい部分を、順次格納するための容器である。だか
ら、中心部に遺品は、一つだけ納められ、それを順次囲むように、だんだん
大きな仏舎利塔で、包んでゆくのである。
 もともとは、大理市の遺品が正調だったのだろうが、曖昧に伝わった結果、
埼玉県美里町の五色宝塔のようになったように、私には見える。
 なお、美里町の五色宝塔の五色は、鉄、銅、銀、金銅、金だが、
大理市の仏舎利塔の五色は、鉄、銅、銀、金、琥珀で、琥珀を玉に近いもの
と解釈すれば、こちらは平安大将棋の配列により近い。いずれにしても、
将棋の話を敢えて持ち出さなくても、

美里町出土の日本の中世武蔵武士居住地の五色宝塔は、大きさが同じ程度で
ある点から見ても、大理国の時代とされる雲南の五色仏舎利塔の仲間である

事だけは、ほぼ間違いないように、私には思えた。
 恐らく、大理国の五色仏舎利は平安時代に、日本へ情報か現物も伝わって
おり、平安大将棋の将駒が、5色になる原因の、一つとなったのではあるま
いか。平安大将棋は桂馬と香車が、原始平安小将棋に、一方計4枚存在した
ので、将駒を5色にすると、一方9枚が必然となって、もしかしたら、その
ために、平安大将棋の13升目が確定したのではあるまいかと、大理国の遺
品らしきものを見て私は、以上のように、推定するようになったのである。
(2017/06/30)

11×11升目の”中将棋”は、何故現存しないのか(長さん)

少し前に、私の仮説では、13升目の普通唱導集大将棋の、第3段目の列の
角行を1段下段に落として、列数を元より2列少なくしたのが、中将棋発生
の起源であると述べた。そして更に、元駒の師子の列を加え、酔象を玉将と
並べて、12列に少し戻し、私の推定では、日本では初の、偶数升目型の、
駒数多数将棋になったというのが、中将棋という訳である。が、仮に今述べ
た後半の、師子を加えなかったとして、師子が無いから、ややこれより劣る
としても、11升目制の将棋に、他に欠陥があるとすれば、どのような点だ
ろうかと、最近駒を並べて推定してみた。
 師子列を加えない11升目将棋を、列別に記載すると次のようになろう。
なお、前々回に述べたように、鉄将は、この時代には取り除かれていないと
仮定した。
段番□:⑪列⑩列⑨列⑧列⑦列⑥列⑤列④列③列②列①列
第1段:香車鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将香車
第2段:反車猛豹角行盲虎鳳凰酔象麒麟盲虎角行猛豹反車
第3段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王龍王龍馬飛車竪行横行
第4段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第5段:空升空升空升仲人空升空升空升仲人空升空升空升
第6段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第7段:空升空升空升仲人空升空升空升仲人空升空升空升
第8段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第9段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王龍王龍馬飛車竪行横行
10段.:反車猛豹角行盲虎麒麟酔象鳳凰盲虎角行猛豹反車
11段.:香車鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将香車
私の仮定した、108枚制の普通唱導集大将棋同様、92枚駒がびっしりと
詰まる。108枚制普通唱導集大将棋からは、前に述べたように概ね、猛牛、
飛龍、桂馬、嗔猪、歩兵(それぞれ4枚)が取り除かれ、猛豹(4枚)が
加わっている。
 それに対したとえば、96枚制の鉄将入り古中将棋は、次の配列になる。
段番□:⑫列⑪列⑩列⑨列⑧列⑦列⑥列⑤列④列③列②列①列
第1段:香車鉄将銅将銀将金将酔象玉将金将銀将銅将鉄将香車
第2段:反車猛豹角行空升盲虎鳳凰麒麟盲虎空升角行猛豹反車
第3段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王師子龍王龍馬飛車竪行横行
第4段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第5段:空升空升空升仲人空升空升空升空升仲人空升空升空升
第6段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第7段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第8段:空升空升空升仲人空升空升空升空升仲人空升空升空升
第9段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
10段.:横行竪行飛車龍馬龍王師子奔王龍王龍馬飛車竪行横行
11段.:反車猛豹角行空升盲虎麒麟鳳凰盲虎空升角行猛豹反車
12段.:香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車
なお両者の駒数の差は、2枚づつの師子と歩兵の追加である。なお、現存の
中将棋では、更に鉄将が減り、猛豹が1歩づつ下がって、92枚制となる。
さて、そうして両者を比べて結論を述べると、
 11列制では、自分の側についての龍馬角行が、互いに筋違いにならない
ため、6七(8九)龍馬と予めしておくと、相手の右辺を、龍馬2枚と角行
で、斜め攻めする手筋が見えるが、12列制では、龍馬角行筋が互いに筋違
になるため、

11列制では依然、相手の右反車を攻めやすいが、12列制では攻めにくく
なる。

そこで12列制にして、普通唱導集時代の端攻め定跡を、完全に無くそうと
したのが、12列という偶数列将棋を、敢えて中将棋の作者が作ろうとした
理由と、明らかに推定できると私は思う。
 そのため、特別な規則のアイディアを、恐らくもともと持っていた中将棋
の作者は、師子列を加えて、中将棋の初期配列を、ほぼ完成したのではない
か。つまり11列の奇数制で、自分の左右の角筋が、互いに筋違いにならな
い、11×11升目制の小さな中将棋は、9、11、13と、本来なら、小、
中、大将棋の升目数が、等差数列で並んで、もっともらしかったのかもしれ
ないが、実際にはそれで、ゲームとしては残らなかったのであろう。
 そして、私が推定するに、中将棋が12升目制になったために、等差数列
にしようとして、後日、15升目制の後期大将棋が、更に形式的に、作られ
たのではないのだろうか。
 その結果、自陣の段数が、段総数の、それぞれ1/3になり、小、中、後
期大将棋は、見栄えとしては、もっともらしい形として、書物にもかえって
全部、書き残される事になったのではないかと私は思う。(2017/06/29)


普通唱導集大将棋にはなぜ、元からの師子が無いのか(長さん)

私が13×13升目の普通唱導集大将棋を考える際、師子は麒麟の成りにしか
存在しないと考えた。しかし、師子の動きが、発明されているにも係わらず、
元からの師子の駒が存在しないと仮定するのは、普通唱導集にそれが、言及さ
れないという理由を挙げたとしても、恣意的ではないかとの、批判もあるかも
しれない。事実、将棋研究家の溝口和彦さんは、最初も成り駒としても、師子
の存在は論外と、考えておられた。この点について、私は少なくとも現時点で、
次のように考えている。すなわち、

普通唱導集大将棋の時代にも、元から師子の駒を、棋士は誰でもイメージでき
た。が、それが有ったとして直ぐに互い取りされると、当時は決めて掛かられ
ていた。そのため、麒麟の成りにしか存在し無いのは、不自然とは誰も考えな
かった

と、私は推定する。つまり、師子に関する特別な規則がイメージできるように
なったため、元からの師子駒が、中将棋になって、初めて使われるようになっ
たのだと、私は推定すると言う事である。
 従って、私は師子が存在する、12升目制中将棋が出来た時点で、ほぼ、そ
れと同時に、「取り返される師子は師子で取る事が出来ない」というアイディ
アを根本とする、”師子に関する特別な規則”の骨格は、出来ていたのだと、
推定している。
 つまり普通唱導集の作者でさえも、鎌倉時代中後期には麒麟の成りの師子が、
独立に元から存在する将棋を、イメージは出来たが、その将棋の師子は直ぐに
交換されて、元から存在しないに等しい駒と考えられたため、敢えて師子を、
彼が作った将棋には、加えなかったのではないかと、私は考えているという事
である。(2017/06/28)

中将棋の作者が普通唱導集大将棋猛牛、飛龍、桂馬、嗔猪を猛豹に交換した訳(長さん)

 仮説13×13升目108枚制普通唱導集大将棋が、仮に中将棋のルーツで
あるという考えが、正しいとすると、桂馬、嗔猪が、唱導集第2節で出てくる
事から明らかなように、普通唱導集大将棋の定跡発生の戦犯駒であるから、し
かたないにしても、猛牛と飛龍は”無実”であるはずである。しかし、中将棋
を作成した作者は、これらの駒を残さずに取り去り、代わりに猛豹を入れたと
考えられる。ではなぜ、わざわざ猛豹を考えたのであろうか。
 純粋にゲームが面白いかどうかという点に関して言えば、猛豹は猛牛であっ
ても、余り変わらないと私は思うし、むしろもともと角行の動きだったとみら
れる飛龍は、残した方が、良いくらいかもしれないと思う。ただし、猛牛は、
1升目に止まれない走りというのが、日本の将棋にはマッチしていなかったし、
飛龍は角行が存在するにもかかわらず、それとルールが同じになるのは、気に
入らなかったというのは、あるかもしれない。だから龍王や龍馬は、同じ龍駒
でも残されたのだろう。ただし、以下の点もあるのではないかと、私は思う。

結局、普通唱導集大将棋から、猛牛、飛龍、桂馬、嗔猪を取り除くと、減らさ
ない12支駒が、盲虎だけになってしまった。その為、12支のうちの2つだ
けを残すと、「古来より、12支の駒を、将棋駒へは使うべき」と主張する、
”保守派”から、「どうしてその2種類が、特別なのか」と、攻撃される恐れ
があるのを、避けるため

に、虎のメスと、当時は考えられた豹を新たに作り、「虎が龍並みに強いから」
と言う点が、強調できるようにした。また盲と猛でほぼ同じ意味のため、豹駒
は、名前を猛豹にした。
 つまり、ルールの都合ではなくて、名前の語呂合わせから、猛豹を作ったと、
考えられるのではないかと、言う事である。逆に言うと、豹駒は、12支駒で
削除しないのは虎駒、という局面になったとき、だけになって初めて、入って
いてしかるべき駒と、考えられたのであろう。だからやはり、普通唱導集大将
棋には、12支に含まれない猛豹は、無かったと結論した方が、良さそうだと
私は考える。
 なお鉄将も戦犯では無いが、取り除いた訳は上記より、解釈が難しい。ある
いは、当初、猛豹は現在の位置の前の升目にあり、後期大将棋の動きの鉄将は
存在して、中将棋は96枚制だったのかもしれない。ところが相手の龍馬と角
行に初期位置で、経路が当たっている竪行に、後退路があった方が、端攻めが
恒常化しないと、考えたのかもしれない。その結果、中将棋の成りが決まる直
前に、鉄将が取り除かれると同時に、猛豹がひょっとすると、1歩下げられ、
今の位置に、有るのかもしれないと私は思う。(2017/06/27)

補足・中将棋の成立以前に、天竺大将棋が無い根拠(長さん)

前回、中将棋の成立以前には、日本に原始平安小将棋以外に、偶数列升目
の将棋は無いと、私は述べた。しかし、現行で知りえる歴史的な将棋とし
ては、偶数升目のものとして、中将棋以外に、大局将棋、天竺大将棋の2
種がある。ただし大局将棋については、日本では江戸時代以前に、知られ
ていたとの記録の無い七国象棋ないし、荻生徂徠作成の、19升目の和製
広将棋の影響により発生したと見られる、弓兵、弩兵等が存在する。ので
この将棋は、江戸時代の作と推定される。なので南北朝時代より存在する、
中将棋よりは、大局将棋は明らかに後の時代の物である。では、残り16
升目制の天竺大将棋が、中将棋に、先行して存在しない理由として、明確
に挙げられる根拠は、有るのであろうか。一般には、水無瀬兼成の将棋部
抄に無く、その他天竺大将棋が、安土桃山時代以前に、文献に現われた例
が無い点を、挙げるケースが多いのかもしれない。ただし、水無瀬兼成の
時代には発見できず、その後どこからか、出てきたという可能性は、本当
にゼロなのであろうか。
 この点について、本日は補足を書く。すなわち私が根拠として挙げると
すれば、以下の点があると思う。すなわち天竺大将棋に存在する、事実上
不正行度踊りに近い働きをする、火鬼2枚、四天王(4枚存在可)、副将、
獅鷹、師子の9枚の、ジグザグ複数動き駒を含む将棋が先ず有って、それ
を調節して師子1枚だけが、ジグザグ動き駒である

1枚の駒だけ、ジグザグに複数動きをする中将棋だけが、後で結論的に残
る可能性は、ほとんど無いのではないか

と考える。たとえば、14升目程度の中間的将棋が存在し無い事が、根拠
になるのではないかと思う。つまりもしそうだとすれば、9枚が2枚とか、
3枚程度に散漫に減らされた、上記の升目数程度の将棋も、おおかた後に
残って、記録が残るのではあるまいか。逆に、師子が存在し、更に”特別
な規則”によって、それが余り消失せずに残る、中将棋の存在が、最初に
有って、しからば師子のような駒の数を、桁違いに増やしたら、という発
想から、天竺大将棋が作られたら、今見る形になるのだろう。私にはそれ
が現実のように思えてならない。ただし、南北朝時代以前の文献に、
天竺大将棋が現在は発見されていないため、上記の私の推定は、現時点で
の史料とは矛盾が無い。が何か別の史料、たとえば、鎌倉時代の遺跡から、
火鬼と書かれた駒が、将来出土してしまうと、上記の推定は、あっけなく、
修正を要するようになる事も、また確かではある。(2017/06/26)

中将棋の作者は、どうして偶数升目将棋が作れたのか(長さん)


中国・朝鮮半島の象棋の歴史記録が、岡野伸さんの自費出版した、世界
の主な将棋に載っている。それによると、シャンチーやチャンギの類で、
筋数が偶数路のものは、”原始象棋”以外には載ってい無い。また、日
本の将棋についても、恐らく中将棋を作成した、南北朝時点で、原始平
安小将棋以外には、偶数筋の将棋も無かったのではないかと私は考える。
これは、後期大将棋が、中将棋ができる以前に、存在しても後期大将棋
は15筋升目なので、同じことである。大将棋の謎と、これも少し外れ
てしまうのだが、この中将棋の謎についても、以下簡単に触れる。結論
からすると、

14世紀の時点で、ヨーロッパのチェスに近いゲームの情報が、伝わっ
ていた

と私は推定する。なお、私流の考え方で、なぜ中将棋が12筋になるの
かと言えば、

元からそうである師子を加え、角行をより下段に退けさせると、
13×13升目108枚制普通唱導集大将棋は、必然的に12筋になる

のである。
つまり普通唱導集で、嘲って(あざけって)唄われている、定跡発生に
関与した駒のうち、角行を、大駒列である3段目から排除するという、
アイディアに気がついたから、大・小のほかに、日本には、大将棋より
盤升目の少ない、中将棋が発生し得えたのだと私は考えている。
しかし、ここで問題にしているのは、

偶数升目だと、玉将をちょうど中央には置けないが、副官駒と並べれば
よいと、中将棋の作者は、誰に教わったのだろうか

と言う事である。むろん南北朝時代まで、8升目型の原始平安小将棋の
記憶が、残ってたとすれば、話は簡単だが。
 そうでないとか、また、私の現在ここで主張している説が、潰れたら
どうなるのだろうかと、ひとごとなのであろうが、考えてしまう。一番
簡単な解決方法は、

チェスのような升目のゲームも、日元貿易時に、鎌倉時代末期までには
伝来していて、偶数升目の外国のゲームを、日本人の特に、ゲームのデ
ザイナーは知っていた、と仮定する

事だろう。前回述べたように、元代の大陸との情報交換は、結構盛んで
あったようだから、マルコポーロの日本伝説も、ぼんやりとだろうが、
ひょっとすると、日本には伝わっていたほど、だったのかもしれない。
当然、日本人でも教養のある人間は、とんな国に分かれている等、詳し
い事は判らないにしても、日元貿易が存在して、書籍が輸入されている
以上、ヨーロッパが存在する事自体や、シャトランジ型の8升目ゲーム
が、存在するとだけ程度までなら、南北朝時代には判っていた可能性が、
かなり高いように、私には思われるのである。だから、中将棋のような
偶数升目の将棋も、発生できたのではなかろうか。外国の情報の、わが
国への流入が理由で、中将棋が12升目になった可能性は、かなり高い
と私は考えている。(2017/06/25)

日元貿易時代の外国遊戯の情報流入(長さん)

前に、元寇の頃には、日本と高麗の関係は冷えており、現代の日本と北朝鮮
の関係と同じで、駒数多数チャンギの情報が存在しても、元寇の頃には詳細
が輸入されないかもしれないとの旨の、仮説を述べたことが有った。実際に
は、普通唱導集大将棋が、升目の数で、平安大将棋と同じになりやすいため、
日朝関係が元寇の頃には、今の北朝鮮と日本との関係と同様に、冷えていて、
情報が限られていた方が、このブログの論旨にとっては、有利な事も確かで
あった。しかし、韓国歴史教科書研究会等編集の、2007年明石書店発行
の「日韓交流の歴史」(日韓歴史共通教材)を読むと、13世紀の日元貿易
と、14世紀の日明貿易との間で、遊戯関係の情報の日本への流入量に関し、
さほどの差が、で無いのではないかとの心象を受ける記述を、最近発見した。
 同著によると、貿易の形式は、明の時代には朝貢冊封体制に、日本も従い
対明貿易を行う等、13世紀の対元貿易とは違いが有るという。しかし結局、
日本が中国から、輸入する物品の内容を比べてみると、同書によれば、
 13世紀の対元貿易時の輸入品は、銅銭、陶磁器、茶、書籍、絵画
 14世紀の対明貿易時の輸入品は、銅銭、生糸、高級織物、書物、書絵
との物品名が記載されていて、

書物や”図関連”とか、情報を持ったものが、大陸からの輸入品にある事に
は、大差が無いように思えた。

だから、今の韓国・北朝鮮発の情報量も、元の時代と明の時代とで、差が
無いと、疑ったほうが良いのではないかと、私には思えるようになった。つ
まり、思いのほか日元貿易は盛んで、情報の停滞もなかったと、この書から
読み取れる、ようなのである。
 そもそも、今の日朝関係と異なり、日本と元・高麗の関係が、軍事的には
冷え込んでいても、交易は無くならないのは、蒙古が広大な領土を所有し
ていて、保持物品や情報量が、遠くヨーロッパ発にまで及んでいることを、
鎌倉幕府や朝廷も、当然知っていて、メリットを感じていたからであろう。
その点で後ろ盾が東アジアに限られる、中華人民共和国止まりの、現在の
北朝鮮とは、大きな違いがあると、気がつくべきだったと、同書を読んで、
私は反省させられた。
 だから、元の時代に仮に高麗で、15列14段制のチャンギが発明されれ
ば、蒙古襲来の頃であっても、情報が日本に入ってくる可能性は、かなり
高いのかもしれない。恐らく、

その結果、13升目制の平安大将棋の升目数を、日本人の大将棋棋士総体が、
たとえば15×15升目に変えると、認めるかどうかだけが、変化するかど
うかを、決めるだけなのかもしれない。

 認めないでくれるようにしないと、このブログにとっては困る訳だが。
認めなかったろうという立場に立ったとしても、証明するのは、厳密には困
難だと感じる。
 傍証として挙げられるのは、江戸時代に改暦の際参照された、グレゴリオ
暦と同じ回帰年、365.2425日を採用した元の授時暦を、高麗は
取り入れたが、日本の鎌倉幕府内で、改暦の動きは無かったという事位であ
ろう。
 つまり、たとえば西暦1220年頃の時点で、その400年程度前に完成
した宣明暦には、太陽の天球上の位置に関して、西へ1度のズレ(回帰年が、
約1/400日長すぎ)があった。それに無理やりあわせるために、月の
位置が1度西にズレた暦を、使わなければならないはずなので、角度で月の
大きさ2つ分、月の動きの時間で、2時間分の東西位置の違いを、検知でき
れば、三島地方暦の発端との仮説もある、鎌倉幕府の陰陽道の係りの役職の
御家人にも、鎌倉幕府の仮設の暦編纂所に於いて、星座に詳しければ、目視
で暦に誤差があるのを、検知できたはずである。しかし当時は、蒙古文化は、
月の位置に、相当注意しなければ判らない程度なら、ひょっとして取り入れ、
たがらない傾向が、有ったのではないか。そう仮定すれば、改暦が日本では、
蒙古来襲の頃が、良い暦が中国で出来た、絶好の機会だったはずにも係わら
ず、たまたまそれをそのときに、行わなかったのが改暦間隔の開いた原因か
もしれない。結果、宣明暦使用期間が、本来なら約400年のはずが、
約800年にまで、伸びてしまったのかもしれないと私は思う。そして江戸
時代には、宣明暦誤差が、鎌倉時代の2倍強に増え、それでも私には、どっ
こいどっこいの、検出に要する努力の差だと思えるのであるが、江戸時代に
は、蒙古への敵対心は、既に遠い昔の出来事と忘れ去られたため、暦誤差が
大いに問題になって、武家方の幕府によって今度は、改暦がなされたと、一
応は説明できるのかもしれないとは、考えた。
 つまり鎌倉時代にも、賢明な者による、元王朝の情報力の強大さから、
”大陸物は、たいがいは取り入れたほうが良い”という意見は、当然あった
のだろうが、

仮に、日本人はその時点での多数派が、今回引用した「日韓交流の歴史」の
言うように、仮に”夷狄観等の発展した朝鮮蔑視観を持っており”、よって
15×14路制チャンギ型が、仮に猛古来襲時程度に、完成伝来した場合に
は、それを参考に、上記の蔑視観が理由で、大将棋の転換をしなかった

と仮定できれば、そう出来た場合に限り、15升目型後期大将棋への、朝鮮
駒数多数チャンギゲームからの影響は無い、と証明できるにすぎないように、
思えた。以上のように、15×14路制チャンギ型広将棋は、室町時代にで
きたか、あるいは日本人の、排外意識等が、鎌倉時代の中期には強かったか、
どちらかの理由で、大将棋へは影響が無かったというケースにしか、無視は
出来なくなったと、私は腹をくくるに至ったのである。(2017/06/24)

1993年の発掘で、興福寺から16枚中4枚金将が出土したのか(長さん)

幾つかの遺跡では、駒がまとまって出ているため、駒個々の様子だけで
なく、出土した枚数のばらつきから、ゲームの種類を推定できる可能性
がある。天童市で作成された成書、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」
には、巻末に出土駒種類の集計が表に載っているので、それを見ながら、
駒種それぞれの、将棋種を仮定したときの、理論比率に対する、実際の
出土数のバラツキを、簡単に調べることが可能である。
 それによると、特に顕著な現象として、

①興福寺の1993年の発掘で、16枚中4枚金将が出土したとされる
のは、8升目制原始平安小将棋の道具と仮定したときの、期待値約1枚
に比して、有意に多い。

という事実がある。実はそれよりも顕著だが、
②一乗谷出土駒に、角行が理論数の約6枚のちょうど倍の、12枚出土
している、というのがある。しかし②については、ここでは特に、問題
にしないことにする。昨日のべたように、②から、ひょっとして、角行
を2枚加えた40枚制持ち駒型の小将棋や、角2枚と、中飛車の位置に
飛車の入る、3枚大駒の有る42枚制の小将棋も、実はあったのではな
いかと連想させるが、これは日本将棋の歴史に関連するだけで、大将棋
の問題からは、一応外れると私は思うからである。
 それに対して、興福寺の20世紀における発掘で、金将が多いという
方は、最初から金将を、一方にたとえば2枚入れた、升目が9升目の
将棋を、11世紀半ばに問題なく指されてしまうと、12世紀の初めか
ら半ば程度に、13升目の大将棋が、発生しなければならない理由が、
謎になってしまうため、このブログの流れに対する影響は、大きいと、
私は思う。興福寺で指された将棋では、16枚駒が出土するときには、
金将が、平均して1枚程度であるのが、このブログに今まで書いた内容
からすると、有っているかどうかと言う点では、好ましいのである。
 なお、偶然というのが数学上は考えられるので、確率計算をする必要
が、このような議論には、絶対に必要である。金将が出る確率は、元々
1/16と小さいので、偶然起こり得るばらつきの範囲は、
ポアソン分布表で調べられる数値に基づくものと、ほぼ同じ結果だろう
と、私は考えてみた。そこでポアソン分布表を引くと、
3つ出る確率は、ほぼ16回に一回、それに対して、
4つ出る確率は、ほぼ65回に一回程度である。
以下、あくまで私の感覚だが、このケースには結局、

3個までならなんとか許されるが、4個だと異常と見るべきだと思う。

なお、1993年の発掘で玉将もやや多く、3個出土している。王将と
半々だとすれば、確率は80回に一回位になり、王将は無いと見てよい
と思う。しかし、玉将が玉駒の全てとすれば、偶然としても仕方ない
数だと、私は思う。
 なお、こうした議論を続けていると、”粗捜しだろう”という批判も、
通常通り飛び出すだろう。ただ、出土駒の世界に関しては、平泉の中尊
寺境内遺跡と、大阪の高槻城三の丸遺跡の出土駒が、それぞれ8升目制
原始平安小将棋、日本将棋として、ほぼ正常な駒種割合となっているた
め、意図的に偏りを探しているという批判は、当たりにくいと、私は思
っている。
 では、平均して1枚しか出ないはずの、金将が、1993年の興福寺
の発掘で4枚出た原因であるが、以下いつものようにすばり、結論とし
ての、私見を述べる。すなわち実際には、

3枚しか金将は出土しておらず、成書「持駒使用の謎」に紹介されてい
る、清水論文の番号の付け方で、第7番の金将は桂馬であって、成りの
金将を表面と誤認している疑いがある

と私は思う。つまりこの駒は、何も書いてないと、説明されている駒の
片面の実際の写真を見ると、桂馬と書いてあるようにも、私には見える
という事である。なお、この駒が桂馬だとすると、桂馬とされる出土駒
の裏の書体が、特殊だと私が以前説明した事柄が、駒によってばらばら
で、特に規則性が無いと、変更もされるように思う。
 以上のように、特定の一枚の出土駒の駒種の推定に、仮に劣化が激し
いために誤りがあるとすれば、興福寺出土駒からは、将棋種の推定等は、
はっきりとは出来ない状態と、見るべきなのではないかというのが、私
の個人的な印象である。
 ちなみに、最近2013年に興福寺では再度発掘が行われ、酔象が、
駒で出土した事で著名である。調査すると、新たな出土駒は、

酔象、桂馬、歩兵、不明の4枚のようである。

1993年当時の16枚が20枚になりかつ、もともと、桂馬と歩兵は、
少なすぎる傾向で有ったため、状況が少し好転した。しかし金将につい
て、20枚中4枚では、ポアソン分布で65回に一回程度が、35回に
1回程度、玉将の20枚に3枚の方は、16回に一回が、11回に1回
になるだけなので、なおも桁は変わらず、ほぼ上記の結論で、良さそう
だと思える。(2017/06/23)

訂正・中将棋の成りの成立。初期配置が確定してから、ほどなくか(長さん)

かなり前だが、中将棋の成りの成立について、猛牛と飛龍が両方存在
しないと、竪行の成りの飛牛が、できないのではないかと、述べたこと
があった。実はその時点で、猛牛は飛龍の斜めを縦横に反転させた駒と
決め込んでいたため、後期大将棋が成立しないと、飛龍が2升目動きに
変化しないので猛牛が発生せず、中将棋の成りに、飛牛が作れないので
はないかと、考えていたからだ。しかし、現在は猛牛は、西暦1300年
前後の、普通唱導集時代の大将棋には存在し、当時は、酔象のシャン
チー象の古い時代の斜め動きを、縦横に反転させた駒だったのではな
いかと、私は考えるようになっている。そのため、後期大将棋が成立して
いなくても、新しい駒の名前としての飛牛が、作りやすくなると、考えられ
る。そのため、中将棋の多彩な成りの成立時期を、さほど後に、ずらさ
なくても構わないのに、その後気がついた。むしろ、

108枚制の普通唱導集大将棋を仮定すると、猛牛、嗔猪、飛龍、奔王
の既存の駒が存在すれば、中将棋の竪行と横行の成りの、飛牛、奔猪
という駒が名前を、組み合わせて作れるので、108枚制に増やした、
普通唱導集大将棋の存在が、よりもっともらしくなる

ように思える。出土駒を調べた範囲でも、中将棋草創期にはあったに
違いない、不成りの中将棋駒は、不確かな鎌倉鶴岡八幡宮遺跡駒
以外、出土している気配が無い。そのため、もともと、”室町時代早
期まで不成りの中将棋が幾分長く存在”という仮説には、無理があった
のかもしれないと思えてきた。
 しかしその結果実は、中将棋の成りの成立時期を、早く見れば見るほど、
今度は日本将棋の成立時期の推定が、早まるという影響が、当然出る。
何故なら、

龍王、龍馬という飛車と角行の成りが成立してから、持ち駒有型9升目
制平安小将棋へ、これらが取り込まれた

と考えるのが、ルールの微調整段階で、変種が複数出来た気配の余り無
い、日本将棋の性格上、そう考えたほうが自然と、私が見るからである。
 ではなぜ、中将棋の勃興と、日本将棋のはっきりとした出現は、定説
では西暦1400年頃と西暦1500年頃というように、100年位も、
差があるのであろうか。事実だとすれば不思議であるが、原因が、

中将棋の成り駒の成立が早くなると、阻害要因がはっきりしなくなる
ため、私には良く判らなくなった。

ただ、このブログのテーマからは、この問題は少し外れるので、今は多
くを、述べ無い事にしたい。一応、私流の推量を先に書くと、
龍王・龍馬成りの飛車角の代わりに、飛鷲・奔猪成りの龍王と横行
とか、飛牛・角鷹成りの竪行と龍馬とか、いくつかパターンを変えて、
それぞれ平安小将棋を持ち駒ルールで指してみて、日本将棋並みのゲー
ムが、万が一複数作れるようなら、加える大駒を

飛車角の組み合わせにするよう決定するまでに、時間が掛かったため

と言えるように、一応は思えるとだけ指摘する。(2017/06/22)

なぜ今の天文マニアと違い、囲碁が打てると持統天皇に好かれたのか(長さん)

何回か前に、私は囲碁の日本に於ける起源に関し、奈良時代の少し前の
持統天皇の時代に、日本で定朔の儀鳳暦を採用すべきかどうかを判断する
ため、月の視位置の観測が不可欠となり、恒星の並びを即座に判断する
練習の一つとして、囲碁が推奨されたのが、原因ではないかと述べた。が、
この仮説には、更に突き詰めると、次のような難点が浮かぶ。すなわち、

現代の天文マニアが通常、「星座に詳しい」のは、囲碁が上手になるよう
な感覚が、備わっているからでは特段無い

という事である。つまり恒星の配列の把握に慣れるのに、囲碁の局面把握
の感覚は、特段必要とは、通常特に指摘されたことは無い、という事であ
る。それは、戦争をする最中、戦略を練る時に、少なくとも雰囲気として
役立ちそうな将棋とは、かなり違う点である。そこで私の推論が、おかし
いのかどうかを、ここでは再度問題にする。結論を書くと、

西洋の星座と中国の星座とは、具体的に性質が大きく違い、後者は抽象的
で、名前で意味する人や物の形を、星の並びが象徴する傾向が少ないため、
現代の「星座に詳しい」とは、条件が大きく異なるのではないか

と私は考える。西洋の星座は基本的に、並びの形を、名前で示した人なり
物の形に、見た結果として、その名前で呼ぶという、性質のものである。
しかし適当に、天文学史の書籍を参照すると明らかだが、中国流の日本で
朝廷が用いた星座は、天を宮中に見立てて、帝を中心に、星の幾つかの束
に、具体的な物の形との類似性は二の次にして、多分に無理やりに、役職
名等を割り当ててたような、命名法になっている。つまり星座の形を見て
も、名前と自明な対応が、中国流の星座にはほとんど無いのである。つま
り、形は抽象的で線で、恒星を繋いでも、その形には、たいてい見えない
ものなのである。その為

抽象的で、具体的な物の形には必ずしも結びつかない、幾つかの星の束の
配列を、なんらかの意味付けをしながら暗記する能力

が、西洋流の現在用いている星座を覚えるのと違い、西暦700年より
少し前の、月を観測する役人には、強く要求されたと考えられるのである。
 だから、囲碁のゲームを、私のようによく知らない者が、「この形では、
死んでいるとか生きている」とか言われても良くわからない、囲碁の石の
「この形」の配列を、多数暗記する能力は、中国式や、日本でも江戸時代
になると、幕府の天文方によって真似られた、官製の日本式の星座に
”詳しくなる”ためには、すこぶる適した能力と、当時は見られたと、
考えられるのである。
 なお蛇足だが江戸時代になると、民間の特に船乗りは、形が具体的に
名前の物といっしょになる、メソポタミアで生まれた西洋星座と、同じ
ような感覚で、星の配列を名前の形で呼ぶ、いわゆる「日本の星」も、
古典的な「すばる」のような少数例に加え、多数生じたと聞いている。
 以上のように、少なくとも飛鳥時代の日本では、西洋の88星座では
なくて、中国流のもっと形が抽象的な星座の中に居る、月の位置を観測・
把握する能力が必要とされたために、囲碁が匠に打てることは、やはり
”日本の中枢の意向に沿う”役人の個別能力と、その当時は見られていた
のではないかと今の所考えて、誤りは恐らく無いのではないかと、私は
見ているのである。(2017/06/21)

桂馬跳びの動きと桂馬の初期位置の謎(長さん)

日本の古い時代の将棋で特徴的な点の一つに、桂馬の動きをする駒が
少ないという事がある。実際桂馬跳びをするのは、幾つかの将棋種に
ある、桂馬自身と、和将棋にある、風馬の成りの天馬位である。しかも
天馬の場合、たとえば、ものと人間の文化史23-1将棋で紹介され
ている、象戯図式の和将棋では、「桂馬跳びの動きをする」と解説さ
れているにも係わらず、図示では桂馬跳びと表現されていない等、不可
解な駒である。特に日本の将棋には、正面動きを方位角0度として、
方位角約26.5度のX=+1、Y=+2の動きの桂馬は有るが、その
他の方位角、たとえば約63.5度のX=+2、Y=+1の動きの駒が、
全く存在しない。ようするに桂馬跳びの駒は、存在が桂馬以外には、
はっきりしないのである。理由は前に述べたが、結局、小将棋以外は、
文書でゲームのルールが伝わるだけで、口伝では、歴史の途中で、
どのゲームも伝承が、どこかで途絶えている証拠なのではないかと、
私は思っている。墨と筆で駒の動かし方のルールを、桂馬跳びルールは、
縦か斜めの場合に比べて、表現し難かったのだろう。
 そのために、桂馬跳びの駒の記憶が、桂馬以外には、100年という
タイムスパンでは、伝わり難かったので、有っても消えたと私は考える。
水無瀬兼成の将棋部類抄の、桂馬の動かし方ルールの表現が、方位角
45度になって問題になっているのを、その証拠の一つと見ていると言
う事である。
 ところで、桂馬跳びをする、事実上唯一の駒である桂馬には、

摩訶大大将棋で、相アタリする4段目位置に、相手と12段差で配列さ
れている

という別の謎もある。他で、桂馬が相アタリするゲームは、標準型の
平安小将棋、現代の日本将棋、朝倉小将棋、平安大将棋、13升目型の
仮説普通唱導集大将棋である。なお、中将棋と大大将棋には桂馬は無く、
天竺大将棋と泰将棋、それに15升目型の後期大将棋は、8升目型で
段差が7段の原始平安小将棋同様、それぞれ天竺大将棋が15段差、
泰将棋が22段差、後期大将棋が14段差となっていて、それぞれ
桂馬が、相アタリしない位置に、配列されている。

これらの事実には、何か理由が有るのだろうか

というのが、今回のメインテーマである。そこでまず結論を書くと、
13升目型の平安大将棋と、15升目型へ移行する直前までの、仮説
普通唱導集大将棋で、桂馬の段差が12段なのは、9段型の標準平安
小将棋で相アタリする結果、ある程度の何らかの回避手筋が、確立さ
れ、

その後で作られたゲームのために、手筋が類似になるよう、上位互換
性を持たせるという意図で、12段差が選択されたという理由も、何
か、有ったのかもしれない。更に、摩訶大大将棋で12段差なのも、
同様の意図が、こちらにあるのは、むしろ濃厚なのかもしれない

と私は、薄々だが考えている。
 ただし具体的に、9升目型標準平安小将棋の”桂馬相あたりの回避
手段が、どういうものなのか私には、はずかしながら考えても、実は
良く判ってい無い。
 何れにしても、そのような意図が有って、桂馬の位置を決めている
とすれば、

摩訶大大将棋も、後期大将棋とは違って、実際に本気でゲームする事
を狙って作られたゲーム

と言う事になろう。また15升目型の後期大将棋は、飾り物的なゲー
ムであり、実用性が希薄な証拠の、あるいは一つなのかもしれない。
 個人的には、桂馬12段差型は8段差に比べて、桂馬同士のすれ違
いの確率が、実戦上は増えるので、同じでは無いと考えている。桂馬
段差4の倍数型でも、8段ではなくて12段差にしたのは、あるいは、
すれ違いの確率を、適度にするための、調節なのかもしれないと思う
が、私には良くわからない。そもそも、攻め駒が増加すれば、桂馬の
駒価値は、相対的に低下するので、そのせいで後期大将棋が、つまら
なくなっているという可能性も薄いと思う。が、この事自身に、何か
情報が含まれている可能性が、絶対無いとは言い切れないと思うので、
各将棋の桂馬位置については一応の注意は要すると、現時点でも警戒
してはいる。(2017/06/20)

平安大将棋の陣形が凸型の兵棋なのは、武経総要の挿絵図がもと(長さん)


前回このブログで書いた、日本の大将棋の類の全体としての陣の形が、
兵棋の凸型になっている問題について、その後予定通り更に調査した。
 中国の史料だが、戦争時の兵法について書かれた官製の書が、

日本の平安時代後期の宋の時代、すなわち西暦1040年頃の、程よい
時期に作成されており、その書には兵の分散のさせ方、いわゆる戦陣に
ついての説明が、書の中に、珍しく文章ではなく、図として挿入されて
いる、

との情報が、幾つかの現代の、日本の百科事典により得られた。中国の
当時の宋の時代の書籍の名前は、本日の表題のように”武経総要
(ぶけいそうよう)”と言うようである。
 平安大将棋が作成されたのは、恐らくその数十年後であるから、
この書の”戦陣を図版という図で示す”という、アイディア自体が存在
するので、私はそれがあれば、日本国内で、兵棋型の凸型戦陣キャラが、
発生するのは、必然だろうと私見された。すなわち、オリジナルの武経
総要における、戦陣キャラの形が、たとえ少し違っていても、日本人が
適宜、凸型の戦陣キャラを、西暦1100年頃までには考え出す事は、
充分可能だと結論したという意味である。
 なお、実際の書の図は、現時点で私には確認できていない。webで
同書は、中国のサイトで紹介されている。それによると、日本の現代の
百科事典に記載の”戦陣図”は、武経総要の第8巻に、載っている事が
判る。ただし、そのサイトに図そのものは、今の所抜けているようであ
る。それに対して、武経総要を紹介した日本の現代の書物に、古代の兵
法の戦陣図が、おそらく、武経総要の第8巻の図をまねて記載されてい
る。それによると、戦陣は凸ではなくて、基本長方形になっている。
 むろん宋の時代の武経総要は、私が確認できていないだけで、現存は
する。ので、図絵の正確な内容は、私には、たまたま現時点で判らない
だけである。
 そこで仮に、武経総要の挿絵図の、戦陣の形のキャラが、凸型ではな
くて長方形とする、私の現時点での懸念が正しかったとしても、日本人
が、それを見れば、戦陣を他人に説明するのに、図を使うというアイデ
ィアが、西暦1050年前後以降には、当たり前になると、推定できる
と私は見る。実は、それが大切だと私は思う。何故なら日本で、何人か
が武経総要を真似て戦陣図を書いているうちに、長方形から凸型に変え
た方が、正確に見えるのに数十年時間があれば、その間に当然、気がつ
くに違いないと、思われるからである。特にそれを学習する者が、将棋
を指す者なら、将棋駒が長方形ではなくて、五角形である事から、戦陣
印が図で、敵味方のどちらの戦陣について、書かれているのかについて、
長方形を五角形とか凸型に変えれば、より正確に、相手に通じる事には、
すぐに、気がつくに違いないと、容易に推定できるからである。
つまり、

凸型戦陣キャラを、平安時代に、武経総要の挿絵図を見て、必要に応じ
てそれを少し改良し、日本人が、戦陣形の学習用に考え出していた可能
性が、相当に高い

と私は思う。そうした平安時代の和製の、今は伝わらない学習用の図を
見て、平安大将棋の作者は、孫子の兵法にも載っているという、スパイ
を意味する注人を、彼の作成した平安大将棋には、加えたのではないか。
従って、やはり平安大将棋に始まる、小将棋を除く日本の将棋の、初期
配列の全体としての、凸型配列は、日本人が平安時代の末期に使った、
今言う兵棋の、今と、たまたまほとんど同じ凸型の形に由来する、と見
て、やはり良いように、私には思えるのである。(2017/06/19)

なぜ平安大将棋の初期配列は、全体として”部隊記号”の凸型なのか(長さん)

小将棋では、注人や仲人駒が無いため、全体として、将棋の初期配列が長方形
になっている。それに対して、日本の昔の将棋は駒数多数将棋を中心に、いわ
ゆる六将棋、禽将棋等が、注人、仲人、燕の駒等が、でっぱりを形成するよう
に、余計に加えられている。また和将棋でも、隠狐と走兎を、入れ込んだため、
雀歩が2箇所、でっぱりが出来ている。そのためにこれらの将棋では、全体と
しては、初期配列の陣は凸型の配列になっている。これは、いっけんすると、
いわゆる部隊記号の、凸型にちなんでいるように見える。他方、ミャンマーの
将棋”シャトゥイン”のルールを見ても明らかだが、凸型配列が、ゲームの性
能を上げるための、ルールの改善の結果、必然の形だとは特にいえない。そこ
で私は、溝口和彦さんの将棋のブログで、かつて、これらの将棋のこの凸型配
列は、兵棋演習の部隊記号型の兵棋に、起源があるかのように、コメントして
しまった事があった。ところが、良く調べてみると、部隊を表す凸記号は、戦
国時代の陣形布陣を表す歴史書で、現代ではおなじみだが、どんなに古く見積
もっても、せいぜい日本では江戸時代の、しかも外国産であって、ドイツにし
か、歴史が遡れないという話が、webに出ている事を知って、困ってしまっ
た。特に一番古い平安大将棋に、注人の”でっぱり”がある事を、説明できない
点が、深刻で有る。残念ながら、

この問題については、現在回答が出来ない状態である。

 この記号が中国の古代の兵法書に、絵解き図として使われていても、特にお
かしくは無いような気も、個人的にはする。だが、部隊を表す凸記号が、戦争
時の作戦シミュレーションとして使われたのが、日本では江戸時代のプロイセ
ンで始めてであると、中国系サイトにも、どうやら書いてあるようだ。つまり、

兵棋演習の駒の形から、たとえば平安大将棋の、凸型配列モデルが作られたの
ではなくて、チェスの類が最初に有って、それが発展して、部隊記号型の兵棋
を使う、兵棋演習が出来た

というのが、定説のようだ。つまり、平安大将棋が成立した時代には、兵棋演
習の”凸記号”は、存在しなかった疑いが、残念ながら今の所、濃いと言う事
になる。
 しかし古代中国では、戦争の始まりは、平安時代に比べて極めて古いから、
凸記号が、中国では絶対に発生しないとまでは、いかないのではないかと、私
は今でも、諦めきれずにそう考えている。特に私の場合、私の13升目108
枚制普通唱導集大将棋の配列の輪郭の内部に、駒がびっしり充填していて、兵
棋の駒の形、そのものであるため更に深刻だ。ようするにこの問題については、
現時点で私にとって、個人的に暗礁にのりあげた状態にある。しかたがないの
で、ときを見て、更に詳しく調べてみるつもりでは居る。(2017/06/18)

普通唱導集の小将棋・大将棋の作者の知っていた他のゲーム(長さん)

普通唱導集は鎌倉時代後期の西暦1300年頃に成立したものと、推定
されている。既に述べたが、その大将棋部分の第2節は、中国シャンチー
や韓国チャンギの戦法と、同じような手を、それが大将棋でも旨く行く
ため、両方指せる棋士によって、作られた戦法を記述していると見られ
る。ではたとえばほかならぬ、小将棋の部分の作者自身は、中国シャン
チーや、韓国チャンギは、ある程度指せると、推定できるのであろうか。
以下、個人的意見であるが、

小将棋部分の作者は、シャンチーとチャンギのルールは、以下の根拠で
知っている

と、私は推定する。それは、普通唱導集の小将棋の第1節の内容から
見て、他国のゲームを知って、作ったと考えた方が、自然だからである。
すなわち、

平安小将棋持ち駒有り型、中国シャンチー、朝鮮チャンギの中で、歩兵
が最も強い駒に成るのは、日本の平安小将棋であり、かつ、河ではなく
て聖目を跨ぐと成るのが、日本将棋だけであると、比較をするかのよう
に、描いているからである。

なお、小将棋の第1節目の後半は、成書で示されているように、前半と
のつながりが、難解だと私も思う。が、将棋盤の聖目のうち、相手側の
方に打たれた、”星”のある段で、小将棋では成るという情報が、第1
節後半に、含まれることだけは、間違いが無いのではないかと、私は思
う。結論として第1節は、前半の”と金は強い”という点が、読み手に
理解出来れば、言いたい事はだいたい通じていると、私も見ている。
たとえば、故溝口和彦さんも、彼のブログでかつて、

金将という強い駒に成る歩兵を含む小将棋の、ゲームとしての楽しさが、
第1節では表現されている

等と、彼の解釈を書いている。
 しかし他方、少なくとも、歩兵が金に成るだけでなく、敵陣が、盤の
向こう3段目からであるという特徴が、特徴と感じられて、それを丁寧
に唄っているのであるから、普通唱導集の小将棋の作者は、シャンチー
やチャンギのルールを、唱導集を作成するとき、意識していると見るの
が、よって、より自然だろうと私は見る。
 また小将棋については、この第1節から、西暦1300年頃の時点で
も、平安小将棋が指され始めた経緯には、兵駒の他の国のゲームよりも
強く成って活躍する点に、何か原因あるらしいという記憶が、残ってい
た事も又、示しているのではないか。つまり詳細には、判らなくなって
いたにしても、少なくともぼんやりと、”西暦1000年頃に、何か
あったらしい”という記憶が、だいたい300年後には、まだ残ってい
た一つの証拠と、言えるのではないかと、私は疑っているのである。
(2017/06/17)

王将の起源(長さん)

平安時代11世紀のものと、考えられている興福寺出土駒の玉駒は玉将で、
一般には、この時代には”王将”は無かったとされている。では何時・何故
玉将の一部が、王将になったのであろうか。以下このブログの通例どおり、
学会では全く無名な私説を、結論的にまず最初にずばり書く。すなわち、

院政期に院政派が、王将の使用を進め、天皇等日本の中枢の威光を借りて、
玉将を王将に変えようとしたが、藤原姓の一族が、その後も、玉将を使い
続けたため、うやむやかつ、並存状態で、今日に至っている

と、私は見る。それを確かめる最も簡単な方法は、全国の将棋駒出土状況を、
たとえば、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”等の成書で、チェックすれば
良い。すると、

京都府と滋賀県では、ほぼ”王将”だけが出土している事で、簡単にこの説
の真偽が確かめられる。

ようするに結局の所、朝廷は後醍醐天皇に限らず、軍隊の中心人物、たとえ
ば征夷大将軍には、概ね皇族をすえたかったのである。実際には、鎌倉時代
については第4代からは、親王格の皇族が形式的にせよ、将軍職に着いてい
たので実際上も、この国では、天皇家の面目は、一応たっていたとは言える。
では、なぜ玉将が嫌われたかと言えば、将棋が勃興した一時期、

平安時代中期の藤原道長/頼道時代には、実際には藤原摂関の意向を忖度し
て、国軍が動いていたから

である。院政期に、上記の論からすると、元帥格の摂関の長と同一人物であ
るのが、私に言わせると自明な将棋の玉将が槍玉となり、当時は前記のよう
に征夷大将軍に、任命される人間の適任者と、朝廷内では考えられていた、
”武芸達者な天皇の息子”をイメージする、親王的”王将”に、名称を変更
するように、宮中では推進されていたものと、私は推定する。なお、実際の
出土駒を見ても、その最も初期の”王将”出土駒について、

京都府の上清滝遺跡の”王将”は、平安時代末のものと推定されるし、少し
後とも考えられている、同じく京都府にある鳥羽離宮遺跡の”王将”も、
鎌倉時代草創期位のもので、かなり院政期には近い。

よって、私の”院政期・朝廷で王将成立説”は、出土史料の使用時代の推定
とも、特段矛盾がないのではないかと考えている。
 次に、藤原姓の子孫だけが、玉将を使い続けたのは、院政派により権力を
奪取されるのを嫌っただろうから、当然なのである。主として彼らが、支持
したとみられる、本ブログの中心的題材である、駒数多数型の将棋には、よ
って本来、王将は、全く使わないのが慣わしだったろうと、私は推定してい
る。
 それは藤原姓の人物の一人、その末裔である水無瀬兼成の将棋部類抄では、
玉駒が全部玉将になっている事、冒頭で述べた藤原氏関連寺の興福寺出土駒
に、関西圏でありながら、王将が、全く出土しない事からも、良く示されている
のではないかと、私は思う。
 むろん以上の王将出現の原因となった、皇室と藤原摂関との、歴史の通俗書
には皆、出ている、11世紀初頭からしばらく続いた軋轢は、近世の江戸時代
ともなると、

大江匡房のした事が、忘れられると同時に、”以上の観点での王将か玉将か”、
という事については、どうでも良くなってしまったのだろうと、推定される。

 そのため実際、江戸時代の駒数多数将棋の将棋本には、玉将/王将が、ほ
ぼランダムに使われるし、東京の遺跡の出土駒の玉/王比は、ほぼ1:1に、
なっているのだと、私は以上のように推定し認識するのである。(2017/06/16)

下河辺荘新方の歴史講演会(2)(長さん)

6月7日に引き続いて、埼玉県越谷市郷土研究会顧問の加藤幸一氏に
よる、表題の講演の聴講をさせていただいた。内容は、
埼玉県越谷市大吉(おおよし)~埼玉県北葛飾郡松伏町田中付近の近
世・近代の歴史と、付近を流れる古利根川との関連についてが、ほぼ
中心であった。
 が前回、新方郷の鎌倉時代の歴史について、話の出た、
埼玉県越谷市向畑と、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に掛かる、
堂面橋付近とも推定される、鎌倉時代中期の、荘園中心”十丁免”に
関する、補充史料の紹介も有った。埼玉県越谷市向畑の廃寺に、”極
めて古い仏像”が、非公式に存在するのを、加藤先生が、個人的に
知っているというのが根拠であった。しかし写真で現物が、実際に
あるらしいことは、私にも判ったが、

具体的に仏像が、現在何処に確かにあるのか正確な情報は、盗難防止
の為公開できない

との事であった。非公開な点が多い事は、誠に残念な事であり、これ
では学術的には、証拠になりにくいのではないのだろうかと、個人的
には、この情報の行く末が心配・懸念された。その他、埼玉県の石仏
に、”西新方”の地名が、彫られたものがあり、下河辺荘新方郷は、
東西2つに分けられていた事が、ほぼ確実視されるとの、話もあった。
なお、埼玉県越谷市恩間は、比較的現在の、元荒川付近に近い所に
あるため、西に属する事はほぼ確かであろう。よって、だいたいの
見当では、戦国時代に新方氏の館の有った、埼玉県越谷市向畑のあた
りが、東の中心になりそうな事は、そう言われれば、そうも言えなく
も無いように、感覚的には、私にも思えた。
 なお、下河辺荘新方郷を2つに分けたのは、鎌倉時代中期に、下河
辺氏が、鎌倉幕府の役人へ荘園の荘司から転身した後、それを引き継
いだ金沢氏や、氏寺の称名寺が、鎌倉に住んでいる者の目線で、定め
たもののようだった。

 だからそこに、そもそも下河辺行光の館に関する情報が有るとは、
最初から、余り期待できないと言えば、できないのかもしれないと
私は思った。

 更に埼玉県越谷市向畑の廃寺の仏像の出土地点を、鎌倉時代の荘園
の中心地とする根拠にする点であるが、茨城県結城郡五霞町釈迦と、
小手指の間付近に相当古く、古代にも遡るとされる仏像と、推定され
ているものが、現地に存在するという話を、私は一般向けの史跡案内
書で読んでいる。しかしながら、五霞町小手指~釈迦が、同じく
五霞町元栗橋に比して、少なくとも中世に、下河辺荘野方の、中心の
あった場所という事を、

その仏像の存在で、そう推定するという話には、特になっていなかっ
たように、私は認識している。

 よって、埼玉県越谷市付近にあった、近世の旧新方郷地区のあたり
のうち、特別に埼玉県越谷市向畑(字)堤外付近を、そこだけ狙うと
いう考えは、とんでもない所から、ミニチュアの五色宝塔が出土した、
埼玉県児玉郡美里町の例から見ても、余り賢明な、更なる史料の探し
方とは、必ずしも言えないように、私は2回の講演を聞き取り、一応
結論付ける事とした。(2017/06/15)

平安小将棋の馬と車の修飾詞はなぜ、桂と香なのか(長さん)

ほぼ定説によると、日本の小将棋は鎌倉時代の草創期頃、片方に将駒が4~5
枚、馬駒が2枚、車駒が2枚、兵駒が8~9枚で、構成されていたとされる。
このうち、前に述べたように、馬、車、兵に、日本人が輸入後、桂、香、歩の
修飾詞を付けたらしいと、私は考えている。ただ、兵駒については、動かし方
のルールから”歩”にしたのは、ほぼ異論が無いのではないかと思う。しかし、
桂、香については、解明がこれほどには簡単ではない。かなり有力な説として、
駒の名称の桂と香も、仏教用具に起源を求める説が先行して存在する。しかし
お香は仏教から連想するのは容易だが、桂の方はどうであろうかと、私は疑う。
 他方、中将棋、大将棋と、このブログで題材にしている、駒数の多い将棋に、
なればなるほど、必要な修飾詞の数も増加する。のでその類推から、逆に
桂と香の謎が解けないのかと、考える向きもあるかもしれない。しかし、香に
ついては、象駒に別例があるだけ。桂については、他に転用した別例が、余
り知られてい無い。しかも、駒数多数将棋には、逆に同じ修飾詞、例えば”奔”
”猛””飛”を付ける例が、複数ある等、ケースバイケースで、そのつど、修
飾詞は適切なものを、いつも考えていたとも言えない、議論の不規則性がある。
そのため小将棋で、仏教とのつながりは自明でない馬に、なぜ桂をつけたのか。
車のうち、日本で使われたのが、最も早かったものが、なぜ香なのか。ヒント
になるような情報が、そもそも少ない事が、調べてみれば、少なくともほぼ、
だいたいの方に、納得される状況なのが現実ではないかと、私は認識している。
 その証拠に中将棋駒名との比較から、桂や香を論じている例を、私は少なく
とも知らない。また大局将棋では、他のいわゆる、大大将棋等の六将棋で使わ
れている駒は、たとえば、蟠蛇・猛熊の成りを奔蛇・奔熊ではなくて、蟠龍・
大熊に変える等して、伝統的な駒名の成りを、大局将棋の発案時とみられる、
駒の系列とは区別している。これは察するに、成り規則を敢えて変則的にし、
”江戸時代の人間は、これら六将棋の駒名の起源は、知らないので、成りを、
大局将棋固有駒と、同一のパターンにする事はできない”と、主張するかのよ
うに、工夫していると思われる、フシがあるのである。
 以上のように、相当に困難な”桂”と”香”の字の謎であるが、とりあえず
私は、前回述べた、原始平安小将棋の輸入当時の立体駒が、馬は材質が桂の木
の木彫り、車は、貴族の使う人力車のような形に、精密に細工されていたので
はないかと思っている。その修飾詞の”孤立した使われ方”から、こう考える
のが、最もすわりが良いのではなかろうか。ただし繰り返すが、証拠を挙げる
のは、”藤原摂関用黄金の将棋具”の存在自体が仮説であるから、現時点では
非常に困難である。
 ただ、これではあまりに平凡で、大宰府の将棋仲間の心中に、駒名に関して
強い印象を残すには、名前の付け方に工夫が、多分に足りないのではないかと
懸念している。そのため、この”桂”と”香”には、もう一ヒネリが、ネーミ
ング時に、隠されているのかもしれないと疑っている。以下、私の考えた、
仲間に将棋の駒の新作名を、忘れさせないようにする、もう一ヒネリとは、
やはり藤原摂関用贈答品高級将棋具の、オリジナルな作りの別の性質に関係し、
次のような事があったのではないかと、想定する事から出発している。
すなわち、

「貴金属駒を多数使った、立体駒将棋道具では、何と将棋駒ばかりではなく、
将棋盤も超高級で、”桂”材を用いて作られた一級品だった。そのためその盤
は、芳しい、本当に良い”香り”がした。」

という情報を、摂関用原始平安小将棋立体駒付き将棋具に、実際に接した事の
あった、大宰府の古株の将棋指しが、新参の棋士への語り草として、話を聞か
せるつもりで、馬と車の駒名に、桂、香の修飾詞を洒落て付けてみた、という
アイディアである。
 むろん、桂馬の元となった馬駒も、桂で同じ材質なら、同じ桂の芳香が有っ
たのだろう。だが駒より盤の方が大型で、体積も表面積も大きいから、芳香は
盤からの方が強く、近くに居るだけで、気が付いたのではないかと私は考える。
馬は桂の木の木彫り、車はデザインが、貴族用人力車である事も確かだが、
将棋盤の性質についても、駒名に入れ込んで、後輩も興味を持っている”黄金
の原始平安小将棋道具”に関する情報を、増やして見せたのではないかと、言
う事である。
 以上は、証明は現時点では無理だが、酔象から後の、将棋駒とは、全く別の
命名系列であるため、桂馬と香車については、伝来時の個別の何らかの事情で、
その名前に、たまたまなっている可能性も、完全には否定はできないのではな
いかと、私は考えているのである。(2017/06/14)

8×8升目32枚制原始平安小将棋(仮称)の立体駒成り表現(長さん)

現在日本の将棋は、五角形駒を使用し、成りは駒の裏に字を書いて示して
いる。前に述べたように、私はこの将棋が、鉱山国家、中国雲南省に、
かつて存在した、大理国から来たゲームであるとみる。そして大理国では、
立体駒で、ゲームが行われていたと、推定している。経帙牌でゲームを
するというのは、私の説だと、日本人、特に九州大宰府の僧ないし、武家
の発案である。これに関して、かつて将棋史研究家の(故)溝口和彦さん
は、「立体駒では、成りが表現しくいため、日本の将棋が、チェスのよう
に立体駒で、指された事は無かった。」との旨、何回か主張されていた。
そこで今回はこの、立体駒での成り表現について、考えてみる。私は、
オリジナルの大理国の将棋具でも、そこまでそうであったとまでは、敢え
て言わないが、日本に最初に輸入された立体駒将棋道具については、
少なくとも、

金将駒は30枚作られており、初期配列では2枚使用、残りの28枚は、
並べて盤の横に、これらの黄金駒が成り駒として使われるまで、整列待機
させるような、控えの陳列の座までが、恐らく作られていた

と推定している。つまり北宋の商人が、藤原摂関の贈答品として持ってき
た、原始平安小将棋の駒では少なくとも、成るたびに、全部駒を交換して
いたのだと思う。溝口さんが、駒を交換して成りを表す事に、かつて言及
されなかったのは、彼には持ち駒ルールしか、念頭に無かったからである。
だが、8升目制の原始平安小将棋が、取り捨てルールだと認めてしまうと、
相手の駒を討ったときに、成る前の駒を探して戻す、めんどくささがない
から、せいぜい回り将棋で、駒を取り替えるのと、この成り表現では、手
間は同じレベルになる。だからそれで、特に問題はないと私は考えている
のである。なお、私が、藤原摂関用の立体将棋駒贈答品が、金将30枚1
セットであると考えているのは、次のように考えているからだ。すなわち
北宋商人が運んで来たに違いない、藤原道長なり、藤原頼道用の贈答品が、

それほどの、きらびやかな黄金の将棋具であるからこそ、都で金将に成っ
て、彼ら摂関の副官として西暦1020年頃に出世した、かつての同僚な
り上司の、藤原隆家に自分も続こうと、大宰府の国境警備兵の武士達は、
経帙牌で、敵陣3段目で歩兵が金に成る、原始平安小将棋を熱心に指した
のだ

という事なのではあるまいか。むろん、彼らの使用する、経帙牌へ字を書
いて、立体金将駒等を表現した、オリジナルの贈答品よりは、はるかに地
味な将棋道具には、牌の在庫数にも限りが有った為、また実際には、その
方がむしろ、当然便利な事にたまたま気が付いて、裏に字を書いて、成り
を表すようにしたのであろう。
 すると、敵陣の金将が、ただの金将ではなくて、と金である場合には、
それが直ぐに判るという効果が新たに生じた。そのため、ますます将棋を
指すとき座が盛り上がって、将棋が大宰府では、更に盛んになったに違い
ないと、私は思う。
 なお同じく溝口さんにより、タイのマークルックの兵駒が、ひっくり返
して副官駒に成る仕掛けの、立体駒である点も指摘されていた。私は、こ
の仕掛けは、日本の戦国時代から近世の初期にあった、タイの日本人居住
区からの、伝来かもしれないと疑っている。西洋チェスとは異なり、兵駒
が、日本の小将棋系列と同じく、敵陣3段目で成るマークルックでは、兵
が他の8升目制チェス型ゲームより成り易いため、副官化の表現手法につ
いて、日本の小将棋の方式を、ずっと後になって、逆輸入した可能性は、
あるいはあるのかもしれないと思う。
 なお私は、平安小将棋系列では、成り先が最初から存在する駒種の金将
であるため、駒道具の管理上も、金将駒30枚なり32枚が、駒の収納場
所に混在して保管されていても、さして煩雑にならないと思う。
 しかし確かに、本将棋系列では将棋・象棋・チェス型ゲームに、成り駒
待機交換使用方式というやり方の前例は無い。しかし日本では、回り将棋
という将棋遊びが公知である。にも係わらず、頭から交換法を煩雑である
という理由で、否定する意見が仮に有るとすれば、「持ち駒ルール以外に
認めない」というなら話は別だが、そうでなければかなり不可解だと、私
は感じる。(2017/06/13)

日本人が囲碁を初めたのは、西暦602年頃か西暦690年頃か(長さん)

前回、日本人が始めて囲碁を打ったのは、元嘉暦~儀鳳暦の頃ではないかと
述べた。しかしこの記載では、日本人が碁を打った始まりは、

5世紀中旬から西暦690年までのどこか

という程度しか、絞れ無い事が、広瀬秀雄著「日本史小百科暦」1978
年/近藤出版社を読み直してみて、その後判った。ので前回の議論には、
更に補充が、絶対に必要だと、それで気が付いたのである。
まず、通例どおり結論を先に書くが、

西暦690年の少し前が、日本人がある程度碁を指した最初で、それ以前
の日本での碁の記録は、有っても百済の帰化人等の遊戯について記載して
いる

のではないかと私は考える。奈良時代の少し前から、ようやく日本人は
日本で、囲碁に興じているのではないだろうか。
 ところで、前回の言い方で時代が絞れないのは、
「元嘉暦を、日本人も百済に真似て、西暦450年頃から、そのまま知識
階級が使用している」と、広瀬秀雄先生の、上記の著書が現在でも正しい
のなら、そうされているからである。
 ただし、知識人が同盟国である百済の暦を、西暦553年までは、真似
ているだけであって、百済から暦学者を国内に確保するという、トップの
発言すらまだ無かったようである。よって私流の考え方が正しいケースで
は、5世紀中~西暦553年までの日本人に、囲碁の棋士は、い無いはず
である。更に西暦553年から西暦602年までは、日本のトップの意向
は、暦の編集能力は百済だのみであって、日本に常駐する人間に、恒常的
に暦の編集能力を、日本のトップが要求した記録はない。西暦602年に
なって、初めて暦学者を国内で養成しようと、推古天皇名でトップダウン
の指示が、あったという事らしい。しかし、

西暦602年から西暦690年までは、多くの日本人が囲碁を打たなけれ
ばないないと忖度するような、意向がトップには、さほど無かった

と私は思う。なぜなら西暦602年に、暦法を学んで特定の人間が習得し
た、と言っても当時は、百済・任那・日本は、ほぼ同一国内に近いため、
飛鳥での布暦が無いのなら、以前の状態とは大差が無いだろうと、私は思
うからである。私の前回の議論の筋に従うのなら、

日本で布暦自体を始めた、西暦690年頃の持統天皇こそが、元嘉暦か
儀鳳暦か、どちらの暦を、日本の国暦にするかで、バタバタした時代の
日本のトップ

その人の事だと私は解釈する。囲碁史では日本の囲碁の記録で、最も早い
のは、隋史倭人伝の西暦600年前後になっていたと、私は記憶するが、
記録に残るような、当時の日本国内の知識人棋士は、百済からの帰化人
(帰化僧か?)の誤認ではないかと、私は疑う。
 それにしても、日本のトップ層の配下の官たちは、どうして690年の
少し前に、暦の詔等に忖度されて、囲碁を打つようになったのであろうか。
そこの所は、囲碁に詳しくない私としては、良くわからない所ではある。
が、渋川春海の和星図を思い出すと、囲碁を打っている最中に、石の並び
が、何を意味するのか、即座に理解できる能力というのは、いわゆる天文
マニアの言い方で、

星座をよく知っている

という事に、通じるのかもしれないと思う。なお上のフレーズは、星座の
種類をもれなく記憶していることではなくて、特に日本では北天の星座内
の恒星の具体的な天球での並びが、慣れにより良く理解されている事を、
通常こう言う。それにしても、西暦690年よりも、少し前に、”星座を
よく知っている”能力が、何故尊ばれたのかを、説明できないと、
暦と囲碁との関係と漠然と言っても、かなり唐突なのかもしれない。これ
については、持統天皇が、どちらを使うか思い悩んでいた、元嘉暦か儀鳳
暦かとで、同じく広瀬秀雄先生の上記著書等によると、中国唐代6~7世
紀の暦法の変遷によって、たまたま

元嘉暦が平朔、儀鳳暦が定朔である

のと、何か関係があるのかもしれないと、私は思う。平朔は実際の月の厳
密な満ち欠けは無視して、朔望月の平均値で日付けを決める方法、定朔は、
月の軌道も地球の公転軌道も真円ではないし、月については太陽・地球・
月の万有引力における3体問題で軌道が決まるので、公転軌道が楕円でも
なくなり、以上の事から、朔から朔の間隔は複雑変動であり、それを訂正
して、実際の新月に一日を合わせるような、暦の事である。そこで、月が
天球つまり、囲碁の盤面の、碁石が散乱したような星座の中で、何処に
居るのかを、正確に知ることによって、本当に元嘉暦ではなくて、儀鳳暦
を使えばよい事が、判るという意味であろう。つまり、囲碁たしなみは、
主に日本の官一般にとっては、月の天球上の位置が直ちにわかる
”役に立つ人間”と、トップから見られるようにするために、必要だったの
ではあるまいか。そういうわけで、持統天皇の部下の当時の官僚達が、

”星座をよく知っている”事は、持統天皇に喜ばれる事なので、それに
ちなんだ、星図の中の恒星の並びのような囲碁を、日本の官の間で、
このとき初めて、盛んにたしなむようになった

のが、囲碁が日本で定着したと、大宝律令等にも示唆された、もともとの
起源なのではないかと、私は推定する。以上の主張が、前回の私流の思考
法からすると、恐らく本筋であろう。
 以上の事から、それ以前の囲碁の道具は、ほぼ在日の百済人用だったの
であり、日本人同士で実際に囲碁が盛んに打たれたのは、飛鳥時代では
あるものの、奈良時代からは、さほど遠くない末期だった、のでは無ない
かと私は考える。恐らく白村江の戦いの後、唐と再度の戦争になる事よ
りも、百済という国が消滅して、百済頼みであった暦の編纂配布を、自前
で国内で、全てまかなわなければならなかった事が、日本のトップにとっ
ては、むしろ悩みだったのであろう。そのため、対唐戦争が再度起こる事
を警戒して、戦術ゲームである将棋が流行ることは、この時代には無かっ
た。それに対してむしろ、星座の把握力を鍛える事に通じると、連想され
た囲碁が、飛鳥後期の時代には、日本の官の間では天皇の意向を忖度して、
急速に広がったのではないか。以上のように私は、今の所囲碁のわが国で
の起源を、このように推定するのである。(2017/06/12)

江戸時代の暦学者、渋川春海はなぜ、碁の役人も兼ねていたのか(長さん)

日本では、飛鳥時代に設定された宣明暦が、古代後期、中世を通じて使われ、
次の改暦が江戸時代の暦学者、渋川春海によって、ようやく貞享暦として、
行われたことは、よく知られている。この事から、少なくとも渋川が暦学者
として、有能な事は明らかである。他方、この渋川春海が囲碁の名手であり、
元々は江戸時代に、碁会所を取り仕切る、役人であった事でも知られている。
私は囲碁に詳しくないため、意味は良くわからないが、囲碁盤の10十とい
う中央位置に、置石をする定跡を、提唱した事などで、確か囲碁史の方では、
有名だったように記憶する。なお、彼の囲碁好きが、半端で無いのは、
暦学者は江戸時代は、天文方の仕事もしており、彼は日本式の星図を作って
いるのだが、恒星の明るさを無視して、囲碁の石が繋がったような独特の、
恒星表現をしている事からも、証明されるようである。
 以上の事は、私も昔からよく知っていたが、囲碁盤の交点の数が361で、
一年の日付け365.2422日に近いので、囲碁と暦とが関連すると、
将棋史に興味を持ってから、漠然と考える程度で、最近まで来た。しかし、
ひょっとして、これは日本の遊戯史についての、あるヒントを含んだ重大な
事実が隠されているのではないかと、最近になって思うようになった。
つまり、

元嘉暦~儀鳳暦を導入するのでばたばたしていた頃が、日本人が囲碁を打ち
始めた、ひょっとして始まりの頃と、一致するのではないか

という、疑いが心をよぎったからである。ようするに、

日本のトップが「日本にも暦が必要だ」と言い出すと、日本では官僚等の家
来は、何時の時代の場合であっても、ほぼただちに忖度して、その時点で、
暦に関連する事柄は、皆急激に流行りだす

という体質が、なぜここまでなのかは、将来解明されるべき問題なのではあ
ろうが。
太古から日本の官の世界には、こうした忖度体質が現にあると、とりあえず
経験則として仮定すると、物事の始まりの時期というのは、特定できる傾向
が強いという特質が、日本での事柄の始まりの歴史については、経験法則と
して、有るのではないかと、思うようになったからである。ようするにこれ
は、同じ遊戯で、生物種で言えば、科までは同じ

将棋と囲碁とで、成立年代が、
飛鳥時代と平安時代後期というように、少なくとも日本では、大きくズレ
ているのは、不思議であるが何故なのか

という問いに対する答えを、渋川春海が示唆しているような、気がしてきた
という事である。つまり本来、

将棋は暦よりは、対外国戦争の方に事柄上、関連性が高い

と言うことなのであろう。たまたまだったが、白村江の戦いの時には、恐ら
く2人制チャトランガも無かった。しかし、元寇に比べればやや小粒だが、
かなり大規模な次の対外戦争であった、刀伊の入寇のときには、北宋とは
断交もしていなかったので、大理国将棋や中国のシャンチーなどは、中国交
易商人が日本に紹介できる環境だった。そして、都のトップである藤原道長
等によって当然、刀伊すなわち金王朝の前身の軍隊との、対外戦争の対策が
議論として提起された。
だから、そのときに、
日本の官、特に国境警備兵たちは、藤原道長という、隠居したばかりとはい
え、当時の実力ナンバーワンの人物の意向を、官は皆充分に忖度して、実は
彼らの間で、

野火のように、日本で始めて将棋が、流行始めた。

つまり、囲碁と将棋とでは、
暦の導入、対外軍事対策というふうに、

日本のトップが問題にしたカテゴリーが、たまたま全く違う事柄なために、
囲碁と将棋とでは、遊戯の種族がやや近縁でも、開始の時期は全く違ってし
まった

と私は推定した。以上のように昔から個人的にも名を聞いていた、渋川春海
という江戸時代の幕府役人の性格を見て、将棋に比べてとても早い、囲碁の
始まりの謎について最近、ようやく合点がいったような、気がしたのであっ
た。(2017/06/11)

岩手県平泉志羅山遺跡、両面飛龍出土駒の共出土物(長さん)

さいきん、河出書房新社から2013年に出版された、平泉文化遺産
センター所長の大矢邦宣氏著書「ふくろうの本 図説平泉」に、平泉
志羅山遺跡の両面飛龍駒が、掲載されているだけでなく、志羅山遺跡
で、出土した他の出土物の情報が、写真で載っているのに気が付いた。
なお現地は、平泉駅からほど近い所に有ると、認識される。さて、
 以前、このブログで、この平安大将棋用そのものではないかと疑わ
れる、志羅山遺跡の両面飛龍駒については、法事に使われたような、
メモリアルな物品と、書いたように記憶する。しかし、共出土品を見
ると、

どうもそうではないようだ。

すなわち共出土品は、同書には
1.白磁水注(磁器製の水差。中国福建省産の優品(上記著書))
2.常滑三筋壷(陶器製の壷)
3.オシドリの文様を銅で象嵌の形と同じにした鉄製の馬の轡
4.中が空洞のサイコロ(盤双六を”いかさま賭博”に使用か?)
となっている。
 なお、法事に使われたようなメモリアルな物品のように、少なくと
も私には見える、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡出土の、裏一文字金角
行駒の共出土物は、以下のように認識している。
1.磁器製の製品の破片
2.盆栽の入った植木鉢
3.火鉢の破片(8号井戸跡に1破片と別の20号井戸跡に3破片)
4.仏塔(昔の墓石)
5.櫛の破片(将棋駒とあわせて、8号井戸跡)
6.下駄(8号井戸跡。サイズが女物)
なお、栃木県神鳥谷曲輪遺跡は、大字神鳥谷の下の字地名が、青蓮寺
堤であって、4の中世の墓石が出ている所から見ても、お寺が連想さ
れる。それに対して、岩手県平泉町志羅山遺跡の場合には、以下私見
で、私は真偽を確認していないが、少なくとも

私には志羅山の名は、城山が訛ったようにも聞こえ、武家の館の中に
あった物品の出土

との先入観を、もともと受けてしまう傾向の、有る物のように見える。
 ただし栃木県小山市の神鳥谷曲輪からも、1.磁器製の製品の破片
が出土している。そして発掘者から、私が聞き取った所によると、
それは、中国宋代の高級骨董品のカケラだと言い、岩手県平泉町志羅
山遺跡出土の1.白磁水注(中国福建省産の優品)と、類似となる。
ただし、小山市の方の磁器製製品の破片は、発掘者の説明では、
南北朝時代の、小山城関連の出土品という位置づけのものであって、
室町時代から戦国時代にかけてだと見られる、同じ位置に存在した
”小山市市内の古廃尼寺”の所有物ではないと、解釈されているよう
である。そうすると、小山市の1.磁器製の製品の破片は、
裏金一文字角行駒が、そこにあった時代の建物の種類を、余り反映
してはいないと、言う事になるので、リストから削除しても良いと
考えられる。つまり、

栃木県小山市の方は2~4より、お寺に置かれた将棋駒のようであり、
それに対して、
岩手県平泉町の方は1~3より、武家屋敷の備品の将棋駒のよう

に見えると、言う事になる。
更に用途についても、

栃木県小山市の方は5と6により、お寺の特設の開基者の尼用かと想
像される、仏壇に供えられた将棋駒のようであり、それに対して、
岩手県平泉町の方は4と5により、武家屋敷厩の横の”遊戯の間”に
置かれた、双六、将棋、そして恐らく囲碁の備品の一部のよう

に見えると、言う事になる。
特に、岩手県平泉町の平泉志羅山遺跡出土駒のケースは、室町時代末
期に、狩野元信が書いたと伝わる、厩図を、少なくとも私には連想さ
せるので、興味深い出土品の組み合わせだと、私には思われた。
 思えば、当時は草書体の方が、楷書よりも、当時は普段使われる、
見慣れた字であったとされている為、平泉両面飛龍駒は、仏教崇拝用
ではなくて、実用品として、作られていると、最初から決めて掛かっ
た方が良かったのではないかと、私は以前の間違った解釈を、反省し
ている。
 それにしても、このような貴重な駒が、現地で盗難にも合わず、そ
のまま、伝わったのは奇跡と言えば、奇跡だが、何かの秘訣があった
のだろうか。ひょっとすると、窃盗犯が現われても、おおかた、将棋
は、小将棋しか指さなかったので、使わない飛龍駒等は、そのまま
残していって、くれたのかもしれないと思う。
 何れにしても、こんな貴重品が出土した事は、誠にありがたい事だ
と私も思う。(2017/06/10)

日本の将棋の最も初期の将棋盤升目(長さん)

前と同様、13×13升目や15×15升目の大将棋のブログの本題
からは外れるが、日本の将棋の最も初期の、将棋盤升目について、以
下考える。私見でマイナーな説であるが、私は

8×8升目32枚制原始平安小将棋がオリジナルである

と、考えている。主流は9×9升目の標準型平安小将棋と見る向きが、
平安時代の出土史料を、含めて考えるとすれば、現在圧倒的に強いと、
認識する。9×9升目が主流なのは、現在の日本将棋の盤升目と同じ
なので、判る気もする。が、私がそれに反対するのは、日本将棋を

取り捨て制で飛車角なしにすると、桂馬が合い当たりになり、攻めが
停滞するにも係わらず、それが流行るという不自然さ

ほぼ、この一点に集約される。さらに、何回か述べたように、小将棋
は外来種であると見ており、インドチャトランガ、アラブのシャトラ
ンジ、東南アジアのマークルック、西洋チェス等と、同じ盤と駒数が
最初であって、おかしくないと見ているという点もある。ただし、そ
うすると、8×8升目制を、日本人も真似た理由を、一応考えておく
必要はあるだろう。5×5、6×6、7×7、9×9、10×10、
11×11・・・ではなくて、なぜ8×8升目なのであろうか。
 そもそも、私が考えているように、大理国が日本の将棋の伝来元で
あったとして、たまたま日本人は、大理国の8×8升目将棋を、すっ
かり、そのまんまでコピーしたとしても、大理国の人間がそもそも、
8×8升目を選んだ理由を、今度は考えるべきなのかもしれない。
 貴金属・宝石類のうち、玉、金、銀の3種類を選ぶのは、3は、ま
あ、程良い数といえば、程良い数なのかもしれないが。大理国のあっ
た、雲南省大理県大理市の仏塔の主塔では、玉、金、銀のほかに、
金銅、銅、鉄、石の各仏像も出土しているので、これが駒のモデルだ
として、金将を2枚に変えてから、この金銅、銅、鉄、石の8種類に
将を付け、更に象駒を入れて10駒増加させれば、19×19升目の
将棋を、大理国ではオリジナルとして指しても、おかしくないという
事になるのかもしれないからである。
 以下答えを書くと、更に私見だが、ユーラシア大陸規模で、8×8
升目制のチェス・将棋型ゲームが指されているのは、
玉を中央の2列左側だとして、順に右下段駒が袖から、飛車型の車駒、
桂馬または八方桂馬型の馬駒、角行またはシャンチー象または平安大
将棋猛虎型の象と並んでいる将棋は、先手を日本将棋式に8列目に、
玉列がある表記で、日本将棋式で盤升目の番号表現をした時に、

先手から見て相手後手位置の、1二の位置に、先手の右の車駒、右の
馬駒、右の象駒の攻め筋の焦点が有り、かつ相手の駒は、左の車駒し
か利いていないという点で、副将駒(金将)の駒のルールを少し変え
る等しても差が無く、安定して普遍的に、攻め筋のあるゲームとして、
楽しめる面白さがある

と、民族によらずに認識された。そしてその認識が、ユーラシア大陸
中に広がったのが、8×8型だけが、選択的にゲームとしてインター
ナショナルに広がる、原動力に主としてなったのではないか、と私は
思っている。つまり、8×8升目型には、上のカラクリが、ゲームと
いっしょに口伝されれば、民族によらずに、たいがいは広がるという
要素が、あるのではないかと言う事である。つまり、

以上の戦術情報が、チェス・象棋・将棋型ゲームの戦術では、他の升
目型の戦術情報よりも、ゲームを流行らせるという目的にとっては、
説得力があり伝わりやすいので、選択的に8×8升目型が広がった

という意味である。そしていったん、8×8型でゲームが定着すると、
それ以上に、ゲームを進化させるのには、ある程度のハードルがあっ
た。そのため、9×9升目制標準型平安小将棋や、19×19升目
原始摩訶大大将棋といったものは、少なくとも10世紀ころには、
大理国には、できにくかったのではないかと、私は疑っている。
それが恐らく、仏象として大理国には、玉仏、金仏、銀仏の3種の
他に、金銅仏、銅仏、鉄仏、石仏が有っても、17×17升目や、
象駒を入れて19×19升目にした、将棋が指されないとすれば、
それが原因なのだと思う。
 恐らく「玉は中央左に配置し、右の車駒、右の馬駒、右の銀将で、
相手の1二位置を伺う、最近舶来のゲームは面白い」という情報は、
将棋の伝来と同時に日本人にも伝わり、それもほどなく確認されたの
であろう。そしてその上で、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
九州大宰府では少なくとも、ある程度盛んに指されるようになったの
ではないかと、よって私はこのように推定している。
 なお、今回の話題と同じ系統の題材で、現在議論をされており、
また私に、以前”個人ブログの開設”を勧めてくださった、大阪電気
通信大学高見研究室のブログの、摩訶大大将棋関連のログ数と、単純
ログ数で、本ブログは本日ほぼ並んだ。高見先生の益々の御活躍と、
摩訶大将棋のブログの更なる進展を、心よりお祈りいたしたいと思う。
(2017/06/09)

下河辺荘新方の歴史講演会(1)(長さん)

2017年6月に2回の予定で行われる、NPO法人埼玉県越谷市郷土
研究会の加藤幸一氏(同研究会顧問)の、「新方地区の歴史」の講演第
1回目を聞き取った。栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡、裏一文字金角行駒
ゆかりの、小山義政と同族100年以上前生存、又、静岡県焼津市小川
城出土の裏飛鹿盲虎、裏飛鷲龍王関連小川法長者の先祖、下河辺行平、
下河辺行光の館関連の情報を得るのが、目的であった。なお、
加藤幸一氏は、埼玉県の地元で教員をされたが、今は定年で退職されて
いる方だそうだ。また石仏の研究を主体に、郷土史を研究されている方
である。中世~近代昭和期までの、遺跡調査、民間伝承の聞き取り、
河川施設の史料・歴史的水周り遺構の調査等に、特に詳しいようである。
 残念ながら「埼玉県越谷市内に限定すると、鎌倉時代初期の、下河辺
氏の挙動に関する情報がある」という話は聞けなかった。しかしそもそ
も下河辺荘新方の荘園に関する、古文書の記載が大量にあるわけでもな
いようだ。事実、鎌倉時代中期の金沢氏の菩提寺で、下河辺荘を鎌倉末
期には領有していた、神奈川県鎌倉市の称名寺に記録された文書上では、
明治時代の埼玉県新方村周辺の、その時点から見て、だいぶん昔の荘園
関連の地名としては、

恩間と十丁免という2箇所の名が挙がる程度で、判っていない事が多い

との話を聞かされた。ちなみに、恩間という地名は、かろうじて現在で
も残っており、埼玉県越谷市恩間を指し「東武スカイツリーラインの、
大袋駅周辺一帯の事であろう」との事であった。ちなみに十丁免の方は、
「ひょっとして、埼玉県越谷市向畑と埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に
掛かる、堂免橋の周辺かとも考えられるが、確定はしてい無い」らしい。
 なお、南北朝時代以降となれば、堂免橋のたもとに人が住むように
なって、埼玉県越谷市大松に清浄院が、室町時代の初期に開基され、
更に戦国時代になると、武蔵武士の末裔と見られる新方氏が、堂免橋の
西側の現埼玉県越谷市向畑に、新方氏館跡として名が残っている、館を
築いて住むようになったとの事のようだ。以上の情報のうち、

東武スカイツリーラインの大袋駅の西側の恩間付近は、だいぶん開けて
おり、ほとんど成果は期待できない

と思う。が鎌倉時代にも、大袋駅付近よりも西に、利根川が流れていて、
そこが下河辺荘に、属していたらしいという事が判っただけでも、かな
りありがたい情報だと感じた。
 なお、新方氏屋敷跡付近に、

船が沈んでいるという伝承がある

というのを、このブログで前に紹介した事が有った。少なくとも加藤幸
一氏の、6月7日の講演では、その話に言及が無かったが、類似の話が、

埼玉県越谷市平方と埼玉県越谷市大泊の境目付近にも、別にある

との話を聞いた。ここには現在、用水路程度の水路しか無いようだが、
聞くところによると、昔は会野川という、幅の広い川が、東西に流れて
いたらしい。そして、航行していた船が沈んで、難破船として存在する
という、話があるようだ。更に、戦国時代の新方氏の館のケースとは違
い、平方~大泊沈没船のケースには貨幣を運搬していたため、

埋蔵金伝説の噂も有る

との事であった。
以上の事から、たとえば
埼玉県越谷市大泊から将棋駒が出土する確率は、埼玉県越谷市向畑から
将棋駒が出土する確率と、ほぼ同じなのではないかと、私は思った。
場所は千間台から大正大学入口まで走っているバスで、当てずっぽうで
いうと、「山谷」というバス停の南側付近だろうか。開けている場所だ
と認識するため、行くと何かわかるかどうかについては、余り期待は、
こちらの方も、出来ないような気が私にはした。
 以上のように下河辺荘でも新方は、実は鎌倉~南北朝時代については、
状況が余りはっきりしていないような印象を、加藤氏の講演から私は受
けた。
 6月14日にも同じ加藤幸一講師が、第2回目の講演会を越谷市市立
図書館の、同じ場所でされるようなので、こちらも聞き取る予定である。
(2017/06/08) 

8×8升目32枚制原始平安小将棋、9×9升目36枚制平安小将棋に駆逐された訳(長さん)

以下大将棋ではなくて、小将棋の歴史の話題にはなるのだが。今までに何回か、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、二中歴に曖昧に記載されている事を根拠とし
て、私は、元々の小将棋が8×8升目型、院政期以降に、上流階級では9×9升目
型の平安小将棋を、公式の場では指したと、繰り返し述べてきた。この説は、主流
の説とは全く違う、私だけの主張であるばかりでなく、

現実として8升目型が、結果として伝わらなかった理由を説明する必要

が、新たには発生する説である。なお、
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、こちらから、相手の陣を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は9升目型と違い、2段しか無い事になる。
これに対して9×9升目36枚制標準平安小将棋は、同じくこちらから、相手の陣
を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は日本将棋と同じく、3段である。
なお「8升目型が、中間段2段だから行き詰まる」という説があるが、私はそうは
思わない。8×8升目型の場合、序盤で意味のある歩兵突きは、互いに右香車~
右銀将の前の歩兵の、3枚だけだと私見する。その他の5枚の歩兵で、位取り争い
をする将棋には、恐らくならないのではないか。そうではなくて8升目型の場合、
桂馬が互いに当たらないため、次は右銀将、右桂馬、桂馬先の歩兵を更にと、以上
の3枚の自駒を選択的に繰り出して、相手左辺破りを狙うのが、定跡になるのでは
ないかと、私は考えているのである。以上は、一人でも多くの識者の方に、100
円ショップの将棋道具を用いる等して、今後御確認を御願いしたいと考えている。
 さて私は、8×8升目型は鎌倉時代中期までは指されたが、中将棋が指された、
南北朝時代までには、消えたと考えている。根拠は、前回述べたように、
異制庭訓往来の記載と矛盾が起こるからである。次に、8升目型が9升目型に駆逐
された原因は、主に

将棋盤が9升目で作られた

のが、最も大きな理由と想定している。持ち駒ルールは、異制庭訓往来の少し前の、
普通唱導集に記載された小将棋の時代には、小将棋に導入されていたと考える。が、
持ち駒ルールを9升目型に導入すると、8升目型取り捨て平安小将棋が、全く指さ
れなくなるほどの、影響が有ったとは考えない。というのも、

持ち駒ルールは、8升目にも9升目にも、やろうと思えば、どちらにも導入できる
ので、結局大差ないのではないか

と私は思うのである。それよりも、特定の将棋種が生き残るかどうかは、情報が
子孫に伝わるかどうかに、掛かっていると私は思う。つまり、

口伝でルールを説明しながら、地面に線を書くか、せいぜい布に線を描いて、
8升目型将棋を指して、後継者に情報を伝えようとしていても、地面の線は、
ゲームが終われば消されるのだし、布も十年とは持たなかったので、ルールが
確実に情報として、伝承できる手段では無かった

と考える。それに対し「公的な晴れの舞台で使用する」と、上流階級、たとえば
鎌倉時代の有力な、武家の棟梁のような家に伝えられた、9×9升目の将棋盤は、
将棋のルールを、情報として、きちんと伝える役割を果たしたのではあるまいか。
名の有る鎌倉武家の家なら、鎌倉時代初期の物が、ひょっとして室町時代になって
も、家伝の将棋盤として残っている事が、あったに違いない。以上の理由で9×9
升目型の平安小将棋は、将棋盤という道具が情報を伝える、伝達道具としての役割
をも果たした結果、遂には「8升目制の平安小将棋も、結構暇つぶし程度には面白
い」という記憶を、完全に消し去るに至ったのであろうと、私は私見している。
 むろん、宮廷では9升目制が公式となっており、更には、読み書きの出来る者の
うちで、その割合の多い上流階級が読み取れる形で、公式な平安小将棋のルール
ブックや、9×9升目の将棋盤を描いた絵巻物といった史料が、鎌倉時代末期には
残っていたとすれば、それが下世話の8升目型を、完全に駆逐し去った、別の原因
に、あるいはなるのかもしれないとは思う。
 以上の事から私の説によれば、現在の9升目制の日本の将棋は、9という一の位
で最も大きな数を縦横に持つ、たいそう由緒のありそうな、知識人宅に置かれた
将棋盤を、室町時代の人間が眺めているうちに、将棋は9升目制だと、思い込む事
によって、確定したのではないかと言う事になる。(2017/06/07)

日本の将棋は本当に初期配列で全ての筋の前列に歩兵が有ったのか(長さん)

少なくとも日本将棋では、中国のシャンチーや朝鮮半島で指されるチャンギ
とは異なり、チェス、マークルック等といっしょで、縦9筋全ての、自陣3
段目に、歩兵が9枚配置されて、ゲームが始まっている。では、図で初期
配列が示されて、い無いような、平安時代の将棋でも、そうなっていたと、
本当に証明できるのであろうか。

私は日本の将棋には、歩兵のい無い列は無いと思うが、理由は、8×8升目
制原始平安小将棋が、鎌倉時代の後期程度のけっこう後まで、布盤を使っ
たり、地面に升目を書いて将棋を指していた民間では、実際には公然と
残っていたのが、主要因

だと見る。奇数列でないと、シャンチーやチャンギのように、見栄え良く、
駒が並ばないので、一つ置き配列にはしないのではないかと、思うのである。
なお、上流階級への指導書である、二中歴の大・小将棋であるが、歩兵の
枚数についての、言及は無い。ただし、注人の説明で、中央に歩兵があるか
ら、二中歴記載の平安大将棋の歩兵数は、13枚か7枚か5枚だと判る。が、
飛龍が角行駒だと、3段目3列目に、歩兵がほしいのに加えて、将小駒で
下から紐を付けて、端から4列目の4段目で位の陣を歩兵で作るような手は、
指したいので13枚にするだろうと思う。
この時代の9×9升目制平安小将棋も、平安大将棋が各列歩兵配置型なら、
大将棋の方で言及が無ければ、同じと一応は推定できよう。また仮に、
大江匡房が8升目制平安小将棋を攻撃したとき、新案として計16枚ある
盤上の歩兵を10枚に減らせば「皇室の警護を5/8の規模に縮小する事
を、窺わせるような”政策”は、いかがなものか」と、

守旧派の摂関側から言いがかりを、付けられるのは必然だろう。だから、
どちらでも同じに近い事柄について、敢えて争うような事をしなかったので
はないかと思う。つまり歩兵は、そのため18枚になったに違いないと私は
思う。

 なお、二中歴の記載だと曖昧だが、南北朝時代の小将棋は、36枚制との
示唆から、最も駒数の少ない将棋でも、駒数は36枚だという意味にとれば、
異制庭訓往来の記載から見て、歩兵は18枚有ったのだろう。
 さらに、中国のシャンチー、朝鮮半島のチャンギで、歩兵が10枚なのは、
砲の攻撃力が、初期に強くなり過ぎないようにするための、調整とみられる。
同時に、そうする事により、車の活動が、より早く始まるようにもしている。
シャンチーやチャンギでは、斜め走り駒が早攻め駒であるため、定跡を生み
やすくなってしまう事に気がつき、駒が線動き表現である事もあって、斜め
走り駒を採用しなかった。そして、兵器としての本当の砲が、唐代後期に発
明されたのが彼らにとっては幸運で、今のような形になったのだと思われる。
また、兵力を減らすという批判はあったのだろうが「戦争は兵力よりも、
科学力である」と、厳しい大陸の戦争では、皆が気が付きやすかったこと。
更には九宮を発明したため、「建て屋で玉駒は守られている」と、言い訳す
る手が有ったのだろう。
 それに対して、概ね中国の模倣をしていたはずの古代のわが国で、飛び飛
びの歩兵配列が、なぜか、それだけは真似なれなかったのは、前記のように、
走り駒に香車しかない小将棋では、実はどちらでも良かったのだが、将棋史
の流れの、微妙な経緯が絡んでそうなっただけの可能性も有り、注意が必要
だと私は考える。初期院政派の大江匡房等による、人為的な原因ではなくて、
自然発生的に、9×9升目型の標準平安小将棋が、発生したのだとすれば、

興福寺出土駒時代頃には、9×9升目28枚制変形平安小将棋という、
9×9升目36枚制平安小将棋と、私の認識では、思ったほどにはあまり差
が無い将棋が、有ってもおかしくは無かった

と、私は見ている。なお
大将棋・中将棋の時代になると、

竪行、横行の成り駒を飛牛、奔猪にする等、縦や斜めの走り駒を、複雑に多
数入れて、攻撃が継続し、詰みまでの定跡が出来る原因となる、致命傷を
作らないようにする、複雑化による解決

の方向へ、我々の国の将棋は流れが移って、歩兵の配列に隙間を作ることを
考える余地は、かなり減って行ったのであった。そして小将棋に、持ち駒
ルールができ、遂に日本将棋が成立すると、角行は何度も”角替わり”され、
序盤で定跡の立役者になって消えてゆくような、将棋にならないように進化
して、中国晩唐のシャンチーの、生みの苦労の解決策とは別のやり方で、
問題が克服されて行ったと考えられるのである。(2017/06/06)

牛僧儒の玄怪録のキャラクターは何故一文字ではないのか(長さん)

牛僧儒の玄怪録に象棋型のゲームを連想させるものがあり、中国で
唐代に、シャンチー・チェス型のゲームが、存在したと主張される
根拠になっている。ところでそのキャラクターは、二文字以上で表現
されているが、これが象棋を、暗々裏に表現しようとしているとして、
一文字駒のシャンチーと異なるようにしたのは、何故なのかと言う点
を問題にする。結論を書くと、

玄怪録は南詔のゲームを基にして、書かれた物語であるから

だと、私は考えている。前回述べたように、長安には吉備真備の指し
た、シルクロードにより伝来した、イスラム・アッパース朝の、シャ
トランジが既に有ったと、私は考える。もともとは外来の将棋とは言
え、このゲームの駒は、王、将、象、馬、車、兵と、その当時までに、
一文字で漢訳されていたはずである。しかし、玄怪録の下敷きになっ
た象棋は、それをボカすにしても、漢字を2文字にしなければならな
い、特に理由は、本来は無かったのではないだろうか。にも係わらず、
そうしている所からみて、周辺部とはいえ、唐からは、外国と見なさ
れる国の、駒名を漢訳すると、少なくとも一部が2文字になる象棋型
のゲームを、表現しようとしているので、そうなっているのではない
かと疑われる。なら、どうして周辺国のゲームで、怪奇物語を造った
のかと言えば、私は

牛僧儒とその一派は、南詔と吐蕃に興味が有ったからだと思う。

 牛僧儒は、唐王朝内部で政治のリーダー格であり、政敵李派との間
で、彼とその派閥が、唐王朝内部で長い抗争を行った事で知られてい
る。特に牛僧儒自身は、吐蕃と唐との抗争の過程で、一旦和睦が成立
したあと、吐蕃に属した諸侯の一つが、唐王朝に寝返りを申し出たと
ころ、吐蕃の仕返しを恐れたのか、吐蕃と裏で繋がっていたのか、ま
た平和主義者だったのかは、私には判らないが、その諸侯を編入して、
唐の領土を広げる決定に、反対した一件で、知られる人物である。
つまり牛僧儒は、吐蕃および、その緩衝国だったとみられる、

南詔国等に対し、融和的な政策を提唱していたのではないか

と、私は思う。
だから、著書で象棋を紹介するときにも、吐蕃・南詔の文化を宣伝
するような、内容の物語を製作しても、特におかしくないのではない
かと、私は考えるのである。
 ちなみに、この一旦確定した吐蕃と唐との国境を、吐蕃内の特定諸
侯の裏切りを利用して、ハンコにするのを止めた政策は、少し後に、
唐の皇帝により否定的に評価され、牛僧儒自身が一時的に退けられる
原因になったと、web上でだけだが、私は聞いている。唐代牛李の
派閥抗争が、それについてだけ、詳しく書かれた日本語の成書は、
新書の書店の店頭レベルでは、あまり置かれてはいないようである。
 なお、玄怪録のこの象棋物語の出だしに、上で紹介した将棋駒モド
キの意味に使われる単語とは別に、”金象将軍”という単語が、出て
くる。以下私見であるが、この単語の使われ方の内容は、将棋を表現
しようと意図していないのかもしれないが、ひょっとすると、

南詔国の将棋型ゲームには、唐代から”金将”という名称の駒が、
有ったという事を、たぶんうっかり示唆しているのではないか

と私は疑っている。今まで何回か述べた大理国と南詔国は、ほぼ同じ
所に成立した、王族は互いに別族の国家だったらしい。だが、雲南省
大理県が、鉱山地帯である事には変わりが無いから、大理国の将棋の
名称に近いものが、南詔国の時代からあっても、特に不思議ではない
ように私には思える。
 中国全土としては、南詔国のように鉱山地帯ばかりではないから、
”金将”という名称の駒が使われる象棋は、主として雲南省で指され、
吉備真備の主として滞在したと見られる、長安では、指されなかった
のではなかろうか。つまり国際都市で指されている、象棋の将駒に、
”金”という形容詞を、わざわざ付ける理由が、無いのではないかと
言う事である。
 つまり吉備真備の将棋話をも仮に信じるとすれば、玄海録の存在か
ら見て、

”中国には古くから象棋が有った”どころか、少なくとも2種以上の
有力なゲームが唐代には並立して、方々で興じられていた

と、我々江戸時代の遊戯史研究者の善意を信じる者は、かように結論
して、中国の遊戯史学会等と接するのが、より優れるのではないかと、
私には思えるのである。つまり吉備真備が入唐時に、将棋を指した話
に関する江戸時代の記載は、少なくとも外国人には「空説」と、現時
点で余り強調して、説明しない方が、むしろ良いのではなかろうか。

そうしてしまうと、日本の遊戯史研究者の言う事は、時代は現代と
江戸時代とで別々とはいえ、どちらも同じ、日本人の言う事だから、
両方アテにならないという事なのではないか

と、外国の人間からは内心思われる恐れも、多少はあるのではないか
と、私は心配しているのである。(2017/06/05)

本朝俗諺誌(ほんちょうぞくげんし)の将棋史の記載は本当に作り物か(長さん)

徳川吉宗から家重へ将軍が交代した頃かと思うが、1746年(延亨三年)
出版された本朝俗諺誌に、将棋の歴史に関する記載がある。それによると、
「将棋は唐へ、吉備真備が天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に
入ったときに、日本に伝えられたが、これは現在の将棋とは異なるもので
ある。その後江師(大江匡房)が、将棋を発明した」と、記載されていると、
1977年版のものと人間の文化史23-1将棋Ⅰの初期の版に、記載され
ている。そこで、この本朝俗諺誌の説の当否について、以下話題にする。
 本朝俗諺誌の著者が、何故それを知っているのか、情報の出所がはっきり
しないが、真実にかなり近い知られざる情報を記していると、わたしはこの
情報を個人的には評価している。すなわち、

「大江匡房が、将棋を発明した」を、”大江匡房が、平安時代の後期の院政
初期に、宮廷で指される小将棋を、9×9升目型の標準形の平安小将棋だけ
に、限定した”に変えれば、残りは正解だと

私が思っているという事である。
また、

吉備真備は天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に唐で、アラビア
のシャトランジを指した事があった

とすれば、差した事が無かったというのよりも、かなり尤もらしいと、個人
的には思う。地続きだしシルクロードは有ったのだし、アラビア方面にシャ
トランジは有ったのだから、国際都市長安では、シャトランジに関する情報
が当時存在しなかったというのは、不自然だと私は思うのである。が唐に、
これに関する中国語で書かれた文献があっただろうか、というと、それは謎
だ。更に日本に”もたらす”と、アラビアのこのゲームに、ありがたみがあ
るとも、私には思えない。シャトランジは明らかに、現在の日本の将棋とは
異なるし、平安小将棋とも歩兵の位置、歩兵の成り位置、桂馬、香車、銀将
のルールが皆違う。そもそも、当然だが、シャトランジは王、将、象、馬、
車、兵が、中国のシャンチーの帥/将、士、象、馬、車、兵と、類似の動き
をするゲームである。以上の事から本朝俗諺誌の”これは、現在の将棋とは
異なるものである”との旨の情報は、的を得たものなのではないのだろうか。
 なお1977年時点での増川先生の上記著書の記載によれば「このような、
はっきりとした、日本の将棋の起源に関する記載は、江戸時代では、時代が
下るにつれて、少なくなる」となっている。ただし上記の、ものと人間の文
化史23-1将棋Ⅰ、1977年版には、西暦1746年より新しい文献に、
将棋の起源に対して”曖昧に記載されている例”が、挙がっていないように、
私は疑っている。
 ただ恐らく増川先生は、他の情報もお持ちなので、「将棋の起源は判らな
い」という旨の説が、幕末には定着したと考えられる根拠は、実際には種々
知っておられるのではあろうが。
 ただし幕末に向かうに従って、将棋の伝来の様子が曖昧になるというのは、
”書き手が正直になってきて、口伝等を書かなくなるから”という理由とは
別に、より単純に、

その間に、忘れ去られたからである

と、考える事もできるような気が、私にはする。増川先生も、同著書で示唆
されているように、将棋の家元は江戸時代、初期の頃には幕府の庇護を受ける
ために、将棋に関する権威付けが必要だったが、時代が下ると、庇護を受ける
のが普通になったため、将棋の歴史の権威に関して、意識がだんだん薄くな
った疑いが強いと、私も思う。
 つまり、将棋史を真剣に主張する空気が薄くなるにつれて、歴史のうち家元
代々が口頭で伝承していた、口頭に頼る歴史情報が、徳川三百年の歴史の中で、
次第に曖昧化した可能性も、完全には否定できないのではないかと、私は思う。
 ただ、吉備真備が指したチェス・将棋ゲームについては、それが、
シャトランジであるとすれば、将棋とは呼べないのであるから、日本の将棋史
にはさしたる影響は無いのではないかと、私は思う。それに対して、

院政派の大江匡房が、玉将が金将と同格の雰囲気で並んでいて、摂関時代の
藤原貴族は、一族の複数人が位が高くて、日本を牛耳っており、天皇や上皇は
そのゲームの中心駒にはなっていないのが、ありありと見える、8×8升目制
原始平安小将棋に不審を抱いていた。だから彼が、王将や玉将という、帝が中
央に居るようにはっきり見えるモデルの、9×9升目制標準平安小将棋に、そ
れを取って変えてみせた

という重大な歴史を、”本朝俗諺誌の将棋の歴史に関する記載”を軽視する事
によって、忘れさられてしまうというのは、この情報内容が仮に正しいとする
と、著しく貴重な史料の消滅だと、私には思われるので注意が必要だと考える。
 なお私は個人的には、はっきりとした証拠は持ち合わせないが、江戸時代に、
そのような変化が起こったのは、

徳川家重と徳川家治、特に後者の徳川家治が、将棋将軍と評されるほど
将棋に親しんだのが、将棋家元に前記の緩みができた事の、最大の原因だった

のではないかと思う。1746年頃には、本朝俗諺誌に書かれたように、将棋
の由来は必死に広報されたのであろうが、徳川家治の特に後期、西暦1770
年代以降の治世には、日本の一強が、特に好んで押す将棋を優遇する事は、

徳川幕藩体制内部の人間が全て、それこそ”忖度の塊となって”推進した

のであろう。だから、将棋の家元が、将棋のルーツに関して、権威付けをする
ため、誇り高き将棋のルーツを、主張し続けるという事は、家重、家治以降は
実際に、少なくなったのかもしれない。
 たとえば私は以前、徳川家治が日光へ、徳川家康と徳川家光の参拝のために
行くとき、先祖を供養するだけではなくて、先に亡くなってしまった家族であ
る、妻の五十宮倫子女王や娘の徳川万寿姫の、三面の部品にかこつけて、腹心
の家来と、祖先が戦国時代に焼津で中将棋を指していたと見られるその部下の

老中の田沼意次および、当時の配下で、若かりし頃の長谷川平蔵が、結託し、

日光街道道中の2~3箇所、日光滝尾神社・小山宿の神鳥谷天神近く等、女性
の仏を暗示させる菩薩仏やその堂宇に、将棋史を調査の上、適切な形の将棋の
駒を供えて回った可能性があると、示唆した事があった。後者が、栃木県
小山市神鳥谷曲輪で出土した、裏金一文字角行駒と、現物として同一である
可能性が、有り得るのだと私見する。
 つまり徳川家治のこの時代一時期は、幕閣は誰もが、将軍の気持ちを忖度し
て、自発的に将棋と係わりを持とうとする、将棋史啓蒙が行き届いた時代だっ
た事を、これはひょっとすると、示している一例かもしれないと、思っている。
何れにしても、

大江匡房が少なくとも、宮中で指す将棋に関して院政期、何かを上奏したのか
もしれない

という、初期院政派・大江匡房が、将棋史に関わりがあるという、重大な内容
について、江戸時代の徳川吉宗の時代までは、少なくとも口伝として、それが
残存していた。しかしその直後に、将棋の啓蒙の努力の空気が緩んで、忘れら
れた可能性が、完全には否定できないように、私には思える。(2017/06/04)

将棋の駒の起源は増川宏一氏の推定から経帙牌(きょうもつはい)か(長さん)

増川宏一氏のものと人間の文化史23-1将棋にあるように、将棋の駒
が五角形なのは、経帙牌を、僧や寺男が転用したためとの説がある。
私は、この説に賛成なのであるが、

増川宏一先生とは違い私は、平安時代後期の
西暦1010年頃に、初めて経帙牌が将棋駒として転用された

と思っている。倭名類聚、源氏物語、枕草子に将棋の記載が無いので、十世
紀に日本で平安小将棋系のゲームが、行われていないと、定説通り考えてい
るためである。しかし、前記「ものと人間の文化史23-1将棋」の、少な
くとも1977年版を読むと、増川先生が、経帙牌を将棋駒として使い始め
たのは、飛鳥時代から奈良時代と推定されているように、私には取れる。
これは経帙牌については、飛鳥~奈良時代時代が、唐からの経典の輸入が、
ピークだったために、その付属品である経帙牌も、その頃が使用の中心と
いう事実があるので、増川先生のような説明に、当然なるのである。
 そこで経帙牌の使用頻度が下がり、32枚の単位で、まとめて入手し辛い
のではないかと疑われる、西暦1010年頃に、将棋を指した人間が、それ
で、最初に指せた理由について、私の考えを以下述べる。結論を先に書くと、

将棋を日本に伝えた中国人と、その時点で、古より経帙牌を日本に輸出して
いる中国人が、どちらも交易商人でかつ、たまたま同一人物だったからだ

と私は思う。彼は、中国の経典の交易商でもあったので、経帙牌も昔から
取り扱っており、写経の需要が減って、そのための経帙牌の要求が、日本の
大宰府の、私設貿易仲介担当者からの指示数として、従来少なくなっていた
とは、当然認識していたに違いない。しかしながら、大宰府で西暦1010
年頃に、私設貿易仲介担当者から突然、
「将棋の駒として、大宰府内で使用するので、こんどは数百枚程度の数で、
まとまった枚数、交易品といっしょに、経帙牌も持参してほしい」と頼まれ
た。だが、中国の経典の交易商は、日本に

将棋を伝来させた張本人であるから、意味が当然判るのであり、「下っ端武
士の道具は、しょせん板切れの束にすぎない」と、内心思って呆れはしても、
ある程度金になりさえすれば、次回に大宰府に交易で来日するときに、当然
言われたとおりに、経帙牌を持って来たのではないかと、私は推定する

のである。
 恐らくこうして輸入された、通例より数が異常に多い経帙牌は、表向きは
大宰府条の御坊に、「写経して作成された国内経典に付帯使用する」のだと
して、一旦卸され、将棋の駒名が、恐らくアルバイトの僧侶等によって、密
かに書き込まれた上で、更に大宰府の武家に、完成品が原価に比べれば相当
高値で、ひょっとすると販売されて、将棋の駒として使用されたのだろう。
なお大宰府条の御坊からは、間を詰めて、試し習字したらしい「桂馬香車歩
兵」と記載された、平安時代後期の木簡だけが、現在出土し見つかっている。
ともわれ、

木簡を削って作るよりこの方が、将棋駒の作成は、はるかに楽で、出来も
よかったに違いない。

 つまり、日本で最初の五角形駒はもともとは、たまたま、大宰府条の御坊
に在庫してあった、昔使用した余り物の32枚の経帙牌が、形から使える
と、将棋を最初に教わった、漢字の読み書きのできる日本人に判断されて、
最初の原始平安小将棋の日本人棋士に、将棋駒第1号として、確かに西暦
1000年頃に、使われたのが起源であったと私は考える。しかし察するに、
五角形木製将棋駒一式2~15、16作目位は、次回の北宋交易のときに、
法外に大量に不正輸入された、経帙牌を駒木地にして作成された、実は元々
「下っ端武士用の将棋道具」だったのではあるまいか。むろんこうした不正
な交易品は、大宰府内だけで、少なくとも初期には限定的に使われて、京都
には行為が隠匿されたのであろう。そのため、運よく直ぐには、大きな問題
にはならなかったに違いない。そしてこれにより、大宰府では最初から、
比較的整った五角形駒で将棋が指せ、更に棋士の数を、増加させることが
出来た。だから将棋が日本に初めて定着する、この地こそが、日本の将棋の
故郷となりえる、大きな要因になったのだろう。と、私は以上のように、考
えているのである。(2017/06/03)

七言「桂馬前角超一目」の言い換えを考える(長さん)

 二中歴の将棋・大将棋の項で、桂馬の動かし方の表現が、表題の
ようになっている。桂馬は桂馬跳びだと決め付けると、桂馬跳び
のルールになるように、この部分を解釈するのだが、特に四文字目
の角を斜めと解釈するよりも、3~4文字目が続いており、「角の
升目のうち、前の2升目」と訳して、斜め45°に跳んで、二升目
先へ行くという解釈の方が、自然だという話がある。「桂馬は昔、
桂馬跳びではなくて、斜め2升目行きであった」というのは、二中歴
の記載も、根拠となっているのである。なおその他、水無瀬兼成の
将棋部類抄の、後期大将棋の桂馬の動かし方の点が、斜め45°に
なっているというのが、斜め前跳び説では、それに加えた、別の証拠
ということになっている。
 すると逆に言うと、二中歴の桂馬のルールの表現は、本来は、
斜め前2升目跳びだったにも係わらず、7言で、他の小将棋の駒に
合わせようとしたために、「3文字目を、前の升目、4文字目を、
その斜め、よって跳ぶ一目は前の升目である」と、無理に解釈して、
他国の『馬』に類似の動きであった、かのように解釈されてしまう、
曖昧な表現であったと言う事になる。しかし、通常は恐らく、
7文字韻のために、こうせざるを得なかったのだろうと、遊戯史学会
では、多数派として見られているのだろう。

 二中歴の小将棋記載では、曖昧な解釈を残す余地が無いようには
出来なかった

と、そう最初から、決め付けられているような空気が、あるように、
私には思えてならない。そこで今回は、本当にそうなのかと、この
ブログでは最近考えてみたので、結果を報告したい。答えを書くと、
桂馬の斜め2升目跳びを、7文字ちょうどで表現するには、

桂馬角攻超一目

と、表現する手が有ったように、私には思える。

桂馬は斜め攻め駒であって、一目跳んで行く

と表すのである。なお「攻」という字は、明確に、相手陣側へ進む意味の
字を探してみたのであり、「進」でも同じでは無いかと、思われるか
もしれない。ただし、進には漢文では”まいらす”と読み、「献上する」
という意味になる、特殊な動詞としての、用法があると言うので、避け
てみた。私のこの「攻」の使い方が正しいかどうかは、私には謎だが、
「進」や「攻」の私の探そうと意図した字に、本当に適切な文字がないの
かどうかについては、一考の余地が依然あるのではないかと私は思う。

個人的には、桂馬前角超一目には、漢文としては2つの解釈がある

ように私も思うが、桂馬跳びだと、少々無理をすれば”曲解”できるよ
うに、二中歴の著者が、不用意に、桂馬のルールを表現してしまったとす
れば、上の結果から若干だが、不可解だとは言えるかもしれないと思う。
 以上のように遊戯史研究者には、歴史学者以上に、漢文和訳の能力だけ
でなくて、和文漢文訳の能力も、ひょっとすると要求されているのかもし
れないと、私は感じている。(2017/06/02)

平安大将棋の飛龍が斜め一升跳びルールの可能性は有るのか(長さん)

以下二中歴の大将棋のルール記載のみを、問題とする。”飛龍・・
行四隅超越”という内容だが、飛龍の駒の動かし方のルールに関して、
一升跳びと、漢文として読めるのかどうかと言う、以下議論である。
結論を先に書くと、

一升跳びとは、少なくとも書いて、無いのではないかと私は疑う。

なお、この部分は、増川宏一氏著書、ものと人間の文化史 将棋Ⅰに
よると、

”飛龍は、・・四隅に飛んでいける”と増川氏は解釈し、

図で、角行の動きを記載している。図の中身から見て、”飛んでいけ
る”の”飛”の字は、飛車角の飛の字を増川氏は当てたと、この成書
に関して解釈してよかろう。”超越”を「幾らでも、数に制限無く走
れる」という意味に取っているとしか、考えられない。そしてこの考
えが妥当かどうかであるが、
「跳ぶそしてまた跳ぶ」が、より正確な解釈とすれば、それで正しい
のではないかと、私も思う。鯨鯢という駒があるが、鯨の大群のよう
な意味だと思う。”鯨、そして鯨”であるから、このケースは、たく
さんの鯨という意味であろう。超越の超と越は、一番判りやすい解釈
は、”跳ぶ”という意味の類似語の重ねだ、という事ではないか。
 従って、これを”斜めに一升跳んで2升目で止まる”と解釈すると
すれば、それは、かなりおかしな訳だと私は思う。

それなら、”飛龍・・行角々超一目”と、単純に書くのではないか。

だが、これに対しては、韻を踏ませる関係で簡略化したという、意見
もあるいは出るかもしれない。しかし、前田家古写本「二中歴」将棋
等を見る限り、7文字づつで、調子を取っているのは、小将棋の駒ルー
ルの所だけで、大将棋の所は、文字数にこだわってい無いように、私
には見える。”超越”でも”超一目”でも内容の確定しやすい方を、
このケースは、書くのではないか。
なお、”跳ぶそして跳ぶ”なら、0跳びのケースが考えにくく”隣接
升目では、留まれない”というルールを書いたとも考えられる。実は
飛龍は、その方が面白いので、それでも良いと私は思っている。

とにかく、2升目跳びという、弱い駒では、あってほしくないものだ。

 つまり将棋のゲームとしての性能に関して、走り駒を2升目跳び駒
にしてしまうのは、かなり影響が大きい。個人的には

飛龍が角行のルールの平安大将棋は、飛龍が後期大将棋のように
2升目動きの平安大将棋よりも、ゲームとしてより優れると見ている。

むろん、飛龍が2升動きだと、猛牛の動きの性格に近似してくるため、
猛牛-飛龍という図式を断ち切って、猛牛-酔象にしたい私の思惑と
違ってしまうために、私の普通唱導集大将棋のモデルにとっても、
この平安大将棋、跳び飛龍解釈は、都合がかなり悪い。よって今の所、

 飛龍の二中歴大将棋記載の解釈については、私としては、最悪
”走り駒類似”で収まってほしいと、祈るような気持ちで居る。

 次に以下、今回の話題からすると蛇足だが、ざっと考えてみた範囲
では、桂馬が桂馬跳びではなくてたとえば、斜め2升目跳びであったと
しても、これまでの議論で、影響が出るのは、

桂馬が斜め2升目跳びだと、普通唱導集2節のように、桂馬を1手で
3段目に上げても、元々位置が2筋違いなため、13升目型の
普通唱導集大将棋モデルでは、仲人の紐にならない点

位で、全然無いとまでは言わないが、より軽微だと思う。2升目跳び
だが、少し跳び方が違うというのは、走りを跳びにするのに比べれば、
影響は少ないという事である。他は9升目制平安小将棋で、桂馬同士
は依然当たるし、8升目制原始平安小将棋で、定跡で攻撃桂馬が、
右桂馬から、玉側にもともと居る、左桂馬に交代する位で、定跡の
中身自体は変わるが、定跡が存在する事に、差は無いような気がする。
 なお、普通唱導集大将棋第2節は、桂馬で仲人という兵駒を支える
というのが、中国シャンチー的な作戦だし、嗔猪と仲人という、兵駒
の性能に近い駒同士で、腹を合わせるというのは、朝鮮半島で指され
る、チャンギ的作戦である。つまり、この唱導集の内容を考えた人間
は、普通唱導集、大将棋第2節の記載の内容から見て、

中国シャンチーと朝鮮チャンギが、両方指せる人間の疑いがある

と私は思う。ところで、このような内容のシャンチーとチャンギは、
馬が何れも8方桂馬であって、跳べる象の動きではない。よって、
普通唱導集大将棋第2節の、具体的内容から見て、

普通唱導集で唄われている大将棋の桂馬は、普通の桂馬跳びである

疑いが、平安大将棋の桂馬に関する、たとえば象駒類似ルール説とは
異なり、かなり強いと、私には感じられるのである。(2017/06/01)