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大理国のミニチュア五色舎利塔(長さん)

前に、埼玉県児玉郡美里町広木の広木上宿遺跡にて、五色の小型宝塔が出土
していると述べた。そして、これは中国雲南省の大理市の三塔主塔で発掘さ
れた、いろいろな貴金属素材で作られている、仏像に関連性が高いとの私見
を述べた。しかし、同じく仏教に関連するとは言え、仏像と宝塔とは、別物
であった。
 ところが最近、雲南省博物館の陳列品について更に調査した所、仏像だけ
でなく、ミニチュア舎利塔も、下図のように大理の三塔主塔で発掘され、
陳列されているのを、発見した。しかも、こちらも、美里町と同じく”五色”
である。
大理仏舎利.gif
美里町のミニチュア宝塔も、舎利塔関連と、日本の発掘者に見なされており、
中国の雲南省大理市と日本の埼玉県美里町からは、ほぼ同じ遺品が発掘され
ていると、見て良い

と私は思う。なお、美里町広木上宿遺跡の五色小型宝塔は、下図のようなも
ので、仏塔であるという点で類である事は、形から見ても明らかだと思う。
美里宝塔.gif
ただし、雲南省大理市の仏舎利塔は、何か5つの遺品をそれぞれに納める、
美里町の五色宝塔とは異なり、ロシアのマトリョーシカ人形のように、内部
に、それぞれの、より小さい部分を、順次格納するための容器である。だか
ら、中心部に遺品は、一つだけ納められ、それを順次囲むように、だんだん
大きな仏舎利塔で、包んでゆくのである。
 もともとは、大理市の遺品が正調だったのだろうが、曖昧に伝わった結果、
埼玉県美里町の五色宝塔のようになったように、私には見える。
 なお、美里町の五色宝塔の五色は、鉄、銅、銀、金銅、金だが、
大理市の仏舎利塔の五色は、鉄、銅、銀、金、琥珀で、琥珀を玉に近いもの
と解釈すれば、こちらは平安大将棋の配列により近い。いずれにしても、
将棋の話を敢えて持ち出さなくても、

美里町出土の日本の中世武蔵武士居住地の五色宝塔は、大きさが同じ程度で
ある点から見ても、大理国の時代とされる雲南の五色仏舎利塔の仲間である

事だけは、ほぼ間違いないように、私には思えた。
 恐らく、大理国の五色仏舎利は平安時代に、日本へ情報か現物も伝わって
おり、平安大将棋の将駒が、5色になる原因の、一つとなったのではあるま
いか。平安大将棋は桂馬と香車が、原始平安小将棋に、一方計4枚存在した
ので、将駒を5色にすると、一方9枚が必然となって、もしかしたら、その
ために、平安大将棋の13升目が確定したのではあるまいかと、大理国の遺
品らしきものを見て私は、以上のように、推定するようになったのである。
(2017/06/30)

11×11升目の”中将棋”は、何故現存しないのか(長さん)

少し前に、私の仮説では、13升目の普通唱導集大将棋の、第3段目の列の
角行を1段下段に落として、列数を元より2列少なくしたのが、中将棋発生
の起源であると述べた。そして更に、元駒の師子の列を加え、酔象を玉将と
並べて、12列に少し戻し、私の推定では、日本では初の、偶数升目型の、
駒数多数将棋になったというのが、中将棋という訳である。が、仮に今述べ
た後半の、師子を加えなかったとして、師子が無いから、ややこれより劣る
としても、11升目制の将棋に、他に欠陥があるとすれば、どのような点だ
ろうかと、最近駒を並べて推定してみた。
 師子列を加えない11升目将棋を、列別に記載すると次のようになろう。
なお、前々回に述べたように、鉄将は、この時代には取り除かれていないと
仮定した。
段番□:⑪列⑩列⑨列⑧列⑦列⑥列⑤列④列③列②列①列
第1段:香車鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将香車
第2段:反車猛豹角行盲虎鳳凰酔象麒麟盲虎角行猛豹反車
第3段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王龍王龍馬飛車竪行横行
第4段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第5段:空升空升空升仲人空升空升空升仲人空升空升空升
第6段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第7段:空升空升空升仲人空升空升空升仲人空升空升空升
第8段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第9段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王龍王龍馬飛車竪行横行
10段.:反車猛豹角行盲虎麒麟酔象鳳凰盲虎角行猛豹反車
11段.:香車鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将香車
私の仮定した、108枚制の普通唱導集大将棋同様、92枚駒がびっしりと
詰まる。108枚制普通唱導集大将棋からは、前に述べたように概ね、猛牛、
飛龍、桂馬、嗔猪、歩兵(それぞれ4枚)が取り除かれ、猛豹(4枚)が
加わっている。
 それに対したとえば、96枚制の鉄将入り古中将棋は、次の配列になる。
段番□:⑫列⑪列⑩列⑨列⑧列⑦列⑥列⑤列④列③列②列①列
第1段:香車鉄将銅将銀将金将酔象玉将金将銀将銅将鉄将香車
第2段:反車猛豹角行空升盲虎鳳凰麒麟盲虎空升角行猛豹反車
第3段:横行竪行飛車龍馬龍王奔王師子龍王龍馬飛車竪行横行
第4段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
第5段:空升空升空升仲人空升空升空升空升仲人空升空升空升
第6段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第7段:空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升空升
第8段:空升空升空升仲人空升空升空升空升仲人空升空升空升
第9段:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
10段.:横行竪行飛車龍馬龍王師子奔王龍王龍馬飛車竪行横行
11段.:反車猛豹角行空升盲虎麒麟鳳凰盲虎空升角行猛豹反車
12段.:香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車
なお両者の駒数の差は、2枚づつの師子と歩兵の追加である。なお、現存の
中将棋では、更に鉄将が減り、猛豹が1歩づつ下がって、92枚制となる。
さて、そうして両者を比べて結論を述べると、
 11列制では、自分の側についての龍馬角行が、互いに筋違いにならない
ため、6七(8九)龍馬と予めしておくと、相手の右辺を、龍馬2枚と角行
で、斜め攻めする手筋が見えるが、12列制では、龍馬角行筋が互いに筋違
になるため、

11列制では依然、相手の右反車を攻めやすいが、12列制では攻めにくく
なる。

そこで12列制にして、普通唱導集時代の端攻め定跡を、完全に無くそうと
したのが、12列という偶数列将棋を、敢えて中将棋の作者が作ろうとした
理由と、明らかに推定できると私は思う。
 そのため、特別な規則のアイディアを、恐らくもともと持っていた中将棋
の作者は、師子列を加えて、中将棋の初期配列を、ほぼ完成したのではない
か。つまり11列の奇数制で、自分の左右の角筋が、互いに筋違いにならな
い、11×11升目制の小さな中将棋は、9、11、13と、本来なら、小、
中、大将棋の升目数が、等差数列で並んで、もっともらしかったのかもしれ
ないが、実際にはそれで、ゲームとしては残らなかったのであろう。
 そして、私が推定するに、中将棋が12升目制になったために、等差数列
にしようとして、後日、15升目制の後期大将棋が、更に形式的に、作られ
たのではないのだろうか。
 その結果、自陣の段数が、段総数の、それぞれ1/3になり、小、中、後
期大将棋は、見栄えとしては、もっともらしい形として、書物にもかえって
全部、書き残される事になったのではないかと私は思う。(2017/06/29)


普通唱導集大将棋にはなぜ、元からの師子が無いのか(長さん)

私が13×13升目の普通唱導集大将棋を考える際、師子は麒麟の成りにしか
存在しないと考えた。しかし、師子の動きが、発明されているにも係わらず、
元からの師子の駒が存在しないと仮定するのは、普通唱導集にそれが、言及さ
れないという理由を挙げたとしても、恣意的ではないかとの、批判もあるかも
しれない。事実、将棋研究家の溝口和彦さんは、最初も成り駒としても、師子
の存在は論外と、考えておられた。この点について、私は少なくとも現時点で、
次のように考えている。すなわち、

普通唱導集大将棋の時代にも、元から師子の駒を、棋士は誰でもイメージでき
た。が、それが有ったとして直ぐに互い取りされると、当時は決めて掛かられ
ていた。そのため、麒麟の成りにしか存在し無いのは、不自然とは誰も考えな
かった

と、私は推定する。つまり、師子に関する特別な規則がイメージできるように
なったため、元からの師子駒が、中将棋になって、初めて使われるようになっ
たのだと、私は推定すると言う事である。
 従って、私は師子が存在する、12升目制中将棋が出来た時点で、ほぼ、そ
れと同時に、「取り返される師子は師子で取る事が出来ない」というアイディ
アを根本とする、”師子に関する特別な規則”の骨格は、出来ていたのだと、
推定している。
 つまり普通唱導集の作者でさえも、鎌倉時代中後期には麒麟の成りの師子が、
独立に元から存在する将棋を、イメージは出来たが、その将棋の師子は直ぐに
交換されて、元から存在しないに等しい駒と考えられたため、敢えて師子を、
彼が作った将棋には、加えなかったのではないかと、私は考えているという事
である。(2017/06/28)

中将棋の作者が普通唱導集大将棋猛牛、飛龍、桂馬、嗔猪を猛豹に交換した訳(長さん)

 仮説13×13升目108枚制普通唱導集大将棋が、仮に中将棋のルーツで
あるという考えが、正しいとすると、桂馬、嗔猪が、唱導集第2節で出てくる
事から明らかなように、普通唱導集大将棋の定跡発生の戦犯駒であるから、し
かたないにしても、猛牛と飛龍は”無実”であるはずである。しかし、中将棋
を作成した作者は、これらの駒を残さずに取り去り、代わりに猛豹を入れたと
考えられる。ではなぜ、わざわざ猛豹を考えたのであろうか。
 純粋にゲームが面白いかどうかという点に関して言えば、猛豹は猛牛であっ
ても、余り変わらないと私は思うし、むしろもともと角行の動きだったとみら
れる飛龍は、残した方が、良いくらいかもしれないと思う。ただし、猛牛は、
1升目に止まれない走りというのが、日本の将棋にはマッチしていなかったし、
飛龍は角行が存在するにもかかわらず、それとルールが同じになるのは、気に
入らなかったというのは、あるかもしれない。だから龍王や龍馬は、同じ龍駒
でも残されたのだろう。ただし、以下の点もあるのではないかと、私は思う。

結局、普通唱導集大将棋から、猛牛、飛龍、桂馬、嗔猪を取り除くと、減らさ
ない12支駒が、盲虎だけになってしまった。その為、12支のうちの2つだ
けを残すと、「古来より、12支の駒を、将棋駒へは使うべき」と主張する、
”保守派”から、「どうしてその2種類が、特別なのか」と、攻撃される恐れ
があるのを、避けるため

に、虎のメスと、当時は考えられた豹を新たに作り、「虎が龍並みに強いから」
と言う点が、強調できるようにした。また盲と猛でほぼ同じ意味のため、豹駒
は、名前を猛豹にした。
 つまり、ルールの都合ではなくて、名前の語呂合わせから、猛豹を作ったと、
考えられるのではないかと、言う事である。逆に言うと、豹駒は、12支駒で
削除しないのは虎駒、という局面になったとき、だけになって初めて、入って
いてしかるべき駒と、考えられたのであろう。だからやはり、普通唱導集大将
棋には、12支に含まれない猛豹は、無かったと結論した方が、良さそうだと
私は考える。
 なお鉄将も戦犯では無いが、取り除いた訳は上記より、解釈が難しい。ある
いは、当初、猛豹は現在の位置の前の升目にあり、後期大将棋の動きの鉄将は
存在して、中将棋は96枚制だったのかもしれない。ところが相手の龍馬と角
行に初期位置で、経路が当たっている竪行に、後退路があった方が、端攻めが
恒常化しないと、考えたのかもしれない。その結果、中将棋の成りが決まる直
前に、鉄将が取り除かれると同時に、猛豹がひょっとすると、1歩下げられ、
今の位置に、有るのかもしれないと私は思う。(2017/06/27)

補足・中将棋の成立以前に、天竺大将棋が無い根拠(長さん)

前回、中将棋の成立以前には、日本に原始平安小将棋以外に、偶数列升目
の将棋は無いと、私は述べた。しかし、現行で知りえる歴史的な将棋とし
ては、偶数升目のものとして、中将棋以外に、大局将棋、天竺大将棋の2
種がある。ただし大局将棋については、日本では江戸時代以前に、知られ
ていたとの記録の無い七国象棋ないし、荻生徂徠作成の、19升目の和製
広将棋の影響により発生したと見られる、弓兵、弩兵等が存在する。ので
この将棋は、江戸時代の作と推定される。なので南北朝時代より存在する、
中将棋よりは、大局将棋は明らかに後の時代の物である。では、残り16
升目制の天竺大将棋が、中将棋に、先行して存在しない理由として、明確
に挙げられる根拠は、有るのであろうか。一般には、水無瀬兼成の将棋部
抄に無く、その他天竺大将棋が、安土桃山時代以前に、文献に現われた例
が無い点を、挙げるケースが多いのかもしれない。ただし、水無瀬兼成の
時代には発見できず、その後どこからか、出てきたという可能性は、本当
にゼロなのであろうか。
 この点について、本日は補足を書く。すなわち私が根拠として挙げると
すれば、以下の点があると思う。すなわち天竺大将棋に存在する、事実上
不正行度踊りに近い働きをする、火鬼2枚、四天王(4枚存在可)、副将、
獅鷹、師子の9枚の、ジグザグ複数動き駒を含む将棋が先ず有って、それ
を調節して師子1枚だけが、ジグザグ動き駒である

1枚の駒だけ、ジグザグに複数動きをする中将棋だけが、後で結論的に残
る可能性は、ほとんど無いのではないか

と考える。たとえば、14升目程度の中間的将棋が存在し無い事が、根拠
になるのではないかと思う。つまりもしそうだとすれば、9枚が2枚とか、
3枚程度に散漫に減らされた、上記の升目数程度の将棋も、おおかた後に
残って、記録が残るのではあるまいか。逆に、師子が存在し、更に”特別
な規則”によって、それが余り消失せずに残る、中将棋の存在が、最初に
有って、しからば師子のような駒の数を、桁違いに増やしたら、という発
想から、天竺大将棋が作られたら、今見る形になるのだろう。私にはそれ
が現実のように思えてならない。ただし、南北朝時代以前の文献に、
天竺大将棋が現在は発見されていないため、上記の私の推定は、現時点で
の史料とは矛盾が無い。が何か別の史料、たとえば、鎌倉時代の遺跡から、
火鬼と書かれた駒が、将来出土してしまうと、上記の推定は、あっけなく、
修正を要するようになる事も、また確かではある。(2017/06/26)

中将棋の作者は、どうして偶数升目将棋が作れたのか(長さん)


中国・朝鮮半島の象棋の歴史記録が、岡野伸さんの自費出版した、世界
の主な将棋に載っている。それによると、シャンチーやチャンギの類で、
筋数が偶数路のものは、”原始象棋”以外には載ってい無い。また、日
本の将棋についても、恐らく中将棋を作成した、南北朝時点で、原始平
安小将棋以外には、偶数筋の将棋も無かったのではないかと私は考える。
これは、後期大将棋が、中将棋ができる以前に、存在しても後期大将棋
は15筋升目なので、同じことである。大将棋の謎と、これも少し外れ
てしまうのだが、この中将棋の謎についても、以下簡単に触れる。結論
からすると、

14世紀の時点で、ヨーロッパのチェスに近いゲームの情報が、伝わっ
ていた

と私は推定する。なお、私流の考え方で、なぜ中将棋が12筋になるの
かと言えば、

元からそうである師子を加え、角行をより下段に退けさせると、
13×13升目108枚制普通唱導集大将棋は、必然的に12筋になる

のである。
つまり普通唱導集で、嘲って(あざけって)唄われている、定跡発生に
関与した駒のうち、角行を、大駒列である3段目から排除するという、
アイディアに気がついたから、大・小のほかに、日本には、大将棋より
盤升目の少ない、中将棋が発生し得えたのだと私は考えている。
しかし、ここで問題にしているのは、

偶数升目だと、玉将をちょうど中央には置けないが、副官駒と並べれば
よいと、中将棋の作者は、誰に教わったのだろうか

と言う事である。むろん南北朝時代まで、8升目型の原始平安小将棋の
記憶が、残ってたとすれば、話は簡単だが。
 そうでないとか、また、私の現在ここで主張している説が、潰れたら
どうなるのだろうかと、ひとごとなのであろうが、考えてしまう。一番
簡単な解決方法は、

チェスのような升目のゲームも、日元貿易時に、鎌倉時代末期までには
伝来していて、偶数升目の外国のゲームを、日本人の特に、ゲームのデ
ザイナーは知っていた、と仮定する

事だろう。前回述べたように、元代の大陸との情報交換は、結構盛んで
あったようだから、マルコポーロの日本伝説も、ぼんやりとだろうが、
ひょっとすると、日本には伝わっていたほど、だったのかもしれない。
当然、日本人でも教養のある人間は、とんな国に分かれている等、詳し
い事は判らないにしても、日元貿易が存在して、書籍が輸入されている
以上、ヨーロッパが存在する事自体や、シャトランジ型の8升目ゲーム
が、存在するとだけ程度までなら、南北朝時代には判っていた可能性が、
かなり高いように、私には思われるのである。だから、中将棋のような
偶数升目の将棋も、発生できたのではなかろうか。外国の情報の、わが
国への流入が理由で、中将棋が12升目になった可能性は、かなり高い
と私は考えている。(2017/06/25)

日元貿易時代の外国遊戯の情報流入(長さん)

前に、元寇の頃には、日本と高麗の関係は冷えており、現代の日本と北朝鮮
の関係と同じで、駒数多数チャンギの情報が存在しても、元寇の頃には詳細
が輸入されないかもしれないとの旨の、仮説を述べたことが有った。実際に
は、普通唱導集大将棋が、升目の数で、平安大将棋と同じになりやすいため、
日朝関係が元寇の頃には、今の北朝鮮と日本との関係と同様に、冷えていて、
情報が限られていた方が、このブログの論旨にとっては、有利な事も確かで
あった。しかし、韓国歴史教科書研究会等編集の、2007年明石書店発行
の「日韓交流の歴史」(日韓歴史共通教材)を読むと、13世紀の日元貿易
と、14世紀の日明貿易との間で、遊戯関係の情報の日本への流入量に関し、
さほどの差が、で無いのではないかとの心象を受ける記述を、最近発見した。
 同著によると、貿易の形式は、明の時代には朝貢冊封体制に、日本も従い
対明貿易を行う等、13世紀の対元貿易とは違いが有るという。しかし結局、
日本が中国から、輸入する物品の内容を比べてみると、同書によれば、
 13世紀の対元貿易時の輸入品は、銅銭、陶磁器、茶、書籍、絵画
 14世紀の対明貿易時の輸入品は、銅銭、生糸、高級織物、書物、書絵
との物品名が記載されていて、

書物や”図関連”とか、情報を持ったものが、大陸からの輸入品にある事に
は、大差が無いように思えた。

だから、今の韓国・北朝鮮発の情報量も、元の時代と明の時代とで、差が
無いと、疑ったほうが良いのではないかと、私には思えるようになった。つ
まり、思いのほか日元貿易は盛んで、情報の停滞もなかったと、この書から
読み取れる、ようなのである。
 そもそも、今の日朝関係と異なり、日本と元・高麗の関係が、軍事的には
冷え込んでいても、交易は無くならないのは、蒙古が広大な領土を所有し
ていて、保持物品や情報量が、遠くヨーロッパ発にまで及んでいることを、
鎌倉幕府や朝廷も、当然知っていて、メリットを感じていたからであろう。
その点で後ろ盾が東アジアに限られる、中華人民共和国止まりの、現在の
北朝鮮とは、大きな違いがあると、気がつくべきだったと、同書を読んで、
私は反省させられた。
 だから、元の時代に仮に高麗で、15列14段制のチャンギが発明されれ
ば、蒙古襲来の頃であっても、情報が日本に入ってくる可能性は、かなり
高いのかもしれない。恐らく、

その結果、13升目制の平安大将棋の升目数を、日本人の大将棋棋士総体が、
たとえば15×15升目に変えると、認めるかどうかだけが、変化するかど
うかを、決めるだけなのかもしれない。

 認めないでくれるようにしないと、このブログにとっては困る訳だが。
認めなかったろうという立場に立ったとしても、証明するのは、厳密には困
難だと感じる。
 傍証として挙げられるのは、江戸時代に改暦の際参照された、グレゴリオ
暦と同じ回帰年、365.2425日を採用した元の授時暦を、高麗は
取り入れたが、日本の鎌倉幕府内で、改暦の動きは無かったという事位であ
ろう。
 つまり、たとえば西暦1220年頃の時点で、その400年程度前に完成
した宣明暦には、太陽の天球上の位置に関して、西へ1度のズレ(回帰年が、
約1/400日長すぎ)があった。それに無理やりあわせるために、月の
位置が1度西にズレた暦を、使わなければならないはずなので、角度で月の
大きさ2つ分、月の動きの時間で、2時間分の東西位置の違いを、検知でき
れば、三島地方暦の発端との仮説もある、鎌倉幕府の陰陽道の係りの役職の
御家人にも、鎌倉幕府の仮設の暦編纂所に於いて、星座に詳しければ、目視
で暦に誤差があるのを、検知できたはずである。しかし当時は、蒙古文化は、
月の位置に、相当注意しなければ判らない程度なら、ひょっとして取り入れ、
たがらない傾向が、有ったのではないか。そう仮定すれば、改暦が日本では、
蒙古来襲の頃が、良い暦が中国で出来た、絶好の機会だったはずにも係わら
ず、たまたまそれをそのときに、行わなかったのが改暦間隔の開いた原因か
もしれない。結果、宣明暦使用期間が、本来なら約400年のはずが、
約800年にまで、伸びてしまったのかもしれないと私は思う。そして江戸
時代には、宣明暦誤差が、鎌倉時代の2倍強に増え、それでも私には、どっ
こいどっこいの、検出に要する努力の差だと思えるのであるが、江戸時代に
は、蒙古への敵対心は、既に遠い昔の出来事と忘れ去られたため、暦誤差が
大いに問題になって、武家方の幕府によって今度は、改暦がなされたと、一
応は説明できるのかもしれないとは、考えた。
 つまり鎌倉時代にも、賢明な者による、元王朝の情報力の強大さから、
”大陸物は、たいがいは取り入れたほうが良い”という意見は、当然あった
のだろうが、

仮に、日本人はその時点での多数派が、今回引用した「日韓交流の歴史」の
言うように、仮に”夷狄観等の発展した朝鮮蔑視観を持っており”、よって
15×14路制チャンギ型が、仮に猛古来襲時程度に、完成伝来した場合に
は、それを参考に、上記の蔑視観が理由で、大将棋の転換をしなかった

と仮定できれば、そう出来た場合に限り、15升目型後期大将棋への、朝鮮
駒数多数チャンギゲームからの影響は無い、と証明できるにすぎないように、
思えた。以上のように、15×14路制チャンギ型広将棋は、室町時代にで
きたか、あるいは日本人の、排外意識等が、鎌倉時代の中期には強かったか、
どちらかの理由で、大将棋へは影響が無かったというケースにしか、無視は
出来なくなったと、私は腹をくくるに至ったのである。(2017/06/24)

1993年の発掘で、興福寺から16枚中4枚金将が出土したのか(長さん)

幾つかの遺跡では、駒がまとまって出ているため、駒個々の様子だけで
なく、出土した枚数のばらつきから、ゲームの種類を推定できる可能性
がある。天童市で作成された成書、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」
には、巻末に出土駒種類の集計が表に載っているので、それを見ながら、
駒種それぞれの、将棋種を仮定したときの、理論比率に対する、実際の
出土数のバラツキを、簡単に調べることが可能である。
 それによると、特に顕著な現象として、

①興福寺の1993年の発掘で、16枚中4枚金将が出土したとされる
のは、8升目制原始平安小将棋の道具と仮定したときの、期待値約1枚
に比して、有意に多い。

という事実がある。実はそれよりも顕著だが、
②一乗谷出土駒に、角行が理論数の約6枚のちょうど倍の、12枚出土
している、というのがある。しかし②については、ここでは特に、問題
にしないことにする。昨日のべたように、②から、ひょっとして、角行
を2枚加えた40枚制持ち駒型の小将棋や、角2枚と、中飛車の位置に
飛車の入る、3枚大駒の有る42枚制の小将棋も、実はあったのではな
いかと連想させるが、これは日本将棋の歴史に関連するだけで、大将棋
の問題からは、一応外れると私は思うからである。
 それに対して、興福寺の20世紀における発掘で、金将が多いという
方は、最初から金将を、一方にたとえば2枚入れた、升目が9升目の
将棋を、11世紀半ばに問題なく指されてしまうと、12世紀の初めか
ら半ば程度に、13升目の大将棋が、発生しなければならない理由が、
謎になってしまうため、このブログの流れに対する影響は、大きいと、
私は思う。興福寺で指された将棋では、16枚駒が出土するときには、
金将が、平均して1枚程度であるのが、このブログに今まで書いた内容
からすると、有っているかどうかと言う点では、好ましいのである。
 なお、偶然というのが数学上は考えられるので、確率計算をする必要
が、このような議論には、絶対に必要である。金将が出る確率は、元々
1/16と小さいので、偶然起こり得るばらつきの範囲は、
ポアソン分布表で調べられる数値に基づくものと、ほぼ同じ結果だろう
と、私は考えてみた。そこでポアソン分布表を引くと、
3つ出る確率は、ほぼ16回に一回、それに対して、
4つ出る確率は、ほぼ65回に一回程度である。
以下、あくまで私の感覚だが、このケースには結局、

3個までならなんとか許されるが、4個だと異常と見るべきだと思う。

なお、1993年の発掘で玉将もやや多く、3個出土している。王将と
半々だとすれば、確率は80回に一回位になり、王将は無いと見てよい
と思う。しかし、玉将が玉駒の全てとすれば、偶然としても仕方ない
数だと、私は思う。
 なお、こうした議論を続けていると、”粗捜しだろう”という批判も、
通常通り飛び出すだろう。ただ、出土駒の世界に関しては、平泉の中尊
寺境内遺跡と、大阪の高槻城三の丸遺跡の出土駒が、それぞれ8升目制
原始平安小将棋、日本将棋として、ほぼ正常な駒種割合となっているた
め、意図的に偏りを探しているという批判は、当たりにくいと、私は思
っている。
 では、平均して1枚しか出ないはずの、金将が、1993年の興福寺
の発掘で4枚出た原因であるが、以下いつものようにすばり、結論とし
ての、私見を述べる。すなわち実際には、

3枚しか金将は出土しておらず、成書「持駒使用の謎」に紹介されてい
る、清水論文の番号の付け方で、第7番の金将は桂馬であって、成りの
金将を表面と誤認している疑いがある

と私は思う。つまりこの駒は、何も書いてないと、説明されている駒の
片面の実際の写真を見ると、桂馬と書いてあるようにも、私には見える
という事である。なお、この駒が桂馬だとすると、桂馬とされる出土駒
の裏の書体が、特殊だと私が以前説明した事柄が、駒によってばらばら
で、特に規則性が無いと、変更もされるように思う。
 以上のように、特定の一枚の出土駒の駒種の推定に、仮に劣化が激し
いために誤りがあるとすれば、興福寺出土駒からは、将棋種の推定等は、
はっきりとは出来ない状態と、見るべきなのではないかというのが、私
の個人的な印象である。
 ちなみに、最近2013年に興福寺では再度発掘が行われ、酔象が、
駒で出土した事で著名である。調査すると、新たな出土駒は、

酔象、桂馬、歩兵、不明の4枚のようである。

1993年当時の16枚が20枚になりかつ、もともと、桂馬と歩兵は、
少なすぎる傾向で有ったため、状況が少し好転した。しかし金将につい
て、20枚中4枚では、ポアソン分布で65回に一回程度が、35回に
1回程度、玉将の20枚に3枚の方は、16回に一回が、11回に1回
になるだけなので、なおも桁は変わらず、ほぼ上記の結論で、良さそう
だと思える。(2017/06/23)

訂正・中将棋の成りの成立。初期配置が確定してから、ほどなくか(長さん)

かなり前だが、中将棋の成りの成立について、猛牛と飛龍が両方存在
しないと、竪行の成りの飛牛が、できないのではないかと、述べたこと
があった。実はその時点で、猛牛は飛龍の斜めを縦横に反転させた駒と
決め込んでいたため、後期大将棋が成立しないと、飛龍が2升目動きに
変化しないので猛牛が発生せず、中将棋の成りに、飛牛が作れないので
はないかと、考えていたからだ。しかし、現在は猛牛は、西暦1300年
前後の、普通唱導集時代の大将棋には存在し、当時は、酔象のシャン
チー象の古い時代の斜め動きを、縦横に反転させた駒だったのではな
いかと、私は考えるようになっている。そのため、後期大将棋が成立して
いなくても、新しい駒の名前としての飛牛が、作りやすくなると、考えられ
る。そのため、中将棋の多彩な成りの成立時期を、さほど後に、ずらさ
なくても構わないのに、その後気がついた。むしろ、

108枚制の普通唱導集大将棋を仮定すると、猛牛、嗔猪、飛龍、奔王
の既存の駒が存在すれば、中将棋の竪行と横行の成りの、飛牛、奔猪
という駒が名前を、組み合わせて作れるので、108枚制に増やした、
普通唱導集大将棋の存在が、よりもっともらしくなる

ように思える。出土駒を調べた範囲でも、中将棋草創期にはあったに
違いない、不成りの中将棋駒は、不確かな鎌倉鶴岡八幡宮遺跡駒
以外、出土している気配が無い。そのため、もともと、”室町時代早
期まで不成りの中将棋が幾分長く存在”という仮説には、無理があった
のかもしれないと思えてきた。
 しかしその結果実は、中将棋の成りの成立時期を、早く見れば見るほど、
今度は日本将棋の成立時期の推定が、早まるという影響が、当然出る。
何故なら、

龍王、龍馬という飛車と角行の成りが成立してから、持ち駒有型9升目
制平安小将棋へ、これらが取り込まれた

と考えるのが、ルールの微調整段階で、変種が複数出来た気配の余り無
い、日本将棋の性格上、そう考えたほうが自然と、私が見るからである。
 ではなぜ、中将棋の勃興と、日本将棋のはっきりとした出現は、定説
では西暦1400年頃と西暦1500年頃というように、100年位も、
差があるのであろうか。事実だとすれば不思議であるが、原因が、

中将棋の成り駒の成立が早くなると、阻害要因がはっきりしなくなる
ため、私には良く判らなくなった。

ただ、このブログのテーマからは、この問題は少し外れるので、今は多
くを、述べ無い事にしたい。一応、私流の推量を先に書くと、
龍王・龍馬成りの飛車角の代わりに、飛鷲・奔猪成りの龍王と横行
とか、飛牛・角鷹成りの竪行と龍馬とか、いくつかパターンを変えて、
それぞれ平安小将棋を持ち駒ルールで指してみて、日本将棋並みのゲー
ムが、万が一複数作れるようなら、加える大駒を

飛車角の組み合わせにするよう決定するまでに、時間が掛かったため

と言えるように、一応は思えるとだけ指摘する。(2017/06/22)

なぜ今の天文マニアと違い、囲碁が打てると持統天皇に好かれたのか(長さん)

何回か前に、私は囲碁の日本に於ける起源に関し、奈良時代の少し前の
持統天皇の時代に、日本で定朔の儀鳳暦を採用すべきかどうかを判断する
ため、月の視位置の観測が不可欠となり、恒星の並びを即座に判断する
練習の一つとして、囲碁が推奨されたのが、原因ではないかと述べた。が、
この仮説には、更に突き詰めると、次のような難点が浮かぶ。すなわち、

現代の天文マニアが通常、「星座に詳しい」のは、囲碁が上手になるよう
な感覚が、備わっているからでは特段無い

という事である。つまり恒星の配列の把握に慣れるのに、囲碁の局面把握
の感覚は、特段必要とは、通常特に指摘されたことは無い、という事であ
る。それは、戦争をする最中、戦略を練る時に、少なくとも雰囲気として
役立ちそうな将棋とは、かなり違う点である。そこで私の推論が、おかし
いのかどうかを、ここでは再度問題にする。結論を書くと、

西洋の星座と中国の星座とは、具体的に性質が大きく違い、後者は抽象的
で、名前で意味する人や物の形を、星の並びが象徴する傾向が少ないため、
現代の「星座に詳しい」とは、条件が大きく異なるのではないか

と私は考える。西洋の星座は基本的に、並びの形を、名前で示した人なり
物の形に、見た結果として、その名前で呼ぶという、性質のものである。
しかし適当に、天文学史の書籍を参照すると明らかだが、中国流の日本で
朝廷が用いた星座は、天を宮中に見立てて、帝を中心に、星の幾つかの束
に、具体的な物の形との類似性は二の次にして、多分に無理やりに、役職
名等を割り当ててたような、命名法になっている。つまり星座の形を見て
も、名前と自明な対応が、中国流の星座にはほとんど無いのである。つま
り、形は抽象的で線で、恒星を繋いでも、その形には、たいてい見えない
ものなのである。その為

抽象的で、具体的な物の形には必ずしも結びつかない、幾つかの星の束の
配列を、なんらかの意味付けをしながら暗記する能力

が、西洋流の現在用いている星座を覚えるのと違い、西暦700年より
少し前の、月を観測する役人には、強く要求されたと考えられるのである。
 だから、囲碁のゲームを、私のようによく知らない者が、「この形では、
死んでいるとか生きている」とか言われても良くわからない、囲碁の石の
「この形」の配列を、多数暗記する能力は、中国式や、日本でも江戸時代
になると、幕府の天文方によって真似られた、官製の日本式の星座に
”詳しくなる”ためには、すこぶる適した能力と、当時は見られたと、
考えられるのである。
 なお蛇足だが江戸時代になると、民間の特に船乗りは、形が具体的に
名前の物といっしょになる、メソポタミアで生まれた西洋星座と、同じ
ような感覚で、星の配列を名前の形で呼ぶ、いわゆる「日本の星」も、
古典的な「すばる」のような少数例に加え、多数生じたと聞いている。
 以上のように、少なくとも飛鳥時代の日本では、西洋の88星座では
なくて、中国流のもっと形が抽象的な星座の中に居る、月の位置を観測・
把握する能力が必要とされたために、囲碁が匠に打てることは、やはり
”日本の中枢の意向に沿う”役人の個別能力と、その当時は見られていた
のではないかと今の所考えて、誤りは恐らく無いのではないかと、私は
見ているのである。(2017/06/21)