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桂馬跳びの動きと桂馬の初期位置の謎(長さん)

日本の古い時代の将棋で特徴的な点の一つに、桂馬の動きをする駒が
少ないという事がある。実際桂馬跳びをするのは、幾つかの将棋種に
ある、桂馬自身と、和将棋にある、風馬の成りの天馬位である。しかも
天馬の場合、たとえば、ものと人間の文化史23-1将棋で紹介され
ている、象戯図式の和将棋では、「桂馬跳びの動きをする」と解説さ
れているにも係わらず、図示では桂馬跳びと表現されていない等、不可
解な駒である。特に日本の将棋には、正面動きを方位角0度として、
方位角約26.5度のX=+1、Y=+2の動きの桂馬は有るが、その
他の方位角、たとえば約63.5度のX=+2、Y=+1の動きの駒が、
全く存在しない。ようするに桂馬跳びの駒は、存在が桂馬以外には、
はっきりしないのである。理由は前に述べたが、結局、小将棋以外は、
文書でゲームのルールが伝わるだけで、口伝では、歴史の途中で、
どのゲームも伝承が、どこかで途絶えている証拠なのではないかと、
私は思っている。墨と筆で駒の動かし方のルールを、桂馬跳びルールは、
縦か斜めの場合に比べて、表現し難かったのだろう。
 そのために、桂馬跳びの駒の記憶が、桂馬以外には、100年という
タイムスパンでは、伝わり難かったので、有っても消えたと私は考える。
水無瀬兼成の将棋部類抄の、桂馬の動かし方ルールの表現が、方位角
45度になって問題になっているのを、その証拠の一つと見ていると言
う事である。
 ところで、桂馬跳びをする、事実上唯一の駒である桂馬には、

摩訶大大将棋で、相アタリする4段目位置に、相手と12段差で配列さ
れている

という別の謎もある。他で、桂馬が相アタリするゲームは、標準型の
平安小将棋、現代の日本将棋、朝倉小将棋、平安大将棋、13升目型の
仮説普通唱導集大将棋である。なお、中将棋と大大将棋には桂馬は無く、
天竺大将棋と泰将棋、それに15升目型の後期大将棋は、8升目型で
段差が7段の原始平安小将棋同様、それぞれ天竺大将棋が15段差、
泰将棋が22段差、後期大将棋が14段差となっていて、それぞれ
桂馬が、相アタリしない位置に、配列されている。

これらの事実には、何か理由が有るのだろうか

というのが、今回のメインテーマである。そこでまず結論を書くと、
13升目型の平安大将棋と、15升目型へ移行する直前までの、仮説
普通唱導集大将棋で、桂馬の段差が12段なのは、9段型の標準平安
小将棋で相アタリする結果、ある程度の何らかの回避手筋が、確立さ
れ、

その後で作られたゲームのために、手筋が類似になるよう、上位互換
性を持たせるという意図で、12段差が選択されたという理由も、何
か、有ったのかもしれない。更に、摩訶大大将棋で12段差なのも、
同様の意図が、こちらにあるのは、むしろ濃厚なのかもしれない

と私は、薄々だが考えている。
 ただし具体的に、9升目型標準平安小将棋の”桂馬相あたりの回避
手段が、どういうものなのか私には、はずかしながら考えても、実は
良く判ってい無い。
 何れにしても、そのような意図が有って、桂馬の位置を決めている
とすれば、

摩訶大大将棋も、後期大将棋とは違って、実際に本気でゲームする事
を狙って作られたゲーム

と言う事になろう。また15升目型の後期大将棋は、飾り物的なゲー
ムであり、実用性が希薄な証拠の、あるいは一つなのかもしれない。
 個人的には、桂馬12段差型は8段差に比べて、桂馬同士のすれ違
いの確率が、実戦上は増えるので、同じでは無いと考えている。桂馬
段差4の倍数型でも、8段ではなくて12段差にしたのは、あるいは、
すれ違いの確率を、適度にするための、調節なのかもしれないと思う
が、私には良くわからない。そもそも、攻め駒が増加すれば、桂馬の
駒価値は、相対的に低下するので、そのせいで後期大将棋が、つまら
なくなっているという可能性も薄いと思う。が、この事自身に、何か
情報が含まれている可能性が、絶対無いとは言い切れないと思うので、
各将棋の桂馬位置については一応の注意は要すると、現時点でも警戒
してはいる。(2017/06/20)

平安大将棋の陣形が凸型の兵棋なのは、武経総要の挿絵図がもと(長さん)


前回このブログで書いた、日本の大将棋の類の全体としての陣の形が、
兵棋の凸型になっている問題について、その後予定通り更に調査した。
 中国の史料だが、戦争時の兵法について書かれた官製の書が、

日本の平安時代後期の宋の時代、すなわち西暦1040年頃の、程よい
時期に作成されており、その書には兵の分散のさせ方、いわゆる戦陣に
ついての説明が、書の中に、珍しく文章ではなく、図として挿入されて
いる、

との情報が、幾つかの現代の、日本の百科事典により得られた。中国の
当時の宋の時代の書籍の名前は、本日の表題のように”武経総要
(ぶけいそうよう)”と言うようである。
 平安大将棋が作成されたのは、恐らくその数十年後であるから、
この書の”戦陣を図版という図で示す”という、アイディア自体が存在
するので、私はそれがあれば、日本国内で、兵棋型の凸型戦陣キャラが、
発生するのは、必然だろうと私見された。すなわち、オリジナルの武経
総要における、戦陣キャラの形が、たとえ少し違っていても、日本人が
適宜、凸型の戦陣キャラを、西暦1100年頃までには考え出す事は、
充分可能だと結論したという意味である。
 なお、実際の書の図は、現時点で私には確認できていない。webで
同書は、中国のサイトで紹介されている。それによると、日本の現代の
百科事典に記載の”戦陣図”は、武経総要の第8巻に、載っている事が
判る。ただし、そのサイトに図そのものは、今の所抜けているようであ
る。それに対して、武経総要を紹介した日本の現代の書物に、古代の兵
法の戦陣図が、おそらく、武経総要の第8巻の図をまねて記載されてい
る。それによると、戦陣は凸ではなくて、基本長方形になっている。
 むろん宋の時代の武経総要は、私が確認できていないだけで、現存は
する。ので、図絵の正確な内容は、私には、たまたま現時点で判らない
だけである。
 そこで仮に、武経総要の挿絵図の、戦陣の形のキャラが、凸型ではな
くて長方形とする、私の現時点での懸念が正しかったとしても、日本人
が、それを見れば、戦陣を他人に説明するのに、図を使うというアイデ
ィアが、西暦1050年前後以降には、当たり前になると、推定できる
と私は見る。実は、それが大切だと私は思う。何故なら日本で、何人か
が武経総要を真似て戦陣図を書いているうちに、長方形から凸型に変え
た方が、正確に見えるのに数十年時間があれば、その間に当然、気がつ
くに違いないと、思われるからである。特にそれを学習する者が、将棋
を指す者なら、将棋駒が長方形ではなくて、五角形である事から、戦陣
印が図で、敵味方のどちらの戦陣について、書かれているのかについて、
長方形を五角形とか凸型に変えれば、より正確に、相手に通じる事には、
すぐに、気がつくに違いないと、容易に推定できるからである。
つまり、

凸型戦陣キャラを、平安時代に、武経総要の挿絵図を見て、必要に応じ
てそれを少し改良し、日本人が、戦陣形の学習用に考え出していた可能
性が、相当に高い

と私は思う。そうした平安時代の和製の、今は伝わらない学習用の図を
見て、平安大将棋の作者は、孫子の兵法にも載っているという、スパイ
を意味する注人を、彼の作成した平安大将棋には、加えたのではないか。
従って、やはり平安大将棋に始まる、小将棋を除く日本の将棋の、初期
配列の全体としての、凸型配列は、日本人が平安時代の末期に使った、
今言う兵棋の、今と、たまたまほとんど同じ凸型の形に由来する、と見
て、やはり良いように、私には思えるのである。(2017/06/19)

なぜ平安大将棋の初期配列は、全体として”部隊記号”の凸型なのか(長さん)

小将棋では、注人や仲人駒が無いため、全体として、将棋の初期配列が長方形
になっている。それに対して、日本の昔の将棋は駒数多数将棋を中心に、いわ
ゆる六将棋、禽将棋等が、注人、仲人、燕の駒等が、でっぱりを形成するよう
に、余計に加えられている。また和将棋でも、隠狐と走兎を、入れ込んだため、
雀歩が2箇所、でっぱりが出来ている。そのためにこれらの将棋では、全体と
しては、初期配列の陣は凸型の配列になっている。これは、いっけんすると、
いわゆる部隊記号の、凸型にちなんでいるように見える。他方、ミャンマーの
将棋”シャトゥイン”のルールを見ても明らかだが、凸型配列が、ゲームの性
能を上げるための、ルールの改善の結果、必然の形だとは特にいえない。そこ
で私は、溝口和彦さんの将棋のブログで、かつて、これらの将棋のこの凸型配
列は、兵棋演習の部隊記号型の兵棋に、起源があるかのように、コメントして
しまった事があった。ところが、良く調べてみると、部隊を表す凸記号は、戦
国時代の陣形布陣を表す歴史書で、現代ではおなじみだが、どんなに古く見積
もっても、せいぜい日本では江戸時代の、しかも外国産であって、ドイツにし
か、歴史が遡れないという話が、webに出ている事を知って、困ってしまっ
た。特に一番古い平安大将棋に、注人の”でっぱり”がある事を、説明できない
点が、深刻で有る。残念ながら、

この問題については、現在回答が出来ない状態である。

 この記号が中国の古代の兵法書に、絵解き図として使われていても、特にお
かしくは無いような気も、個人的にはする。だが、部隊を表す凸記号が、戦争
時の作戦シミュレーションとして使われたのが、日本では江戸時代のプロイセ
ンで始めてであると、中国系サイトにも、どうやら書いてあるようだ。つまり、

兵棋演習の駒の形から、たとえば平安大将棋の、凸型配列モデルが作られたの
ではなくて、チェスの類が最初に有って、それが発展して、部隊記号型の兵棋
を使う、兵棋演習が出来た

というのが、定説のようだ。つまり、平安大将棋が成立した時代には、兵棋演
習の”凸記号”は、存在しなかった疑いが、残念ながら今の所、濃いと言う事
になる。
 しかし古代中国では、戦争の始まりは、平安時代に比べて極めて古いから、
凸記号が、中国では絶対に発生しないとまでは、いかないのではないかと、私
は今でも、諦めきれずにそう考えている。特に私の場合、私の13升目108
枚制普通唱導集大将棋の配列の輪郭の内部に、駒がびっしり充填していて、兵
棋の駒の形、そのものであるため更に深刻だ。ようするにこの問題については、
現時点で私にとって、個人的に暗礁にのりあげた状態にある。しかたがないの
で、ときを見て、更に詳しく調べてみるつもりでは居る。(2017/06/18)

普通唱導集の小将棋・大将棋の作者の知っていた他のゲーム(長さん)

普通唱導集は鎌倉時代後期の西暦1300年頃に成立したものと、推定
されている。既に述べたが、その大将棋部分の第2節は、中国シャンチー
や韓国チャンギの戦法と、同じような手を、それが大将棋でも旨く行く
ため、両方指せる棋士によって、作られた戦法を記述していると見られ
る。ではたとえばほかならぬ、小将棋の部分の作者自身は、中国シャン
チーや、韓国チャンギは、ある程度指せると、推定できるのであろうか。
以下、個人的意見であるが、

小将棋部分の作者は、シャンチーとチャンギのルールは、以下の根拠で
知っている

と、私は推定する。それは、普通唱導集の小将棋の第1節の内容から
見て、他国のゲームを知って、作ったと考えた方が、自然だからである。
すなわち、

平安小将棋持ち駒有り型、中国シャンチー、朝鮮チャンギの中で、歩兵
が最も強い駒に成るのは、日本の平安小将棋であり、かつ、河ではなく
て聖目を跨ぐと成るのが、日本将棋だけであると、比較をするかのよう
に、描いているからである。

なお、小将棋の第1節目の後半は、成書で示されているように、前半と
のつながりが、難解だと私も思う。が、将棋盤の聖目のうち、相手側の
方に打たれた、”星”のある段で、小将棋では成るという情報が、第1
節後半に、含まれることだけは、間違いが無いのではないかと、私は思
う。結論として第1節は、前半の”と金は強い”という点が、読み手に
理解出来れば、言いたい事はだいたい通じていると、私も見ている。
たとえば、故溝口和彦さんも、彼のブログでかつて、

金将という強い駒に成る歩兵を含む小将棋の、ゲームとしての楽しさが、
第1節では表現されている

等と、彼の解釈を書いている。
 しかし他方、少なくとも、歩兵が金に成るだけでなく、敵陣が、盤の
向こう3段目からであるという特徴が、特徴と感じられて、それを丁寧
に唄っているのであるから、普通唱導集の小将棋の作者は、シャンチー
やチャンギのルールを、唱導集を作成するとき、意識していると見るの
が、よって、より自然だろうと私は見る。
 また小将棋については、この第1節から、西暦1300年頃の時点で
も、平安小将棋が指され始めた経緯には、兵駒の他の国のゲームよりも
強く成って活躍する点に、何か原因あるらしいという記憶が、残ってい
た事も又、示しているのではないか。つまり詳細には、判らなくなって
いたにしても、少なくともぼんやりと、”西暦1000年頃に、何か
あったらしい”という記憶が、だいたい300年後には、まだ残ってい
た一つの証拠と、言えるのではないかと、私は疑っているのである。
(2017/06/17)

王将の起源(長さん)

平安時代11世紀のものと、考えられている興福寺出土駒の玉駒は玉将で、
一般には、この時代には”王将”は無かったとされている。では何時・何故
玉将の一部が、王将になったのであろうか。以下このブログの通例どおり、
学会では全く無名な私説を、結論的にまず最初にずばり書く。すなわち、

院政期に院政派が、王将の使用を進め、天皇等日本の中枢の威光を借りて、
玉将を王将に変えようとしたが、藤原姓の一族が、その後も、玉将を使い
続けたため、うやむやかつ、並存状態で、今日に至っている

と、私は見る。それを確かめる最も簡単な方法は、全国の将棋駒出土状況を、
たとえば、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”等の成書で、チェックすれば
良い。すると、

京都府と滋賀県では、ほぼ”王将”だけが出土している事で、簡単にこの説
の真偽が確かめられる。

ようするに結局の所、朝廷は後醍醐天皇に限らず、軍隊の中心人物、たとえ
ば征夷大将軍には、概ね皇族をすえたかったのである。実際には、鎌倉時代
については第4代からは、親王格の皇族が形式的にせよ、将軍職に着いてい
たので実際上も、この国では、天皇家の面目は、一応たっていたとは言える。
では、なぜ玉将が嫌われたかと言えば、将棋が勃興した一時期、

平安時代中期の藤原道長/頼道時代には、実際には藤原摂関の意向を忖度し
て、国軍が動いていたから

である。院政期に、上記の論からすると、元帥格の摂関の長と同一人物であ
るのが、私に言わせると自明な将棋の玉将が槍玉となり、当時は前記のよう
に征夷大将軍に、任命される人間の適任者と、朝廷内では考えられていた、
”武芸達者な天皇の息子”をイメージする、親王的”王将”に、名称を変更
するように、宮中では推進されていたものと、私は推定する。なお、実際の
出土駒を見ても、その最も初期の”王将”出土駒について、

京都府の上清滝遺跡の”王将”は、平安時代末のものと推定されるし、少し
後とも考えられている、同じく京都府にある鳥羽離宮遺跡の”王将”も、
鎌倉時代草創期位のもので、かなり院政期には近い。

よって、私の”院政期・朝廷で王将成立説”は、出土史料の使用時代の推定
とも、特段矛盾がないのではないかと考えている。
 次に、藤原姓の子孫だけが、玉将を使い続けたのは、院政派により権力を
奪取されるのを嫌っただろうから、当然なのである。主として彼らが、支持
したとみられる、本ブログの中心的題材である、駒数多数型の将棋には、よ
って本来、王将は、全く使わないのが慣わしだったろうと、私は推定してい
る。
 それは藤原姓の人物の一人、その末裔である水無瀬兼成の将棋部類抄では、
玉駒が全部玉将になっている事、冒頭で述べた藤原氏関連寺の興福寺出土駒
に、関西圏でありながら、王将が、全く出土しない事からも、良く示されている
のではないかと、私は思う。
 むろん以上の王将出現の原因となった、皇室と藤原摂関との、歴史の通俗書
には皆、出ている、11世紀初頭からしばらく続いた軋轢は、近世の江戸時代
ともなると、

大江匡房のした事が、忘れられると同時に、”以上の観点での王将か玉将か”、
という事については、どうでも良くなってしまったのだろうと、推定される。

 そのため実際、江戸時代の駒数多数将棋の将棋本には、玉将/王将が、ほ
ぼランダムに使われるし、東京の遺跡の出土駒の玉/王比は、ほぼ1:1に、
なっているのだと、私は以上のように推定し認識するのである。(2017/06/16)

下河辺荘新方の歴史講演会(2)(長さん)

6月7日に引き続いて、埼玉県越谷市郷土研究会顧問の加藤幸一氏に
よる、表題の講演の聴講をさせていただいた。内容は、
埼玉県越谷市大吉(おおよし)~埼玉県北葛飾郡松伏町田中付近の近
世・近代の歴史と、付近を流れる古利根川との関連についてが、ほぼ
中心であった。
 が前回、新方郷の鎌倉時代の歴史について、話の出た、
埼玉県越谷市向畑と、埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に掛かる、
堂面橋付近とも推定される、鎌倉時代中期の、荘園中心”十丁免”に
関する、補充史料の紹介も有った。埼玉県越谷市向畑の廃寺に、”極
めて古い仏像”が、非公式に存在するのを、加藤先生が、個人的に
知っているというのが根拠であった。しかし写真で現物が、実際に
あるらしいことは、私にも判ったが、

具体的に仏像が、現在何処に確かにあるのか正確な情報は、盗難防止
の為公開できない

との事であった。非公開な点が多い事は、誠に残念な事であり、これ
では学術的には、証拠になりにくいのではないのだろうかと、個人的
には、この情報の行く末が心配・懸念された。その他、埼玉県の石仏
に、”西新方”の地名が、彫られたものがあり、下河辺荘新方郷は、
東西2つに分けられていた事が、ほぼ確実視されるとの、話もあった。
なお、埼玉県越谷市恩間は、比較的現在の、元荒川付近に近い所に
あるため、西に属する事はほぼ確かであろう。よって、だいたいの
見当では、戦国時代に新方氏の館の有った、埼玉県越谷市向畑のあた
りが、東の中心になりそうな事は、そう言われれば、そうも言えなく
も無いように、感覚的には、私にも思えた。
 なお、下河辺荘新方郷を2つに分けたのは、鎌倉時代中期に、下河
辺氏が、鎌倉幕府の役人へ荘園の荘司から転身した後、それを引き継
いだ金沢氏や、氏寺の称名寺が、鎌倉に住んでいる者の目線で、定め
たもののようだった。

 だからそこに、そもそも下河辺行光の館に関する情報が有るとは、
最初から、余り期待できないと言えば、できないのかもしれないと
私は思った。

 更に埼玉県越谷市向畑の廃寺の仏像の出土地点を、鎌倉時代の荘園
の中心地とする根拠にする点であるが、茨城県結城郡五霞町釈迦と、
小手指の間付近に相当古く、古代にも遡るとされる仏像と、推定され
ているものが、現地に存在するという話を、私は一般向けの史跡案内
書で読んでいる。しかしながら、五霞町小手指~釈迦が、同じく
五霞町元栗橋に比して、少なくとも中世に、下河辺荘野方の、中心の
あった場所という事を、

その仏像の存在で、そう推定するという話には、特になっていなかっ
たように、私は認識している。

 よって、埼玉県越谷市付近にあった、近世の旧新方郷地区のあたり
のうち、特別に埼玉県越谷市向畑(字)堤外付近を、そこだけ狙うと
いう考えは、とんでもない所から、ミニチュアの五色宝塔が出土した、
埼玉県児玉郡美里町の例から見ても、余り賢明な、更なる史料の探し
方とは、必ずしも言えないように、私は2回の講演を聞き取り、一応
結論付ける事とした。(2017/06/15)

平安小将棋の馬と車の修飾詞はなぜ、桂と香なのか(長さん)

ほぼ定説によると、日本の小将棋は鎌倉時代の草創期頃、片方に将駒が4~5
枚、馬駒が2枚、車駒が2枚、兵駒が8~9枚で、構成されていたとされる。
このうち、前に述べたように、馬、車、兵に、日本人が輸入後、桂、香、歩の
修飾詞を付けたらしいと、私は考えている。ただ、兵駒については、動かし方
のルールから”歩”にしたのは、ほぼ異論が無いのではないかと思う。しかし、
桂、香については、解明がこれほどには簡単ではない。かなり有力な説として、
駒の名称の桂と香も、仏教用具に起源を求める説が先行して存在する。しかし
お香は仏教から連想するのは容易だが、桂の方はどうであろうかと、私は疑う。
 他方、中将棋、大将棋と、このブログで題材にしている、駒数の多い将棋に、
なればなるほど、必要な修飾詞の数も増加する。のでその類推から、逆に
桂と香の謎が解けないのかと、考える向きもあるかもしれない。しかし、香に
ついては、象駒に別例があるだけ。桂については、他に転用した別例が、余
り知られてい無い。しかも、駒数多数将棋には、逆に同じ修飾詞、例えば”奔”
”猛””飛”を付ける例が、複数ある等、ケースバイケースで、そのつど、修
飾詞は適切なものを、いつも考えていたとも言えない、議論の不規則性がある。
そのため小将棋で、仏教とのつながりは自明でない馬に、なぜ桂をつけたのか。
車のうち、日本で使われたのが、最も早かったものが、なぜ香なのか。ヒント
になるような情報が、そもそも少ない事が、調べてみれば、少なくともほぼ、
だいたいの方に、納得される状況なのが現実ではないかと、私は認識している。
 その証拠に中将棋駒名との比較から、桂や香を論じている例を、私は少なく
とも知らない。また大局将棋では、他のいわゆる、大大将棋等の六将棋で使わ
れている駒は、たとえば、蟠蛇・猛熊の成りを奔蛇・奔熊ではなくて、蟠龍・
大熊に変える等して、伝統的な駒名の成りを、大局将棋の発案時とみられる、
駒の系列とは区別している。これは察するに、成り規則を敢えて変則的にし、
”江戸時代の人間は、これら六将棋の駒名の起源は、知らないので、成りを、
大局将棋固有駒と、同一のパターンにする事はできない”と、主張するかのよ
うに、工夫していると思われる、フシがあるのである。
 以上のように、相当に困難な”桂”と”香”の字の謎であるが、とりあえず
私は、前回述べた、原始平安小将棋の輸入当時の立体駒が、馬は材質が桂の木
の木彫り、車は、貴族の使う人力車のような形に、精密に細工されていたので
はないかと思っている。その修飾詞の”孤立した使われ方”から、こう考える
のが、最もすわりが良いのではなかろうか。ただし繰り返すが、証拠を挙げる
のは、”藤原摂関用黄金の将棋具”の存在自体が仮説であるから、現時点では
非常に困難である。
 ただ、これではあまりに平凡で、大宰府の将棋仲間の心中に、駒名に関して
強い印象を残すには、名前の付け方に工夫が、多分に足りないのではないかと
懸念している。そのため、この”桂”と”香”には、もう一ヒネリが、ネーミ
ング時に、隠されているのかもしれないと疑っている。以下、私の考えた、
仲間に将棋の駒の新作名を、忘れさせないようにする、もう一ヒネリとは、
やはり藤原摂関用贈答品高級将棋具の、オリジナルな作りの別の性質に関係し、
次のような事があったのではないかと、想定する事から出発している。
すなわち、

「貴金属駒を多数使った、立体駒将棋道具では、何と将棋駒ばかりではなく、
将棋盤も超高級で、”桂”材を用いて作られた一級品だった。そのためその盤
は、芳しい、本当に良い”香り”がした。」

という情報を、摂関用原始平安小将棋立体駒付き将棋具に、実際に接した事の
あった、大宰府の古株の将棋指しが、新参の棋士への語り草として、話を聞か
せるつもりで、馬と車の駒名に、桂、香の修飾詞を洒落て付けてみた、という
アイディアである。
 むろん、桂馬の元となった馬駒も、桂で同じ材質なら、同じ桂の芳香が有っ
たのだろう。だが駒より盤の方が大型で、体積も表面積も大きいから、芳香は
盤からの方が強く、近くに居るだけで、気が付いたのではないかと私は考える。
馬は桂の木の木彫り、車はデザインが、貴族用人力車である事も確かだが、
将棋盤の性質についても、駒名に入れ込んで、後輩も興味を持っている”黄金
の原始平安小将棋道具”に関する情報を、増やして見せたのではないかと、言
う事である。
 以上は、証明は現時点では無理だが、酔象から後の、将棋駒とは、全く別の
命名系列であるため、桂馬と香車については、伝来時の個別の何らかの事情で、
その名前に、たまたまなっている可能性も、完全には否定はできないのではな
いかと、私は考えているのである。(2017/06/14)

8×8升目32枚制原始平安小将棋(仮称)の立体駒成り表現(長さん)

現在日本の将棋は、五角形駒を使用し、成りは駒の裏に字を書いて示して
いる。前に述べたように、私はこの将棋が、鉱山国家、中国雲南省に、
かつて存在した、大理国から来たゲームであるとみる。そして大理国では、
立体駒で、ゲームが行われていたと、推定している。経帙牌でゲームを
するというのは、私の説だと、日本人、特に九州大宰府の僧ないし、武家
の発案である。これに関して、かつて将棋史研究家の(故)溝口和彦さん
は、「立体駒では、成りが表現しくいため、日本の将棋が、チェスのよう
に立体駒で、指された事は無かった。」との旨、何回か主張されていた。
そこで今回はこの、立体駒での成り表現について、考えてみる。私は、
オリジナルの大理国の将棋具でも、そこまでそうであったとまでは、敢え
て言わないが、日本に最初に輸入された立体駒将棋道具については、
少なくとも、

金将駒は30枚作られており、初期配列では2枚使用、残りの28枚は、
並べて盤の横に、これらの黄金駒が成り駒として使われるまで、整列待機
させるような、控えの陳列の座までが、恐らく作られていた

と推定している。つまり北宋の商人が、藤原摂関の贈答品として持ってき
た、原始平安小将棋の駒では少なくとも、成るたびに、全部駒を交換して
いたのだと思う。溝口さんが、駒を交換して成りを表す事に、かつて言及
されなかったのは、彼には持ち駒ルールしか、念頭に無かったからである。
だが、8升目制の原始平安小将棋が、取り捨てルールだと認めてしまうと、
相手の駒を討ったときに、成る前の駒を探して戻す、めんどくささがない
から、せいぜい回り将棋で、駒を取り替えるのと、この成り表現では、手
間は同じレベルになる。だからそれで、特に問題はないと私は考えている
のである。なお、私が、藤原摂関用の立体将棋駒贈答品が、金将30枚1
セットであると考えているのは、次のように考えているからだ。すなわち
北宋商人が運んで来たに違いない、藤原道長なり、藤原頼通用の贈答品が、

それほどの、きらびやかな黄金の将棋具であるからこそ、都で金将に成っ
て、彼ら摂関の副官として西暦1020年頃に出世した、かつての同僚な
り上司の、藤原隆家に自分も続こうと、大宰府の国境警備兵の武士達は、
経帙牌で、敵陣3段目で歩兵が金に成る、原始平安小将棋を熱心に指した
のだ

という事なのではあるまいか。むろん、彼らの使用する、経帙牌へ字を書
いて、立体金将駒等を表現した、オリジナルの贈答品よりは、はるかに地
味な将棋道具には、牌の在庫数にも限りが有った為、また実際には、その
方がむしろ、当然便利な事にたまたま気が付いて、裏に字を書いて、成り
を表すようにしたのであろう。
 すると、敵陣の金将が、ただの金将ではなくて、と金である場合には、
それが直ぐに判るという効果が新たに生じた。そのため、ますます将棋を
指すとき座が盛り上がって、将棋が大宰府では、更に盛んになったに違い
ないと、私は思う。
 なお同じく溝口さんにより、タイのマークルックの兵駒が、ひっくり返
して副官駒に成る仕掛けの、立体駒である点も指摘されていた。私は、こ
の仕掛けは、日本の戦国時代から近世の初期にあった、タイの日本人居住
区からの、伝来かもしれないと疑っている。西洋チェスとは異なり、兵駒
が、日本の小将棋系列と同じく、敵陣3段目で成るマークルックでは、兵
が他の8升目制チェス型ゲームより成り易いため、副官化の表現手法につ
いて、日本の小将棋の方式を、ずっと後になって、逆輸入した可能性は、
あるいはあるのかもしれないと思う。
 なお私は、平安小将棋系列では、成り先が最初から存在する駒種の金将
であるため、駒道具の管理上も、金将駒30枚なり32枚が、駒の収納場
所に混在して保管されていても、さして煩雑にならないと思う。
 しかし確かに、本将棋系列では将棋・象棋・チェス型ゲームに、成り駒
待機交換使用方式というやり方の前例は無い。しかし日本では、回り将棋
という将棋遊びが公知である。にも係わらず、頭から交換法を煩雑である
という理由で、否定する意見が仮に有るとすれば、「持ち駒ルール以外に
認めない」というなら話は別だが、そうでなければかなり不可解だと、私
は感じる。(2017/06/13)

日本人が囲碁を初めたのは、西暦602年頃か西暦690年頃か(長さん)

前回、日本人が始めて囲碁を打ったのは、元嘉暦~儀鳳暦の頃ではないかと
述べた。しかしこの記載では、日本人が碁を打った始まりは、

5世紀中旬から西暦690年までのどこか

という程度しか、絞れ無い事が、広瀬秀雄著「日本史小百科暦」1978
年/近藤出版社を読み直してみて、その後判った。ので前回の議論には、
更に補充が、絶対に必要だと、それで気が付いたのである。
まず、通例どおり結論を先に書くが、

西暦690年の少し前が、日本人がある程度碁を指した最初で、それ以前
の日本での碁の記録は、有っても百済の帰化人等の遊戯について記載して
いる

のではないかと私は考える。奈良時代の少し前から、ようやく日本人は
日本で、囲碁に興じているのではないだろうか。
 ところで、前回の言い方で時代が絞れないのは、
「元嘉暦を、日本人も百済に真似て、西暦450年頃から、そのまま知識
階級が使用している」と、広瀬秀雄先生の、上記の著書が現在でも正しい
のなら、そうされているからである。
 ただし、知識人が同盟国である百済の暦を、西暦553年までは、真似
ているだけであって、百済から暦学者を国内に確保するという、トップの
発言すらまだ無かったようである。よって私流の考え方が正しいケースで
は、5世紀中~西暦553年までの日本人に、囲碁の棋士は、い無いはず
である。更に西暦553年から西暦602年までは、日本のトップの意向
は、暦の編集能力は百済だのみであって、日本に常駐する人間に、恒常的
に暦の編集能力を、日本のトップが要求した記録はない。西暦602年に
なって、初めて暦学者を国内で養成しようと、推古天皇名でトップダウン
の指示が、あったという事らしい。しかし、

西暦602年から西暦690年までは、多くの日本人が囲碁を打たなけれ
ばないないと忖度するような、意向がトップには、さほど無かった

と私は思う。なぜなら西暦602年に、暦法を学んで特定の人間が習得し
た、と言っても当時は、百済・任那・日本は、ほぼ同一国内に近いため、
飛鳥での布暦が無いのなら、以前の状態とは大差が無いだろうと、私は思
うからである。私の前回の議論の筋に従うのなら、

日本で布暦自体を始めた、西暦690年頃の持統天皇こそが、元嘉暦か
儀鳳暦か、どちらの暦を、日本の国暦にするかで、バタバタした時代の
日本のトップ

その人の事だと私は解釈する。囲碁史では日本の囲碁の記録で、最も早い
のは、隋史倭人伝の西暦600年前後になっていたと、私は記憶するが、
記録に残るような、当時の日本国内の知識人棋士は、百済からの帰化人
(帰化僧か?)の誤認ではないかと、私は疑う。
 それにしても、日本のトップ層の配下の官たちは、どうして690年の
少し前に、暦の詔等に忖度されて、囲碁を打つようになったのであろうか。
そこの所は、囲碁に詳しくない私としては、良くわからない所ではある。
が、渋川春海の和星図を思い出すと、囲碁を打っている最中に、石の並び
が、何を意味するのか、即座に理解できる能力というのは、いわゆる天文
マニアの言い方で、

星座をよく知っている

という事に、通じるのかもしれないと思う。なお上のフレーズは、星座の
種類をもれなく記憶していることではなくて、特に日本では北天の星座内
の恒星の具体的な天球での並びが、慣れにより良く理解されている事を、
通常こう言う。それにしても、西暦690年よりも、少し前に、”星座を
よく知っている”能力が、何故尊ばれたのかを、説明できないと、
暦と囲碁との関係と漠然と言っても、かなり唐突なのかもしれない。これ
については、持統天皇が、どちらを使うか思い悩んでいた、元嘉暦か儀鳳
暦かとで、同じく広瀬秀雄先生の上記著書等によると、中国唐代6~7世
紀の暦法の変遷によって、たまたま

元嘉暦が平朔、儀鳳暦が定朔である

のと、何か関係があるのかもしれないと、私は思う。平朔は実際の月の厳
密な満ち欠けは無視して、朔望月の平均値で日付けを決める方法、定朔は、
月の軌道も地球の公転軌道も真円ではないし、月については太陽・地球・
月の万有引力における3体問題で軌道が決まるので、公転軌道が楕円でも
なくなり、以上の事から、朔から朔の間隔は複雑変動であり、それを訂正
して、実際の新月に一日を合わせるような、暦の事である。そこで、月が
天球つまり、囲碁の盤面の、碁石が散乱したような星座の中で、何処に
居るのかを、正確に知ることによって、本当に元嘉暦ではなくて、儀鳳暦
を使えばよい事が、判るという意味であろう。つまり、囲碁たしなみは、
主に日本の官一般にとっては、月の天球上の位置が直ちにわかる
”役に立つ人間”と、トップから見られるようにするために、必要だったの
ではあるまいか。そういうわけで、持統天皇の部下の当時の官僚達が、

”星座をよく知っている”事は、持統天皇に喜ばれる事なので、それに
ちなんだ、星図の中の恒星の並びのような囲碁を、日本の官の間で、
このとき初めて、盛んにたしなむようになった

のが、囲碁が日本で定着したと、大宝律令等にも示唆された、もともとの
起源なのではないかと、私は推定する。以上の主張が、前回の私流の思考
法からすると、恐らく本筋であろう。
 以上の事から、それ以前の囲碁の道具は、ほぼ在日の百済人用だったの
であり、日本人同士で実際に囲碁が盛んに打たれたのは、飛鳥時代では
あるものの、奈良時代からは、さほど遠くない末期だった、のでは無ない
かと私は考える。恐らく白村江の戦いの後、唐と再度の戦争になる事よ
りも、百済という国が消滅して、百済頼みであった暦の編纂配布を、自前
で国内で、全てまかなわなければならなかった事が、日本のトップにとっ
ては、むしろ悩みだったのであろう。そのため、対唐戦争が再度起こる事
を警戒して、戦術ゲームである将棋が流行ることは、この時代には無かっ
た。それに対してむしろ、星座の把握力を鍛える事に通じると、連想され
た囲碁が、飛鳥後期の時代には、日本の官の間では天皇の意向を忖度して、
急速に広がったのではないか。以上のように私は、今の所囲碁のわが国で
の起源を、このように推定するのである。(2017/06/12)

江戸時代の暦学者、渋川春海はなぜ、碁の役人も兼ねていたのか(長さん)

日本では、飛鳥時代に設定された宣明暦が、古代後期、中世を通じて使われ、
次の改暦が江戸時代の暦学者、渋川春海によって、ようやく貞享暦として、
行われたことは、よく知られている。この事から、少なくとも渋川が暦学者
として、有能な事は明らかである。他方、この渋川春海が囲碁の名手であり、
元々は江戸時代に、碁会所を取り仕切る、役人であった事でも知られている。
私は囲碁に詳しくないため、意味は良くわからないが、囲碁盤の10十とい
う中央位置に、置石をする定跡を、提唱した事などで、確か囲碁史の方では、
有名だったように記憶する。なお、彼の囲碁好きが、半端で無いのは、
暦学者は江戸時代は、天文方の仕事もしており、彼は日本式の星図を作って
いるのだが、恒星の明るさを無視して、囲碁の石が繋がったような独特の、
恒星表現をしている事からも、証明されるようである。
 以上の事は、私も昔からよく知っていたが、囲碁盤の交点の数が361で、
一年の日付け365.2422日に近いので、囲碁と暦とが関連すると、
将棋史に興味を持ってから、漠然と考える程度で、最近まで来た。しかし、
ひょっとして、これは日本の遊戯史についての、あるヒントを含んだ重大な
事実が隠されているのではないかと、最近になって思うようになった。
つまり、

元嘉暦~儀鳳暦を導入するのでばたばたしていた頃が、日本人が囲碁を打ち
始めた、ひょっとして始まりの頃と、一致するのではないか

という、疑いが心をよぎったからである。ようするに、

日本のトップが「日本にも暦が必要だ」と言い出すと、日本では官僚等の家
来は、何時の時代の場合であっても、ほぼただちに忖度して、その時点で、
暦に関連する事柄は、皆急激に流行りだす

という体質が、なぜここまでなのかは、将来解明されるべき問題なのではあ
ろうが。
太古から日本の官の世界には、こうした忖度体質が現にあると、とりあえず
経験則として仮定すると、物事の始まりの時期というのは、特定できる傾向
が強いという特質が、日本での事柄の始まりの歴史については、経験法則と
して、有るのではないかと、思うようになったからである。ようするにこれ
は、同じ遊戯で、生物種で言えば、科までは同じ

将棋と囲碁とで、成立年代が、
飛鳥時代と平安時代後期というように、少なくとも日本では、大きくズレ
ているのは、不思議であるが何故なのか

という問いに対する答えを、渋川春海が示唆しているような、気がしてきた
という事である。つまり本来、

将棋は暦よりは、対外国戦争の方に事柄上、関連性が高い

と言うことなのであろう。たまたまだったが、白村江の戦いの時には、恐ら
く2人制チャトランガも無かった。しかし、元寇に比べればやや小粒だが、
かなり大規模な次の対外戦争であった、刀伊の入寇のときには、北宋とは
断交もしていなかったので、大理国将棋や中国のシャンチーなどは、中国交
易商人が日本に紹介できる環境だった。そして、都のトップである藤原道長
等によって当然、刀伊すなわち金王朝の前身の軍隊との、対外戦争の対策が
議論として提起された。
だから、そのときに、
日本の官、特に国境警備兵たちは、藤原道長という、隠居したばかりとはい
え、当時の実力ナンバーワンの人物の意向を、官は皆充分に忖度して、実は
彼らの間で、

野火のように、日本で始めて将棋が、流行始めた。

つまり、囲碁と将棋とでは、
暦の導入、対外軍事対策というふうに、

日本のトップが問題にしたカテゴリーが、たまたま全く違う事柄なために、
囲碁と将棋とでは、遊戯の種族がやや近縁でも、開始の時期は全く違ってし
まった

と私は推定した。以上のように昔から個人的にも名を聞いていた、渋川春海
という江戸時代の幕府役人の性格を見て、将棋に比べてとても早い、囲碁の
始まりの謎について最近、ようやく合点がいったような、気がしたのであっ
た。(2017/06/11)