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岩手県平泉志羅山遺跡、両面飛龍出土駒の共出土物(長さん)

さいきん、河出書房新社から2013年に出版された、平泉文化遺産
センター所長の大矢邦宣氏著書「ふくろうの本 図説平泉」に、平泉
志羅山遺跡の両面飛龍駒が、掲載されているだけでなく、志羅山遺跡
で、出土した他の出土物の情報が、写真で載っているのに気が付いた。
なお現地は、平泉駅からほど近い所に有ると、認識される。さて、
 以前、このブログで、この平安大将棋用そのものではないかと疑わ
れる、志羅山遺跡の両面飛龍駒については、法事に使われたような、
メモリアルな物品と、書いたように記憶する。しかし、共出土品を見
ると、

どうもそうではないようだ。

すなわち共出土品は、同書には
1.白磁水注(磁器製の水差。中国福建省産の優品(上記著書))
2.常滑三筋壷(陶器製の壷)
3.オシドリの文様を銅で象嵌の形と同じにした鉄製の馬の轡
4.中が空洞のサイコロ(盤双六を”いかさま賭博”に使用か?)
となっている。
 なお、法事に使われたようなメモリアルな物品のように、少なくと
も私には見える、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡出土の、裏一文字金角
行駒の共出土物は、以下のように認識している。
1.磁器製の製品の破片
2.盆栽の入った植木鉢
3.火鉢の破片(8号井戸跡に1破片と別の20号井戸跡に3破片)
4.仏塔(昔の墓石)
5.櫛の破片(将棋駒とあわせて、8号井戸跡)
6.下駄(8号井戸跡。サイズが女物)
なお、栃木県神鳥谷曲輪遺跡は、大字神鳥谷の下の字地名が、青蓮寺
堤であって、4の中世の墓石が出ている所から見ても、お寺が連想さ
れる。それに対して、岩手県平泉町志羅山遺跡の場合には、以下私見
で、私は真偽を確認していないが、少なくとも

私には志羅山の名は、城山が訛ったようにも聞こえ、武家の館の中に
あった物品の出土

との先入観を、もともと受けてしまう傾向の、有る物のように見える。
 ただし栃木県小山市の神鳥谷曲輪からも、1.磁器製の製品の破片
が出土している。そして発掘者から、私が聞き取った所によると、
それは、中国宋代の高級骨董品のカケラだと言い、岩手県平泉町志羅
山遺跡出土の1.白磁水注(中国福建省産の優品)と、類似となる。
ただし、小山市の方の磁器製製品の破片は、発掘者の説明では、
南北朝時代の、小山城関連の出土品という位置づけのものであって、
室町時代から戦国時代にかけてだと見られる、同じ位置に存在した
”小山市市内の古廃尼寺”の所有物ではないと、解釈されているよう
である。そうすると、小山市の1.磁器製の製品の破片は、
裏金一文字角行駒が、そこにあった時代の建物の種類を、余り反映
してはいないと、言う事になるので、リストから削除しても良いと
考えられる。つまり、

栃木県小山市の方は2~4より、お寺に置かれた将棋駒のようであり、
それに対して、
岩手県平泉町の方は1~3より、武家屋敷の備品の将棋駒のよう

に見えると、言う事になる。
更に用途についても、

栃木県小山市の方は5と6により、お寺の特設の開基者の尼用かと想
像される、仏壇に供えられた将棋駒のようであり、それに対して、
岩手県平泉町の方は4と5により、武家屋敷厩の横の”遊戯の間”に
置かれた、双六、将棋、そして恐らく囲碁の備品の一部のよう

に見えると、言う事になる。
特に、岩手県平泉町の平泉志羅山遺跡出土駒のケースは、室町時代末
期に、狩野元信が書いたと伝わる、厩図を、少なくとも私には連想さ
せるので、興味深い出土品の組み合わせだと、私には思われた。
 思えば、当時は草書体の方が、楷書よりも、当時は普段使われる、
見慣れた字であったとされている為、平泉両面飛龍駒は、仏教崇拝用
ではなくて、実用品として、作られていると、最初から決めて掛かっ
た方が良かったのではないかと、私は以前の間違った解釈を、反省し
ている。
 それにしても、このような貴重な駒が、現地で盗難にも合わず、そ
のまま、伝わったのは奇跡と言えば、奇跡だが、何かの秘訣があった
のだろうか。ひょっとすると、窃盗犯が現われても、おおかた、将棋
は、小将棋しか指さなかったので、使わない飛龍駒等は、そのまま
残していって、くれたのかもしれないと思う。
 何れにしても、こんな貴重品が出土した事は、誠にありがたい事だ
と私も思う。(2017/06/10)

日本の将棋の最も初期の将棋盤升目(長さん)

前と同様、13×13升目や15×15升目の大将棋のブログの本題
からは外れるが、日本の将棋の最も初期の、将棋盤升目について、以
下考える。私見でマイナーな説であるが、私は

8×8升目32枚制原始平安小将棋がオリジナルである

と、考えている。主流は9×9升目の標準型平安小将棋と見る向きが、
平安時代の出土史料を、含めて考えるとすれば、現在圧倒的に強いと、
認識する。9×9升目が主流なのは、現在の日本将棋の盤升目と同じ
なので、判る気もする。が、私がそれに反対するのは、日本将棋を

取り捨て制で飛車角なしにすると、桂馬が合い当たりになり、攻めが
停滞するにも係わらず、それが流行るという不自然さ

ほぼ、この一点に集約される。さらに、何回か述べたように、小将棋
は外来種であると見ており、インドチャトランガ、アラブのシャトラ
ンジ、東南アジアのマークルック、西洋チェス等と、同じ盤と駒数が
最初であって、おかしくないと見ているという点もある。ただし、そ
うすると、8×8升目制を、日本人も真似た理由を、一応考えておく
必要はあるだろう。5×5、6×6、7×7、9×9、10×10、
11×11・・・ではなくて、なぜ8×8升目なのであろうか。
 そもそも、私が考えているように、大理国が日本の将棋の伝来元で
あったとして、たまたま日本人は、大理国の8×8升目将棋を、すっ
かり、そのまんまでコピーしたとしても、大理国の人間がそもそも、
8×8升目を選んだ理由を、今度は考えるべきなのかもしれない。
 貴金属・宝石類のうち、玉、金、銀の3種類を選ぶのは、3は、ま
あ、程良い数といえば、程良い数なのかもしれないが。大理国のあっ
た、雲南省大理県大理市の仏塔の主塔では、玉、金、銀のほかに、
金銅、銅、鉄、石の各仏像も出土しているので、これが駒のモデルだ
として、金将を2枚に変えてから、この金銅、銅、鉄、石の8種類に
将を付け、更に象駒を入れて10駒増加させれば、19×19升目の
将棋を、大理国ではオリジナルとして指しても、おかしくないという
事になるのかもしれないからである。
 以下答えを書くと、更に私見だが、ユーラシア大陸規模で、8×8
升目制のチェス・将棋型ゲームが指されているのは、
玉を中央の2列左側だとして、順に右下段駒が袖から、飛車型の車駒、
桂馬または八方桂馬型の馬駒、角行またはシャンチー象または平安大
将棋猛虎型の象と並んでいる将棋は、先手を日本将棋式に8列目に、
玉列がある表記で、日本将棋式で盤升目の番号表現をした時に、

先手から見て相手後手位置の、1二の位置に、先手の右の車駒、右の
馬駒、右の象駒の攻め筋の焦点が有り、かつ相手の駒は、左の車駒し
か利いていないという点で、副将駒(金将)の駒のルールを少し変え
る等しても差が無く、安定して普遍的に、攻め筋のあるゲームとして、
楽しめる面白さがある

と、民族によらずに認識された。そしてその認識が、ユーラシア大陸
中に広がったのが、8×8型だけが、選択的にゲームとしてインター
ナショナルに広がる、原動力に主としてなったのではないか、と私は
思っている。つまり、8×8升目型には、上のカラクリが、ゲームと
いっしょに口伝されれば、民族によらずに、たいがいは広がるという
要素が、あるのではないかと言う事である。つまり、

以上の戦術情報が、チェス・象棋・将棋型ゲームの戦術では、他の升
目型の戦術情報よりも、ゲームを流行らせるという目的にとっては、
説得力があり伝わりやすいので、選択的に8×8升目型が広がった

という意味である。そしていったん、8×8型でゲームが定着すると、
それ以上に、ゲームを進化させるのには、ある程度のハードルがあっ
た。そのため、9×9升目制標準型平安小将棋や、19×19升目
原始摩訶大大将棋といったものは、少なくとも10世紀ころには、
大理国には、できにくかったのではないかと、私は疑っている。
それが恐らく、仏象として大理国には、玉仏、金仏、銀仏の3種の
他に、金銅仏、銅仏、鉄仏、石仏が有っても、17×17升目や、
象駒を入れて19×19升目にした、将棋が指されないとすれば、
それが原因なのだと思う。
 恐らく「玉は中央左に配置し、右の車駒、右の馬駒、右の銀将で、
相手の1二位置を伺う、最近舶来のゲームは面白い」という情報は、
将棋の伝来と同時に日本人にも伝わり、それもほどなく確認されたの
であろう。そしてその上で、8×8升目32枚制原始平安小将棋は、
九州大宰府では少なくとも、ある程度盛んに指されるようになったの
ではないかと、よって私はこのように推定している。
 なお、今回の話題と同じ系統の題材で、現在議論をされており、
また私に、以前”個人ブログの開設”を勧めてくださった、大阪電気
通信大学高見研究室のブログの、摩訶大大将棋関連のログ数と、単純
ログ数で、本ブログは本日ほぼ並んだ。高見先生の益々の御活躍と、
摩訶大将棋のブログの更なる進展を、心よりお祈りいたしたいと思う。
(2017/06/09)

下河辺荘新方の歴史講演会(1)(長さん)

2017年6月に2回の予定で行われる、NPO法人埼玉県越谷市郷土
研究会の加藤幸一氏(同研究会顧問)の、「新方地区の歴史」の講演第
1回目を聞き取った。栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡、裏一文字金角行駒
ゆかりの、小山義政と同族100年以上前生存、又、静岡県焼津市小川
城出土の裏飛鹿盲虎、裏飛鷲龍王関連小川法長者の先祖、下河辺行平、
下河辺行光の館関連の情報を得るのが、目的であった。なお、
加藤幸一氏は、埼玉県の地元で教員をされたが、今は定年で退職されて
いる方だそうだ。また石仏の研究を主体に、郷土史を研究されている方
である。中世~近代昭和期までの、遺跡調査、民間伝承の聞き取り、
河川施設の史料・歴史的水周り遺構の調査等に、特に詳しいようである。
 残念ながら「埼玉県越谷市内に限定すると、鎌倉時代初期の、下河辺
氏の挙動に関する情報がある」という話は聞けなかった。しかしそもそ
も下河辺荘新方の荘園に関する、古文書の記載が大量にあるわけでもな
いようだ。事実、鎌倉時代中期の金沢氏の菩提寺で、下河辺荘を鎌倉末
期には領有していた、神奈川県鎌倉市の称名寺に記録された文書上では、
明治時代の埼玉県新方村周辺の、その時点から見て、だいぶん昔の荘園
関連の地名としては、

恩間と十丁免という2箇所の名が挙がる程度で、判っていない事が多い

との話を聞かされた。ちなみに、恩間という地名は、かろうじて現在で
も残っており、埼玉県越谷市恩間を指し「東武スカイツリーラインの、
大袋駅周辺一帯の事であろう」との事であった。ちなみに十丁免の方は、
「ひょっとして、埼玉県越谷市向畑と埼玉県北葛飾郡松伏町松伏の間に
掛かる、堂免橋の周辺かとも考えられるが、確定はしてい無い」らしい。
 なお、南北朝時代以降となれば、堂免橋のたもとに人が住むように
なって、埼玉県越谷市大松に清浄院が、室町時代の初期に開基され、
更に戦国時代になると、武蔵武士の末裔と見られる新方氏が、堂免橋の
西側の現埼玉県越谷市向畑に、新方氏館跡として名が残っている、館を
築いて住むようになったとの事のようだ。以上の情報のうち、

東武スカイツリーラインの大袋駅の西側の恩間付近は、だいぶん開けて
おり、ほとんど成果は期待できない

と思う。が鎌倉時代にも、大袋駅付近よりも西に、利根川が流れていて、
そこが下河辺荘に、属していたらしいという事が判っただけでも、かな
りありがたい情報だと感じた。
 なお、新方氏屋敷跡付近に、

船が沈んでいるという伝承がある

というのを、このブログで前に紹介した事が有った。少なくとも加藤幸
一氏の、6月7日の講演では、その話に言及が無かったが、類似の話が、

埼玉県越谷市平方と埼玉県越谷市大泊の境目付近にも、別にある

との話を聞いた。ここには現在、用水路程度の水路しか無いようだが、
聞くところによると、昔は会野川という、幅の広い川が、東西に流れて
いたらしい。そして、航行していた船が沈んで、難破船として存在する
という、話があるようだ。更に、戦国時代の新方氏の館のケースとは違
い、平方~大泊沈没船のケースには貨幣を運搬していたため、

埋蔵金伝説の噂も有る

との事であった。
以上の事から、たとえば
埼玉県越谷市大泊から将棋駒が出土する確率は、埼玉県越谷市向畑から
将棋駒が出土する確率と、ほぼ同じなのではないかと、私は思った。
場所は千間台から大正大学入口まで走っているバスで、当てずっぽうで
いうと、「山谷」というバス停の南側付近だろうか。開けている場所だ
と認識するため、行くと何かわかるかどうかについては、余り期待は、
こちらの方も、出来ないような気が私にはした。
 以上のように下河辺荘でも新方は、実は鎌倉~南北朝時代については、
状況が余りはっきりしていないような印象を、加藤氏の講演から私は受
けた。
 6月14日にも同じ加藤幸一講師が、第2回目の講演会を越谷市市立
図書館の、同じ場所でされるようなので、こちらも聞き取る予定である。
(2017/06/08) 

8×8升目32枚制原始平安小将棋、9×9升目36枚制平安小将棋に駆逐された訳(長さん)

以下大将棋ではなくて、小将棋の歴史の話題にはなるのだが。今までに何回か、
平安時代後期から鎌倉時代にかけて、二中歴に曖昧に記載されている事を根拠とし
て、私は、元々の小将棋が8×8升目型、院政期以降に、上流階級では9×9升目
型の平安小将棋を、公式の場では指したと、繰り返し述べてきた。この説は、主流
の説とは全く違う、私だけの主張であるばかりでなく、

現実として8升目型が、結果として伝わらなかった理由を説明する必要

が、新たには発生する説である。なお、
8×8升目32枚制原始平安小将棋とは、こちらから、相手の陣を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は9升目型と違い、2段しか無い事になる。
これに対して9×9升目36枚制標準平安小将棋は、同じくこちらから、相手の陣
を見る書き方で、
一段目が右辺から、香車、桂馬、銀将、金将、玉将、金将、銀将、桂馬、香車
二段目が右辺から、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升、空升
三段目が右辺から、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
と並んでいる将棋を指す。中段は日本将棋と同じく、3段である。
なお「8升目型が、中間段2段だから行き詰まる」という説があるが、私はそうは
思わない。8×8升目型の場合、序盤で意味のある歩兵突きは、互いに右香車~
右銀将の前の歩兵の、3枚だけだと私見する。その他の5枚の歩兵で、位取り争い
をする将棋には、恐らくならないのではないか。そうではなくて8升目型の場合、
桂馬が互いに当たらないため、次は右銀将、右桂馬、桂馬先の歩兵を更にと、以上
の3枚の自駒を選択的に繰り出して、相手左辺破りを狙うのが、定跡になるのでは
ないかと、私は考えているのである。以上は、一人でも多くの識者の方に、100
円ショップの将棋道具を用いる等して、今後御確認を御願いしたいと考えている。
 さて私は、8×8升目型は鎌倉時代中期までは指されたが、中将棋が指された、
南北朝時代までには、消えたと考えている。根拠は、前回述べたように、
異制庭訓往来の記載と矛盾が起こるからである。次に、8升目型が9升目型に駆逐
された原因は、主に

将棋盤が9升目で作られた

のが、最も大きな理由と想定している。持ち駒ルールは、異制庭訓往来の少し前の、
普通唱導集に記載された小将棋の時代には、小将棋に導入されていたと考える。が、
持ち駒ルールを9升目型に導入すると、8升目型取り捨て平安小将棋が、全く指さ
れなくなるほどの、影響が有ったとは考えない。というのも、

持ち駒ルールは、8升目にも9升目にも、やろうと思えば、どちらにも導入できる
ので、結局大差ないのではないか

と私は思うのである。それよりも、特定の将棋種が生き残るかどうかは、情報が
子孫に伝わるかどうかに、掛かっていると私は思う。つまり、

口伝でルールを説明しながら、地面に線を書くか、せいぜい布に線を描いて、
8升目型将棋を指して、後継者に情報を伝えようとしていても、地面の線は、
ゲームが終われば消されるのだし、布も十年とは持たなかったので、ルールが
確実に情報として、伝承できる手段では無かった

と考える。それに対し「公的な晴れの舞台で使用する」と、上流階級、たとえば
鎌倉時代の有力な、武家の棟梁のような家に伝えられた、9×9升目の将棋盤は、
将棋のルールを、情報として、きちんと伝える役割を果たしたのではあるまいか。
名の有る鎌倉武家の家なら、鎌倉時代初期の物が、ひょっとして室町時代になって
も、家伝の将棋盤として残っている事が、あったに違いない。以上の理由で9×9
升目型の平安小将棋は、将棋盤という道具が情報を伝える、伝達道具としての役割
をも果たした結果、遂には「8升目制の平安小将棋も、結構暇つぶし程度には面白
い」という記憶を、完全に消し去るに至ったのであろうと、私は私見している。
 むろん、宮廷では9升目制が公式となっており、更には、読み書きの出来る者の
うちで、その割合の多い上流階級が読み取れる形で、公式な平安小将棋のルール
ブックや、9×9升目の将棋盤を描いた絵巻物といった史料が、鎌倉時代末期には
残っていたとすれば、それが下世話の8升目型を、完全に駆逐し去った、別の原因
に、あるいはなるのかもしれないとは思う。
 以上の事から私の説によれば、現在の9升目制の日本の将棋は、9という一の位
で最も大きな数を縦横に持つ、たいそう由緒のありそうな、知識人宅に置かれた
将棋盤を、室町時代の人間が眺めているうちに、将棋は9升目制だと、思い込む事
によって、確定したのではないかと言う事になる。(2017/06/07)

日本の将棋は本当に初期配列で全ての筋の前列に歩兵が有ったのか(長さん)

少なくとも日本将棋では、中国のシャンチーや朝鮮半島で指されるチャンギ
とは異なり、チェス、マークルック等といっしょで、縦9筋全ての、自陣3
段目に、歩兵が9枚配置されて、ゲームが始まっている。では、図で初期
配列が示されて、い無いような、平安時代の将棋でも、そうなっていたと、
本当に証明できるのであろうか。

私は日本の将棋には、歩兵のい無い列は無いと思うが、理由は、8×8升目
制原始平安小将棋が、鎌倉時代の後期程度のけっこう後まで、布盤を使っ
たり、地面に升目を書いて将棋を指していた民間では、実際には公然と
残っていたのが、主要因

だと見る。奇数列でないと、シャンチーやチャンギのように、見栄え良く、
駒が並ばないので、一つ置き配列にはしないのではないかと、思うのである。
なお、上流階級への指導書である、二中歴の大・小将棋であるが、歩兵の
枚数についての、言及は無い。ただし、注人の説明で、中央に歩兵があるか
ら、二中歴記載の平安大将棋の歩兵数は、13枚か7枚か5枚だと判る。が、
飛龍が角行駒だと、3段目3列目に、歩兵がほしいのに加えて、将小駒で
下から紐を付けて、端から4列目の4段目で位の陣を歩兵で作るような手は、
指したいので13枚にするだろうと思う。
この時代の9×9升目制平安小将棋も、平安大将棋が各列歩兵配置型なら、
大将棋の方で言及が無ければ、同じと一応は推定できよう。また仮に、
大江匡房が8升目制平安小将棋を攻撃したとき、新案として計16枚ある
盤上の歩兵を10枚に減らせば「皇室の警護を5/8の規模に縮小する事
を、窺わせるような”政策”は、いかがなものか」と、

守旧派の摂関側から言いがかりを、付けられるのは必然だろう。だから、
どちらでも同じに近い事柄について、敢えて争うような事をしなかったので
はないかと思う。つまり歩兵は、そのため18枚になったに違いないと私は
思う。

 なお、二中歴の記載だと曖昧だが、南北朝時代の小将棋は、36枚制との
示唆から、最も駒数の少ない将棋でも、駒数は36枚だという意味にとれば、
異制庭訓往来の記載から見て、歩兵は18枚有ったのだろう。
 さらに、中国のシャンチー、朝鮮半島のチャンギで、歩兵が10枚なのは、
砲の攻撃力が、初期に強くなり過ぎないようにするための、調整とみられる。
同時に、そうする事により、車の活動が、より早く始まるようにもしている。
シャンチーやチャンギでは、斜め走り駒が早攻め駒であるため、定跡を生み
やすくなってしまう事に気がつき、駒が線動き表現である事もあって、斜め
走り駒を採用しなかった。そして、兵器としての本当の砲が、唐代後期に発
明されたのが彼らにとっては幸運で、今のような形になったのだと思われる。
また、兵力を減らすという批判はあったのだろうが「戦争は兵力よりも、
科学力である」と、厳しい大陸の戦争では、皆が気が付きやすかったこと。
更には九宮を発明したため、「建て屋で玉駒は守られている」と、言い訳す
る手が有ったのだろう。
 それに対して、概ね中国の模倣をしていたはずの古代のわが国で、飛び飛
びの歩兵配列が、なぜか、それだけは真似なれなかったのは、前記のように、
走り駒に香車しかない小将棋では、実はどちらでも良かったのだが、将棋史
の流れの、微妙な経緯が絡んでそうなっただけの可能性も有り、注意が必要
だと私は考える。初期院政派の大江匡房等による、人為的な原因ではなくて、
自然発生的に、9×9升目型の標準平安小将棋が、発生したのだとすれば、

興福寺出土駒時代頃には、9×9升目28枚制変形平安小将棋という、
9×9升目36枚制平安小将棋と、私の認識では、思ったほどにはあまり差
が無い将棋が、有ってもおかしくは無かった

と、私は見ている。なお
大将棋・中将棋の時代になると、

竪行、横行の成り駒を飛牛、奔猪にする等、縦や斜めの走り駒を、複雑に多
数入れて、攻撃が継続し、詰みまでの定跡が出来る原因となる、致命傷を
作らないようにする、複雑化による解決

の方向へ、我々の国の将棋は流れが移って、歩兵の配列に隙間を作ることを
考える余地は、かなり減って行ったのであった。そして小将棋に、持ち駒
ルールができ、遂に日本将棋が成立すると、角行は何度も”角替わり”され、
序盤で定跡の立役者になって消えてゆくような、将棋にならないように進化
して、中国晩唐のシャンチーの、生みの苦労の解決策とは別のやり方で、
問題が克服されて行ったと考えられるのである。(2017/06/06)

牛僧儒の玄怪録のキャラクターは何故一文字ではないのか(長さん)

牛僧儒の玄怪録に象棋型のゲームを連想させるものがあり、中国で
唐代に、シャンチー・チェス型のゲームが、存在したと主張される
根拠になっている。ところでそのキャラクターは、二文字以上で表現
されているが、これが象棋を、暗々裏に表現しようとしているとして、
一文字駒のシャンチーと異なるようにしたのは、何故なのかと言う点
を問題にする。結論を書くと、

玄怪録は南詔のゲームを基にして、書かれた物語であるから

だと、私は考えている。前回述べたように、長安には吉備真備の指し
た、シルクロードにより伝来した、イスラム・アッパース朝の、シャ
トランジが既に有ったと、私は考える。もともとは外来の将棋とは言
え、このゲームの駒は、王、将、象、馬、車、兵と、その当時までに、
一文字で漢訳されていたはずである。しかし、玄怪録の下敷きになっ
た象棋は、それをボカすにしても、漢字を2文字にしなければならな
い、特に理由は、本来は無かったのではないだろうか。にも係わらず、
そうしている所からみて、周辺部とはいえ、唐からは、外国と見なさ
れる国の、駒名を漢訳すると、少なくとも一部が2文字になる象棋型
のゲームを、表現しようとしているので、そうなっているのではない
かと疑われる。なら、どうして周辺国のゲームで、怪奇物語を造った
のかと言えば、私は

牛僧儒とその一派は、南詔と吐蕃に興味が有ったからだと思う。

 牛僧儒は、唐王朝内部で政治のリーダー格であり、政敵李派との間
で、彼とその派閥が、唐王朝内部で長い抗争を行った事で知られてい
る。特に牛僧儒自身は、吐蕃と唐との抗争の過程で、一旦和睦が成立
したあと、吐蕃に属した諸侯の一つが、唐王朝に寝返りを申し出たと
ころ、吐蕃の仕返しを恐れたのか、吐蕃と裏で繋がっていたのか、ま
た平和主義者だったのかは、私には判らないが、その諸侯を編入して、
唐の領土を広げる決定に、反対した一件で、知られる人物である。
つまり牛僧儒は、吐蕃および、その緩衝国だったとみられる、

南詔国等に対し、融和的な政策を提唱していたのではないか

と、私は思う。
だから、著書で象棋を紹介するときにも、吐蕃・南詔の文化を宣伝
するような、内容の物語を製作しても、特におかしくないのではない
かと、私は考えるのである。
 ちなみに、この一旦確定した吐蕃と唐との国境を、吐蕃内の特定諸
侯の裏切りを利用して、ハンコにするのを止めた政策は、少し後に、
唐の皇帝により否定的に評価され、牛僧儒自身が一時的に退けられる
原因になったと、web上でだけだが、私は聞いている。唐代牛李の
派閥抗争が、それについてだけ、詳しく書かれた日本語の成書は、
新書の書店の店頭レベルでは、あまり置かれてはいないようである。
 なお、玄怪録のこの象棋物語の出だしに、上で紹介した将棋駒モド
キの意味に使われる単語とは別に、”金象将軍”という単語が、出て
くる。以下私見であるが、この単語の使われ方の内容は、将棋を表現
しようと意図していないのかもしれないが、ひょっとすると、

南詔国の将棋型ゲームには、唐代から”金将”という名称の駒が、
有ったという事を、たぶんうっかり示唆しているのではないか

と私は疑っている。今まで何回か述べた大理国と南詔国は、ほぼ同じ
所に成立した、王族は互いに別族の国家だったらしい。だが、雲南省
大理県が、鉱山地帯である事には変わりが無いから、大理国の将棋の
名称に近いものが、南詔国の時代からあっても、特に不思議ではない
ように私には思える。
 中国全土としては、南詔国のように鉱山地帯ばかりではないから、
”金将”という名称の駒が使われる象棋は、主として雲南省で指され、
吉備真備の主として滞在したと見られる、長安では、指されなかった
のではなかろうか。つまり国際都市で指されている、象棋の将駒に、
”金”という形容詞を、わざわざ付ける理由が、無いのではないかと
言う事である。
 つまり吉備真備の将棋話をも仮に信じるとすれば、玄海録の存在か
ら見て、

”中国には古くから象棋が有った”どころか、少なくとも2種以上の
有力なゲームが唐代には並立して、方々で興じられていた

と、我々江戸時代の遊戯史研究者の善意を信じる者は、かように結論
して、中国の遊戯史学会等と接するのが、より優れるのではないかと、
私には思えるのである。つまり吉備真備が入唐時に、将棋を指した話
に関する江戸時代の記載は、少なくとも外国人には「空説」と、現時
点で余り強調して、説明しない方が、むしろ良いのではなかろうか。

そうしてしまうと、日本の遊戯史研究者の言う事は、時代は現代と
江戸時代とで別々とはいえ、どちらも同じ、日本人の言う事だから、
両方アテにならないという事なのではないか

と、外国の人間からは内心思われる恐れも、多少はあるのではないか
と、私は心配しているのである。(2017/06/05)

本朝俗諺誌(ほんちょうぞくげんし)の将棋史の記載は本当に作り物か(長さん)

徳川吉宗から家重へ将軍が交代した頃かと思うが、1746年(延亨三年)
出版された本朝俗諺誌に、将棋の歴史に関する記載がある。それによると、
「将棋は唐へ、吉備真備が天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に
入ったときに、日本に伝えられたが、これは現在の将棋とは異なるもので
ある。その後江師(大江匡房)が、将棋を発明した」と、記載されていると、
1977年版のものと人間の文化史23-1将棋Ⅰの初期の版に、記載され
ている。そこで、この本朝俗諺誌の説の当否について、以下話題にする。
 本朝俗諺誌の著者が、何故それを知っているのか、情報の出所がはっきり
しないが、真実にかなり近い知られざる情報を記していると、わたしはこの
情報を個人的には評価している。すなわち、

「大江匡房が、将棋を発明した」を、”大江匡房が、平安時代の後期の院政
初期に、宮廷で指される小将棋を、9×9升目型の標準形の平安小将棋だけ
に、限定した”に変えれば、残りは正解だと

私が思っているという事である。
また、

吉備真備は天平勝宝4年~6年(西暦752~754年)に唐で、アラビア
のシャトランジを指した事があった

とすれば、差した事が無かったというのよりも、かなり尤もらしいと、個人
的には思う。地続きだしシルクロードは有ったのだし、アラビア方面にシャ
トランジは有ったのだから、国際都市長安では、シャトランジに関する情報
が当時存在しなかったというのは、不自然だと私は思うのである。が唐に、
これに関する中国語で書かれた文献があっただろうか、というと、それは謎
だ。更に日本に”もたらす”と、アラビアのこのゲームに、ありがたみがあ
るとも、私には思えない。シャトランジは明らかに、現在の日本の将棋とは
異なるし、平安小将棋とも歩兵の位置、歩兵の成り位置、桂馬、香車、銀将
のルールが皆違う。そもそも、当然だが、シャトランジは王、将、象、馬、
車、兵が、中国のシャンチーの帥/将、士、象、馬、車、兵と、類似の動き
をするゲームである。以上の事から本朝俗諺誌の”これは、現在の将棋とは
異なるものである”との旨の情報は、的を得たものなのではないのだろうか。
 なお1977年時点での増川先生の上記著書の記載によれば「このような、
はっきりとした、日本の将棋の起源に関する記載は、江戸時代では、時代が
下るにつれて、少なくなる」となっている。ただし上記の、ものと人間の文
化史23-1将棋Ⅰ、1977年版には、西暦1746年より新しい文献に、
将棋の起源に対して”曖昧に記載されている例”が、挙がっていないように、
私は疑っている。
 ただ恐らく増川先生は、他の情報もお持ちなので、「将棋の起源は判らな
い」という旨の説が、幕末には定着したと考えられる根拠は、実際には種々
知っておられるのではあろうが。
 ただし幕末に向かうに従って、将棋の伝来の様子が曖昧になるというのは、
”書き手が正直になってきて、口伝等を書かなくなるから”という理由とは
別に、より単純に、

その間に、忘れ去られたからである

と、考える事もできるような気が、私にはする。増川先生も、同著書で示唆
されているように、将棋の家元は江戸時代、初期の頃には幕府の庇護を受ける
ために、将棋に関する権威付けが必要だったが、時代が下ると、庇護を受ける
のが普通になったため、将棋の歴史の権威に関して、意識がだんだん薄くな
った疑いが強いと、私も思う。
 つまり、将棋史を真剣に主張する空気が薄くなるにつれて、歴史のうち家元
代々が口頭で伝承していた、口頭に頼る歴史情報が、徳川三百年の歴史の中で、
次第に曖昧化した可能性も、完全には否定できないのではないかと、私は思う。
 ただ、吉備真備が指したチェス・将棋ゲームについては、それが、
シャトランジであるとすれば、将棋とは呼べないのであるから、日本の将棋史
にはさしたる影響は無いのではないかと、私は思う。それに対して、

院政派の大江匡房が、玉将が金将と同格の雰囲気で並んでいて、摂関時代の
藤原貴族は、一族の複数人が位が高くて、日本を牛耳っており、天皇や上皇は
そのゲームの中心駒にはなっていないのが、ありありと見える、8×8升目制
原始平安小将棋に不審を抱いていた。だから彼が、王将や玉将という、帝が中
央に居るようにはっきり見えるモデルの、9×9升目制標準平安小将棋に、そ
れを取って変えてみせた

という重大な歴史を、”本朝俗諺誌の将棋の歴史に関する記載”を軽視する事
によって、忘れさられてしまうというのは、この情報内容が仮に正しいとする
と、著しく貴重な史料の消滅だと、私には思われるので注意が必要だと考える。
 なお私は個人的には、はっきりとした証拠は持ち合わせないが、江戸時代に、
そのような変化が起こったのは、

徳川家重と徳川家治、特に後者の徳川家治が、将棋将軍と評されるほど
将棋に親しんだのが、将棋家元に前記の緩みができた事の、最大の原因だった

のではないかと思う。1746年頃には、本朝俗諺誌に書かれたように、将棋
の由来は必死に広報されたのであろうが、徳川家治の特に後期、西暦1770
年代以降の治世には、日本の一強が、特に好んで押す将棋を優遇する事は、

徳川幕藩体制内部の人間が全て、それこそ”忖度の塊となって”推進した

のであろう。だから、将棋の家元が、将棋のルーツに関して、権威付けをする
ため、誇り高き将棋のルーツを、主張し続けるという事は、家重、家治以降は
実際に、少なくなったのかもしれない。
 たとえば私は以前、徳川家治が日光へ、徳川家康と徳川家光の参拝のために
行くとき、先祖を供養するだけではなくて、先に亡くなってしまった家族であ
る、妻の五十宮倫子女王や娘の徳川万寿姫の、三面の部品にかこつけて、腹心
の家来と、祖先が戦国時代に焼津で中将棋を指していたと見られるその部下の

老中の田沼意次および、当時の配下で、若かりし頃の長谷川平蔵が、結託し、

日光街道道中の2~3箇所、日光滝尾神社・小山宿の神鳥谷天神近く等、女性
の仏を暗示させる菩薩仏やその堂宇に、将棋史を調査の上、適切な形の将棋の
駒を供えて回った可能性があると、示唆した事があった。後者が、栃木県
小山市神鳥谷曲輪で出土した、裏金一文字角行駒と、現物として同一である
可能性が、有り得るのだと私見する。
 つまり徳川家治のこの時代一時期は、幕閣は誰もが、将軍の気持ちを忖度し
て、自発的に将棋と係わりを持とうとする、将棋史啓蒙が行き届いた時代だっ
た事を、これはひょっとすると、示している一例かもしれないと、思っている。
何れにしても、

大江匡房が少なくとも、宮中で指す将棋に関して院政期、何かを上奏したのか
もしれない

という、初期院政派・大江匡房が、将棋史に関わりがあるという、重大な内容
について、江戸時代の徳川吉宗の時代までは、少なくとも口伝として、それが
残存していた。しかしその直後に、将棋の啓蒙の努力の空気が緩んで、忘れら
れた可能性が、完全には否定できないように、私には思える。(2017/06/04)

将棋の駒の起源は増川宏一氏の推定から経帙牌(きょうもつはい)か(長さん)

増川宏一氏のものと人間の文化史23-1将棋にあるように、将棋の駒
が五角形なのは、経帙牌を、僧や寺男が転用したためとの説がある。
私は、この説に賛成なのであるが、

増川宏一先生とは違い私は、平安時代後期の
西暦1010年頃に、初めて経帙牌が将棋駒として転用された

と思っている。倭名類聚、源氏物語、枕草子に将棋の記載が無いので、十世
紀に日本で平安小将棋系のゲームが、行われていないと、定説通り考えてい
るためである。しかし、前記「ものと人間の文化史23-1将棋」の、少な
くとも1977年版を読むと、増川先生が、経帙牌を将棋駒として使い始め
たのは、飛鳥時代から奈良時代と推定されているように、私には取れる。
これは経帙牌については、飛鳥~奈良時代時代が、唐からの経典の輸入が、
ピークだったために、その付属品である経帙牌も、その頃が使用の中心と
いう事実があるので、増川先生のような説明に、当然なるのである。
 そこで経帙牌の使用頻度が下がり、32枚の単位で、まとめて入手し辛い
のではないかと疑われる、西暦1010年頃に、将棋を指した人間が、それ
で、最初に指せた理由について、私の考えを以下述べる。結論を先に書くと、

将棋を日本に伝えた中国人と、その時点で、古より経帙牌を日本に輸出して
いる中国人が、どちらも交易商人でかつ、たまたま同一人物だったからだ

と私は思う。彼は、中国の経典の交易商でもあったので、経帙牌も昔から
取り扱っており、写経の需要が減って、そのための経帙牌の要求が、日本の
大宰府の、私設貿易仲介担当者からの指示数として、従来少なくなっていた
とは、当然認識していたに違いない。しかしながら、大宰府で西暦1010
年頃に、私設貿易仲介担当者から突然、
「将棋の駒として、大宰府内で使用するので、こんどは数百枚程度の数で、
まとまった枚数、交易品といっしょに、経帙牌も持参してほしい」と頼まれ
た。だが、中国の経典の交易商は、日本に

将棋を伝来させた張本人であるから、意味が当然判るのであり、「下っ端武
士の道具は、しょせん板切れの束にすぎない」と、内心思って呆れはしても、
ある程度金になりさえすれば、次回に大宰府に交易で来日するときに、当然
言われたとおりに、経帙牌を持って来たのではないかと、私は推定する

のである。
 恐らくこうして輸入された、通例より数が異常に多い経帙牌は、表向きは
大宰府条の御坊に、「写経して作成された国内経典に付帯使用する」のだと
して、一旦卸され、将棋の駒名が、恐らくアルバイトの僧侶等によって、密
かに書き込まれた上で、更に大宰府の武家に、完成品が原価に比べれば相当
高値で、ひょっとすると販売されて、将棋の駒として使用されたのだろう。
なお大宰府条の御坊からは、間を詰めて、試し習字したらしい「桂馬香車歩
兵」と記載された、平安時代後期の木簡だけが、現在出土し見つかっている。
ともわれ、

木簡を削って作るよりこの方が、将棋駒の作成は、はるかに楽で、出来も
よかったに違いない。

 つまり、日本で最初の五角形駒はもともとは、たまたま、大宰府条の御坊
に在庫してあった、昔使用した余り物の32枚の経帙牌が、形から使える
と、将棋を最初に教わった、漢字の読み書きのできる日本人に判断されて、
最初の原始平安小将棋の日本人棋士に、将棋駒第1号として、確かに西暦
1000年頃に、使われたのが起源であったと私は考える。しかし察するに、
五角形木製将棋駒一式2~15、16作目位は、次回の北宋交易のときに、
法外に大量に不正輸入された、経帙牌を駒木地にして作成された、実は元々
「下っ端武士用の将棋道具」だったのではあるまいか。むろんこうした不正
な交易品は、大宰府内だけで、少なくとも初期には限定的に使われて、京都
には行為が隠匿されたのであろう。そのため、運よく直ぐには、大きな問題
にはならなかったに違いない。そしてこれにより、大宰府では最初から、
比較的整った五角形駒で将棋が指せ、更に棋士の数を、増加させることが
出来た。だから将棋が日本に初めて定着する、この地こそが、日本の将棋の
故郷となりえる、大きな要因になったのだろう。と、私は以上のように、考
えているのである。(2017/06/03)

七言「桂馬前角超一目」の言い換えを考える(長さん)

 二中歴の将棋・大将棋の項で、桂馬の動かし方の表現が、表題の
ようになっている。桂馬は桂馬跳びだと決め付けると、桂馬跳び
のルールになるように、この部分を解釈するのだが、特に四文字目
の角を斜めと解釈するよりも、3~4文字目が続いており、「角の
升目のうち、前の2升目」と訳して、斜め45°に跳んで、二升目
先へ行くという解釈の方が、自然だという話がある。「桂馬は昔、
桂馬跳びではなくて、斜め2升目行きであった」というのは、二中歴
の記載も、根拠となっているのである。なおその他、水無瀬兼成の
将棋部類抄の、後期大将棋の桂馬の動かし方の点が、斜め45°に
なっているというのが、斜め前跳び説では、それに加えた、別の証拠
ということになっている。
 すると逆に言うと、二中歴の桂馬のルールの表現は、本来は、
斜め前2升目跳びだったにも係わらず、7言で、他の小将棋の駒に
合わせようとしたために、「3文字目を、前の升目、4文字目を、
その斜め、よって跳ぶ一目は前の升目である」と、無理に解釈して、
他国の『馬』に類似の動きであった、かのように解釈されてしまう、
曖昧な表現であったと言う事になる。しかし、通常は恐らく、
7文字韻のために、こうせざるを得なかったのだろうと、遊戯史学会
では、多数派として見られているのだろう。

 二中歴の小将棋記載では、曖昧な解釈を残す余地が無いようには
出来なかった

と、そう最初から、決め付けられているような空気が、あるように、
私には思えてならない。そこで今回は、本当にそうなのかと、この
ブログでは最近考えてみたので、結果を報告したい。答えを書くと、
桂馬の斜め2升目跳びを、7文字ちょうどで表現するには、

桂馬角攻超一目

と、表現する手が有ったように、私には思える。

桂馬は斜め攻め駒であって、一目跳んで行く

と表すのである。なお「攻」という字は、明確に、相手陣側へ進む意味の
字を探してみたのであり、「進」でも同じでは無いかと、思われるか
もしれない。ただし、進には漢文では”まいらす”と読み、「献上する」
という意味になる、特殊な動詞としての、用法があると言うので、避け
てみた。私のこの「攻」の使い方が正しいかどうかは、私には謎だが、
「進」や「攻」の私の探そうと意図した字に、本当に適切な文字がないの
かどうかについては、一考の余地が依然あるのではないかと私は思う。

個人的には、桂馬前角超一目には、漢文としては2つの解釈がある

ように私も思うが、桂馬跳びだと、少々無理をすれば”曲解”できるよ
うに、二中歴の著者が、不用意に、桂馬のルールを表現してしまったとす
れば、上の結果から若干だが、不可解だとは言えるかもしれないと思う。
 以上のように遊戯史研究者には、歴史学者以上に、漢文和訳の能力だけ
でなくて、和文漢文訳の能力も、ひょっとすると要求されているのかもし
れないと、私は感じている。(2017/06/02)

平安大将棋の飛龍が斜め一升跳びルールの可能性は有るのか(長さん)

以下二中歴の大将棋のルール記載のみを、問題とする。”飛龍・・
行四隅超越”という内容だが、飛龍の駒の動かし方のルールに関して、
一升跳びと、漢文として読めるのかどうかと言う、以下議論である。
結論を先に書くと、

一升跳びとは、少なくとも書いて、無いのではないかと私は疑う。

なお、この部分は、増川宏一氏著書、ものと人間の文化史 将棋Ⅰに
よると、

”飛龍は、・・四隅に飛んでいける”と増川氏は解釈し、

図で、角行の動きを記載している。図の中身から見て、”飛んでいけ
る”の”飛”の字は、飛車角の飛の字を増川氏は当てたと、この成書
に関して解釈してよかろう。”超越”を「幾らでも、数に制限無く走
れる」という意味に取っているとしか、考えられない。そしてこの考
えが妥当かどうかであるが、
「跳ぶそしてまた跳ぶ」が、より正確な解釈とすれば、それで正しい
のではないかと、私も思う。鯨鯢という駒があるが、鯨の大群のよう
な意味だと思う。”鯨、そして鯨”であるから、このケースは、たく
さんの鯨という意味であろう。超越の超と越は、一番判りやすい解釈
は、”跳ぶ”という意味の類似語の重ねだ、という事ではないか。
 従って、これを”斜めに一升跳んで2升目で止まる”と解釈すると
すれば、それは、かなりおかしな訳だと私は思う。

それなら、”飛龍・・行角々超一目”と、単純に書くのではないか。

だが、これに対しては、韻を踏ませる関係で簡略化したという、意見
もあるいは出るかもしれない。しかし、前田家古写本「二中歴」将棋
等を見る限り、7文字づつで、調子を取っているのは、小将棋の駒ルー
ルの所だけで、大将棋の所は、文字数にこだわってい無いように、私
には見える。”超越”でも”超一目”でも内容の確定しやすい方を、
このケースは、書くのではないか。
なお、”跳ぶそして跳ぶ”なら、0跳びのケースが考えにくく”隣接
升目では、留まれない”というルールを書いたとも考えられる。実は
飛龍は、その方が面白いので、それでも良いと私は思っている。

とにかく、2升目跳びという、弱い駒では、あってほしくないものだ。

 つまり将棋のゲームとしての性能に関して、走り駒を2升目跳び駒
にしてしまうのは、かなり影響が大きい。個人的には

飛龍が角行のルールの平安大将棋は、飛龍が後期大将棋のように
2升目動きの平安大将棋よりも、ゲームとしてより優れると見ている。

むろん、飛龍が2升動きだと、猛牛の動きの性格に近似してくるため、
猛牛-飛龍という図式を断ち切って、猛牛-酔象にしたい私の思惑と
違ってしまうために、私の普通唱導集大将棋のモデルにとっても、
この平安大将棋、跳び飛龍解釈は、都合がかなり悪い。よって今の所、

 飛龍の二中歴大将棋記載の解釈については、私としては、最悪
”走り駒類似”で収まってほしいと、祈るような気持ちで居る。

 次に以下、今回の話題からすると蛇足だが、ざっと考えてみた範囲
では、桂馬が桂馬跳びではなくてたとえば、斜め2升目跳びであったと
しても、これまでの議論で、影響が出るのは、

桂馬が斜め2升目跳びだと、普通唱導集2節のように、桂馬を1手で
3段目に上げても、元々位置が2筋違いなため、13升目型の
普通唱導集大将棋モデルでは、仲人の紐にならない点

位で、全然無いとまでは言わないが、より軽微だと思う。2升目跳び
だが、少し跳び方が違うというのは、走りを跳びにするのに比べれば、
影響は少ないという事である。他は9升目制平安小将棋で、桂馬同士
は依然当たるし、8升目制原始平安小将棋で、定跡で攻撃桂馬が、
右桂馬から、玉側にもともと居る、左桂馬に交代する位で、定跡の
中身自体は変わるが、定跡が存在する事に、差は無いような気がする。
 なお、普通唱導集大将棋第2節は、桂馬で仲人という兵駒を支える
というのが、中国シャンチー的な作戦だし、嗔猪と仲人という、兵駒
の性能に近い駒同士で、腹を合わせるというのは、朝鮮半島で指され
る、チャンギ的作戦である。つまり、この唱導集の内容を考えた人間
は、普通唱導集、大将棋第2節の記載の内容から見て、

中国シャンチーと朝鮮チャンギが、両方指せる人間の疑いがある

と私は思う。ところで、このような内容のシャンチーとチャンギは、
馬が何れも8方桂馬であって、跳べる象の動きではない。よって、
普通唱導集大将棋第2節の、具体的内容から見て、

普通唱導集で唄われている大将棋の桂馬は、普通の桂馬跳びである

疑いが、平安大将棋の桂馬に関する、たとえば象駒類似ルール説とは
異なり、かなり強いと、私には感じられるのである。(2017/06/01)