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西暦1015年に、内裏に置いた物品は放火で被災する(長さん)

以前、本ブログの見解では、中国北宋の交易商人、周文裔親子によって
西暦1015年に、中国雲南省の大理国からもたらされた、原始平安小
将棋用の、黄金の将棋具は、藤原道長の土御門第が、その直後火事で
被災するためそこには無く、三条天皇の住まい、内裏に保管され、
1019年に、藤原隆家に使われたのだろうと述べた。そしてその際、
西暦1015年の内裏の火災は、規模が小さかったため、金銀将棋駒は
熔けなかったとの旨を仮定した。しかし、その後の調べで、

内裏に置いておいたのでは、西暦1015年の火事でも熔けてしまう

事が判明した。藤原道長の日記には、1015年の内裏火災の部分が、
抜けているようなのだが、他の記録から、

”三条天皇は冠をかぶる暇も無く、内裏から緊急脱出するほどの、被害
の大きな火事だった”

との史料があるらしい。以上は成書「藤原道長の日常生活」倉本一宏著、
講談社現代新書(2013)に、書いてあるで、その事実を私は最近
知った。従って、黄金の原始平安小将棋の将棋具が、実際有ったとして、

西暦1015年には、将棋具を藤原道長の住居の土御門第に置いても、
三条天皇の住居の内裏に置いても、それぞれ別々の火事で焼ける

のでどちらも駄目らしい事になる。そこでどうするかだが、結論を書くと、

後一条天皇の居た仮設住宅に保管し、西暦1015年の火事の後、再々
建された、後一条天皇時代の内裏に移せば、西暦1019年の刀伊の入寇
の時点で無事

との事になった。そこで今後は、このブログの言う、黄金の平安小将棋の
道具は、

「原始平安小将棋用の、”三条天皇の時代に、北宋の交易商人によって
もたらされ、恐らく後一条天皇の居所に保管されていた”黄金の将棋具は、」

と、問題の将棋具の形容詞は、本ブログでは、以上の””内のような旨に、
暫定的に表現する事に、私は決めた。
 なお、話がごちゃごちゃしてきたので、(仮説)将棋具の境遇を中心に
時間的順序をまとめると、以下のようになると、ここでは見ている。
以下”年”は、何れも西暦年である。

1014年に、三条天皇の住居である内裏は、一回目の火事になった。
その後、
1015年に、焼け落ちた天皇宅を装飾するための、黄金室内装飾品の
補充等のため、北宋から周文裔親子が、孔雀等といっしょに、原始平安
小将棋用の、金銀で駒ができた、立体駒将棋具を大宰府経由で、京都に
運んだとみられる。
その後
1015年に、藤原道長の住んでいた、土御門第(亭と同義)が、火災
で消失した。
その後
1015年冬に、三条天皇が突貫工事を、自らが命じて再建した、天皇
の住居である内裏が、二回目の火事になって、全焼した。
その後
内裏は更に、再々建されたが、三条天皇は眼病が悪化し、後一条天皇に
譲位した。藤原摂関政治は結果、絶頂期に達した。
その後
1019年に刀伊の入寇があり、藤原隆家が活躍し、京都に凱旋した。
藤原道長もこの頃に体調を崩し、長者役を藤原頼通に譲ったようである。
その後
恐らく1019年の同年に、後一条天皇と藤原頼通の御前で、上京した
藤原隆家が、後一条天皇の所有する、前記黄金の立体駒将棋具で、将棋を
指す等のイベントが、有ったものと見られる。
その後、その結果、
西暦1019年後半頃から、直ぐ前に書いた内容を聞いた、大宰府に駐屯
する藤原隆家の元の同僚の武士を中心に、将棋が指されるようになった。
更にその少し後の
西暦1020年、再び北宋から周文裔親子が、大宰府にやってきた。
五角形の将棋駒を作成するのに必要な経帙牌を、注文を受けた毎数だけ、
持参したと見られる。
以上の経緯で、日本ではその後、将棋が今までとは段違いに急速に、流行
ってきたと考えられる。

 以上の経過から、火災で壊れてしまうものを、藤原道長宅だけでなく、
三条天皇の住居に置いても、話のつじつまが、合わなくなる事は明らか
だろう。だが実は、以下の理由で、

第一回目の火事で再建した、極短命な、中間に建築された内裏に住んで
いたのは、せいぜい三条天皇夫婦だけである

と、考える事が可能なようである。というのも、第二回目の、

内裏の火災は放火で、犯人グループに、藤原道長自身が関与している

との見方が、歴史の専門家の間にあるようだからである。
第二回目の内裏の火災の直後に、藤原実資の日記に、藤原道長の息の掛かっ
た者が、内裏に火を付けた事を匂わす、

”予想された事態”との旨の、妙な発言を藤原道長自らがしている

との記録があるためである。ようするに”藤原道長は、三条天皇がいつま
でも、天皇ヅラをしているのが、元から気に食わなかった。ので、内裏に、
三条天皇が、天皇として、鎮座ましましているのを妨害しようと、常々
企んでいたのが、放火の動機”という事である。他方次の、後一条天皇は、
藤原道長にとって政治的にも大事な、自分の孫であった。だから、

第二回目の内裏の火災時点で、後一条天皇は、中間再建内裏に居無いよう
にして、被災から免れるように、藤原道長が、予め画策していたと考える
のが自然

と、言うわけである。つまり、

1015年の内裏火災の時点で後一条天皇は、後一条天皇用の仮設住居に
まだ居り、そこに、子供の遊び道具として、黄金の原始平安小将棋の
将棋具も有ると考えれば、少なくとも我々、将棋史研究家にとっては大切
な、輸入将棋具は無事

と、推定できるという事になるのである。
 なお、後一条天皇の時代に再々建された内裏は、そこらじゅう手抜きの
欠陥住宅だったと、藤原実資に評されていたという。最後の点が、地理的
に遠いために、大宰府の武士には、余り伝わらなかった点は、日本の将棋
文化にとっては、とても幸いだったのかもしれないと、私は思っている。

以上で本年も押し迫りました。本ブログにおこしの皆さん。では、良い
お年を御迎えください。(2017/12/31)

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鎌倉御家人の本拠地から出土した小将棋系の将棋駒(長さん)

前回、奥州藤原氏も入れて、鎌倉御家人の本拠地から出土した、大将棋
系の駒3個について、存在する理由を考察した。実はカウントで、小将
棋の出土駒を、この場合は除く、理由が無いのにその後気がついた。
そこで、天童市将棋資料館発行の、「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」
に、とりあえず書かれている分で、まだ取り上げて居なかった、小将棋
系の鎌倉御家人の本拠地出土駒を、探してみた。この成書の表に、苦労
して調べなくても、鎌倉御家人のチェックがされていて、

秋田県横手市手取清水遺跡出土の、裏一文字今桂馬駒だけ

のようである。なおここは、鎌倉御家人の一、安芸平賀氏の、鎌倉時代
のみの、本拠地との事である。ちなみに安芸平賀氏も、藤原姓との事で
ある。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、鎌倉時代から南北朝時代の遺跡数
としては、公家の居る、鎌倉、京都とその周辺、太平記で将棋盤を盾に
使った少弐氏の居る大宰府と、その周辺を除くと、11箇所となってい
る。なお徳島県の川西駒は、このリストにはまだ無いが、寺であるから、
ここは違う。
 そして11箇所のうち、鎌倉御家人の本拠地から出土したとされるの
は、この本を見る限り、上記の一箇所だけである。よって確率は10%
以下と、明らかに少ない。
 ちなみにwebの情報によると、藤原氏の末裔である、安芸平賀氏の
始祖の松葉資宗は、源平合戦で手柄を挙げて、源頼朝から、秋田県横手
市付近等、全国の何箇所かの地頭職を安堵され、鎌倉時代末頃まで、
秋田県を本拠地としたという。その後、本拠地を名前の通り、安芸に変
えたようだ。栃木県の小山氏と、大体はいっしょの立場のように思える。
 ところで出土した将棋駒は、こちらの方は特殊性は無く、かなり字の
しっかりとした、

普通の桂馬の駒

である。こちらは、実際に鎌倉時代の、ものかもしれない。家宝なのか、
実際に、平賀氏一族が、これで遊んだのかどうかは不明だ。何れにして
も、鎌倉御家人の頭数に比べて、その本拠地から出土する出土駒の、絶
対数自体が、たいした事が無い点だけは確かだと、私にも確認できた。
(2017/12/30)

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鎌倉時代の関東の御家人クラスの武士に、将棋を楽しむ習慣は無い(長さん)

日本遊戯史学界会長の増川宏一氏の成書に、日本遊戯思想史(2014)
平凡社という書籍がある。増川宏一著書と言えば、将棋史が著名なため、
後者がよく読まれる。しかし、将棋史本には、遊戯全体に対する、将棋
の流行の程度の記載は少ない。そこで、遊戯全体の中で、将棋がどの程度
流行っていたかを知るため、最近、冒頭の成書を読んでみた。その結果、
表題に書いたように、

鎌倉時代の関東の御家人クラスは、将棋および囲碁の、遊戯全体に対する
遊び心のウエイトが、日記や公記録からみて、京都の公家や僧侶に比べる
と低い

との旨の記載が、目に付いた。なお15世紀になり、花営三代記以降は、
上記の傾向は無くなる。ちなみに吾妻鏡には、西暦1248年に北条時頼、
長井泰秀、宇都宮泰綱、二階堂行義が、囲碁を指した記録程度しか、無い
そうである。理由は増川氏によると、ようするに武家は、文化部系という
よりも、体育会系であるという事だ。それはともかく、事実は事実である。
 そうしてみると、平泉で両面飛龍の将棋の駒が出土したり、鎌倉の
鶴岡八幡宮などで、裏面奔王鳳凰が出土したり、栃木県小山市神鳥谷曲輪
で、裏一文字金角行駒が出土したりする事と、具体的な遊戯として、これ
らの道具で遊ばれる頻度とは、鎌倉時代の武家層に関しては、余り整合性
が無いという事になる。つまり、執権北条氏、奥州藤原氏、下野小山氏は、
出土した将棋駒で、楽しんだようだという気配が、少ないという事である。
よってこれは、鎌倉時代・南北朝時代に関しては、

そのような将棋具を保持するに、相応しい氏素性の武家として、家宝とし
て将棋具を所持したという事実を、上記三例は全体としては示唆している

のかもしれない。特に、藤原氏の流れのイメージの強い、奥州藤原氏の
本拠地、平泉の出土駒や、鎌倉将軍が存在した、鶴岡八幡宮の出土駒とは
異なり、

地方有力武家の一族でしかない、小山氏の居住区から出た、神鳥谷曲輪駒
には、実際に興じる目的で、小山義政等が、摩訶大大将棋の駒を連想させ
る将棋駒を、14世紀の後半に保持した可能性は、少ないようだ

と、増川氏の前記成書を読んで、私は今までよりも強く、イメージするよ
うになった。小山氏の場合、南北朝時代の初期に、小山義政より2代前の
当主の小山朝氏が、京都の南朝方で独自の動きを示していた、近衛経忠に
傾倒して、藤原一族の武家で、作ろうと目論まれた武力集団、藤氏一揆に
組しようとしている時代があった。当然その時点で、小山朝氏は京都との
繋がりが深く、京都の藤原氏系末裔の、有力公家で五摂家の者とみられる
近衛経忠等より、

有力藤原系の東国武家の印として、儀礼的に小山朝氏が、大将棋系の盤駒
を西暦1330~40年代に、贈答されたとしても、余り不思議は無い

のかもしれない。それが2代後の、西暦1380年代の小山義政の時代に
も、小山城ないし龍ヶ岡城等に、家宝として存在していたのだろう。そし
て、小山義政の乱の際、足利氏満配下の武家の目に、将棋具がたまたま
止まった。更に西暦1381年に、出家後の小山永賢による、その将棋具
の由緒に関する、説明も得られた。結果その伝承が何らかの形で、小山市
神鳥駒を生み出す、原因となったのかもしれない。
 以上のような経緯だろうと、私は今まで以上に、確信するようになった
のである。(2017/12/29)

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玉と奔鉄系の駒よりなる、横列数無限大の将棋は引き分け必然では(長さん)

以下、無限大盤升目(駒数)将棋の、先後手必勝引き分け問題につい
て考える。
 縦の升目数が、充分に大きいが有限、たとえば2億段とか20億段
で、横の筋数が無限大の、盤升目の、便宜的に決めた中央の最下段に、
玉将を置き、更に段盤升目の1/2近くまで、奔鉄の類(奔鉄や、
それに、横、後ろの3方に、歩みの加わる駒が、駒種に応じて適宜使
われるとする)を、最下段近くは除いて、ぎっしり並べた、無限大駒
数の日本の将棋を考える。つまり、自陣は1億段とか10億段に、少
し足らないという将棋である。なお、この将棋は、豊臣秀吉型で、歩
兵の列が無く、奔鉄駒が剥き出しだとする。
 また、最下段近くには、ジグザグに横回廊が少なくとも一穴はあり、
玉将は初手から、かなり自由に、筋を変えられるとする。奔鉄が成り
は、走り駒の類に収まるとする。以上として、この将棋は

私の考えによると、引き分け必然

だと思う。
 理由は、攻めるメリットが無いからである。たとえば相手の玉前列
の奔鉄を、一例として、前方に進んで自分の奔鉄駒で取ったとする。
すると相手は、三方の隣接する奔鉄のどれかで、取った側の奔鉄を、
取り返す事ができる。

つまり、攻める側には、相手のある地点を、続けさまに攻めるために
は、ほぼ一通りの攻め方しか無いにもかかわらず、守る側には3通り
の受けがあり、手が広い

のである。従って、相手の駒を、同じ地点で取り続けると、味方の陣
には、縦ないし横の、直線状のキズが入るのに対し、受けている相手
には、3方向に分かれた、より浅いキズが、できるだけなのである。
つまり、苦労して

攻めたのに相手陣に出来たキズより、味方のキズの方がたいがい深く
なる

のである。これを繰り返すと、結局の所、縦段が、1億だろうと10
億だろうと、もっと玉将が深くに居ようが、攻めるほうが損になるの
だと私は思う。つまり、

両者が永遠に、守りに徹する手を指し続けるだけの将棋

になると予想できる。だから論題の、複雑さ無限大の新作日本将棋は、
意外に簡単な理由で、

引き分け必然

なのではないかと、私は疑っている。
 なお、論題の将棋をもう少し複雑にし、奔鉄の類の他に、虎兵型や、
和将棋の走兎型の駒、さらには走りで後退のできる、飛牛型や、奔銀、
あるには適宜、横行型の駒を加えたところでを、幾らか散りばめても、
余り代わり映えがしないのではないかとも考える。それどころか、攻
めが切れ切れになる分、守り方の手は、更に広くなるだけではないか。

以上の事から、ひょっとすると、単純走り駒だらけの、論題の無限大
日本将棋は、たいがいは引き分け必然なのではないか

とも、私は疑っているというわけである。(2017/12/28)

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チャンギの駒の向きは、動く方向を示すためのものが有る(長さん)

前に、朝鮮チャンギの駒が八角形なのは、八卦思想が日本よりも強い
ためと述べた。しかし最近、チャンギの駒の製作者は、少なくとも
現代では、八卦の硬派主義者ばかりではないことは、確かとの証拠を
得た。日本の五角形将棋駒では、字が2短辺の角を真ん前に、それに
対して書かれるのが普通である。しかし、少なくともオモチャのレベ
ルの朝鮮チャンギ駒では、

角方向を上にして字を書くのは、駒のうち車と卒と恐らく兵の3種類
に限られる場合がある

らしい。私はこの事実は、日本海に面した秋田県能代海岸で、ビーチ
コーミングをされていた、杉原茂という方が、1988年頃に採集し
たという、日本で言えば、昭和の時代のチャンギの駒で知った。彼は
上記で示した駒種類のほか、象を採集しており、それは車や卒の字と
は違い、辺に垂線を立てた向きを上にして、

象や、恐らく馬は、車と兵卒とは、角度で22.5°回転させて、駒
名を書いている。

なおその他、楚と包の駒が拾われているが、これらは更に複雑で、
11.3°、つまり中間的になっているように、私には見える。
しかも、楚は角を真ん前にする状態で、字を右回転、包は左回転と、
逆であった。
 以上の駒は、一例でしかないので、恐らく韓国の駒の全部が全部、
上記のような、状況では無いとは思える。しかし、この事からは、

少なくとも現代の韓国で、チャンギ駒の生産者に、硬派の八卦思想家
が、余り多くは存在し無い事

は、確かではないかと思う。なお、硬派だとすれば、八卦と関連する
九星占いの図等からみて、上記の

象やおそらく馬の字の書き方が、正調

だとみられる。
 そしてこの例では、包や楚(玉駒)の向きは謎なのだが、

車と卒や恐らく兵を、日本の将棋のようにしているのは、進む向きが、
縦横である事を、表現しているのではないか

と、私には思える。つまり前回に述べたが、チャンギの駒の八角形は、
もともとは、八卦思想の影響で、その形になったのだが、少なくとも
一部では、

駒の動かし方と、更には進む向きを示すのにも、使われた証拠

ではないかと思う。ようするに、八卦の向きと合っているから、チャ
ンギの象駒と馬駒が、角の方向から22.5°回転させ、辺が相手面
と平行になるように、字を書いたのではなくて、

馬駒と象駒が、八方桂馬の動きである事を示すために、これらの駒だ
け、上記のような向きで字を書いている

場合がある、という事を示しているのではないか。以上のように、私
は韓国製の、オモチャのチャンギ駒を見て思うようになった。なお前
に、東京都台東区の日暮里駅前で開催された、世界の将棋まつりで、
私は本式の、チャンギ駒に接しているのだが。以上の点を不覚にも、
チェックせずに、終わってしまった。また参考までに、韓国国立国語
院編纂の、韓国伝統文化事典(2006)教育出版㈱のチャンギの項
に、盤駒の写真があり、やはり車が角を上、象や馬が、辺の垂線の向
きで、互いに22.5°ずれて、字が書いてある。他の調査も簡単だ
とみられるので、”回転したチャンギの車駒”等が、どの程度有るの
かについては、折を見て、更に調べてみようと考えている。

回転チャンギ駒.gif
駒の種類によって、駒名の字の向きが、一定していないチャンギ駒の例
(2017/12/27)

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桂馬の動きが、斜め一升目へ跳べたのは、15世紀前半だけ(長さん)

高見研究室の摩訶大将棋のブログ、および摩訶大将棋連盟の、”摩訶大将棋”
のルールブックでは、桂馬が、通常の前方桂馬跳びではなくて、斜めに、
一升目超えた所に跳びになっている。根拠は、将棋纂図部類抄の、大将棋、
摩訶大大将棋、および泰将棋の、進み先の打点と、二中歴の将棋で、桂馬
の動かし方のルールの記載で、”前角”を、前進してから角とは読まず、
文字通り、駒の斜め前と読めるとする事である。摩訶大将棋のブログでは、
よって、桂馬は昔は、斜め前に1升目跳びだったが、安土桃山時代になって、
今の桂馬跳びになったとの旨の、主張をしている。私は、この主張には、

反対である。

将棋纂図部類抄の打点が、隣接斜め前升目が、白丸等になっていない

ためである。ようするに将棋纂図部類抄には、桂馬の動きは、

斜め前の隣接升目と、その向こうへは、間に駒が有っても跳んで行けると
いうルールを、表現しているとしか思えない

という事である。
 つまり、二中歴の記載と将棋纂図部類抄の記載も、きちんとは、合って
い無いと私は思う。ただし、

西暦1400年~1450年頃には、将棋纂図部類抄に書いた通りの、合計
4升目に動ける桂馬の動きだった可能性は、否定できないとの、中間的な
立場を取っている。

水無瀬兼成が作成し、豊臣秀次に閲覧させたと、私が推定している将棋纂
図部類抄の泰将棋初期配列図でも、桂馬の動きが省略されていない事は、
それなりに重かろう。水無瀬兼成にしてみれば、豊臣秀次から仮に、「桂馬
の動きのルールが、違うではないか」と指摘されたら、「曼殊院の将棋図に、
書いて有る事から、1443年頃のルールと考えられます。」と、答える
つもりだったのであろう。今の所、水無瀬兼成の情報を信じるしか、我々
には、どうしようもない。ので、上記のように考えるべきなのではないかと、
私は思っている。
 ただし、上記のルールは、チャンギの馬やシャンチーの馬のルール情報が、
絶え間なく15世紀(1400年代)にも、わが国には到来しており、これ
らの駒が、桂馬跳びだったので、1450年から、さほど遠くない時代に、

桂馬はチャンギの馬のルール等と混同されて、桂馬跳びに変わった。

と私は見ている。
 そして、たとえば、八方桂馬の動きを強く連想させる、八角形の駒を使う、
チャンギの馬のルールが、絶えず日本に侵攻しようとしていたとの根拠とし
ては、日本の鎌倉時代には存在した、中国の囲碁の手引書、

玄々碁経の”飛(とばす又は、けいまとび)”の説明書きを挙げる事が出来る

と、私は考える。玄々碁経には、囲碁の手の”飛”の説明として”猛禽類が
上空から、墜落型に落ちる形で、滑空する動きの結果の点が、『飛』の碁石
の打ち位置だ”との旨が書いてある。つまり、通常の桂馬の駒の置き方で、

動きの上下が桂馬と、反対である。

つまり、囲碁の手の”飛”から”けいまとび”を連想した、鎌倉時代後期
以降の、元の時代に成立した、玄々碁経を読んでいた日本の囲碁・将棋のゲー
マーは、最初に

桂馬ではなくて、後退できる、チャンギ等の八方桂馬を連想した

とみられるのである。しかし、現実には後に、囲碁の手の”飛”には、
”チャンギの馬トビ”等ではなくて、”桂馬トビ”と訳が充てられた。
チャンギ等の馬も、日本の平安小将棋等の桂馬も、馬の類だったので、

チャンギ等の馬と日本の平安小将棋等の桂馬は、囲碁書をも読む、将棋の
ゲーマーに、”似たもの同士だ”と、元々混同され続けたという事実が有る

と、みるべきなのではないか。つまり、朝鮮半島の将棋等は、李氏朝鮮時代
に成立し、中国の書籍と同時に、日明貿易の時代には、わが国にもたらされ
ていたので、

チャンギ等の馬と、日本の平安小将棋等の桂馬は、最初は別々の動かし方の
ルールであったとしても、少なくとも室町時代の、1450年代以降には、
類似の駒に混同され、動きが混ざってしまう危険性を、孕み続けていた

のだと私は考えるのである。実際には、少なくとも安土桃山時代には、初代
大橋宗桂の誕生後であるから、桂馬の動きは桂馬跳びになっていると見る。
だから、おそらく曼殊院の将棋図が成立した

1443年から少し経って、桂馬はそれ以前に別のルールであったとしても、
桂馬跳びに、変わった可能性がすこぶる高い

と、以上のように私は、今の所考えているのである。(2017/12/26)

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天竺大将棋の四天王のルール。松浦大六氏所蔵”象戯図式”の記載(長さん)

天竺大将棋の車兵の成りの四天王は、”車兵のように走り、ただし隣接升目
では、止まれない”が、現在の定説である。横については、制限された3升
目先までの走り、で指される事が多い。またweb上では、隣接升目の相手
の駒を居喰いし、元の位置に戻る動きもできるともされる。最後の部分につ
いては、今の所、対応する古文書を、私は個人的に、まだ見つけて居無い。
前回のべたColin Adamsの書籍状の文書でも、以上のルールに、
なっている。
 居喰いの点は、さておいて、”隣接升目で四天王が止まれない”事に関し
ては、個人が運営する某掲示板で、異議が唱えられている。

”隣接升目に居る相手の駒が、凍らされるという、ルールなのではないか”

と言うのである。
発言者は、前記の象戯図式を根拠にしており、その1ページ前の、火鬼のルー
ルの書き方からみて、”敵駒(は)”が、省略されているのではないかとの、
意味の事を言っている。こう、解釈できる理由として、火鬼と四天王が、
上下・左右を入れ替えた動きの、水牛と車兵の、それぞれ成り駒で、親戚関
係にあるという事を、前記、匿名の発言者は挙げている。私は最近まで、こ
の説に賛成していなかったのだが、

象戯図式の漢文の漢字を、読み間違えているのに気がついたので、賛成側に
回ることにした。

理由が理由なので、誠にお恥ずかしい限りである。

漢字の”亦”は”又”の意味なのに、”但し”と、”ウソ読みないし、知っ
たかぶり読み”をしていたのである。象戯図式の、四天王の対応する部分に
は、次のように、活字が並んでいる。

如車兵亦近八方不行

つまり、”車兵の動きに加えて、隣接升目のものは進めない”が、正確な訳
だとみられる。つまり亦は、”また”ないし、それに加えてであって、

例外を書こうとしているのではなくて、追加事項を記載しようとしている

のである。従って前記の、

主語は”敵駒”であり、それが省略されているという説は、ご尤もなよう

なのである。
 何れにしても、以前の私の漢文読みが、正しく無い事は確かだ。前後と、
聞きかじった説から、思い出せない漢字の読みを、自分勝手に作って読ま
ないように、これからは充分に、気をつけようと思う。(2017/12/25)

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天竺大将棋。先手有利になるのは、やはり火鬼が走りだからではないか(長さん)

1999年頃、欧米の中将棋等のゲーマーの、Colin Adams
という方が、webにだいぶん長文の、天竺大将棋の文書を掲載した。
そこで前回の、Shogi Variantsのソフトに添付された、
ルールブックに続いて、今回は、上記の文献を調査した。ルールは、
Shogi Variantsと同じで有る事が判った。ので集中して
調査した点は、天竺大将棋の出来を、どう見ているかと言う点になった。
結論を書くと、

ゲームの進行が早いという現象を挙げていたが、私は彼の分析は不足

と感じた。前回述べたが、早く終わるのは火鬼のせい、だけだと思う。

天竺大将棋は、火鬼の活躍が早すぎるという点が、基本的難点

だと言う事である。少ない手数で、ゲームが早く終わってしまうのは、

強い駒が多いというよりも、火鬼を走り駒にしているのが基本的に問題

だというのが、このブログの天竺大将棋に対する現時点での見方である。

ところでColin Adamsは、この将棋の先手の有利さ度合いを、
”奔王一枚分位である”と、表現していた。が、

仮に火鬼を走り駒にしなかったならば、前後手でこんなに差は付かない

と私は考える。火鬼の到来があまりに、すばやくなってしまうルールの
ため、出だしから、後手は先手の火鬼が攻めてくるのを、防御する一方
になってしまうのである。ひょっとして、欧州棋譜表記で言うと、次の
17手で、この将棋は本来、先手が勝ってしまうのではないかと、私は
考えた。なおルールは、跳び越えを、空き升目でしか着地できずに、踊
り喰いするという方の、新しいルールで指している。
"P-10k","P-7f"
"GGn-12j","RGn-7e"
"HF-13k","P-2f"
"FiD-9k","P-15f"
"GGnx7e","GGnx7e"
"HFx7e+","FiDx7e"
"FiDx3e
x!4d,3d,2d,
4e,2f",
"FiDx14l
x!15l,13l,15m,
14m",
"FiDx5c
x!6b,4b,6c,
4c,6d,5d",
"FiDx12n
x!12m,11m,13n,
11n,13o,11o",
"9(17). FiD5cx7a mate"
 ところで火鬼の具体的な走り方だが、前にも述べたが繰り返すと、
車兵型との説と、水牛型との説がある。前者が現代では、欧州でも日本
でも、良く使われている。が、

もともと大大将棋の奔獏と奔鬼の駒の存在自体が、マイナーだった事に
よる混乱

が原因だと私は考える。天竺大将棋の水牛は火鬼に成る。火鬼も、もと
もとは、水牛の成りとして、考えられたのであろう。しかし、その前の
時代にも、水牛は、大大将棋で、成れる駒として存在した。大大将棋の
時代には、奔獏に成った。ところが大大将棋には、天竺大将棋で初めて
考え出された、火鬼に似た名称で、奔鬼も存在した。そのため、火鬼の
走りは、奔獏のように車兵型にも、奔鬼のように水牛型にも、どちらに
も、なる可能性が有った。鬼は、衣装の虎と、牛と人間を組み合わせた
ものであると言われるので、牛に似た水牛の成りは、鬼という発想が、
天竺大将棋では、生まれたのであろう。以上のような経緯で、火鬼の
ルールは、奔獏と奔鬼が、作者の頭の中でごちゃごちゃになって、生ま
れたものに違いなく、どちらを取るにしても余り、権威は無いと私は見
る。そこで繰り返すが、

火鬼を、三歩歩みのルールに変えてしまえば、先手必勝の問題も出ない

ように思う。
 なお今世紀に入ってから、天竺大将棋のゲーム研究が、著しく進んだ
との話は、私は余り聞かない。こんごの識者の再度の考察に、大いに
期待したい所だと、私は考える。(2017/12/24)

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天竺大将棋の火鬼等のスティーブ=エバンス”将棋類”ルール(長さん)

欧州でも、日本の中将棋を指す組織があり、彼らのうちのある部分の
人間が、天竺大将棋を指す事が、知られている。日本の古文書の内容
に関して、外国でだけ知られている事柄が、仮にあれば驚くべき事で
ある。すなわち無い方が、日本人の研究者にとって、恥さらしになら
ないので、好ましい。天竺大将棋については、欧州には事実上の論文
が作成され、少なくとも少し前にはweb上に公開されている。ので、
欧州の駒数多数将棋情報は、入手できるものは、もう少し念入りに、
チェックする必要が、有るのかもしれない。私の場合とりあえずは、
身近に有る、オーストラリア人のスティーブ=エバンスの作成した、
”将棋類”のヘルプに、よもやと思う内容が無いかどうかだけは、
知らないと私の恥なので、今回チェックしてみた。火鬼のルールと、
跳び将駒の格等のルール細則が、天竺大将棋ではポイントになるので、
ソフトに添付されたルールブックを、その部分に関して、念入りに
読み返した。結果、

新しい知見は、ここには無いようなので、まずは、ほっとした。

跳び越え将駒の、駒の格については、太子を書き忘れているようであ
るが、web等で知られたルールと、同じになっている。格が自分よ
り格下の駒しか、スティーブ=エバンスのソフトでは、単純に

跳び越せないし、取れない

になっている。蛇足だが、取れないとは古文書に書いてないので、ド
イツの一部で、”跳び越せないが取れる”というルールが、チェック
され、玉がトン死しすぎるので、着地が空の升目でしか出来ず、その
代わりに、跳び越えたときには、跳び越えた間の駒が、取れるように
ルールが工夫されたように、私は、”あーかさか”氏のブログで、教
わったと理解している。なお私の手元には、その元になる、日本の古
文書も、

実は持ち合わせて居無い

このあたりの情報は、今の所全て、web任せの状態だ。
 次に、スティブ=エバンス”将棋類”ルールブックの火鬼には、隣
接升目焼きと、自爆のルールが、両方ともwebの情報の通りに、書
いてあるように読める。特に、火鬼の相手火鬼の隣接升目に進んだ場
合の自爆がどうなっているのかがポイントだが、相手の自爆力の方が
勝つとなっていて、webと同じである。ただし、実際にソフトを、
対人モードで動かしてみて、次の事には気がついた。すなわち、

相手火鬼に隣接する升目に進んで自爆する駒も、その手に関しての
攻めの役目を果たしてから、自爆している。

これについては、相手火鬼の自爆力の方が、着手の完了よりも、更に
早いかどうかは、スティーブ=エバンスのルールブックの記載では、
どっち着かずで、ソフトを動かしてみないと、判らない部分であった。
 少なくとも天竺大将棋を知る外国人の一部、スイーブ=エバンスは、

相手火鬼が、他の相手駒と共に、ごちゃごちゃと固まっている所に、
火鬼を飛び込ませると、相手火鬼を除いて、着地した相手駒と隣接升
目に有る、相手駒を焼いてから、残った相手の火鬼に、焼かれるよう
に、ソフトを作っている

ようである。ただし、そこまでの細則情報を、彼が、何処から仕入れ
たのかは、少なくとも今の所、私には知るすべも無い。日本の古文書
の何処かに書いてあり、日本の天竺大将棋愛好家が、だれも知らない
とすれば、これはかなりマズイが。(2017/12/23)

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天竺大将棋を、八角形のチャンギ駒で指すのは妥当か(長さん)

前回、15升目の後期大将棋の盤を、16路の囲碁盤と見て、天竺
大将棋を指したと、紹介した。その際、後期大将棋の升目数が、
我々日本の遊戯史愛好家にとっては幻の、朝鮮広象棋(14段15
行)に近いため、新安沖沈没船出土将棋盤(?)は、朝鮮広将棋と、
なんらかの繋がりが、連想されると述べた。確かに朝鮮半島の象棋
に、駒の形を合わせる意味なら、囲碁盤に駒を置く象棋の駒は、
チャンギの八角形が良いように、いっけんすると思える。だが、
しょせん日本の将棋でしかない、天竺大将棋を、チャンギになぞら
えて、本当に矛盾が無いのであろうか。
 実は、致命傷が有るので、結論を書くと、

八方に動くように変えた駒が、天竺大将棋には全く無いので、八角
駒で指すのは妥当で無い

とみられる。つまり、チャンギが李氏朝鮮時代に成立した際、その
少し前に、駒を八角形にしたために、

馬の他に、象も八方動きに変更された

と見られるのである。日本の場合、陰陽道も、五行説も、八卦の占
いも、中国から輸入されて定着したが、

八卦思想だけは、外来文化に留まった。

理由は、たとえば新潮選書の、数学者、永田久氏著書の、「暦と占
いの科学」に書いてあり、八卦の中に”海の要素”が抜けているた
め、

日本では、森羅万象が全て、それに含まれるとは、少なくとも識者
には、イメージされなかった

ためである。それは八卦思想が、アジアの内陸部で成立したためだ
と、同成書に有る。それに対して、半島部に位置するとは言え、大
陸の一部である朝鮮半島では、陰陽道から直接に派生する八卦思想
は、明らかに日本よりも、強力だったようである。察するに、

チャンギの八角駒は形の通り、占いにも使われた

のだろう。結果、円と五角形の間を取るという、意味も恐らく有る
のだろうが、彼らは八卦思想にちなんで、駒を八角形にしたようだ。
 そして、更にその影響で、

象棋の駒は、八方に動くのが理想と考えられ、それまで斜め一升跳
びだった象が、馬より大きいもの、という意味をこめて、隣に進ん
でから、斜めに2つ進むに、変化した

とみられる。以前、このブログでは”謎の進化”としたチャンギの
象駒は、こうして出来たと考えて、余り矛盾は無さそうだ。すなわ
ちチャンギでは、駒の動きが、象や馬のように八方動きが、メジャー
との考えが、根底にあるのだろう。だが、日本の将棋でしかない
天竺大将棋には、奔王類のように、縦横斜めと全部走る駒は、確か
に有るが、私の変形版では無くなってしまった桂馬は、八方には跳
ばないし、酔象も、七方向に歩むだけであって

八方向進み駒を、工夫して増やしているという傾向が、特に無いし、
馬をむしろ、減らしている

のである。従って、天竺大将棋を少し変形しても、それだけでは、
”朝鮮大将棋”と言えるようなゲームには、しょせんなっていない
のであろう。よって、私の作成した変形天竺大将棋は、

漠然と”東洋大将棋”とでもして、

碁石駒で指すのが、少なくとも今の所、無難なように思えてきたの
である。(2017/12/22)

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