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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が小型だった理由(長さん)

前に述べたように、よみがえる中世(3)武士の都鎌倉
「文字のある生活」(220ページ~221)の執筆者、
河野真知郎(かわのしんじろう)氏によれば、表題の、
神奈川県鎌倉市御成町にある、福祉センターの地下より
出土した、墨書木札は”百人一首札程度の小物”との事
だった。
 従って、この物品の内容を棋士が一度に複数人で、や
や遠方の”将棋盤”の所から眺め、内容を把握する事は、

出来なかった

と、一応考えられる。つまり、将棋大会規定を書いた木
札では、どうやら無さそうだ。
 では、いったいなぜ、木札の作成者が、一部の人間だ
けが、記載されたルールに従えば良く、

皆に徹底する事を目的にしなかった

としか考えられないような物品を作成したのかを、今回
の論題とする。
 以下、小型の理由の回答例(A)としたいと考える。
すばり

(A)この時代は、将棋盤によって、別のルールの将棋
が、ばらばらに指されていたから

だと、先ずは考えてみる。
 では以下に、そう考えられる根拠や、経緯の説明等を
する。
 そもそもこの問題を考える上で、今の所唯一の史料は、

大日本史料、西暦1221年7月13日の”隠岐に配流
された後鳥羽上皇の所に、将棋士を名乗る僧侶の清寂が
訪れたとの旨”の段

しか、関連するものがない。本ブログでも”今小路殿の
御所”は、京都に有るのではないかと疑っているが、
今小路という、鎌倉の遺跡の発掘現場と、類似の名が出
てくる、将棋の史料はこれだけだ。
 以下も、本ブログの”勝手読み”と言われれば、それ
までだが、以前述べたように、本ブログでは、

清寂が話題にしている将棋の種類は、”今小路の御所”
で指されていたのが、8升目の平安小将棋(初期型)、
後鳥羽上皇の御前で指すのが、旦代の難点を回避するた
めに、駒落しで指す、9升目の平安小将棋(標準型)

と、使い分けていると疑っていたのである。
 これはようするに、

今小路の御所では、将棋指しのマニアが集まる所なので、
形式ではなくてゲーム性の良し悪しが、指される将棋種
の、バージョンを決めていた

という、本ブログ独自の推定に基づいている。
 そこで、この事を更に推し進めると、次のような事が、
遊戯センターとしての、”今小路”では、実際には起こっ
ていたとも考えらる。すなわち、

お客さんの段位(1マチ、2マチ、3マチ・・)を判定
計測する、店が用意した接待用のコンパニオン将棋棋士
は、客の求めに応じて、指す将棋種のバージョンを、
そのつど変えていた。

 ようするに大日本史料、1221年7月13日の条は、
今小路の御所が、現代の日本将棋連盟の将棋会館のよう
に、専門棋士同士で、棋力を切磋琢磨するために、順位
戦をやっているような場所なのではなくて、ゲームセン
ターのゲーム機に、最後に客の綜合スコアを表示して、
お客の、そのゲーム種に対する上達の

自己満足を満たすことを目的としたのと類似の娯楽施設

だったのではないかと、見ているのである。
 もしそうだとすれば、一マチの下というのも、かなり
甘い判定であるのが当然である。清寂の棋力を判定して
そう言ったのは、清寂の求めに応じて、特定の将棋種、
8升目型初期(原始)平安小将棋を指す相手をしたあと、
”過ぎたる手を指した”と、清寂を大いに持ち上げて、
個人の判断だけで評した、今小路西御成小学校遺跡娯楽
遊戯センターの店が予め用意した店側の、コンパニオン
将棋棋士の”先生”の言だったのではないかと、疑われ
るという事である。

つまり、指す将棋種のバージョンは、個別にお客さんが
選べ、店のコンパニオン棋士は、有る程度、どの将棋バー
ジョンでも指せて、どれもそれなりに強い人間だった

という事ではないかと言う事である。
 そして、もしそうであるならば、
客によって、希望の将棋種メニューが違うので、レスト
ランのメニュー表のように、いろいろなルールの将棋が
一覧表で、別途記載された紙の表があって、それが運ば
れ客がそれを見て、指す将棋バージョンを客が選ぶと、

客が指したいルールバージョンの、出土したのと同類の
木札の仲間で合致する物が、将棋具とともに店から運ば
れてきて、将棋盤の上に置かれ、

”これで良いですか”と客に確認してから、コンパニオ
ン棋士対客の、将棋の一局が始まったのではなかろうか。
 つまり、

各将棋盤に関して、将棋盤によって、同時に指している
将棋の種類は、それぞれの客の希望するものであって、
ゲームセンターの店の中でバラバラ

だったのではないか。
 そして後鳥羽上皇を訪問した、鎌倉時代の将棋”道場”
マニアの清寂は、

何度も”今小路”に通っているうちに、コンパニオンの
マネまで出来る、”通”にまでなっていた

のではないか。そう考えると、清寂が大日本史料に残る
彼の発言の中で、

指す将棋のバージョンの話を、コロコロすり替えて面白
く語れる理由

が私には、良く判るような気もするのである。
 以上のように考えると、将棋の指し始めの少し前に、

店が、客によって指定された、指す将棋のゲームバージョ
ンを判別するための木札

が、実際出土した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡の
墨書史料の、当時の使い方だっだと言う事にな。そうだと
すれば、論題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札は、
それが、あまり邪魔にならない程度の小型のものであっ
た事が、有る程度説明できるのではないか。
 以上のように、ここではA案として、出土品の姿が小
さい事を、一応説明してみた。

現物がもし有ったら、何か別の情報も有った

のかもしれない。現物が紛失して無いのが、返す返すも
悔やまれるところだ。(2019/02/14)

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