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尊経閣文庫蔵ニ巻本1565年色葉字類抄にも象戯有り(長さん)

前に、国会図書館の電子図書で、外部から閲覧できる
色葉字類抄、色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本(三巻本)
に、象戯が発見できず、国会図書館の電子図書で内部
でなら閲覧できる、十巻物の伊呂波字類抄に象戯があ
るのを紹介した。では12世紀・西暦1165年ごろ
までには成立したとされる、二巻本の色葉字類抄の、
加賀藩前田家の、尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄
(1565年書写)八木書店(2000)に、象戯が
有るのかどうかという事になるが、

有る

ようだ。
 たとえばそれは、下のような字体である。

二巻前田本.gif

 ”平安時代の末期に成立した、色葉字類抄に、象戯
の字が見られる”と、将棋史界では言われるが、正し
いようである。それにしても、三巻物の色葉字類抄と
みられる、同じく尊経閣文庫関連の尊経閣叢刊丙寅本
に、象戯が見当たらないのは、何故なのだろうか。
(2019/03/31)

(追記)ちょっと字体がおかしいですが、
色葉字類抄の国会図書館、外部閲覧可能唯一
本(3巻物系)尊経閣叢刊丙寅本の”将棋”は、
以下のような書体のものかもしれません。

色葉国会3巻将棋.gif

 色葉字類抄を、だいぶん見慣れて、私は
おかげさまで見落としが、少なくなりました。
(2019/03/31追記)

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ニ巻本1565年写”色葉字類抄”上の上書誌解説に誤(長さん)

前に、ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上の
構成について、八木書店発行の、尊経閣文庫蔵2巻本
の古文書の、フルコピー現代本の解題部(解説)に書
かれた内容を紹介した。その中で、この本の主な内容
である、いろはにほへと・・の漢字群の書き方に関す
る、この本の、ほとんどの割合を占める部分の内容を、
巻末直前であるかのように紹介したが、

実際の古文書の内容と、この点だけだが全く違う

事を最近知った。
 書いた内容で、簡略に書くと

メイン部は9番目では無く、④の真ん中に有る。

つまり、①表紙→②序文→③凡例→④「イロハニホヘ
トチリヌルヲ、(よって)色葉字類抄巻上上」の後が、
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容→④「伊呂波字類抄巻上上」という尾題→
⑤→⑥→⑦→⑧→⑩となっている。そのため、
⑦・⑧は、⑥遊紙と⑩巻末に遊紙が3枚、その後に裏
表紙の部分となっている。結局、

大将基と小将碁は、遊紙と遊紙の間に挟まれた部分に
有って、
色葉字類抄のメインコンテンツとは、分けて書かれ
ている

という点を、はっきり認識する事が非常に重要だ。
以上が要略である。では、いつものように、
以下に、補足する。
 前に書いたときには、各項目を、以下のように、
ナンバリングした。

①表紙の見返しに墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
②遊紙を1枚挟んで、次ページに序文が書かれている。
③序文と離さず、意義分類部目と説明、墨書で「イロ
ハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返している。
④「イロハニホヘトチリヌルヲ」と行を離さないで、
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上上」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上上」である。
⑤続いて、いわゆる奥書が書かれているらしい。
⑥遊紙が1枚挟まれている。
⑦「大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が、酔
象の象を除くと、原則2文字単位で記載されている。
⑧「小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が2文
字単位で記載されている。
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容が始まる。全部で50枚である。
⑩巻末に遊紙が3枚あり、裏表紙も形成される。

上の書き方の番号を、順番だと思ってしまうと、

後期大将棋と日本将棋の記載が、いろはの漢字群の、
この本の本家・本もとの内容の前に有るように聞こえる
が、大間違い

だ。実際には、
”いろはにほへとちりぬるを”と、”わかよたれそつね
ならむ”の間に、後期大将棋と日本将棋の記載が有り、
第1冊(/4冊)の、裏表紙の前、つまり、第1分冊の
最後の所に、前後に遊紙を挟んで、大将棋と日本将棋の
内容が分けて書いてあるという事である。
 しかも、第1分冊/4の奥書の後であって、かつ、
上の下(第2分冊/4)の表紙、「我世誰ゾ常なら無」
の前の、

コンテンツの”外部領域”に記載されているだけ

と、言う点が重要である。
 この認識の間違いは、実に

致命的

だ。
 言い訳はしたいが、意味も無いので止めて置こう。

内題の次に、いきなり尾題の書かれる古文書など、
この世に無かった

ようだ。大ボケであり、穴があったら入りたいところだ。
 ようするに将棋の記載は、
第1分冊/4分冊の、⑤奥書の更に後に書かれていて、

色葉字類抄の内容からは、離れたコンテンツである

という事だ。だから第4冊/4冊の奥書後に、間に遊紙
を置かずに1行書かれた”異字”集を除くと、他の全て
のコンテンツとは違っている事が、前田本尊経閣文庫蔵
2巻物色葉字類抄(八木書店 色葉字類抄ニ 二巻物/
西暦2000年発行)には、かなり明確に、示されて
いるという事になる。
 つまり大将碁馬名と書かれたページ⑦と、小将碁馬名
と書かれたページ⑧は、西暦1140年代の成立では、
ほぼ無いと、みられるのではないかと、言う事である。
(2019/03/30)

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二巻物色葉字類抄に中将基無く大将基の成り独特な訳(長さん)

今回は表題のように、江戸時代の加賀前田藩の文庫、
尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年書写)
色葉字類抄の、伊(イ)よりも更に先に有るという、
さながら巻頭特別企画を連想させるような、大将基
1ページと、小将碁1ページの内容の特徴について、

一番大事な以下二点のみ、議論する。

どうみても、後期大将棋と日本将棋が書かれていて、

①中将棋が無いのはおかしい。これは何故か。

また、後期大将棋が書かれているが、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の、15×15の後期大将棋とは異
なり、
成りは、麒麟が師子、鳳凰が奔王、”酔”が太子だ
けではなくて、

②香車、反車、飛車、猛牛、仲人が、”駒の裏が金”
との旨書かれている。これは何を意味するのか、

を論題とする。つまり、1565年書写の二巻物
色葉字類抄に中将基が無く大将基の成りが独特な訳
を考える。いつものように、答えから書く。

①は作成者が公家か、それと繋がりの強い僧侶で、
中将棋の駒を恒常的に保持していた。そのため、
中将棋は駒の字が判らなくなったら、将棋駒を引っ
張り出して見れば、それで良く、色葉字類抄(2巻
物)に中将基という文面を書き足す必要が無かった

ため。

②作成した時代の後期大将棋が、各段で、一番端の
駒種を、金成りにするルールだとの情報を、作者の
公家か準公家が得ていて、その通りに書いただけ

と今の所、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 ①については、水無瀬兼成の将棋馬日記に関する、
増川宏一氏の研究で、公家は将棋と言えば、中将棋
だけを、西暦1590年頃には購入していたという
事柄が、証拠史料として挙げられる。小将棋も公家
は知っているに、だいたい決まっているのだろうが、
日本将棋の道具は、敢えて収集しなかったように、
水無瀬兼成の文書からは、見て取れると聞く。
 元々加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の二巻物
(西暦1565年書写)色葉字類抄は、京都の
公家か公家の家の出の在来仏教の僧侶かが、元巻物
を持っていて、それを西暦1565年に書写して、
尊経閣文庫蔵の二巻物色葉字類抄にしたのではなか
ろうか。
 僧侶になっていたとしても、かなり身分の高い者
だったのであろう。京都御所の儀式としての警護等
の名目で、大内離に出入りできる程度の人間が、書
写したのではなかろうか。大内離に出入りする身分
だから、自身はもともとは公家であり、小将棋は、
朝廷タイプの京都や滋賀で出土する、双王日本将棋
だったのだろう。小将碁と書きながら玉駒が王将な
のは、玉将に変えると豊臣秀吉に苦言を言うらしい、
後陽成天皇といっしょで、京都御所界隈が縄張りの
人物だった、証拠なのではないか。
 これは推定だが、公家が将棋と言うとき、遊具の
持ち物に関して中将棋なのは、将棋馬日記の時代の
±200年位で、いっしょなのではないかと、私は
疑う。
 だから、

例えば角鷹の字を忘れたら、中将棋の駒を持ってき
て確認するほうが、色葉字類抄新品自作4冊本の1
冊目を持ってくるより、彼や身内にとっては、速かっ
たはず

だ。そのため、

色葉字類抄尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦1565年
書写)に、大将基と小将碁を足した人物は、中将基
等の項目は、自分と身内が不要なので作らなかった

のではないか。
 ちなみに、大将基の成りは、裏と書いてある。

1565年の書写者は、将棋には、さほど興味が無
く、成るというルールは知らない者に、読ませる文
書のつもりであった

可能性が高いと思う。それにも係わらずだが、想定
される、小将碁馬名等の読み手は、将棋の駒の字を
書く仕事に、何らかの関わりが有ったのだろう。
将棋駒の字を忘れたときには、中将棋についてだけ、
サンプルの駒で確かめる習慣が、元々頻繁に有った
ので、成りと書かずに”裏は金(と確認するんだよ
ね。”と、書いているのかもしれないと見る。

だからそれが”成”ではなくて”裏”という、将棋
駒を見て字を確認しているような、表現に出ている

のかもしれないと、私は疑う。
 更に、中将基等の旨の項目を作らなかったとして、
その理由には、
中将棋の駒名の漢字を書いてから、右下に、”裏□
△”等と書くと、そのケースばかりの中将棋の場合
には、他の色葉字類抄の、本物のページに比べて、
右下読み等を書いている注釈が、際立って目立つよ
うになり、

そのためニセモノ感が、大将基に比べてひきたつ

という問題を、ニセモノ中将基ページ作りを目指し
た人物が、気がついたようにも私には見える。構成
の体裁上の問題もあり、中将棋という項目を作ろう
か、どうしようかと、迷ったのだろうが。結局、今
述べた思考が、

最終的に、”・中将基”等という項目作りを、断念
させたのではないかと、私には考えられる

という事である。ちなみに、内容が日本将棋である、
小将碁の項目では、成りを全部省略している。
 セクション中将基が、尊経閣文庫蔵の、
二巻物色葉字類抄の、第1冊に無い理由の説明につ
いては、今の所、情報を限定したので以上のように、

西暦1550年には、中将棋は当然有ったが、書か
なかっただけと推定される

と、結論して終わりたい。
 次に、後期大将棋の記載の成りの問題について、
説明する。
 冒頭で述べた結論は、

すなおに、書いて有る内容を理解すれば、そう結論
するしか、他に道はない

と私は思う。
 このような、

後期大将棋の成りルールは従来全く知られて居無い。

全く新しい知見に見える。経過は史料として”その
前”が、西暦1335~80年頃かもしれない
神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内出土駒であり、
”その後”が、西暦1590年頃の
将棋纂図部類抄を書いた水無瀬兼成の、大将棋に
対する認識のように、私には今の所イメージされる。
鶴岡八幡宮境内出土駒と、西暦1443年頃の、
曼特院の将棋図(水無瀬兼成将棋纂図部類抄大将棋
は、そのコピーと今の所考えられる)とは、整合性
が取れていた。

だから、西暦1335~1590年の途中に一回、
香車、反車、飛車、猛牛と仲人が金成りになってか
ら、また不成りにならないと、整合しない。

 先行研究としては、将棋史研究者としては恐らく
二巻物色葉字類抄、大将基、小将碁の第1発見者と
見られる、大阪電気通信大学の高見友幸氏が、

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄が誤り

と、自身のブログ等で指摘した例が有る。
 なお以下、本ブログの見解だが、加賀前田藩の
二巻物色葉字類抄の大将基馬名は、セクション名の
将棋が将基になっている事から察して、

作成者は、情報をどこかの寺の記録から見て写して
いる感じ

である。目下の所、
二巻物色葉字類抄の大将基の時代には、各段の端列
駒が金成り、他不成りが事実と見て、
普通唱導集及び後期大将棋の金成りの範囲は、歴史
上、不安定に増減したと、漠然とイメージするしか
他に仕方が無いように私には思える。全体としては、

西暦1443年から戦国期に掛けては、後期大将棋
の金成りの駒種類は、少し増えるようにゆり戻した

と考えるしか無いと思う。なお、
水無瀬兼成は、西暦1443年頃の、曼殊院の将棋
図を受け売りにした。二巻物色葉字類抄の大将基の
記載は、西暦1550年時点の、従来空白期間であっ
た時代の状況を反映していると、上記の解釈では

とんでもなく貴重な、発見がなされた

と仮定している。
 こんな挙動の理由ははっきりしないが、

二中歴の大将棋の最後の十行の解釈が、時代により
変化すると、それによって、金成駒種類数が、増減
している

ように、私には思われるフシがある。この点につい
ては、後日別の所で、詳しく述べたい。何れにして
も、本ブログのように、

後期大将棋は、ゲームを実際にして、ルールを決め
たようなケースは、ほとんど無いと見なしての話

だが。
 まとめると、不確定性がとても大きいが、金成は、
1200年~1290年は減って。
1290年~1320年は増えて、小山市神鳥谷曲
輪駒ができて、50~60年位小山義政等が、小山
氏の城(祇園城か、小山義政館)等で保管。
1320年~1443年は減って。
1443年~1550年は増えて、二巻物色葉字類
抄に記載。
1550年~1590年は水無瀬兼成が、
曼特殊院将棋図を発掘し、その通りと主張したたた
めに減った。
1590年~は、中将棋の成りが導入される江戸時
代となり、流れが変わった。
近代になり、桂馬を兼用したいので、猛牛、飛龍等
も金成りになり、金成り自体は増えた。
 という感じか。
 何れにしても、二巻物色葉字類抄の大将基の発見
は大きかった。私は高見友幸氏からの情報は知って
おり、色葉字類抄に大将棋の情報が有るのを、疑っ
ていたので、象戯の字を探した時点で、実際には、
他に何か無いかどうか、注意していたが。普通なら、
三巻物に”象戯”が無いのに焦ってから、十巻物に、
それが有れば、やれやれと思ってしまい、それだけ
の状態で私なら、更に将棋の情報は探さず、二巻物
に重大な情報が残っているのに、気がつかず終わっ
ただろう。
 何年か前に、二巻物色葉字類抄に大将基馬名等が
あるのに気づいた将棋史研究者として第一発見者の

高見友幸氏は、全くたいしたものだ

と、私はとても感心している。(2019/03/29)

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二巻物色葉字類抄の大将基・小将碁は1550年頃か(長さん)

今回は、前に紹介した、尊経閣文庫蔵の二巻物(西暦
1565年書写)色葉字類抄の大将基と小将碁について、
最も大切な、成立年代を推定する。結論から述べると、

冊子に編集したときしか、大将基と小将碁の内容を差し
込めないと仮定すると、巻物の時代から、冊子へ変わる、
書写の頃に作られた大将基と小将碁の、後追加物としか
説明できない。

以上について、以下に説明を加える。
 まず、色葉字類抄は、

漢字がイロハニホヘト・・の特定の物が、集められてい
るが、二巻物で問題の、・大将基馬名と、・小将碁馬名
の所の駒の漢字については、全くそうなっていない。

 駒名は、本来なら”:人事等”の分類の所に、歩兵
ならホ、玉将ならキというふうにバラバラに分けて、
書いてないと、この本では明らかにおかしい。

だから、2巻物が成立した西暦1140年頃から見ると、

大きく後代になって、全く別の人間が作成して、差し込
んだ物

だと、私は考える。
 マトメテあるからこそ、将棋駒種がそれぞれ判るので
はないかという批判が出るかもしれないが、色葉字類抄
では、

左下にそれぞれ、”将碁駒”とでも、小さく書いておけ
ば良かっただけ

なのではないか。
 わざわざほかのカナの所には無い、・大将基馬名と、
・小将碁馬名という、項目名を作ってまとめたのは、
将棋駒の字を、引きやすくしたからであるのは、判るが、
西暦1140年に、そうしたければ、イロハ順の辞書
にしないで、たとえば用途別に漢字を並べるとか、別の
配列の辞典に、創始者がすればよかっただけなように、
私には思える。つまり大将基等が、色葉字類抄自体を作
成した、橘忠兼の著作物というのは、いかにもおかしい。
 なお、・大将基馬名と、・小将碁馬名が、別文書の
差込と疑う根拠としては、フォーマットが似ているも
のの、
朱色の点が、少なくとも三巻物の色葉字類抄と見られる、
国会図書館デジタルコレクションの色葉字類抄:尊経閣
叢刊丙寅本で見る限り、

・大将基馬名と、・小将碁馬名に関して、先頭の朱色点
が、”:”と、2つ点になっていないといけないのに、
そうなって居無いで”・”と1つ点だけになっている

事が上げられる。つまり、分類名と、個別熟語の頭に
付けられた朱色の印に、差が無いのは

本物の、本文中の表現とは、違っていて不自然

だと言う事である。
 その他、駒名漢字毎に、・大将基馬名と、・小将碁馬
名では、朱色点(”・”)が付いているが、盤の段の最
初の駒に限定されるという程度に、”本物の本文”では、
跳びとびに付くような、朱点付与システムになっている
ように私は思う。ただしこれについては、書写者が、
1熟語づつ丁寧に、チェックしたという、印なだけなの
かもしれないが。
 そこで、・大将基馬名と、・小将碁馬名は、元々の
色葉字類抄の本文とは別人の作成による、フォントの
大きさや字体、フォームを色葉字類抄に似せたが、完全
には本物とは、一緒になって居無い差込部分だとして、
問題は、その差込文書を作ったのが

何時のなのか

だ。
 私は、物理的に

巻物等の時代に、2ページ差込をするのは、困難

なのではないかと疑う。二巻物尊経閣文庫蔵色葉字類抄
として冊子にするときに、入れ込んだのではないのだろ
うか。そうだとすると、成立は戦国時代の

西暦1565年

も、一応有力なのではないかと、疑っている。
 字体をよく見ると、・大将基馬名と、・小将碁馬名が
極めて古いというわけでは無さそうだと、次の点から
言える。
①猫叉が猫刃になっている。送り狼や山犬から、江戸時
代の、尻尾が2又に裂けた妖怪に変化しつつある時代で、
それと区別するために、猫刃という駒を誰かが考えてく
れた結果の、近世に近い時代成立の駒名なのではないか。
②小将棋の棋が、碁になっているのは藤原氏を、やはり
連想させる。が玉駒が、玉将ではなくて、王将になって
おり、院政型である。戦国時代になり、皇室が五摂家の
家系が絶えないように、姻戚関係を結ぶようになって
一つに溶け込み、文化が混ざってしまった、皇族貴族の
多難な時代に作られた、差込部分との事のように見える。
③”・小将碁馬名”の小将碁に酔象が無い。後奈良天皇
が、小将棋から、酔象を取り除いた年代よりも、少し後
だと考えると合うように思う。
 以上3点が、後期大将棋と飛車角を含む小将棋の記載
が何時有ったのかという、大問題に対して独立性の高い
根拠と考える。
 むろん、西暦1550年頃の将棋を反映しているとい
う仮説を、今述べたように立てれば飛車と角行が有って

日本将棋らしきものが、小将棋として書いて有る事とは
一応矛盾しないし

し、大将棋が後期大将棋のようになっているのは、全く
よく一致して、矛盾は起こらないはずである。
 ただし巻物等だと、別の文書の差込は絶対に無理かと
言うと、証明は困難だ。だから今の所、以上の成立年代
論のエラーバーは、
西暦1150年から1690年の間のどこかではあろう
が、西暦1550年付近も有力な所という

不確定性の大きな状況

だと私も思う。つまり、

日本将棋の出現には早すぎるし、後期大将棋の出現にも
早すぎる成立年代説を、完全には否定し得無い

という事ではあろう。(2019/03/28)

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新安沖沈没船将棋盤?以降に聖目3分割将棋台頭の訳(長さん)

本ブログによれば西暦1300年頃の普通唱導集大将棋
は、自陣4段、中間段5段の13升目将棋で、自陣段と、
中間段の段数に差が有った。それも理由で13升将棋は、
表題のように、西暦1323年前後の、新安沖沈没船で、
15升目将棋盤(?)が出土した頃から、後期大将棋の
15升目制へと、進化の歩みを始めたと見ている。
 そもそも自陣段と、中間段の段数に差が無い方が良い
のは、同じく本ブログでは、陣の印である聖目を結んで、

魔法陣型を象ろうとした

のが理由と言う事であった。つまり、易の類である

九星占いが、鎌倉末から、将棋棋士間で普及した為

と見るわけである。では、鎌倉中期まで、将棋棋士の階
層で、九星占いはさほど盛んでなく、鎌倉末期に台頭す
る理由は何かを、今回は論題とする。
回答を書いて、その次に説明を加える。

軍師が、地方の守護格の大名や、豪族間の合戦の運気に
関してする、戦の開始時点の九星占いが、鎌倉末期の混
乱の頃から、多く見受けられるようになった。
そのために、天一神の方向占いでは、ネタが不足するよ
うになって、九星占いが、広く知られるようになった為

だと考える。
 では、以下にざっと説明する。
 平安時代の、安倍晴明が活躍した陰陽道の盛んな頃に、
十二神将(天将)という占いが、有ったと聞いている。
そのうちの、天一神の方位に関する日の吉凶は、具注暦
にも記載されて、比較的初期に、一般にも知られていた。
この平安時代に具注暦にあった、天一神占いの特徴は、

凶となる方位が、客観的に天一神等の居る方向なので、
合戦の方位占いを、敵味方の軍師がそれぞれしたとして、
やり方が変わらなければ、凶の方位がいっしょ

だったとみられる。少なくとも、私が聞いた範囲では、
平安貴族が、いわゆる旅等で”方違え”をするのは、
天一神と称する、安倍晴明流の陰陽道で、12神将の
親分格の居る方位を、日の干支から計算して、避ける
というような、システムだったはずだからである。
 これを、

悪党が横行した鎌倉時代末期や、や南北朝の混乱の頃に
当てはめて、豪族が、他の勢力と合戦する場合に使おう
とすると、自分の軍師の思っている事は、敵側の軍師も
知っている事になり、そのような占い能力しかない軍師
を、合戦の前占いで雇っても、合戦には勝てない

事になると考えられる。軍師は軍匠を兼ねていて、合戦
の戦術を練る働きもしていたのだろう。だから、相手側
の軍師の知らないような、秘術を知っていないと、中世
の大名・豪族が雇い入れる事が無くなったのではなかろ
うか。
 他方、古くから存在したのだろうが、易の九星占いは、
西洋占星術といっしょで、合戦の将の生まれた時点の、
魔法陣の、特に中央の九星を基に、個人的なその年や
日の凶方を、

本命殺とか的殺と称して特定することができる。

これを、敵の将に当てはめて、主君に攻め方の方位を、
軍師が指示するような、占いが出来ないわけがあるまい。
 九星占いには、天一信仰の普遍的な神将・天将に関す
る、平安期普及の暦注占いには余り無かった、暦注外の
要素を加える事が、比較的容易に出来た。そのため特に、
中央政界の貴人に指揮されるのではなくて、地方豪族・
守護大名に統率された軍隊が、各地で衝突する事の普通
となった

政情が不安定化した鎌倉時代の末期の頃から、藤原一族
の貴族以外へも、文化が普及した

という定説は本当であろう。九星占いには、将棋の棋士
の階層である、武家・僧侶・豪商等一般人へも、元寇を
過ぎる頃になると、係わりが増えて、関心が増したので
はないか。その結果3×3升目の占い用の方陣盤も、将
棋指しが、良く見かける物品になったのではないか。
そのため将棋盤も、その形の方が、彼らには、より尤も
らしく見えるようになったのであろう。
 そうした状況で、12升目で自陣中間段が4段4段の
中将棋が流行ってきた。
 だから、その傍流に、少なくとも一時転落した小将棋
と、その後浮かび上がることの無かった大将棋も、その
将棋盤は、自陣と中間段が、正確に同じ段数の将棋盤に、

切り替わって行った

のではないかと、私は想像しているのである。(2019/03/27)

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ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上の記載内容(長さん)

旧加賀前田藩伝来の蔵書の文庫である、尊経閣文庫に、
色葉字類抄の3巻本(西暦1177~1181年成立)
の前田書写本があり、研究が進んでいると聞く。それ
より字の数が少ないのか、未完成と考えられているの
か、それとの関係は専門外の私には不明だが、3巻本
とは別に、尊経閣文庫には、
2巻本1565年書写”色葉字類抄”という、同系列
別古文書が有るという。なお尊経閣文庫には、
”色葉字類抄”系列本は、他にも有るのかもしれない。
 ともあれここでは、その、(成立西暦1144~
1165年とされる)2巻本または二巻本(1565
年書写)中の、上の上冊(全体の1/4)の構成事実
と、大将基馬名および、小将碁馬名のセクションの、
内容事実の紹介をする。
 まずは、第1冊/4冊と表現できる、
ニ巻本1565年書写”色葉字類抄”上の上は、次の
ような構成になっているそうだ。(八木書店
西暦2000年発行の、この古文書のフルコピー本の、
”解説部”による。)
①表紙の見返しに墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
②遊紙を1枚挟んで、次ページに序文が書かれている。
③序文と離さず、意義分類部目と説明、墨書で「イロ
ハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返している。
④「イロハニホヘトチリヌルヲ」とは行を離さないで、
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上上」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上上」である。
⑤続いて、いわゆる奥書が書かれているらしい。
⑥遊紙が1枚挟まれている。
⑦「大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が、酔
象の象を除くと、原則2文字単位で記載されている。
後で詳しく述べるが、適宜成り名が、右下に小さく書
かれている。
⑧「小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が2文
字単位で記載されている。
⑨何も挟まずに、いろはにほへと・・の漢字群の書き
方の内容が始まる。全部で50枚である。
⑩巻末に遊紙が3枚あり、ついで裏表紙がある。
なお、比較の為に言うと、第2冊(上巻下)は、次の
ようである。
2-①表紙の見返に墨書で「ワカヨタレソツネナラム」
と、カタカナで、書いてあるらしい。
2-②遊紙を1枚挟む。
2-④「ワカヨタレソツネナラム」の繰り返しは無い
らしい。
内題が、書かれている。内題は「色葉字類抄巻上下」。
続いて尾題が書かれ「伊呂波字類抄巻上下」である。
2-⑨何も挟まずに、わかよたれぞ・・・の漢字群の
書き方の内容が始まる。全部で54枚である。
2-⑩「地名+牧」の特別記載を挟んで、前後に、
上巻下用のいわゆる奥書がある。
巻末に遊紙が2枚あり、ついで裏表紙がある。
 ここで問題にするのは、言うまでも無く⑦と⑧だ
が、国会図書館の電子図書(外から閲覧可能本)に、

無い部分について、まず確認

する。
 国会図書館の電子図書の二巻の色葉字類抄は、出所
が、次ぎのように記載されていて、旧前田藩の図書館
から、出た物、そのままでは無い。

色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本

もと3巻本なのか2巻本なのかさえ、私には正確には
判らないが、少なくとも、上の上に関連して、次の記
載が見当たらない。
①の墨書の「イロハニホヘトチリヌルヲ」。
③の墨書で「イロハニホヘトチリヌルヲ」と繰り返し。
ただし、カナの元漢字が「・・・わかよ」まで、”上
巻”には書かれている。
⑤のいわゆる奥書。
⑥遊紙が1枚。
⑦の「・大将基馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が
2文字単位で記載されている等のもの。
⑧の「・小将碁馬名」と表題が書かれ、内容の漢字が
2文字単位で記載されているもの。
 上記の事から、上巻の内容からみてwebで見れる
国会図書館の色葉字類抄は、3巻本に近いものと、私
には疑われる。冊分割が違うパターンなので、奥書は
削除され、墨書の「イロハニホヘトチリヌルヲ」も、
目障りなので除かれたようだ。

しかし、⑦の「・大将基馬名」と内容、
⑧の「・小将碁馬名」と内容を、削除して良いと言う、
自明な理由は無いので、理由は私が想像するしか仕方
が無い

のであろう。
 以上で、この古書の構成に関するまとめは、ひとま
ず終える。
 次に、「・大将基馬名」と「・小将碁馬名」の内容
事実を以下に表現する。
「・大将基馬名」は、表題が書かれた後で、誰かのチェ
ックを受けたらしく、朱色の点がそれぞれにあり、
熟語漢字は、次のように書かれている。現物では、別
の字で、適宜改行されているが、自然な改行である。

・玉将・金将・銀将・銅将・鉄将・石将・桂馬・香車
裏金・酔裏太子・(下巾字体の)盲虎・猛豹・猫刃
・反車裏金・師子・麒麟裏師子・鳳凰裏奔王・悪狼・
嗔猪・猛牛裏金・奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・
横行・飛龍・飛車裏金・歩兵・仲人裏金

以上である。これが後期大将棋であるという点につい
ては、説明するまでも無いので、次ぎへ行く。
「・小将碁馬名」も、表題が書かれた後で、誰かのチェ
ックを受けたらしく、朱色の点がそれぞれにあり、
熟語漢字は、次のように書かれている。

・王将・金将・銀将・桂馬・香車・飛車・角行・歩兵

以上である。内容そのものについて、説明する必要は
なかろう。今回は、ここまでにし、特定の問題につい
ての議論は、ごちゃごちゃするので次回以降にしたい
と考える。(2019/03/26)

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摩訶大将棋は序盤戦術で交点駒置17段に御利益無し(長さん)

前に、高見友幸氏の提案する19筋16段摩訶大大将棋
または、摩訶大将棋に関して、交点駒置きで、京都の
条理モデルでは、17段になってしまうと述べた。
 一条大路に新・旧があって、旧の時代から摩訶大将棋
が有ったと、高見氏は当然考えているので、18升目の
矛盾を避けるために、19路にした結果、段が16升目
から17路に、彼が実際に推薦している将棋の話と違っ
て、1路段が余計に増えた、

別のゲームになってしまった

という意味だと、個人的には理解している。
 では、ようするに

”土御門大路は、平安時代が始まった頃には無かった”
という古代史研究者の説は、高見氏が引用している

ように本当であって、摩訶大大将棋または摩訶大将棋の
段を16段から17段にする事によって、ゲーム性能の
点からも改善されて、その結果、
土御門大路は、平安時代初期には無かったという説が、

まさに今証明されようとしているという事なのだろうか、

というのが、今回の論題である。回答を先に書く。

ゲーム性能は改善され無い。

理由は17段の摩訶大大将棋または摩訶大将棋が、16
段のそれに比べて、序盤の駒の捌きで、ありありと、ゲー
ム性能が上がるという事は無いからだと、本ブログでは
考える。

つまり、本ブログでは、古代史研究家の瀧浪貞子氏の、
1991年の説に、少なくとも絶対の信頼を、置くわけ
にはいかない

と言う意味である。
 では、以下に説明する。
この将棋の序盤戦術は、
横飛の前の升目の歩兵が離れているのを、獅子で狙うた
めに、奔王や摩羯や龍王を浮かしておいて、獅子を出す
という手は、桂馬が桂馬跳びが正しいとして、一応無し
にするとすると、

角行または左車か右車で、それより強い、鉤行、摩羯、
奔王、龍王、龍馬のどれかに、睨みを利かせるのが、
第1手目の善手である事は明らか

である。睨みを利かせるには、相手の強い駒に、より弱
い角行か左車か右車の、斜め筋が通っているかどうかで、
それが実際に、可能かどうかは決まる。つまり、

段が16から19段までで、どうなのかで、条件が変化

する。ところで、ゲーム性能としては、

このような、自明善手が、初期配列に関して、バレバレ
なのは良いゲームとは言えない。

だから、何らかの手段で、初期配列を工夫して、角行筋
または左車筋、右車筋は、摩訶大大将棋または、
摩訶大将棋では、

通りにくいようにした方が、良いゲーム

である。できれば、

左車や右車で、龍王か龍馬かが狙える程度の配列になっ
ていた方が良い。

そのためには、角行筋が、仲人に当たるように、大将棋
系ゲームでは、工夫されるのが普通である。そうなって
いるのは、

19×19の盤となる摩訶大大将棋だけ

である。つまり、

16段から22段の摩訶大将棋等の中で、比較的旨く
出来ているのは、19段の場合だけ

だと、本ブログの管理人は認識している。
 以上の事を、少し詳しく以下に、書いてみよう。
 16段目から22段目までで、どちらか一方の角行と、
判りやすく、どちらでも良いのだが左車について、各段
のアタリ関係を、示すと次のようになっている。角行は、
左右どちらでもこのケースは、全く同じだし、右車は、
鉤行と摩羯へのアタリのパターンが、反対になるだけで
ある。

左角行について。
16段なら左龍馬。
17段なら左角行。
18段なら左仲人下歩兵。
19段なら左仲人。向こう横飛。
20段なら左横行。
21段なら左車。
22段なら左飛車。

左車について。
16段なら鉤行。
17段なら奔王。
18段なら摩羯。
19段なら左龍王。
20段なら左龍馬。
21段なら左角行。
22段なら左仲人下歩兵。

以上の事から、

左右の角行については、18、19、21段のとき良い
ゲーム、
たとえば左と右の車で左車については、19、20、
21、22段のとき、まあ、我慢できるゲーム

になっている事が判る。つまり、まとめると、19段と
21段の摩訶大大将棋または、摩訶大将棋以外は、斜め
走り駒の、出だし序盤の利きが強すぎて、

さほど良いゲームにはならない

事が判る。つまり、

16段の京都の条理モデル升目将棋も、17段の京都の
条理交点置き将棋も、どっこいどっこいだと見られる

という事である。17段のケースも、左車と右車で、
奔王の睨みが利いている初期配列は、余り気持ちの良い
形とは言えない。つまり、平安時代初期には

”土御門大路は無かった。なるほどそれで、17段にす
ると、ゲームが大きく改善される理由が、ようやく判明
した。19×16では、物足りなかったのはそのためか。
かくて、交点置きに、利点が有る事が判ったのであった。”

という

ストーリーには、全くならないと言う事

である。だから、土御門大路が旧一条大路だったという
説が、正しいという考えを前提にしたうえで、交点置き
摩訶大将棋(交点置き摩訶大大将棋)の別存在を主張し、
16と17とを両方立てている、高見友幸氏の主張に、
序盤のゲーム性能の改善という観点から見ても、

私は特に、意味が有るようには見えない。

19×16の将棋だけを、集中して宣伝するように、今
後、論を整備した方が普及戦略上、より得策なのではな
いかと、疑われる。
以上のような、結論になるという事である。(2019/03/25)

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升目列数3の倍数将棋盤は九星占いの道具と類似(長さん)

本ブログでは、鎌倉時代末以降、中将棋の成立と共に、
将棋盤は、9・12・15・・と、3の倍数升目列数
へ収斂して行ったと見ている。理由は、九星占いの図
と、将棋盤の形を、聖目を等間隔に置く形式で、類似
させるべきであるという論が、ゲーマーの間で広まっ
たためとみる。そのため、西暦1300年頃の13
升目108枚制と見る普通唱導集大将棋は、行き詰まっ
て、廃れると同時に、大将棋の13升目制も、15升
目制主流へ、移行すると同時に、ゲーム性が劣化して、
中将棋主体になったと、本ブログでは見る。
 九星占いは、暦として頒布されたため、将棋のゲー
マーに、紙媒体で、実体が普及した事は確かと見られ、
それでも充分ではないかと、私は見ていた。具注暦が、
中世には、充分普及していたと、私は認識したためで
ある。
 しかし、将棋盤と似たような物品で、九星占いの道
具が有れば、中世の将棋棋士にとって、あるべき将棋
盤のイメージは、益々確かな物になって行ったに違い
ない。調べてみると、そのような物品は、昔実際に、
有ったらしい。下の写真の、兵庫県赤穂の大石神社の
吉凶分占盤というものが、それである。

吉凶分占盤.gif

確かにこれには、方形の盤を9つの区画に区切ってあっ
て、縁起のよいまたは、縁起の悪い神様が居る位置を、
何かの駒で置く等すれば、その日や年で、その方向に
居る人物と友達になったり、行ったり来たりしてはい
けない方向といったものが有るかどうかを、暦を読ま
なくても、その場で占えそうだ。
 大石神社というのは、江戸時代の赤穂の家老の、大
石家等、忠臣蔵に関連する神社であると言う事が、
下記の成書にも書いてある。

「かたち」の謎解き物語。(建築家)宮崎興ニ著。
彰国社(2006)

 なお上記成書によると、大石神社には他に、
指南針と称する、陰陽師の使用する、式盤の類と見ら
れる円形盤がセットで有るという。指南針の中の五行
記号に、アルファベットが使われている事から、宮崎
氏の成書内での書き方を見る限り、残念ながら、この
遺物は

近世のもの

であるとのようだ。つまり、中世のものでは一応無い。
ただし、九星占いは、黄河文明が発生した頃からある
と聞くから、

吉凶分占盤自体は鎌倉末期の頃にも、作られただろう。

吉凶分占盤から将棋盤が発生したのでは、むろん無い
だろうが。鎌倉時代末の将棋の棋士は、

吉凶分占盤を連想させる、聖目パターンの将棋盤には、
そうでないものに比べ、より将棋盤のあるべき姿を感
じた事は、確かなのではないか

と、本ブログでは考える。他方、新安沖沈没船出土の
将棋盤(?)が、その形の聖目である。だからこれは、
どんなゲーム用であるかは、現時点で定かではないに
しても、そのようなゲーム盤が、鎌倉時代末期に有っ
た事を示唆は、しているように思える。
 また、将棋という

合戦シミュレーションゲームが、戦国時代には少なく
とも合戦で、軍師の勝機占いと関連していた事は、
ほぼ確実

だとみられると考える。
 軍師の占いには、中身から見ても、攻め方の好まし
い方位を占う、九星の方位占いが、含まれて居ただろ
う。そして、その際には、赤穂の大石神社に収められ
ていた、吉凶分占盤の類を使っただろうし、将棋は、
娯楽であると同時に、戦略を練る際の、少なくとも
儀式的行為には使われただろう。だから、将棋盤の
模様の形は、吉凶分占盤の類と似ていた方が、似合い
と考えられて、自然なように思う。
 そのため室町時代に近くなったころに、だんだんと、
3の倍数の升目で、聖目が一辺升目数の1/3ステッ
プの将棋盤が、中将棋の流行も有って、優位になった
のではあるまいか。
 実際に木板の形で、九星占い用の道具があるのを見
て、以上のように、私は考えるようになって来ている。
(2019/03/24)

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乾兌離震巽坎艮坤の方位配当は木火土金水土に沿う物(長さん)

かなり前の事だが、反時計回りに北西から西に向かって
八卦の方位が、乾兌離震巽坎艮坤の八卦の順番とは異な
り、つまり八卦の並び順で言うと、乾兌坤離巽震艮坎と、
12835476の順番で並んでいるのを、問題にした
事があった。その際、魔法陣と九星占いを持ち出したが、
最近勉強しなおしてみて、

それは間違い

であるのに気がついた。答えを書くと、
八卦の順番は、金火木水土が、この順に明るい(陽)か
ら暗いもの(陰)に並んでいると考えた。そこで、
乾兌離震巽坎艮坤には、五行が金金火木木水土土と対応
すると考えた。そうして置いてから、方位が
北西から西に反時計回りで、金金土火木木土水と、
時計回りの木火土金水土の、金からの逆向きで、一部、
五行の5つから、八卦の8つにあわせるため、金と木と
土を2つに増やしておいて、当てはめて行き、金と木と
土を2つにした結果、

任意性が出る場合は、北を先にして対応付けしただけ

である。以上が結論だが、以下に多少の説明をする。
以前問題にしたのは、12345678と遠いような、
近いようなの、12835476の数列の謎である。
 しかし、前に説明したが、

五行は、季節の循環を表しており、秋、晩夏、夏春冬が、
それぞれ金土火木水と、予め決まっている

のである。だから、乾兌離震巽坎艮坤の八卦に、
乾兌の12は金、離の3は火、震巽の45は木、坎の6
は水、艮坤の78は土と対応させたからには、秋から夏に
戻すことに対応する、北西から西に反時計回りならば、
季節表示を方位表示にダブらせ、
(12)(7あるいは8)(3)(4か5)(7あるいは8)(6)と
並べるのは、別に魔法陣とは無関係に、
必然だったのである。
ここで、
①先頭を1にするか2にするかは、北西の方が西に比べ
て、より北に近いので、12の順。
②次ぎは南西で、北東に比べて南西は南に近く北からは
遠いので、7ではなくて8を採用。
③4か5かは、南東、東と対応させるので、東の方が南
東よりも、北に近いので5、4の順。
④北東は②で述べたが、南西より北に近いので8ではな
くて7。
以上①から④の理由で、北西から反時計回りに、

12835476の乾兌坤離巽震艮坎になっただけ

だったのである。なお、前に述べた新潮新書の永田久著
暦し占いの科学(1982)だけで、理解は充分出来た。
 蛇足だが上の成書では、”八卦を説明するところでは、
読者を混乱させるので、触れなかったが”と断った上で、
”先天易”の、方位への八卦対応についても触れている。
つまり九星占いの”色”を決めるときに使っただけで、
後には記録に残らなかった、韓国国旗模様が有るという
事である。そのやり方では、明るさでは夏が一番明るく、
次ぎが春で、次ぎが秋、冬が一番暗くて陰だと考えて、
季節への八卦割り当てを決めるという、五行と季節は、
度外視したやり方である。
 ようするに、別のパターンの、大マゼラン雲から見た、
地球の公転軌道黄経目盛りへの八卦割り当てが、時代を
前後して行われたという事である。その結果、それと
同一パターンで摩り替えられる、方位への八卦割り当て
に、2種類発生した経緯が有るので、韓国の国旗の八卦
模様も、流儀の差で、2通り出来ると言うことになる。
 以上の事から以前の説明は、今にして思えば、かなり
奇妙だった。

 お詫びして、訂正したい。

 なお結局は、これとは別だったが、九星占いの番号
数字に対する、五行の対応関係が、

意味ありげに規則的

なのは、魔法陣の数字で2と8を入れ替えると、
1234、6789が並ぶためで、その状況で、

2と8に、共通して土を対応させているから

だけである。つまり、3行3列の魔法陣は、1834、
6729が、5の数字の周りを、この順番で回って、と
り巻いている構造になっているのが、五行を九星の番号
に対応付けたときに、規則的になる原因であることが、
少し注意して見ると、簡単に判る。(2019/03/23)

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藤原明衡著作の新猿楽記十一の君の将棋の棋は基(長さん)

松岡信行氏の解明:将棋伝来の「謎」(2014)
の一覧表に準拠して、本ブログでは、表題の、
新猿楽記の十一の君の将棋の棋は、石が底に有る、
碁と、これまで指摘してきた。しかし、

残念だが、これは間違いで”基”である

らしい。私が気がついたのは、㈱新人物往来社の、
西暦1995年の図書、窪寺絋一著
”日本将棋集成”の記載だった。調べてみると、
新猿楽記自体が、

藤原明衡作かどうかも疑わしいというニュアンス

の内容を、増川宏一氏が、平凡社新書(670)
の”将棋の歴史”2013年で、更に匂わせてい
た。別の所で事情を調べてみると、作者の書いた
藤原明衡の役職に、藤原明衡自身が付いた記録が
無いらしい。遺贈された職階を、実際の作者が、
書いて、藤原明衡を立てているという、ニセモノ
を自分で匂わせているという雰囲気だ。ちなみに

新猿楽記の成立は、藤原明衡が西暦1066年頃
他界してから、少し後の11世紀末

との旨を、増川氏は将棋の歴史に書いている。
 では、以下に詳しく述べる。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏により、以前に、
易占いと摩訶大将棋(2015頃)という論文が
出され、その中で、川口久雄(訳注)、新猿楽記
(東洋文庫424)、平凡社、1983年の、
十一の君が、引用されている。川口久雄氏の解説
によると、

将棋の棋は基と書かれ、文献により差は無く、川
口氏により、”棊と書くべき所を、間違えたか?”

との旨コメントが付けられている。十一の君の
能力に関して弾碁の方は、弾碁と書いてある元本
も有れば、弾基と書いてある元本も有るようだが、

将棋の方は”将基”だけ

らしい。たぶんだが、解明将棋伝来の「謎」の、
表3を作表するとき、松岡氏が見間違えたのだろ
うと、私は思う。
 よって、

”藤原氏なら、将棋の棋は碁に限られる”という、
本ブログの説は、残念ながら怪しくなった。

残る可能性は、増川宏一氏の言う事から察して、

新猿楽記は、藤原明衡が関与しているにしても、
死後に、何処かの知り合いの坊さんが書写しなが
ら加筆、編筆して完成させた

とでも、考えなければ駄目だろう。
 つまり藤原明衡は、将碁と書いたが、新猿楽記
を完成させた坊さんは、碁の使い方が誤まりで、
弾碁を弾基と書く事が有り得る点から見ても、
将基が正しい(?)と見ていたと、言う事なのか
もしれないと、考えるという意味である。かなり
苦しいだろうが。
 よって負け惜しみだが、
”新猿楽記にはたった一言、将棋としか書いて居
無い”と、学会では軽視されていたが、将棋の棋
を、基礎の基で書くのは、僧侶関係と、少なくと
も本ブログでは見ているので、

本ブログが、興福寺出土駒期間の将棋の流行の
傾向について、始めて、お寺でだけ流行っていた
疑いがある事が指摘できた

と、今回の成果(?)を、強弁して見せる事位が、
今の所、できる事の全てと、いった結果になった
ように思う。なお繰り返すと、将棋で良く使われ
た字は、当時は、将棊(下は土でなくて木)であっ
たはずである。(2019/03/22)

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高見友幸氏の16段19筋摩訶大将棋は升置きで良い(長さん)

京都の条理図が将棋盤になっており、駒は路置きで
表題のように、筋は19だが、段は19ではなくて、
16段の摩訶大(大)将棋の説が、直近の高見友幸
研究室の摩訶大将棋のブログに出ている。交点置き
の証明として、諸将棋図式の文字による記載を、根
拠としているらしい。今回は、

京都の条理図を将棋盤にした19×16、192枚
制、摩訶大(大)将棋駒将棋は升目置きとしてよい

という内容を、以下に示す。根拠を答えから書いて、
仔細はその後で述べる。理由は、以下の通り。
 京都の条理図は東西が33路、南北が39路に設
計されていて、東西が17路、南北が今は20路等
には、高見友幸氏の言うように、設計されていない。
升目の方を採用すると、東西が16升目で、南北が
19升目になっておらず、東西が32升目、南北が
38升目になっているという意味である。つまり、
設計された、19×16型の摩訶大将棋または、
摩訶大大将棋で、4升目で将棋盤1升目分に、京都
の条理は、なっている。だから+印の小路の中央に、
駒を置けば、路を飛び飛びに1つ置きに書いて、
将棋盤にしたのだと考えれば、駒は路の交差点に
置かれているのだが、

路の、飛び飛び省略型将棋盤を通常は使用するので、
+型の路地が見え無くなり、表現上は升目置き

となる。そして京都の条理は、飛び飛び将棋盤とし
ては、南北が19升、東西が朱雀大路を挟んで、
対称であって16升だが、横倒しにすれば、
19×16升の192枚の摩訶大(大)将棋型に、
一応なっている。従って、

日本の六将棋が交点置きだった事を、そのために証
明する努力をする分、このゲームの説明に関しては、
ほぼ無駄だった

ように私には思える。”昔は何処かの路が無かった
という説がある”と聞いているが、それについては、
その代わりに、何か別の路が有ったが、昔の記録の
再現は、元々困難だから、

プラスマイナス0になるように、京都の東西路の
路数カウントで、路を別のところで落としているの
かもしれないと、一度疑ってみてはどうか

と私は思う。
 では、以下少し説明を補足する。
 京都の条理図は各種教科書、日本史辞典等に載っ
ており、内大離が、19×16置き摩訶大大将棋で
言うと、右辺に来る側で言って、端筋から5筋まで
の4路または5升、7段目から10段目までの4段
または3路を切り取っていて、升目で言うと、5×
4の駒置き場所不明の点を、作っている構造になっ
ていると認識する。また第15筋の6段目と11段
目に、”東西の市場”が有って、そこも一部、升目
の潰れた所があるようだ。
 その他は南北19升、東西16升の将棋盤の升目
を書いてから、

各筋のちょうど真ん中に、”口口小路”を1筋づつ、
細かく入れた形

になっているのではないのだろうか。(下図)

京都条理図.gif

つまり、高見研究室の摩訶大将棋では、実際の京都
条理図を実質、路の形

田の字1つで、1目と見ている

と、私は考える。
 そもそも、摩訶大将棋のブログを見る限り、大内
離や、東市、西市の、小路の無い所にも、将棋盤に
するために、

同じ間隔で、無い所には路を適宜補っている

ようにしか、私には高見システムが見えない。
 それなら、その将棋盤は、
 横筋38升、段32段の升目になるように、横に
39線、縦に33線引いてから、端枠を含めて、

1つ置きに、太線に変え、太線・細線と交互に並ぶ
ようにして、駒は”細線(小路)”の交点置きをルー
ルにしておいて、太線枠内の十字細線が田の字に入っ
た各升目についての、升目置きゲームにしたのと、
いっしょ

だ。
 そもそも、こんな事を私が言うのは、

京都の条理図で、南北中央大通りの朱雀大路が、平
行に2本書いてある京都条理図が、見当たらない

からだ。
段は16段だと聞いているので本当に交点置きなら、
朱雀大路は、互いに接する形で2本走って居なくて
は、横倒しにした時に、段が16段に例示される、
段数”偶数路の交点置き将棋”にはならない。
 朱雀大路は平安時代に、昇りと下りで2車線で、
更には真ん中に、他の将棋の升の構造との対応上、
中央に小路が、もう一本あったという話が有ると言
うのなら、私も上のように見るのを考え直すのだが。
 このままでは、京都の条理図を基に作った将棋は、
20×17路とか、19×17路であって、

段が例えば16という、偶数段の将棋のモデルには、
かなり、なりにくいのではないか

と私は疑う。
 つまり、考えてみると、1目分の升目がこのケー
スは”田”なので、最初から、あまり困っていなかっ
たのに、

交点置きという事にしたために、
横筋の数は、確かに18を19に増やして、合わせ
たらしいのだが、今度は段が、16から17へ、
1つ増えて狂ってしまい、何にもならなかった

と言う事に、なるのではないのか。
 結局そうすると、19×16区画の将棋のモデル
が京都条理図が元だったという事を、ここでは、そ
れについては疑わない事にすると、摩訶大将棋また
は、摩訶大大将棋の駒の置き型は、ゲーム上は升目
置きであり、中世の駒数多数将棋のうちの六将棋は、
全て升目置きで有って良い。そのため京都の条理の
家屋の中に、駒がある事になってしまうという、
条理モデル将棋に、いっけんすると発生しそうな矛
盾は、将棋盤を作るとき、小路を1つ置きに省略し
て、見やすくしたために、本来なら

駒が小路の交点に置かれているのに、そのようには
表現されないため、単にそう見えてしまっていると
いうだけ

という事に、なっているのではないか。以上のよう
に、高見友幸研究室の、交点駒置き将棋を主張する、
最近のページに関しては、本ブログでは評する。
 ようするに升目を数えると、段19の東西8づつ
に1ユニットが、田の字に区切れる京都の条理図を、
複数の文献で見るにつけて、私はだんだんと以上の
ように、”日本の将棋は本来、駒交点置きだった”
という説を、疑って掛かるように、なってしまって
いるという事である。(2019/03/21)

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摩訶大将棋展2019winterのweb情報(長さん)

一ヶ月以上前の、2019年2月3日頃の話であるが、
大阪電気通信大学の高見研究室が、大阪駅付近で、
表題のイベントをしていた。株式会社いつつという、
兵庫県の会社が運営するサイトに、訪問者の報告が
載っていた。高見友幸氏が、パネルディスカッション
をした論題が、入り口の看板として掲示されていて、
その写真が、最初の方に有る。なお看板は2枚、写真
に写っているが、今問題にしているのは、右側だけだ。
今回注目するのは結論から書くと12項目あるうちの

第11番の内容

である。では説明を続ける。
 問題の看板については、株式会社いつつで検索する
と”いつつブログ/株式会社いつつ”に、しばらくは、
トップで出てくるだろう。写真の看板の論題11番の
題字は、残念ながら

net上で、たまたま内容が正確には読み取れない。

”古代日本の将棋の盤(か書)について”と書いてある

のかもれない。が内容は仮に、盤と読むとすれば、

将棋史家が誰も知らず、又言及すべき事実が皆無な事

が定説であるように、私には見える。

桂馬の桂と、香車の香がヒントだというのは、本ブロ
グの中だけの話

だ。なお、現物が明らかな日本の将棋盤で一番古いの
は、14世紀の新安沖沈没船将棋盤(?)を、15升
の後期大将棋の将棋盤と見て中世だ。文献でも、
藤原定家の明月記の”三面の記載”は、鎌倉時代早期
に入ると思う。平安時代の史料は、全く無いはずだが。
 ちなみに本ブログでは、

皇族用以外、定常的で長期保管に耐える将棋盤は、
上代にはほとんど作成されなかった

とみる。8×8型と9×9型が日本では並存していた
のが、主な原因のはずだ。
 なお高見研究室のイベントに関する報告者は、
株式会社いつつの金本奈絵(Nae Kanamoto)
さんと名乗られている。
写真の撮影者も、多分同一人物だろう。話をほぼ聞き
取られたように、本文からは読み取れた。

第11番の内容は、どれなのかは書かれていなかった。

たぶん基本的に、内容は高見友幸氏しか知らない話

を話されたのは確かなように、私には推定されるが。

ただし”将棋の口”の口の字がはっきり見えず不確実

な推定ではある。㈱いつつさんのブログでは、話全体
の内容について、いちいち”番号でこれだ”とまでは、
特に言及されておらず、そのため仔細不明だった。
 他の11の項目については、摩訶大将棋のブログに、
だいたい書いてあると見ているのに、古代の将棋盤の
話(?)だけ不明な内容なようだ。なので全体として
は、情報の提供は、たいへんありがたいものの、
たまたまだろうが、ごく一部についてだけ謎の有る、
残念な、報告文になってしまっているように、個人的
に、私には感じられた。(2019/03/20)

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普通唱導集大将棋の猛牛猛虎は火位置で無く水木隙間(長さん)

前に、普通唱導集大将棋で、五行の木に嗔猪が、火に
猛牛と猛虎の中間の艮が、土に飛龍が対応するという
説明を、木火土金水の五行の何を対応させるのかは、
あくまで一例だとして、したが、

陰陽五行説では、対応付けはいい加減なものではなく
て、きちんと決まっている

のを、易学の、乾兌離震巽坎艮坤と、五行の対応が
書いてある本を見て、ようやく私も気がついた。私は、
易学の基本が、なっていないようだ。
 そこで結論から書くと、猛牛猛虎は火位置で無く
水木の隙間、嗔猪と飛龍は、木と土の位置ではなくて、
それぞれ金水の隙間と、木火の隙間の、

不安定な部分を固めるための、動物神を意味

しているようだ。
 では、以上で結論を書いたので、説明を加える。
 わかり易く解説がでている成書に、前にも紹介した
事が有ると思うが、次の図書が有る。
 新潮選書(西暦1982年)”暦と占いの科学”
永田久著。
 それによると、そもそも易学の乾兌離震巽坎艮坤の
艮は土だが、八卦も季節を分ける記号であり、

本質的に五行の季節対応については、木が春、火が夏、
土が夏の土用、金が秋、水が冬で、立春に当たる位置
が艮なので、同じく本来季節に関係する易学の、乾兌
離震巽坎艮坤の艮である鬼門は、元々は水と木の隙間

のはずだった所という事のようである。なお、上記の
”本来”とは、8つの八卦へ5つの五行を当てはめよ
うとした無理から、

前漢の薫仲舒は隙間としたが、後漢の班固が土対応と
して整備した結果が、易の乾兌離震巽坎艮坤の五行対
応に関して影響した結果、鬼門を生んだ

との解説が有る。つまり陰陽五行道による暦学解釈で、

一年の終わりの半端を、季節円表示を方位表示に、な
ぞらえ変えする事によって、飛び地のある土で対応さ
せた結果が、鬼門という方向を発生させた

という事らしい。水と土、土と木が両方相剋であった
ために、”土の所は、縁起が悪い”という訳である。
 以下では最後に述べた、陰陽道の後漢バージョンで
は無くて、より素朴な、前漢バージョンで、普通唱導
集大将棋2段動物駒による、鬼門等の守りの理屈を、
説明してみる。
 五行の理解で大切な事は、時刻、季節、方位に全て
五行を対応づけしたが、パターンが類似なので、時計
文字盤、大マゼラン雲方向から見た地球の公転円、
方位磁石の盤の意匠を、関連付けて、むしろまぜこぜ
に考えると良いと言う点である。
 つまり方位の鬼門は、

後漢バージョンでは土(班固)だが、前漢バージョン
では水と木との境(薫仲舒)

という事である。
 そこで今度は、地球の公転円をこれにダブらせると、
艮は冒頭で述べた薫仲舒の冬を意味する水と、春を意
味する木の、真ん中の旧暦の年末の位置で、方位磁石
に話を戻すと、方角では北東に対応させているという
事である。ちなみに方位の五行では、水は、北北北東
より、すこし北よりに中心があり(薫仲舒)、木は、
東東北東より、すこし東に中心が来る(同)。厳密に
は32方位ではなくて、40方位にすると、正確に中
心位置を表現できるらしい。方位角表記では、北から
時計回りに、水が角度の9°、木が角度の81°にな
り、真北と真東から、すこし内側に入っていると言え
る。
 そして、
嗔猪は、水の中心より更に反時計回りに角度で36°
回った、北北西と西北北西の中間辺りにある、北から
方位角で27°西方向の、金と水の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
飛龍は、木の中心より更に順時計回りに角度で36°
回った、東南東と南東南東の中間辺りにある、東から
方位角で27°南方向の、木と火の間の境目が弱いた
めに、ほぼその位置を守る守り神の動物として必要、
というのが、陰陽道流の、駒種としして必要な理由と
いう事になるらしい。つまり、前に本ブログで述べた
ように、

 嗔猪から牛虎が、牛虎から飛龍が、生まれるわけで
は無さそう

だ。
 ただし、前に述べたが、嗔猪は境目方位より西北北
西に近い方向に角度で3°、居場所がヅレているし、
飛龍も境目方位より南東南東に近い方向に角度で3°、
居場所はズレている。その3°は、許容誤差が7.5°
有るので、無視できるという事である。ところで、
3°の誤差は、嗔猪の位置が方位角で、北から西へ
30°で27°より3°大きく、飛龍の位置が方位角
で、東から30°で27°より3°大きいためだが、
これは、磁石よりも時計盤で考えた方が、32等では
無くて、12分割な為に、ずっとよく判る。
 そこで、 今度は地球の、大マゼラン雲から観測し
た公転円図と、時計の文字盤とを、重ね合わせてイメー
ジしよう。時間の五行を、問題にするときには、今の
時計が1日に時針2回転なのが問題になる。が、以下
の議論は、地球軌道で季節を説明する話を中心にして、
話がごちゃごちゃするのを、回避する。
 つまり、大体だが、ちょうど今のグレゴリオ暦の月
が、時計の文字盤を、月数に直すと、干支の順番-1
(ただし鼠だけ、更に12をプラスする)の干支の、
動物対応に近くなるようだ。つまり嗔猪は、文字盤に
位置をなぞらえると11時(トキ)の位置。鬼門の艮
は、1時(トキ)半の時針位置。飛龍は地球軌道位置
を、時計文字盤になぞらえると、ちょうど4時(トキ)
の針の位置である。だから嗔猪と飛龍は、北から西へ
30°と、東から南に30°で良いのだ。季節の月数
に話を置き換えても、嗔猪がグレゴリオ暦の11月、
艮が1月と2月の境に近い2月の節分の頃、飛龍が、
グレゴリオ暦の4月の、陰陽道流のグレゴリオ月名で
ある。ちなみに猛牛がグレゴリオ暦の1月、猛虎が、
グレゴリオ暦の2月の中央位置である。
 1月の終わりから2月の頭に、立春なので、当然東
アジアの、太陰太陽暦、旧暦の正月がそのとき来る。
漢王朝からだと聞いているが、昔はほぼ、猛虎の寅か
ら1年が始まる、太陰太陽暦が東アジアでは使われて
いた。ので、時計の文字盤になぞらえると、文字盤が、
時計回りに1時間分回転してしまい、月遅れで最上段
が、11時の文字盤時計になってしまっていた。だか
ら丑正月に近い今の方が、時計文字盤も、大マゼラン
雲から地球を見た地球公転軌道の図も、全部方位磁石
の盤意匠に近似していて、むしろ判り易くなっている。
 そして、時計の文字盤の11時と4時の間の角度は
150°だから、円周の2/5の144°より、3の
2倍の6°だけ大きすぎると言う事で、上に述べた話
に矛盾がない事が判る。
 実際には、艮が真冬で、嗔猪が秋深しで、飛龍が、
だいぶん春めく季節なのだが、太陽の動きよりも、季
節の進みが、熱の蓄積の関係で遅れるので、そうなっ
ているだけである。つまり天象の上では、嗔猪がやや
冬に入った天象、両方猛の牛虎の艮が旧正月。飛龍が
立夏より、少し前の春天象という事になる。4つの四
季を、5つの五行に分けると、当然四季の境目とは、
かみ合わない。ので後漢の時代に問題になって、易学
の五行対応が、新たに発生したのだ。
 以上の事から、それぞれ五行対応で、金と水の中間、
水と木の中間、木と火の中間に有るので”嗔猪、
猛牛と猛虎、飛龍で、方位についての、境界領域の
3箇所の、五行大将の守りの弱い箇所の、守り神になっ
ている”という、前漢型陰陽道流の意味づけで、
大将棋に駒が有る理由の説明は、それで良いという事
に、なるという訳だろう。
 なお、残りの火土と土金の隙間を、どうしたのかは、
私には良く判らない。ひょっとしてゲームデザイナー
は、それぞれ角度で9°ズレているものの、馬の一種
である麒麟と、鶏の一種(?)である鳳凰を、その守
りの任務に、当たらせるつもりだったのかもしれない。
(2019/03/19)

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作者が同じでも、情景の差で碁盤の脚が違う例(長さん)

前に、狩野派、狩野元信の厩馬屏風と、狩野永徳
の聚光院方丈壁画とで、同じ狩野派の絵でも、
日本人の棋士の指す碁盤の足は蓮座、
中国人の棋士の指す碁盤は足無しで台座
になっていると述べた。
 しかし、厩馬屏風と聚光院方丈壁画とでは、絵
の作者は同じ血筋らしいが、全く同一人物では無
かった。
 東京文化財研究所の、江村知子氏によれば、
近世の画家、土佐光吉の絵は、囲碁盤について、
路線の書き方と、

碁盤の足の描き方で、作者が特定される

と、日本の美術543”土佐光吉と近世やまと絵
の系譜”(2011)㈱ぎょうせいで、述べてい
る。足の形が蓮座なのは、日本人が棋士なら大概
そうだと、私は思うのだが。世俗の将棋史愛好家
と、文化財研究所の専門家とでは、美術品に関し
て後者の言う事の方が、通りやすいだろうから、
この状況で、

本ブログの主張は通りにくい

だろう。そこで今回は、私のような素人に判る
範囲内でだが、

厩馬屏風の狩野元信の絵で、情景の異なる、囲碁
盤の図を探してみた。下の図のように群仙図屏風
(伝)元信作というのが、確認されているそうだ。

群仙図屏風.gif

この絵の囲碁盤も、指しているのが中国人の仙人
という設定のようなので、聚光院方丈壁画の碁盤
と同様、足が無く、何らかの台の上に乗っている
ように、書かれている。盤線のパターンは、私に
は確認できて居無い。
 ただし、文献として、同じく㈱ぎょうせいの、
日本の美術485”初期狩野派-正信・元信”
(2006)によると、

厩馬屏風、群仙図屏風は両方とも、狩野元信の作
では無いと、京都国立博物館の山本英男氏が指摘

しているようである。どちらも(伝)のように表
現するのが、この領域では通例らしい。であるが、
美術史専門家の大勢が、事実をどう見ているのか
は、私には良く判らない。御存知の方があれば、
御教示願いたいところである。何れにしても、

別々の絵の作者が同じでも、中国風か日本風かで、
囲碁盤の足の描き方が違うケースがある、疑い自
体が残っている事だけは、どうも確か

なようだと私は見る。(2019/03/18)

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1986年将棋探源執筆時点伊東倫厚氏は中国伝来派(長さん)

将棋史研究家として北大教授(当時)の(故)伊東倫厚
(ともあつ)氏は、よく知られている。
 将棋史の成書は発見されないが、将棋ジャーナル誌に、
3年位、将棋史の話を連載していたという話を、本ブロ
グのコメントや、論文を読んで、さすがの私も気がつい
ていた。
 調査してみると、日本への将棋伝来の元の国に関して
言及していて、西暦1986年頃には、

中国のプロトシャンチー系統の、日本への流入と考えて
いた

との記録が有った。今回はこの点につき、もう少し詳し
く以下に報告する。
 伊東倫厚氏が、将棋ジャーナル誌に、表題の内容で、
各国のチェス・象棋・将棋の歴史について述べていたの
は、将棋ジャーナル誌のバックナンバーで言うと、

西暦1984年6月号から西暦1987年6月号まで

で、途中跳びとびに休んで、22回連載の、各回2~数
ページ程度の文書である。運が良かったが、22回分の
全文につき、最近、私には見る機会に恵まれた。
 将棋ジャーナル誌の構成が、1987年秋に変化して、
”将棋大学”のセクションが消失したため、将棋ジャー
ナル誌上の伊東倫厚氏の史論は、残念ながら日本に将棋
が到達した所、そこで終わっていた。
よって、駒数多数将棋の”特定の種類の起源に関する論”
というカテゴリーのものは、余り見当たらない。本ブロ
グで論じた部分と、関連するのは、

何処から日本の将棋が来たかという伝来論に、絞られる

との心象を受けた。伝来論で、当時の伊東氏の立ち位置
は、比較的、はっきりしていたと私は考える。

伊東氏は当時、日本の将棋は、中国中原起源と見ていた

ようだ。
 増川宏一氏の将棋Ⅰが発行されて、間も無くのものな
ので、東南アジア起源説を、増川氏の将棋ⅠやⅡ、
大内延介氏の”将棋の来た道”に関連した論文等を
元文献として、批判されていた。
 伊東氏の論拠が、良く出ているのは22回の連載の
うちで、

第17回、1986年5月号の将棋ジャーナルの122
ページから123ページの所で、自身の主張をうまく、
単潔に、まとめられている。

①交点駒置きは、日本に象棋ゲーム系統を伝来させてか
ら、中国本国で、後変化したものである。
②飛車・角行の位置は、シャンチーの砲の位置に類似。
③筋が9筋なのは、中国シャンチーと日本将棋で一緒。

以上のようになっているようだ。
①については、本ブログも賛成するが、②と③には証拠
であるという主張に、賛成できない。①についても、
彼と本ブログとでは、見方が同じでは無い。後者につい
ての、彼と私の違いは、シャンチーが成立する以前には、
主力のゲームが

プロトシャンチーではなくて、イスラムシャトランジと
平安小将棋のルールにほど近い、雲南将棋であり、流行っ
ていたのではなくて、それらに関する情報(後者は遊具
が宝玉)が、中国中原の都市では、幅を、きかせていた
と、私の方は、見ているという点

である。伊東氏は”シャンチーが成立する以前の、中国
初期宋王朝時代には、プロトシャンチーが混乱した状態
で、立体駒や書き駒を、ローカルに混ざって指していた
と考えている”との旨を、将棋ジャーナル誌1986年
の3月号あたりで書いていたようだ。
 本ブログでは、少数のゲームデザイナーの作成した、
始原のゲームが、たまたま、記録として残っているだけ
で流行は無く、むしろ開封市や長安市は、唐宋時代の
当時、国際都市らしい、

各国ゲームの”情報の坩堝”だった

と見ている。中国人はチェス系のゲームに対して当時は、
後の世に、この系統のゲームの”創始者の誉れ”など、
問題にされるようになる時代が、来るとは夢にも思わず、
もっぱら囲碁と比較し、傍観者の立場を取ったと、本ブ
ログでは見ているのだ。以上の点が違う。どちらが正し
いのかは、中国の都市史に詳しい学者に、逐次判断して
もらうしか無いように、私には思える。
 他方②・③については、唐物・中国びいきだった当時
の日本の知識人の仲間だったに違いない、将棋デザイナー
に、結局の所伝来した後に、ゲームを似せてもらえれば
良いだけの話なので、本ブログでは、中国中原が日本の
将棋の源という根拠に、なってはいないように思う。
何れにしても、興福寺で将棋駒が発掘されたのが、西暦
1993年だから、中国シャンチーの、交点駒置が完成
する前に、升目置き将棋が伝来したと考えれば、増川論
を回避できるという、①の理屈に関しては、

伊東倫厚氏は、1986年時点でよく気がついたものだ

と私は、彼の当時の日本の将棋の伝来経路推定論に関し
て、その点が一番関心させられている。(2019/03/17)

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大局将棋は荻生徂徠の広将棋より、駒を取り込んだか(長さん)

将棋者御三家大橋家に伝わっていた大局将棋は、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄の6種の将棋、江戸初期成立の天竺大将棋、
江戸時代成立の和将棋、一時期流行の七国将棋、禽将棋、
から、特に駒の種類を取り込んでいる事で知られる。が、
荻生徂徠の広将棋には、言及されない事が多い。大局将棋は、
正確な成立時期が不明だが、本ブログでは、奥御用を預かっ
た、徳川家治の治世に、水無瀬兼成が豊臣秀次との間で、深
い関係となった、最高権力者との関係の類似性に準えて、
泰将棋の発展形を作ろうとしたのが、大局将棋の作成動機で
あろうと見ている。つまり、荻生徂徠が広将棋を作成した、
数十年後、広将棋を再現しようとした時期が、大局将棋の
作成進行の時期なのではないかと、言う事である。従って、

大局将棋は荻生徂徠の広将棋の成立後に作成

されたと見られると言う事になる。従来は、大局将棋の内容
に関する研究も、跳びぬけて盛んとまでは行かなかったため、

大局将棋の元になった既存将棋種のリストアップが出来てい
るという所までは行かなかった

と、本ブログでは認識している。つまり、

大局将棋と広将棋の関係については、先行研究例は実質的に
無い未知領域だろう

と言う事である。では、実際にはどうだったのかを、今回は
論題にしよう。
 最初に結論から書く。
 中国の童蒙の軍伍の名を使うつもりは、大局将棋の作者は
無かった。そのため、取り入れる駒種は限られた。しかし、
必要に応じて、わずかだが広将棋の駒名を取り入れている。
他方、大局将棋では特に兵駒をたくさん作ったので、広将棋
に合わせて○兵を上段に持ってくるという事をした。つまり、

広将棋自体からは、駒を余り取り入れなかったが、初期配列
を作るとき、参考にするという影響を与えたと見られる。

 では以下に、以上の結論について、説明する。
 前に、第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の自分に相談せずに、
広将棋を作成した事に対して、文句を言っていたという、
幸田露伴の研究結果を紹介した。しかし、本ブログでは、
大局将棋を作成したとき、大橋家は代替わりしたあとだった
と見ている。だから、大橋家と荻生徂徠の学派との軋轢は、

無かった

と見た方が自然だと思う。中国の軍伍の名を取り入れるので
はなく、小将棋から大大将棋、摩訶大大将棋を参照して、
泰将棋を作った水無瀬兼成の行為を、大局将棋として拡張し
ようとしたため、中国の軍隊流である駒名は、避けただけだ
ろうと見るのが、自然ではないかと思う。ただし、日本の
将棋の駒名に近い、

龍驤や鷹揚を大局将棋で入れなかった理由は謎

だ。なお、虎翼は、類似音の鴻翼(銀車の成り)の元なので
はないかと、個人的に疑う。弓兵、弩兵、砲兵は、七国将棋
が元なのか、広将棋が元なのか、判然としないが、時代が
近いので、七国将棋に軍配を上げておこう。
 では、広将棋の駒名は、法外に避けていたかと言うと、

砲車を、走車の成りとして採用していたし、広将棋にだけ有
る、馬兵が大局将棋にも有るから、採用した種類数が少なかっ
ただけ

と見た方が、公平だと私は考える。走車成り砲車と、馬兵し
か無いので、

広将棋から大局将棋が、駒を取り入れているように見えなか
っただけ

と、本ブログでは見ると言う事である。
 他方、大局将棋の初期配列には、

兵駒が9段~10段目、つまり、歩兵下2段に集まっている
という、他の将棋種では広将棋以外には無い性質がある。

例外は8段目の騎兵と、5段目の羊兵だけである。

騎兵は、七国将棋で騎が下辺に居たから、そうしたと取れる
し、羊兵は泰将棋に合わせて中段にしただけであろう。

他の多くの兵駒は、広将棋に合わせて、歩兵下のすぐの列に
大局将棋でも、もって来た

ようにしか、私には見えない。つまり、水無瀬兼成とは違っ
て、荻生徂徠は、中国人の軍学の大家の駒名を、主な駒名と
する将棋を作成したために、ゲームデザインの主旨が水無瀬
兼成の継続行為であった、大橋家は、広将棋の駒名を、たま
たま使わなかったのだが、

兵の付く駒を、上段に持ってきたという点で、水無瀬兼成の
泰将棋には無かった、広将棋を真似たような性質が加わった

と考えられよう。
 よって、以上のような結論になると思う。大局将棋は、
室町時代作を装った、水無瀬兼成作と見られる泰将棋とは
異なり、鉄砲駒の砲車が入った将棋になった。
 恐らく天明の頃までに知られていた、既存の将棋種類は、
分け隔てなく、必要に応じて取り入れる方針で、大局将棋は、
少なくとも結果としては、作成されたのであろうと見られる。
(2019/03/15)

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普通唱導集大将棋に鼠と兎駒が無い訳は弱いだけか。(長さん)

本ブログのこれまでの見解によれば、普通唱導集時代
の大将棋に嗔猪と、猛虎、飛龍が有るのは、定説や
唱導唄の内容から証明済み。恐らく鬼門の守り神の
システムに合わせるため、牛、狼、猫、豹駒の中では
猛牛だけが存在。鼠と兎駒が無く、嗔猪と飛龍が脇固
めになっているのは、鼠や兎では、合戦のキャラとし
て小型で弱い動物に、なりすぎるために外した、との
論であった。
 今回はずばり、

これは間違いだった

という内容の話をする。鼠と兎駒が無い原因は、正確
には、本ブログの見解は理由のうちの一部でしか無く、

主力原因は、別に有った

というものである。回答から書いて、説明をいつもの
ように、その後で述べる。

風水の方角の文字記号で、丑寅の”艮”と、角度で、
75度離れていて、方位の円周360°のの1/5の
角度の72°に近いので、亥である猪と、辰である龍
を使い、途中の子である鼠駒と、卯である兎駒は入れ
なかった

のである。
 では、以下に説明を加える。
 ようするに、猛牛と猛虎は、もろに鬼門方向の守り
神。嗔猪は、それらの神を作り出す相生の元神。飛龍
は、丑寅駒によって作り出される、相生の後神といっ
たところなのであろう。五行説では、しばしば方位を
表すのに使われる図形の円を使って、その中に角度で
72度で、木火土金水を入れれば、五行説の相生を図
形として表す事ができる。特に、この表現は日本で流
行ったと、私は聞いている。そこで、
どれでも良いが、たとえば火の所が鬼門の艮だとする
と、そこから風水で表した、方位の円を、五行説の説
明図形の円と同一視すると、火を生じさせる木がある
点から、方位の円に見方を変えて角度の3度手前に、
亥の中心が有るし、同じく火から生まれるとされる、
土がある点から、方位の円に見方を変えて角度の3度
先に、辰の中心が来る。元々24方位の風水方位記号
で、艮なり亥なり辰の占める幅の角度は、角度で
±7.5度で角度の3度より大きいから、

木の位置に猪の亥が有り、火の位置に艮が有って、艮
は丑寅に挟まれており、土の位置に龍の辰が有る

として、良い事になるという事だろう。つまり、

子の鼠と、卯の兎は、艮の位置からみて、五行の1コ
マ分の角度の72度に、まだ達しないので、普通唱導
集大将棋の2段目小駒に、加えなかったという理由付
けが成り立つ

というわけであろう。
 むろん、大大将棋を見ても判るが、鼠は弱そうなネー
ミングであり、成りを”古蜀国のホトトギス”と洒落
る事によって、ようやく入った駒であり、兎に至って
は、和将棋で、走兎が入るまでは、兎駒は作れなかっ
た事から見ても、

将棋の駒として作りにくい、弱すぎる動物ではあった。

だから、風水の方位と五行の配置から来る角度の72
度間隔を口実にして、虎と牛の他には、猪と龍が有れ
ば、普通唱導集時代の大将棋には、それで充分間に合っ
たというのは、鼠と兎が元々弱かったので、幸運だっ
た事も確かだろう。
 ただし、鼠と兎を入れなくても良いということに関
する

”理論付け”は、当時は陰陽道から持ってきた

と考えた方が自然だ。
 だから、それに気づかず、鼠と兎が入って居無いの
は、単にそれが弱い動物だったからだと考えていた、

本ブログには、基本的なミスが有ったと、言わざるを
得ないのも確か。

以上のように、結論できるように私は思う。(2019/03/15)

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飛龍。二中歴の超越は”跳”解釈として現行何故踊る(長さん)

前に述べた通り、二中歴と将棋纂図部類抄の間の時代に、
文章で大将棋のルールを記載した文献は、ほとんど無かっ
たはずである。とすれば、鎌倉時代から南北朝時代に掛
けてのゲームデザイナーにとって、拠り所は二中歴の大
将棋の記載しか、無かったと考えても良いはずである。
 ところで、二中歴には飛龍の駒の動かし方として、
”四隅超越”と記載されている。これは、

走りないし、跳びと解釈できるのに、現行は飛龍は踊り
として伝えられている。

この一見すると矛盾する、今に伝わるルールは、どうし
て受け入れられたのかを、今回は論題とする。
 最初に回答を、いつものように書く。

後期大将棋で歩兵下段に、飛龍を配列したときに、歩兵
下段には、正行度踊り駒か、走り駒を置くべきとの、ゲー
マーの認識から、飛龍の跳びが、踊りに切り替えられた

と考えられる。では、以下に説明を加える。
 まず、問題点の存在を、はっきりと認識する事が、こ
のケースは大切だ。
 飛龍のルールに関して、二中歴に”四隅超越”と書い
てあるから、鎌倉時代初期には、軽やかに遠くへ行くと
解釈されて、走りだが、近くでは止まれないようなニュ
アンスだっただろう。そして塞象眼ルールを、桂馬のルー
ルとの整合性を取るために止めたとすれば、3升目先か
らの動きは無くなって、跳び以外に、解釈しようが無かっ
たはずである。しかし、そうだとすれば、飛龍は、跳び
駒として、今に伝わるはずで、猛牛と前後左右が斜めに
置き換わった、踊りのイメージが、将棋纂図部類抄の、

鳳凰跳角不如飛龍

との旨の記載になって、現われるはずもない事だろう。
 何か理由があって、駒数多数将棋のゲーマーが、飛龍
駒の踊り化に、賛成したはずである。
 そこで大阪電気通信大学の踊りが、跳びも包含してい
るから、それで満足したという可能性が、まず浮かぶ。
 しかしながら、この諸将棋図式の踊りは、踊りという
日本語の自然な解釈とは、考えにくい。恐らくだが、
自駒は跳び越せない、広将棋や、本ブログが鎌倉時代
中期の踊りと表現する動きを、鎌倉時代末期の時点でも、
自然に認識したのではないか。

荻生徂徠の広将棋踊りは相手駒は跳び越せるので、その
点では踊りだが、自駒が跳び越せないため、自陣を脱出
しにくいと言う点で、今の踊り(大阪電気通信大学の踊
り)らしくはない。

当時は、踊りというと、素朴に2回繰り返しをイメージ
したのであろう。だから、当時の踊りは、二中歴の超越
を跳ぶと解釈した動きとは、

合わなかった

とみられる。では、どうして他のゲーマーを、
飛龍は踊りで、納得させられたのかと言うと、

歩兵下段には、普通唱導集大将棋の時代には、走り駒し
か置かなかったが、中将棋の時代になって、獅子が置か
れた

のと、繋がりがあるのではないかと、私は思う。つまり、
飛龍の現行残る踊りは、中将棋が成立し、実は後期大将
棋の元となる、大将棋の15升目化が始まったときに、
列の不足から、二中歴大将棋の時代の”歩兵列下の飛龍”
が復活した事と関連が有るように、私には思える。

飛龍を、奔王列に加えるために、大阪電気通信大学型の
踊り駒に、変える必要が有った

のではないか。
 中将棋には歩兵下段に獅子が居るが、普通唱導集大将
棋の時代には、獅子が居らず角行が2枚居て、より規則
性の有る、走り駒列だっただろうというのが、私の説だ。

逆に言うと、歩兵下列に大阪電気通信大学の踊り駒が居
るというのは、中将棋の成立期から、既成事実になった

とみられる。それどころか本ブログでは、
神奈川県鎌倉市御成町の遺跡から出土して、残念ながら
紛失、株式会社平凡社より1989年に発行された成書、
よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”文字のある生活”
P221下に記載されている事だけが、記録として残る、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札に記載され
た、最初の部分から、狛犬中将棋と言うべき、中将棋の
変種も存在し、狛犬駒の位置は、現在の獅子の位置と、
入れ替えであると見ている。そのため、

歩兵下の段に、現在の飛龍動きに類似の、正行度踊りの
狛犬駒が有る、将棋種が有ったと、考えられるのである。

 つまり元々の、歩兵下段には、走り駒が有るべきと
いう、西暦1300年頃の考えから、西暦1375年頃
には、正行度踊りか、不正行度踊りか、走り駒のどれか
を置くべきであって、

単純跳び駒では、さすがに弱すぎるので不可

に、代わっていたのではないかと、推定されるのである。
 そのように考えると、飛龍が二中歴で、動きが超越に
なっており、近くで止まれない走りか、跳び越えと解釈
できるにしても、二中歴時代の位置に飛龍を戻して

前者の含みを持たせながら、歩兵下段に置くには、跳び
では駄目

だったと考えられるのである。そのため、

狛犬のような踊りに、飛龍を変えたら、デザイナーは他
のゲーマーに、変更が受け入れられた

のではあるまいか。
 この事から、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札に記載され
た、最初の部分から、狛犬中将棋と言うべきものは、
中将棋に於いて、

やはり狛犬が、獅子の位置に置き換わった物である可能
性が高い

という、重大な知見が内包されている事が明らかとなる。
 少なくとも、

狛犬駒が歩兵下列に存在する、駒数多数将棋は、ずっと
後代の泰将棋と大局将棋以外、現行は知られて居無いが、
南北朝時代には、実際にはそのような例が別に有った
疑いが有る

という興味深い情報を、現代に残る、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄の飛龍駒のルールは残しているのだろう。

鳳凰跳角不如飛龍

の水無瀬兼成の表現は、その点でかなり、重大な情報だっ
たように、私には思える。(2019/03/14)

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将棋ルール書は二中歴と将棋纂図部類抄間に余り無い(長さん)

将棋のルール情報書は、今の所まとまったものとして
は、表題のように、平安時代末の情報とみられる、貴
族用書、二中歴から、安土桃山時代末の水無瀬兼成著、
将棋纂図部類抄まで、400年位飛んでいるとみるの
が、一般的だ。その間は普通唱導集と、先だって本ブ
ログの見解では、確認と表現された、鎌倉市御成町の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の”中将棋木札”
の2情報に、駒に刻まれた打点、ルールの中に使われ
る熟語の一言だけが、出て来る文献等は除いて考える
と、まとまった物としては限られている。今回は特に、
冒頭の2書のような、成書の形の古文書が、間に多数
有ったが、失われた可能性が、どの程度有り得るのか
を、大胆だが推定する。
 結論から述べる。

余り無かったのではないか

と、本ブログでは見る。理由は、日本人には普通、

特定のゲーム種名という言語の意味を、同じ民族の他
人に伝える必要性が、鎌倉時代から戦国時代の、いわ
ゆる”南蛮人の渡来”の時代まで、ほぼ無かったため

というのが原因として有ったのではないかとみる。
 では、以下に説明を加える。
 まず、戦国時代の頃には、戦乱が続いていたから、
記録が失われたという可能性が、全く無かったとは言
えない。しかし、こうした文書の存在は、皆無とは証
明できないものの、ほとんど無かったのではないかと、
私は思う。

遊戯は、頭でルールや内容を覚えておき、歳取って、
明月記ではないが”ルールを忘れ、それで出来なくな
ればそれで終わりで良い”

というのが、日本人の感覚だったはずだ。たとえば、

”日本の辞書の歩み”辞書協会編”国語辞書の歩み”
金田一春彦著、1996年に、

国内の国語辞典の最初は、江戸時代の18世紀末に
成立した、太田全斉の著書(?)とされる俚言集覧
が最初で、それ以前に日本人が、
国語辞書(日日辞典)を作った記録が無い
とされるからである。
 上記の同じ文献によると、日日辞典ができたのは、
ポルトガル人により、日葡辞典が江戸初期にできたの
がきっかけとの事のようである。つまり、日本人は、

普段使っている日本語の熟語等の意味を、単一民族か
つ、戦国時代中期までは、交易範囲も限られていたの
で、他人に聞かれるケースが、余り無かった。

そのため、将棋等の遊戯については、ゲーム名と内容
を頭で理解していれば、本人にとっては、それで良く、
ゲームのルール等で、ゲーム名で示したゲームの内容
を、特に”文字で伝達する必要性”はほぼ無かったと
見られる。
 だから、ゲーム性能が低く、しかし教養として、
懐中の手帳には書いておかないと、まずいとみられた
二中歴のケースは別として、

将棋のルール本の著作は欧州人と接触するまでは不要

だったのだろう。だから、西暦1190年頃の平安大
将棋(二中歴大将棋)の時代から、西暦1590年頃
の将棋纂図部類抄の、六将棋の時代の約400年間に、

将棋のルール本の著作が多数有るとは、期待しにくい

と考えられる。
 以上の結論は、やはり辞書・辞典類の歴史に関する
一般向けの金田一春彦等著者の、前記文献の内容が、
今の所決め手のように思える。
 そもそも、平安時代末に自明だった、囲碁や盤双六
は、そのため、二中歴にはルールさえ、記載されなかっ
た。ゲーム性能に関して後発の日本の将棋が、かろう
じて二中歴に記載されたのは、例外的な幸運だった
と考えてもよさそうだ。
 水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、中将棋後注釈部、
仲人の項目冒頭の、成りに関する一文が、二中歴記載
の大将棋の、判読困難な最後の十文字と内容的に、
類似の調子合わせに見えるのは、

水無瀬兼成も、文献で知っているのは、二中歴と、
他に僅かな情報だけでしか無い事を、やはり示唆

しているように、私には見えるのである。(2019/03/13)

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幸田露伴将棋雑話の”将棋と荻生徂徠”の広将棋情報(長さん)

以下、創樹社の塩谷賛氏の露伴と遊び(西暦1972年)
の幸田露伴の将棋雑話(原文西暦1901年)、
”将棋と荻生徂徠”の口語自由訳からの情報である。
 ここでは、
第5代大橋宗桂が、荻生徂徠の広将棋に関して、ようす
るに、「”(広将棋のルールに関して)つまらない”と
言ったと伝わる」という点につき、

大橋宗桂(第5代)の発言の真偽につき偽の疑いがある、

という観点について述べる。

近世の日本将棋名人の言う事だが、あてにならない

という意味である。
 まずは、塩谷賛氏の露伴と遊びの幸田露伴の将棋雑話
”将棋と荻生徂徠”には、箇条書きすると次の内容が、
文学的な感情表現をちりばめながら、述べられている。
①荻生徂徠には、日本将棋に関して、当時の初段の棋力
が有った。
②広将棋譜という書物という書があり、それは荻生徂徠
が著者である。
③広将棋譜に片山兼山が序文を書いている。ようするに、
指すと面白い、優秀なゲームであるという内容である。
④大橋宗桂(大橋家第5代、名人)が、
”ゲームをデザインするときに、私をデザイナーに加え
るべきだった”と、述べたと言う事である。
⑤④に加えて大橋宗桂(大橋家第5代)は、
”ゲームとして広将棋は出来が悪い。私が加わったら、
もう少し改善されただろう。(この将棋は、ゲーム性能
が悪いために流行って居無いようだが、)私をゲームデ
ザインに参画させていたら、私の力により、現行より流
行ったことだろう。”との旨、述べたと言うことである。
⑥天明・寛政の時代に、江戸の小網町に居した毛塚源助
(将棋棋士)の著書(不明)の巻末に、
荻生徂徠は広将棋を古川章甫に伝え、そこから息子の、
婿入りした市川章甫、市川章甫から、片瀬佐右衛門・
島田久兵衛・松屋源衛門以上3名には伝えたという。
毛塚源助は、島田久兵衛(将棋棋士)から情報を得た。
⑦広将棋をデザインするときに荻生徂徠は、童蒙の軍伍
名を主に使った。
⑧駒の種類としては、左右非対称駒が出てきたとき、
参謀と高道を落としているが、幸田露伴も駒名をほぼ
全て、将棋雑話で紹介している。ただし駒の動かし方
ルールや、成りについては、将棋雑話には記載が無い。
⑨伝えられたルールで、2回同じ動きを繰り返す系統の
駒と、霹靂の駒の動かし方のルールにミスが、近世ない
し近代になって発見され、指す事が不能になった。
 蛇足だが、西暦2027年年末の、著作権切れが、こ
の塩谷賛氏本についても、待ち遠しい所だ。
 以上の内容について以下議論するが、

ここで話題にするのは主に④⑤⑨である。

結論から述べると、

ゲームデザインの能力は、特定の隣接するゲームの棋力
とは、完全には相関しないだろう。だから、第5代大橋
宗桂の評は、あてにならないだろう。

確かに、ゲーム性能が悪いとしたら、ゲームは流行らな
い。しかし、ゲーム性能が良いとしたら、古文書で残し
ておけば、後世流行るだろうから、

名人の威光は後世については、ゲーム普及上、必須な事
とまでは、行か無いのではないか

と、少なくとも本ブログでは考える。
 また、

広将棋は、荻生徂徠がデザインした時点では、伝えられ
たルールよりは、ましだった可能性がある

とも、ここでは考える。
 では、以上の本ブログの考えについて、以下に少し述
べよう。
 まずもってだが、

この将棋は、弓・弩・砲・仏狼機駒の存在に特徴がある。

また、更に大切な事は、
元々、この系統の将棋は攻撃力過剰なのが常であるが、
戦闘が、弓等駒が歩み駒であり、歩みでは遅いために、
攻撃に手数がかかり、

将棋の局面の進行がスローである事によって、人間には
攻撃力過多な弱点が、余り見えないゲームになっている

という状況がある。
 この点で、攻守のバランスが取れる将棋を、デザイン
上自明で目指す、日本将棋とは、

大きな違い

がある。だから、
ゲームデザイナーとしての力は、日本将棋の名人と、こ
の種のゲームのゲームデザインに慣れている、荻生徂徠
のようなゲームデザイナーとの間で、

ほぼ、イーブンの疑いが強い

と私は思う。

だから、大橋宗桂(第5代)の言は、その点で、今紹介
した以上の、発言内容に関する記録が残っていないのな
ら、その言と称する話の内容は、あまりあてにならない
ようなものであろう

と、私は思う。
 ただし、大橋宗桂(第5代)の活躍した時代に於いて、

名人の威光でその時代に広将棋を指す棋士の数は増えた

という事は確かかもしれない。だから18世紀初頭につ
いては、大橋宗桂(第5代)作だと表したら、荻生徂徠
だけよりは、流行ったというのは、正しいかもしれない。
 次に、荻生徂徠オリジナルの広将棋については、定か
ではないと認識するが、

ひとまず、車が1歩後退配列で2走、砲でもそれは取れ
ずにした上で、更に小駒による取って成りルールについ
て、徂徠も、生前色々検討してはいた

程度のものだと仮定しよう。すると、この広将棋のゲー
ム性能については、

オフェンス大過剰だが、手数が掛かって、進行がスロー
なので、人間には尤もらしく見える、良い出来だった

という状況なのではないか。つまり、

弓・弩駒のルールを複雑にした分の見返りが、完全にあ
るのかどうか、までは謎

だと私も思う。が、摩訶大大将棋より、大きく上品とも
言えないが、劣るとも言えないのではないか。つまり、

記録が完璧であれば、幸田露伴の紹介した広将棋は、
恐らく完全消滅は免れた状態

だったのではないかと、本ブログでは考える。
 次に、幸田露伴が、今述べた記録(広将棋譜愚解)で、
”2回同じ動きを繰り返す系統の駒と、霹靂の駒の動か
し方のルールにミスが、近世ないし近代になって発見さ
れ、指す事が不能になった。”という内容を、将棋雑話
に書いているようだが、

幸田露伴は、ガセネタをつかまされた

と、本ブログでは考える。内容から見て、
自分の駒を1回目に跳び越せないという、広将棋特有の
2回繰り返し駒のルールは、それの出来る、大阪電気通
信大学の踊りルールと違うという”エラー”とかつて認
識された内容が、恐らく”難”に関する、言いがかりの
内容であろう。そしてそれが口実で、皆が指さなくなっ
たと言う意味に、私はこの露伴文を読む。しかしこれは、
露伴が他人の情報から、得て書いたものだとすれば、

いっぱい食わされたのであり、滅亡に関する言いがかり

だ。実際には、自駒第1歩目通過が出来るかどうかで、
攻守バランスが、大きく変わらない。むしろ、騎総の
現行の”鎌倉時代踊りルール(本ブログ推定)”とほぼ
同じとみられる、”踊り”の言葉の日本語の、自然な意
味から来る、広将棋の2回繰り返し駒のルールは、間違っ
たと指摘した場合に、20世紀初頭に考えられた正しい
とされた踊り、すなわち、大阪電気通信大学踊りよりは、
自陣から出にくくなるだけ、生き残った

広将棋の踊りの方が、よりまし

だと私は思う。つまり、
幸田露伴は、将棋雑話を執筆する時点で”広将棋譜愚解
には、ゲームルールの伝来ミスがあるようだ”との情報
を掴んだものの、

理由に関する内容が、間違い

だった。その為に、正確な滅亡原因がつかめなかったと、
考えられると言う事である。
 しかも、広将棋譜愚解のルール内容と、荻生徂徠オリ
ジナルな消失したルールを、ごちゃ混ぜに論じているし、
恐らく、我々には既に謎で当否不明な、オリジナルルー
ルを評していると見られる、第5代大橋宗桂のコメント
を、今では誰も判らない事に気がつきにくい、読者が読
む文面に、注釈無く挟んでしまったために、

荻生徂徠には、将棋のゲームデザイン能力に限界がある

という印象を、将棋雑話の読者に、強く与える結果だけ
に終わってしまったようだ。
 しかしながら岡野伸氏の”中国の諸象棋”を読む限り、
近年では荻生徂徠の広将棋は、荻生徂徠没後、数十年経っ
た頃の再現品と見られている。だから、

荻生徂徠のゲームデザイン力が、実際にはどの程度であっ
たかは、完全に判る史料は無い。

以上の点に、少なくとも注意する必要が有るという点が
大事なように、やはり私には、思えるようになったので
ある。(2019/03/12)

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車が一歩後退して、5走でなくて2走の広将棋のチェック(長さん)

前に述べたように、荻生徂徠の広将棋は、荻生徂徠が他界してから
40~50年後に調査され、広将棋譜愚解で、ルールが記載された
ものが、現在残っている。このゲームには(イ)駒の騎総が、簡単
に序盤、相手陣に突入できる不自然が先ずある。それと、(ロ)弓
や弩類が、それぞれ存在する時点で、同類を攻撃して、獅子に関す
る特別な規則のない中将棋のように、中盤初期に相討ちになってし
まうので、弓・弩・砲・仏狼機は、有っても無くても最初から、
違いのない駒になってしまう、という問題がある。特に後者(ロ)
は、

車には、弓等射駒類の互い取りを、遮蔽して調整する機能が有るに
もかかわらず、序盤で消耗するのでその役が果たせて居無い

と言う点から発生するとみられる。そして(イ)と(ロ)は、

車の初期配列位置が1歩前過ぎなのと、動きが5走では、互い取り
が、出来すぎるため、2走程度が適切なのに、そうなっていない

という問題から来ると見られるものである。そこで、砲でも車類、
すなわち、
①車、車総、砲車、神機車は、砲では射れない。の他(ロ)対策で、

②車は縦横2走りとし、

③砲車も縦横2走りの、5路以内、跳び越え可能な射。
④神機車も縦横2走りの、7路以内、跳び越え不可能な2枚射。
以上4箇所ルールを変え、更には(イ)の対策として、

車と車総の初期位置を、全部6段目ではなくて5段目に変えて、

この将棋のチェックを行った。
 初期配列は、先手からみて左袖と中央から右袖側を、2つに分け
て示すと、車と車総の位置だけが、オリジナルとは違い、次のよう
になる。
(左側半分)
前衛,高道,軍匠,軍吏,舎餘,舎人,力士,親兵,記室
後衛,百総,口口,把総,口口,千総,口口,護兵,口旗
口象,口砲,口弩,口弓,口象,口砲,口弩,口弓,口象
騎総,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵
車総,歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車
口口,牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
車総,歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車
騎総,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵
口象,口砲,口弩,口弓,口象,口砲,口弩,口弓,口象
後衛,百総,口口,把総,口口,千総,口口,護兵,口鼓
前衛,神僧,軍匠,軍吏,舎餘,舎人,力士,親兵,記室
(中央列から右側)
口将,参謀,親兵,力士,舎人,舎餘,軍吏,軍匠,神僧,前衛
中軍,口鼓,護兵,口口,千総,口口,把総,口口,百総,後衛
仏狼,口象,口弓,口弩,口砲,口象,口弓,口弩,口砲,口象
口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,騎総
歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩総,車総
牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
先鋒,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
先鋒,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
牌総,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口,口牌,口口
歩総,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩兵,口車,歩総,車総
口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,馬兵,口口,騎総
仏狼,口象,口弓,口弩,口砲,口象,口弓,口弩,口砲,口象
中軍,口旗,護兵,口口,千総,口口,把総,口口,百総,後衛
口将,参謀,親兵,力士,舎人,舎餘,軍吏,軍匠,高道,前衛

エクセル画像だと、以下のようになる。

広将棋車1下初期.gif

結論から述べる。

ほぼこの変更で図星であり、前記の各変更を、広将棋譜愚解ルール
に施すと、かなりゲームが改善される。

では、ルール変更したゲームの状況を、以下に更に詳しく述べる。
 以下は、中盤の駒の取り合いが始まって、すこし進んだ局面だが、

広将棋車2走途中.gif

①騎総は相手陣を荒らす前に消えているし、
②車駒が、両軍にまだ何枚か残っている。

車が6段目に無いので、車自体が離れ駒にならないので、騎総は、
指し始めから出してみたが、大きな成果が上がらなかった。
また、車同士の取り合いが、2走では相当たりが余り起こらないの
で、これ自体が仏狼機でしか射られない特徴があるため、この少し
後に、弓、弩、砲、仏狼機を繰り出すと、有効に遮へい駒として作
用した。
 その結果、

狙い通り、弓等射駒の消耗率が、広将棋譜愚解ルールよりは減少し
て、ゲームとしては、出来の良い方向に改善

される事が判った。
 どうして、消耗率が減るのかを、より詳しく述べると次の通りで
ある。

この改善により、仏狼機の相対的な力が、砲に対して低下

した。理由は、仏狼機の射るルールが、砲と異なり、

跳び越え不可能なため

である。その結果、

7路先までの相手駒を2枚づつ射る仏狼機が、砲で撃たれやすい

という状況が生じたのである。そのため、局面が進むと、盤面に、

7路先まで射る仏狼機が無くなり、最高で砲の5路先になった。

その結果、

射る駒同士の同士討ちが、起こらないで特に砲が、すり抜けられる

ようになったのである。その結果、終盤まで少数の特に砲が残るよ
うになり、この将棋の

終盤に、多様性が発生して、ゲームの状態が良くなった。

以上のようである。
 従って、やはり、
広将棋譜愚解は、4段目以降の駒のルール、特に車のルールに問題
があり、

千葉県野田市せきやど図書館の、ルールの4段目以降が抜けている
広将棋譜愚解は、ルールの再現の不都合と、何らかの関係がある

のかもしれないと、疑われるようになった。
 とりあえず、以上のようである。その他に気がついた、この将棋
のルールに係わる点としては、成りが弱い点が挙げられる。現行知
られたルールでは、相手陣に入ると成る以外に、

①相手玉駒系を取った時に成る。
②力士、龍驤、招謡、霹靂を取った時、歩み駒が成る。
③仏狼機を取った時、馬兵が成る

がある。
が、これらだけでは成りヅラすぎる感じがある。

④1~2段目に配列されている、千総、把総、百総以外の駒は、
相手の走り駒、2回動きを繰り返す駒を取っても、成れて良い

ように思えた。元々これらの下段駒には、成りに特長があり、現行
伝わる、成りの条件に関するルールだけでは、

成り駒の動かし方のルールを覚える事自体が、徒労に近くなる

からである。
 尤も、いろいろいじると、内容がごちゃごちゃして、比較的ルー
ルの複雑なこの将棋の指し方が、益々複雑になるので、今回は、以
上の程度の指摘に、留める事にしたい。(2019/03/11)

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荻生徂徠の広将棋。荻生と広将棋譜愚解の差は車と車総か?(長さん)

前に、荻生徂徠の広将棋の、荻生没後40~50年後に
書かれたルール本、広将棋譜愚解の、千葉県野田市の
図書館、せきやど図書館蔵本の、2ページ落丁の謎につ
いて話題にした。
 広将棋については、(1)騎総が強すぎて、相手陣の
仏狼機の只取り筋が、指し初めに生じるという問題と、
(2)弓、弩、砲、仏狼機駒等が、ほとんど相討ちにな
り、終盤まで1枚も残らない事の多い、不自然さがある
点以上二点について、本ブログで問題にした記憶がある。
荻生徂徠のゲームデザイン力が、政治学の本職に比べれ
ば、たいしたことがないというニュアンスで、あのとき
は済ましてしまった。しかし最近、没後40~50年後
のルール本の一部、せきやど図書館本に乱丁があるのを
見て私は、荻生徂徠の広将棋は、没後40~50年後に、

ひょっとして、再現に失敗した箇所があるのではないか

と、私は疑うようになってきた。
 今回は、ずばり、荻生徂徠の広将棋を、少し後代の関
係者が再現するときに、何処が間違っていたのかを、論
題とする。
 回答から書くが、証明は次回以降にしようと思う。
では回答を書く。

車と車総の初期配列が、全部1段高い。荻生は6段目で
はなくて、5段目に配列していた。
また、車のルールが違う。5升目走りではなくて、2升
目走りが、オリジナルだった。

なお、欲を言えば、砲の射るのルールを変え、
現行の碑、車、車総、砲車、神機車射れるを、
碑射れる、車、車総、砲車、神機車は射れないので、弓
類駒相取りの車が残って、更に邪魔になるを、入れたほ
うが良いかもしれない。
 では、今回は車のルールが”臭い”という証拠を、以
下に指摘しよう。
 まず騎総で、相手仏狼機が、序盤最初に簡単に狙えて
しまう理由を考える。これは、初期配列で、7筋6段目
の車が、浮いているからである。車が全体として1歩、
後退した位置に初期配列であれば、仏狼機の騎総による
トン死は、生じないのである。だから車と車総の初期配
列を、再現のときに間違えた疑いがあるように、私には
思える。なお話が中断するが、国文学研究資料館の、
新日本古典書籍データーベースにある、広将棋譜愚解を
見る限り、騎総は後戻りできない(居喰いは出来る)と、
後段に書かれており、世界の将棋の表現が厳密に合い、
岡野伸氏自身の中国の諸将棋での解説と、wiki-
pediaの表現は、散漫なように私には見える。この
駒は居喰いできるが、”空升目跳び返り”は禁止と書い
てあるようだ。

馬兵成り騎総.gif

 次いで車の初期配列の、間違い仮説の傍証としては、
広将棋の初期配列の空升目は、桂馬跳び模様になるのが、
本来なのではないか。そうなっていないのは車と車総を、
1段高く配列している間違いが原因のように、私には見
える。
 次に、車や車総は、射るの例外ルールで、弓や弩の、
本来邪魔駒になり、相取り等が、歯止め無しに起こるの
を、避ける働きが備わっているはずである。しかし実際
には、車駒に関して、その性能が全く発揮されて居無い
理由を考えてみる。これは簡単で、現行の5升目走りが、
強すぎて、車同士の相取りが最初に起こってしまい、
相手の弓や弩や砲が、繰り出されるまでには、車自身が
消えているからだ。
 だから、
広将棋に関する広将棋譜愚解の、車の5升走りルールは

不自然

だ。2升目しか走れないとすれば、中盤まで、前段にあ
るのが原因の、互い取りが起こりにくくなり、その結果
消えずに残るので、弓や弩や砲、仏狼機同士の、単純な、
中盤の互い取りの、邪魔をする働きを、強くしたはずな
のである。だから車のルールは、5升目走りではなくて、

縦横2升目走りを、荻生徂徠は考えていた疑いがある

と私は思う。
 この事に関しては、次のような傍証もある。
 砲車や神機車の”5升目走り、前者の5升先まで射る
と、後者の7升先まで2駒射る”の、”5升目走り”は、

過剰だ。

2升目程度、砲車や神機車が走れれば充分な事は、実際
にゲームをしてみると直ぐに判る。
 砲車の車、神機車の車が、車だったので、動きをそれ
に掛けて、車と同じ形にしようとしているのだと、私は
思うのだが。後世の再現者は、そもそも車のルールを間
違えていたから、これらも間違えて、こうなったのでは
ないのか。
 そして5升目を2升目走りに変えれば、車の方は、冒
頭で述べたように、序盤に互い取りしにくくなる。する
と、碑と同じように、中盤まで車が残るようになるので、
少なくとも弓と弩が、すき放題に、相手駒を射る事が、
よりできにくくなるような気がする。
 それでも砲は、車を射れるから、砲同士の互い取りは、
従来通りだろう。それなら、火砲は、車や車総や、砲車
や神機車という、車の付く駒は、いっそ射れなくしたら
良いのではないか。そうすれば、車が目障りになり、砲
の射る働きも、従来よりは少し弱まるだろう。
 これで、近々広将棋をチェックしてみようと思ってい
る。結果は、そのときまた紹介しよう。
 何れにしても、車や車総のルールは、千葉県野田市の
せきやど図書館蔵の、広将棋譜愚解で抜けている部分に
あり、これで広将棋が改善されるようなら、抜けた原因
は、検討中であったものを、その他の場所で、リークし
て無理やり公にしてしまい、そこに間違いが有ったので、
広将棋そのものが、完全滅亡してしまったという、
荻生徂徠にとっては不運だが、名誉は回復されるという
ストーリーに、将棋史上の解釈は、将来代わる可能性が
有り得ると言う事になるだろう。(2019/03/10)

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洛中洛外図舟木本碁盤屋の黒碁石ケースは日本碁盤の元?(長さん)

国立博物館に、洛中洛外図(舟木本)という、屏風図が
あると聞く。調べてみると、左隻第1扇の上の方の右隅
に、マル8という碁盤屋が書いてあって、双六盤と囲碁
盤、碁笥と黒白の碁石が描かれている。江戸時代初期の
成立の絵画との事で、囲碁盤は、蓮座型の普通の囲碁盤
の足が描かれ、路は9路程度にデフォルメされている。
 問題は、下の図で、右の方の囲碁盤や双六盤ではなく
て、左の碁石の陳列ケースのデザインだ。

洛中洛外図.gif

黒碁石が、円形に近いショーケースに幾つか乗っている
ような絵が描いてあるのだが、このシューケースには、
赤い印を、私がつけたように、少なくとも2本

蓮座の足と、ひよっとすると囲碁の線のようなものも書
いてある

ようにも見えるのだ。私見だが、

丸であって四角くない

囲碁盤の上に、黒碁石を集めて、ほぼ隙間無く並べている
ようにも見える。

これはいったい、何なんだろうか。

ちなみに、その右に白碁石を載せたケースも見えるが、
お盆の上に置いているようにも見えるし、黒碁石のショー
ケースと繋がっているようにも見えるし、よく判らない。
が、こちらには、足と升目線は明らかに無い。だから、

黒碁石を載せた、ショーケースのようなものだけ問題

だと思う。
 問題のショーケースの足は、右の方に書いてある囲碁盤
のように、黒碁石陳列ケースでは蓮座なのは、間違いない
ように見えるが、黒碁石陳列ケースの盤線は、右の方だけ、
薄く見えるような、見えないようなで、

私には、はっきりしない。

なお上図は私の腕のせいだが、実物はもっと鮮明である。
 黒碁石の並べ方が、あたかも下の縦横線に合わせている
かのようで、ランダムに置いただけにしては、ラインが、
揃いすぎているようにも、私には一応見える。
 結局幾ら見ても私には、この陳列台が何なのかは謎だが、
囲碁の縦横線が引いてあり、その点で、全体の形が四角柱
ではなくて、円筒形であるという、囲碁盤類似の物体だと
仮にすれば、

仏像のような、底面の円に近い物体を置く台を、囲碁盤に
転用したようなものがモデルの、陳列台

だったのかもしれないとも私には思えた。ひょっとして、

絵師が、日本型、蓮座脚の囲碁盤が、仏像の台座の転用で
ある事を知っていて、カッコ付けにこのように絵を書いた

のだろうか。
 平安末期から鎌倉時代の初期にかけて、寺で戒律違反だ
と言われるので、こっそり囲碁を指すとき、仏像を置いた
台座を使い、仏像をどかさないと、囲碁盤だと判らないよ
うにしておいてから、御偉方が居無いときに、下っ端の
坊主たちが”囲棋”をしたのが、今使っている典型的な
日本の将棋盤の原型だと言うような事も、ひょっとすると、
有り得るのかもしれない。なお、この屏風図には、他にも
僧侶の戒律違反を書いた箇所(18禁)があると、成書等
で紹介されている。そのような点を合わせて、絵師が僧侶
に対して、あまり尊敬の念を抱いていないとの印象から、

僧侶の戒律違反に関する、情報の収集に興味が有って

このような絵を、実際にもショーケースを見かけたのだろ
うが、たまたま描いた。今回この屏風図を見てからは、私
は上記のように、この絵を疑うようになったのである。
(2019/03/09)

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荻生徂徠は11C酔象動き無知だが興福寺酔象は角行(長さん)

以前本ブログで荻生徂徠の広将棋を取り上げ、象の
ルールがビショップと同じく角行動きなのに、感嘆
を表明した事があった。今回は、荻生徂徠が何処か
ら、この情報を得たのかについて再度検討を加える。
最初に結論を書く。

荻生徂徠は朝鮮チャンギの象の縦横歩みからの2升
目制限された走り、2升目限定止まり(塞象眼有り)
ルールや、七国将棋の騎のルールで、縦横歩み、つ
いで斜め制限された走り0~3升目行きルール(本
ブログにより修正)が、”元々は象が角行動きだっ
たために、ゲーム種により、さいしょに象駒を調整、
のちに、馬駒と象がチャンギでは同化したため、馬
駒へも波及し、象と七国将棋の騎では、以上のシス
テムに基づいて、歩数調整したものである”、
との旨の情報を、清王朝時代の李氏朝鮮のゲーム史
本を見て知っていた。そのような、ゲーム史本の情
報が、朝鮮半島経由で日本に流入した事を示す

と考える。逆に言うと、11世紀に興福寺で、酔象
が、どのようなルールで指されたのかを、知ってい
るわけでは無かったと考えられる。
 では、以上の結論につき、以下に説明を加える。
以上の問題を解くポイントは、

広将棋で象が弩、砲、弓と同じ段に並べられている

という点だと本ブログでは見る。そこで、その事実
を使用して、
荻生徂徠は、”自身の作成した広将棋で象の動きを、

①インド→中国→朝鮮半島→日本と伝来した、
チャトランガ11C象動きからチャンギ象の成立に
関する謎解き文書を参照した。
か、または
②インド→雲南→日本の興福寺と伝来した、
原始平安小将棋大理国バージョンの象ルールの口伝
を参照した。”

のうちで、どちらが正しいのかを、推定してみる。
広将棋の、

 弩・砲・弓が、朝鮮チャンギの象の最初の縦横を、
斜めに変更した上で動き先、次の斜め走り(2升限
定止・塞象眼有り)を八方5、5、3、升先射る
(砲だけ跳び越えあり)に交換して作り上げた

ものだと見れば、

元ネタが、大陸の文書であり①が正しい

事は明らかだ。
 ただし、大陸の、”元々は象という駒は、その走
り升目を、インドの4人制チャトランガの時代の2
人制チャトランガの角行走りから、升目数を∞では
なくて、2に調整したものであり、調整はイスラム
教徒によって行われた(本ブログ推定)”という、
推定されるこの、中国→朝鮮半島→日本という経路
で伝来したとみられる情報は、

中国シャンチーが成立する以前の、西暦1058年
日本の興福寺の酔象の時代には、中国の北宋王朝に
は、辛くも無かったと考えられる。

 つまり、イスラムシャトランジ動きの、
2升先跳びの象は、中国には無いわけだから、

興福寺の1058年酔象木簡の酔象は、角行動き

だったと、結論せざるを得ないと、本ブログでは、
推定するという事になる。
 清王朝時代には既に、ゲーム史の研究が有ったと
みられる事から、荻生徂徠は、象の動きを朝鮮半島
から伝来した、チャンギの成立論に基づいて、たぶ
ん作成したのだろう。
 しかし、西暦1058年にはまだ、中国シャンチー
も、完全成立はしていなかったはずだから、今の所

興福寺の木簡の酔象のルールは、荻生徂徠の象と
同じく角行

と考えざるを得ない。以上のように、本ブログでは
考える。(2019/03/08)

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古代中国の17路囲碁盤には聖目が無いようだ(長さん)

以前本ブログでは、将棋の聖目は、古代中国の17路の囲碁盤
に、5・4・4と、9つの星が付いていたのが起源ではないか
との旨、述べた事があった。しかし、

どうも、これは間違いだった

らしい。中国の古代の囲碁盤について、17路のものを書いた
絵画が、ウイグル自治区のトルファンのアスターナ古墳で発見
され、その囲碁盤には、

聖目(星)が書いていない

ように見えるためである。
 絵画は、日本の江戸時代の浮世絵に、似たような構図のもの
があるが、美人が一人で、囲碁を研究しているようなものであ
る。”仕女奕棋図”とか”囲碁仕女図”とか、言われている
らしい。唐代のシルクロード沿いの節度使が、トルファンを
支配した時代のもので、日本で言うと、飛鳥時代の末期から、
奈良時代に掛けて、7世紀から8世紀頃の絵画らしい。
 絵の全体の特徴は、美人が日本の正倉院の鳥毛立女屏風に
似ている点が特に、今の美術史では著名らしい。成書では、
”正倉院への道”米田雄介ら、雄山閣出版、1999年等にも
2箇所で重複して紹介がある。我々にとっては、碁盤・遊戯盤
が、どう書いてあるかの方が、美人の姿よりも肝心だが。
 そこで、囲碁盤だが、列が16路、段が17段のように見え
る。脚は正倉院の宝物の、囲碁盤と同じく古代の床脚である。

仕女奕棋図.gif

碁石が書いてあるので、判断が難しいが、聖目が書いてあるよ
うな形跡は無い。

列の路が1筋少ないが、17路盤を書こうとしたと、一応推定
できる。しかし、升目として見方を変えて、

升目を4つづつ、4つのグループに区分けするような、聖目を
書いたとの、証拠は、少なくともこの絵からは、見出せない。

 前の議論は、新安沖沈没船出土将棋盤(?)の、升目が15
の盤で、後期大将棋の将棋盤風に、升目群を5升目ごとに、
3区分しているように見えたため、その以前に中国に、古代の
囲碁盤の路を、17路であるから16升目と見方を変えて、
4升目で塊を作って、4つで16になるように、聖目が書いて
あるものがあって、それがデザインの元かと、私が思ったと、
言うものであった。しかし実際に、17路囲碁盤ではないかと
思われる、中国系の古代”囲碁仕女図”の盤を見てみると、

そうでは無いとする、史料が、少なくとも1つは有る事を示す

ようである。
 東福寺難破船(新安沖沈没船)が、大陸との間を往来してい
た船であるため、15升目将棋盤(?)が、大陸文化の伝来物
のようなイメージがあったのだが。そう決め付けるのは、間違
いだった可能性も、有るようだ。
 更に、調べてみようとは思うが、

日本の将棋盤の聖目のパターンは、もともと国内起源である事
も、視野に入れる必要が、ひょっとすると有るのかもしれない

と見られるようになったようである。(2019/03/07)

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摩訶大大将棋。大阪電気通信大学ルール旧バージョン(長さん)

表題の件については、現行の大阪電気通信大学ルールに関し
ては、言うまでも無く、大阪電気通信大学高友幸研究室の、
”摩訶大将棋のブログ”のページで最近の項目に載っている。
 ただし、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、

水無瀬宮保存の巻物

に準拠したルールには、今のルールはなって居無い。

水無瀬の将棋纂図部類抄記載のルールに対して、高見友幸氏
が、”全部は正しいとは限らない”と主張

し出したからである。陰陽道との繋がりで不都合があるとの
考えが、高見氏にはある。詳しくは、該ブログの最近のペー
ジを参照されたい。ただし、

旧ルールは大阪府の島本町にある水無瀬宮保存の巻物に準拠
しているという点で、それはそれで貴重な研究成果

である。将棋纂図部類抄はたとえば関東圏では、江戸時代の
前田藩書写巻物しか、都立中央図書館等で入手する以外、入
手困難だからだ。
 他方本ブログでは、

大阪電気通信大学摩訶大(大)将棋の昔のルール

等の名称で、該旧バージョンの大阪電気通信大学高見研究室
ルールに、何回か言及してきた。
 最近、少し前まであった、旧ルールのページが削除された
ようなので、該旧バージョンの具体的内容について、以下に
示しておく事にしたい。
 内容がオリジナルと違っているとすれば、本ブログの記載
がチグハグになるはずで、原因は高見氏と本ブログの管理人
との間の、伝達時の問題と判るという効果も、期待できるだ
ろう。なお、丹念に読めば、高見友幸研究室の摩訶大将棋の
ブログの過去の記載から全て、旧ルールの内容については、
今の所は、判るといえば、わかるはずの物である。では、
早速記載を始める。
大阪電気通信大学摩訶大将棋のルール旧バージョン

摩訶大将棋、摩訶大大将棋の指し方

001.19×19の361升目の将棋盤の下から歩兵段
までで、6段に駒を並べる。7段目に仲人がおのおの2枚
づつ。6段目までが陣地であり、走り駒、踊り駒(後述)
と獅子・狛犬の成りルールに関係する。駒の総数は、相手
自分ともに、96枚ずつで、合計192枚になる。
終局条件について、駒枯れ・千日手引き分け、禁手負けが
無い限り、相手の玉将、自在王、王子を全て取れば勝ちで
ある。
002.取捨てで、持ち駒ルールは無い。ただし、提婆と
無明に、特殊な入れ替わりルールがあり、この駒の成った、
教王と法性は、玉将や王子、または同種の駒で取らない限
り、盤上から消えない。
003.成りは相手陣の6段目以内の、相手駒を取った
ときに、走り駒と踊り駒、獅子・狛犬が成る。成りは強制
で不成りは選択できない。ただし、麒麟と鳳凰は、踊り駒
だが、このルールに関して歩み駒に入る。桂馬と驢馬は、
歩みの類。夜叉、飛龍、猛牛は、踊り駒。
走り駒と踊り駒以外の、歩み駒、小駒の成りは、ルールが
違う。
004.麒麟、鳳凰、桂馬と驢馬および歩み駒は、相手の
駒を取ると、取る位置に関係なく成る。成りは強制で、
不成りは選択できない。
 以上の点が、日本将棋と大きく違う。
005.提婆、無明およびその成り駒の、教王、法性を
取った駒は、玉将と太子と自在王を除いて、相手の駒と
入れ替わり、
提婆か教王を取った駒は教王に、
無明か法性を取った駒は法性に
変化する。
このルールは強制で、変化しないを選択できない。
玉将と酔象の成りである王子で、これら4種の駒を取った
場合は、玉将は自在王に強制成り。王子は変化しない。
006.以下、踊りの動きについて説明する。
以下2、3、4・・の踊りとは、N踊りと表現する。踊り
では、可能な歩み動きをN歩繰り返して、達成される升目
に駒を動かした後に、間の駒のうち、相手の駒を任意に取
れるという動きを指す。ただし、途中経過する目に、味方
の駒が居ても通過できる。また、N踊りのケースは、1、
2、・・N-1歩目の升目には、N踊り駒は到達できない。
獅子、奮迅、狛犬、法性、教王等の例外を除くが、一般的
には通過して、N歩目の升目で止まれるだけである。
007.ここで、踊りのうちで、特にある方向だけに直線
的に歩む場合の踊りを、正行度の踊りと称する。特に言及
しない場合踊りとは、正行度踊りの意味で使う場合がある。
008.獅子および奮迅については、踊りが特殊で、
不正行度の踊りと表される。単位となる歩む動き1歩が、
定方向ではなくて、玉将の8方向歩みになるためである。
特に獅子と奮迅については、1不正行度踊り、2不正行度
踊りは何れも可能で、中身の詰まった踊りに例外的になる。
009.2不正行度踊りする動きで、2歩目が元の位置に
なる場合でかつ、相手駒を取るケースを特に居喰いと呼ぶ。
010.居喰いする駒は、獅子、奮迅のように1・2不正
行度踊り駒だけとは限らない。元々正行度の3踊り(中も
充填踊り)駒である狛犬も、不正行度踊りのうち、居喰い
だけは、不正行度で例外的にするという、特殊なルールが
ある。
021.玉将は最下段の真ん中に置く。八方歩み。
玉将は自在王に成る。
022.自在王は、盤面のどこへでも移動できる。ただし
自在王は、相手駒を取った時に、ただちで相手の他の駒で、
取り返される位置へは、取る相手が玉の類でも行けない。
023.王子がない場合、玉将か自在王が無ければ負け。
つまり玉将か自在王が無くても、酔象の成った王子が有れ
ば、この将棋では負けにならない。
024.玉将の左横に提婆を置く。反時計回りに横倒し
た金将の動きで、後退できない。
提婆は、前、左前、左横、左後ろ、右横の5方向歩み。
025.提婆は、相手の駒を取り教王に成る。
026.教王は八方に奔王の動きで走ると、八方3踊り
(ただし中身が詰まった)の狛犬の、主な動きを兼ねる。
入れ替えルールが適用される。
027.玉将の右横に無明を置く。順時計回りに横倒し
た金将の動きで、後退できない。
無明は、前、右前、右横、右後ろ、左横の5方向歩み。
028.無明は、相手の駒を取り法性に成る。
029.法性は八方に奔王の動きで走ると、不正行度
充填型2踊りの獅子の動きを兼ねる。入れ替えルールが
適用される。
031.提婆・無明について何れも横袖に、金将を置く。
金将は日本将棋の金将の動き。
金将は、前、斜め前、横、後ろの6方向へ歩み、斜め後
ろへ行かない。成ると奔金。
奔金は、金将の歩む方向に走る。
032.金将の横袖に銀将を置く。銀将は日本将棋と同じ。
銀将は斜めと、前升目の5方向に歩む。横と後ろへ行か
ない。成ると奔銀。
奔銀は、銀将の歩む方向に走る。
033.銀将の横袖に銅将を置く。銅将は中将棋の銅将
と、動きが同じ。
銅将は、前と斜め前と後ろの4方向へ歩む。奔銅に成る。
奔銅は銅将の歩む方向に、走る。
034.銅将の横袖に鉄将を置く。鉄将は前と斜め前歩。
鉄将は奔鉄に成る。
奔鉄は、鉄将の歩む三方向に走る。
035.鉄将の横袖に瓦将を置く。
瓦将は斜め前と後ろの3方向に歩む。瓦将は奔瓦に成る。
奔瓦は、瓦将の歩む3方向に走る。
036.瓦将の横袖に石将を置く。石将は斜め前に歩む。
石将は奔石に成る。奔石は石将の歩む、斜め前に走る。
037.石将の横袖に土将を置く。土将は前後に歩む。
土将は奔土に成る。奔土は前後に走る。
038.土将の横袖は端列で香車を置く。香車は前に走る。
香車は金将に成る。金将はこの段の、中央2列目に居る。
041.第2段目中央。玉将の前に酔象を置く。
酔象は、後退できない7方向歩み。王子に成る。
王子は玉将と同じく八方向歩み。
王子が有れば、玉将または、その成りである自在王が無く
ても負けにならない。
042.酔象の両隣に盲虎を置く。
盲虎は前進できない七方向歩み。盲虎は奔虎に成る。
奔虎は、盲虎の歩む7方向に走る。
043.盲虎の隣に、摩訶大大将棋では直ぐに猛豹を置く。
猛豹は、前後斜めの6方向歩み。猛豹は横に行けない。
猛豹は成ると奔豹。奔豹は猛豹の歩む方向に走る。
044.右猛豹の右隣袖に臥龍、左猛豹の左隣袖に蟠蛇。
045.右袖の臥龍は、金将の前後反対の動き。
臥龍は、前と両横、斜め後ろと後ろの六方向歩み。
臥龍は奔龍に成る。奔龍は臥龍の歩む方向に走る。
046.左袖の蟠蛇は、銅将の前後反対の動き。
蟠蛇は前と斜め後ろと後ろの4方向歩み。蟠蛇は奔蛇に成。
奔蛇は、蟠蛇の歩む方向に走る。
047.右袖の臥龍の右横は空き升目で次ぎの升目に古猿。
古猿は、銀将の前後が反対の動き。
古猿は、斜めと後ろ5方向歩み。古猿は山母に成る。
山母は古猿の歩む方向に走る。大阪電気通信大学のバージョ
ンでは山母は前に歩まない。
048.左袖の蟠蛇の左横は空き升目で次ぎの升目に淮鶏。
淮南子の鶏の意味と見られる淮鶏は、前進できない金将動き。
淮鶏は、斜め前、両横、後ろの5方向歩み。
淮鶏は、仙鶴に成る。仙鶴は淮鶏の歩む方向に走る。
将棋纂図部類抄と将棋六種之図式で、ルールが別である。
049.右古猿及び、左淮鶏の両袖隣は空升目で次ぎ猫叉。
猫叉は、斜め四方に歩む。猫叉は奔猫に成る。
奔猫は、角行の動き。奔猫は猫叉の歩む方向に走る。
050.猫叉の両袖隣は空き升目で、次ぎが端筋で反車。
反車は、前後に走る。反車の成りは金将。
061.三段目中央、酔象の前に、獅子を置く。
獅子は不正行度で2踊りする。居喰い可能。またこの踊り
は特殊で、1踊り、すなわち隣接升目での、停止もできる。
不正行度の踊りは特定の1歩みが玉将の動きで構成される。
従って2升目先の24升へ移動可能。また中将棋と異なり、
摩訶大将棋の獅子には、獅子に関する特別な規則は無い。
中将棋の獅子とは、このほか、隣接升目が全て味方の駒で
埋められていても、じっとの着手ができる点が違う。これ
は大阪電気通信大学で新発見された、踊りルールである。
062.獅子の両隣に左に麒麟、右に鳳凰を置く。
065.左の麒麟は、縦横4方向に正行度で2踊りし、
斜めに歩む。麒麟は踊り駒。ただし成り則は小駒の扱い。
麒麟は獅子に成る。獅子については、ひとつ前に述べた。
066.右の鳳凰は、斜め4方向に正行度で2踊りし、
前後左右に歩む。鳳凰は踊り駒。ただし成り則は小駒。
鳳凰は奔王に成る。
奔王は、八方に走る。
068.左麒麟、右鳳凰とも、両袖隣に悪狼を置く。
悪狼は前、斜め前、両横の5方向に歩む。
悪狼は、奔狼に成る。奔狼は悪狼の歩む方向に走る。
069.悪狼の袖隣は空升目で、その隣に盲熊を置く。
070.盲熊は、大局将棋の盲熊の動きを採用。
盲熊は、両斜め前後と両横の6方向に歩む。
盲熊は、奔熊に成る。奔熊は中将棋の奔猪の動きを採用。
桂馬跳び、2升目先跳び等はしない。
奔熊は、盲熊(大局・摩訶大)の歩む方向に走る。
071.盲熊の両袖は空升目で、次ぎに嗔猪を置く。
嗔猪は、後ろに後退しない嗔猪。嗔猪は前と横の3方向歩。
嗔猪は奔猪(摩訶大・水無瀬)に成る。
奔猪(水無瀬)は嗔猪(3方歩)の、歩む方向に走る。
072.嗔猪の両袖横は空升目で、次ぎ升目に老鼠を置く。
老鼠は、前と両斜め後の3方向に歩む。
老鼠は、蝙蝠に成る。蝙蝠は老鼠の歩む方向に走る。
073.老鼠の両袖は空升目で、3段目の端列になる。
081.4段目中央、獅子の前に狛犬を置く。
狛犬は八方3踊りの”狛犬の主な動き”に加え、隣の任意の
升目の相手駒を居喰いする、大阪電気通信大学ルールを適用。
なお、狛犬の主な動きについて。通常の正行度動きの中抜き
ではなくて、隣接升目にも行け、また2踊りも兼ねる、獅子
の動きに似た、特例が適用される。
狛犬は金将に成る。
082.狛犬の右に金剛、左に力士を置く。
083.金剛は前後左右4方向に正行度で3踊り。隣接升目
行きと2踊りは出来ない。更に斜め前の2方向に歩む。
金剛は、金将に成る。
084.力士は斜め4方向に正行度で3踊り。隣接升目行き
と2踊りは出来ない。更に両横の2方向に歩む。
力士は金将に成る。
085.金剛の右隣に夜叉を置く。
夜叉は、斜め4方向に2踊り、隣接升目に行かない。又前歩。
水無瀬兼成将棋纂図部類抄、摩訶大大将棋特有。下記に図示。
夜叉(水無瀬兼成の将棋纂図部類抄・摩訶大大将棋)
口口口口口口口
口着口口口着口
口口喰歩喰口口
口口口元口口口
口口喰口喰口口
口着口口口着口
口口口口口口口
元:元の駒位置。喰:踊り喰い。着:2踊りの行き先。
なお将棋纂図部類抄の”歩”の位置に関して、注記が見える。
最近の大阪電気通信大学ルールに採用されていないが、文献
に残る、興味深い記載である。
夜叉は、金将に成る。
086.力士の左隣に羅刹を置く。
羅刹は前に行けない金将動きで斜め前に3踊り隣接升目不行。
羅刹は両横・後3方歩み、斜め前2方3踊りで、歩と2踊は
出来ない。
羅刹は金将に成る。
091.夜叉と羅刹の両袖隣に飛龍を置く。
飛龍は斜め4方向に2踊り、歩まず。飛龍は金将に成る。
092.飛龍の両袖隣は空升目、その先隣に猛牛を置く。
猛牛は、前後左右に2踊り、歩まず。猛牛は金将に成る。
093.猛牛の両袖隣は空升目、その先隣に桂馬を置く。
桂馬は斜前の2升目先に跳ぶ。大阪電気通信大学ルールでは、

桂馬跳びではない。

桂馬は、金将に成る。
094.桂馬の両袖隣は空升目、その先隣に驢馬があり端列。
驢馬は前後に2升目先に跳び、両横2方向歩み。
驢馬は、金将に成る。
101.5段目、狛犬の前升目に奔王を置く。
奔王は八方走り。不成り。
102.奔王の右隣に鉤行を置く。
鉤行は、必ず折れ曲がりながら飛車の動きを2回繰り返す。
駒をひとつ取ったら、その先へは行かない。後戻りしない。
鉤行は金将に成る。
103.奔王の左隣に摩羯を置く。一般に魚辺で”カツ”を
書かないと誤字との説が、将棋史学会では強い。私見だが、
西洋星座の”やぎ座”が、”まかつ”の源であるから、誤字
ではないと、本ブログでは考える。”台風に追っかけられ魚
に化けそこなった、現代星座やぎ座の神話”を参照されたい。
摩羯は折れ曲がりながら、角行の動きを2回繰り返す。ただ
し、相手駒を一つ取ったら、そこから先へは行けない。後戻
りできない。
摩羯は、金将に成る。
104.鉤行と摩羯の両方の袖隣に龍王を置く。
龍王は縦横に走り、斜め4方向に歩む。龍王は不成り。
105.龍王の両袖隣に龍馬を置く。
龍馬は斜め4方向に走り、前後左右に歩む。龍馬は不成り。
106.龍馬の両袖隣に角行を置く。
角行は斜め四方向走り。角行は金将に成る。
107.角行の両袖隣に堅行を置く。
堅行は前後2方向に走り、両横2方向歩み。堅行は金将成り。
108.堅行の両袖隣に横飛を置く。
横飛は、両横2方向走り、斜め4方向歩み。横飛は金将成り。
109.横飛の両袖隣に横行を置く。
横行は、両横2方向走り、前後2方向歩み。横行は金将成り。
110.横行の両袖隣に、左に左車、右に右車を置く。
111.左車は右斜め前左斜め後ろ前3方向走り、左横歩み。
左車は金将に成る。
112.右車は左斜め前右斜め後ろ前3方向走り、右横歩み。
右車は金将に成る。
113.左車、右車共に、その両袖横に飛車を置く。端列。
飛車は前後左右4方向に走る。飛車は金将に成る。
120.端列を繰り返すと、車駒と例外的に驢馬で構成され、
1段目から5段目までで、香車、反車、空升目、驢馬、飛車
となっている。
131.第6段目に歩兵を19枚並べる。ここまで自陣内。
歩兵は前に一歩歩む。金将に成る。
135.第7段目角行の2つ前の升目に、仲人を左右に置く。
仲人は、

前後に加えて、水無瀬の将棋纂図部類抄、大阪府島本町の
水無瀬神宮巻物、(後期)大将棋の図を参照して、左右横、
以上計4方向に、大阪電気通信大学ルールでは歩む。

 この解釈は、水無瀬宮巻物の大将棋仲人の横打点は、後世
の中将棋後注釈部”仲人”解釈を誤った、水無瀬宮巻物書写
者の加筆とみる本ブログでは、この仲人横歩み動を、別の所
では採用していない。大阪電気通信大学ルールは、あくまで、

江戸期?水無瀬宮巻物書写物作成者個人の解釈に基づくもの

と、本ブログは断定する。なお書写者は、兼成の印鑑を所持
していたとみられる。
 つまり書写巻物作成者は中将棋後注釈部”仲人”の説明で、
”仲人は横へ行けないので、相手陣で酔象に成る”の記載を
”仲人は横へ行けない。相手陣で酔象に成る。”と、横と、
で(立)、の間で、改行が無いにもかかわらず、

理由づけを、ルールそのものと解釈してしまう間違い

を犯している。動かし方のルールが書いてあると巻物編集者
は勘違いしたので、後期大将棋の仲人部分を、オリジナルか
ら改変したというのが、我々の見かただ。だから本ブログは、
この大阪電気通信大学のルールは、そこだけのルールと見る。
なお、将棋纂図部類抄水無瀬宮巻物中将棋後注釈部”仲人”
には、実際には次のように書いてあると読む。横に読んでか
ら下の段へ進むと考える。
 仲人は横へ行けないので、相手陣で酔象に成る。
 ある説によると、獅子は居喰いができるという。
 仲人は自陣の外(実際にはすぐ前の段)に置く。
 鳳凰や仲人等の駒の動かし方ルールは、(中将棋では)
 大将棋と同じである。
”ある説によると”が、何処まで掛かるのかは、現代語訳し
ても、曖昧だが、今訳した所には、仲人の動かし方のカテゴ
リーに分けられる、内容の記載そのものがない。だから、
大将棋の図で、”それとツジツマを合わせる必要性”そのも
のが、本来見当たらないのである。
 前田藩書写本の後期大将棋の仲人が、仲人本来の動きに
なっているのは、前田藩が江戸時代に、本ブログと同じ見か
たをした上で訂正したためと、本ブログでは考える。
136.仲人は奔人に成る。大阪電気通信大学ルールでは、
奔人は、前後左右に走る。奔人は飛車の動きと同じになる。
138.ここでは、仲人に関する更に特別なルールは、
”その後更新された、旧バージョンでは無かったルール”と
しておく。
141.千日手は、連続王手ないし、駒取りが掛かった場合、
掛けた方ないし、掛け始めた方から、変えなければならない。
通常の千日手は、協議により引き分け。
150.その他の細則は、定まっていない。

以上の、概ね100条弱程度のルールと、私は解釈している。
以上は、特に何も見ないで記憶で書いた。のでオリジナル
と、違いが酷いようでしたら、御教示頂けると助かる。
 なお、前に紹介した、”早繰り無明対策の棋譜の例”では、
以上の旧バージョンのルールに準拠して、局面を設定してい
る。ただ、横飛の前の離れ駒の歩兵は、余りに気になったの
で、桂馬のルールだけ、普通の桂馬跳びに変えている。 以
上は単なる棋譜の例であるから問題ないとして、一応、その
際には旧ルールの棋譜例を出した。実際には表計算ソフト、
エクセルで、手作業で、新しいルールでの将棋を指すかどう
か、だけの話である。(2019/03/06)

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囲碁盤の聖目。現在と同じ9星で古い史料(長さん)

前に、将棋を18×18升目で、囲碁盤を兼用して行わな
かった理由として、聖目のパターンが自陣3段の場合しか、
使えないという点を指摘した。その際、平安末期から、今
の囲碁盤の9星の聖目(星)パターンになったのだろうと
述べたが、今回は裏づけとなる史料を挙げる事にする。

源氏物語絵巻に出てくる囲碁盤は今の聖目パターンである

可能性が強い。それ以前については、証拠を挙げるのは、
けっこうしんどいと思われる。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
 囲碁盤の古いものとしては、正倉院の宝持の囲碁盤が
有名だが、

聖目が今のパータンと違い、17目有る。

周囲の9星の間に、それぞれ一つずつ星が有って、四方で
8星増えて、17星になるのである。ただし、その場合も、

将棋盤として使うと、18升目制の自陣3段将棋に適する

事には変わりがないので、一応議論に影響はない。
 囲碁盤の星が9つではないかと思われる史料で、比較的
古いのは、12Cの前半に成立したと言われる、

徳川美術館所蔵の源氏物語絵巻に出てくる逆L脚の囲碁盤

である。

源氏物語.gif

上の図で、黒番右袖下の星が元来あるはずの部分には、既
に石が置いて有るように見え、隠れているが、その手前方
の中央列の、赤い矢印で示した、黒丸は、石よりも大きさ
が小さいので、私には聖目が書いてあるように見える。
 この絵では、
その他の聖目は、人物の体や袖などで、隠れているはずだ。
だから、

12Cに成立した、源氏物語絵巻の碁盤の聖目パターンは
現在とたぶん、同じだろう

と、私には思える。
 ちなみに、絵画では、聖目や碁石は、省略されるものも
多いので、判定は厳密には難しいだろう。
 例えば下の例は、16世紀後半の、厩図と同じか少し後
の、狩野派の画家による襖絵である。聚光院方丈壁画と呼
ばれ、その絵の中に囲碁盤がある。この囲碁盤には、前に
紹介した厩図の囲碁盤と同じで、碁石・聖目は正しく書か
れて居無いようである。

聚光院方丈壁画.gif

 なお縦横の線についても言うと、路の数は、列が19で
正しいが、恐らく体裁を整えるため、

厩図と聚光院方丈壁画の囲碁盤は、段が24~5路程度
で、実物より、ほぼ同じパターンで線が多い。

厩図と聚光院方丈壁画とで、どちらが早いのか、正確には
私は知らないが、

狩野派同士で、囲碁盤の筋のフォームを合わせているのは
明らかだ。

 なお、聚光院方丈壁画は中国人が囲碁を打っている絵。
厩図は、日本人が囲碁を打っている絵である。そのため、

聚光院方丈壁画の囲碁盤には足が無く、欄干の間から見え
るように、別の大きな床脚の有る台座に、碁盤が乗ってい
る形になっているようである。

 恐らく、少なくとも狩野派の絵師には戦国時代、碁盤の
足のパターンが、中国と日本とで違うと共通認識

されていたのであろう。
 聚光院方丈壁画の囲碁盤と厩図の囲碁盤とを比較すると、

蓮座形の木の囲碁盤脚が、どうやら国内起源であるらしい

という事も、少し見えてくるようだ。(2019/03/05)

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広将棋譜愚解。せきやど図書館版は、袋とじ1枚分不足(長さん)

前に述べたように、荻生徂徠の広将棋のルール本である
広将棋譜愚解の千葉県野田市の、せきやど図書館所蔵分
は、webに電子閲覧すると明らかに、広将棋の配列で
4~7段目の駒の動かし方ルールが記載された、2ペー
ジ分が飛んでいる。そこで、さいきん現地へ行き、実際
に該当古文書を確認した。

袋閉じで、文書が書かれた紙が続いていて、2ページ分
の一枚が無いよう

に見えた。
 では以下に、経過を説明しよう。
 webの電子図書を見ただけでは、用紙が1枚四ペー
ジで使われているのか、袋とじでオモテ面だけに、字や
絵が描いてあり用紙1枚で2ページであるのかは不明で
あった。そこで実際に、千葉県野田市にある、
せきやど図書館の3階に行き、図書館の事務室で、現物
をチェックしてみた。
 綴じは、近年に処理されたものであったが、綴じてか
ら破られた跡は無いようだ。袋とじで2ページづつ、連
番で、コンテンツが記載されている形になっている古文
書で、概ね馬兵から先鋒までの、駒の動かし方ルールの
記載された、一枚だけが無いようであった。

袋綴形式のため、前方のページが抜ける事がなく、最初
から無いのか、編集のとき間違えたのか、落丁なのか
よく判らなかった。

 ただし、その後の、成りの特殊ルールの部分の記載が、
国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースにあ
る広将棋譜愚解とは違って、全部漢字なため、

版が別な広将棋譜愚解が、2種類有る感じが依然する。

 国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースに
ある広将棋譜愚解と、ページ構成は、象のルールまでいっ
しょで、そこで改ページされている。ので、やはり元々、
せきやど図書館蔵にも、馬兵~先鋒の駒ルールは、有っ
たような気もするが、残念ながら判然とはしなかった。
 なお、現物はwebの内容と確かに同じだ。図書館の
一般書籍のコーナーにも、複写物は館内閲覧、貸し出し
禁止用図書として置かれていた。
 以上で今回の論題は、ひとまず終わる。
 ちなみにここの図書館については、行った日は雨で、
客が少なく、空いてて快適だった。
 やはり持ち出し禁止だったが、増川宏一氏著書の、
ものと人間の文化史23-2、将棋Ⅱが、広い図書館内
で、ゆったりと、日がな一日閲覧できた。
 また帰りがけだったが、関根金次郎記念館(同じ建物
の5階)にも寄った。日本将棋を中心に図書が、かなり
多く置かれていたが、書棚のスペースが限られていて、
2列積みだった。ありきたりの建築師が設計した、周囲
の会議室を適当に潰して、ここの物品や別カテの図書を、
移し、日本将棋本をもっと余裕で置いた方が、建物自体
が、もともとゆったりとして大きいのに、5階の記念館
の図書の保管庫がやや狭苦しく、建物スペースの、やや
不経済な使い方のように、私には思えた。
 日本将棋以外の日本の将棋、将棋の歴史、世界のチェ
ス・象棋関連の本が少し、関根金次郎記念館にはあった。
が、今の所名人と、これら記念館から見て”特殊な分野”
との、強いつながりを示唆する情報は無いと思う。
ただし”中将棋が元々中国で指されていたものである。”
との間違っていて、当時も不確かだった情報が存在し
た事に関して、関根名人が生前、流布した事情を説明した
事実がある。
 岡野伸氏の書籍と共に置いてあった、”マックルック”
や中国シャンチーのかなり大振りの盤駒は、増川宏一氏
や山本享介氏の著書、将棋の来た道や、持駒使用の謎等

本ブログの世界の本

といっしょに、関根金次郎記念館の近くの、別の現
”会議室”等で、別途展示していても、特におかしくは、
ないのではないかと思われる。ちなみに今回話題にした、
千葉県野田市せきやど図書館の広将棋譜愚解は、”この
史料については、元々関根金次郎十三世名人の、所有物
という訳でも無かった”と言う話を、せきやど図書館内
で聞き取っている。(2019/03/04)

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広将棋の著、広将棋譜愚解に自陣三段目駒ルール迄の物有り(長さん)

荻生徂徠の広将棋は、徂徠の没後約50年後に、広将棋譜愚解
としてルール本が、提示されたと言われる。世界の将棋で、
ルールが紹介され、wikipediaのルールは、判りやす
く記載されている。古文書と比べても、抜けは見当たらない。
 ところでまだ仔細不明だが、
千葉県野田市(旧関宿町)東宝殊花にある、将棋の13世名人

木村金次郎関連の図書館、野田市せきやど図書館蔵の、
広将棋譜愚解には、4~6段目駒のルール記載が見当たらない

のに、最近私は気がついた。
 web上に、電子図書形式で、中身の閲覧のできるページが
野田市の図書館紹介のページであり、そこで内容を見て判った
のだが、

駒の動かし方ルールで、象のルールで書物の主な内容が終わり

のようなのである。
 以下に、駒の動かし方の説明が終わり、相手陣に入らなくて
も成れる、特例についての記載が続く部分を示す。

広将棋譜愚解.gif

 上の図のように、野田市せきやど図書館の広将棋譜愚解のバー
ジョンは、駒の動かし方の説明が、車、前峰等で終わらず、
象で切れていて、4段目以降の説明が、無いように、私には見
える。
 世界の将棋は、別の広将棋譜愚解の文書を参照にしたのだろ
うか。

それとも、馬兵から上段の駒のルールは後作なのか。後者だと、

幸田露伴の将棋雑考や、本ブログの前の記載に解釈誤りが有る

事になる。つまり、広将棋の、4段目から6段目の駒のルール
の、なんとなくの出来の悪さ、特に騎総のルールが、強すぎて、
玉がトン死してしまう問題は、

後世のツクリ物のせい

という事も、疑われると言う事だ。つまり、

広将棋のオリジナルの出来は、もっと良かったが、後に改変

されたという意味である。
 以前、埼玉県北葛飾郡杉戸町の鷲巣等へ行った帰りに、埼玉
県春日部市の西宝殊花へ寄り、様子を本ブログで紹介した事が
有った。そのときうっかり、江戸川を渡らず、”将棋書の宝庫”
をどうやら見逃したようである。なので、近々、千葉県野田市
東宝殊花の、将棋十三代名人関根金次郎生誕地記念と見られる
”せきやど図書館”へ行って、広将棋の本を、実際にチェック
してみようかと、思っている。
 蛇足だが昨日まで、”せきやど図書館”は、蔵書の整理で、
休みだった。
 なお、国文学研究資料館の新日本古典書籍データーベースに
広将棋譜愚解があり、象の後、先鋒までの2ページ分が、書い
てあるのを、その後みつけた。千葉県野田市せきやど図書館の
WEBにも出ている広将棋譜愚解では、単に抜けていただけな
のか。webを調査して、現時点で以上の事実認識となった。
(2019/03/03)

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囲碁盤兼用の18×18升目の将棋。なぜ作られなかった(長さん)

本ブログで再三述べたが、摩訶大大将棋は少なくとも通説
では、囲碁の路数とおなじ数の、盤升目19×19、
361升目を使用する将棋である。361という数字が、
囲碁の場合も、一年の日数と関連が有ると、少なくとも日
本の中世には考えられており、将棋も、それに習ったもの
である事は、虎関師錬の異制庭訓往来や、水無瀬兼成の、
将棋纂図部類抄から明らかである。これは

ようするに、囲碁盤と、将棋を関連づけたものとみられる。
が、361にこだわらず、18×18=324で我慢して、
升目と見立てて、その中に特注小ぶり将棋駒を並べ、物を
大切にするはずの昔の人が、囲碁の道具を将棋に兼用しな
かったのは何故

なのか。以上を、今回の論題にする。
 回答を最初に書いて、後で説明を加える。

囲碁盤の9つの聖目に、昔の人は大いにこだわっていた。
聖目の下の段に、歩兵列を作り、自陣がそこまでになると
いう発想に固執した。そのため、18升目で自陣が3段の
将棋を、作るわけにも行かなかったから、18升目の将棋
は、ほとんど作った痕跡が残らなかった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも、18×18升目の将棋が作れるのかと言えば、

作れる。

19×19升目の摩訶大大将棋と、17×17升目の、
プロト摩訶大大将棋については、本ブログで紹介済みであ
る。
 奇数升目から、偶数升目への拡張を、中将棋を参考にす
るとして、前に紹介した17×17升目の、
プロト摩訶大大将棋から18×18升目の将棋を作ると、
一例では、奮迅、夜叉、羅刹を1枚ずつ敵味方に加えて、
168枚制を174枚制にするとすれば、以下のようにな
るだろう。
 2分割したのでやや見辛いが、下の配列で、前半が先手
から見て、左袖から中央の列、後半が、中央列から右袖を
示している。コピーして、エクセルで読み込み、左右を
繋げれば判るだろう。なお、偶数升目将棋なため、下図で、
上と下のパーツは、同じ数の駒が並ぶ。

香車,土将,石将,瓦将,鉄将,銅将,銀将,金将,酔象
反車,猫叉,口口,古猿,口口,猛豹,口口,盲虎,鳳凰
驢馬,口口,嗔猪,口口,臥龍,口口,悪狼,口口,金剛
口口,桂馬,口口,猛牛,口口,飛龍,口口,夜叉,狛犬
飛車,右車,横行,横飛,堅行,角行,龍馬,龍王,奔王
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
飛車,左車,横行,横飛,堅行,角行,龍馬,龍王,奮迅
口口,桂馬,口口,猛牛,口口,飛龍,口口,羅刹,獅子
驢馬,口口,嗔猪,口口,蟠蛇,口口,悪狼,口口,力士
反車,猫叉,口口,淮鶏,口口,猛豹,口口,盲虎,麒麟
香車,土将,石将,瓦将,鉄将,銅将,銀将,金将,玉将

玉将,金将,銀将,銅将,鉄将,瓦将,石将,土将,香車
麒麟,盲虎,口口,猛豹,口口,淮鶏,口口,猫叉,反車
力士,口口,悪狼,口口,蟠蛇,口口,嗔猪,口口,驢馬
獅子,羅刹,口口,飛龍,口口,猛牛,口口,桂馬,口口
奮迅,龍王,龍馬,角行,堅行,横飛,横行,左車,飛車
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
奔王,龍王,龍馬,角行,堅行,横飛,横行,右車,飛車
狛犬,夜叉,口口,飛龍,口口,猛牛,口口,桂馬,口口
金剛,口口,悪狼,口口,臥龍,口口,嗔猪,口口,驢馬
鳳凰,盲虎,口口,猛豹,口口,古猿,口口,猫叉,反車
酔象,金将,銀将,銅将,鉄将,瓦将,石将,土将,香車

では、なぜ駒木地を小さく調整して、囲碁盤で上の将棋を
やらなかったのかと言えば、聖目が3段目と4段目の間に
有って、歩兵列と仲人列の間の所には来ないからだ。

将棋盤で、相手の側の聖目を跨ぐと、相手陣だ

という観念が、今と同様、昔の人にも有ったと想像される。

そう考えないと、18×18升目の将棋が、日本で作られ
た形跡が、ほぼ無いのが全く説明でない。

古いので単に記録が残らない可能性が、無いとは断言はで
きないが。
 高槻城三の丸遺跡から、江戸時代のものと見られる、

囲碁盤用に、将棋駒の大きさを調整したのではないかと
疑われる中将棋の駒が、多数出土しているので、”記録は
失われただけであり、痕跡が無くてもおかしくはない”
という考えは、若干分が悪い

ように、私には思える。
 前に述べたが、高槻城三の丸遺跡中将棋駒は、

周辺の3段3列を使わず、外側の聖目内を、中将棋の12×
12升目盤と見なして、囲碁盤で中将棋を指した

のだと、本ブログでは解釈している。
 18升目の将棋も、作ればよさそうな物だが、作らなかっ
たのは、

聖目が、陣の内外と紛らわしく、そこが大いに問題と、中世・
近世の将棋指しには考えられ、逆にそれまでして、囲碁盤に
こだわるほど、将棋盤には困っていなかったため、結局、
18升目将棋ゲーム、そのものが作られなかった

のだろうと、私は思う。
 材木は、もともと大振りなので、

将棋盤は将棋駒より作りやすい。

 将棋の道具は、小から大ではなくて、大から小であろう。
だから、将棋駒を多数作る方が、19升目の特注将棋盤を用
意するよりは、よっぽど骨が折れるのであり、聖目がズレて
いるのを我慢してまで、囲碁盤を活用しようとは、物が貴重
だった昔でも、しなかったのであろう。
 逆に言えば、

囲碁盤の現行の9星の聖目の位置は、平安末期も同様だった

という証拠の一つになると思う。
 また、将棋史にとっては、

”大大将棋と摩訶大大将棋に、敵陣、味方陣が無い”と言う
のは、江戸時代からの習慣であって、たとえば室町時代まで
は、摩訶大大将棋にも、”自陣”という概念が、かつては有っ
たらしい

という事を、薄く示唆している点で、ゲーム・ルール史を
解明する上で、重要なように思える。
 高槻城三の丸遺跡から、小ぶりの中将棋駒が、過去発掘さ
れた事は、小ぶりと言う点が、これまで大きく取り上げられ
たような気配が、私には感じられないが、

それ自身の中に重要な知見を含んだものだった

と結論できると思う。中世考古学は、文書学に隠れて、他の
歴史分野では注目度が、昔は低かったと聞いている。が、今
では、少なくとも将棋史では、史料としては明らかに花形だ。
今後更に、遺物がたくさん出土するよう、本ブログとしても、
心より祈りたいものである。(2019/03/02)

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