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升目列数3の倍数将棋盤は九星占いの道具と類似(長さん)

本ブログでは、鎌倉時代末以降、中将棋の成立と共に、
将棋盤は、9・12・15・・と、3の倍数升目列数
へ収斂して行ったと見ている。理由は、九星占いの図
と、将棋盤の形を、聖目を等間隔に置く形式で、類似
させるべきであるという論が、ゲーマーの間で広まっ
たためとみる。そのため、西暦1300年頃の13
升目108枚制と見る普通唱導集大将棋は、行き詰まっ
て、廃れると同時に、大将棋の13升目制も、15升
目制主流へ、移行すると同時に、ゲーム性が劣化して、
中将棋主体になったと、本ブログでは見る。
 九星占いは、暦として頒布されたため、将棋のゲー
マーに、紙媒体で、実体が普及した事は確かと見られ、
それでも充分ではないかと、私は見ていた。具注暦が、
中世には、充分普及していたと、私は認識したためで
ある。
 しかし、将棋盤と似たような物品で、九星占いの道
具が有れば、中世の将棋棋士にとって、あるべき将棋
盤のイメージは、益々確かな物になって行ったに違い
ない。調べてみると、そのような物品は、昔実際に、
有ったらしい。下の写真の、兵庫県赤穂の大石神社の
吉凶分占盤というものが、それである。

吉凶分占盤.gif

確かにこれには、方形の盤を9つの区画に区切ってあっ
て、縁起のよいまたは、縁起の悪い神様が居る位置を、
何かの駒で置く等すれば、その日や年で、その方向に
居る人物と友達になったり、行ったり来たりしてはい
けない方向といったものが有るかどうかを、暦を読ま
なくても、その場で占えそうだ。
 大石神社というのは、江戸時代の赤穂の家老の、大
石家等、忠臣蔵に関連する神社であると言う事が、
下記の成書にも書いてある。

「かたち」の謎解き物語。(建築家)宮崎興ニ著。
彰国社(2006)

 なお上記成書によると、大石神社には他に、
指南針と称する、陰陽師の使用する、式盤の類と見ら
れる円形盤がセットで有るという。指南針の中の五行
記号に、アルファベットが使われている事から、宮崎
氏の成書内での書き方を見る限り、残念ながら、この
遺物は

近世のもの

であるとのようだ。つまり、中世のものでは一応無い。
ただし、九星占いは、黄河文明が発生した頃からある
と聞くから、

吉凶分占盤自体は鎌倉末期の頃にも、作られただろう。

吉凶分占盤から将棋盤が発生したのでは、むろん無い
だろうが。鎌倉時代末の将棋の棋士は、

吉凶分占盤を連想させる、聖目パターンの将棋盤には、
そうでないものに比べ、より将棋盤のあるべき姿を感
じた事は、確かなのではないか

と、本ブログでは考える。他方、新安沖沈没船出土の
将棋盤(?)が、その形の聖目である。だからこれは、
どんなゲーム用であるかは、現時点で定かではないに
しても、そのようなゲーム盤が、鎌倉時代末期に有っ
た事を示唆は、しているように思える。
 また、将棋という

合戦シミュレーションゲームが、戦国時代には少なく
とも合戦で、軍師の勝機占いと関連していた事は、
ほぼ確実

だとみられると考える。
 軍師の占いには、中身から見ても、攻め方の好まし
い方位を占う、九星の方位占いが、含まれて居ただろ
う。そして、その際には、赤穂の大石神社に収められ
ていた、吉凶分占盤の類を使っただろうし、将棋は、
娯楽であると同時に、戦略を練る際の、少なくとも
儀式的行為には使われただろう。だから、将棋盤の
模様の形は、吉凶分占盤の類と似ていた方が、似合い
と考えられて、自然なように思う。
 そのため室町時代に近くなったころに、だんだんと、
3の倍数の升目で、聖目が一辺升目数の1/3ステッ
プの将棋盤が、中将棋の流行も有って、優位になった
のではあるまいか。
 実際に木板の形で、九星占い用の道具があるのを見
て、以上のように、私は考えるようになって来ている。
(2019/03/24)

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