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成り条件則変化。平安小将棋をどう変えた(長さん)

前に述べたように、二中歴の将棋は、平安小将棋も平安
大将棋も、相手陣に入った所で成れるだけの、ワンチャ
ンス成りルールだったとみられる。しかし、このルール
だと、不成りも選択できるとすれば、駒によっては、相
手陣奥で、身動き取れなくなる。そこで、持ち駒ルール
が西暦1300年前後に、平安小将棋についてだけ、発
生するとまもなく、ワンチャンス成りは現日本将棋の、
”その駒着手毎回自由成り型”へと変わったと見られる。
それによって、平安小将棋の人気は上昇したと考えられ
るが、今回は、その変化と理由について議論する。
 結果を述べる。
 8×8升目型が残存していたとみられるが、見栄え以
外で大差は無く、これについて変化はほとんど無かった。
9×9升目36枚制の標準平安小将棋は、旦代の難点が、
半歩改善されたので、まともな将棋類が他に無ければ、

我慢して、指される程度にまでなった。

 では、以上について、以下に説明を加える。
 8×8升目の原始平安小将棋の持ち駒有りタイプにつ
いては、将棋は変わってしまうが”スローな日本将棋”
のイメージに、差は無かったとみられる。学会でもマイ
ナーなこの将棋についての議論は、面白いと感じる方が
少ないだろうから、この位にする。
 問題は、皇族の標準将棋だったと出土駒王将分布から
本ブログの推定する、今の日本将棋から、飛車角を除い
た、持ち駒ルールの標準的な平安小将棋で、実際の将棋
試合の駒落ちと違い、平手で指す場合であろう。
 こちらについては、旦代型に行き詰まると、どうしよ
うもなかった将棋に、多少の薄日が差してきたようだ。
 所で、本ブログに於いて、旦代の難点というのは、つ
まりは以下の写真を、仮想的な初期配列とする、将棋が
成立するのかという、意味である。

旦代初期配列.gif

 写真でこのケースはここから、持ち駒ルールの有る、
通常の日本の将棋を、改めて指そうとしているという
意である。成書、持駒使用の謎(木村義徳、日本将棋連
盟)を参酌すると、どう攻めても、攻め側の駒損が、解
消されるような手が見当たらないため、

先攻め側に、有効な手が存在しないと見られる局面

とされると、本ブログではみなしている。
 そのため、このような局面に到達する事の出来る、
9升目36枚制の標準型の平安小将棋は、持ち駒ルール
にしたとしても、ゲームとしての難が残るという点で、
旦代の難点は、解消されないという言い方がされると、
少なくとも本ブログでは、理解している。
 それでも最もマシなのは、上から、桂馬損覚悟で攻め
る手と、私には思われる。つまり、以下▲2五歩、△同
歩、▲同桂、△同桂、▲2六銀、△2四銀と指したとす
ると、当然以下の写真のようになると見られる。

歩歩桂桂銀銀.gif

局面、無理攻めを開始した先手の桂損であるが、文字通
り”先手の得”は有る。ここで、先手の持ち駒に歩兵が
有るので、普通なら、▲2三歩と歩の打ち込みの手が、
自明に有る。が、西暦1320年前後までは相手陣内に、
後戻りの出来ない駒を打ってしまうと、

成れないルール

だったはずである。だから、この局面で

▲2三歩は成立しなかったとみられる。

ところが、陣奥で後戻りできない駒が、身動きできない
のが見苦しかったため、西暦1320年頃に、
成りの条件則が、ワンチャンス成りから、駒着手毎回
自由成り型に変化したと考える。すると、▲2三歩は、
一応意味が有る手として、遊びの将棋程度では、指され
るようになったとみられる。
 むろん、後手にも△2七歩打等が有るから、ヘボい手
ではあるが。一応、手が発生したという意味では、平安
小将棋についての、

問題解決への半歩前進

ではあったのだろう。そのため、
普通唱導集時代の1290年型普通唱導集大将棋(仮説)
に、自明定跡の問題が発生して、上級者の中で、指され
なくなると、上級者も敵が攻めてきたときには、将棋盤
を盾代わりに出来る事も考慮に入れた上で、平安小将棋
の9升目盤は、鎌倉時代末期、太平記の11に筑紫合戦
に記載が有り、その中に出てくる、九州の豪族少弐氏の
統領のものとみられる将棋盤の例に有るように、

少弐直資の身近に置く程度には普及したのかもしれない。

 ただ実際にはこの後で、中将棋という面白いゲームが、
しばらくして出来ると、そちらに人気が流れてしまう程
度ではあったのだろう。しかし鎌倉末期のこの時代の時
点で、小将棋類が、やがて日本将棋へ進化して行く着実
な歩みは、引き続き起こっていたとは言えるのではない
かと、結論できるように私には思える。(2019/04/30)

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鶴岡八幡宮・二巻物色葉大将基・将棋纂図部類抄の不成歩兵(長さん)

表題のように、駒数多数将棋の一種とされる
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の歩兵駒の一部墨跡の弱い物、
1565年写書、二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載
の大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りとされる。出土駒、文献共、これらの更に写しは別と
して、歩兵が”と金”等に成らないと主張する例は、
この程度だけであり、元来は少ない。
 そこで今回は、その発生のメカニズムを解明する事を、
論題とする。
 何時ものように回答から書く。

これらは全部、大将棋が指されなくなってからのもので、
二中歴の”如是一方如此行方准之”が、解読できる人間
による、ツジツマ合わせが原因である。

では、以下に解説を加える。
 まず、前提として、次のような事があると考えられる。
二中歴の将棋の最後に、相手陣三段目で、玉将と金将以
外が、金に成るとの旨あるが、この時代は

成りの条件則に関して相手陣に入った所でしか成れない

ルールだったと考えられる。

つまり、平安大将棋にしても平安小将棋にしても、相手
陣に入った所で、不成りは選択できたが、そうしてしま
うとそれ以降は、入り直さない限り、成れないルール

だったと、本ブログでは、先ずは考えるのである。
 しかも、このルールは、平安大将棋、1230年型
大将棋、1260年型大将棋、1290年型大将棋、
平安小将棋(持ち駒無し)型には適用され、
 西暦1320年以降の大将棋と、持ち駒ルールが発生
して以降の、西暦1300年以降の平安小将棋(持ち駒
ルール有り)には、適用されなかったと、ここでは見る。
西暦1320年頃を境に、成りの条件則は、

現在の日本将棋に近い形が大将棋と小将棋に適用された

と、簡単の為に考えよう。ただし、西暦1350年頃
発生した中将棋には、ここでは判りやすくするために、
今のべた旧大将棋の成り条件則に、更に相手陣内で相手
駒を取った時には、成れる、現代の中将棋の成り規則が
適用されたとする。
 次に、冒頭でツジツマ合わせが必要になった、
二中歴の平安大将棋項の”如是一方如此行方准之”に
関して、本ブログでは、以下の構成駒に関してだけ
適用されるという性質のものであると、考える。
平安大将棋、1230年型大将棋の奔車、注人。
1260年型、1290年型大将棋の反車、仲人。
なお1320年型、1350年型大将棋、その後の
後期大将棋の反車、仲人へは、二中歴の大将棋説明の、
末尾十文字は判読不能化して、適用困難となったと見る。
なお、平安小将棋(持ち駒有る無し)、朝倉小将棋、
日本将棋には反車、仲人が無い。また駒種ごとに個別に
どうするかを決める事にした、中将棋には本来は適用さ
れない。ただし、水無瀬兼成は、誤って中将棋と”如是一
方如此・・”に関連性が有るかのような、不可解な文書
を、実際には作成していると、後に述べるが我々は取る。
 なお、本ブログの以下独自の解釈だが、
”如是一方如此行方准之”とは、”初期配列に於いて、
該当する駒種が前後動き、その直ぐ後ろの升目に、前方
のみしか動けない駒があるケース、実際には

注人または仲人についての歩兵仲人等の列、
奔車または反車についての香車反車等の列の二通りしか
適用されるケースが無いのだが、

万が一、後方の駒が、不成りで相手陣に入った結果、
注人、仲人、奔車、反車、が後退できても、相手陣奥で、
後方駒(歩兵、香車)と道連れになって、身動きが出来
ないときには、注人や仲人は別として、奔車、反車は、
人間を表しているようには見えないのだが、その場合も
特別に、桂馬や香車のように、金成りとする”という旨
の内容とここでは見ている。
 つまり、そのような事は、
西暦1320年前後に、平安小将棋が持ち駒ルール化す
る以前に、いったん相手陣と中間段のラインを越えた所
で不成りで入ってしまうと、本当に2枚の自駒が、相手
陣奥で、固まってしまうという事が起こったために、
西暦1200年の二中歴大将棋には存在して、そのため
記載されたルールが、

のちに、判読不能になったもの

とここでは考える。
 ところが、西暦1320年の新安沖沈没船出土駒の時
代の頃になると、平安小将棋に持ち駒ルールが導入され、

敵陣に持ち駒を打ち込んだときに、自駒が成れないと、
ゲームに面白みが無くなった

と考えられる。そのため、平安小将棋(持ち駒ルール有)
タイプは、

西暦1320年以降は早々と、現在の日本将棋の成り
条件則に近くなってしまったと、本ブログでは考える。
 そして、ちょうどその頃、

大将棋が衰退期に入った。

 そのため、指す棋士が少なくなって、

大将棋の成り条件則は不安定化して、平安小将棋のルー
ルに、引きずられるようになった

と考える。
 それに対して、西暦1350年程度に確立された
中将棋には、安定して”昔の大将棋の成り条件則を、
更に改良されたもの”が適用された。
 また、中将棋駒の成りについては、個別に決められる
ように進化を初めていたので、成りがどうなるのかにつ
いて、上位概念を立てて、適用する事自体が、そもそも
不要になった。
 だから、
水無瀬兼成が後に”中将棋の仲人は、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、酔象に成る”とは
確かに書いているが、本ブログの見解では、中将棋の成
りは、繰り返すが個別に決められているので、こんな理
由付けは本来はそもそも不要である。従ってこの部分は、

水無瀬兼成が、調子のおかしい事を、散漫に書いただけ

だと、本ブログは独自解釈している。
 元に戻すと、大将棋に当時有った、仲人と反車は、
後続の歩兵と香車が、相手陣自由成りに、成り条件則が
西暦1320年頃に変化したために、
後続駒がうっかり、聖目ラインを不成りで入っても、
相手陣奥で、固まらなくなってしまった。
 そのため、これは本来良い事であり、その頃には、

大将棋の成り金の範囲が不安定化していたので、反車の
成りが金かどうかは、個別のバージョンで、規則を覚え
るシステムに、少なくとも西暦1350年タイプ以降は
変化

した。ところが、二中歴の大将棋の文書が、

仲人の成り規則についてだけ、ツジツマが合わなくなっ
た事が、西暦1320年タイプの大将棋の辺りから、
問題になったと見られる。

二中歴に合っているかどうかは、形として重要だった

のであろう。
 つまり、後方の歩兵は、相手陣内では動かすたびに
成れるので、”これまさに、動きが前方だけ”とは、
言えなくなってしまったのである。そこで、二中歴の
大将棋の文言に合わせるという、ほぼ、ただそれだけの
理由で、仲人をワザと身動きできなくするという、異常
た事が起こるようにした。すなわち、

ひょっとすると西暦1320年から、1350年の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒から、大将棋の歩兵駒に不成
りのものが現われ、

1565年写書二巻物色葉字類抄の1冊/4冊末記載の、
大将基馬名の歩兵駒、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、
(後期)大将棋(130枚タイプ)の歩兵は、各々不成
りと、表現されているのではないかと、私は考える。
 なお、二中歴の”如是一方如此行方准之”とは、最後
の”之”を歩兵と解釈すると、仲人も不成りになってし
まうので、そうしたとしても本当は意味不明である。之
が歩兵だと、二中歴に書いて無いので、どこぞ別の金成
りの駒といっしょで、仲人は金成りだと、解釈させよう
と強弁しているだけだと、私は理解する。
 繰り返すが、西暦1350年以降に、実際に大将棋が
指される事はほとんど無かった。そのために、出土駒と
しては、今の所、

鶴岡八幡宮境内から、消えかかった歩兵駒に、そのツジ
ツマ合わせの痕跡が反映されている程度

なのではないかと、私には疑われる。また、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄では、水無瀬兼成の”中将棋の仲人は、
傍らにゆけ無いので、相手の聖目ラインに到達すると、
酔象に成る”のパターンの調子で、”後期大将棋の仲人
は、歩兵を無理に不成りにしたので、傍らにゆけ無いの
で、相手の聖目ラインに到達すると、金将に成る”の
はずだが、実際には彼は、曼殊院の将棋図を写しただけ
だったので、後期大将棋では酔象、麒麟、鳳凰が成るだ
けの、かみ合わない文書を作成する事になったと見る。
 以上の論から、

二中歴の時代、平安大将棋の成りは、単純に1チャンス
で、相手陣3段目に到達したときに、成るだけだった

ようだ。本ブログの西暦2017年型大将棋では、
仲人、反車は金成り、成り条件則は、後代と同じく、
日本将棋と同じにして、各構成駒の、個別の成ルールの、
上位概念(一般論)システムの表現とみられる
”如是一方如此行方准之”との整合性は、現代的には
無視する事にした。
 そもそも1320年以降に廃れた後に導入したとみら
れる、不成り歩兵のようなツジツマあわせは、そうだと
すれば真似ても、意味はほとんどあるまい。
 なお、成り条件則の切り替えときは、繰り返すと西暦

1320年付近ではないか

と、本ブログは推定する。鶴岡八幡宮境内出土歩兵駒よ
りも、レトロな分、30年位タイプが古いと、本ブログ
では独自推定する、栃木県小山市の

小山義政の大将棋らしき駒が、更に栃木県小山市で発掘
され、出土駒として出現確率の高い、歩兵駒が、不成り
である事が将来判ったら、以上の仮説が証明されて、
おおいに興味深いと思うのだが

と、史料の更なる増加に期待をかけている。(2019/04/29)

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大将棋の読み。現代語の国語辞書の傾向(長さん)

前に、本ブログでは、安土桃山時代末時点で、大将棋
の読みとして、だいしょうぎ系のたいしょうぎ、
おおしょうぎまたは、おほしょうぎが、どちらも可の
状態だったと、邦訳日葡辞書に掛かれて居無いことを
根拠に推定した。また本ブログでは、現代人の都合で、
大将棋の読みは、どちらに決めても良いとも述べた。
 本ブログでは、近世~近代の状態は、書物に書かれ
て記録としては保存されたが、曖昧な伝承が存在して
厳密に同じルールが続かなかったと認識する。すなわ
ち、成りのルールがふらつき続けながら、後期大将棋
が、大将棋として存在自体は継続し、

流行らないで、”古記録にある”と記載された状況が、
現代まで続いている

との立場を取る。従って、日葡字典から推定された
状況は、その後現代まで同じと、基本的に見る。今回
は表題のように、現代の国語辞典に現われる、大将棋
の読みを調査するという方法で、本ブログの立場の根
拠を示す。結論から述べると、
大将棋が”だいしょうぎ”の読みも”おおしょうぎ”
の読みも、両方あるとする辞書が一種。
大将棋が”だいしょうぎ”の辞書が一種。
大将棋が”おおしょうぎ”の辞書が一種。
両方書かれて居無い辞書が、約17種類程度で、

本ブログの見解と、矛盾する情報は見出せない。

結論は以上であり、以下に調査経過を説明する。
 まず、私の知っている限り、最も大きな国語辞書で
ある、
①小学館の日本国語大辞典には、大将棋には
”だいしょうぎ”の読みも”おおしょうぎ”の読みも、

両方あると書かれている。

すなわち調べたのは、より詳しくは以下の辞書。
日本国語大辞典第2版(2001.2)、株式会社
小学館。発行者:佐藤憲正。
ざっと見渡した中では、

最も詳しい現代国語辞書の見解は、本ブログと同じ

である。
 次に、2冊物の国語辞書は2種類調査したが、
結果は、以下の通りだった。
②広辞苑:大将棋は、”だいしょうぎ”と読む。
③大辞泉:だいしょうぎ、おおしょうぎという大将棋
の項目は無い。
ただし、上記②・③は、以下の辞書のことである。
広辞苑第7版(2018)、新村出。岩波書店。
大辞泉(第2版:2012)、松村明。小学館。
2冊物以上の大型国語辞典にも、大将棋の項目が無い
物がある。

大将棋という単語は、日本に住む場合でも、知ってい
なければ困るという言葉とまでは、行かない事が判る。

 次ぎに、1冊で全体の語を含む単冊本の辞書につい
ては、17冊調査したが、大将棋の項目があるのは、
次の1種類の辞書だけだった。
④新編大言海:大将棋は”おおしョうぎ”と読む。
なぜ”ょ”が”ョ”と書かれているのか、辞書の凡例
を読まなかったので、私には良く判って居無い。
 なお、新編大言海には”大将棋は大將棊と書き、説
明は、将棋の項目の所に書いた”とされている。
④は、以下の辞書のことである。
新編大言海(1982)、大槻文彦。冨山房。
他の16種類の単冊本の辞書に、大将棋に関して、
”だいしょうぎ”や”おおしょうぎ”の項目は無い。
 以上の結果から、次のように言えると考える。

全体で、各々2回づつ(20種類中)しか出てこない
が、大将棋に読みとして、”だいしょうぎ”と”おお
しょうぎ”が、現代では拮抗

していると結論できる。
よって、本ブログの先に書いた結論で今の所、以上の
調査結果は、矛盾していない結果になったと考える。
(2019/04/28)

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川西奔横駒の消失。浄土真宗仏教語”竪超”出現が原因(長さん)

 前に述べたように、徳島県徳島市近郊の川西遺跡
出土の奔横駒(異説有り)が、西暦1360年まで
には消失していないと、本ブログの論とは整合性が
取りにくい。理由の候補として、”横”の訓読みの
中で”よこたわる”が強まったため、視線直角成分
以外が、弱まったのかもしれないとの仮説をチェッ
クしてみたが否定的結果に終わり判然としなかった。
 ここでは、日本語訓読み併用(”併用”について
は、本ブログの仮説)の仏教語として、

浄土真宗開祖の親鸞が、説法をするときに使った、
在来仏教の修業は”竪超”と書いて、訓で”たてこ
える”とも読める、現代の竪の訓読みが、
西暦1260年までには汎用化して、奔横の
横(よこしま)から、前後の動きを奪い、ルールと
ツジツマを合わせるために、奔王を発明する必要性
が生じた

という仮説を検証する。
 要旨は以上なので、以下説明に入る。
浄土真宗の開祖の親鸞は、草稿が西暦1228年迄
には出来上がり、その後他界するまで加筆を加えた
と伝わる、自書”教行信証”の中で、聖道門による
在来仏教の修業を、成仏のための”竪超(たてこえ
る(等))”、それに対して、浄土門の成仏方法を、
他力本願または、”横超(よここえる(等))”と
命名した等という。仔細はwebのページの複数に、
有るようである。また、横の音読み”わう”が、
元来仏教語であるという事に関しては、古語辞典、
”角川古語大辞典 第5巻”、1999等、複数の
古語辞典に載っている。
 なお、超が”こえる”で良いかどうか、私には良
く判らない。音読みで竪超を”しゅちょう”、横超
を”おうちょう”と、読むのが正しいらしいと、
大概の古語辞書には載っている。
 ただし色葉字類抄の二巻物によると、横の読みは、
前に述べたように”よこさま”だが、竪の読みの方
は、”たてさま”と”たつ(て)”が、元々両方有っ
たようだ。よって、親鸞の説法を満足するには、横
にも”よこさま”の他に、結局は”よこ”を作る必
要が、対の漢字にするためには必然なように見える。
なお繰り返すと、”併用”は本ブログの仮説である。
 何れにしてもここで重要な点は、浄土真宗開祖の

親鸞の出現で、横の字の中から、上下または前後、
つまり垂直の方向の包含が、許されなくなった

という事だとみられる。だから、それまでは、
奔横と書いて”ほんわう”と、読みだけ中国人の真
似をして読み、”前後左右斜め不規則に走る”の意
だったのだろうが、”親鸞以後”には、

”左右または斜めへ、比較的複雑なルールで走る”

と、日本語として解釈されるように、ルールを調整
しなければ、ならなかったという事である。そして、
たまたま、従前の奔横も、前後に走る、奔王動きが
ルールとして主流だったのだろう。このままでは、
変化してきた日本語の意味に、追随するためには、
奔横を、

奔王の動きから奔猪(中将棋)の動きに変えなけれ
ばならなかった

に違いない。しかし、そうすると将棋が変わって
しまうので、棋士の賛成は得られなかった。そこで、
やむなく、

より対応が簡単な、”ほんわう”同士で音が同じの、
奔横から奔王への名称変更が、概ね浄土真宗親鸞の
生存中、西暦1260年までに、将棋棋士の間で
行われたのではないかと、ここでは推定する

と言う事である。
 むろん、仏教が盛んと言っても、宗派は浄土真宗
だけではなくて、日蓮宗等複数あるから、奔横を変
える要因が、これ一つであると断定はできまい。が、

聖道門的な真っ直ぐな動き成分が、将棋駒の”奔横”
に含まれているのは、全般の日本語体系から見て、
言葉として変だ

という意味に取れる、浄土真宗門徒が大将棋の棋士
に対してしたとみられる主張は、それなりに、尤も
らしく受け取られた事も、確かだったのだろう。
 だから、横超や竪超が、仏教用語として現われた
時期が、奔横が駒名として、使えなくなった時期だ
と考えても、さほどおかしくないような気も、私に
はする。
 もしそうだとすれば、遺跡の遺物からは、遺物で
ある奔横の時期は、たとえば、西暦1200年~
1275年程度だとまでしか、絞り込めないとして
も、消失が、親鸞が出現し、教行信証等を著作して、
竪超などの言葉を、流行らせたのが原因とすると、

出土駒奔横の時期は、概ね西暦1200年~60年
となって、本ブログの見解で、問題になる、
西暦1260年~1275年程度の成分が消失する

のではないか。一応、以上のような論理を、私は
親鸞と教行信証に関する情報から、その後考えた訳
である。(2019/04/27)

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鎌倉中期(1260)塵袋には横笛の”横”が記載(長さん)

前に、横という漢字の意味は、将棋駒の奔横、横行
のルールの変遷や、衰退に影響し、西暦1235年
までは、アウトローな向き、1290年までは、
横たわるの横、それ以降、生活や身持ちの乱れた人
を横行が指すようになったようだと、本ブログでは
述べた。
 これらはそれぞれ、二巻物色葉字類抄、十巻物
伊呂波字類抄、日葡辞書が根拠だった。
 ところで、だいたい西暦1235年成立の伊呂波
字類抄と西暦1603年前後成立の日葡辞書の間に、
西暦1260年頃に成立したとみられる、塵袋があ
る。今回は、西暦1260年頃の大将棋の横行の袖
移行に対応するとみられる、塵袋の”横”の使い方
を議論する。結論を書く。

”ヨコザマ”という言葉を”視線に対して直角”と
いう意味で、横笛の説明で使っている。が二巻物の
色葉字類抄のパターンに、字の上では戻ってしまい、
”横たわる”が、今の所見つからない。

では、以下に説明を加える。
 まず横とか横行といった見出し名は、

塵袋には見当たらない。

横は別の語句の説明で、相手に伝わるのを当たり前
と考えて、著作者が使っている熟語として出現して
いる。場所は、

”吹(く)”が項目名で、塵袋第七”仏事、宝貨、
衣服、管弦”のNo.46

である。東洋文庫(平凡社・2004)、塵袋2、
校注者:大西晴隆等では、2の67ページに記載さ
れている。
 訳が下手で申し訳ないが、ざっと訳すと。”(問)
一つ。律書音図で、笛を横吹というのは、よこざま
に持つという意味か。
(回答)その通りである。但し礼記によれば、横吹
は普通に、笛を吹くという意味に過ぎない。それが
端緒で、”吹”という字が、笛の意味に充てられた
という事である。なので、横笛という熟語も、同じ
意味だとみられる。”
となるかと思う。
 問いの”よこざま”は、”よこさま”と実質同じ
字を書いたつもりとみられ、西暦1260年前後の
塵袋も西暦1165年頃成立の、二巻物色葉字類抄
の横と、

実質同じ読みをしている。

ニ巻物色葉字類抄の”よこさま”をアウトローな向
きと、現代語訳したのは、本ブログの管理人なので、

差の正確な所は、良く判らない

と結論できる。情報量が少なく、残念な結果だ。

横笛の持つ向きが、視線直角なのが明らかだから、
塵袋の”よこざま”に、”方向に関して不規則性が
有るという証拠が、簡単には見つからないようだ”

というだけの事である。つまり、

西暦1260年の大将棋で、将棋駒の横行を、竪行
と角行と3つ組にして、袖に移動する事はできない
とする、積極的な証拠は、少なくとも見つからない

というだけが、今の所結論できるとみられる。
 つまり、アウトローな向きのうち、視線直角以外
の向きを示すニュアンスは、西暦1260年の横に
は、無くなってはきたような、

漠然とした感触は、その時点の辞書:塵袋には有る

という程度の事だと、ここでは結論する。
 なお、浄土真宗開祖の親鸞が西暦1255年前後
までには著作した教行信証ないし愚禿鈔(?)で、
横を訓読みで”よこ”と読む仏語が始めて発生した
との、未確認情報が”角川古語大辞典 第5巻”等
にある模様だ。更に調べる事にする。(2019/04/26)

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中将棋の記録著者岡野伸氏。中将棋平安期出現説へ転向(長さん)

表題の将棋史及び、中将棋研究、また東・東南アジア
のチェス、象棋型ゲームの歴史、ゲーム研究家として
名高い岡野伸氏より、色葉字類抄ニ巻物の、中将棋の
記載により、彼の従来の立場だった、中将棋初出は、
”南北朝時代か?”を、改め、

”平安時代末期までに”に、転向した

との旨の連絡を2019年4月に受けた。これにより、
”従前のままである”との立場を取る本ブログは、

同規模の二つの派の、一方程度に後退

する事になった。
 では、まず連絡の要旨を述べる。西暦2019年4
月中に、前記の将棋史を含むチェス型ゲーム史、ゲー
ム自体の研究家の、岡野伸氏より次の連絡があった。
①高価だったが、問題の尊経閣文庫蔵、八木書店(西
暦2000年発行)、二巻物色葉字類抄は購入した。
②”と”の雑物に裏横行銅将。109ページ~110
ページに大将基馬名と小将碁馬名。”き”に玉將、
金將、飛車、銀將、堅行、香車、白駒などを確認した。
③中将棋は、大将棋から平安時代末期までに考案され
たと考えられると見る。(以前の見方を変える。)
④中将棋の日本将棋プロの対局の直近は、神崎健二
7段と、中田功7段の対局である。(水無瀬神宮客殿
の写真を紹介されていた。
 岡野伸氏からの連絡は、以上である。
 個人的には”①痛い出費だ”と言っているようにも
取れる、彼の冒頭報告には同情しない。八木書店の回
し者になるつもりは毛頭無いが、事の重大性からみて、
彼の取った行動は、彼の立ち位置からは、当然の事だ
と私は考える。
 それはともかくとして。
 今まで岡野氏は、著書中将棋の記録(一・二)で、
南北朝期の遊学往来を、1662年の写本である点か
ら、多少の疑問符をつけて、南北朝時代成立と結論
されていた。が連絡から、次回の同様な表題のコンテ
ンツの中では、今の所中将棋は、

「色葉字類抄二巻本」の成立期の西暦1144年~
1165年の平安時代末期に成立

に、切り替えるつもりのようであった。
 これにより、中将棋の南北朝時代成立派は、その分
支持者が減少し、

南北朝派と平安末期派が、現時点でほぼ拮抗の状態

程度にまで、南北朝派は後退する結果になったとみら
れる。
 岡野伸氏と会話される際には、私が聞いている限り
少なくともごく最近は、”色葉字類抄二巻本の中将棋
記載部を根拠にして、中将棋の成立は平安時代末”と、
以上のように、自身の以前の考えを、変えられたよう
なので、御注意願えればと考える。(2019/04/25)

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西暦1996年㈱おうふう発行祭礼行事猪俣百八燈伝説(長さん)

今回は表題のように、栃木県小山市神鳥谷曲輪一文字
金成り角行駒関連と、本ブログが独自に疑う、埼玉県
児玉郡美里町の、猪俣の百八燈に関する論文、成書の
㈱おうふう発行、祭礼行事埼玉県、埼玉の祭り探訪、
”猪俣の百八燈”にも書かれた加藤健司氏による
”猪俣百八燈の由緒”に関する記載を、話題にする。
未解明の問題とみる内容を最初に書くと、史料として
の記録自体に、

戦国時代以前には、猪俣党が先祖崇拝を、していなかっ
たように見える不自然さがある

というものである。そして、それは史料が無いため
であり、栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館の

西暦2000年代終わりの頃に撤去された、屋敷神の
稲荷が室町時代にも、猪俣党には、先祖崇拝があった
証拠かもしれない

との旨を論じ、将棋の史料に関連すると疑われる物品
の地方公共団体による、十年程度前の

撤去は遺憾

と結ぶ事にする。
 では、以下に説明を加える。
 加藤健司氏の㈱おうふう発行の祭礼行事・埼玉県の
埼玉の祭り探訪”猪俣の百八燈”の出だし、
”猪俣の地と猪俣小平六範綱”に猪俣百八燈の由緒が
記載されている。要旨は次の通りに、なっている。
①祭りが行われている堂前山は、平安末期に猪俣小平
六範綱が館を構えたところであり、武蔵武士・武蔵七
党の一つ、猪俣党が、埼玉県児玉郡美里町を本拠とし
て活躍した史実が有る。
②猪俣小平六範綱は、一の谷合戦で平家の越中前司
盛俊を討って勇名をとどろかせた。
③猪俣党は、鎌倉期、南北朝期、室町期に存在した。
④猪俣党の終期の惣領の猪俣能登守範直が、安土桃山
時代に、後北条氏の北条氏邦に加担し、名故桃城争奪
戦で、豊臣秀吉の小田原攻めの原因を作った。そして、
小田原攻めの際に、現埼玉県大里郡寄居町の鉢形城に、
北条氏方として篭城して豊臣秀吉に攻められ、一族
もろとも、西暦1590年に滅ぼされた。
⑤天正年間の末年(西暦1592年)頃に徳川家康が
関東に赴任すると、徳川家康との関連は書いてないが、
猪俣党の本姓を名乗る、小野満開という宗教家が、
猪俣小平六の守り本尊を背負って、堂前山に草庵を建
て、盆に先祖の霊を弔ったと言われる。(火を使用)
⑥⑤の後に、小野満開の跡を、地元の若者達が継いだ。
⑦百八燈を作るという工夫等は、⑤の後に形成された。

 ここで問題にしているのは、室町時代や戦国時代に、
猪俣党は存在はしたが、

先祖の霊は弔っていたかどうか不明

だと言う事である。つまり、

はっきりとした史料が無いという事

であろう。傍証は、この地域にも寺院があると言う事
で、小山義政の乱、小山若犬丸の乱、小田氏の乱、
田村庄司の乱等の合戦で、猪俣党を、かり出していた、
鎌倉公方の足利氏満が、西暦1386年前後に広木地区
に、大興寺を新設しているという点がある。また広木上宿
から南北朝時代の五色宝塔が出土しており、加藤健司
氏も言及している、猪俣百八燈の中央の塚は、五重塚
という名で呼ばれており、概念として共通性が有る点
で、無形有形の証拠のようなものが、淡く残っている。
 だから、”小野満開”という宗教家が、堂前山
で、盆に先祖の霊を弔った、発起人だというのは怪
しいと、本ブログでは見る。猪俣党は安土桃山時代に、

 豊臣秀吉に攻められる以前にも、堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を、盆には弔っていた疑いも有るの
ではないか。

 つまり宗教家の小野満開は、
安土桃山時代に戦乱で、盆に美里町の堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を弔う行事が、一旦途切れたのを、
復活させた、

中興の功労者という事にすぎない

のではないかと、私は大いに疑うという事である。
 そこで根拠となる史料としては、ほんの十年前
までは実在した、

栃木県小山市天神町の小野塚イツ子氏記念館の、
敷地の、ど真ん中にあった、実質的に屋敷神である
稲荷

が挙げられるのではないかと、言う事になる。
何故なら、

その小野塚家は、室町時代の旧家だったから

である。また猪俣党を名乗る人物は通常、小野満開
がその典型であるように、小野の付いた苗字であり、
小野塚の中に、小野が有る。なお残りの塚は言うま
でも無く、墓に繋がる。また稲荷が、先祖霊崇拝の
アイテムであるのは、文献を挙げるまでも無く、
例外が無いほど、自明であろうから略すとして、
何れにしても、撤去されたのは、誠に残念だったが、

敷地のど真ん中に、デンと座ってかなり破格に広い
場所を占拠している、見ていて余裕ムードの稲荷

とキツネの置物が、確かにあった事自体は、私自身
が、撤去される少し前の某年8月15日に、確かに
確認している。その頃、下野新聞に写真が載ってい
たが、付近の庭木を撤去すると、更にいい眺めの、
水天宮風の、御ヤシロが稲荷についていた。
 ここで大事な事は、以前に述べたが

埼玉県児玉郡美里町猪俣とは隣接する、某大字地名
と全く同じ苗字の、”小山のまちづくりを考える会
の会長”を名乗る人物

が、今も在職と聞く”小山市市長派”と、地元で見
られているらしい、建設業者による稲荷の撤去に、

尋常で無い、怒りをぶちまけていた

と地元の新聞で報じられていた点だ。撤去者が市長
派なのは”特定の宗教的な文物を、小山市が推奨し
て保護できない”というような、史蹟保護に対して
比較的慎重な旨の文書を、当時小山市市長自身が、
出している点が、証拠とされているようだ。何れに
しても、史的事実として、

室町時代からの旧家なら、敷地の真ん中に有る事か
らみても、相当に大切にされる、先祖供養のアイテ
ムが、室町時代からあったと、一応見てよい

のではないだろうか。
 なお、”事件”は、今からたった約十年前なので、
webにも未だ、怒りをぶち上げていた当事者の氏
名や、元の都内の女子大学教授で、政治活動家の
小野塚姓の、親戚の人物の職場連絡先等が載ってい
る。証拠となる史料として漠然とした、しかし妙に
大切にされていた稲荷は、無くなったものの、
当事者住人や、私のような目撃者が、存在していて
記憶が残っており、完全には消滅して居無い史料と、
見なせると言う事かと考える。
 なお南北朝時代の小山義政・若犬丸の乱では、
小山氏の全財産を、結局の所、嫡男小山若犬丸では
なくて、小山義政の姉の息子の、結城氏の次男、
小山泰朝(後に改名したとの説有り)が相続する事
になった。そして、その都内の某女子大学教授で、
親族で、政治家の小野塚姓の人物の大学学生時代の
専門は、

”戦後”の相続制度と、相続税制度

であると聞く。成立時、武力というイメージを払拭
させる為に、GHQの影響で成立されられた感が強
いとされる、

現在の民法相続制度(ポイント→男女同等)の起源

の研究にも詳しいようだ。つまり、西暦1382年
と西暦1945年とが、二重写しにされている世界
が有るらしいと言う事である。
 そのため先祖が、西暦1381年頃から、屋敷稲荷
のある、栃木県小山市天神町に確かに住んでいた事
を、あたかも、その専門分野自体が、

淡く示唆するような、大学での研究経歴の持ち主だ

と常々、個人的には不思議に思っていた。
 ちらりと内容を見たような気がするのだが、以下
を確認する事が、今ではwebページが消失して、
できない。すなわちその内容とは、この小野塚イツ
子氏の親類の大学教授で、政治活動もされていた
小野塚某女氏は自身の大学の学生ないし教員時代の
論文として、

歴史的な相続制度の変遷や、日本の中世武家社会の
相続について、本論を論じる準備として等で、論じ
たよう

である。それは東京家政学院大学の紀要だったと、
私はウル覚えで記憶しているが、今も納められてい
るとも聞いた事が有る。だいぶん以前、15年位前
だと思うが、今は大学教授も定年退職されている、
その女性の方の、大学学生時代ないし教員時代の
論文の表題および、コンテンツ内のセクション名が、
webに出ていたように記憶している。東京家政大
学の紀要の34号~35号に出ていた論文の事かも
しれないが、詳細不明である。
 代々家に伝わる口伝を混ぜながら、論じた論文だっ
たとしたら、本ブログにとっては、

中世史史料としても、たいへんなお宝

だ。
 何故なら本ブログの思惑からすると、猪俣百八燈
を西暦1381年起源程度に、遡りたいからだ。
 従って本当に、それが期待通りのものならば、そ
れも将棋史にとって、貴重な史料の一つとかと見る。
なぜかというと、本ブログでは、

普通唱導集時代の将棋駒の駒総数108枚は、
108燈の108。5将は五色宝塔、五重塚の5だ
とみていたから

である。
 何れにしても繰り返すと、猪俣党を名乗る人物は、
通常小野の付いた苗字であり、栃木県小山市小野塚
記念館の小野塚もいっしょだし、怒りをぶち上げて
いた人物も、埼玉県児玉郡美里町町史にも載ってい
るように、平安末期の猪俣小平六範綱の、孫程度の
代から始まる、支族の苗字と同じである。なお、後
者の方の苗字は、武蔵七党・猪俣党の、構成一族
苗字一覧表にも含まれていて、埼玉県児玉郡美里町
猪俣の、至近の地名でもある。ただし小山市の小野
塚氏の苗字は、問題の記念館の元の住人にとり、
母系だったと、公開されていると認識する。
 よって今の所、残念ながら”現小山市市長によっ
て撤去されてしまった”と、小山のまちづくりを考
えるの会の会長と名乗る人物が、十年程度前に、
怒りをぶちまけていた、小野塚イツ子記念館の稲荷
は、猪俣百八燈式の、猪俣党等、武蔵武士による
先祖崇拝が、安土桃山時代起源ではなくて、

室町時代や、戦国時代にも有ったと疑われる、状況
証拠の疑いのある史料物品である

と、以上のように、捉えるべきかと私は考えている。
 よって、以上のように、地方公共団体の一による、
栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館に、十年
程度前まであった、屋敷神とみられる稲荷の撤去は、

遺憾な、歴史資料の破壊活動だった疑いも、未だ残っ
ている

という結論を、本ブログでは独自に、下しているとい
う事になるのである。(2019/04/24)
 
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鯨鯢の意味は日葡辞書成立の時代にも”一頭のくじら”(長さん)

前に述べたように、鯨鯢は、室町時代~戦国期に、鯨に、
雄鯨の意味が、後付加された可能性が強い。今回は、し
かしながら、日葡辞書の”鯨鯢”の項目を見る限り、①
”一頭のくじら”の意味が、安土桃山時代末までは残っ
ていたと見られる事を、示した上で、ここでは以下のよ
うに結論を導く予定である。すなわち、

②伊呂波字類抄、塵袋、日葡辞書等の中世の字典は、
日本将棋の歴史の研究者と異なり、注目熟語の数の多い、
日本の駒数多数将棋の歴史の研究者、愛好家にとり、
どれも大切な史料である

との旨を結論する。
 まず、日葡辞書(江戸時代草創期成立)について項目
鯨鯢には、要約すると次の旨が書いてある。

Qeiguei(鯨鯢)は鯨。
”鯨鯢の鰓(あじと、意味:エラ)に縣く”という諺で
有名。鯨に喰われる事。(”舞本;腰越”等で使用。)

 以上の内容から、鯨鯢に複数の鯨を意味するニュアン
スは、記載されているとは解釈できない。

①安土桃山時代の末頃でも、鯨鯢は”一頭のくじら”を
意味する場合が残っていた

と解釈できると思う。
 次に、辞書を変えて、モンゴル帝国来襲時に著作され
たとされる、塵袋の”獣虫”の麒麟の項目を見てみる。
たとえば塵袋を、今では、平凡社、東洋文庫、塵袋Ⅰ
(西暦2004年)で、見る事ができる。
麒麟は、雄が麟で雌が麒であると、和名類聚抄に書いて
あると、平安時代の和名類聚抄を引用している。だから、

①’鯨になったり、麒麟になったりはするのだが、熟語
を雄雌に分解するという発想は鎌倉時代初期までに成立

していた事が判る。
 なお、たまたまだが、今度は安土桃山時代最末期から
江戸時代草創期の日葡語字書には、”麋鹿”という項目
がある。私の持論の仮説と思っているが、猛将の洒落の
猛豹、悪党の洒落の悪狼と同じく、麋鹿(びろく)が元
で、飛鹿になったように、日葡字典を見てからは思えて
ならない。ただし飛鹿は、当然日葡字典には無いので、
証明はできない。
 こう考えるときには、まず飛鹿が考え出されてから、

実在感が薄いという意味で更に妙な、飛牛が後で発明

されたと、言う事になるだろう。そして、次のような事
になるのではないか。すなわち、
飛鹿の元が麋鹿で、大鹿と同じなのに、雌鯨という、お
かしな駒名が、中将棋に有った。そこで、雄雌に分解す
るという発想が、西暦1565年成立ではなくて、鯨鯢
が駒名として発生してから、さほど経たない、室町時代
前期の西暦1400年頃でも、考え出せたのかもしれな
いという事。
 だから漢詩として、日本の禅寺で、鯨雄説が出たのが、
西暦1400年と諸橋徹次の大漢和辞典から推定すると。
 若き日の雪竹老人(二十歳そこそこ)が、鯨を”雄”
と説いて、中将棋棋士仲間から、喝采を浴びたのが西暦
1500年。色葉字類抄1565年写書で、手直しした
のが、西暦1565年、雪竹老人が八十余歳の時という
パターンも、有り得るのなのかもしれない。あるいは、
”鯨が雄”を考え出したのは、雪竹老人ではなく、又聞
きしただけ。しかし色葉字類抄ニ巻物では、雪竹老人は
”鯨は雄”を、さも既成の日本語と言わんばかりに、
西暦1565年にたまたま入れただけ、なのかもしれな
い。元々西暦1400年程度で、鯨は雄が成立していそ
うな事が、諸橋徹次の大漢和辞典で示唆されてはいるの
で、個別には、いろいろな可能性が有り得そうだ。
 そこで次に、鯨でなくて別の話題に移る。戻って今度
は、モンゴル帝国来襲時に著作されたとされる、先にも
引用した中世の辞書”塵袋”の、分類”人倫”の項目名
”龍象”53を、たとえば平凡社、東洋文庫、塵袋Ⅰ
(西暦2004年)で、見てみる。
 そこには、提婆、馬鳴(めみょう。アシュヴァゴーシ
ャ。西暦80年頃~150年頃)という、2人の人名が

”並んで”現われる。

”高僧と龍・象が似合いの字で有るのは、どうしてか。”
という旨の、答えとして、塵袋では存在する項目である。

これは、摩訶大大将棋の、提婆と無明が、対で有るとい
うのに、近い表現

だ。なお、中世の辞書”塵袋”の、分類”人倫”の項目
名、”龍象”は、項目名からして、そうだが、日本の駒
数多数将棋の立場では、よい僧侶、象、龍という将棋の
駒名を思わせる言葉が説明文中に並ぶので、この辞書中
では、最も注意が必要な項目だと私は思う。

 馬鳴は、提婆と異なりコワモテの無い、直ぐに改心し
た良い僧侶だったので、摩訶大大将棋に入れるときに、
むみょう(無明)と、語句を取り替えたのではないか。

つまり無明も元々は、猛豹、悪狼、飛鹿の洒落の類なの
ではないか。そのようにも疑われるという事である。
 前後して申し訳ないが、龍象の項目は、その時代の
大将棋の中央部に、太子(高僧)、酔象、龍王、龍馬、
特に後三者が、既に初期配列で既に入っていたという、
本ブログの仮説(西暦1260年モデル)と良く合って
いると私は思う。”良い僧は、力が大きく、勢いが盛ん
なので、その様を龍象に例えた”との旨、本文末備に、
説明が有るようだが、いかにも鎌倉時代らしい発想だ。
 以上のように、伊呂波字類抄、塵袋、日葡辞書等の
日本の中世を挟む時代の字典類は、平安末期の色葉字類
抄に限定されずに、

②中世の字典類は全部、中世将棋史の研究にとって大切。

以上のように見なせるように、私には思えるのである。
(2019/04/23)

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和漢三才図会の将棋周辺語の日葡辞典で出現状況(長さん)

言うまでも無く、岩波書店の邦訳日葡辞書は、安土桃山
時代末から江戸時代草創期に掛けての日本語の、復刻が
目的の日本語→日本語辞書である。もともとは、その頃
ポルトガル人が作った、日本語→ポルトガル語辞書であ
り、説明ポルトガル語を、再度日本語にしたものである。
 そこで今回は、中将棋が有る事が、

どの程度異例なのか

を、江戸時代の百科辞典、寺島良安の和漢三才図会で、
遊戯が書かれている、将棋付近の項目が、岩波書店の
邦訳日葡辞書に載っているかどうかで、チェックして
みた。
 結果を書く
囲碁は”ご”として載っている。
双六は”すぐろく”として載っている。
小将棋は”しょうしゃうぎ”として載っている。
中将棋も載っている。
将棋は当然載っている。
将棋倒しも載っている。
大将棋は載ってない。
八道行成は載ってない。
蹴鞠は載ってない。
投壷は載ってない。
弾碁は載ってない。

以上の事から、結論としては、当時のポルトガル人には、

中将棋は蹴鞠より有名だった

事が判った。
 では、以下に詳しく述べる。
日葡辞書に、日本の江戸時代草創期の遊びが、全部詳し
く載っているとすれば、中将棋が載っていても、さして
不思議ではない。だから、以上のような調査には、意味
が有ると見られる。
 結果を見ると蹴鞠は、明治時代には、一般の日本人は
余りやらなくなったが、

安土桃山時代の、中将棋を指す貴族層にも、蹴鞠が廃れ
ていたとは、少なくとも私は聞いた事が無い。

だから、ポルトガルの宣教師たちは、日本語を知らない
と不便だから、中将棋を調べたのではなく、

遊戯具が特殊な形態であったため、驚いて調べた

と、蹴鞠さえ載せなかった事との対比から、明らかに推
定できると私は思う。

サッカーの上位概念と聞く、フットボールが既に、
スペイン・ポルトガルでも盛んだったのか?

とにかく宣教師は、蹴鞠は見ても、余り驚かなかったよ
うだ。あるいは中国にも有り、名称が類似で、辞書に載
せなくても良い程度と見たのか。正確には判らないが。
 何れにしても一見して、日葡辞書中の項目”中将棋”
の存在は、いかにも異形だったが。更に良く調べてみて
も、その第一印象がやはり正しかったようだ。
 ちなみに更に、辞書に載っている将棋駒名を調べてみ
ると、日本将棋の初期配列を、西洋チェス類似と即断し
て間違ったようで、角行が、単に動かし方のルールが同
じなだけの、チェスのビショップ(僧侶)相当のものと、
説明されている。また日本将棋の駒の、多くの物が紹介
されているが、王将、玉将、金将、銀将が抜け、辞書の
見出し熟語としても存在しない。龍馬は有るが、龍王は
将棋駒としての紹介は無い。
 特に、玉将、金将、銀将が抜けているのは、角行を、
銀将と取り違えたため、わけが判らなくなり、将駒を辞
書作成者に、宣教師等が紹介しなかった、ためだろうと
考えられる。つまり日本将棋の初期配列は、西洋チェス
と規模が、概ね等しいと認識されて、宣教師の関心が
それ以降薄くなったと、判断できるように私は思う。
ただし、何故か”王手”が有ったと思う。チェックの意
味かどうかは、日葡辞書の説明では良く判らないが。
 なお中将棋等、駒数多数将棋の構成駒についての説明
自体は、日葡辞書には余り無いようだ。国語として語句
の説明のための熟語としては、複数出ている。
(2019/04/22)

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川西奔横駒は十巻物伊呂波字類抄成立1135年以前か(長さん)

徳島県の徳島市の近郊川西遺跡より出土した、奔横
(異説有り)とみられる駒を、少なくとも本ブログ
では、西暦1260年以前に奔王駒に変化終了した
駒と見ている。
 しかしながら、該遺跡の年代は、遺跡の発掘報告
等から察して、たとえば西暦1200年~1275
年程度の間でしか、今の所成立年代を絞り込めて
居無いと、私は認識する。
つまり、未だ

西暦1260年以降、西暦1275年頃までは存在
し得る駒

だと言う事である。この期間に奔横駒が存在し得る
としてしまうと、横行が移動した後に、奔横駒が、
何らかの別かもしれない将棋の何処か、別の初期配
列の場所に有るのかも知れないか、または、
成書の”将棋の歴史”等で増川宏一氏が書いている
ように”単なる奔王のあて字”と言う事になってし
まい、本ブログにとっては、かなり都合が悪い。
 そこで今回は、二巻物色葉字類抄と、
十巻物伊呂波字類抄の”横”という漢字の記載内容
の僅かな差に着目し、より年代を絞り込んで、
下限(早い)はそのまま(西暦1200年)として、
上限(遅い)に関して、

奔横駒は、西暦1235年以降は存在しない

とみられる事を、説明する。
 差が何なのか、先に書いてしまおう。

十巻物の伊呂波字類抄にだけ、横に”ヨコタハル”
と書いてある

のに着目する。つまり、水平方向に向きが限定され
た観が強まるのは、十巻物が成立したと言われる、
鎌倉時代前期、つまり西暦1235年程度以降であ
ろうという論法である。
 では、以下に詳しく述べる。
 最初に記載事実を述べる。
まず三巻物は”よ”が欠巻なため、議論できない。
二巻物の色葉字類抄で横は、”ヨコサマ”である。
十巻物の伊呂波字類抄で横は”ヨコシマ、と、
ヨコタハル”である。
ただし、二巻物の色葉字類抄の横は、西暦1164
年頃迄に成立したとみられ、十巻物の伊呂波字類抄
の横の漢字の意味は、西暦1235年に成立したと、
本ブログでは解釈する。
 つまり、逆さまの類似語と見られる”ヨコサマ”
は、”アウトローな向き”の意味が強いとみられ、

目線に対して直角な意味が、比較的強いものの、
不定な向きとの意味を、西暦1235年までは含蓄
していた

のではないかと、本ブログでは考える。それに対し
て、十巻物の伊呂波字類抄で、事実上意味がいっしょ
のヨコシマに加えて、

”ヨコタハル”が加わってきたので、目線に対して
直角な意味である、現在の横のイメージが強まった

とも見る。むろん、平安時代後期に、”ヨコタワル”
が、全く無いとは言わない。枕草子や源氏物語には、
少しは”ヨコタワル”が使われていたらしいからだ。
 しかし、ここで言っているのは、鎌倉時代前期の、
西暦1235年までは、”ヨコタハル”よりも横と
漢字を書くと、”ヨコサマ”の方が、使われる頻度
が、高かったろうと言う意味である。
そして、何れにしても、

奔横という駒名を作ったときには、不定な向きと、
横が取れたほうが、すっきりした名称だったはず

だ。横へ動くが更に、”その動きが激しい”では、
横行と、何が違うのかが、駒名を見ただけでは判然
としないからである。
 横は、どちらかと言えば目線に対して直角な意味
が、比較的強いので、横行のときには目線に対して
直角に動く意味だが、奔を付けると、比較的不定な
向きとの意味の要素が強まると、将棋棋士に解釈し
て貰えれば、意思が伝わったという事に、恐らくなっ
たのではないか。つまり、

横の意味として、西暦1235年程度に成立した、
十巻物の伊呂波字類抄の”ヨコタハル”は、無い方
が良い

という事になるように、私には思えるのである。
 結局の所、そうすると、

奔横という将棋駒の名称が存在した時代には、十巻
物伊呂波字類抄が無かったのではないか

と、私には疑われるようになった。
 つまり、川西遺跡の少なくとも将棋駒が出土した
地点の年代は、共出土遺物等から今の所、
西暦1200年から西暦1275年程度にしか、
絞り込めないようだとても、奔横の意味が、そのよ
うな駒を作っても、今の我々の感覚のように、意味
不明にならないように、するという制限から、

西暦1200年~1235年の間と、より狭める事
も、ひょっとしたら可能なのではないのか。

以上のように、色葉字類抄の”よ”の”横”を見て
から、私は思うようになったという訳である。だか
ら将棋史家は、複数の意味で”横”を疎かにはでき
ないようだ。なお更に後に、横に関しては、
横行が熟語として、鎌倉末期に日本でも普及した。
 結果、西暦1235年までは、アウトロー方向。
西暦1290年までは”横たわるの横”。それ以降
は、日葡辞書にも有る、”横行は、生活や身持ちの、
乱れた人”に意味が、近くなって行ったと見られる。
(2019/04/21)

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雲南省晋寧県石砦山に漢代の金製の騎士彫刻有り(長さん)

本ブログでは、中国雲南省大理市の三塔主塔の金・銀・
ネフライト製の小型仏像の彫刻は、日本将棋の金将・
銀将・玉将のモデルとの立場を取る。時代は、日本の
平安時代の11世紀頃のものであり、現地では大理国
が繁栄していた時代である。三塔主塔の仏像は、大理
の王侯が他界した後の姿であり、彼らは生前、現地で
将軍イメージの王と、見られていたと考えれば、仏は、
将と実質同じだろうと考えられる。
 ただし、大理市の三塔主塔に、大理国の前の、南詔
国の宝持が含んでいるかどうかは定かでない。だから、
従来は、本ブログの言う、玄怪録の”小人の戦争”の、
金象将軍も、モデルが大理市三塔主塔の、黄金、金銀
仏が元かどうかは、不明であった。つまり、
唐代に、吐蕃国対融和路線を取っていた、王朝高官の
牛僧儒が著作した、怪奇小説のモデルになっているよ
うにも見える、吐蕃と唐王朝間の緩衝国家としての、

雲南の南詔国の将棋駒前身宝物が、現在の大理市の
三塔主塔に含まれるとは、自明には言えなかった

のである。つまりはこれでは、本ブログのように、

宝応将棋は、プロト大理国原始平安小将棋とは、簡単
には断定できなかった

という事になる。むろん、大理市の三塔主塔の起源
については、諸説有り、南詔国と全く無関係とは、言
い切れないとは、聞いているのだが。
(参考)
大理国原始平安小将棋
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
香車桂馬銀将玉将金将酔象桂馬香車
(但し、酔象は不成りで、現在の角行ルール)
宝応将棋(本ブログ)
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口口口口口口口口口口口
輜車天馬上将金将銀将上将天馬輜車
(輜車天馬は香車桂馬上将は飛車金将銀将は玉将金将)
 しかるに最近、雲南省昆明市にある雲南博物館に、
表題のように、金製の馬に乗った騎士、あるいは上将、
金象将軍のような人物造形物があると、聞き及んだ。
 すなわち昆明市は、11世紀には大理国の域内、唐
の時代には、南詔国の域内とみられるが、近くの漢代
とされる、雲南テン王朝時代の、富裕層の墓とされる
ものの中から、多数出土している動物闘争彫刻の類の
一つの造形物ではあるものの、一部に人間を表現した、
冶金製のパーツを含んでいるものがあるという、話を
聞き及んだのである。なお図の、平和そうな様子の牛
群は、実際には図で、下に切れた所に居る、どう猛な
虎、二匹に狙われている、雲南では名物の牛達である。

晋寧県石砦山.gif

 動物闘争造形物の全体像は青銅製で、前に、そういっ
たものが、雲南省博物館には、多数あると言う話を、
本ブログではした。問題の造形物も、同じ遺跡のもの
である。が、この闘争動物造形物に限って、動物であ
る牛群の所に、なぜか騎士の乗った馬が、一頭加わっ
ていて、その馬に乗った騎士ないし、金将軍、ある
いは、上将、象将を表しているようにも見える人物だ
け、銅製ではなくて、金メッキだというものである。
 ちなみに図で牛だが、雲南省は元王朝時代、豪族・
大名の名前の最初の一字が、猛である事が多かったと、
諸橋徹次の大漢和辞典に載っている。時代は下るが
鎌倉期に、”猛”を修飾詞とする将棋駒、猛牛が普通
唱導集時代の大将棋に加わったと本ブログで見るのは、
一つに雲南省の大名の苗字を、日本の大将棋のゲーム
デザイナーが、まさにこの、モンゴル帝国との戦争の
時代の、西暦1270年頃に、大陸からの戦略情報、
つまりは大理国の滅亡と、その後の状況として、知っ
ていて、上の図の雲南に多い牛を、修飾した猛牛とい
う駒名を作り出したからであろうと、見た為である。
 なお前に本ブログでは、この類の動物闘争造形物自
体が、後期大将棋の動物駒・摩訶大大将棋の動物駒・
中国現代ゲームの闘獣棋と全部、関連があるのではな
いかと、既に指摘した。騎士、ないし金将軍、上将、
象将の乗った、馬のある動物闘争造形物は、繰り返す
と、こうした他の雲南省博物館の、動物闘争造形物と
出土遺跡は同じで、遺跡の場所は、雲南省の昆明市に、
比較的近い、唐代には南詔国の域内の場所である。
つまり雲南には、中国の北宋や牛僧儒の唐代をはるか
に越えて

漢代から、上図のような”金の将軍”のような造形物
を含む、青銅彫刻を作る細工師がいた

との旨が、一般には中国では主張されているわけだ。
なお、年代で表記すると、遺物は紀元前2世紀と、
中国の美術史研究者には、考えられているそうだ。
 話が、余りに旨過ぎる感じだが、一応写真で見ると。
闘争している動物と、馬に乗った騎士は、互いに別時
代の事物ようにも私には見え、中国美術史家に騙され
た感じも多少しなくもない。ただ何分にも、外国の美
術品なため、このような造詣物が作られる、背景が私
には良く判らないし、確かに漢文化の影響のまだ少な
い時代のようにも見える。牛については日本の埴輪と、
カテゴリーが、類似かもしれない。ので、大理国の
遺物よりは古く、唐王朝期、南詔国以前の雲南省のも
のなのだろうとは思える。そもそも”テン国”という
国家が、本当に漢代にあり、出土物は、”そこの富裕
層の者の所有物で、その墓から出土した”という話で、

本当に合っているのだろうかについて、私は正直疑う。

 なお成書の説明によると、東アジア全体に、闘争動
物、つまり闘獣棋文化と言えるようなものは、元々広
がっていて、中国も、その文化圏の一部なのだと言う。
金のベルトのようなものに、戦う龍と熊の頭のような
彫り物が有る遺物が、中国国内の別の場所からも出て
いて、匈奴国が存在した時代のものだと、説明されて
いる。
 今の所、この金の騎士ないし、金象将軍ないし上将
像のようなものの存在からみて、

雲南には、ひよっとしたら、漢代ないし唐代から、
金将立体将棋駒前駆像を作り得る、金細工師が居た事
を示している

という事は、確かなのかもしれないという感じはする。
 ”東アジア全体に広がるはずの闘獣棋文化”を示す
彫刻・造形物が、雲南省博物館でしか大量には、日本
で出ている現代成書レベルで探しても、私には見当た
らないように見えるのも、変な話のように、私には
常々思えるのだが。
 一応、雲南省の昆明市付近から、牛僧儒の時代より
前から有るものだと言わんばかりに、動物闘争造形物
にくっついて、馬に乗った将棋の駒の金将、ないしは
小人の戦争の上将や金象将軍、東南アジアの、一部の
象駒の姿を連想させる、謎の

立体駒のようにも見える、金製の小型造形物体が出土

しているという事実自体は、どうやら確かである。
(2019/04/20)

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安土桃山時代の日葡辞典に中将棋が有る(長さん)

安土桃山時代最末期~江戸時代の最初期に、
ポルトガル人の宣教師の知識に基づいて作成された
とも聞く、日本語→ポルトガル語辞典に、将棋類の
うち、中将棋も”ちゅうしょうぎ”が読みとの旨で、
載っていると、最近詳しい辞書の幾つかで私は見た。

将棋のゲームバージョンの区分けがきちんとしたの
が、その数十年前であるという点から、驚くべき事

と思うので、その観点から今回は論じる。
 戦国時代まで、公家の日記に将棋とあっても、
日本将棋とは限らず、持ち駒タイプの平安小将棋か、
中将棋の可能性があり、最後の例が多いと聞く。
このような状態で中将棋という熟語を、外国人が
日本人から聞いて回るというのは、日本人にも確定
していない日本語を、発掘していると言う事だから

かなり異例だ。将棋という語を理解していれば良い

とみられるからだ。だから、
日本語→ポルトガル語辞書に、中将棋が載っている
のは、日本人の言葉を理解しようと言う意思とは別
の意図が有ると、私は思う。恐らく、

ゲーム具の外観に、欧州の来日者は皆驚いて、
”何だこれは”と思った

のであろうとしか、考えられない。
 何れにしても、辞書に書かれるほどであるから、
他に宣教師の旅行記も有ったに違いなく、その結果、

欧州人の多くは、日本の安土桃山時代に、中将棋の
姿を、ざっとはイメージ出来るようになった

と推定できると私は見る。日本人が、日本将棋と
中将棋を、分けて表現しなければマズイと考えるよ
うになったのも、以前に述べたように、”南蛮人の
渡来”以降に、間違いないと私は思う。
 そこで実際に、復刻書の一つである、岩波書店、
1980年発行の、”邦訳 日葡辞書”の中将棋
(CHUXOGUI)を見ると、”チェスに似た、
勝負事”の事との旨ある。ちなみに、将棋や将棋倒
しが別に有るが、日本将棋の方は、西洋チェスとは
比較していない。取捨てルールなのを、宣教師等が
実際に、日本人の中将棋棋士から聞き取って、確認
したのだろう。また、小将棋が(Xoxogui)
とされていて、”将棋に小将棋と中将棋が有る”と、
ポルトガルの宣教師は、説明されたのだろうと判る。
小将棋は将棋遊びの一種であると、解説されている。
ただし、小将棋は、”おしょうぎ”とは、江戸時代
草創期の西暦1609年頃には、呼ばれて居無い。

小将棋は、少なくとも近世には、”しょうしゃうぎ”
等と言われるようになっていたと、結論できる。

 なお、安土桃山時代に、西洋チェスと中国シャン
チーを、どの程度の日本人が、外見をイメージでき
たのか、史料が乏しい状態であると、今の所私は認
識している。特に、隣接する国のチェス型ゲームが、
ある程度、沖縄県以外で認知されていたとみられる
証拠が、余り見あたら無いのは、不思議と言えば不
思議な話だ。
 ちなみに、大将棋は日葡辞書には無いようだ。
近似する語としては、大将が”たいしょう”、
大将軍を”たいしょうぐん”と、たは”だ”と濁ら
ず、安土桃山時代の日本人は、発音していたらしい
ことが、日葡字典に載っているようだ。或いは、

大将棋も、”だいしょうぎ”ではなくて、
”たいしょうぎ”と、少なくとも濁らなかった

のかもしれない。ないしは安土桃山時代末には、

後期大将棋は廃れていたので、大は”たい”でも、
”おほ”でも、どうでも良かった可能性が高い

というのが、本ブログの見解だ。日葡字典にも、そ
の程度の物だったから、載せなかったのであろう。
つまり、大将棋は、

”タイシヤウギ”とカナがふられたり、
”オホシヤウギ”とカナがふられたり、
安土桃山時代末期の頃は、いろいろだった

のだろうという意味である。よって、

大将棋は事実として、一旦衰退したゲームの呼び
名なので、現代に蘇らせるとしても、現代人の都
合で読み方を、便利なように決めるべき

だと、私は見ている。
 蛇足だが、私には理由や規則が良く判らないが、
色葉字類抄は、どちらも”ヲ”とカナを振るので
あるが、大きいの大の時には、”うゐのおくやま”
の”お”に入れてカナは、何故か”ヲ”。小さい
の”小:読み『お』”のときには、”ちりぬるを”
の”を”に、必ず熟語を含めて漢字を入れて”ヲ”
と、こちらは正常にカナを振っている。大将棋は、
よって”おおしょうぎ”のケースでも、”ヲ”で
はなくて、当然”オ”の所に出現し、カナは、
これとは矛盾するが、”ヲヲシヤウギ”に、

仮想的に

なったはずだろう。
 また、日本語になったのが、より昔の単語に、
”おおきな”の形容詞の意味で”大”をフルとき
には”ヲヲ”とし、中国語から日本語に移行した
のが、平安時代以降の、”大きな”の意味をつけ
た熟語には、”タイ”と表記するという傾向も、
二巻物の色葉字類抄にはある。
 湯桶読みや、重箱読みは、やや少ないようだ。
ただし”ヲヲ”の割合は、中国語化が、明治時代
に進んだと聞く現代熟語よりも、割合として多い
と、私も認識する。よって、

ひょっとしたら、藤原頼長は”ヲヲシヤウギ”派
だった可能性が、否定はできない

と見る。しかし辞書の大象戯は、仮想的に、
色葉字類抄に存在したとすれば、象戯が平安時代
の新渡来の外来日本語であったため、音読みと解
釈されて、色葉字類抄では事務的に、

”タイシヤウギ”として、処理されてしまった

危険性も、結構有り得るように私は思う。
 元に戻るが、欧州人が、戦国時代中後期~安土桃
山時代前後に渡来したとき、中将棋に関心を向けた
のは、以上のようにほぼ確実と見る。だから、雪竹
老人西暦1565年写書の、二巻物、前田藩所蔵、
八木書店(2000)発行の、色葉字類抄”き”の
項目等に、中将棋最下段駒の一部が、雪竹老人によ
り、加筆されたのであろうと、私は考える。
(2019/04/19)

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色葉字類抄2巻物尊経閣文庫”牧”は鎌倉時代以降著作(長さん)

前に本ブログに於いて、尊経閣善本影印集成19、
八木書店西暦2000年復刻、色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編の上/下冊(2冊目)の末備、
西暦1423年写書者の後書と書誌書きの間に挟まっ
た、”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”記載部分の
成立年に関し、将棋史とは離れるのではあるが、

西暦1423年成立との説を、独自に提示

した。それに対してその後最近、大阪電気通信大学の

高見友幸氏により、平安時代末の成立

との旨の対立説が出された。”

延喜式が西暦900年前後に成立し、記載内容がそれ”

だというのが、根拠と私は認識している。そこで今回
は、以下に更にその

反論を書く

事にする。
 結論としては、

内容を仔細に見ると、平安時代の成立の文書にしては
矛盾する所がある

という点、室町時代足利義持~持氏対立の時代程度に
成立と考えたほうが、むしろ、つじつまが合うという
内容を以下に書く。
 結論となる根拠から最初に書く。
延喜式巻48の左右馬寮式御牧の内容に加えて、
武蔵牧に関して、それぞれは実在はしたが
”⑤小野牧、⑥秩父牧”が末備に加わっているが、

両方同時に書くのは、不自然な書き方だから

である。つまり、勅旨牧に西暦930年代に後追加さ
れた2つの牧は、”⑤小野牧、⑥’阿久原牧”等と、
本来なら記載されるべきである。

だから平安時代の文書としてはニセであり、鎌倉時代
以降成立したコンテンツである

と、本ブログでは結論する。
 では、以下に説明を加える。
 そもそも色葉字類抄2/4冊奥書途中に於いて、
こんな、おかしい書き方をする動機が、

私にはミエミエのように感じる

ので、それからとっとと書いてしまおう。
 コンテンツの作者は、武蔵武士の横山党、猪俣党、
秩父氏、江戸氏の歴史に興味が有ったので、鎌倉時代
以降に、既存の御牧に、小野牧と秩父牧という名称で、
西暦933年前後に、追加された牧名を、

加筆

したとみられる。さて、もう少し詳しく述べる。
 この既存の武蔵国の、西暦900年前後に成立し記
載された、延喜式巻48の左右馬寮式御牧
(西暦905年頃)の4つの牧に、”小野牧、秩父牧”
という組合せで、それぞれは実在の牧を名称として
加えると、論理的に、何がおかしいのかと言えば、

小野牧にも秩父牧にも入る、埼玉県児玉郡の個別牧場
が生じてしまう

からである。秩父牧が古代、漠然と大きな領域に広が
る御牧を指す言葉だったために、埼玉県児玉郡の特定
の個別牧場が、

両方に入ってしまう。

だから、平安時代に成立した官製の文書である延喜式
巻48の左右馬寮式御牧に、2つを加筆するにしても、

元文書が、朝廷の官僚作の正式文書では無い

と、ほぼ断定できると考えられる。
 こんないいかげんで、あいまいな文書を、わざわざ
書かなくても、web上の適当なページに有るように、
西暦930年代に追加した、武蔵国の2つ牧は、秩父
牧という、実在する日本語であっても、範囲が曖昧な
言葉は使わず、牧場や牧場郡を、より正確に特定でき
る、固有地名名をつけた牧名を使えば良いと、考えら
れるからである。
 しかし御牧が、正確にどれとどれを指すのではなく
て、牧に起因する歴史に興味がある人物が、延喜式巻
48の左右馬寮式御牧のリストに、武蔵国の2つの、
”追加牧”を、”小野牧、秩父牧”として加えたとす
れば、

どうして、このような書き方をしてしまったのかは、
ほぼ自明

だと、少なくとも本ブログの管理人は思う。
 このコンテンツの作成は、武蔵武士が、鎌倉幕府を
成立させる上で、功績があったと言う史実が、著名に
なった

鎌倉時代以降

に武蔵武士の、横山党、猪俣党は、小野牧の牧場の
管理者として、中央から帰任した人物の子孫。
武蔵武士として中世を通じて著名で、江戸時代の江戸
の元になった、江戸氏、秩父氏は、秩父牧の牧場の管
理者として、中央から帰任した人物の子孫、
という事柄に関して、関心があった等の人物が、個人
で作成したものと、考えれば良いからである。
つまり”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”記載部分で、
延喜式巻48の左右馬寮式御牧の記載(西暦905年
頃成立)に、小野牧、秩父牧を、この単語の組合せで
加えて、八木書店西暦2000年復刻、色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編の上/下冊(2冊
目)の末備、西暦1423年写書者の後書と書誌書き
の間に挟まった、”牧”を完成させたのは、

鎌倉時代の、個人の特定歴史領域への興味が原因

と考えればよいという事である、すなわち、以上のよ
うに仮定すると、小野牧、秩父牧と追加の武蔵国御牧
2つを書いてしまうと、

どちらにもだぶって所属してしまう個別牧場があると
いう点でおかしな書き方だが、それを敢えてしている

訳が、簡単に説明できるという事だからである。
 よって、色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣
文庫編の上/下冊(2冊目)の末備、西暦1423年
写書者の後書と書誌書きの間に挟まった、”牧”は、

平安時代に成立したとは、私には考えられない。

西暦1423年の写書者が武蔵武士、横山党、猪俣党、
江戸氏、秩父氏に興味が有って、彼自身が作成したか、
鎌倉時代に、武蔵武士に興味があり、御牧のリストと
して元からある、延喜式巻48の左右馬寮式御牧(西
暦905年頃)に、自分が興味を持つ、小野と秩父と
いう単語に引きづられて、その2語を使って、

曖昧に、追加の武蔵の御牧、2つを表現してしまった

文書を、更に1423年に転写したかの、どちらかだ
と、私は思う。
 従って、
少なくとも本ブログの”牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)”
記載部分の西暦1423年成立年説の批判として、

高見友幸氏の批判の根拠は、磐石な物とは言いがたい。

これだけは事実と、本ブログは考えるのである。
(2019/04/18)

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八木書店色葉字類抄二巻物大将基馬名に酔象が無い理由(長さん)

尊経閣文庫蔵の色葉字類抄2巻物、八木書店復刻
2000年発行には、第1冊/4冊の末尾に、
大将基馬名という付録文書がある。その中には、
後期大将棋の駒種名が、下段中央より袖に向かって、
次ぎ2段目という順序(但し、同率の時には左優先)
で並んでいる。ただし、本来酔象が有ると
将棋纂図部類抄や、江戸時代の将棋書から、ほぼ
自明に考えられる箇所には”酔(つぎに小さい字で)
裏太子”と書いてあって、象が抜けているように、
いっけんして見える。
 そこで今回はこの、酔象と書かれるべき部分に、
酔象と書かれず、酔と書かれていて、象が抜けて
いるように見える理由を論題とする。
 回答を先に書く。
1)大将棋に酔象は、この時代に有ったと見られる。
2)”基”付きで題字が書いてある点から見て、ど
こかの寺院に有ったと見られる、元史料としての
”後期大将基の史料”等が劣化していて、象の字が
判読困難だったので、正しく大将基馬名に転記記載
でき無かった為と考えられる。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
本ブログでは、西暦2000年に復刻版を八木書店
が出版した、西暦1565年雪竹老人書写、
加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫蔵の、2巻物の方の
色葉字類抄の5つの付録で
①大将基馬名と、②小将碁馬名は西暦1565年作。
③牧(甲斐・武蔵・信濃・上野)は西暦1423年。
④禅僧耆旧は、西暦1315年の作。
⑤異字は亀山天皇等の、敵国降伏を連想させるので、
仔細不明だが、西暦1315年作との立場を、2巻
物1565年書写、4冊本の構成の様子より、

独自に解釈

している。
 なお、これらはそれぞれ本文の中に無く、各写書
者の”後書き”の後に、配置されている。特に、第
1冊/4冊の、末尾の後書きおよび本の書誌を示し
た雪竹老人作の編年を書いた奥付と、①大将基馬名・
②小将碁馬名の間には、セパレータの意味だろうと
みられる、”遊紙”が一枚挟まれている。
 なお、西暦1315年の成立と見る④と⑤の、
禅僧耆旧は、”ぜんそうきじゅう”、異字は”いじ”
と読むと見る。また、そもそも色葉字類抄は、セク
ション名を、いろは順で並べた書籍ではなくて、個
別の漢字や熟語を、いろは順で並べている。そして、
付録①~⑤のようなセクション名は、本文中には、
ほぼ見当たらない。概ね、いろはにほへと・・それ
ぞれについて、セクションが、天象、地儀、植物、
動物、人倫、人体、人事、・・・・・疊字、諸社、
諸寺、国郡、官職、姓名、名字、というふうに、
47回繰り返すだけと、私は認識する。
 よって、大将基馬名はあくまで後付けの”付録”
の類であり、明らかに西暦1565年に雪竹老人の
手で、作成された文書とみなせる。

そこで本ブログでは、酔裏太子は、西暦1565年
と同年代の出土駒、一乗谷朝倉氏遺跡の成太子酔象
と同じ駒種で、象が抜けただけだと見なし、

ただし、用途は大将基馬名では、後期大将棋用、一
乗谷朝倉氏遺跡の酔象は、朝倉小将棋用と一応別々
だと考える。
 なおこの、色葉字類抄、付録①大将基馬名の酔の
記載については、大阪電気通信大学高見友幸氏の、
先行研究があり”酔という駒だ”と解釈されている。
どちらが正しいのかについては、
”酔と書いてあるので酔である”という説は、確か
にそう書いてはあるので、

高見説を完全に否定するのは難しい

と見る。これについての当否の決着は、今後、戦国
時代の、駒数多数将棋の文献が、更に出土するのを、
待つしかあるまいと、本ブログでは考える。
 ところで、本ブログのように、本来は酔象のはず
なのに、酔と書いてあると言う立場を、仮に取って
しまうと、

執筆者が錯誤した理由を、説明しなければならない

事になる。結論は冒頭に述べたように、原簿が劣化
して、字が消えたと考えたのは、以下の理由である。

日本の将棋の駒種に、一文字のものが、ほぼ無い。

だから、原著者が間違えるはずもないし、
大将基馬名執筆者が、間違えて象を抜かしてしまう
可能性も、余り無いと見る。実際、大将基馬名の駒
名の中で、一文字で書いてある駒は、ほかに無い。
 更に、たまたま幸運だったが、”酔”には成りが
太子と書いてある。だから元になった、寺等の文書
等には存在しない字を、西暦1565年の作成時に、
間違って入れたとも、このケースでは考えられない。
むろん、将棋纂図部類抄等、西暦1592年前後と、
比較的成立年が近い文献も、酔の所には、酔象を書
くべきである事を、明解に示している。
 だから残る理由は、虫食いか墨が擦れて来たかで、
1565年作成者の、恐らく何処かの寺院に有った
ものと”基”の漢字から判る、後期大将棋の元史料
の酔象の象の字が、良く見えなかったとみるしかな
い。字が見にくいので、書かなかったと見るのであ
る。つまり、色葉字類抄の第1冊/4冊で、後書き
をも書いた巻末付録作成者雪竹老人は、後期大将棋
に関する駒一覧を記載した、どこかの寺の文書を、
西暦1565年に写すときに、万が一の誤記を警戒
して、大将基馬名の中では、酔象の象の字を抜いた
のではないかと、私は考えるのである。
 逆に言うと、色葉字類抄二巻物(尊経閣文庫蔵)
の付録のうち、大将基馬名についてだけは、本来
あるべき字が、

象とは別に、他にも抜けている可能性が有る

と私は思う。更に推測だが、やはり小さい字で書い
た部分は擦れて見えにくくなりやすいのではないか。
だから、

裏金は、もっと有るのに、書いて居無い疑いもある

と私は疑う。実際、裏金のパターンは、陣の袖の方
に偏りすぎており、中央筋にもっと寄った所の駒、

たとえば角行が、戦国時代に金成りではなかったと
いう確証は、無い

のではないか。つまり色葉字類抄、第1冊/4冊末
備の大将基馬名文書は、水無瀬兼成の時代の、
将棋纂図部類抄の大象戯として、文献に見えている

実質同種類の将棋よりも多い、金の数の差が有った
疑いも未だ有り得る

と疑われる。以上のように、私は現在、事実認識を
するように、なって来ている。この、付けたしで今
述べたつもりの、成り金の数問題に関しても、戦国
時代の大将棋の史料は、更にほしい所だ。
 女王が導入され、ゲーム性能の向上の著しいチェ
スに、常々祖国の、文化レベルの高さの象徴として
誇りを感じていた、フランシスコ=ザビエル等は、
日本の貴族が難なく京都で、盛んに中将棋を指して
いるのに驚愕して、自己の認識の甘さと世界の広さ
を思い知らされたという事は、起こらなかったのか。
結果、日本の駒数多数将棋に関して、執拗に朝廷等
等に、問い合わせを、繰り返していてくれていたと
したら、将棋の歴史の研究にとっては、さぞや助か
るのにと、私は思う。(2019/04/17)

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普通唱導集大将棋動物配列は曼荼羅集大威徳明王と同じ(長さん)

これまで本ブログに於いて、平安大将棋の2段目
猛虎・飛龍間2空升目に、普通唱導集時代大将棋
で加わる動物は、普通唱導集の大将棋の唱導唄か
ら嗔猪は既知として、もう一種は十二支の、
方位配列見立てで、鬼門に当たる虎とペアの牛の、
猛牛だとしてきた。
 根拠として、方位円環の一部を抜き出したよう
に、・・龍、猪、牛、虎、(龍・・)と、たとえ
ば、2段目袖の左辺が並ぶ事になるという、

図的な尤もらしさ

からであった。しかしながら、中世に、

猛牛と猛虎を中心に置いた、十二支円環図が、
大将棋の配置のモデルとして、別の史料として有っ
たかどうかは、これまで未調査

だった。
 しかし最近になって、本ブログは遂に、それも
見つけた。
 表題に述べた、京都の、真言密教の研究僧、
観修寺の事相僧の興然が作成した図像集本である、

西暦1233年成立とされる曼荼羅集に書かれた、
大威徳明王の周りの、十二支の配置図が、前方正
面が、丑寅になっている

というものだ。

大威徳明王.gif

 つまり、曼荼羅集に書かれた、大威徳明王の
周りの、十二支の配置図は、明王の頭の左右に、
未と申があり、明王が乗っている水牛の左右に、
寅と丑が居る。なお、正確に言うと、観修寺の
事相僧の興然は、絵ではなくて、漢字を並べた図
で、曼荼羅集の大威徳明王の周りの、十二支配を
示す文書を著作している。その図を元に、絵を描
いたのが、西暦1233年に定真という絵描きで、
彼が描いた大威徳明王曼荼羅の絵(西暦2009
年時点で、静岡県熱海市MOA美術館蔵とされる)
の一部が、上図のようなものであるという。
 今までこの絵の内容に、私が気がつかなかった
のは、この絵を見た事が無いからではなくて、実
は、十二支の周りの火炎のような線が、この絵に
関しては、ごちゃごちゃ並存していて、十二支動
物が見づらいためだった。
 なお”大威徳明王が西方の神だから、未申が頭
の近くにある”という説明が、美術史本、日本の
美術518十二支、至文社(2009)にあるが、

そんなはずはないと思う。西は酉のはずだ。

 明らかに、曼荼羅集の大威徳明王図では、水牛
に乗った明王が、鬼門の方向に向いている図で、
鬼門を、戦勝祈願の神が睨む形であるという点で、
普通唱導集大将棋の2段目袖、動物配列(推定)
とコンセプトが全く同じパターンである。すなわ
ち、大威徳明王は北東の敵と戦って、戦勝しよう
としているように、少なくとも私には見える。
 このパターンは、本ブログの独自”推定”とさ
れるものの具体的内容として、

普通唱導集大将棋に移行するように、猛牛と嗔猪
を平安大将棋に加えればよいと言う事と良く合う

という訳である。つまり、足りない駒もう一種は、

猛牛駒だ

という事である。
 今まで私は、この手の仏教画は、妙見菩薩の
12神将図が北の子が上で、菩薩の進んで行く
方向である前方(下)が南、その他の12支の動
物の付記された仏像は、大概上が午(南)で、
向かってゆく方向は、子すなわち、北というもの、
ばかりだと思って、普通唱導集大将棋との関係付
けを、半ば諦めかけていた。しかし探せば、鬼門
を睨む仏像というのが、有りそうだったが、本当
に有るものである。
 尤も、興然が作成した十二支入りの大威徳明王
図は、そうなっているが、同じ大威徳明王図で、
十二支の入っている、覚禅鈔の大威徳明王図は、
上が午で、向かってゆく方向は、丑寅ではなくて
北(子)だという事だ。なお覚禅鈔は、絵として、
曼荼羅集より成立が、遅いらしい。また、平安末
期のより早い、十二支入りの大威徳明王図では、
頭に子と丑が書いてあって、大威徳明王の向かい
先は、午と未の間になっているものも、あると言
う事だ。最後のは、北宋王朝から伝来した、オリ
ジナルの形だとも言われている。
 繰り返すが大事な点は、

大威徳明王は平安時代の末から、合戦の戦勝祈願
の神様となっている、五大明王である

という点である。これは普通唱導集時代の大将棋
が成立した時代に必要だったアイテムそのものだ。
だから、モンゴル帝国の来襲に合わせて、このよ
うな仏画が、実際には大量に作成され、それが、
大将棋の初期配列に取り入れられたと考えるのは、
全く自然な事だと、少なくとも私には思われる。
 以上の事から、西暦1233年より少したって
からモンゴル帝国来襲の頃に、興然作の曼荼羅集
の大威徳明王図(口伝とみられる密教儀軌を、根
拠にして作成)が、そのものずばり、
普通唱導集大将棋の、初期配列作成に影響したと
結論して、全くおかしくないように、私には思え
たのである。(2019/04/16)

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南北朝時代の小山義政が鎌倉期大将棋を所持の理由(長さん)

本ブログでは、実際に栃木県小山市神鳥谷曲輪から
出土した、裏一文字金角行駒は、江戸時代の(一例)
十代将軍徳川家治期の模写物と、今の所疑っている。
 数メートル以内の精度で共出土した、女物の下駄
と櫛の破片と共に、室町戦国時代の廃尼寺、栃木県
小山市の青蓮寺の、

観光客用の由緒説明の陳列品の一部のように、出土
将棋駒が見えるため

である。いわゆる下世話に言う、寺の”宝物”の類
という意味だ。つまり

現物自体は、摩訶大将棋の角行で合っている

のではないかと私見する。
 ただし、

西暦1382年頃まで、小山氏当主の小山義政が、
普通唱導集大将棋を所持していて、その駒と形態が
近いという事実が、背後に有る

のではないかとも、疑っても居る。
小山義政の乱のときに、小山義政軍と戦って、甚大
な犠牲者を出した、武蔵武士の猪俣党の本拠地、
埼玉県児玉郡美里町の猪俣館で夏休みに、
普通唱導集大将棋の駒数に等しいと見られる、

108騎の兵の霊を慰めているという感じの、燈火
台に火を灯して祭る、猪俣百八燈を、”何時始まっ
たのかもはっきりとは判らない、昔から続けている”
(web。wikipedia”猪俣小平六”より)

という事実があるからである。西暦1381年の
乱の直後に、敗軍の将の城の宝物等に関しては、
勝者側に管理が引き渡されたり、事情を説明した上
で、親類で乱に係わらなかったものに引き渡された
り、それなりの情報交換が当然、有ったとみられる。
 前に述べたように、大将棋の道具があるという、
小山氏の誉れについて、勝者である猪俣党の誉れと、
合戦の結果に応じて同一視され、勝利者側の戦死者
の弔いに生かされたと、推定できるのではないか。
 なお、美里町の広木上宿遺跡の宝山寺跡から、
五色宝塔という、普通唱導集大将棋の将駒の種類を
連想させる、仏具が出土している。ちなみに、戻っ
て猪俣百八燈の、中央の大きな2つの燈火台は、
五重塚と言われていて、出土遺物の五色宝塔に関連
が疑われる。
 更には、小山義政本人自体が、第2次小山義政
の乱の直後に出家しており、猪俣党の戦死者の弔い
に対して、将棋駒の所有者が、係われる状況に、少
なくとも一時期有ったとみられる。そのためか燈火
台群は、五重塚から左右に、将棋の両軍の如くに、
54基づつ配置されていて、一般的に見て、配置に
将棋との関連性が疑われる。なお、南北朝時代の、
異制庭訓往来には、将棋は合戦を模したものとある。
 次にその他の美里町の史蹟として、小山若犬丸の
乱等に対応のためか、小山義政の乱鎮圧の首領、
鎌倉公方の足利氏満が、戦死者で満杯になった廃寺
宝山寺のほかに、大興寺を新設したとみられる点が
ある。また同町広木地区に有る摩訶池が、将棋の
摩訶大将棋を連想させる事など、関連性を疑わせる
ものが、他にも有る。特に最後に述べたものについ
ても、話として変形はしているが、

小山義政の将棋駒と、埼玉県児玉郡美里町の事物の
関連として

挙げる事ができると見る。つまり最後の池の名の由
来は、摩訶般若経の摩訶と、猪俣百八燈が、後期大
将棋とは違うゲームである普通唱導集大将棋が、
元ネタなので、130枚制の後期大将棋ではなくて、
摩訶大将棋なのだろうと、室町時代に勝手に誤って、
猪俣百八燈元ゲームを解釈したための、命名だとと
れまいか。つまり、

猪俣百八燈というのはあるが、猪俣百九十二燈が無
いのが根拠

という意味だ。恐らく本当は、普通唱導集大将棋の
道具を、小山義政は持っていたのだが、江戸時代ま
でには、角行の裏表がいっしょの、摩訶大将棋を持っ
ていた事に、話がすり替わってしまったのであろう。
 なお鎌倉幕府成立時の、下野小山氏の活躍と対応
して、武蔵武士、猪俣党にも鎌倉時代草創期の、
猪俣小平六の伝説がある。小山三兄弟伝説で、下野
小山氏を持ち上げるのと同様の理屈で、武蔵猪俣党
を持ち上げるのは充分に可能だ。従って、

猪俣百八燈を見れば、普通唱導集大将棋が見えてく
るという仮説は、充分成り立ち得るのでは無いかと、
私は思っている。

 よって私は、栃木県小山市が拠点の小山義政は、
普通唱導集大将棋の自己の所持の証拠を、地理的に
隣接はしていないものの、埼玉県児玉郡美里町に、
残していると、今の所見なしている。
 所でそう考えても、次の2点が、小山義政関連、
角行駒には疑問として残る。
①なぜ一文字の”金”に成るのか。
②西暦1290年の大将棋具を、西暦1382年と
いう、百年近く後に、どうして小山義政は持ってい
たのか。
 ①についてはだいぶん前に述べた。それによると、
麒麟抄に見られるように、南北朝時代に、駒数多数
将棋の成りで、金に成るものの種類がたまたま増し
たために、

西暦1290年タイプと西暦1320年タイプで、
普通唱導集大将棋の成りのルールが違い、小山義政
は、後者のタイプを持参していた

と、本ブログでは説明している。金成り駒の流行の
原因は、京都及び吉野の公家の、たとえば堀河関白
と言われた近衛経忠が、横行の中国語の意味を知っ
て、角行、竪行、横行を、西暦1333年の

建武の新政の頃の前後に、不成りから金成りに変え、
彼が作った駒を、小山義政が持っていた事情が有る

のではないかと、金成り駒が増えるメカニズムに関
しても少し前に、本ブログでは述べた。
 以上のようにして、摩訶大将棋の駒に、栃木県
小山市神鳥谷曲輪の小山義政館駒が、すり替わって
しまった原因は、角行が両方にあり、かつもともと、
全く裏表とも同じパターンだったとして、説明でき
るのではあるまいかと、思われる。
 次に、物持ちが良いにしても、100年近くある、
実際に使われた時期との差について、今回の題名で
ある②を、ようやくで恐縮だが、以下に論じる。
答えを先に書くと、
1)小山義政は先代の相続品を預かっただけという
のが半分。
2)小山氏自体が、鎌倉時代の旧家なので、南北朝
時代には、鎌倉時代の装飾物を家に置くのを好んで
いたとみられるのが半分である。
 以下に委細に説明する。すなわち1)から入ると、

将棋道具を贈答されるような動機付けの有る、小山
氏の南北朝期の殿様は、小山義政ではなくて、彼の
2代前の、数十年差が有る小山朝氏である

という点を、まず述べる必要がある。簡単に言うと、
小山義政は、完全に室町幕府派だったので、他の政
治勢力、たとえば南北朝時代の南朝方から、働きか
けを受ける動機が、基本的に無かった。その状況は、
彼の父の、小山氏政についても同じである。蛇足だ
が、彼の息子の小山若犬丸は、自身の勢力が衰退し
たので、自分の方から南朝残党を利用した。
 それに対して、小山義政の叔父で2代前の、小山
氏の当主で、中先代の乱の直後から、建武の新政
(西暦1333年)頃に、既に小山の殿様であった、

小山朝氏は、政治的立場が不安定で、転び易かった。

だから、たとえば南朝方の、先の関白近衛経忠から、

贈り物攻めに、されただろうと見るのは自然

だったのである。だから、小山義政の所持していた、
普通唱導集大将棋の道具は、西暦1381年時点で、
小山氏の手元に有った事は確かだが、

作られたのは、西暦1340年代頃とみた方が自然

だと私は思っている。つまり、

小山義政の持っていた普通唱導集大将棋は、不成り
駒の多い西暦1350年タイプではなくて、金成り
の多い西暦1320年型なのは、元々前の代の殿様
の所持品を、相続しただけだから

という事である。
 よって西暦1320年タイプのこの、かつては有
り、神鳥谷曲輪角行出土駒の元になったとみられる
普通唱導集大将棋駒は、西暦1340年代に、京都
及び吉野の公家で関白の南朝方、近衛経忠作の疑い
も、かなりあると言うことである。
 しかし、それでも、次の疑問が残る。
西暦1340年には、普通唱導集大将棋は廃れてい
たのに、なぜ喜ばれるだろうと思って、レトロな、
西暦1290年の記憶を散りばめたそれを、京都及
び吉野の公家の堀河関白、近衛経忠らしき人物は、
小山朝氏に贈答したと考えられるのかだ。つまり、

それでもまだ、だいたい50年位遅い

という意味だ。
 これについては、私はこう考える。
小山氏は鎌倉時代に源頼朝に早々に加担して、のし
上った、鎌倉時代の旧家だと、南北朝時代には見ら
れていた。
 だから京都及び吉野の関白、近衛経忠は、館の飾
り物として使用できる

鎌倉時代の栄華を象徴する物品を小山朝氏に送れば、
実用性が乏しくても、小山朝氏が喜ぶだろうと予想

してプレゼントした。
 以上のように考えると、西暦1381~2年頃に、
小山義政の館等に、西暦1290年頃最盛であった、
普通唱導集大将棋、ただし西暦1320年タイプが、
有ったとしても、矛盾がない事になるのではあるま
いか。
 つまりこれは先に述べた、武蔵武士、猪俣党にも
合戦後に写し変えられた”下野小山氏の、鎌倉時代
初期よりの栄光の歴史”から来ると言う事である。
だから今後、出土駒を探しても、普通唱導集大将棋
の遺物に関しては、

南北朝時代の遺跡からは、鎌倉時代から続いていた、
旧家のような所からしか出てくる事は期待できない

と、一応予想はされる。以上のように結論できると、
私は考えているのである。(2019/04/15)

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熊澤良尊普通唱導集大将棋のチェック結果(長さん)

前に述べたように、桂馬列を鉄将と香車列の間に置く
のではなくて、銀将列と銅将列の間に置く将棋駒作家
熊澤良尊氏が、前世紀に提示したとみられる、桂馬が
銀と銅の間に移動する平安大将棋は、下記のように、
飛龍と猛牛を交換、鳳凰と麒麟を交換した、熊澤良尊
型普通唱導集大将棋(仮説の変形)を生むとみられる。
この形は、飛龍が、仲人に押さえられた、角行後ろの
歩兵に、通常のようには当たらないため、序盤の攻撃
に、大きく参画し出す点が、スタンダード平安大将棋
から出発した、本ブログ仮説の、13升目108枚制
普通唱導集大将棋とは異なっていると考えられる。
熊澤良尊普通唱導集大将棋の初期配列は、以下の通り。

香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎鳳凰酔象麒麟猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車

そこで、さっそく今回は、実際にテスト指しして、

仲人と嗔猪が腹を合わせ桂馬を登せても支えられない

のを確認してみた。
 一例として、例えば下記のような展開になるようだ。

熊澤普通唱導集.gif

 この局面では、両方の陣とも左辺が破られ、成り麒
麟をお互いに作るか、その寸前の所である。なお、
この局面では、3十一位置の竪行が、壁駒になってい
て、先手の守備力を低下させており、先手が苦戦だ。
 すなわち実際に指してみると、相手左横行先の歩兵
を取った駒は、相手の左横行でとられ、その相手の、
左横行を取った別の攻撃駒は、猛牛で取り返されるの
で、標準的な、仮説普通唱導集大将棋と違い、猛牛の
防御力が、有る程度有るのは確かだ。しかし、角行に
しても飛龍にしても、自分の駒同士は筋が合っている
ので、左右2枚ずつで攻撃でき、従って、上の局面
もそうだが、お互いの左袖は、比較的簡単に破れる。
 つまり、

序盤から、斜め走り駒をお互いに使って、攻め合うし
か無い、将棋になる。

これは、少なくとも普通唱導集の大将棋の唱導唄で、
仲人位置を、嗔猪と桂馬で固めて、局面を一旦収める
という主旨の内容とは、明らかに

合って居無い。

だから、熊澤良尊氏の平安大将棋から、普通唱導集大
将棋へ変化するには、自陣四段化した後に単に、空い
ている所に

新たな駒種を入れ込む程度では、だめ

との、前に述べた事が正しいと言えるようである。
(2019/04/14)

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平安大将棋初期配列の熊澤良尊説は妥当か(長さん)

平安大将棋は、左右対称なので、中央列から袖に向かって
初期配列を書くと、普通は4段目から下が次のようになる。
注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車
それに対して、前世紀の後期に、現在も書き駒師として著
名な熊澤良尊氏が、二中歴の大将棋の記載の誤記から、平
安大将棋は、以下のような初期配列と解釈できるという説
を、出典は将棋雑誌とみられるものに、掲載したと、私は
聞いている。
注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行口口猛虎飛龍口口口口奔車
玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
本人のブログがweb上に公開されているので、ひょっと
すると、探せばそこにも書いてあるかもしれない。
今回は、その熊澤説の妥当性を論題とする。
 先に結論を書く。
従来の説が勝ると見る。ただし、

完全否定は無理だ。

ちなみに、上記結論を本ブログが出した根拠だが、確かに
二中歴の大将棋の初期配列の記載には、誤記がある。
そこで、著者の立場に立って、執筆時に誤記する過程での

心理分析をしてみると、熊澤氏の言うような真配列から、
間違えたと見るには、無理な所があると本ブログは考える。

以上が理由である。
 では、以下に説明を加える。
 まず事実認識として、二中歴の大将棋の記載の間違いと
いうのは、内容を羅列すると以下のような3点である。
1)桂馬が書いてない。そのかわりに2回銀将が出てくる。
2)鉄将の横の動きは、銅将や桂馬、香車のルールから
見て、本当は無いのではないかと、少なくとも本ブログで
は疑っている。
3)最後の十文字の内容が不明で、誤記のように見える。
ここで問題にするのは、初期配列に係わる、

1)の桂馬と銀将の位置の記載の問題だけ

である。
 次に、この1)の点に着目しながら眺めると、二中歴の
記載内容は、およそ次のようなものである。
①最初に玉将を真ん中に置くと書き、次に金将と銀将の
位置を、その前に記載の駒に関して”隣に何を置くのか”
という回答として述べている。
②次に、”ついで”という接続詞を使って”銀将、銅将
鉄将が並んでいる”との旨述べている。結果、銀将が、
続けて2回書かれている。

③桂馬が書いてない。

④”次ぎに鉄将”に続けて、”次に香車を置く”との旨を
書いている。
⑤以下、銅将と鉄将の駒の動かし方のルールが書いてあり、
ここにも間違いが有るが、初期配列ではなくて駒の動かし
方ルールのカテコリーなので、⑤からしばらくは、ここで
の議論に関係が無い。
⑥横行の位置と駒の動かし方ルールが書いてあるが、⑥も
変わらないので、ここでの議論に無関係。
⑦猛虎の位置と駒の動かし方ルールが書いてあるが、⑦も
変わらないので、ここでの議論に無関係。

⑧飛龍の位置が桂馬の前の升目らしい事が書いてある。

⑧は桂馬の位置に関する事なので、ここの議論にきく。
動きのルールは、ここでの議論に無関係。
⑨以下に、奔車と注人の位置、駒の動かし方ルールがある。
ここでの議論に無関係。本ブログの解釈では、以下に注人
を例に引いて、成りに関するルールが書いてあると見る。
それで終了と見るが、ここでの議論に関係ない。
以上である。
 単刀直入に言うと、
 熊澤説を取るとするならば、
A)①で玉将と金将と銀将と桂馬の位置を書くつもりで、
桂馬を落としたか、または、
B)②で桂馬、銅将、鉄将が並んでいると述べるつもりで、
桂馬の代わりに銀将と書いたか
のどちらが間違いのパターンとしか、私には考えられない。
そこでA)だとすると、その場合だと、
②はもとのままで、銅将から始まり、単純に1枚駒種が足
りなくなるだけのはずなので、A)では無い。つまり、

B)の場合だけ精査すれば良い

という事である。
 大事な点は、B)だとすると二中歴の著者が、

現実として、桂馬と書くつもりで、銀将と今まさに書き
出していると言う事

である。
 心理的に見て、間違って桂馬と書くつもりが、銀将と書
けば、二中歴の大将棋の著者が少なくとも、正しい配列を
頭に入れて、その後に書いているとすれば、また桂馬と、
頭の中に、又思い浮かべるのが、普通なのではないかと、
私は疑う。

だから、桂馬と書くつもりが、銀将と書いてしまえば、
また桂馬と書こうとして、はたと自分の間違いに、気が
つくのが常

なのではないか。
 だから、B)のような事は、現実には起こるとは考え
にくいのではないかと、私は疑う。
 つまり、熊澤氏の言う配列が、真配列のケースは、二
中歴のような実際の配列混乱のパターンとは、別の記載

A)のように誤って、銀将がだぶって、2回にはならず
に1回になる”単純桂馬落し”のパターンになる

のではないかと、私は疑うのである。
 それに対して、従来のように、
①を書いてから、何処まで書いたのか忘れて、銀将を
ダブらせて②を書いてしまい、袖の2種類の駒は、筆者
の、存在に対する意識が、将型の駒に比べて低かったので、
桂馬は忘れたと考える、という間違いの原因推定の方が、
説得力の点で、

熊澤説よりは、相対的に勝っている

と私は評価する。
 だだし、古文書が間違えているから、その心やホント
の内容に関して、複数の説を比べるという議論に関して、

さほどの精度が出るとは、私にも思えない。

だから、

熊澤説を否定するのは困難で、せいぜい”2番手である”
と順位付けできる程度

だと考える。
 ちなみに、熊澤説が正しい場合には、その熊澤型二中
歴大将棋は、次のような、熊澤型普通唱導集大将棋へ移
行するだろうと、本ブログでは予想する。

香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口口
口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行竪行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車猛牛嗔猪飛龍猛虎鳳凰酔象麒麟猛虎飛龍嗔猪猛牛反車
香車鉄将銅将桂馬銀将金将玉将金将銀将桂馬銅将鉄将香車

一段目が違うが2段目も、右辺猛虎飛龍嗔猪猛牛の方が、
”地”に変わるので、

麒麟と鳳凰の位置が、逆転するはず

だ。再度、カンマを付けると下のようになる。

香車,鉄将,銅将,桂馬,銀将,金将,玉将,金将,銀将,桂馬,銅将,鉄将,香車
反車,猛牛,嗔猪,飛龍,猛虎,麒麟,酔象,鳳凰,猛虎,飛龍,嗔猪,猛牛,反車
飛車,横行,竪行,角行,龍馬,龍王,奔王,龍王,龍馬,角行,竪行,横行,飛車
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口,口口
口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口,口口,口口,仲人,口口,口口,口口
歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵,歩兵
飛車,横行,竪行,角行,龍馬,龍王,奔王,龍王,龍馬,角行,竪行,横行,飛車
反車,猛牛,嗔猪,飛龍,猛虎,鳳凰,酔象,麒麟,猛虎,飛龍,嗔猪,猛牛,反車
香車,鉄将,銅将,桂馬,銀将,金将,玉将,金将,銀将,桂馬,銅将,鉄将,香車

 上の配列をエクセルに、コピー読み込みして、チェックして
みてもらいたいが、右袖への攻めが、左袖に変わる点に
注意が要るが、猛牛は塞象眼がある2升目先制限走りと
仮定するので、飛龍と交換しても、守り方のパターンは、
普通唱導集大将棋第2節のままであって、変化が無い事
に注意すると、
”仲人と嗔猪が腹を合わせ、桂馬を飛ばして角アタリは
防御して、支え”ようとするだろうが、飛龍と龍馬が、
共同で、相手左飛車に当たるようになるので、2枚の

飛龍が、初期攻撃に加わる効果は甚大だろう。

そのために、猛牛が袖に来る事により、防御力は多少は
増すものの、唱導唄のようには”支えられない”
のではないかと、私には疑われる。つまり、

元が熊澤配列で、そこに駒を足したのでは、普通唱導集
に唄われている普通唱導集大将棋(仮説)とは合わない

とみられると、言う事である。
 ただし繰り返すが、熊澤説は、②で桂馬と書くべき所
を銀将と書いたら、

気がつくはずだ

という、筋の細い推定によって、かろうじて疑われてい
る程度だ。
 このような議論には一般に、閉塞感が充満しているの
は当然であり、将来なんとか、別の根拠が見つかるのを
期待するのが当然だと、私も当たり前だが思っている。
(2019/04/13)

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仮説普通唱導集大将棋で角行竪行横行と並んだ配列の訳(長さん)

少なくとも本ブログでは、鎌倉時代の大将棋、すなわち
本ブログの108枚制普通唱導集大将棋は、13升目
で、飛龍列がまだ無く、第3段目の袖からは、飛車・
横行・竪行・角行と配列されていると考えている。
つまり、後期大将棋で3段目が中央から、
奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛龍・飛車と
配列されたのは、15升目にしたため、1列不足で、
飛龍列が出来たという解釈だ。なお、中将棋で、
獅/奔、龍王、龍馬、飛車、竪行、横行としたのは、
斜め走り駒の先制攻撃が、強力すぎないように、角行を
下げて、普通唱導集の言う”飛車が無くなっただけで、
勝負が決まる”という難点を避けるつもりで、飛車と
竪行と横行の場所を交換したためとも考えている。
つまり、

奔王・龍王・龍馬・角行・竪行・横行・飛車という配列
が、オリジナルだというのが、本ブログの主張

だ。今回は、飛龍列が余分に入って、後期大将棋では
不規則化しているものの、大将棋で、角行・竪行・横行・
飛車という袖配列を、

何を考えて、デザイナーが作ったのか

を論題とする。回答を書いて、ついで説明する。

平安大将棋で、横行と奔車は、動きが不規則

で、速度ベクトルの方向はもちろんの事、加速度まで
不定な、動きをする事物を指すと、普通唱導集時代の
大将棋のデザイナーは考えた。どちらも、規則的な名称
の駒が有ると見えるように整理して、

揃って3つ組

で、駒の動かし方ルールの、判りやすい名称の駒だけに
しようとして、香車・反車・飛車の端列と、
角行・竪行・横行の3段目袖配列を作ったと考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 諸橋徹次の大漢和辞典等にあるように、平安大将棋の
奔車は、著名な熟語であり、向かう向きだけでなくて、
加速の仕方を含めて、不規則な動きをするため”孔子も
乗り物として使用しない車の事”であるとされる。
つまり、速度のベクトル方向はもちろんの事、加速度の
ベクトルも不規則な車である。

本来このような熟語を、前後走りの駒に充てるのはおか
しい。

 他方、色葉字類抄のニ巻物(前田本)によると、横は
ヨコサ(?)マ、十巻物によると、横は、ヨコシマ(等)
の意味なので、横行とは、悪意の有る走り方、つまり
方向について単純でなく、その方向の変化も、気まぐれ
である走りの事とも取れる。つまり、顔の向きと直角に、
几帳面に走る訳でも、必ずしもないと言う事である。

本来、このような熟語を付けてしまっては、厳密には駒
のルールは決まらない。

 つまり、将棋駒の動き方のルールとして、明解性を欠
いたという点で共通な駒が、平安大将棋の2段目の中央
と端列に、ペアで存在したと言う事である。
 そこで、普通唱導集に唄われた大将棋が成立した時代
より40年位前に、大将棋のゲームデザイナーは逐次、
奔車を反車に名称変更し、飛車という著名な熟語を付け
た駒種を、新たに加えて、従来からあった香車・反車・
飛車で、車の列を作って、大陸のチャンギやシャンチー
と、象は無いものの、桂馬の馬と香車の車で形式を揃え
た。そうした上で、今度は横行に関して、整理を試みた
とみられる。時代はモンゴル帝国の来襲間近で、玉将の
前升目に、釈迦としての太子に成る、酔象を配置する機
は熟していた。そこで、横行を袖に移動させて2枚化し
て、対比駒として横行から竪行を派生させ、更に角行を
派生させて、飛車の横に、車列に合わせて3つ揃えで置
いて、竪と角との言葉の対比で、横行のルールを明確化
させた。13升目96枚制になったとみられる、西暦
1260年タイプの大将棋作成のデザイナーは、左右計
6対6で、駒バランスが取れたと、この時点では満足した
ことだろう。
 こうして、動かし方のルールに見合った、名称の駒だ
けに、揃えたつもりだったのであろう。なお以前に述べ
たが、この時点で、当時の中国語学者では無かったので、
ゲームデザイナーには、横行する人間を指す、今の我々
の横行に関する語彙の知識は恐らく無かったとみられる。
 ようするに、3つ揃えにするには、平安大将棋の自陣
3段配列を4段に増やす必要が、車列、行駒並びについ
て、どちらにしても必要だったし、行駒並びについては、
袖に寄せる必要もあったのであろう。それはそのとき
奔王に変化した、奔横を発明した事で、西暦1230年
には、4段化の路が既に開かれていた。
 そして空いてしまう升目には、蒙古来襲対応のために、
龍駒を作り、龍王と龍馬は、龍駒は龍の頭や蛇のような
体の形から、駒の動かし方ルールを、名称の影絵に見立
てて4方走りに、できる”根拠”があった。かつ、”王”
や”馬”という字で2字駒にしたので、玉将の動きや、
金将の動きをひっかける事ができたので、本来行けない
残りの4方向を、歩みに出来た。
 以上をまとめた結果、新たに出来た3段目走り駒列の
駒を、8方走り、4方走り4方歩み、4方走り4方歩み、
4方走り、2方走り2方歩み、2方走り2方歩み、4方
走りと規則的に並べる事もできた。以上により、3段目
の配列が、きれいな形で、確定もしたという事である。
 つまり、たまたまだったが、

平安大将棋のデザイナーが、動きがめちゃくちゃという
意味で共通性のある、横行と奔車を作っており、

香車は元から有った事が、3種類の行駒が3段目袖に置
かれる事を、決定付けたと、本ブログでははっきり推定
する。つまり実際には、現存する史料が有るかと言う意
味での証拠は、ほとんど見つかって居無いのだが、

飛龍列こそが、後から出来たものに間違いない

という事である。(2019/04/12)

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中世大将棋類の金成りのフレ。”最初の一揺らし”は何(長さん)

古典物理学の話では無いが。波動現象は量子論の世界
ではなくて、通常のスケールの世界では、最初に、
ブランコを揺らすように、何らかの作用が無ければ、
現象が発生しない。普通唱導集~後期大将棋の金成り
駒の数の変遷も、その意味では、機械論的な原因が無
ければ、生じない現象とみられる。
 今回は、結論から書くと、横行から竪行、角行が
発生した時点と、

横行の辞書的意味が、将棋棋士の社会に広まるまでの
タイムラグが、その”最初の一揺らし”だったのでは
ないか

という、本ブログの解釈について述べる事にする。
 ようするに、
角行と竪行は、発生した時点では、当初抽象的物体を
意味したが、

横行が野蛮な蛮行を続ける横暴人の増加であるという
中国語の意味が、日本語化する事によって、人間化

し、金将、銀将、銅将と同類となって、金成りとの説
が出てきてしまったための、

混乱の結果と見る

という結論を、述べると言う事である。
 では、以下に実際に少し詳しく説明しよう。
 本ブログでは、平安大将棋は、陰陽寮の学者が作っ
たゲームと、今の所考えている。だから、

平安大将棋のゲームデザイナーは、中国語で元から
存在した、横行の意味を、現代の我々が普通にイメー
ジするのと、同じように知っていた

と、推定する。しかしながら、既に前に述べたように、

色葉字類抄の二巻物にも十巻物にも、横行を見出し語
にしている形跡が無い。

だから、横行は、平安時代末期から鎌倉時代前期に、
中国語として有るが、日本語の熟語としては一般には
無く、漢字一文字の横に、”ヨコシマ”といった、
否定的な意味が、一部有る程度だったと私は見る。
 それだからこそ、”ヨコハシリ”という抽象概念に
過ぎなかった、横行という平安大将棋の駒から、鎌倉
時代の真ん中までには、簡単に

角行と竪行が作れた

のだろうと見たわけである。当然だがまだ、当時は、
淡い記憶であっても、成りの規則として、

はっきりとした人間駒以外は、相手陣奥から後退でき
る場合は不成りとする

という記憶が鎌倉時代中期には残っていただろうから、

西暦1260年型大将棋のゲームデザイナーは、角行
と竪行と横行を不成りにした

というのが、オリジナルだったろうと、私は見る。
 ところが、鎌倉時代末期から遅くとも西暦1320
年までには、

横行が、野蛮な蛮行を続ける横暴人の増加の意味であ
るという事が、将棋棋士程度の中級文化レベルの人間
の間にも、次第に定着してきた

のであろう。

横行は、人間と見なせるから、成りは不成りではなく
て、金将成りではないか

という議論が、当然西暦1300年を過ぎた頃には、
起こってきたに違いない。
 それだけでなく、”良く判らないが、

横行の仲間であるから、竪行と角行も金成りではない
か”という説も、将棋仲間の間では強くなってきた

のではあるまいか。そのため、金成りの駒が多い説と、
少なく見る説が並立し、時代によって、どちらかが、

強くなったり弱くなったりしている姿が今見えている

のではあるまいか。
 以上のように、原因は、横行の辞書的意味が、朝廷
の高級学者たちだけの間で理解されているときに、
角行と竪行が、”無知”から、むしろ簡単に、作られ
てしまったために、そのかなり後で、

②横行が人間駒だという説が、出てきた

のが、金成り駒の数のふらつきの最初に、少なくとも
絡んでいるのではないかとも疑われる。
 特に鎌倉後期になると、人間駒は金成りにするとか、
相手陣奥段で、身動きが出来ないか、後ろに前方だけ
に直進する駒が有って、ダブルで、身動きできない可
能性がある場合は、例外の金成りで、他は不成りだと
いう、

基本法則そのものの記憶が、二中歴の記載の誤写と
ともに希薄化

した。その結果更に、大将棋は③小将棋と同じく
全金成りだとか、
成りについて、二中歴平安大将棋は不明だから、
④全不成りにすべきだ、とかいう新説も加わって、

4つ程度の説のバトルになり、いっそうふらつきの
振幅を増大させた

のではないかと、本ブログでは思考する。
 更には、どのみち成り麒麟の獅子に荒らされて、
崩れて勝負が決まるような展開の将棋だったので、
陣は駒がほぐれないまま、塊になった状態で、相手の
走り駒に攻められる状況になり、そのような将棋では、
走り駒の成りが金でも不成りでも、実は局面評価に両
者で差が余り出ない事も、混乱に拍車を掛けたとみら
れる。
 何れにしても、①横行、竪行、角行は、

元来は不成り

だった疑いも有りそうだ。なお本ブログの言う、金成
りの多い麒麟抄時代、つまり南北朝時代ちょい前の、
西暦1320年タイプ説の元になった、

栃木県小山市神鳥谷曲輪の(一文字)金成り角行は、
教養の中程度以上には高い、南北朝時代の知識人、
堀河関白こと近衛経忠といった人間の作駒が、たとえ
ば元になっている

のではないか。つまり、元々西暦1300年以降は、
大将棋は下降線を辿って継承する者が少なかったため、

近衛経忠という特定個人が、たまたま横行の意味を知っ
ていたので、金成りの駒数を増やして、不確定性を増
大させている

といった”個人起源説”の可能性も、完全には否定で
きないような事さえ、有るように、私は更に疑うとい
う事である。(2019/04/11)

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日本の将棋駒に”角行”があるのは何故か(長さん)

日本の将棋に角行が有るのは”西暦1110年程度
に成立した平安大将棋に、横行があって、それから
連想できるからだ”と言ってみせるのは、よく考え
てみると判るが、後知恵である。つまり横行、竪行、
角行、方行、鉤行等の存在を知っている人間が、そ
れが当たり前と思っているので、納得してしまうと
いう錯覚である。何故かと言うと、他方で

我々は、横暴な悪人の跋扈状態を、横行という熟語
の意味と信じて、将棋以外ではそっちを使う

からである。悪党、海賊、横行、来襲、略奪といっ
たふうに熟語が並んでいて、横行の関連語として、
角行や竪行が連想できたら、たいしたものだと私は
思う。
 ここまで私が言っても、まだ、ぴんと来ない方も、
中には有るかもしれないので、以上の論理は、

仮定として正しい

としてもらおう。それで、ひとまず次に進む事にす
る。では、それでも横行から、角行等の将棋駒種が

できたのは何故だろうと、その理由を以下で論じる。

回答から書き、見通しを良くしておく。

横行は、平安時代から鎌倉時代の前期には、日本語
では無かった

ので、その無知が、返って幸いしたのである。
 では、以下に説明を加える。
 実は、色葉字類抄には、二巻物に、見出し語とし
ての

横行は無く、十巻物には横行そのものが無い。

ニ巻物では”と”の雑物の所で、銅将の文字の下に、
小さく裏横行と書いてあるだけである。なお、その
銅将も、十巻物には無い。横行という熟語の見出し
は、色葉字類抄には、何処を探しても、今の所、私
には見つからない。”よ”の所、辺りに、有っても
良さそうなのだが。
 つまり、平安時代末期から鎌倉時代初期の頃、

横暴な悪人の跋扈状態を横行というのは純粋中国語

だったのであろう。その中国語に横行が有った事は、

将棋史の研究者や、私のような愛好家の間では著名

だ。唐王朝時代の玄怪録の、小人の戦争に出てくる、
上将の駒の動かし方ルールで、縦横に縛られずに動
くという意味で、

前後左右に横行し・・

との旨が表現されているからである。
 学者の作った平安大将棋に取り入れられているの
で、上量階級で、中国の北宋王朝や朝鮮の高麗王朝
と繋がりがある、日本の皇族、貴族が、平安時代の
末期に、横行の意味は充分知っていたとみられる。
 しかし横行という熟語を頻繁に使うのは、現代に
於いて、大学の先生の一部で、論文を英文で書いて
いるのを強調する方々が、日本語と英語の単語を
1:1程度の頻度で、しばしば、シンポジウム等の
壇上で、混ぜ合わせて喋ってみせているのを、英語
を当時の漢文語に、交換したような喋り方をしてい
たと、少なくとも私には想像される、平安時代の
朝廷の、お抱え学者程度だったと考えられる。
 つまり、そこそこ識字が出来た程度の、中国語が
専門である訳でもない識者程度で、将棋の愛好家だっ
た平安期~鎌倉初期の人物にとって、横行は、

聞かされても、文字通り、”ヨコバシリ”の意味に
しか聞こえなかった

とみられる。だから、
横行の中国語としての意味を知っている、当時の
中国語の専門家や、今の我々、無論現地人と違って、
鎌倉中期の将棋指しや、デザイナーには、横行から、

竪行や角行が、我々以上に、たやすく考え出せた

と考えられるという事になる。なお、縦と竪で縦を
使わなかったのは、諸橋徹次の大漢和辞典を読む限
り、縦には少なくとも昔、”方々”という意味も有
り、前後かまたは上下に限定される、竪の方が勝っ
ていたためと考えられる。元に戻すとすなわち当時
は、色葉字類抄を見る限り、中国人との間で通訳が
出来た、当時の日本の中国語学者と違い、どうやら

通常の日本人には、横行が、日本語として存在しな
かった

ようである。恐らく”横行人”等の言葉として、
当時上流貴族間で、盗賊集団等を表すときに、隠語
で使われていた程度なのであろう。つまりそのよう
な熟語は、普通の和語としては、鎌倉時代半ばまで
は恐らく存在しなかったと見られる。
 なお、十巻物の色葉字類抄には、歩兵が”ふ”の
熟語の欄に登場する。少なくとも十巻物色葉字類抄
は、今で言う、詳しい辞書の類と見てよいような気
が、私にはする。
 ただし、悪狼を横行と同じような位置にもってき
た、南北朝時代以降の、後期大将棋のゲームデザイ
ナーは、そうしてみると、我々と同じように、悪党
を悪狼と洒落ていたのだろうから、横行の意味を、
知っていた事になる。
 時代が下るにつれて、上流皇族・貴族から、武家
等の大衆社会へと定説の通り、文化情報が、次第に
広がっていったのであろう。
 従って、史料としては、それらしいものとして、
目下、

栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の成り一文字金角行駒

と、”普通唱導集の大将棋の唱導唄で『仲人の所に、
角行筋が当たっている』ように聞こえるため、西暦
1300年までには角行は存在”程度しか無いので
あるが。

角行の発生は、明らかに、悪党の洒落である、鎌倉
時代末期の悪狼の出現よりは、少なくとも幾分か前
の事であろう

と、推定もできると言う訳になるのだろうと、私に
は考えられる。
 角行という著名だが、今でも日本語の熟語として、
将棋駒でしか使わない言葉は、以上のように、横行
という熟語が、茶の間の日本語では無かった時代が
有ったという事を知らないと、存在が説明できない
言葉なようである。(2019/04/10)

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中将棋デザイナー二中歴大将棋①桂馬抜②鉄将誤記利用(長さん)

実は本ブログでは、中将棋のゲームデザイナーが、
二中歴の大将棋記載で、うっかり写書のときに、
桂馬を落としたのを悪用して、桂馬の無い将棋を
定着させたと見ている。
 今回はその続きで、二中歴の大将棋で、鉄将の
駒の動かし方ルールで、下3方と横に行けないと
の旨の中で、”と横”を落としたのを利用して、
猛豹を1段移動させたという話をする。結論と
しては、従って、西暦1200年に二中歴が成立
して、更に写書の誤写があって更にしばらくした、
二中歴成立より150年前後以降の、

西暦1350年付近の、遊学往来での中将棋記載
少し前時期が、中将棋の成立時期と結論できる

と、以下結ぶ予定である。
 では、以下に説明を加えるが、次のような観点
について、この話には準備が要る。すなわち、
二中歴の大将棋の写書には、次ぎの3点の不備が
有ったと、本ブログでは独自に見る。

①鉄将の駒の動かし方のルールは、”玉将と違い、
後ろ3方と横に行けない。”との旨を記載しなけ
ればならない。にもかかわらず、ほぼ最初の著者
が”玉将と違い、後ろ3方に行けない。”という
ふうに、横へ行けないのに、行けるように間違え
て、記載した。
②桂馬が有るのに、飛ばして、鉄将の隣を香車に
した。
③”かくのごとく、仲人の行き方、後ろの歩兵も
そうなので、それに邪魔まされ一方、つまり前だ
け、よってかくのごとく、その成り方、歩兵に準
ずべし”などと、かっこつけて、
”如是(A)此是(B)”といった、奇をてらっ
たの英語で言う慣用句・熟語のような、凝った言
い回しをした結果、後世の写書者に、内容を間違
えられてしまい、

何が書いてあるのか、判らなくなった結果、

各駒の平安大将棋以降の、大将棋の金成りの範囲
が不安定化して、かつ定着しなかった。
 大切な事は、①と②は、単なる二中歴の著者や、
写書者の間違いで、将棋指しの間では”笑って済
まされた”事である。それに対して、実は
③はそうではなかった。しかし、そもそも中将棋
では、平安大将棋の駒の成り様のパターンについ
て、平安大将棋のパターンを結果として継承しな
かったので、③の影響は無かったのである。
 ところが、①と②についても、

中将棋のゲームデザイナーは、間違えた内容の方
が正しいと、強弁する事が可能になった。なぜか
といえば、問題が発生してから、150年経った
後なので、口伝派よりも古文書研究派の方が、
より優位になる状態だったから

である。以上の認識が以下の議論には必要になる。
 そこで、中将棋デザイナーのした事を説明する
以前に、①と②がなぜ単なる間違いとしか、13
世紀等の大将棋棋士には見なされなかったのかを、
簡単に説明しよう。
①は”平安大将棋は最下段がサイコロの目の形の
順序で、駒の動かし方ルールが決まっている”と
いうのが、口伝として正しかった。
②は、”小将棋と大将棋とで、袖の馬と車の存在
は同じ”と、伝えればよかった。
 以上の

簡単なセリフを暗記すればそれで良いだけだった

から、二中歴、口伝ダブルで伝承できたのである。
それに対して、
③は、”明らかに人間である駒は金成り。その他
の人間以外の動物か、良く判らないか、無生物を
意味する駒は、相手陣奥の段に到達した時に、動
きが取れないか、または、
後方に配置された駒が、前方一方向動きである為
に、奥の段で、問題の駒と後方に配置された駒が、
共に後退できなくなるときには、例外的に金成り、
そうでない場合には、不成り”と、かなり

長い語句で表現しないと、説明できないルール

が、口伝としては正しいルールだったとみられる。
そのため棋士が代替わりすると、③のルールだけ、

文書が間違えると伝承させる事が、相当に難しい

と、本ブログでは推定しているのである。
 ③のルールに関する事項が、大将棋に関して、
江戸時代の初期まで、周期変動していたとみられ
るのは、主としてそのためと本ブログでは考える。
 何れにしても、多彩な成りという手法を導入し
た中将棋は、室町時代初期以降、③の問題からは、
解放されたと、ここでは見る。
 それに対して①と②については、棋士仲間には、
神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木札(現物紛失)の”もうしひゃ
(う)”という、”しひ”は、”し”と”ひ”の
中間音で発音するのだろうが、面白がって棋士が、
デザイナーの言い草を真似て居るような、猛豹を
”まうへう”と正しく書かない、木札の字の書き
方から見ても、デザイナーのバレバレなウソを、
棋士が面白がっているらしい事が判る。つまり、
中将棋のゲームデザイナーが、

①の鉄将の件については、猛豹を鉄将の所に移す
とともに、角行成りと決定するときに、この錯誤
を逆用して、中将棋の、一義化と発展を誘導した。
②の桂馬件については、桂馬列を除いて、14升
目を12升目に直す、絶好の口実として使った。

以上のような事が存在すると、本ブログでは推定
できると見ている。そして、

②については、既に本ブログでは述べている

という事である。
 だいぶん前置き説明が長くなったが、次に、①で

鉄将が横に動けるように間違えると何が良いのか

について、説明する。
 答えを書くと、

鉄将が、銅将より強く、銀将程度の駒と見なせる

からである。
 これについては、平安大将棋、中将棋の駒の構
成と、駒の動かし方ルールを知らない方に言って
も、残念ながら、ただちにピンとは、来ないかも
しれない。とにかく駒の強さが、中将棋について、
金将>銀将>銅将>鉄将という、五宝の普通の
イメージではなくて、鉄将が横に動けると、その
分価値が上がるので、そのように、間違えてくれ
ると、駒の現実の価値は、

金将>鉄将≒銀将>銅将

になると言う事だけ、そういうものだと今の所し
て以下を読んでほしい。そこで、この状態で、

駒の価値が、鉄将≒銀将≒猛豹になっている

と説明すると後は話が見えるだろう。
つまりだから、

鉄将の所に猛豹を入れても良い

わけだし、成りの駒の価値が、

飛車>角行>竪行>横行

であるから、中将棋で金将の成りは飛車、猛豹の
成りは角行、銀将の成りは竪行、銅将の成りを横
行にできたというわけだ。
 それが、元々鉄将の駒の動かし方ルールが、
正しく二中歴に記載されていたとしたら、
猛豹という、銀将格の駒を、鉄将の位置に配置で
きなかっただろうし、鉄将の成りは盲虎の成りの
飛鹿と対の、”走兎”程度にしなければならなかっ
たはずだ。そのため、

横行の使い所が無くて、中将棋というゲームが、
亜流がたくさん発生して、不安定化してしまう

はずだったのである。つまり、中将棋の成立にとっ
て、ちょうど良く、二中歴の大将棋の

著作者や写書者は、ルールの記載を間違えてくれ
ていた。

のでたまたま、中将棋のゲームルールの、統一化
におおいに役立ったという、わけなのであろう。
 逆に言えば、

中将棋の確立にとって、それ以前の西暦1200
年頃に、二中歴の大将棋が公開されている事

と、二中歴の鉄将の駒の動かし方ルールを、西暦
1200年に著作者が間違え、桂馬を、たとえば
西暦1250年頃の写書のとき、写書者が、うっ
かり飛ばしてしまってから、

ほど良く、ほとぼりが冷める100年程度経った
ときに、中将棋は成立していなければ、つじつま
が合わない

事になる。
 よって本ブログでは今の所、自費出版された、
岡野伸氏の中将棋の記録(一)に記載等されてい
るように、

中将棋の成立は、西暦1372年の遊学往来の頃
より、幾分前の1350年頃

という説を変えて居無いのである。
 むろんこの、岡野伸氏も表している説は、二中
歴と、西暦1300年成立の普通唱導集にともに、

中将棋が記載されていない

という事実とも、良く一致する。以下メモ書き程
度に記載すると、海龍王寺の将棋禁止令に中将棋
が無いのと一致、中将棋出土駒の初出が、京都市
上久世の大きな酔象駒程度と見られ、それは南北
朝時代なので一致する。なお、神奈川県鎌倉市の
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札
(現物紛失)の推定年代には、30年程度の不確
実性が有る。上記の西暦約1350年という値の
エラーバーも、その程度と見る。
 ようするに簡単に言うと、”大将棋は、
鎌倉時代に指されて、概ね南北朝時代に衰退。
中将棋が、それに取って代わられた。”とする、
現在の定説と、上の年代推定は良く合うという事
である。(2019/04/09)

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色葉字類抄は聖徳太子も読んだのか(長さん)

尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565年雪竹老人
編)の第1冊/4冊末尾近くの、雪竹老人による後書きに
よれば、”色葉字類抄の書形式は、6世紀の聖徳太子の
サトシに源(みなもと)を、発するものであり、

聖徳太子の読み物である”

と言う。所で色葉字類抄の尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄
には、

”き”の所と”と”の所を合わせると中将棋の記載がある。

従って、通説の色葉字類抄の成立年、西暦1144年~
1164年が

間違い

であって、6世紀に有り、色葉字類抄は、聖徳太子の読み
物だったとしたら、

中将棋の成立は、6世紀

という事になる。
 今回は、この”奇説”は、どのように否定されるのかを、
論題とする。
 答えを最初に書く。
雪竹老人は尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565
年雪竹老人編)の第1冊/4冊末尾近くの、雪竹老人によ
る後書きの直ぐ後で、それより、多少小さい字では、ある
ものの、

橘先生が色葉字類抄を作成したのは、西暦1144年から
西暦1164年頃の事であると、自分で書いている。

では、以上について以下補足する。
 今回の論題は、頭の体操的なものである。webの情報
だけ頭に入れて進むと、それを否定するような論者が出て
きた時に、

はてなと、なってしまう

例の一つだと思う。そこで、web等に記載された、論壇
が論じている内容は、根拠を常に考えながら読む癖をつけ
たいものだという、これは教訓の一例とみられる。
雪竹老人は、なぜか前書きではなくて、しかも書の途中の、
第1分冊/4冊の後の方の、自分が書いた、”後書き”
だけで述べているのだが、ようするに書の宣伝のため、

聖徳太子も色葉字類抄は読んだんだぞ!

と、大きく出ているようだ。この後書きは写書者、推薦人
計4名の、後書き・推薦書き記載の中では、最も面白い。

書の末備ではなくて、目立たない途中なのが残念だ。

 しかしこの本では、実際には、尊経閣文庫蔵二巻物
色葉字類抄(西暦1565年雪竹老人編)の、第1分冊/
4冊の雪竹老人の後書きの、次のページに、

成立経過が、雪竹老人自身の手によって、A氏、B氏、
雪竹老人と写書された年号を示す事によって、詳しく述べ
られている、おおいに親切な本

である。
 しかも、相互の相対的経過年数を、西暦のない時代は、
計算が、さぞめんどうだったのではないかと私は思うが、
雪竹老人は、それも書いている。よほど暦の、好きだった
方なのであろう。
 そのおかげで、

中将棋が聖徳太子の時代に有ったという、奇説が有っても、
概ね否定できる状況になっている。

 ちなみに尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄(西暦1565
年雪竹老人編)の本文中で、恐らく雪竹老人自体の作だろ
うと、本ブログでは独自に見るが、銀将の方は只の”金”
と書いた上で、

香車に金今の”今”を付けてくれたおかげで西暦1500
年以降の加筆。銅将の裏横行で、”裏”と書いてくれたお
かげで、作成者が、大将基馬名と小将碁馬名と同一である
事が判る

という、とても親切な書き方に、

奇跡的に

なっていると、私には感じられる。
 以上の事から、戦国時代の寺院に関係し、公家出身の方
だと疑われる、尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の編者の

雪竹老人とは、ずいぶん歴史研究者にとってフレンドリー
な方である

との心象を、私は個人的には持つのである。(2019/04/08)

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色葉字類抄で大将基・小将碁馬名追加を雪竹老人は自認(長さん)

八木書店が西暦2000年に発行した、古文書の
復刻本、尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編は、西暦
1565年に雪竹老人が、3人目の写書を行った
後に、江戸時代の西暦1715年頃に加賀前田藩
が購入し、文庫に保管した本である。これには、
イロハ順の漢字の形態辞典としての主な部分の
ほかに、5ユニットの、付属文書が追加付与され
ている。
付録①:大将基馬名(後期大将棋)
付録②:小将碁馬名(日本将棋)
付録③:「牧」(甲斐・武蔵・上野各国の牧場名)
付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
付録⑤:異字(集)
 ここでは、色葉字類抄が「橘先生」によって、
西暦1144年から1164年にかけて成立した
ときに、付録①及び、付録②が付与されたのでも
無ければ、仮にA氏、B氏と名付けた、雪竹老人
より前の、2回の写書者が、作成した物でもない
と、当の
雪竹老人(記号では以下、C氏と示す事がある)
が、自身が編集した、尊経閣善本影印集成19
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編
そのものの、

編者の構成自体で、はっきり示している

という点について、以下に述べる。
 なお、結論を述べる前に、A氏とB氏とC氏が、
この書の写書をした、年を記す。次の通り。
西暦1164年(長寛2):原本成立:橘先生著。
西暦1315年(正和4):1回目写書:A氏
西暦1423年(応永30):2回目写書:B氏
西暦1565年(永禄8):3回目写書:雪竹老
 結論から述べる。
A氏、B氏、雪竹老人、書の推薦者の「あとがき」の、
以上4つの項目の後それぞれに、書いた人間毎の
付属文書が、必ず来るように、C氏とイコールで
ある雪竹老人が、代表して最後に、この古文書の
構成を決めた。そのため尊経閣善本影印集成19
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編
では、

付録④がA氏著作、
付録③がB氏著作、
付録①と②がC氏(=雪竹老人)自身の著作。
以上であると、読者にも判るようになっている。

なお付録⑤についてだけは、誰が書いたのかとい
う事が、問題にならないような、内容なので、
書の推薦者の「あとがき」の後に、”推敲した”
という朱色点印を入れないで、散漫に字群が記し
てある。字体から本が出来た後、付録⑤異字一覧
は、C氏である雪竹老人が、書いたのかもしれな
いと見られる。
 では以上の結論について、以下に補足説明する。
 4冊本のオモテ表紙、第字や前書きや本文は、
議論と関係ないので、以下は本文より後の、奥書
の内容だけ書き出す。
 なお、奥書には、いわゆる成書の”後書き”と
”書誌記入”(特に完成の年月日)とが大きな
要素としてあり、それらを、誰が書いたのかが、
目の付け所となる。
第1冊/4冊の奥書部
1-(1)”後書き”:C氏(=雪竹老人)
1-(2)”書誌記入”:C氏(=雪竹老人)
(遊紙×1)
1-(3)付録①:大将基馬名(後期大将棋)
1-(4)付録②:小将碁馬名(日本将棋)
(遊紙×3)→裏表紙
第2冊/4冊の奥書部
2-(1)”後書き”:B氏
2-(2)付録③:「牧」(東国3国の牧場名)
2-(3)”書誌記入”:A氏の後B氏(B氏作)
(遊紙×2)→裏表紙
第3冊/4冊の奥書部
3-(1)”写了記入”:A氏B氏C氏(書体別)
(遊紙×3)→裏表紙(大和・・の書き込み有り。)
第4冊/4冊の奥書部
4-(1)”後書き”:A氏
4-(2)”書誌記入”:A氏
4-(3)付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
4-(4)”書了記入”:C氏(=雪竹老人)
4-(5)書の推薦者の「あとがき」:竹圃叟
4-(6)付録⑤:異字集(筆跡雪竹老人。推敲無)
(遊紙×2)→裏表紙

以上の内容から、
後書きと、場合によって完成年月等を、特定の写書
者(ABC氏)が記入した後に概ね付録が来ており、

後書きを書いた人間が、著作した付録が、その直後
に付与されている

との印象を、読者に強く与える、コンテンツ構成に、
この西暦1565年写本ではなっている事が判る。
なお、西暦1565年写書完成の、
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編本
の構成を決められるのは、当然の事ながら、最後に
写書した、C氏、すなわち、雪竹老人だけであろう。
つまり、雪竹老人は、
付録④がA氏著作、
付録③がB氏著作、
付録①と②がC氏(=雪竹老人)自身の著作と、

読者が判るように、書を4冊化する時に、再編集し
ている

と、考えられる。従って、雪竹老人が所持していた、
色葉字類抄ニ(二巻本)の原本は、巻物だったとす
ると、以下のような巻構成に、なっていたはずだ。

旧①一巻目本文(1冊目/4冊、2冊目/4冊の合)
2-(1)”後書き”:B氏
2-(2)付録③:「牧」(東国3国の牧場名)
2-(3)”書誌記入”:A氏の後B氏(B氏作)
旧②ニ巻目本文(3冊目/4冊、4冊目/4冊の合)
3-(1)”写了記入”:A氏B氏(書体別)
4-(1)”後書き”:A氏
4-(2)”書誌記入”:A氏
4-(3)付録④:禅僧耆旧(禅寺僧の役職一覧)
ひょっとすると、末尾に、
4-(6)付録⑤:異字集(当時B氏筆跡。推敲無)

雪竹老人は2巻目の奥書を、写終了書名だけ、3冊/
4にもってきて、その他の2巻目の奥書を4冊/4
で使い、どの奥書き内容も必ず一回使って、2度は
使わず、昔の人らしい、白紙と書物の一部という、
物理的な物を、大切にする精神を発揮したようだ。
 B氏の奥書きは、元本では恐らく巻物の1巻目末
に有ったので、2巻物写書者の先達の書の存在に、
敬意を表して、第2冊/4冊奥書で、B氏の奥書を
使い、

雪竹老人(C氏)は、4冊割り本を作った責任者

だから、第1冊/4冊の後ろの後書きを、担当した
という主張だろう。むろん、A氏は橘先生本を写書
しようという行為を最初にした、最も大切な人物で
あるから、第4冊/4冊の後書きは、A氏のを当て
たと考えられる。だから結局の所、書の推薦者の
竹圃叟(webによると鎌倉建長寺の竹圃和尚の事)
の後書きの直前に付録①:大将基馬名(後期大将棋)
や、付録②:小将碁馬名(日本将棋)が、

最後の方に書かれているという事がこの本では無い

のであろう。
 以上のように、西暦1565年写書完成の、
色葉字類抄ニ(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編本
の写書本では、書籍編者でもある雪竹老人は、
書籍編者としての立場で各付録を、写書者の後書き
内容の直後に持って来るという方法を、取る事によっ
て、西暦1565年に、

付録①の大将基馬名(後期大将棋)と、付録②の
小将碁馬名(日本将棋)は、自己が著作した物であ
る事を、読者に示して見せている

と、本ブログでは考えるのである。(2019/04/07)

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色葉字類抄、雪竹老人写書本。将棋駒追加以外での改竄(長さん)

前に述べたように、尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄
ニ・二巻本、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行には、形式の問題なので、セクション名や記載箇所
は除いて、書いてある中身だけ書くと、ようするに、

日本将棋に、王将、金将、銀将(金成り)、桂馬、
香車(今金成り)、飛車、角行、歩兵が有る事。
中将棋に、玉将、金将(飛車成り)、銀将(竪行成り)、
銅将(横行成り)、香車(白駒成り)が有る事。
後期大将棋に、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、
桂馬、香車(金成り)、酔象(太子成り)、盲虎、
猛豹、猫刃、反車(金成り)、師子、麒麟(師子成り)、
鳳凰(奔王成り)、悪狼、嗔狼、猛牛(金成り)、奔王、
龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛龍、飛車(金成り)
歩兵、仲人(金成り)があるという情報が、加わっている

という意味で、”増補”されているという事だった。
 今回は、加筆部”著者”とみられる、西暦1565年写
書者の雪竹老人が、

その他に、色葉字類抄の2巻本を、4冊化写書をしたとき、
何か”増補”や”手直し”していないかどうかについて、
ここでは議論

する。
 回答を書いて、その後で説明を加える。

している。”く”の動物の鯨鯢の、国語辞典としての意味
説明の内容を、原本から、鯨が雄と、平安時代から考えら
れていたかのように、手直しした

と、本ブログでは疑う。
 では、以下に説明を加える。
 鎌倉時代初期に完成されたと言われる、十巻物の伊呂波
字類抄によると、
鯨鯢の国語辞書としての、伊呂波字類抄の説明は、読みは
単なる”くじら”で、意味は”魚の王様”である。その次
ぎに書いてある句の意味は、私には良く判らないが、鯨の
性別については、記載していないと考える。そして雪竹老
人の所持していた、元本も、おそらく十巻物と同じような、
語句説明だった疑いがある。それを、二巻物を写書して、
4冊物の色葉字類抄ニ・二巻本、前田育徳会尊経閣文庫編、
(後に八木書店が、復刻版を西暦2000年に出版)にし
たときに、

雄鯨である鯨という字と、雌鯨である鯢という字を合わせ
て、夫婦鯨という熟語が形成されたという説明にした

と考えられる。しかし、実際には、平安時代の
二巻物が完成したときに、鯢には雌鯨の意味は有ったが、

鯨に雄であるという性別があったと言う話は無く、これに
関しては、戦国時代の雪竹老人のでっち上げ

で、多分に御ふざけ的な寓話と、関連する疑いがあると思
われるフシがあると私は考える。
 つまり、

鯨という字に性別があるという話が、平安時代にあるとい
う本当の証拠は無いのではないか

と、私は疑っているという事である。尚念のため付け加え
ると、3巻本の色葉字類抄の”く”部は、消失部分である。
 では何故、このようなでっち上げの話を、捏造しなけれ
ばならなかったのかと言うと、

戦国時代には、鯨一文字で鯨を表していて、平安末期の
ように、時鳥でホトトギス、蝙蝠でこうもりと言うように、
鯨鯢でクジラとは、読まなくなっていた

からではないかと考える。しかしその程度なら、実際に
鯨鯢の所に、雪竹老人4冊写書本では書かれているように、
雄鯨雌鯢と、国語辞書的語句説明などせずに、元のままで
放置して置くか、十巻本と本来同一主旨だった、原本の
国語辞書的説明を、

削除する程度でも良かった

はずだ。ところがそうしなかったのは、

鯨鯢が当時主流の中将棋の将棋駒で使われており、中将棋
の棋士内で、”鯨鯢で、鯨の一種を表してはいるが、鯢は
雌のようだが、修飾詞で戦力ダウンになるというイメージ
の鯢をつけて、2文字化したのは何故なのか”という議論
が、戦国時代に有った為

とみる。
 中将棋に肩入れしていたのであろう。雪竹老人は、矛盾
を避けるために”禅寺では南北朝時代から言われているよ
うに”と、前置きした上で、

”鯨は雄と(勝手に)解釈する。2頭で力を合わせるから、
単なる鯨駒よりは、反車の成りとして、強大な力を持つよ
うになったのだ”

とか何とかいうような話を、将棋の仲間にして、落語の、
長屋の御隠居様話ではないが、将棋仲間の喝采を、浴びた
のであろう。それで

気を良くして、色葉字類抄2巻本を写書したときに、その
話を、鯨鯢にうっかり入れてしまった

のではあるまいか。元々中将棋の成りを決めたデザイナー
は、

鯨鯢と2文字で、中国語の”keigei”の和訳で
”クジラ”と読んていた、だけの程度だった

のであろう。所が、時代が室町時代、戦国時代と移るにつ
れ、鯨という字一つで、”クジラ”と読むように、日本語
が変わった。そのため中将棋棋士の間だけで、”へんだね”
と、小さな世界の中だけで、際立って問題になっただけ、
だったのではないのか。
 そもそも、本当に、
色葉字類抄二巻物の写書本以外に、鯨が雄だと書いてある、
日本の中世の史料が確実にあるのかどうか。”唐韻に書い
てあった”という話を私も知っているが、そもそもそれは
信用できる情報なのかどうかを、国語の研究者に聞いてみ
たいものだ。雪竹老人が真犯人とまでは、断定できないに
しても、日本の南北朝時代の、禅寺で作成した日本人の
漢詩に、鯨は雄の話が、始めて出てくる程度の疑いが、
諸橋徹次の大漢和辞典の鯨の、

雄だという説明の出典は”疏”だ

という記載から、私にはする。
 だからようするに、
尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄ニ・二巻本(156
5年写書)、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行の、たとえば西暦1565年本の写書者が、

中将棋に興味が薄ければ、鯨鯢の改竄の可能性が薄くなる

と、私は推定もする。つまり、将棋史と国語の研究とが、
尊経閣善本影印集成19、色葉字類抄ニ・二巻本(156
5年書写)、前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店2000
年発行の、西暦1565年写書本で、

今の所私が見た限り鯨鯢だけのようだが、とにかく接点を
持つようになった

という事を、これは意味しているのではないか。
知りえる範囲で調べた所では、以上のように、私には推定
できる、という事である。(2019/04/06)

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1565年書写二巻物色葉字類抄本文将棋駒記載の意(長さん)

以下今回は、各巻の題字から奥書の間の、漢字の書き方
の範疇である、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年写書)二巻物色葉字類抄
中の”本文中の将棋駒記載”に関して特に、

同書、1冊/4冊、奥書後付加のセクション大将基馬名、
セクション小将碁馬名との関連性を中心

に議論する。
ようするに、

どれも、西暦1565年の写書時の成立だと見える

という点について、根拠を述べる。
 以下述べようとする論題は、次の①~③の三点である。
①本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載(と部)は、
中将棋についてだけ、記載されているのか。
②本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載(と部)、
セクション大将基馬名、セクション小将碁馬名の4つの
ユニットは、全部同一者の作か。
③作者は何を考えて、具体的に、本文将棋駒記載(き部)、
本文将棋駒記載(と部)の、記載内容範囲を決めたのか。

答えから先に書く。
①小さい字の金と金今以外は、全部中将棋についてであ
る。飛車と竪行と白駒は、金将、銀将、香車の中将棋の
成り駒の書き方を、説明している。小さい字の金と金今
は、話題を変えて、日本将棋の、西暦1565年頃の、
書き駒の字体を説明している。
②同一者作とみられる。本文将棋駒記載(と部)銅将と、
セクション大将基馬名の小さい字で示された、成り駒名
が、裏○△形式で一緒である。それに加えて、”中将棋
をなるべく少ない言葉で説明せよ”、という試験問題の
回答として必要な内容だけ、駒種を選んで、本文中に書
いていると、この本の内容を、統一的に把握できる事か
ら、そう推定できる。ちなみに、西暦1565年は、
フランシスコ・ザビエルが既に来日していた時代である。
③後期大将棋の構成駒を最下段から順に、
セクション大将基馬名で説明し、日本将棋の構成駒を最
下段から順にセクション小将碁馬名では、先ず説明した。
だから”中将棋をなるべく少ない言葉で説明せよ”とい
う、冠位の昇格試験問題にでも出そうな問題の、回答と
して必要な内容は、判りやすくは最下段について、
中将棋は後期大将棋と日本将棋の中間駒種数の駒構成に
なっているのを、示せば良いのである。だから、その
模範解答に必要な、中将棋の駒種だけ、八木書店が、
西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年写書)二巻物色葉字類抄
中の本文には、本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記
載(と部)とを小合計すると、すっぽり含まれる駒だけ
載せた。その結果、セクション大将基馬名、
セクション小将碁馬名とを合わせて見ると、試験問題の
回答になるように、してあるという事である。

では、以下に補足しよう。
①の、本ブログでは最近発見された、本文2箇所は、ほ
ぼ中将棋だという点についてだが。大事な事は、以前に、
同一主旨の話を、たまたましたが、

飛車と竪行と白駒は、金将、銀将、香車の右下に裏と書
いてから、書いてしまうと、ざっと眺めたときに、加筆
である事が、小さい字の割合が多すぎてバレると言う事

である。だから、”き”や”ぎ”で始まらないのに、
飛車と竪行と白駒が有るのである。その結果、現代の
研究者等さえもが、外見が、他と余り変わらないので、

うっかり、正常だと思って、読み飛ばしてしまうのを、
西暦1565年時点で雪竹老人等が、既に期待していた

と言う事だと私は思う。加筆は、褒められることは無い
からだ。
 つまり、本来なら、・玉将・金将裏飛車・銀将裏竪行
・香車裏白駒と書くべき所を、・飛車、・竪行、・白駒
をデッカクして、中将棋についてだけ、書くのが主旨な
のだが、体裁を揃えたと言う事であろう。しかしそれだ
けでは、寂しいので、・銀将と・香車の下に、小さく金、
金今と書いて、オマケとして日本将棋の成りルールも、
同時に示し、これによって一見して

色葉字類抄の本文風にした

と私は見る。だからこの字が成立した時代には、中将棋
と、日本将棋は有ったと断定できる。しかも香車の下の
金今は、銀→桂→香→歩で、成りの崩しを、変える事を
示し、かつ銀将の成りと違って、香車の成りが今、つま
り”と金”に近い時代だという事だから、成立は滋賀県
の坂本城跡出土駒(1500年)等より、少し後であり、
セクション大将基馬名、セクション小将碁馬名といっしょ
の西暦1565年頃のもの。だから多分皆、雪竹老人作
が、濃厚だと思われると言う事になる。
 次に本文将棋駒記載(と部)の銀将裏横行は、もろに
中将棋であり、説明の要は無い。
ただし大事な事は、

玉将と金将と銀将と香車は”ぎ”や”き”で始まるので
キの所に書き、銅将は”ど”で始まるので、トの所に書
いて、色葉字類抄の規則に則っている

と言う事である。つまり、
玉将、金将、銀将、銅将、香車を、雪竹老人先生は、
書写する二巻物の色葉字類抄には、限定して入れたかっ
たようだ。その証拠に、たとえば

猛豹は、何処を探しても見つかっていない。

以上で①の説明を終わる。
 次に②の本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載
(と部)の2ユニットの作者が、恐らく雪竹老人で、
同一者の作と見られるという事について、既に根拠を
一つ示している。すなわち熟語”銅将”に付加された、
”裏横行”という字の表示形式(”裏+成り駒)が、
大将基馬名の飛車、香車、反車、猛牛、仲人といっしょ
で、本文将棋駒記載(と部)の銅将でも裏横行と、
”成”を使って書いて居無い。つまり書き方がいっしょ
だという、以前述べた共通性が、有ると言う事である。
 以下には、今述べた点とは別に、更に存在する根拠
について書く。
 ようするに、まず、最下段で桂馬、酔象、猛豹といっ
た動物を、中将棋とは何かを尋ねられたときには、高
貴な試験官に対して、下品で失礼だから、言及しない
と仮定しよう。
 その上で、小、中、大の将棋の最下段の駒種類を並
べると以下のようになる。なお平安小将棋と日本将棋
は、その点では同じである。
小将棋 王将、金将、銀将、香車(王将は皇族使用型)
中将棋 玉将、金将、銀将、銅将、香車
大将棋 玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、石将、香車
(ただし、後期大将棋が、戦国時代には大将棋の代表
となっていた。)
 つまり、
中将棋は他の二つの将棋の構成駒を、述べた後で、

”その中間であり、最下段について、大将棋の鉄将と
石将が無く、小将棋には無い銅将が有るというイメー
ジものである。”

と、答案用紙に書けば良い事になる。そのためには、

玉将、金将、銀将、銅将、香車と、成り駒の漢字が
判っていないと、答案用紙が書き辛い

という事である。

だから、2巻物を西暦1565年に書写するときに、
雪竹老人は、本文中に、従来の色葉字類抄の規則で、
今述べた、中将棋の駒を、今述べた分だけ過不足無く、
何らかの昇格試験の、受験生等のために入れたかのよ
うだ

と、本ブログでは思考する。
 だから、本文将棋駒記載(き部)、本文将棋駒記載
(と部)、セクション大将基馬名、セクション小将碁
馬名の4つのユニットは、

それが存在する動機がいっしょなので全部同一者の作

だと、本ブログでは推定するのである。
 最後に③については、色葉字類抄の読者は、
冠位昇格試験の受験参考書のレベルに近いものに、
雪竹老人は、書としての売れ筋の観点から、しようと
したであろうと、少なくとも本ブログは考える。
ので、

社会的にマイナーな、中将棋のゲーマーの事を考えて、
本文に他の、
酔象、太子、盲虎、飛鹿、猛豹、白駒、獅子、麒麟、
鳳凰、角行、反車、鯨鯢、奔王、龍王、飛鷲、龍馬、
角鷹、飛車、竪行、飛牛、横行、奔猪、歩兵、と金、
仲人等までは、入れて居無いのであろう。そのため今
の所、色葉字類抄、八木書店2000年、尊経閣文庫
(前田)本2巻物(1565年書写)には上の字が、
辞書の字か、成り駒の表記としては一部有っても、
将棋の元字としては見つかって居無い

のではないかと、私は疑っている。
 なお私は、三井文庫の、前後大将棋を見て居無いので、
飛鹿と奔猪だけ知らないが、他は元駒として使われ、成
りが白駒が大駒、鯨鯢が大鯢、奔王が奔鷲、飛鷲が大鷲、
角鷹が大鷹、飛牛が火牛、というふうに、一応全部有る
と認識する。
 ③については、それ以外は、②で述べた事の繰り返し
だ。つまり一例として、試験問題として中将棋とは何か
を答える問題が出題される為に、漢字が必要という用途
が、戦国時代の貴族の立場で存在し、それに答えるため
の、国語に関する、必要知識のカテゴリーに、八木書店
2000年発行(1565年書写)2巻物(4冊物)
色葉字類抄の、合計4箇所の将棋”加筆”内容は、トー
タルが、きちんと、収まっているという事である。
 何れにしても、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵(西暦1565年書写)二巻物色葉字類抄
中には、

後期大将棋、日本将棋の他に、中将棋が記載されている。

以上の点について、

大阪電気通信大学、高見友幸研究室の”摩訶大将棋のブ
ログ”の前年度、すなわち令和の知られて居無い平成の
時代の、西暦2019年3月31日以前に記載の情報は、
中将棋が抜けているという点については、間違っている。

最後に述べた点に注意する事が、web内だけで情報を
調査するときには、大切な事とみられる。(2019/04/05)

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八木書店西暦2000年出二巻物色葉字類抄将棋駒一覧(長さん)

いきなり、結論を書いて、事情がわかりづらく、
たいへん恐縮だが。今回は、

色葉字類抄前田藩2巻物の”と”の雑物に”銅将裏
横行”が書いてある

のを含めて、八木書店が西暦2000年に発行した、
尊経閣文庫蔵の西暦1565年書写、加賀前田藩の
文庫の中にあった、色葉字類抄二巻物の中にある、
将棋駒に使われている熟語の一覧を、”き”雑物の
”・玉将・金将・飛車・銀将・竪行・・”の話と、
一冊/4冊目末備の、大将基馬名と小将碁馬名
の話は、ごちゃごちゃするので、その2点だけ簡略
化した上で、以下に示す事にする。

ようするに、八木書店の成書を見れば良いという話

なので、結論からとっとと書いたという意味である。
 一覧は以下の取りである。
 八木書店発行(2000)”色葉字類抄ニ(二巻
本)、前田育徳会尊経閣文庫にある、将棋駒として
使用されている熟語の一覧:
い 霹靂(豊隆と同じ訓読みで、イナツチナル)
い 犬(イヌ)
は 白駒(ハクク。日名。webに月日の説明有り。)
ほ 鳳凰(ホウオウ)
ほ (正確には公の下に鳥の)公時鳥(ホトトギス)
と 銅将(以下右下に小さく)裏横行
と 飛車(トブクルマ)
”を”と”わ”の間に、大将基馬名と小将碁馬名の
セクションが、挿入されている。ただし”を”の後
の、上の上の奥書の更に後の、遊紙の中に挟まる。
か 大将(読み不明)
か 蝙蝠(カハホリ)伏翼(同)
か ”狛”(獣辺。人事。意味不明)
う 鶉(ウツラ)
お 大鷹(オオタカ)
お 弩(オオユミ)
く 角鷹(クマタカ)
く 鵰(クマタカ)
く 孔雀(クシャク)
く 鯨鯢(クチラ)(右と右に小さく)雄鯨・雌鯢
こ 狛犬(狛は犬辺・人事)(コマカク)
て 天狐(テンク)または天狗(狗は異字体と記載。)
き 麒麟(キリン)(麒のツクリが棊になっている。)
き 馬麟(キリン)(馬は騏。キリンのような白馬。)
き ”・玉将・金将・飛車・銀将・竪行・香車・白駒”
等の記載が、雑物に有る。(銀は金、香は金今にも成。)
し 師子(シシ)(動物。二千キロ/日走る・・。)
し 自在(ジザイ)(畳字の所に記載されている。)
す 水牛(スイギュウ)(潜水できる牛との説明。)

 まだあるかもしれないが、現時点で私が見落とし
ているだけだ。大切なものが出てきたら、逐次別途
報告しよう。ともあれ。
 以上の事から、前に問題にした、大将基馬名と、
小将碁馬名の話と、”き”の”・玉将・金将・・・
白駒”の記載2箇所の、将棋ルールの記載部分を除
いて、熟語”銅将”以外、”裏○△”という形式の、
成りルールにおける、具体的な成り駒を、明らかに
意味する、”将棋の本のような”説明書きが無い事
が判る。
すなわち、との雑物の中間に有る、

銅将という熟語以外は、”将棋加筆の3ユニットの
大物”を別にすれば、単なる普通の辞書の、熟語の
項目を示しただけ

であると考えられる。
 銅将という単語は、上の上の奥書の後、裏表紙に
挟まった遊紙の内部に有る、”大将基馬名”にも、
銅将として、当然入っているが、そこには、

裏横行という記載は、当時の大将棋駒なので無い。

 しかし、

裏○△と書いて普通は○△成と書く内容を記載した

という点では、”と”の雑物の銅将と、”を”と
”わ”の間の大将基馬名の、たとえば”飛車”の
下に記載の”裏金”とは、形式がいっしょだ。
 なお、”と”の雑物の銅将も、色葉字類抄の中
で、今の所見つかっているのは、八木書店発行
(2000)”色葉字類抄ニ(二巻本)、前田育
徳会尊経閣文庫の、この本の中だけだ。
 つまり、銅将を”と”の雑物に追加したのと、
大将基馬名というセクションを作ったのは、結局

同一人物だ

という事のように、私には思える。
 今回は以下煩雑なため、このへんで一旦切ろう。
より詳しい議論は、次回以降にしたい。(2019/04/04)

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大将棋の成り金駒数の歴史挙動。背後にあるもの(長さん)

以前述べたように、普通唱導集時代の大将棋も含めて、
後の後期大将棋には、金に成る駒種数が、周期的に、
増減していると思われるフシがある。
 今回は、そのメカニズムを論題にする。
 回答を先に書き、今回は数学を使って説明を後で
しよう。回答はこうだ。

寺に残る文物古記録の2倍の周期で、成り金数は
入れ替わっており、寺で”昔の大将棋の記録”を、
各時代に発掘した権威者のルールが、その時代の主流
に、とって代わられる事の、繰り返しが見えている

と、考えられる。
では、以下により、詳しく説明しよう。
 ようするに、大将棋の駒の成り金数に関しては、
主として社格の高い、大きな規模で、発掘された情報
が信用できそうな寺院の古記録を、それなりに信用で
きる人間が、流布させれば、前代の違うパターンのルー
ルを押しのけて、少→多→少というふうに、変遷して
きたのではないかと、推定できるだろうと言う事であ
る。
 現代に関して言えば、古い寺院に残る古記録は、

約150年前の明治維新程度の事物がウエイトが高

である。この約150年前というのは、中世だろうが
近世だろうが、定数に近かったのではあるまいか。
 それは、その時代の大将棋の成り金駒数が多いとき
には”昔は少なく”と、少ないときには”昔は多く”
という内容、つまりサインカーブで位相が、180°
ズレたものだった。だから、

いろいろな人間が、寺に行って、古記録を調べると、
だいたい、情報は150年前が定数

だったために、大将棋の各駒成り金ルールについては、
 西暦1100年から、1175年までは減少と、
初期条件として波立ち傾向が有ると、1175年極小

1325年極大、1475年極小、1625年極大、
1775年極小、1925年極大、2075年極小?

といったふうに、周期関数になるような、性質のもの
なのではあるまいか。ただし正確に見ると、近世に入
ると、寺の古記録に頼るだけにはならないので、西暦
1600年代以降は、だんだん法則が、ズレてきたの
であろう。
 これだと、寺の記録はそれぞれ同士の間で、きちん
と、位相が合っていなければならないように、いっけ
ん見えるが、

数学の参考書を見ると、そうではないらしい。

位相はばらばらだが、周期が150年と一定の、三角
関数の重ね合わせは、ある決まった位相の三角関数へ
変換できるという点については、以下の数学の成書に

ヒント

がある。
”史上最強図解・これならわかる!三角関数”
佐藤敏明(都立日比谷高校教諭)ナツメ社2013年。
その中に、
”sinとcosを合わせたらどうなるの?”という
セクションがあり、

a・sinθ+b・cosθ、つまりsinθと、
sin(θ+π/2)と、0とπ/2だけ、
90°位相のずれたカーブは、r・sin(θ+α)
という、一種類のsinカーブと、等価である

と書いてある。
 結論を言うとようするに、残念だが、この先生の本
には、その直後で”第4章 三角関数の微分と積分”
に入る間に、
”0°が原点のsinと、π/2以外の、一般角度、
つまり別の角度で始まるsinを合わせたらどうなる
の?”という旨の、セクションを作らなかったという
事が

はなはだ残念

だ。
 つまり、この先生の日比谷高校での授業には、生徒
の理解を決定付ける

何かが1つ足りないレクチャーを、常々している疑い

があるようではある。
 結論はそうだが、元に返って、sinθと、
sin(θ+π/2)と、0とπ/2だけ、つまり、
90°位相のずれたカーブは、r・sin(θ+α)
という、一種類のsinカーブと、等価である点に
ついては、三角関数の、加法定理で説明されていて、

この本は、わかり易い。

つまり、加法定理は

sin(θ+α)=cosαsinθ+sinαcosθ

と、この問題用には変形できる。rを掛けると、

rsin(θ+α)=r・cosαsinθ+r・sinαcosθ

となっているだけだ。
 だから、戻ってa・sinθ+b・cosθを、上
の加法定理の左辺のrsin(θ+α)にしようとする
わけだから、

r=√a2乗+b2乗。
α=アークコサイン(a/r)かまたは、
α=アークサイン(b/r)で計算される。

rとαを使い、rsin(θ+α)を決めればよいの
で、角度がαで始まる、一義のsinカーブと同じだ。

以上の旨が書いてある。しかし、
sinθとsin(θ+π/2)の合成ではなくて、
sinθとsin(θ+h)で、hは、弧度法変換で
(180/π・h)°といったケースの合成の説明が、
佐藤氏の本には書いて無いのである。
 しかし、後者については、加法定理を2回使って、
sin(θ+h)を(何とか倍)sinθ+(別の倍)cosθ
に、

最初に変換できる事に、佐藤敏明氏の授業のあとで、
生徒が気がつけば、理解不能の落とし穴に、はまるの
は防げる。

すなわち、簡単な2つだけの場合で、数が増えても
一緒なので、2つのケースだけ考えると、
a・sinθとb・sin(θ+h)の合成は、
予め、sin(θ+h)に加法定理を適用して、
b・sin(θ+h)=b・coshsinθ+b・sinhcosθ
 だからこの問題は、
(a+b・cos(h))sinθと、b・sin(h)・
sin(θ+π/2)の合成問題、つまり、

(a+b・cos(h))sinθと、b・sin(h)・
cos(θ)の合成問題と同じである。

rはr=√((a+b・cos(h))の2乗+b・sin(h)の2乗)。
αはα=アークサイン(b・sin(h)/r)
等に代わるだけとみられる。
 そして、
”0°が原点のsinと別の角度で始まるsinを、
合わせたらどうなるの?”というセクションは、
”これならわかる!三角関数”には、第6章で出て
くる”フーリエ変換”の

目標となる、中村先生にだけ当たり前と感じられる
と思われる式を、生徒にもその、ありがた味が何な
のかを伝えるためにも、絶対に必要

だったように私には疑われる。
 つまり実用の世界でよく見かける”フーリエ変換
した結果のパワースペクトル”とは、aやbの視覚
的なグラフの事ではなくて、パワーrの、各三角関
数の変数である角θに掛け合わされている、振動数
パラメータnについての、分布グラフの事だと、
私は理解しているからである。n毎にh(n)は、
それぞれ有るが、実社会ではhの方が、同じ周波数
の各要素成分がまとまると、どうなっているのかは、
余り問題にされないと、私は認識する。
 今紹介した成書は、私が若い頃購入した、培風館
の新数学シリース4の”三角法”の、定価で3倍強
するようなので、この本の該当部分には、

流行のバカチンマークを一応つけて置く事にしたい。

 話は長くなったが、以上のように、位相のズレた、
いろいろな史料が、寺に有り、複数の権威者が、そ
れぞれに史実を将棋界に広めても、

結果を合成したものの状態は、反転情報発生年の、
2倍の周期である事には変わらない

事が、数学上は、以上のようにして説明できるとい
うわけであろう。
 従って、冒頭に述べたように、大将棋の金成り駒
数の経年挙動は、
寺に残る文物古記録の2倍の周期で、成り金数は
入れ替わっており、寺で”昔の大将棋の記録”を、
各時代に発掘した者のルールが、その時代の主流に
とって代わられる事の繰り返しの結果が、現象とし
て、我々にはほぼ見えていると、考えられると言う
結論になる訳なのであろう。(2019/04/03)

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尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の写者雪竹老人は何者か(長さん)

表題本の4冊/4の奥書にも書いてあるし、八木書店
(2000年発行)本の”解説”にも出ているが、
江戸時代の加賀前田藩の文庫、尊経閣文庫の、西暦
1565年写書、二巻物色葉字類抄の写書者は、
”雪竹老人”となっている。
 本ブログでは、少なくとも、巻上の上の奥書の後に、
大将基馬名、小将碁馬名という表題で記載された
内容である、後期大将棋と日本将棋の駒記載部分の
執筆者として、西暦1565年時点の、”雪竹老人”
を疑っている。そこで今回は、

”雪竹老人”の正体について何者かを、論題とする。

回答を書いて、後で説明する。
 甘露寺家の系統で東寺の大僧上、

覚勝院了淳のような人物が疑われる。

では、さっそく以下に説明を加える。
 重要な事柄から順に書くと、

在来仏教は、禅宗と中世にも親和性が高く、在来仏教の
僧が、京都でも禅宗の寺と、頻繁に交流していたと、少
なくとも私は考える。

 すなわち、雪竹老人という、写書者の”ペンネーム”
とみられるものは、老人が”書家”である事を示してい
ると、私は考えるが、雪竹とは雪竹図の事であり、禅宗
僧の中世画家の画題であって、禅僧を連想させる熟語だ
と思う。なお、今問題にしている二巻物の前田家古文書、
尊経閣文庫蔵二巻物色葉字類抄の、第4冊/4冊奥書の
少し前には、禅僧耆旧という項目が、挿入されていて、
この項目は、写書者が雪竹老人であっても、執筆者は、
別のようにも見えるが、全体として、この書の写書者に
関して雰囲気を、かもし出す内容のようにも見える。

つまり水墨画家で禅僧また画僧の「雪舟」「雪村」の類

だと、自分を紹介しているのだろう。
 禅宗に詳しく、日本将棋の玉駒は、王将と書く人物。
しかも小将棋は”小将碁”と書く人物だと言う事になる。
 また将棋駒の字の確認を、頻繁にする人物が身内に存
在するらしく、成りは”裏”と表現する人物だと言う事
である。
 将棋の好きな甘露寺親長の子の覚勝院了淳は、西暦
1524年時点で在命である事が、三条西実隆の日記か
ら明らかである事が、増川宏一氏の(2013)将棋の
歴史、㈱平凡社等から判る。が、西暦1565年に存命
だったかどうか、までは私には判らない。
 何れにしても、

前田本二巻物、西暦1565年尊経閣文庫蔵色葉字類抄
の写書者として、覚勝院了淳はぴったり来る人物の一人

のように、私には思える。
 なお、八木書店出版(2000)の、色葉字類抄
ニの解説部には、”1565年の色葉字類抄ニ巻物、
前田家の文庫、尊経閣文庫の写書者は、雪竹老人である”
としか書いてない。
 この文を書いている時点で、問題の戦国時代の写書者
についての学説を、私は調査していないが。定説が有る
としたら、この八木書店から近年になって出版された本
に、はっきりと書いて有りそうな気がする。つまり、
定説では、色葉字類抄2巻物の西暦1565年写書者の
雪竹老人とは、謎の人物の事なのであろう。(2010/04/02)

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尊経閣文庫蔵2巻物色葉字類抄の”き”雑物に駒名羅列(長さん)

八木書店が2000年に発行した、加賀前田藩の
文庫、尊経閣文庫の色葉字類抄のコピー現代本、
尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編(2000)の

408ページ第一行目の内容

が今回の、報告内容の全てである。
前に紹介した巻上の上の奥書の後に書いてあった、

・大将基馬名と・小将碁馬名の話とは別の話

なので、その点に注意してほしい。
 今回報告するのは、巻下の下の

本文中の内容そのもの

である。
 最初に内容をずばり書こう。”き”の○雑物に、

・行・黄久里・玉将・金°将・飛車・銀将(左下
に小さく)金・竪行・香車(右下に小さく)金今
・白駒

と書いてある。ここで、”き”の○雑物のセクショ
ンは終わり、次からは○光彩のセクションに入る。
”き”で付く漢字を集めた章の

途中に、この内容が記載されている

という事である。少なくとも、この発見をも誘導す
るように、注意はしてくれたのだが。従来の、
摩訶大将棋のブログで、大阪電気通信大学の

高見友幸氏が流布している話とは、矛盾する別の話

である。今度の話は、”飛車が金に成る”のでは
なくて、香車の成りが崩した金か、はたまた白駒な
のかが、悩ましい所だ。つまり、大将棋と小将棋だ
けでなく、特定の古文書一冊だけのようだが、

中将棋が、色葉字類抄2巻物には書いてある

と言う事である。
 この古文書は、元々将棋のルール本では無くて、
たとえば、”き”で始まる漢字の姿を墨書で書いて、
書き方を教えるという主旨の、漢字の辞典の古文書
である。そうなのだが、
玉将や金将は確かに、”ぎ”や”き”だから良いと
して、

飛車と竪行と白駒は、将棋の駒だが、”き”で始ま
る字ではない

と、少なくとも私は思っていた。つまり、

将棋のルールが、辞書の内容そのものに挟み込まれ
ている

という事である。
 なお、この古文書によると、”と”にも記載され
ている飛車は、”とぶくるま”と現代感覚に、より
近く読むそうだ。脱線したが、冒頭述べた記載によ
り、いっけんして、

中将棋が西暦1140年代に存在したと解釈できる

内容である事が判る。

たとえば白駒は、中将棋の駒として特徴的

だからだ。
 ただし、尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ
(二巻本)前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店
発行(西暦2000年)の解説部には”この本で、
色葉字類抄の3巻本に無い字が出てきて特に、各セ
クションの末尾な場合には、書写したときに追加
されたと考えられたし”との旨が、記載されている。
 そこで、国会図書館の電子図書で、webで自由
に見る事のできる、3巻本の類かとみられる
色葉字類抄:尊経閣叢刊丙寅本の”き”の雑物を
見てみると、黄久里で終わっていて、ついで○光彩
のセクションに入るので、

・玉将以下の内容は、書いて無い。

 つまり、問題の成書の解説に従う限り、

中将棋の出現は、かなり早かったが、西暦1140
年代とは限らなかった

という事になろう。奇しくも前田藩ゆかりの金沢か
ら、不成り龍馬を、桂馬と読み間違いしている、鎌
倉時代の大将棋らしい駒の出土例が有るように、
出土駒のカテゴリーを入れれば、駒数多数将棋の出
現は、一般には、かなり早そうではある。が、駒の
構成が判るという意味で、中身のある文献では、
中将棋に関しても、これまでは、水無瀬兼成の
1590年将棋纂図部類抄が、詳しいものとしては
比較的古い例だ。これも、高見友幸氏の言う、
後期大将棋の文献の話と一緒で、固有名詞を中将棋
に入れ替えて、

中将棋の文献として、将棋纂図部類抄よりは古い例

という事に、なるのだろう。
 最後に、優先順位が、以上の衝撃的内容に比べて
下位と私は見て、上で説明を飛ばしたが、

・金°将の”°”を説明

する。将という字の”ノツ”の部分の右上に○印が
有って、

金将についてだけ、”将の字が、今ひとつ”と、
1565書写事業の監督と疑われる雪竹老人先生が、
書写した弟子を怒って付けたような、小さな
”バカチンマーク”の赤丸の印のように見えるもの
を、冒頭で”°”と私が表現

してあるという意味である。字を良く見ると、雪竹
老人は、旧字体の将の夕で、もう一つゝが入る部分
のノが、今ひとつ短すぎると思っているようだと、
見て取れる。
 以上で、事実関係の説明を終わり、考察は次回以
降とする。
 本日は書き込みが、西暦2019年4月1日に、
たまたま、なってしまった。そのため、事実の報告
と、主張し辛い日に当たってしまった。私は早稲田
大学の、高田早苗記念図書館に、上記の内容等を確
認しようとして、先だって、門前払いを喰らった。
なお高田早苗という人物の、社会全体に対してした
貢献は、webを調べても良く判らないが、ようす
るに後に、早稲田大学の関係者しか、使用できない
図書館が設立されているらしい。
 それはさておき。
 興味ある方で、エイプリルフールに歴史の愛好家
の私が漏らした、以上の色葉字類抄に関する内容の
真偽をもし確かめられたければ、各自適切に、職場
での役職や、将棋界での所持タイトルを示すなりし
て、自己の権威を主張して図書を入手し、上記図書、
尊経閣善本影印集成19色葉字類抄ニ(二巻本)
前田育徳会尊経閣文庫編、八木書店(2000)
の408ページを、実際に開いて、ごらんになられ
ると、よろしかろうと考える。(2019/04/01)

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