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三巻物色葉字類抄に、一文字の”鯨”がある(長さん)

前に、色葉字類抄のニ巻物の”鯨鯢”について、雄鯨
雌鯢のうち、雄鯨の概念は、後世の作ではないかと
言う話をした。しかし、

これは間違いだった。

三巻物の色葉字類抄は”く”の部分が失われて確認で
きなかったため、十巻物で比較したのだが、三巻物に
は、鯨鯢が無いものの、

”を”の所に、”をくじら”とカナが付いて、只の鯨
が載っていた。

従って、三巻物の色葉字類抄の失われた”くの動物”
にも”鯨鯢のうち、鯨は雄鯨”の意味の事が書いてあっ
た可能性が極めて高くなった。十巻物の伊呂波字類抄
で、鯨鯢の説明書きを、変えただけのようだ。なお、
合わせ物の伊呂波字類抄(3+10)というのがあり、
それと、十巻物の伊呂波字類抄の”雄曰口”の口の部
分の漢字が違うように見える。合わせ物(3+10)
は”雄曰鯨”と書いてあるようだ。だから、ニ巻物と
合わせ物(”く”の動物の、その部分は十巻)とは、
似ている。なお話が前後したが、

二巻物の色葉字類抄の”ヲ”に、をくじらの鯨が有る。

鯨を”ヲクジラ”とか”おくじら”とは普通は読まな
いし、ましてや現代では、確かに”をとこ”のヲだと
言われればそうだが、”オ”である部分に”ヲ”とは
カナを振らない。そのため、ようやく最近になって、
一文字”鯨”も見つかった。残念ながらこのケースは、

考察のおおもとの事実認識が、間違っていたという事

である。以上のように、お詫びし訂正したい。
 次に別の件に移る。色葉字類抄の将棋駒名のリスト
に、落ちが見つかった。”蟠蛇”も、二巻物の色葉字
類抄には書いてある。ちなみに、”は”や”わ”の所
では無い。

蟠蛇は”に”の所である。

 ”わだかまるへみ”等ではなく”にしきへみ”と、
色葉字類抄では読むそうだ。私は知らなかったが、
平安時代には、”錦蛇”とは、何故か書かなかったら
しい。(2019/05/31)

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邦訳日葡辞書の”踊り”の意味(長さん)

よく知られているように後期大将棋から上位の駒数多数
将棋には、”踊る”という動きがある。初出は安土桃山
時代末の、将棋纂図部類抄からであり、繰り返す動きの
意味であるという意見が強い。問題点を先に述べると、
”踊り”と言うと、今日では人の動きをイメージしやす
い。が、日葡辞書によると、それが誤解のもとらしい。

動物の馬の走りの動きの一種について、16世紀末から
17世紀にかけては観点としていたらしい。

 結論は以上だが、以下に説明を述べる。
 本ブログでは、今の所、将棋纂図部類抄流の踊りは、
室町時代早期から江戸時代まで、同じ意味で使用されて
いたとみる。味方の駒を跳び越えられるし、相手の駒も
跳び越えても良いし、取っても良い、途中取りの出来る
跳ぶ動きだという事としている。一応、南北朝時代以前
は、本当の繰り返ししか、出来なかったので、味方の
跳び越えと、相手駒”取らず”は出来なかっただろうと
考えている。少なくとも水無瀬兼成が、比較的自由度の
高い、”後期の踊り”を取っていたと、獅子の駒の現在
に残るルールから、獅子型の踊り説を今の所一応本ブロ
グでも取っている。しかし、”自由度が高くなった理由”
は、良く判っていなかった。
 しかるに、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の時代の辞書、
日葡辞書の日本語訳である、邦訳日葡辞書(岩波書店)
に、踊りとその派生語が3個程度載っているのを、最近
発見した。繰り返すと、馬の動作の一種の意味に取り、

日本舞踊の”踊”のように、人間の動作に適用している
気配が余り無い

のを認識した。将棋駒は、日葡辞書にこれもあるが、当
時はもちろん”馬”とも言われ、今より将棋駒は、馬の
イメージが強かったはずである。
 また、16世紀の前半から中盤は戦国時代であるから、
将棋は合戦のイメージであり、合戦で使われる馬のイメー
ジが元々有り、それを模したゲームである将棋の駒の動
きは、ゲームのルールを表現するのに使う言葉に関して
も、合戦用語に近い意味で、使われる事が多かったろう
と、推定するのが自然だろう。つまり日葡辞書の”踊り”
の説明を見る限り、

大将棋等の駒の一部の”踊り”の動きとは、馬が器用に、
小刻みに中足で、すばしこく走る動きの意味

ととれると言う事である。
 人間が、繰り返し同じ動きで踊っているという意味は、
平和なより後世の、近世の踊りのイメージに違いない。
 その結果、馬の足は器用なので、味方が途中に居れば
適宜跳び越すし、乗馬者の判断によって、有利になるか
どうかに応じて、途中喰いしたり、しなかったりも出来
ると、

恐らく南北朝時代になって、戦乱の世になったときには、
前の時代の踊りルールを、変更も出来た

のであろう。
 以上のように踊りは、馬の走り歩きを何歩かまとめて
する動きと、水無瀬兼成の頃には解釈できたと、日葡
辞書から推定できた。日葡辞書は、現代の国語辞書のフォー
マットに近い上に、安土桃山時代の末現在の、日本語を
反映していると仮定できるので、

将棋纂図部類抄の、日本語を理解するには有力なツール。

以上のように、見なせるように私には思える。なお一般
的に言って、安土桃山時代の口語は、今の日本語の意味
と余り違わない。狛犬の駒の動かし方ルールに出てくる
”要(かなめ)”は、安土桃山時代でも”基本”の意味
である。(2019/05/30)

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三井家記録文書目録(2016)に象棋13種は無い(長さん)

前に述べたように15升目でも142枚制の三井文庫版
大将棋、138枚制中大将棋、130枚制小大将棋、
25×25升目360枚制前後大将棋が記載されている
とされる、”三井家の”象棋13種は、古い時代の将棋
種の研究家でも知られる、岡野伸氏他僅かな人数の人間
にだけ、実体の知られている将棋である。
 他方、三井文庫のサイトには、表題のように2016
年から、三井家記録文書目録約7万件弱が、web上に、
公開されている。そこに、”象棋13種”が載っている
かとうかだが、

載ってない。

では、仔細に以下説明する。
142枚制三井文庫版大将棋、138枚制中大将棋、
130枚制小大将棋、
25×25升目360枚制前後大将棋の実体を把握する
事は、何れにしても大切である。現在の所、私が知る範
囲で、内容は、

岡野伸氏と、丸尾学氏が知っている

とされる。丸尾学氏は、山本亨助氏の将棋文化史の第5
章の5の”荻生徂徠の広将棋”によれば、広将棋の解読
に始めて成功したゲーム研究家とされている。虫喰い算
パズルの製作で著名で「日本の将棋、東洋の色々な将棋
一覧」の著作で知られるという。後者に関しては、私は
うっかりしていたが、岡野伸氏の(旧・1999年版)
”世界の主な将棋”の目次の下に、紹介されていた。
 以上の事から、丸尾学氏の方が、岡野伸氏よりも、
この件の情報発生源に、より近い人物だと判る。
 丸尾氏がどうして、三井文庫の中に象棋13種が有る
のかを知ったのかは不明だが、三井文庫へ見に行ったと
仮定して、とりあえず三井家記録文書目録に、以下の
検索キーワードで該当する書があるかどうかだけ、最近
調べてみた。

象。将棋。碁。基。棊。十三種。

数が限られているのは、ウィルスの拡散を三井文庫が
危惧したのだろうか。pdfで文字検索しなければなら
ないwebコンテンツなためだ、1日かけて、私には、
この程度の確認しか、できなかった。なお最初の2万
程度は、手めくりで読み、京都本店保管文書については、
全件見た。が、将棋13種らしいものは見当たら無かっ
た。この一覧表を捜索しても、結局全く見つから無いよ
うだ。
 ちなみに、webの三井文庫ページによると、

”双六も、南三井家所蔵の蔵書が有る”とされる。が
三井家記録文書目録で”双六””雙六”はヒットしない。

南三井家文書が、非公開だからなのかもしれない。
 だから、様子から見て同類の、

象棋十三種も、南三井家の現在蔵書なのかもしれない。

ただ、公開もされていないものから、前記の丸尾学氏が、
荻生徂徠の広象棋譜愚解のごとくに、象棋13種を入手
したというのも、何か不自然ではある。私は良く知らな
いが昭和期等に、

三井家の個人の蔵書は多数、古本として流出

した事が、あるのではないかという感じがする。知らぬ
間に、東京大学の図書館に、三井家の蔵書の類が多数あっ
たという、webの情報もあるからである。それから見
ても、神田古本屋街の近世の文書を取り扱う店に、たま
たま出ていて、しかも”三井家蔵書”とハンコでも押し
てあった本を、熱心に情報を入手していた丸尾学氏がみ
つけて、たまたま1冊の残を、買い込んだという経緯か
もしれないと疑われる。そのケースは、本来この本は、
三井家の関係者に、より著作された文書では無く、
三井家が、たまたま持参していた蔵書の一冊に過ぎなかっ
のかもしれない。そのケースは、丸尾氏の手から、
将棋13種が離れたら、実際上情報の管理として”おし
まい”という、

情報の保存にとっては最悪の状況

の疑いが結構有りそうだと、検索してみて私は感じた。
 水無瀬兼成の将棋纂図本を拡張した内容に過ぎないと
いう感触はするのだが。三井家できちんと保管中の本の
事であるかどうか、未だ不明な点が、大いに気がかりで
ある。(2019/05/29)

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東京都葛飾区郷土と天文の博物館、考古資料の公開(長さん)

2019年は5月26日一日だけだったが、東京都の
葛飾区白鳥にある、葛飾区郷土と天文の博物館にて、”
葛飾区内で発掘された考古資料の公開”と称する行事
が行われた。
日曜日だったので、遺物に近所の

子供が、整理番号を書き込んでいる光景が目撃

された。
 以上が、だいたいの結末だが、以下に説明を加える。
 出土した”考古資料”と宣伝されたものは実際には、
葛西城遺跡にて、かなり前に出土した物のうち、ポリ
エチレン袋の中に保管放置されていたB級品と、少な
くとも、私には見えるものであった。葛飾区民が総出
で資料作成をしている工程を、博物館の来場者へ見学
させるのが、ほぼ内容という主旨のようだ。よって、
木製品の割合が、8割方と多いが、城で使われていた、
”折敷き”と言われるスノコの仲間から、廃棄後発生
した、多数の細かい木の破片が、井戸に捨てられてい
たものが、開示品の大部分であった。

当然だが墨書が有る等、意味が判る史料は見当たら無

かった。その他少数ながら、円形の食膳用の木のフタ
の一部と見られるものがあった。ごく一部が展示され、
箸とかなり大型の、木製の御椀が別にケースに入れて
入り口にあった。
 係りに聞くと”墨書ものとしては、葛西城では木簡
の類だけだ”と、間違った解説が有った。約43年前
に出土して話題の”金将・銀将駒”の事は、現地・
葛飾区郷土と天文の博物館では今や、すっかり忘れ去
られた存在になっているらしかった。この博物館の、
常設展示品にも、かつてはケースに入って展示されて
いた2枚の将棋駒は、今回訪問したときには、私には
見当たら無かった。ちなみに昔は確か、レプリカが
展示されてあったと思う。確かにその後、滋賀県の
観音寺城下町遺跡の、ここと類似の戦国時代駒が出土
してはいる。しかし追加の情報は、ほぼそれだけであ
り、時間の経過で、ここの将棋駒遺物の価値が、相対
的に低下したといっても、その程度である。それが、
まるで、将棋駒の遺物などありきたりであるかのよう
な空気が、ここ葛飾区郷土と天文の博物館ではたぶん、
今世紀に入って、急速に蔓延してしまったのであろう。
 ここの将棋駒の境遇を見ると、これはいわゆる、

風評被害の一種

ではないかと、私には疑われる。
 なお、葛西城は完全に宅地化したので、本当の現地
に、将棋駒が移動した可能性は、たぶん無いと思われる。
ちなみに図書のコーナーに、発掘報告書類が有った。
が将棋駒は、成書の葛西城紹介書だけに、確かに載っ
ているのを私は確認した。報告書は分冊が多く将棋駒
はどこかに、写真が有るのかもしれないが、記載され
た場所が、私には良く判らなかった。
 説明を聞いた限りでは、将棋駒が葛西城で出土した
後は、墨書木簡が2~3枚出ただけで、木簡等の枚数
は少なく、字の有る史料が発掘で、大量に出てくると
いう事は、葛西城に関しては、1980年以降は余り
無かったようだ。
 なお次回は、西暦2020年1月に同様のイベント
をするとの事だそうだ。(2019/05/28)

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東福寺難破船出土駒(新安沖海底遺跡)の玉駒は玉将(長さん)

本ブログでは、現在でこそ混在して使われている玉将・
王将だが、京都の朝廷では王将しか使わなかったとみ
ている。出土駒のパターンが、それを支持するからで
ある。しかしうっかりしていたのだが、京都の寺が
チャーターして、韓国の新安沖で沈没した船から出土
した玉駒が、王将ではなくて玉将なのに、ようやく気
が付いた。この例外を、どう説明するのかを今回は
論題とする。答えを書く。

新安沖海底遺跡の将棋駒は、九州の博多産である。

では、以下に説明を加える。この駒は、船員が船内で、
賭博等をするのに使ったものであろう。チャーター
したのは、たまたま、沈没したときには、再建中であ
り資材を集めていた東福寺であったらしいが、将棋駒
は、波止場で購入したのであろう。博多の港や京都の
北の若狭湾の港に、普段出入りしていたのだろうが、
博多で購入した将棋駒だったとすれば、おかしくない
ように思う。実際、博多61次遺跡から、1990年
頃に、形も書体も似たような、玉将駒が出土している。
時代も、鎌倉時代から南北朝時代の辺だから、沈没船
の出土駒と、同じ頃でちょうど合っている。
 確定はしないが、京都の皇族町で仕入れた将棋駒で
はなくて、九州の港で入手した駒で、船の中で将棋を
指していたのではないだろうかと、私は思う。
 新安沖沈没船出土駒の出た船は、京都の寺院の船ら
しいが、将棋駒としては”遠地型”に入れるべきだと
言う事だろう。(2019/05/27)

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将棋纂図部類抄并序に将棋ルールの情報は無いのか(長さん)

ここでは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の序文に
関して、何か駒数多数の日本の将棋のルールに関
する情報が書かれているのかどうかを問題にする。
なお先行研究としては、大阪府三島郡島本町の、
島本町教育委員会により”象戯は日月星辰、即ち
天文をかたどったものであり、壮大な思想を引用
して、将棋は素晴らしいものであると述べている」
部分であるとの旨の研究がある。それでは本ブロ
グの回答を先に書く。

有る。

世(=私は)籍(=ふみて)(レ)茲(=これに)、
肇(レ)従(二)縦横三々之秤目(一)
泊(=およぶにて)(二)于摩訶大々之陣面(一)

は”摩訶大大将棋より下位の将棋類には、3升目
動き駒は無い”と、水無瀬兼成は認識していた事
を示している。なお、最初の”世”は、異字体で書
いてある。
 では、以下に説明を加える。
 将棋纂図部類抄への序と解釈される、巻物の出
だしの文に関しては、今の所上記の島本教育委員
会の記載を超える説は、見当たらないと認識する。

個人的に、漢文は得意では無いので、私には半分
程度しか、この序の意味は判らない。

しかし、将棋の史料が非常に少ない事を、最近は
身に染みて認識してきたので、読む努力をしてみ
た。なお、判らない字でかつ、私のような初心者
向けの案内成書としては、次のものがある。前に
紹介した記憶が有るが、巻末の索引が、大いに使
える本と、常々認識している。

日本史を学ぶための古文書・古記録訓読法
日本史史料研究会・苅米一志著、吉川弘文館
(西暦2015年)

 そして上記の結論で述べた部分は、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄への序の、残りの20%程度の
所に出てくるフレーズである。この部分も私には、
正確には訳せないが、

水無瀬兼成は3升目踊り駒は、摩訶大大将棋で、
始めて現われる、複雑な駒の動かし方ルール

と、言っているようにとれる。つまり、

大将棋や中将棋の類に、狛犬等、摩訶大大将棋の
駒が入った将棋等は無いと、安土桃山時代の
水無瀬兼成は見ていたようだ。
 実際には、神奈川県鎌倉市御成の、
鎌倉市福祉センター遺跡から出土した木札には、
中将棋の特殊バージョンで、狛犬を入れる場合が
あるらしいと、記載している事が、今では判って
いる。が、これは例外的であって、

後期大将棋はもちろんの事、普通唱導集時代の大
将棋にも、3升目踊り駒が無かった事を、水無瀬
兼成は、なんとなく知っていたようである。

 恐らく獅子と狛犬は、対で入った将棋も、作ら
れた事が有っても、中将棋や大将棋の陣形では、
玉守りの段数が浅すぎて、狛犬型駒によるトン死
筋で出すぎて、変種は結果的に淘汰されたのだろ
う。よってオフェンスが強すぎてゲームとしての
調節が難しく、

普通唱導集大将棋に、獅子成りの麒麟がたとえ有っ
たにしても、対で考え付きそうな、狛犬に成る
鳳凰というバージョンは、長くは続かなかった

のであろう。つまり、少なくとも普通唱導集時代、
すなわち西暦1300年頃まで遡ると、大将棋は
単なる中将棋の説明のためのものではなく、

ゲームとして攻撃力と防御力のバランスをしっか
り取った、実際に主流のゲームだった

という事を、安土桃山時代の水無瀬兼成が、将棋
纂図部類抄への序で、少なくとも示唆はしている
のではないか。
 とすれば、将棋纂図部類抄については、その序
文には、駒数多数将棋のルールの歴史に関する情
報が、全く無いとまでは言い切れないのではない
か。以上のように、私には結論された。
 なお、大大将棋に奔鬼があり、水無瀬兼成は、
5升目踊りと表現しているから、他の証拠と共に、
水無瀬兼成が、”大大将棋は摩訶大大将棋より
上位の、水無瀬兼成にとって、『最近の作』もの”
と、自分から自白している証拠の一つとも取れる。
ちなみに他の証拠としては、前に述べたが、
将棋馬日記表紙裏の、将棋種を書く順序が挙げら
れる。(2019/05/26)

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南北朝時代。麒麟抄成金が小将棋なら大将棋の処理は(長さん)

前に述べたように、麒麟抄に将棋の成り駒が限定して金
と記載されていて、これが南北朝時代の成立なら、南北
朝時代には、平安小将棋が優勢で、他の将棋はバージョ
ンが一定しないため、プレーヤーグループが各々作成し
ていた状況だったと、推定せざるを得ないとした。その
成り金が小将棋に関しては、能筆家に字書を依頼すると
”極草書”で処理されるにしても、大将棋の成りの金は、
能筆家が書いていないのだから、”極草書”だったとは、
自明には言えない。では、どうだったのかという点を、
今回は論題にする。回答と大切な点を最初に書く。

大将棋等のゲームデザイナーが、個別に、状況に応じて
判断し、平安小将棋の道具もデザイナー自身が所持して
いる場合は、小将棋の同一種類駒と、駒を区別する為に、
大将棋等別のゲームでは、成り金の書体が極草書にし無
かったケースも、場合場合で有ったと見られる。

そして、大切な点については以下の通り。
南北朝時代の南朝方の公家、近衛経忠の作と本ブログで
は例示した、栃木県小山市の、

神鳥谷曲輪、裏一文字金角行駒の裏が、極草書の金で無
いのは、(一例)近衛経忠が、個別に彼が所持した小将
棋の駒と、区別したいという事情だっただけ

の疑いも有る。
 以上の通りである。では説明を加える。
 以上のような結論になる根拠は、水無瀬兼成の将棋纂
図部類抄や、近年の山形県天童市の佐藤敬商店の廉価な
中将棋駒の、歩兵駒の書体を根拠として挙げる事が出来
る。麒麟抄に記載されている通り、これらの中将棋駒の
歩兵の成りの金は、極草書の金だが、”と”金になって
いない。明らかに、

普通の日本将棋の駒と、混在しないようにしている

のである。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、中将棋の歩
兵の成りの金が、と金で無いのは、実際に、豊臣秀次の
指示で、豊臣秀頼用に六将棋を作成しているので、これ
ら色々な将棋種間で、同じ名前の駒が、お互いに混ざら
ないように配慮した事を、将棋纂図部類抄の巻物にも反
映しているのであろう。ところで、水無瀬兼成は、
後期大将棋については、成り金をゼロにしてしまって、
問題を回避してしまったが、

摩訶大大将棋では、更に複雑な事をしている。

すなわち、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の摩訶大大将棋
では、
①歩兵の成りを日本将棋の桂馬の成り金。
②奔王段と、桂馬の存在する狛犬段の金成り駒の金を
と金。
③香車と反車の金成りの金を、桂馬の成り金もしくは、
と金、
としている。つまり結果として、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄では、桂馬が”と金”成り、香車が”と金”また
は日本将棋の桂馬の金成り、歩兵が日本将棋の桂馬の金
成りになっていて、歩兵が、水無瀬兼成の日本将棋の”
と金”、水無瀬兼成の中将棋の、”本当の極草書金”と
もバッティングしないように、調整されているのである。
 他方これが、しきたり化しておらず、水無瀬自身の工
夫の範囲内で有る事は、聆涛閣集古帖の”摩訶大将棋”
の金成り書体が、単純に
①1・2段の香車と反車は日本将棋の銀将の成り金。
②狛犬段が日本将棋の桂馬の成り金。
③奔王段が日本将棋の香車の成り金。
④歩兵が”と金”
になっている事から判る。つまり聆涛閣集古帖の”摩訶
大将棋”の金成り書体は、美術的な観点から調節しただ
けであって、

麒麟抄の記載にこだわるとすれば、今金崩しの全部”ケ”
程度にしても良かったというだけ

のように思える。
 水無瀬兼成は、豊臣家に贈る六将棋について、安土桃
山時代にこのような”工夫”をしたのだろうが、南北朝
時代に、一例として、近衛経忠が同じ工夫をしたとして
も、

誰でも考える程度の、将棋種によって混ざらない工夫を
するという行為の範囲内

という事なのであろう。なお、混ぜたくない理由として
は、将棋種によって、贈答だったり自家消費だったりす
るので、材質の樹木を変えているとか、駒に出来に、系
統差があるため、混ざらないようにしたいとか、個別の
理由と考えられる。しかも、南北朝時代から安土桃山時
代頃は、麒麟抄の著者と言えば、藤原行成が当たり前だっ
ただろう。だから、大将棋の発生の要因となる、将棋の
宮中での標準化(本ブログの大江匡房平安小将棋標準化
仮説)の出る、西暦1080年より前の話であると、当
然そうなら、誰もが認識しており、

麒麟抄の将棋駒の成りの記載は、9升目36枚標準平安
小将棋以前の将棋種に関するものである事は、貴族の
関白や中納言なら、誰でも知っている事

だったのだろう。ちなみに、新安沖沈没船出土駒の成金、
京都の鳥羽宮の南北朝時代の銀将の成り金は、極草書の
金か、”と金”である。従ってこれらは概ね南北朝時代
に成立したとみられる麒麟抄の、小将棋の将棋駒の書方
の記載と合っている。
 つまり、普通唱導集大将棋西暦1320タイプの、角
行の成り金や、豊臣秀頼用の摩訶大大将棋の歩兵等の成
り金の書体は、

デザイナーの思考の範囲内で、麒麟抄から、はみ出た結
果の可能性も否定できない

という事ではないか。そのため、今まで本ブログでは
疑っていた、栃木県小山市神鳥谷の神鳥谷曲輪角行駒も、

裏の金の崩しが弱いという程度では、オリジナルとは
違っていたとは、言い切れない。

以上の結論に変えざるを得ないと、思われるようになっ
て来た。この駒につき本ブログでは一例として田沼意次
と、長谷川平蔵の調査により、少し前にカミサンと次女
を亡くして、がっかりしていた十代将軍の徳川家治の為
に将軍の日光参拝の少し前、小山の宿を通る事を前提に、
徳川家治に披露し、殿様を慰めるために作成したとした。
 つまり、小山よし姫、五十宮倫子女王、徳川萬寿姫を、
合祀して神鳥谷曲輪で、小山市の青蓮寺(元は伝・尼寺)
の当時の男性の僧侶が拝み、将棋に関係の深い徳川家治
の家族の死を痛むという志向である。そこでその、
神鳥谷曲輪、裏一文字角行駒の再現は、ひょっとしたら
言うならば、国家の威信を賭けたものだったのかもしれ
ない。よってそれは当時特に力を入れて作られ、その為

かなり精度の高いもの

だった可能性も、否定できないようにも思われる。なお、
そうしてみると、鶴岡八幡宮境内遺跡の汚れた、(定説)
”飛車成り金将駒”も、金将を歩兵の間違い、飛車は、
日本将棋の桂馬の成り金の間違いと見た場合には、桂馬
金に成る歩兵と取れるが、その桂馬の金に成る歩兵(仮
説)の謎も、金成りの多い、”ある種の大将棋類”の駒
を、”不成り消えかかった歩兵駒”とは、別に作ったの
だと考えても説明できそうだ。つまり、南北朝時代頃に
少なくとも鶴岡八幡宮境内の博打場(?)では、
平安小将棋、水無瀬兼成型後期大将棋、金成りが多く、
歩兵も、金成りの中将棋か大将棋類の何れかが、混在し
てプレイされていたと言う事かもしれない。
 南北朝時代の頃の、複雑な金成り駒の謎についても、
麒麟抄の解釈のアヤを、真面目に考え直すことによって、
何とか説明が付くように、私には思えて来た。(2019/05/26)

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麒麟抄11世紀作ゆえ飛車角無説は偽作説でどうなる(長さん)

かつて、麒麟抄が藤原行成著書説が将棋史学会で普通
だった頃、11世紀の特に小将棋に”成金は草書で書
く”との記載から、龍王に成る飛車と龍馬に成る角行
は無い根拠の一つとされていた。将棋史家は、麒麟抄
の偽作の事実が広まると、麒麟抄の将碁を余り紹介し
なくなった。が、
麒麟抄が南北朝時代の作だとすれば、大将棋に成太子
酔象、成り獅子麒麟、成り奔王鳳凰があるにもかかわ
らず、麒麟抄では、金への成しか無いと書いてあると、
そう取っていた将棋史家の、かつての論そのものを、
どうするのか。つまり、どう落とし前をつけるのかと
いう議論が、置いてきぼりになってしまったと考えら
れる。そこで、

今回本ブログでは、以上をどうするのかを論題とする。

いつものように、最初に回答を書く。
 すなわち回答は、以下の通りである。
南北朝時代は中将棋と旧大将棋の境めの、平安小将棋
(現代日本将棋の、動くたび成りタイプの持駒ルール型)
の中興時代であったと推定できる。その証拠としての
麒麟抄の存在の意味を、未だ失って居無いと、ここでは
取る。
 では、以下に説明を加える。
麒麟抄が、偽作者によって成立した時代には、中将棋が
存在としても、少なくとも多彩な成りルールを取る今の
中将棋は、ローカルルールであって、

ゲームする人間が、藤原行成の子孫の世尊寺家等には、
作駒を依頼せずに、自分で字書きをした時代

だったとみられる。中将棋駒の字書きの仕事が、麒麟抄
の南北朝時代の、真の著者の所にたくさん来ていたとし、
それが、龍王は飛鷲、龍馬は角鷹、飛車は龍王、角行は
龍馬、竪行は飛牛、横行は奔猪・・・というように、
多彩な成りを持つルールだとすれば、麒麟抄の成りの書
き方の記載を、金だけでは、当然済ませなかったはずだ
からである。しかし実際には麒麟抄には”成金は極崩し
た草書で書くべきだ”とだけ書いてある。だから、

麒麟抄が本当に成立した、鎌倉末期から南北朝時代に
かけては、中将棋は成りが、後期大将棋程度しか無い、
黎明期だった可能性が、かなり高い

とみなせるように、本ブログでは考える。
 ただしそれでも、何らかの大将棋が有って、鳳凰の成
りを草書にしなくても、不便ではないのかという問題は、
残っていたものと見られる。しかしそれも、神奈川県
鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡で、楷書の成り奔王の鳳凰
駒として出土している等、問題の実在性自体が、かなり
高いが、麒麟抄では言及されて居無い。これは、出土駒
が有っても、

平安小将棋よりも、大将棋の普及度はかなり低い

からだと見て、良いためのように思える。
 というよりも、
大将棋は普通唱導集に書かれているように、ゲーム性が
明確すぎる定跡の発生によって難が有ると見られて、衰
退混乱期に入り、存在しても、さまざまなバリエーショ
ンが生じて、作駒は美術的な価値よりも、ゲームを今後
どうするかの方の、切羽詰った問題の方が重要になって
いたのだろう。そこでこれらの字書きは、能筆家にでは
無く、使い手自作が主流になったのだろう。大将棋につ
いても、麒麟抄が本当に成立した南北朝時代には、成り
鳳凰の書き方等を、麒麟抄に記載する動機付けを、そう
いうルールが正しいかどうかが、不明になってしまった
ために、それそのものを失っていたように、
私には推定される。以上をまとめると大づかみで言えば、
異制庭訓往来には、確かに”色々な将棋が有る”とは書
かれているが、駒数多数将棋は群雄割拠の混乱期であり、

主流は平安小将棋(現代日本将棋の、動くたび成りタイ
プの持駒ルール型)であり、一般にはこれが”将棋”

だったと言う事を示しているのではないか。だから、
南北朝時代にも、やはり

龍王成り飛車と龍馬成り角行は、新安沖沈没船出土駒も
示唆しているように、小将棋には入っていなかった

という事を、麒麟抄の記載自体は物語るのではないか。
 つまり、
尊経閣文庫蔵の二巻物色葉字類抄の第1冊/4冊付録の、

小将碁馬名の記載だけが、新安沖沈没船出土駒や、南北
朝説麒麟抄、二中歴の将棋記載とは、整合していない状
況である。

以上のような現状なのではないかと、私には認識される。
(2019/05/24)

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栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡井戸跡遺物各の成立年代(長さん)

以下あくまで私論である。本ブログでは、栃木県小山市
神鳥谷曲輪遺跡の出土遺物のうち、主に井戸跡から出土
の木製遺物を中心にして述べると、

カワラケと青磁以外は、小山市の青蓮寺存在期のもの

であるとの立場を取っている。以上が結論だが、以下に
説明を加える。
 小山市青蓮寺は、15世紀の足利持氏時代の、東京都
八王子の小山神社と同類の、宗教施設であろうというの
が、本ブログの見方である。それでも古いが、足利尊氏、
足利氏満時代の、もともとは小山朝政築とも、小山義政
の館とも、宿城だとも言われる、小山朝政子孫の小山氏
の時代、南北朝時代14世紀の武家の館よりは少し下る。
つまり、

裏一文字金角行将棋駒は、後世の”写しの品”

とみているという事である。また今まで述べなかったが、
本ブログでは、
8号、10号、11号井戸から大量に出土している、

曲げ物の材料となる方形板切れや箸は、江戸時代かどう
かは特定できないものの、かなり後の、祭事用等のもの

だと考える。根拠は、
小山義政の館等だった時代の、中心の井戸と、道路樹木
片や井戸の側板から年代測定、樹木同定からされている
とされている14号井戸から、これらの8号、10号、
11号井戸跡に特徴的な、大量の木製品が、

ほぼ出土していない

からである。木製の遺物は北側井戸跡について、たいへ
ん特徴的だが、他の同年代レベルの、栃木県の城跡から、
かわらけといっしょには、

大量に出土している例が少ない事から、やはり、
”青蓮寺期”のもの

なのではないか。すると、神鳥谷曲輪からも銭が出てい
てこれは南北朝時代であるにしても、祇園城遺跡ほどの
量でなく、概ねカワラケと青磁のカケラだけの、比較的
地味な出土品が、栄光の小山氏時代の全てという事にな
るのだが。これが、小山義政館と言われた時代から有っ
た、遺品の全てのような気が、今の所してならない。
 むろん、だからこの遺跡が、小山氏の小山朝政から、
小山隆政までの代の、平素の居城では無かったとの、
証拠には、特にならないと思う。
 単に青蓮寺の時代は、代表的年代としては今から約
300年前。それに対し、小山義政の時代は、600年
以上も前だと言う、

単なる古さの差

の効果のように私には思われる。近くの持宝寺にも本来
なら古い寺なので、青蓮寺の”宝物”、下駄、将棋駒、
櫛等に関する情報が、江戸時代までは残っていたのだろ
う。
 しかし明治の火事で、持宝寺は焼けてしまったそうだ。
そこで、火事になって、記録が失われてしまうと、せい
ぜい、青蓮寺の和尚が合戦嫌いで、幕末に黒船を打ち払
う、大砲用に使用するための、鐘の銅の拠出を拒んだ話
位が、残る程度になったのだろう。青蓮寺について話は、

他にたくさん有ったが、持宝寺の明治の火事で消滅した

という意味だ。
 なお、理由は不明だが。14号井戸にだけ、小山義政
時代の遺物がかたまり、青蓮寺の遺物は、北の方にかた
まって、出ているようだ。栃木県小山市の、
小山パレスホテルが、旧青蓮寺の本堂の位置だと、当て
ずっぽうだが、私には常々感じられる。
 ただし、墓石の一部が、14号井戸付近からも出てい
る。これについては、地元では青蓮寺の時代とみられて
いるようだ。理由は謎として、それで正しいのだろう。
 なお、前に北の窪みから出た”宮内”墨書土器が、8
号井戸関連と述べたが、

間違いのようだ。

理由は窪みが浅いためだ。この墨書土器は、どうみても、
かなり新しく、近代にも地表に露出していた、天満宮の
備品の疑いがある。(2019/05/23)

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1975年古辞書叢刊の色葉字類抄2巻本は前田家蔵(長さん)

八木書店2000年発行の尊経閣文庫蔵の色葉字類抄2
巻物の解題に、”2巻物の色葉字類抄の出所は、全部、
加賀前田家(江戸時代)蔵書の尊敬閣文庫蔵本である”
との旨が記載されている。ざっとだが、webの古書販
売サイトを見ても、だいたい正しいようである。しかし、
詳しく見ると、東京の神田古本屋街の一角にある、
小林書店という、宗教関係の専門書を扱っている古書店
で、”尊経閣文庫蔵”を示して居無い本が、西暦
2019年の5月中旬の最近の時点で、1つだけだが
存在していた。

”川瀬一馬解題。西暦1975年発行。古辞書叢刊
色葉字類抄 2巻物。西暦1565年写書”

との旨表記されたものである。
 川瀬一馬氏の蔵書を複写して、西暦1970年代に発
行したようにも見えるが、西暦1565年書写した写書
とされる、この本の元々の出所は、webを見た限り
判らなかった。
 小林書店に問い合わせた所、ここの本屋の店主は親切
なようで、

尊経閣文庫蔵本である

と、ただちに教えてくれたので助かった。
 店主の言は疑わなかったが、心残りだったので、実際
にこの、”古辞書叢刊、色葉字類抄2巻物”をめくって
1/4冊に大将基馬名と小将碁馬名の付録が有る事と、
”き”の雑物に、玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、
白駒が有る事程度だが、最近ざっと自分の目で確かめた。
古辞書叢刊色葉字類抄2巻物と、尊経閣文庫蔵八木書店
発行色葉字類抄ニ(2巻物)とは確かに、少なくとも

内容がいっしょ

の本であり、八木書店2000年本の解題の内容で正し
いようだ。(2019/05/22)

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