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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札現依然不明(長さん)

以前に本ブログに、表題の木札が、”市役所に存在し
ているにも係わらず、紛失との旨の記載が本ブログで
見られる”ともとれる旨の苦情が、コメント欄に書き
込まれていた。
 管理人は陽気だったので、これを

”再発見の知らせ”の吉報と、受け取ったが間違い

だった。以下に確認しただけだが、経過を簡単に書く。
 神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所内にある鎌倉市文化財
部文化財課に、西暦2019年6月末吉日の午後に、
直接問い合わせた。応対した担当は、西暦
2018年の12月当時と”状況に変化が無い事”を、

何の話なのかを思い出すために、何秒か、かかるとい
う事すら全く無く、即答

してくれた。
 河野真知郎氏の”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”
の、”文字のある生活”での、この史料についての、
”別格扱い”が、”無い”との騒ぎが再燃した局面で、

相当に効いていた

ようだ。鎌倉市役所文化財部の担当間で、私の、立ち
回りに対する扱いについては、オフラインでの直接接
触、すなわち問い合わせ自体は、アクションが半年に
一度であるにも係わらず、完全に申し送りが出来てい
るようだった。

以上の事から、私に対して、”『間違った情報の流布』
と表現できる物に対して、鎌倉市内で不快観が存在”
との風説は、誤りである

点についても、あわせて本ブログ内でも報告しておく。
 誰が何時問い合わせても、鎌倉市役所文化財部が、
上のように教えてくれると思う。ので、これでも疑う
方が万が一居られたら、

御自分で、鎌倉市役所に問い合わせるのが、とても簡
単な、確認方法だ

と私には認識される。
 結局、現状を教えて貰ったお礼だけ述べ、
内心は大いにがっかりして、担当者との会話を終えた。
以上、はなはだ簡単であるが、中将棋の初出に係わる
本遺物の現状についての再報告としたい。(2019/06/30)

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1984年鎌倉駅出土”搦王馬馬仲”木簡角行補は無理(長さん)

以前に、集成鎌倉の墨書の木製品No.301に、
表題の1984年とかなり前に、今のJR鎌倉駅
構内で出土した、細長い木片が有るとの内容を、
本ブログに書き込んだ。そのとき、角行角行奔を、
搦と王の間に入れると、スペースがちょうど良い
かのように書いたが、

これが違う

のを、最近発見した。5文字補うスペースがある
かのように書いたのであったが、よく調べてみる
とスペースは、

5文字ではなくて、4文字半空いていた。

結論は以上だが、それでどうしたのかを以下に、
報告する。

角行角行の、後半の角行を”踊り文字”に変えな
いと駄目

であった。

搦王馬馬仲.gif

上に結果を、スケッチ図に重ねて示した。集成、
鎌倉の墨書上では縮尺は1/3との事である。
web上では、画面上で拡大表示が可能なので、
その点お伝えするのは無理だ。将棋駒よりも相当
に長い木製品で、私見だが、更に元々のものを縦
に裂いてから捨てたと見ている。
 さてその状況で8文字目と9文字目が、几帳面
に馬が並んでいるので、本ブログの、上の図のよ
うな踊り文字の導入は、

かなり、無理があると感じる。

やはり、”角行角行奔王龍馬龍馬が仲人横行反車
を搦(から)め、反車香車が耳を破り、飛車を退
け勝ちを取る。(こうして置いて、麒麟が袖で、
獅子に成り込んだら、成り込まれた方が、陣を喰
い荒らされ、玉を詰まされて負けの意味である。)
(そこで、その対策としては、)仲人嗔猪が腹を
合わせ、桂馬を登せて支え得る。”
と、普通唱導集の大将棋唱導唄に、この出土木製
品の字を、前段へ”角行角行奔”というふうに、

大幅に補って繋げるのは、かなりキツそう

だ。単なる偶然という事なのだろうか。内容的に、
これで、ドンピシャ合っているような気が、私に
はするので、たいへん残念な事だと思った。
 なおこのスケッチ図の転載許可については、
集成鎌倉の墨書に、”条件によっては、著作権者
の許諾せずに、一部複製OK”の旨が書かれてい
るので、まとめて後追い許諾の予定で居る。現時
点で、小山市教育委員会の角行のスケッチや、
金沢市の堅田B駒のスケッチとは異なり、私は
スケッチ図の著作権者の許可を取って居無い。
 鎌倉市二階堂の一文字水駒(?)(木製品No.
139)のスケッチ図と合わせて、更に紹介した
いスケッチ図が有れば、本ブログ上に転載した上
で、後で忘れずに、鎌倉考古学研究所へ、声を掛
けて置かねばと思う。本ブログは”遊戯の世界”
なので、”学術研究等”の堅苦しいイメージが、
元々薄いと思われるからだ。(2019/06/29)

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二中歴横行の位置。”王の頂”に”方”が何故付く(長さん)

先行文献として、web上の溝口和彦氏の平安大将棋
自陣4段型初期配列が有名だが、4段型初期配列の
平安大将棋の模型では、横行が3段目に来るとする
意見が強い。本ブログでは奔横が導入できない不都合
がある為、”頂方”の”方”の字の存在について、既存説で
は個別に、解析した結果が、web.上に見当たらない
ため、”よく判らない”との旨の表現をし、これまで、
ほぼ無視してきた。今回は、最近の知見に基づいて、
この問題を再度考察し直し、理由が何なのかを論題と
する。回答を先に書く。

二中歴の大将棋の部分の筆者も、横行の導入が玄怪録
の上将から来る事を知っていた。そこで、横行は本来
将位の駒に準じるものであるにも係わらず、玉将の
傍方に配列しないで、前升目に例外的に配列している
という気持ちで、頂ではなくて、頂方と表現した

と考えられる。では、以下に説明を加える。
 二中歴の大将棋の記載では、最下段駒の配列と、駒
の動かし方ルールを説明した後に、歩兵の段数には言
及せずに、その他の駒の初期配列位置と、駒の動かし
方ルールを説明している。このうち各駒の初期配列は、
その前に位置を説明している、次の駒群を基準にして
いる。
横行は王将。
猛虎は銀将。
飛龍は桂馬。
注人は中央の歩兵。
この場合の王将は、恐らく玉将と読むとの心であろう。
桂馬は、位置を書き忘れているが、とにかく存在はす
るのであろう。
 また何れも、基準駒の前升目等に有るように、相対
位置が記載される。相対座標の表現は、各駒について
次の通りである。
横行では頂方。
猛虎では頂。
飛龍では上。
注人では頂。
 先行研究の溝口和彦平安大将棋四段配列モデルによ
れば、彼が自分のブログで書いた初期配列図等から、
頂は直ぐ前の升目。上は進み先(中央へ寄る方の升目
へ桂馬跳)、頂方は、2前の升目との事と解釈してい
るようであった。
 本ブログでは、飛龍の位置は3段目配列から4段目
配列に変化するときに、桂馬の二つ前の升目へ移動し
たと解釈して、飛龍と猛虎を同筋にするため、飛龍は
桂馬の1つから2つ前の升目へ、筋変えをしたと考え
た。ここでは、この点の優劣は問わない事にする。
 そして問題は横行であり、本ブログでは奔横を導入
する際の都合の悪さから、”方”を入れたのは、たま
たまで、意味は無いと無視してきた。

今後は、最後に述べた横行の相対位置を記載する頂方
の方について、以下のように、本ブログの論を訂正

する。つまり、単に横行在王(将)之頂。行前一歩・・
と書かずに、横行在王(将)之頂方。行前一歩・・と
頂ではなくて頂方と、二中歴で記載したのは、

横行が金将位置や桂馬位置に有っても、本来おかしく
ないとの認識が、当時は有った為

だと考える。”方向が”と”方”を入れて、王将に対
して、

横列に置かれない事を、強調した為

と、考えるという事である。
 理由は前に述べたとおり、横行とは、元々玄怪録を
読んで、平安大将棋を作成した、平安大将棋のデザイ
ナーが、上将という名の駒を導入しては、5将制の
平安大将棋では、くど過ぎて適切で無いと見た。その
ため、玄怪録岑順(小人の戦争)の、上将の駒の動か
し方の説明とみられるものの中に有った、横行を、
中国語では名詞に転用できると正しく認識して、置き
換えたものとの解釈を、本ブログでしたという事であっ
た。恐らく西暦1200年頃までは、二中歴の編集者
に、陰陽寮内で西暦1110年頃であったとみられる、
平安大将棋のデザイン現場の事情が、情報として残っ
ていたのであろう。
 準将の意味である”横行”が、金将、銀将、銅将、
鉄将と異なり、”王(読み恐らくぎょく)”の横位置
ではなくて、前位置である事は、

レアーなケースである

と、二中歴の大将棋の著者に、感じられたのではない
か。そのため、頂で良い所を”方向は頂であって横で
は無い”との含蓄で、横行だけ、頂ではなくて頂方と、
初期配列位置が、表現されたのではないか。
 従ってやはり、横行の位置が頂ではなくて頂方とな
っていても、この”方”は、”ずっと向こうの方”の
”方”では無くて、”『方向』がこっち”の”方”と
も、少なくとも取れるので、結果は無いのと同じに、
なるのではないか。
 以上のように結論出来るように、私には思えるので
ある。(2019/06/28)

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神鳥谷曲輪裏一文字金角行駒の裏金字の右下汚れの正体(長さん)

本ブログでは、西暦2007年に、栃木県小山市神鳥谷
北端の、神鳥谷曲輪遺跡(西方)宇都宮線西空き地で
発掘された、角行駒について”成立西暦1340年程度
の遺物の、コピーである疑いが存在するが、複写精度の
高いもの”との見解を取ってきた。そしてこの遺物に
ついて、

本ブログ独自に、裏一文字金角行駒と名づけてきた。

 この名称から、駒の裏の中央に、金が一文字で書かれ
た姿が想定されるが、実際には栃木県小山市の小山市
教育委員会発行、神鳥谷遺跡Ⅰ(第2分冊)の下写真の
ように、

上部のハの字しか、明確な墨跡は無い。

そもそも、南北朝時代のものなら、麒麟抄のように”金
は極崩しで書く”はずである。そこで以前は、本ブログ
のこの駒の扱いを、参考程度のものとしていた。
 しかるに2019年の3月末になって、尊経閣文庫の、
色葉字類抄二巻物4冊分け物の第1分冊/4冊の末尾に、
一覧形式独立ページで”大将基馬名”があるのに本ブログ
でも気がついた。そしてそこに、香車、反車、猛牛、飛車、
仲人の裏が、金である事が、発覚するに及んで、類似現象
と見なされた。そのため、”大将棋の変化モデルを立てる
基礎資料”に、この遺物の本ブログ内での位置づけが、
大きく上昇した。
 以上の経緯から、この駒の内容については、これまで以
上に、慎重かつ精細な、事実認識が必要とされるように
思われるようになった。今回は以上の背景から来る、
この遺物の状態見直しの一環として、

裏面の右下隅に存在する、汚れのような黒い部分の正体

についてを、論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。目視の状況と合
わせて総合的に判断すると、このボーとして黒い部分は、

カタカナの”ヤ”の、”つ”の部分だけの物

の疑いも有ると見られる。

神鳥谷曲輪や.gif

では、以上の結論につき、もう少し説明を加える。
 この遺物に関する、発掘担当者、栃木県小山市市役所
の秋山隆雄氏の、前記発掘報告書の第一分冊の”館の造
営時期について”等によれば、本件の遺物の成立年代は
西暦1333年から西暦1392年までの、南北朝時代
との事である。ここでは簡単のため、以前の本ブログの
結論である、小山朝氏(朝郷)の活躍した西暦1340
年代で代表させる。
 それに対して、本ブログでは、これより悲観的な見解
を取る。元遺物は確かに西暦1340年代成立であるが、
後代の、栃木県小山市神鳥谷北端の廃尼寺(近世は男寺)

青蓮寺に、女物の下駄、櫛の破片と共に保管された、
宝物とされる、元史料のコピー

と見ていると言う事である。本ブログの推定によると、
最も悲観的な見積もりでの最終的な写しは、江戸時代中
期、18世紀後半に下ると見なされる。ただしオリジナ
ルの成り金が、大将棋の駒と通常の、平安小将棋(本ブ
ログの推定、持ち駒有り型、成り敵陣移動毎型で、駒字
書き方麒麟抄準拠型)とを区別するために、

正しく、崩しの弱い”将”の無い一文字金と書かれた物

であると、現時点で判断している。以上の事から神鳥谷
に存在したとの近世成立の古文書や、小山市宮本町の道
鏡が開基したと伝わる寺、持宝寺に記録等の有る小山市
神鳥谷曲輪の青蓮寺の要素を、ほぼ無視している秋山氏
の見解は、精度を欠くと考える。が結果的に、写しが正
確だった為に、写しであってオリジナルでは無いという
事が、議論にほとんど影響をしないと、今の所本ブログ
でも見るという事である。
 そこで、この遺物の成立は、西暦1340年代である
と、以下簡単に、記すことにする。
 従って、この遺物は、本ブログの言う、

普通唱導集大将棋南北朝型のルールと一致する、成りが
金と書かれた駒である

と結論される。
 しかしながら実際の写真を良く見ると、今回論題にし
たように、裏の金の字の右下の、ネズミ色の四角い枠で
囲った部分から判るように、

汚れがある。

 実はこの駒を、本ブログの管理人は、2度実物で目視
している。それによると、

実際に汚れは有る

ものの写真で、”や”の字の
2画目と3画目に当たる部分は目視では実在するように

見えない。

また、ネズミ色の四角い枠内左上のさらにボーと見える”
影”は肉眼では、はっきりしない。そこで、結論に書い
た通り、本ブログでは、このネズミ色四角部分の汚れは、

カタカナの”ヤ”の字の”つ”部分が、もしかすると
書かれていたのかもしれないし、単なる汚れなのかも
しれない

と、以降解釈し直す事にしたい。

最悪は”金(右下付き)や”と書いてあった疑いが有る

という事である。
 ただし解釈は自明であるように思える。

この駒の原作者の一例、近衛経忠が、中尊寺金堂境内遺
跡の銀将~歩兵の類に関する出土駒のデザインを真似て、
より古風なイメージを、かもし出すために、”也”の字
を加えたという意図

というものである。従来より以下の点、発掘担当者の、
栃木県小山市市役所勤務(当時)の秋山隆雄氏本人が、
強調されていた事だと、本ブログの管理人は面と向かっ
て、聞いた記憶があるので、そう理解するのだが。
 何れにしてもこの駒に関しても今後、従来にも増して、

より一層の、遊戯史研究家間の、現物そのものの相互チェ
ックが必要

だと、私にも痛感させられる所である。
 なお本ブログでは混乱を避けるため、今の所は”小山
市神鳥谷曲輪遺跡の裏一文字金角行駒”という、この駒
に対する、本ブログ内での表現・呼び方を、当面変え無
い事にしたいと考えている。(2019/06/27)

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尊経閣文庫色葉字類抄ニ巻物き雑物”銀将”下金左付き(長さん)

江戸時代の加賀前田藩の蔵書、尊敬閣文庫に、現在
一冊だけ現存の、色葉字類抄ニ巻物があり、中将棋の
一部の駒とその成り駒名が、本文中の”き”と”と”
の雑物に記載されている。三巻物の色葉字類抄に記載
が無い事から、八木書店発行、”色葉字類抄ニ、二巻
本”(西暦2000年)の解説の、(ニ)書誌で、
写書の経過を説明した後に、最後の方で、”(1~3
回目の、)

写書時の追加であろう”との旨、峰岸明氏により指摘

されているケースの類例であろうと、本ブログによっ
て現時点で疑われている。
 今回は、さらに何時の追加であるのかを問題とし、

近世では無いようだ

との旨を論じる。根拠は表題のように、尊経閣文庫蔵
の色葉字類抄ニ巻物の”き雑物”部の”銀将”の下の
”金”が、左付きであって、

右付きで無い

という点からである。
 なお、より重要なのは、

”香車”の下の”金今”が、右付きであって”銀将”
と違う

という点である。銀将の方を”題名”にしたのは、色
葉字類抄の、各要素文字の下の、小さい字で書かれた
成分の書き方としては、”香車”の”金今”の右が正
しく、”銀将”の”金”の左下付きが、逆なためであ
る。
 先ずは、この”逆パターン”が何を意味するのかを、
先に書く。
 ”玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、白駒”を
加筆した人物の時代、銀将駒は比較的大きく、

香車駒は細長くて、一乗谷朝倉遺跡の駒や、石名田木
舟駒のような形をしていた。そのため、”香車”を
左詰めで書くと、右に空きが出来るというイメージが
強かった

と推定できるからと考える。つまり、水無瀬兼成の頃
以降の、近世の将棋駒のパターンが成立するより前の、
戦国時代の日本将棋の駒が主流であった時代の、加筆
であると推定できるので、

江戸時代の加賀前田藩で誰かが、悪戯で加えたもので
はないと、ほぼ断定できる

と考えるとう意味である。
 では、以下にもう少し、詳しく説明を加える。
 本ブログでは、”と雑物”の銅将の、右下付き”裏
横行”加筆と同じ形式であるため、1冊目/4冊末備
”大将基馬名”と、中将棋駒の本文の加筆はいっしょ
であり、かつ、大将基馬名の”猫刃”書体等から、
上限(遅い)が近世である点を、否定できないとの認
識を、これまで取ってきた。もっとも、大将基馬名の、
飛車成りの裏金の金が、戦国時代の、
観音寺城下町遺跡出土の、歩兵の成り金と同じである
から、安土桃山時代よりは前の疑いは、元々強かった。
 何れにしても、”と雑物”の裏横行銅将の記載は、
1分冊/4冊末備一覧形式の、大将基馬名との関連性
を強く意識させる。が”き雑物”の、 ”玉将、金将、
飛車、銀将、竪行、香車、白駒”と、離れた場所の記
載の字を、いっしょくたんにした議論である点が、多
少気になった。また、香車に下付きでついた、”金今”
も、近世になると、極崩しの金を意図している事は、
例えば”金鈴”という熟語は、諸橋大漢和辞典に有っ
ても、”金令”という熟語は、特に見当たらない事か
ら明確だが、香車の成りの金の書体が、戦国時代等に
も、極崩しの金であるという史料は、厳密には乏しかっ
た。
 そこで、更に色葉字類抄の2巻物の、”き雑物”の
 ”玉将、金将、飛車、銀将、竪行、香車、白駒”文
字列に現われた、表題の銀将と香車下の、”説明型の
小型文字”の付き方に、今回は着目して、冒頭の結論
に至ったものである。
 つまり、”き雑物”の ”玉将、金将、飛車、銀将、
竪行、香車、白駒”文字の中で銀将に下付きで付いた
”金”という文字が、”説明文字”であるならば、右
付きであるにも係わらず、実際には左下に書いてある
のには以下のような経緯があるはずである。すなわち、

成立した時代に、銀将が大判メンコのような形の、
左に大きく、将の字が張り出している物品というイメー
ジが、加筆者の頭の中で強かったため

と、考えられると言う事である。そこで実際に、出土
駒が、そのような形であった時代を考えると、

室町時代の中期とみられる、富山県の石名田木舟駒や、
戦国時代後期、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡駒が、イメー
ジとして浮かび上がってくる

という事になる。加えて、香車の下の説明添え字の”
金今”が、通常の色葉字類抄の説明添え字文字の書き
方フォームと同じく右下で、銀将のパターンとは変え
てあるのは、左詰めで縦に香車を書くと、

右に余白ができる、石名田木木舟の改造香車駒(?)
や、一乗谷朝倉氏遺跡の、細長香車駒の時代であった
から

と説明できるようにも思われるのである。
 以上の事から、金将、銀将、桂馬、香車、歩兵と、
だんだんに、駒が小さくなった、安土桃山時代以降の
日本将棋の駒と違い、銀将は大きく、香車が細長いと
いうイメージが、加筆者の頭の中に明解に有った為に、
色葉字類抄の添え字記載規則に反して、
大判メンコのような大振りの銀将には、左下の余白を
利用して、左下に金を書くと格好が良いという考えか
ら来る規則違反の行為と、細長いから香車を左詰めに
置くと、右に余白ができるから、銀将に合わせずに、
香車の”金今”は、通常の規則で右下に書くという行
為を、

うっかり、成立年代がバレバレになるにも係わらず、
加筆者はしてしまった

のではないか。以上のように考えられるため、犯人が
江戸時代の、加賀前田藩の人間ではなく、成立は、

応仁の乱の少し前の室町時代後期から、戦国時代まで
の間だろう

と、”き雑物”のセクションだけでも、単独に推定で
きる可能性が有ると言う事に、本ブログに於いて気が
ついたという事に、なったのである。(2019/06/26)

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新安沖沈没船将棋盤(?)本物なら本ブログにとり打撃(長さん)

西暦1320年代に沈没したとされる新安沖沈没船か
らは、本ブログが9×9升目36枚制平安小将棋(持
駒有り、相手陣移動毎成り型)と推定するの、駒種類
により形態の異なる将棋駒の他に、15×15升目で、
聖目が5段目に4点有る、

日本最古(韓国主張)将棋盤(?)が、出土

している。なお”判定したのは、日本の研究者である”
とされる。今回はこれが大将棋の盤であったとすると、

本ブログの、普通唱導集大将棋の存在にとっては特に、
決定的な打撃になる

という点について、指摘する。根拠から、初めに書い
てしまおう。本ブログの

普通唱導集大将棋は、モンゴル帝国を降伏させる願い
が込められているが、東福寺難破船の乗組員には、
諜報的活動も可能と見られる、”敵国”の者が居ると
考えられるから

である。
 では、説明を続ける。
 言うまでも無く、モンゴル帝国の来襲は13世紀で
あったが、西暦1320年代の時点で、モンゴル帝国
は健在でかつ、高麗もそれに隷属したままである。
 であるから、これから交易という平和目的で向かう
のが建前の船の中で、

乗組員には、元王朝の人間も、高麗の人間も居るにも
係わらず、日本人の間だけとはいえ、モンゴル帝国降
伏を願うゲームを選択的にするというのは、相当に不
自然

である。なお本ブログでは、敵国降伏の将棋は、盤が
13升目であり、出土した盤の15升目とは違うと見
る。が、

普通唱導集大将棋も存在した上で、後期大将棋が船の
中では指されてたと仮にして、それとの違いが、
元王朝や高麗の乗組員に、判るとは考えにくい

と思う。なお、普通唱導集大将棋がモンゴル帝国降伏
の呪術目的である事は、

普通唱導集の著作を指揮した良季が、亀山天皇の
祈祷寺の一つを狙った施設の僧侶だった

という点から主に、本ブログは割り出している。
 本当に、”新安沖沈没船で後期大将棋が指されてい
た”という論が、確定してしまうと、
後期大将棋は、闘獣棋の類として、鎌倉時代には、
普通唱導集に唄われたように指されただけという説が、
正しい事になってしまい、本ブログにとって、

本ブログモデルの普通唱導集大将棋は、存在しないと
いう旨の、最悪のシナリオが確定してしまう

と、ほぼ断定できるように、私には思える。
 事態は、以前が五目並べ用の遊戯盤とされたものが、

韓国により、ほぼ最古の将棋盤と主張されるようになっ
ている。であるから、楽観視は全くできない状況

と、本ブログの立ち位置からは、認識すべきであろう。
 本ブログでも、これからもこの遺物は

”新安沖沈没船出土の、将棋盤(?)”と表記する

が将来”(?)”が取れてしまう時代が万が一来ると、

本ブログのこれまでの議論にとっては、決定的な打撃

になると、以降は、はっきりと認識しておこうと考え
ている。(2019/06/25)

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日本風土記記載の日本将棋の特徴(長さん)

安土桃山時代の日本の将棋の文献として、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄は著名である。が、日本将棋にして
も、その他の駒数多数将棋にしても、言葉で駒の動か
し方ルールは、さほどの量は書いていない。実は、
安土桃山時代より前の文献で、駒の動かし方ルールを
記載した日本の文献は、平安時代末の状況を反映して
いるとみられる二中歴の将棋まで、まとまった物は、
見当たらない。
 一部で良ければ、南北朝時代の猛虎~盲虎への転移
期に、中将棋の盲虎のルールを記載した、神奈川県鎌
倉市御成町の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土
中将棋木札が有るには有るという点を、本ブログでは
再三、紹介して来た。
 ただし、世界に目を向けると、水無瀬兼成が、将棋
纂図部類抄を著作したのと同じ頃に、中国の明王朝が、
日本風土記の5巻目で、日本将棋のルールを詳しく説
明している。日本人が中国シャンチーを、どの程度把
握していたものか不明な時代に、中国の方では、日本
将棋の内容を、完全に掴んでいた事が判る、貴重な文
献である。
 今回は、その日本風土記の日本将棋の記載に、何ら
かの特徴があるかどうかを論題とする。
回答を先に書く。

ほぼ完全に、今の日本将棋と同じもの

だったようである。ただし、千日手の記載や、成り条
件に関する細則、ニ歩等の禁手が書いて有るようには、
私には、今の所読めない。
 では、以下に説明を続ける。
 当然ながら日本風土記は、中国語で書いてある。
レ点や一ニ点、また私の苦手な”上下点”つきの漢字
だけが並んでいる、海外文書である。当然、中国語を
正式に学習した事の無い

私には、正確には読めない。

ただし、古事類苑30で、漢字を日本のと同じにして
くれているので、書いてあるのが、何についてなのか
程度は、何とか特定できる。以上の状態で、考察して
みる。だから、以下の情報に確度は無い。
 まず、日本人のする日本将棋のルールと、説明の、
し方が違うのは、

用語で”河界”が出てくる点

のようだ。3段目の星、聖目の有る線を、細いが日本
将棋盤の河界と見ているらしい。そこを超えると、
角行が龍馬、飛車が龍王、銀将、桂馬、香車、歩兵が、
金将に成る旨が書いてある。
 前段の文書の後半の所で、西暦1592年時点で、
持ち駒ルールも有るし、入玉による引き分けにも言及
している。”どんどん行け行け、早く成れ成れルール”
に、日本の小将棋が、組み立てられている事に関して、
中国人は早くから、着目していたと言う事であろう。
だから、

中国人に、日本の将棋の入玉ルールが意識されている
という事は、アジア大陸の側でも、日本の将棋の故郷
についての何らかの伝説が、安土桃山時代の時点で、
未だ残っていたからかもしれない

とも私は感じられる。
 入玉引き分けの記載は、前半の文書が終わる部分に
有り、そこに続いて後半に、駒毎に、駒の動かし方ルー
ルと、成り、成り駒の龍王、龍馬についての駒の動か
し方ルールが、箇条書きされている。が、

桂馬が象の動きになっていて、間違っている。

ただし、前段の本文で、”日本の桂馬は、中国シャン
チーの馬の動き方と同じく、斜め2升先行きで、ただ
し後退できない点で違う(横にも行けない点に、言及
が無い)。”と書かれている。中国シャンチーの馬が、
日本の安土桃山時代に、象の動きであったとは、とて
も考えられないから、

斜め2歩先と桂馬跳びとを、ごっちゃにする傾向が、
中国伝来かもしれない

と、推定もできる。なお前半部に、塞馬脚が無い事が
書いてあるようだが、いかにも中国シャンチーの国と
いう感じだ。
 この時代には、初代の大橋宗桂が活躍していたので、
遊戯史学会では少し前まで、日本将棋の安土桃山時代
のルールの、現代との違いは、余り意識された事が無
かった。しかしその後、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄
の、駒の動かし方ルールの表記で、幾つかの疑問点が
浮かぶと、若い頃の大橋宗桂の存在は、遊戯史界では
影が薄くなってしまったようだ。つまり大橋宗桂(初
代)や本因坊算砂の存在は要素の一つとされずに、日
本将棋は今と安土桃山時代とで、全く同じかどうかが
疑われるようになって来たという事である。
 だから中国語で、読むのが困難な形式の日本風土記
は、以前にはほとんど議論の対象にならなかったのだ
ろう。が、水無瀬の将棋図と、時代は同じという事を
思い出しながら、文字で書かれた証拠という意味で、
読める範囲で、日本風土記の日本将棋の記載を追って
みるのが、安土桃山時代時点の日本の将棋のルールを、
詳しくチェックしなければ、話が進まない今では、そ
うするより仕方が無いという事になって来ているよう
に、私には思えている。(2019/06/24)

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後期大将棋金成。酔象、麒麟、鳳凰3枚水無瀬兼成から(長さん)

本ブログでは前に述べたように、神奈川県鎌倉市の
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の鳳凰と香車は、成立時代
が鎌倉末期との調査結果であるとの認識をしている。
そして、これらの史料は、それと時代が大きく違う
ものの安土桃山時代の水無瀬兼成、将棋纂図部類抄
の後期大将棋の”大将棋、成りは酔象、麒麟、鳳凰
3枚のみ”の類のルールの将棋用であろうと、今の
所考えている。
 他方栃木県小山市神鳥谷曲輪の裏一文字金角行駒
と、色葉字類抄2巻物、尊経閣文庫蔵本八木書店の、
第一分冊末備、大将基馬名のそれぞれの成立時代の
本ブログの推定による、南北朝時代から戦国時代ま
では、普通唱導集から後期大将棋にかけての大将棋
についての

全く違う、成り金の多い成りパターンが、鎌倉駒と
将棋纂図部類抄の時代間にすっぽりと挟まっている

という、史料の解釈である。
 従って、本ブログの解釈では1565年成立とみ
る色葉字類抄の大将基馬名と水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の間で、300年に近い先祖返りが、起こら
なければならない事になる。この先祖返りは、

誰がしたのか

を、今回は論題とする。回答を最初に書く。

水無瀬兼成がした。

理由は、

彼の六将棋の作駒の、金成りの書体を4種類以上で
はなくて、3種類に留めたかったので、諸説のうち、
後期大将棋に金成りの無いパージョンを、彼が選択

したと、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 水無瀬兼成は、基本的に将棋史の研究家ではなく
て、将棋駒作りの専門家である。従って後期大将棋
に関して、安土桃山時代の末時点で、複数のバージョ
ンが、共存して知られていたとしたら、問題なく、
自分の作った道具用には、ユーザーが便利に使える
ような、特定の一つのバージョンを、躊躇無く選択
するとみられる。
 今簡単のために、歩兵の書体について考える。
 将棋纂図部類抄を見れば判るが、日本将棋につい
ては、省略されているが、現在の書体パターンすな
わち、歩兵は”と金”に成るように、伝来している
水無瀬兼成駒を証拠史料として作ったとして、中将
棋は、成り歩兵の書体を日本将棋の香車の成りで、
摩訶大大将棋の成り歩兵の書体を、日本将棋の桂馬
の成りで作るように記載している。

こうする事によって、例えば、豊臣秀頼用に作成し
た駒が、将棋種間で全部混じっても、各駒のより分
けが、しやすいようにした

とみられる。なお、泰将棋が中将棋と同じ書体にな
るとみられるが、それは仕方なかったのであろう。
たぶん泰将棋の駒は、各駒共に、彼の中将棋の作駒
にほぼぴたりと、豊臣家に納付するときに、合わせ
たのだろう。あるいは、将棋纂図部類抄には書いて
ないが、豊臣秀頼等に納入する泰将棋では、歩兵の
成り等を、将棋纂図部類抄では使用していない、
日本将棋の銀将の成りに、したのかもしれない。
 そこで、実際には水無瀬兼成は、後期大将棋の歩
兵は、不成りにしたとみられるが、仮に、金成りの
ローカル・ルールバージョンを選択してしまうと、

金成りの書体が、もうひとつ要る

事になる。しかしながら、
桂馬の成りの書体と、銀将の成りの書体は類似だか
ら、これを使って泰将棋を中将棋の香車成り書体に
したとしても元々不便だし、とにかく、いろいろ有
ると煩雑なため、成り金の書体の種類は減らしかっ
たに違いない。そこで、

水無瀬の時代にはまだ、色葉字類抄の大将基馬名の
後期大将棋のように、金成りの多いバージョンも知
られていて混乱はしていたが、敢えて鎌倉末型の、
金成りの無いバージョンを、先祖返りで故意に選択

したと私は推定する。なお、こう推定できることは、

”仲人。不行傍、立聖目内(で)成り酔象。”

などと、すっトボケて、西暦1200年~1290
年までの、平安大将棋から普通唱導集時代の大将棋
時代の、”成りルールの考え方”を将棋纂図部類抄
に、彼が記載していると疑われる事から、充分に類
推できると私は思う。つまり、先祖伝来の口伝等で、
水無瀬兼成は、

①西暦1200~1290年、②鎌倉時代末、
③南北朝から戦国時代の、大将棋系の金成りパター
ンの変遷は、全部知っていたと推定できる

という事だと思う。
 このうち②が、作った将棋道具の管理上の使いま
わしという点で、最も優れていた。ので、彼は②の、
後期大将棋に金成りの無いパターンを、完全に、
何がどうなっていたのか、判っている上で、故意に
選択しているのではないかと、私には大いに疑われ
る。つまり、

近世に入る少し前の、後期大将棋に成りの少ない
パターンが成立したのは水無瀬兼成個人によるもの

と、今の所、本ブログでは考えるという事である。
 なお、こう考えると、水無瀬兼成は、本当に西暦
1443年成立とされる、曼殊院の将棋図を、正し
く写書したのかどうかが、疑問という事になって来
る。が、本ブログでは次のように、敢えて見ておく
ことにしたい。すなわち実際の史料が見当たらない
ため、少なくとも私には

仔細不明だが、西暦1440年代に成立の曼殊院の
将棋図の後期大将棋については、成りの金のルール
群を、どうにでも解釈できるような、何らかの記載
の不確定性が元々存在しているのを、水無瀬兼成は、
それを精読して、正しく認識していた

と推定すると言う事である。
 ちなみに、江戸時代の将棋書は、元々水無瀬作と
本ブログが見る、泰将棋を紹介したかったので、
江戸時代初期の将棋書作家が、色葉字類抄二巻物4
冊物第1分冊末、”大将基馬名”の成りの多い、
後期大将棋を、たとえ知っていても、水無瀬兼成の
将棋纂図部類抄を、ほぼコピーするのが目的であっ
たために、江戸時代の将棋六種の図では、水無瀬の
後期大将棋ルールを、しかたなく選んだのであろう。
 そのうち、”成りは酔象、麒麟、鳳凰三枚ルール”
も曖昧になり、江戸後期に後期大将棋は、中将棋の
成りを援用されるように、更に変わってしまった。
 つまり、近世の大将棋のルールの変遷は、幻の
ようにボンヤリとした記憶になってしまった大将棋
が、ほぼ形式的に、少しずつルールを変化させていっ
た姿が、現在では見えているにすぎないと、私は今
の所、推定していると言う事になる。(2019/06/23)

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なぜ大将棋は西暦1290年~鎌倉末金成を減少させた(長さん)

本ブログによると、西暦1290年頃までは、普通唱導集
大将棋の成りに、二中歴の”誤写末備十文字”のルールが
適用され、一段目と歩兵列、反車と仲人が金成りだったと
推定されている。なお、酔象が太子、麒麟が獅子、鳳凰が
奔王に成るのは、いつもそうだったと、今の所は見なして
いる。そして、西暦1333年の鎌倉最末期の少し前程度
に、鶴岡八幡宮境内出土駒の不成りの香車と、楷書の奔王
に成る鳳凰が、出土している事から、ずっと後代の、
水無瀬兼成が将棋纂図部類抄で記した、”成りは酔象、
麒麟、鳳凰の3枚”に近い、普通唱導集大将棋鎌倉末型の
成りパターンになったと、基本的に考えている。すなわち、
鳳凰の成りが、”楷書”の奔王という字なのは、成りが、
奔王に成る鳳凰についてだけ裏が、無地なのか、裏をオモ
テと誤認しており、その駒は鳳凰なのかに、駒を箱から取
り出して盤に配列するときに、この駒一枚にだけ注意すれ
ばよく、駒並べに苦労が無いので、楷書だったと解釈した
からである。よって普通唱導集大将棋の成りは、
西暦1290年から1333年の間に、成り金の数につい
ては、減少した事になる。そして本ブログでは、少なくと
も今まで、その理由に言及した事は無かった。
 そこで今回は、この鎌倉時代後~末期の、大将棋に於け
る成り金数の減少の、原因についてを論題とする。
 回答を最初に書く。

富豪気分に浸りたいので、貴族が普通唱導集大将棋の道具
を所持するだけの傾向が強まり、9升目36枚制標準平安
小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随時型)の、下世話
だが、自分も一応所持している将棋具と、駒を区別したい
ので、大将棋については、将駒等が不成の用具が好まるよ
うになったため

と考える。
 では、以下に説明を加える。
 普通唱導集大将棋は西暦1300年の時点で、急戦調で、
定型の定跡で、勝負が付くと言う事が明らかになっていた。
 そのため、将駒や桂馬が敵陣で成って活躍するケースは
減少し、香車、反車も金成りしたとしても、成り麒麟の
攻撃手だけが、終盤指されるため、香車、反車が成った
効果はほぼ無く、結局

一段目駒と反車が金成りする必要が、ほとんど無くなった

と見られる。そのため少なくとも、一段目駒等が金成りす
る西暦1290年タイプの普通唱導集大将棋の将棋駒具に、
それをしない、鎌倉末型に対する優位性は無くなった。
 そもそも普通唱導集大将棋が、このような状態だったか
ら後深草天皇を含む貴族も、鎌倉末には大将棋だけでなく、
9升目36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動
の毎に随時型)用の道具を、両方持つようになったと考え
られる。
 すると、金将、銀将、桂馬、香車が、両方引っ張り出し
たときに、ごちゃ混ぜにすると、大将棋の駒か小将棋の駒
が判らなくなったのだろう。元々大体、大将棋の駒の方の
金銭的価値が、それを持っている事による優位性が有る分
大きかったので、

大将棋の駒は、小将棋の駒に紛れて消えてしまわないよう
にしたかった

に違いない。そのためしばらくすると、銀将、銅将、鉄将、
桂馬、香車、反車等が不成りのタイプの大将棋具の

所持が、貴族の間で流行る

ようになったのではないか。ルールの変更は、それに引っ
張られて起こったのかもしれない。つまり、普通唱導集大
将棋の定跡化した指し方からすると、一段目駒等は金成り
でも不成りでも良く、道具としては不成りの方が、9升目
36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随
時型)も指すようになった、上流階級にとっては、管理上
その方が良かった。そのためにルールの方が、変化してし
まったのではないかと言う事である。ちなみに鎌倉時代中
には、いわゆる麒麟抄の”金は極崩しで書く”も、公にさ
れていなかったと見られる点にも、注意する必要がある。
小将棋具として、今で言う市場等には、崩しの余りキツク
無い将棋駒も、恐らくかなり出回っていたからであろう。
なお、出土駒には成立年に誤差があるので、今の所”はっ
きり矛盾する史料が無い”という程度しか判らない。
 なお、以上の考えからすると、中将棋が発生して9升目
36枚制標準平安小将棋(持ち駒型・成り敵陣移動の毎随
時型)道具の、貴族の所持率が再び減少すると、状況が変
わり、金成りが復活し得る事をも示している。更に、
普通唱導集大将棋の最末期型、普通唱導集大将棋南北朝型
が発生したのは、デザイナーの、漢字に対する博識さが原
因だけでなく、それもあったのかもしれない。
 無論、現時点で以上の事を、具体的に史料を挙げて実証
する事は、とても困難だ。

状況を説明するための、以上は暫定的な説

という事に、一応留めておきたいと、ここでは考える。
(2019/06/22)

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2004年奈良県旧大乗院庭園出土、行軍将棋の謎(長さん)

奈良文化財研究所の木簡データベースに、西暦2004年
の発掘で発見された、明治時代の現在の旧大乗院庭園、当
時の飛鳥小学校跡とみられる遺跡から出土した、行軍将棋
の駒と見られるものが約20個、まとまって紹介されてい
る。共出土した木製遺品から、通常の日本将棋の駒を、
小学校の児童ないし、共出土木製品より”事務”関係者が
改造したものと推定されるとの旨、奈良文化財研究所紀要、
西暦2005年の118ページ付近に、共出土遺物と共に
紹介があるようである。
 木簡データーベース上に、内容として、

・角行・中将
・□・大□〔尉ヵ〕
・□□・少将
・□□〔金将ヵ〕・中
・□□・少□〔佐ヵ〕
・□・大佐
・飛車・□〔将ヵ〕□
・角行・〈〉
・金将
・□〔金ヵ〕将・□○
・銀将
・□□〔香車ヵ〕
・□□〔少佐ヵ〕
・少佐
・□・中尉
・□□・□□〔佐ヵ〕
・桂馬・中尉
・□・□〔中ヵ〕

の18枚程度が紹介されていて、ものによっては、画像も
ある。近代の将棋の駒が材料のようで、片面を手書きで、
行軍将棋に、作り変えているという、印象のものである。
 結論から述べると、

この遊具は、いまの行軍将棋には使用し辛い。最上段の
角行・中将と下から2段目の桂馬・中尉駒からみて、将位と、
尉位とで、裏から見て大きさに差があるので、駒の種類が
おおまかだが、判ってしまうから

である。では、以下に説明を加える。
 駒によるようだが、形を行軍将棋のトンガリヅンドウ五
角形に、切り替えようとした形跡の有るものも、確かに一
部にはあるようである。
 なお、飛車の車ははっきりしており、裏が大将と書かれ
ていても、表が”プロの駒師が書いた”飛将である可能性
は少ない。つまり、駒群の中に、天竺大将棋や大局将棋の
駒が混じっている可能性は、ほぼ無い。よって、本ブログ
の本流の議論とは、余り関係が無い、近代の遊戯具用の
駒の出土のようである。
 しかし、本ブログの管理人も、行軍将棋のやり方は、さ
すがに知っているので、

そもそも歩兵駒だけで、道具を作らなかった経緯が謎

だと感じられる。大きさを揃えて、裏から何の駒だか、判
らないようにするのが、行軍将棋の駒の基本だからだ。作
者が小学生だったから、そこまで思考できなかったという
説を、私は否定はしない。しかし、

明治時代当時の奈良県では、今の行軍将棋とは別のルール
のゲームが存在しなかったと完全否定できるわけでもない

ように、この遺物を見て私は思う。
 付近の年寄りに聞いても、経緯が判らないものなのか。
 近間の行軍将棋関連の遊戯史研究家の今後の調査結果に、
一応期待したいものだと、私は思っている。(2019/06/21)

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尊経閣文庫2巻物色葉字類抄の大将基馬名成飛車金の崩(長さん)

前に何回か述べたが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の
(後期)大将棋とは異なり、表題の八木書店2000
年本、尊経閣文庫蔵の2巻物色葉字類抄の1冊/4分
冊の後部付帯、”大将基馬名”の香車、反車、猛牛、
飛車、仲人は、”裏金”と付記されていて、金成りの
ルールらしい事が判る。本ブログでは、二巻物色葉字
類抄の問題の”大将基馬名”の成立を、2巻物色葉字
類抄の4分冊化と同じ、西暦1565年頃と一応特定
している。
 所でこの、栃木県小山市出土の裏一文字金角行駒の
パータンや、摩訶大大将棋の、飛車、角行、竪行、横
行の金成りを連想させる、”金の多い後期大将棋”の
色葉字類抄2巻物、1565年直近書写本の書体をよ
く見ると、

飛車の1字だけ、”裏金”の崩し方が違う

事が判る。飛車裏金の書体は個人的に私には滋賀県の

観音寺城下町出土駒の”歩兵の裏の金”と類似に見る

ものである。なお、残りの香車、反車、猛牛、仲人の
”裏金”の金は、観音寺城下町遺跡出土駒の、桂馬の
成り金と同じく、ほとんど楷書に近い金に、私には見
える。
 前置きが長くなったが、今回はこの一字だけ書体が
斜めに曲がっている、飛車の字に付記された裏金の、

金の書体を別にした理由について

を論題とする。
 結論から書く。

色葉字類抄の大将基馬名は、聆涛閣集古帖と同類の、
美術品的な、後期大将棋の初期配列図のコピーである

とみられる。
 では、以下に説明を加える。いっけんして、将棋の
ルールという観点から、その時代に後期大将棋の飛車
が金成りで有る事を表すとして、書体を観音寺城下町
出土駒の歩兵の成りのように、敢えて他とは別にしな
ければならない理由が無いのは、明らかである。
 しかも、観音寺城下町出土駒は、日本将棋の駒と見
られるので、銀将、桂馬、香車、歩兵の順に、崩しを
強くしているようであるが、色葉字類抄の大将基馬名
の表現は、傾向が反対である。
 ところで、この飛車の金だけ崩すパターンは、手前
の駒の金の字は崩さず、上の方の段の成り金の金の字
を崩しているという点で、上に述べた聆涛閣集古帖の
摩訶大将棋図と、仲人の成りが崩れて居無いが比較的
似ている。そして本ブログでは、聆涛閣集古帖の成り
金の崩し方の段分けは、”見てくれの良さ”が理由だ
と、今のは所見ている。だから、初期配列図にはなっ
ていないが、二巻物色葉字類抄の、1565年直近書
写の、加賀前田家蔵本の著者は、掛け軸のような形で、
後期大将棋の初期配列の図が題材の、美術品を所持し
ており、それを写して二巻物色葉字類抄の第1分冊の
末備に加えたと見るのが、相当に尤もらしいと、少な
くとも私には思える。
 そう考えると美術品としては、反車だけでなく、
猛豹と猫刃も、猛牛だけでなく、悪狼と嗔猪も、成り
は普通の楷書の金であり、また、

飛車だけでなく、角行、竪行、横行、飛龍が、
観音寺城下町出土駒の、歩兵の成りの”傾き金”型に、
掛け軸がボロボロになる前には書かれていた

と考えた方が、美術的感覚からいえば、より尤もらし
いように、私には思える。やはり、

西暦1565年の色葉字類抄2巻物4冊本成立期の
後期大将棋と、16世紀末の水無瀬兼成の将棋纂図部
類抄の後期大将棋とではルールが、史料の見掛けより
も、更に差が有った

のであろう。
 つまり大将棋は、南北朝時代から後は、金成りと太
子、獅子、奔王成りだけだったが、金成り駒が、以上
のように、いろいろ有って一定しておらず、ルールが
不安定に推移した事を、示しているのだろう。

その結果南北朝時代末期頃に、嫌気がさして中将棋で
は、成りが新たに整備されたのかもしれない。

以上のような経緯と、私には想像されるようになった。
(2019/06/20)

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(続)鶴岡八幡宮境内遺跡奔王成鳳凰駒の朱点写真(長さん)

以前に、表題の鶴岡八幡宮境内遺跡にて西暦1980年
頃に出土した成り楷書奔王鳳凰駒の、駒の動かし方ルー
ル朱点は、今となっては明確な写真に、お目にかかれな
い旨述べた。そこでその後、昔の文献を調べ、”天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒”の写真よりも、ルール打点が、
明確に写っているものが無いかどうか、徹底して捜索し
た。結果、

西暦1981年8月発行の、日本将棋連盟の月刊誌、
将棋世界8月号の裏表紙に、問題の朱色打点が写った、
成り楷書奔王鳳凰駒の、カラー写真がある

のを、最近本ブログの管理人も、ようやく発見した。

結果を言えば、写りが良くないが、モノクロの前記
天童市将棋資料館本の写真の様子が、基本的に正しい

事が判った。
 よって、有名な打点入りスケッチについては、近世的
な将棋駒の姿に、事実を歪ませて表現されていたため、

研究に支障が出ているという意味で、以下に苦言に近い
言い回しで状況を報告する

事にする。
 では、説明を続ける。
 つまり天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のモノクロ写真
が示唆しているように、基本的に鳳凰の動く方向に、2
個朱色を並べるような、安土桃山時代の

水無瀬兼成の将棋纂図部類抄式の、打点方式で朱色の点
は書かれて居無い。サイコロの2の目を、2升目先に飛
ぶ方向については書いている

としか、鎌倉時代末期のこの駒に関しては、私には見え
ない。
 よって有名なこの駒の、駒の動かし方ルールを示す打
点の入ったスケッチは、実際と表現思想が根本的に違う
ので、

書き直すか、今時のPCソフトで適宜修正した方が良い

のではないかと、私には思える。
 結論を最初に述べてしまうと以上だが、以下に更に詳
しく、状況を書く。
 まず、斜め上方向に、朱色点は一つしか無い。2つ、
点が並んでいるように、スケッチでは書いてあるが、ど
ういうわけか、私には判らないが、左斜め上については
全く違う。天童市将棋資料館が集めた写真を、信用した
方が良いと考える。
 しかし更に大切なのは、左下の朱色の点についてであ
る。つまり、左斜め下は、斜めに2点書いてあるように、
スケッチ図では見えるが、実際には、上下に2点である。

鳳凰朱点.gif

サイコロの向きとは違うが、

朱色点はほぼ円形なので、雙六のルールで、サイコロの
目で2が出たときのように、斜め左下に進めと指示する

ように私には見える。つまり左下へは鳳凰飛角不如飛龍
という

ルールをきちんと表現していた

のではないかと、疑われるという事である。
なお、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のモノクロ写真で
もそうであるが、左横の点と下の朱点は、やはり丸であっ
て、スケッチの特に、下の点のように水滴型ではない。
これらのケースも、サイコロの1の目を、鎌倉末期には
表現していたように私には見える。左上の点が2つ無い
のと、上の点が無いのは、書き忘れかもしれないし、擦
れて消えたのかもしれない。
 何れにしても以上の結果から、確かに、ルールを示す
点が有ると言う点で、有名な朱色打点入りの鎌倉鶴岡八
幡宮の成り楷書奔王鳳凰駒スケッチ図は合ってはいるが、

丸を水滴型に無理にしてしまったのと、位置や数を、実
際に合わせて居無いので、雑な範疇に入るのではないか

と他の、集成、鎌倉の墨書の遺物のスケッチを見ても、
私には疑われる。
 そしてその結果、鳳凰の2升目先動きが、

鎌倉時代末時点で跳びだという情報が、落ちてしまった

疑いが有ると思う。
 何れにしても、天童将棋資料館の写真が、モノクロで
見づらい事、よみがえる中世3武士の都鎌倉のカラー写
真に、問題の点が、良く写って居無い事から、

将棋世界1981年8月号裏表紙の写真は貴重

だった。なおこの写真には、たぶんだが、不成り香車の
裏の写真も、同写真の右の方に、より鮮明に撮影されて
おり、香車が不成りなのを、決定付けてもいるようだ。
 将棋世界の記事には、故大山康晴永世名人等が、見学
に現地を訪れた様子が記載されていた。誠にありがたい
事だったと、私は関係緒氏に感謝している。(2019/06/19)

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鶴岡八幡宮境内遺跡の奔王成鳳凰駒。朱点写真はレア物(長さん)

前にも言及した事が有ったかもしれないが。
表題の鶴岡八幡宮境内遺跡出土の楷書奔王成り鳳凰
駒には、鳳凰側に、駒の動かし方ルールを示す朱色
の点が書かれているとされる。が詳しい状況を示す、

証拠写真が見当たらない。

よみがえる中世3武士の都鎌倉(平凡社・1989)
本の写真に、問題の朱色のルールを示す点が写って
いるという

明確な証拠は無いと、私は今の所認識

している。カラー写真で、それ以上に鮮明な、この
出土駒の写真を、私は見た記憶が無かったので、
スケッチで有名だが、問題の朱色のルール表示点の
きちんと写っている写真が、仮にあるとすれば、

恐らく相当に貴重で、レアな写真

だ。言及する者が余り無いと見ていたので、本ブロ
グでは過去取り上げなかったが、集成、鎌倉の墨書
(2017年)に、宣伝がある。しかし、集成鎌倉
の墨書の写真から、合計で6つあるとされる、ルー
ル朱点を少なくとも私には確認できない。むろん、
集成鎌倉の墨書のスケッチは、有名なオリジナルス
ケッチのコピーであり、そこには鳳凰の字の左辺に、

液滴型の点が、合計で6個書き込まれている。

なお、この駒は割れていて、右側が4割ほど無い。
右上の2点、右の1点、右下の2点は、有ったかど
うか謎である。なお、進行方向の打点もスペースが
狭いので、駒の作者が鎌倉時代末に省略したのかど
うか良く判らないが、とにかく無い。
 前に、興福寺出土習字木簡で酔象酔像ではないか
という話をしたときに、ニンベンの実在性を問題に
した。がこのケースも、朱色の点であるという点を
除いて、意味はいっしょである。
 増川宏一氏も鎌倉鶴岡八幡宮境内遺跡の出土5駒
は、出土した当時に観察しているので、鳳凰のルー
ルを示す、打点については、彼がどこかの成書で、
言及している可能性が高いと思う。将棋Ⅰで、朝倉
駒の黒い打点については言及しているので、鶴岡八
幡宮の出土駒をどこかで紹介したときに、ルールの
朱点に言及しているに違いない。だからこの朱色の
墨跡の実在性は、かなり高いとは思える。よって、

鮮明性が高い”武士の都鎌倉”本の写真に、この点
が、写ら無いのが不思議

というのが、率直な気持ちである。なお、6点のう
ち、部分的にで良ければ、天童の将棋駒と全国遺跡
出土駒(2003)に、

液滴型ではなくて円形で、白点として写っている

ようにも見えている。ただし、斜め前の点が1点し
か見えないのが、私には確実に写っていると、自信
を持てない主な理由である。
 2017年に集成、鎌倉の墨書を出版し、鳳凰(
木製品No.134)の、朱色ルール打点に言及す
るのなら、それが写っている写真を、集成、鎌倉の
墨書自体に、出してほしかったように思う。

今の所、見づらい写真との間に、整合性が無い
スケッチしか無いので、議論は避けている。

以上が、本ブログの基本スタンスである。スケッチ
が、丸い打点を液滴型に間違って写していたとする
と、サイコロの目を模倣したルール点である事が判
り、盤雙六のルールパターンからの類推で、2升目
動きは”跳び越えルール”であった事を、淡くは示
唆はしていたという意味で、意義が有ったに違いな
いのだが。
 なお、現物を鎌倉市役所で確認するには、かなり
の事務手続き上の手間と、長い猶予期間が掛かると
聞いている。仮に苦労して、ルール朱点が丸いのを
確認しても、厳密なルールについての証明としては
根拠が淡いので、現状は放置して、余り議論の対象
にし無い事にするという処理を、少なくとも本ブロ
グではするしかない状況で、あったという事である。
(2019/06/18)

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興福寺酔像木簡(1058)。”酔象酔像”では(長さん)

さいきん、集成鎌倉の墨書を見るのに少し慣れて
きたので、字が散乱している、将棋史料関連の
習字木簡の類を、一応見直してみた。
 スケッチが100%正しい訳ではないという点
を認識するようになると、元写真で確かめる癖が
付く結果、

興福寺出土で著名な、西暦1058年成立酔像
木簡の2字目に、にんべんが付いて居無いように、
本ブログの管理人には見えてきた

という点につき、以下報告する。
 従来、この木簡には複数の歩兵や、少なくとも
1つ金将と書いてあるだけでなく、

”酔像酔像”の文字がある

とされた。以前は、持駒使用の謎の

スケッチで、確かにそうだと私は確認したつもり

でいた。しかし最近、考古学報告書類を見慣れて
くると、正しくスケッチするのは、字がごちゃご
ちゃに、重ね書きされている習字木簡については、

極めて困難であり、報告書によってばらつきも出
来るのが、現実の姿という点に、私も気がついた。

 写真があれば、余り良いものとは限らなくても、
それも見るべきだというのが、私には常識と感じ
られるようになってきたという意味である。
 そこで、この件についても、せめて、”解明:
将棋伝来の「謎」”の又転載の写真で、スケッチ
が写真に対応しているかどうか、再度チェックす
る事にした。その結果、

”酔像酔像”の第2字目の”にんべん”が、解明:
将棋伝来の謎の写真では、明確に写って居無い

のに、遅ればせながら気がついた。
 以上の報告が、大切な点だが、以下に説明を続
ける。
 スケッチは実際に、誰が作成したのかは、私に
は判らないが、将棋史研究家で、中国伝来説で著
名な、清水康ニ氏著の”木簡研究16”の図の
転載が、持駒使用の謎のスケッチ図と、その成書
ではされている。
 そこで、木村義徳氏本の転載物のスケッチを見
ると、2字目の”ニンベン”と象の間に、かなり
大きな隙間があり、その点でも謎が有るようだ。
 そこで戻って、画像を公平に見ると、
醉口
口象
酔口
像口
と並んでいるようであり、2字目の象は右に寄っ
ており、ニンベンが有ると、考えたくなるような
配列ではあるようだ。しかし松岡本に、2字め象
の”にんべん”が有るように、どうしても私には
見えない。
 このケースは、少なくとも本ブログでは、
中国シャンチーの馬とニンベンの罵、車とニンベ
ンの荷車のパターンで、象を像と書いたのかもし
れないと主張して来たので、酔像酔像ではなくて、
酔象酔像等と書いてあった方が、正直ありがたい。
 少なくとも、松岡信行氏の”解明将棋伝来の謎”
本で、最初の酔像の像のニンベンが、写真の
コピーからは、私が個人的に確認できない点を、
良く覚えて置こうとは思う。
 なお、この木簡の裏側の右側は、写真を見ると

”まともな(改行)こた得”とカナで書いてある

ようにも、私には見えるようになった。曖昧なた
め、確かに主観で、いろいろに読める事が有るの
だろう。(2019/06/17)

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二中歴著者が興福寺11C酔象将棋を将棋とし無い根拠(長さん)

論文として出ているかどうか謎であるが。某大学の
学部学生への講義で”興福寺2013年出土の酔象
駒の発見以後、二中歴記載の将棋で、酔象が記載さ
れていないのは、誤記である。”と、教えている、
大学の文科系の学部があるらしい。特講の類であろ
う。そもそも将棋史が、通常の学部の教養課程の講
義で、教えられるはずはないと、考えられるからだ。
 今回はこれが、間違いの疑いの強い説であるとい
う根拠について、以下述べる。
 その根拠から、いつものように先に書く。

二中歴には、”相手陣の3段目で皆、金将に成る”
との旨が記載されている。が、興福寺出土酔象駒は
不成りであるし、磨耗して消えたとしても、酔象の
成りは概ね太子であって、金将で無い

からである。
 では、以下に説明を続ける。
 二中歴に酔象が書いていないのは、確かであり、
書き落としたと言う説に、これだけからは間違いで
あるという、積極的根拠は無い。
しかし、興福寺の小将棋用の出土駒が、二中歴とは
成りのパターンでも一致していない点には、二中歴
の将棋の記載を

全体的に良く見る事によって、特にこの説を論じる
側が、妙だと気がつく必要がある

と、私は思う。
 なお、玉将は相手陣の3段目で金将には成らない
ので、厳密には二中歴の将棋の部分の記載は曖昧だ
が。”相手玉を、その一枚にすれば勝ち”とも表現
する事によって、どこへ移動しても、玉将は玉将で
ある事を示唆しているとは、言えると思う。なお、
酔象のある将棋では、概ね太子は玉将と同格の玉駒
だから、

相手の駒を太子一枚にしてしまっても、勝ち

を、興福寺11世紀の小将棋状ゲームを、二中歴の
著者が将棋と意識しているとすれば、厳密には書き
加えなければならない。
 何れにしてもこれは、有名な幸田露伴の、
”日本将棋神代からの存在説”を思想的背景とする、
”龍王に成る飛車と、龍馬に成る角行が、二中歴の、
『将棋』に、記載されていないのは、二中歴の著者
が忘れたからだ”という主張の、亜流のようにも見
える説である。少なくとも二中歴の将棋の記載が、
別に間違っては居無いと仮にすると、草葉の陰で、
二中歴の著者は、そう思っているはずだ。つまり、
”不成りの興福寺酔象が、二中歴の『将棋』に記載
されていないのは、二中歴の著者が忘れたからだ”
という、”二中歴将棋、記載ミス説”は、

全部金に成るという点でも、間違えてしまうという、
よっぽどのマヌケなミスが、さらにこれに加えて、
何故起こったのかを説明し得ないと、少なくとも
説得力の有る説とまでは言えない

のではないかと、私は疑う。
 だから、本ブログでは、興福寺で西暦1058年
から西暦1098年頃に指された将棋を、二中歴の
著者は、最初から二中歴に、典型将棋だと記載すべ
き将棋とは、さいしょから見ていなかったと、見る
べきなのではないかとの、立場を依然取りたい。
 なお、二中歴だけなら二中歴固有に見えるが、実
際には、この間違いは、ほぼ同じパターンで、南北
朝時代の成立とみられる、麒麟抄にも見られる。
 さてそこで次ぎに、酔象が無い経緯について、
従来の本ブログの主張を、繰り返しになるが示す。
 つまり前に述べたが、本ブログでは興福寺は、摂
関派の影響力が平安時代後期には強いと考えている。
院政の時代にも、大江匡房の9升目平安小将棋(標
準型)ではなくて、藤原氏の意向で将棋が定義、指
されていた治外法権区だったのだろう。なお興福寺
の上層の僧は、将棋自体を賭博の道具として禁止し
ていた。下級僧が、摂関貴族を”我らが親分”と
見て、藤原摂関の言う、将棋を将棋として指してい
たと私は考える。
 他方、二中歴の著者は、院政派と摂関派の中間派
であり、

ニ者同士の間で対立する部分は、玉虫色の記載を
二中歴上ではした

と、ここでは見ている。
 摂関派は、西暦1110年まで、興福寺で指され
た将棋を、好ましい小将棋と、一応見ていた。元々
大理国の将棋を、伝来した将棋としてそのまま指す
のは、理にかなっていると見られたためである。
 しかし、摂関派は西暦1110年に平安大将棋を
創作した結果、以降は、平安大将棋を、日本の将棋
の代表として見、伝来時の後一条天皇の所持品で、
酔象の無い原始平安小将棋(8升目型)を、下世話
の小将棋と見るように、変化していた。他方院政派
は、西暦1110年以降も、西暦1080年頃から
に引き続いて、標準型平安小将棋(9升目型)を、
日本の標準将棋、つまり典型将棋と見続けた。
 ようするに、日本の小将棋がどうあるべきかとい
う点について、他の政治的な懸案同様、問題解決時
の主導権を取る事が、両派にとって大事なのであっ
て、酔象を標準将棋に入れるべきかどうかは、両派
の間の争点では元々無かった。ので、摂関派上層部
貴族は、興福寺の下級僧に、12世紀以降は酔象使
用を控えるように、指示したとみられると言う事で
あろう。
 そこで、12世紀の半ばに成立した二中歴では、
何れにしても、興福寺で11世紀の終わりまで指さ
れた、酔象将棋に、言及する必要が無くなっていた
と考えられる。そのために、二中歴では、

将棋については、玉虫色の8升目だか9升目だか、
良く判らない小将棋を、将棋と表現し、
摂関派の第2標準将棋である、平安大将棋を13升
目で、玉が一段目中央に有る、左右対称型の、
”大将棋”と表現した

という経緯だったと、少なくとも私は思う。なお、
二中歴の成立時、摂関派の頂点に立つ藤原頼長が、
第2標準将棋とは表現せずに、大将棋と表現してい
るから、二中歴の著者が、標準将棋の定義を巡る争
いの経緯を、二中歴内に、ことさら記載しなくても、
良い状態に、既に落ち着いていたとも推定される。
 だから興福寺では恐らく、1110年以降、12
00年までは少なくとも、平安大将棋を大将棋、
酔象を銀将に取り替えて、金が1枚だけで8升目だ
が、平安小将棋の配列の伝来小将棋(酔象脱落型)
を小将棋として、指すように変化していたのであろ
う。なお、同じ奈良県の、すこし後に賭博の禁止令
を出した、在来仏教寺院の海龍王寺等でも、将棋の
定義は、興福寺の1110年頃以降の定義と、ほぼ
等しかったとここでは見る。
 何れにしても”二中歴の将棋の記載に、飛車、角
行、酔象が、それぞれ無いのは、誤記のためだとい
うような”形式の説を特に、幸田露伴のような有名
人に言われると、何か尤もらしく、少なくとも私に
は聞こえてしまう。ではあるのだが、

”相手陣3段目で、皆金に成る”という文言が、
二中歴の将棋の説明に、入っているという事実を忘
れて、少なくとも、この系列の誤記説を、頭からは
信じ込まないように、くれぐれも注意したいものだ

と私は思う。
 私は、以上の論を地道に確認する過程で、今回、
はっきりと、以上のよう事を、私自身自らが隗より
はじめるの立場で、肝に銘じるようになって来たの
だった。(2019/06/16)

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本ブログの普通唱導集大将棋”終焉型”の名称を変える(長さん)

さいきん、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所が2017年に
出版した、集成・鎌倉の墨書(出土品)の記載から、鎌倉市
鶴岡八幡宮境内出土駒の成立が、遅くとも、鎌倉時代末である
事が判った。お恥ずかしい事に、読み直してみると、本ブログ
のページによって、ばらばらなのだが、普通唱導集大将棋の、
①普通唱導集大将棋が唄われた時代、②成り金の少なかった時
代、③栃木県小山市出土の神鳥谷曲輪角行駒を根拠史料として、
金成りの多かった時代の普通唱導集大将棋、以上、成りだけが
違う、3種の普通唱導集大将棋の名称が、適切で無かったのに
気がついた。そこで今後は、成立時代の順序が、
①→②→③の順である事を、明確にした上で、①を1290年
型、②を鎌倉末型、③を南北朝型と、名称変更する事にした。
 要旨は以上だが、以下にもう少し、詳しく説明する。
すなわち、2年前の夏休み頃のページを再掲して、その事を
示すと、次の通りである。

”私説108枚制普通唱導集大将棋の成り規則変化”再掲載:

西暦1290年頃に、以下の普通唱導集大将棋(私説)が発生
したと考え、そのオモテ面は以下のようだったとみた。この
配列自体は、以後の普通唱導集大将棋については、変化しなか
った。なおここより、中将棋、後期大将棋が分岐したとみる。
だから、後で述べる成りそれぞれについて、オモテ面は以下の
配列で同じである。なお、猛虎が盲虎に変わったのは、本ブロ
グによると中将棋からである。以下は、相手側の駒を見ている
形に、たまたまこのとき書いたので、ここではそのままとする。

オモテ面(数字は段目)
①香車、桂馬、鉄将、銅将、銀将、金将、玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、桂馬、香車
②反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、鳳凰、酔象、麒麟、猛虎、猛牛、嗔猪、飛龍、反車
③飛車、横行、竪行、角行、龍馬、龍王、奔王、龍王、龍馬、角行、竪行、横行、飛車
④歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵、歩兵
⑤空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升、空升、空升、仲人、空升、空升、空升

普通唱導集に唄われた、西暦1290年タイプの普通唱導集大
将棋の成りは、次のようなものとした。
 西暦2017年タイプでも、方行を不成りとする事にして、
このパターンの成りを推薦した。2017年型は、2~3段目
の駒が一部入れ替わるが、裏表とも、位置の変わる駒は、その
まま、移動させるという意味である。ちなみに、移動するのは、
猛牛、飛龍、竪行、横行の4枚。嗔猪が不成の、方行に置き換
わるとした。また、その後2019年に、部分持駒ルールバー
ジョンで横猪の使用も提案したが、この駒も不成で良いと見る。

成り面:西暦1290年タイプ(普通唱導集大将棋1290年型)
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

次に、将棋纂図部類抄の後期大将棋型の成りが、西暦1320
年ないし、西暦1350年まで、鎌倉の鶴岡八幡宮境内遺跡の
出土駒の成を根拠として、存在したとした。これを今後は以下
のように、名称を変える予定である。

成り面:(旧名称)1320年型または1350年タイプ
→(変更)普通唱導集大将棋鎌倉末型
段目
①不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
②不成、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、不成
③不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成、不成
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升、空升、空升、不成、空升、空升、空升

なお、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒を見る限り、歩兵の成りは、
確定的でない。不成りの可能性が有る。
 次に、栃木県小山市神鳥谷曲輪遺跡の、成り一文字金角行駒
を根拠に、麒麟抄の記載の影響下南北朝時代には、
普通唱導集大将棋(1350年版または1320年版)が逆に、
金成が、一時的に増えたと考えていた。最近では、近衛文庫の
蔵書パターンから、近衛経忠等、特定の人物の横行の中国語の
意味が、擬人的である事が原因か、ともしている。つまり具体
的な増加は、近衛経忠等、小山駒の原作者が横行の中国語の意
味から人と見て、行駒を金成りにしたのが、原因だったと見る。
具体的には、次のような成りパターンの普通唱導集大将棋があっ
たとみられる。これも今後は以下のように、将棋タイプの名称
を変える。
成り面:(旧名称)1320年型または1333年~1350年頃の型
→(変更)普通唱導集大将棋南北朝型
段目
①金将、金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将、金将
②金将、不成、不成、不成、不成、奔王、太子、師子、不成、不成、不成、不成、金将
③金将、金将、金将、金将、不成、不成、不成、不成、不成、金将、金将、金将、金将
④金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将、金将
⑤空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升、空升、空升、金将、空升、空升、空升

ページによっては、進化が①→③→②のように書いてある場合
もあって徹底されていない。鎌倉市鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒
の成立年代を、頭の中で新しく見積る傾向が、集成鎌倉の墨書
を読む前には、強かったためである。なお小山の成り一文字金
角行駒のオリジナル品の成立は、西暦1340年頃と、最近で
は私は見ていた。
 ちなみに栃木県小山市の出版した、発掘報告書”神鳥谷曲輪
遺跡Ⅰ(第1分冊)”には、”(荒くれ者の)小山氏の武士団
が、鎌倉時代中期に整備された鎌倉中路の道路を破壊して、
小山義政の館および井戸を成立させた”としており、道路の整
備年である、概ね西暦1270年の

63年後の西暦1333年より後の南北朝期が将棋駒の成立年

だと、実質的に表現されている。従って、

鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒成立が14C初なら明らかにその後

である。
 従って平安大将棋から、江戸時代の後期大将棋までの金成り
割合の挙動も、”減少して、増加して、減少して、増加して、
減少して、中将棋型化した”と、以前表現したが、史料と合わ
ない。つまり、

減少して、増加して、減少して、中将棋型化したと一山減らす

必要が有る。
室町時代初から戦国時代末までは、摩訶大大将棋のパターンに
近い金成りの増加した後期大将棋が、小山市神鳥谷曲輪角行型
から、二巻物色葉字類抄の1冊/4末尾の大将基馬名の時代ま
で連続して、多い時代が続いたと今後は主張するようにしたい。
 以上で、再掲載の内容は終わる。
 つまり1290年型と鎌倉鶴岡八幡宮境内駒型との間に、
金成りの多い普通唱導集大将棋が有ったという、客観的証拠は
無いし、小山市神鳥谷曲輪遺跡角行駒と、
二巻物色葉字類抄第1分冊末備大将基馬名の後期大将棋との間
に、金成りの少ない大将棋の時代が有ったという、確かな客観
的証拠も、実は両方共無かったのである。ちなみに、小山朝政
直系小山氏滅亡の、西暦1397年直後頃、普通唱導集大将棋
は後期大将棋へ、大将棋自体は完全移行したとみられる。
(2019/06/15)

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鎌倉市小町1984出土”絡ム・・口王馬馬仲”木札(長さん)

神奈川県鎌倉市より過去、大量の墨書史料が出土し、
将棋関係では、14枚を数える将棋駒と、中将棋の
ルール木札が有るとの旨、今まで本ブログでは紹介
した。
 今回は、誰でも持つ疑問だと思われるが、

何か他に無いのか

という点について、論じる。
 答えを先に書くと、ほとんど無いが、

強いて言えば普通唱導集に似た文句の細長い木札が
ある。

すなわち、
将棋の駒に出てくる文字が、1物品に3文字以上有
り、総文字数が10字未満の物としては、表題の
”(本当はてへんに弱の搦)絡・・・口王馬馬仲・・”
という木札が、かなり前に出土している。鎌倉駅の、
当時”国鉄による立替工事”のときの発掘によるも
ので、西暦1984年のものである。
 他でも、何処かで見たような気もするのだが、私
には集成鎌倉の墨書(2017)に載っているスケッ
チのみが、今の所しっかり確認できている。鎌倉市
鶴岡八幡宮境内遺跡出土の将棋駒群と同じ頃の、
鎌倉時代末成立と、集成鎌倉の墨書ではされている。
若宮大路周辺遺跡群(駅構内小町の当時の蔵屋敷跡
遺跡)とされ、鎌倉の墨書の整理番号で”木製品の
301番”となっている。
 なお、最後の字の”仲”は”猛”かもしれないし、
”人偏に車”かもしれないし、”佛”かもしれない
し、字ははっきりしない。以下の説明の都合上、
私が個人的に、”仲”と読んでみたものである。
 答えから書くと、非常に希望的に読むと、

普通唱導集大将棋の唄の戦略を述べた、将棋攻略本
の断片

とも取れる。レ点や一ニ点を付けると、こうだ。

絡(搦)メル(二)奔王馬馬ガ、仲人ヲ(一)。

以下、更に補足説明を加える。
 まず、馬が入っているし、最後の字も仲のような、
猛のような字なので、平安小将棋の持ち駒タイプの
将棋ゲームに、関連しない。残りは、普通唱導集時
代の大将棋しか、少なくとも私には考えられない。
集成鎌倉の遺跡には、王の上にも、不明の文字があ
るとされているので、この王は王将の王ではなくて、
奔王の王だと仮に考えてみる。
 すると、2枚の角行を相手右仲人にアテて、横行
を切り倒そうとしている所で、龍馬2枚と奔王にも
加勢ないし絡ませたと、(無理にだが)文を組み立
てる事も、この木製品については、理論上は出来る
のかもしれない。
 何れにしても、何が書いてあるのか、または棋譜
の一部なのかもしれないが、将棋と関連が、万が一
有るとすれば、

平安大将棋や後期大将棋に関連しており、龍馬の無
い平安小将棋には、概ね関連しないとみられる木札

である。
 ただし、将棋攻略本の一節では解釈が、苦しいと
見られる根拠がある。

絡(本当は”てへん弱”の搦)と口王の間が離れている

という点である。”その空白部分の『角行角行』が
消えて、見えなくなっている”と言われれば、もと
もこも無いが。
 ざっと見たが、集成・鎌倉の墨書で、将棋に関連
する疑いが、微かであっても感じられるのは、今の
所、以上の出土史料群だけである。
 今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札も、いっ
けんは和歌を、ひらがなを中心にして書いたように
見える札であった。だから、それと同類のフォーマッ
トの札はまだあり、私には全部が読み取れた訳では
ないのだが。少なくとも簡単に、将棋関連とわかる
遺物は、これら以外には鎌倉市内では今の所、余り
出土しては、居無いようである。(2019/06/14)

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神奈川県鎌倉市二階堂荏柄遺跡木片の字は異字の水(長さん)

以前に、今回取り上げる神奈川県鎌倉市の鎌倉市教
育委員会の遺跡発掘担当者が、大倉幕府周辺遺跡と
呼んでいる、鎌倉市二階堂荏柄の将棋駒状の大き目
の木片を字を、本ブログでは”氷”(?)と読んだ
旨を述べた。が、

氷ではなくて、水と書いてあるようだ

という話を以下する。

どちらにしても、将棋駒では無い

というのが、本ブログの見解ではある。
 この遺物は、前記の鎌倉市教育委員会の発掘担当
者が西暦2002年に掘り出したもので、大倉幕府
というのは、複数の成書で、源頼朝時代からの、
鎌倉幕府の場所の事とさる。問題の出土品は、西暦
1185年~1233年程度に成立したものと、さ
れるようである。長さが5センチ巾が2.7センチ
程度あるように目視され、将棋駒より有意に大きく
”にすい”状の墨跡が、表面にだけ有ると集成鎌倉
の墨書には、表現されている。書き字の内容だけか
ら言えば、今小路西御成小学校遺跡金将駒と共出土
の五角形木片が無地なので、一覧の中では2枚とも
疑われる。が、今小路のは大きさが、長さ3センチ、
巾2センチ程度な為、こちらは字が無くても将棋駒
だと判る。
 そこで板の大きさからみて、氷のありかを知らせ
る等、別の用途の札なのではないかと、本ブログで
は、鎌倉市二階堂荏柄の”駒”(木製品No139)
だけ、”集成鎌倉の墨書”の中で将棋駒に分類され
る遺物としたものについて、疑がっている。
 ところでさいきん㈱遊子館が、西暦2012年に
発行した、井上辰雄監修の”日本難字異体字大字典
-解読編-”で、問題の出土品の墨跡に似た物を探
していたところ、

漢字の”水”で、左側が”にすい”になる異字が載っ
ていた。

 国語の漢字の得意な人だったら、常識だとして知っ
ていたのかもしれないが。私は知らなかったので、
この小学校1年生用の漢字の、異字の存在には正直
驚いた。

二階堂荏柄.gif

 ”にすい”状の部分のある別の漢字は、水より
ツクリの部分の割合が大きいので、墨跡に一番近い
のは、他の”にすい”の漢字を全部見なくても、
これだろうと、私にも察しが着いた。従って単純に、
この字の一部が書かれたとも、スケッチからは取れ
る、問題の鎌倉市の大倉幕府周辺遺跡の木製遺物は、

源頼朝の居所の近くの場所で、水場を表示する為の
札のようなもの

と見なしても、説明が出来そうだと、よって私には
結論された。
 氷の保管庫は、建設がたいへんなので、そうした
特殊なものが有った訳ではなくて、単に水場に近い
所に有った木製遺物なので、腐らずに800年後に
出土しただけだったのかも、しれないようである。
そしてこれは、この時代の荷札等の形と少し違うが、
札の形の範囲内であり、たまたま将棋駒の形に近かっ
ただけだったのではないかと、この遺物については
今の所、私は見ている。
 ちなみに私には、この”異字体の水”の書き順が、
良く判らない。この木札状遺物で、書く途中で止め
たとすれば、普通の漢字の水とは、書き順が違うよ
うにも見える。(2019/06/13)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋時代成未成立(長さん)

再三述べたが、神奈川県鎌倉市御成町の、鎌倉の
遺跡発掘報告書保管場所、鎌倉市立図書館の隣、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札
には、狛犬、猛豹、中将棋型の盲虎駒の三種の記載
があり、その木片を個別の中将棋の12升目盤卓に
セットする事によって、南北朝時代に、該当将棋盤
卓での、ゲームバージョンが、”狛犬中将棋”であ
る事を示していたと見られる。
 このうち猛豹は、”もう(し/ひ)や(う)”
(ただし、”し/ひ”は、”し”と”ひ”の中間音で
発音する事を意味しているらしい)の意と表現され、
猛豹が”まうへう”ではなく、”もうしやう”と、
歴史的カナ使いで表現される、”猛将”に近い事が、
強調されている。つまり豹駒を、将駒の仲間として、
最下段に配置すべき事をも、指示していると見ている。
 今回は、”もう(し/ひ)や(う)”である事から、
別の意味で、この木札の成立時点には、いわゆる、
”中将棋らしい『成り規則』”が、不安定だったと
結論できる点について述べる。つまり、この木札と
白駒成り香車駒等が、一例として同一時代には共出土
する事は無いと、一応考えられるという意味である。
ちなみに、本ブログでは、神奈川県鎌倉市の、
鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒群の成立を、今小路西
鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札成立の、約30年
程度前と見ている。つまり鎌倉鶴岡八幡宮境内出土駒に、

典型中将棋駒は無いと見られる

という意味である。
 では、以上の結論について、以下に補足する。
 重要な点は、
猛豹は猛将に近いと、21世紀の今と違って、当時は
主張しなければならなかったという事は、

中将棋では、猛豹が準将のランク付けであり、銅将の
袖隣に配置していることが、特におかしいわけでは無
いと言う事を、将棋棋士の誰もが、認めたわけでは、
無かったという事を示している

と考えられるという点である。つまり、

猛豹の成りは角行だという主張について、違和感を
唱える、当時の古参の棋士が居たと考えられる

という事である。ところで中将棋の成りは、元々、
太子、獅子、奔王に成る事が確定していた、酔象、
麒麟、鳳凰以外は、次のように、駒の強さの序列を
イメージした上で、成りを割り当てて行った結果、
成立したと自明に考えられる。
 すなわち、その序列では、次のように元駒が並ぶと
みられる。
龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、反車、香車、
盲虎、金将、猛豹、銀将、銅将、仲人、歩兵。
 結果としては、これらに次のように、成りを対応
させた。
飛鷲、角鷹、龍王、龍馬、飛牛、奔猪、鯨鯢、白駒、
飛鹿、飛車、角行、竪行、横行、酔象、金将。
 明らかに、この対応付けは、猛豹を将位同等駒と
認めるかどうかが問題であり、

バタついていたとしたら、銀将の成りが竪行か角行
かでフレが生じるために、確定できない。

 だから、皆が猛豹は、将の類の居る1段目にある
のが普通で、将の仲間に入れても良いと感じるよう
になってから、成り規則が完成したと明らかに、推
定できるはずだ。
 つまり、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋
木札のような文言が、ゲームバージョン指定札とし
て残っているような局面では、

中将棋の成りは、誰にも当たり前の物として受け入
れられるほどには未だ、確定はしてはいなかった

とみなせるのではないか。恐らく、この木札を使っ
たころの中将棋に、成りは後期大将棋の3枚程度し
か無かった疑いが強い。つまり中将棋木札の将棋は、

鶴岡八幡宮境内出土駒のたとえば、不成り香車等が、
しばしば兼用使用されるような、黎明期の中将棋

だった。
 以上のように特定できるのではないかと、私には
現時点でより明確に言えると、考えられるようになっ
て来たと思われるのである。
 この木札の存在は、以上のように、たいへん大き
いものがある。紛失したそうだが、早く見つかって
ほしいものである。(2019/06/12)

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鎌倉市御成町今小路西鎌倉市福祉センター遺跡現地確認(長さん)

2019年の6月に入って直ぐ、神奈川県鎌倉市
御成町の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
の場所を確認しに、現地を訪問した。
 御成小学校との境目に、現在小路が有って、
どうやらそこに、5号井戸跡があり、墨書”大佛”
等の折敷に関連して、本ブログで再三問題にした、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札が、
30年ほど前に、出土したらしい。なお、”川底”
と、発掘場所が表示されている集成鎌倉の墨書で、
文字”え”付き渥美片口鉢と表現された、約80
年早い墨書有りの遺物は、鎌倉市福祉センター敷
地の、東側のヘイの近くにあるとみられる、小さ
な水路に有ったようである。
 以下、もう少し詳しく説明しよう。
 今小路西遺跡で有名な、鎌倉市の御成小学校は、
JR鎌倉駅西口から歩いて、せいぜい4~5分程
度の場所である。駅西口から直ぐのスクランブル
交差点を左折して、50m位で校門である。
 ちなみにスクランブル交差点で直進すると、交
差点の向こう側が鎌倉市の市役所である。奥で、
市役所と御成小学校は敷地が繋がっているようだ。
 御成小学校の向かい側に、コンビニが有るが、
コンビニの店員は小学校の位置を知らない。寺子
屋風の校門になっているので、知らない人間は、
小学校だと気がつかないためである。
 小学校の敷地はかなり広く、ここ全体で、屋敷
が2軒分だとしたら、相当に大きな武家屋敷だと
実感できる。小学校の敷地が切れる所に交差点が
あり、右へ曲がって100m位で、現地、鎌倉市
福祉センターに着く。駅から歩いて7~8分程度
の場所である。敷地の南から向かって右の、東の
塀の所に、”旧佐助川”という小さな用水川が、
あったらしいが、暗渠にしたためか良く見えない。
 昔は、塀の所を北から南に流れてきて、鎌倉市
社会福祉センターの玄関で切れるとみられていた
らしいが、よみがえる中世3武士の都鎌倉の河川
の発掘によると、ここから蛇行して、玄関先を東
から西へ流れ、鎌倉市福祉センターに隣接する、
鎌倉市の図書館を超えて、佐助が谷の方向に、昔
は流れていた事が、発見されたという。13世紀
後半の品と聞く、墨文字”え”付き渥美片口鉢は、
この消えた川底から、西暦1990年前後に見つ
かったと聞いている。
 鎌倉市福祉センターと鎌倉市図書館の間は繋がっ
ているので、図書館の玄関前を通りすぎてから、
西端に小路が有るので、そこをもう一度右に曲がっ
て、北方向に歩くと、小学校との境目を通って、
元の御成小学校の、南東端に出る。
 恐らく、この小路の辺りに井戸5があり、前記
の墨書”大佛”等の折敷が、出土したのだろうと、
想像された。息抜きの竹が刺さっていたと、評さ
れた井戸のことだろう。そこは福祉センターや、
市立図書館との境目だが、御成小学校の敷地内な
のであろう。従って確認していないが、10m以
内で、5号井戸跡のどこからか極近くで、

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は
出土したようだ

と、今回場所を推定できた。なお繰り返すと、
社会福祉センターと図書館は、隣接しているので、
図書館の敷地から、どうみても50m以内の所に、
中将棋木札は有ったようである。
 なお、図書館には発掘報告書が有ると、聞いて
いる。が私の訪問した日は、あいにくと、図書館
自体が閉館日で、確認不能であった。訪問する際
には、鎌倉市立図書館が開いている日を、確認し
てから行った方が良いだろう。なお当日は市役所
も閉庁日であった。(2019/06/11)

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鎌倉の推定南北朝期中将棋木札近傍出土の墨書遺物(長さん)

本ブログでは何回も述べてきた、表題の神奈川県鎌倉
市御成の今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札
は、墨書遺物としては弧立しておらず、
①近傍川跡底から13世紀後半の一文字”え”片口鉢
②地番御成町625番3から14C中”大仏”折敷、
③地番御成町625番3から14C中”花一○”折敷、
が、近傍出土している。
②と③は、御成小学校敷地内に掛るらしいが井戸跡か
ら出たようである。なお同様の、町場の小規模井戸が、
他に3つ、南側屋敷の普通タイプの南隅井戸が、他に
1つあるらしい。これらとは全く別に、北側鎌倉時代
屋敷の井戸は、2つあるらしいが、たいへん豪勢なよ
うに、よみがえる中世3、武士の都鎌倉には、書いて
ある。そして②と③の井戸からの遺物が、西暦
1350年近辺の成立とされている。②と③は、材質
が中将棋木札と同じなため、履歴に類似性が期待でき
るとみる。
 そこで結論から先に書くと、
寺の門前に在ったと見られる花売り商店の、あり合わ
せ折敷で作成された、墨書き木片といっしょの履歴で、
中将棋のゲームバージョン指定札が出土したとみなせ
ると、

中将棋木札の成立年代がやはり、西暦1350年近辺
と特定

できそうだ。
 さて、問題の中将棋木札の成立年の同定は、②や③
の遺物と同じ井戸に、本当に浸っていて、原型が持っ
ていたのかどうか、出土状況の特定に、何らかの発掘
時の事情による不確定性が有るらしく、

実は謎

とされている。
だが、同じ井戸の産物だと仮にすると、どの木製品も、

ゴミ捨て場の掃き溜まりゴミを、14世紀末に町が衰
退し始めた時に、井戸に投げ込んだため、いろいろな
ものの混ざり物ゴミの一つとして共出土してきた物品

のようである。
 そこでここでは、②と③を大事な準共出土品とみな
して、以下に補足説明をすることにしよう。
 その前に①の渥美片口鉢について説明する。この
遺物は、そもそもたいへん立派な物品だ。
 だから中将棋木札と①とは、別系統の感じである。
武家屋敷で鎌倉時代後期に、富豪でも会った時の権力
者が使い飽きたので、川に放り込んで捨てた鉢といっ
た感じである。そこで①は、水場の出土物ではあるが、
木は浮いて流れてしまう川底だし、立派さが違うので、
共出土扱いはしないことにする。
 なお、前に”うさぎとかめ”のカワラケの話をした。
そのとき”乾いた地層から4枚、かわらけが出土した。”
と述べた。中将棋木札の約30年前成立品で、
鶴岡八幡宮境内遺跡将棋駒群の成立と同じ頃のものだ。
実は①の渥美片口鉢と共出土の形で、カワラケ(番号
162~166)5枚が別に出ているという。これは、
中将棋木札より80年前、鶴岡八幡宮将棋駒より50
年程度前の成立の、①の渥美片口鉢と、年代も川底で
ある事もいっしょの遺物のようだ。
 カワラケは、”うさぎとかめ”の仲間の、集成鎌倉
の墨書整理番号、かわらけの156番~159番4枚
と、この162番~166番までの5枚の、合計9枚
が、神奈川県鎌倉市御成町、地番の625番区からは
出土している。むろん、無地のカワラケ、折敷は他に
多数出ているに違いない。
 さて前置きが長くなったが、

残りの②と③が中将棋木札と”ぴたりと同じ時代の物”

であり、重要だ。
 まず②と③の折敷の破片は、鎌倉市の鎌倉考古学
研究所が西暦2017年に発行した、”集成 鎌倉の
墨書”の6木製品(折敷)で、②が224番と、
③が225番と番号が付けられている。西暦1990
年の1月、すなわち、中将棋木札(同書・木製品その
他、313番)が発見された、その約3か月後に、
鎌倉市教育委員会と大学の先生との共同発掘で、地層
面2(上の方)、井戸5で、②、③共に発見されたと、
鎌倉の墨書に記載されている。
 ②の224番の折敷片には、両面に墨跡があるが、
字数は少ない。

一面が”大佛”、その裏面が”口月”

のようにも見える。鎌倉大仏での行事の縁日でも、示
したのか、持ち主が大仏という苗字なのか、私には判
然としない。
 ③の225番の折敷片にも、両面に墨書きがあるが、
②の224番と異なり、たくさん書いてある。私に読
めるのは、”集成鎌倉の墨書”で左下の3文字だけだ。

”・・花一○・・”とも、解釈できるよう

である。
 意味があるかどうか不明であるが、これらを無理や
り繋げると、ひょっとすると

鎌倉大仏の寺に墓参りする遺族用の”仏花金10文也”

といったような、意味なのかもしれない。
 寺院の門前として今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
に、南北朝時代に、ヨロズ屋のような店が有って、盆
や彼岸に仏花を販売していたので、その値札の類へ、
転用した、折敷の破片とも、とれるのかもしれない。
 よって、御成小学校の辺りは、たいへん豪華な

武家屋敷が鎌倉時代末に火事で消失した後、若宮大路
近傍の商店街のような小規模店舗の立ち並ぶ、町場の
店が多くなり、その中に”ゲームセンター”も有った

と考えても、それほどおかしくは無いような、墨書遺
物の出土パターンのように、私には思えてきた。
なお、今小路西御成小学校遺跡のゲーム関連出土遺物
としては”いかさまサイコロ”が、考古学本では良く
紹介される物品である。
 以上の事から、

問題の313号中将棋木札も、②・③折敷破片同様、
神奈川県鎌倉市御成町地番625番区の5号井戸に、
西暦1350年頃をスタートとして、長年浸っていた
と仮定して、議論を進めるしか今の所無い。

前にも書いたが以上のように、私は結論づけたと言う
事である。(2019/06/10)

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今小路西鎌倉市福祉センター木札は平凡社1989本(長さん)

本ブログでは、現物が盗難にあった、表題の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札は、
平凡社が西暦1989年に出版した、汎用成書
”よみがえる中世3、武士の都鎌倉”
河野真知郎執筆、文字のある生活(221ペー
ジ右下)でするように、再三御薦めしてきた。
 今回は別にも写真を発見したが、相変わらず
上記成書の写真の方が、出来が良いので、今述
べた成書の写真で、確認するように御薦めする
という主旨を述べる。
 前に、その”別の文献”については紹介済み
である。神奈川県鎌倉市の、
鎌倉考古学研究所が西暦2017年に発行した、
”集成鎌倉の墨書”の写真である。すなわち
この冊子本の、第6章木製品の、313番に、
縮尺は不明のままだが、問題の木札の写真があ
り、ありがたい事に、

”裏面に墨跡が無い”旨も記載が有る。

だが、編集のとき、外枠を無理に作ったらしく、
結果、主に下部が、

約20%消失している。

 下の図で、左が成書のよみがえる中世武士の
都鎌倉のP211の、文字のある生活の写真、
右が、西暦2017年に鎌倉考古学研究所より
発行された(市場に余り出回って居無い)
”集成鎌倉の墨書”の問題の木札の写真である。

木札画像比較.gif

 左の写真の下の方の、”近くへ行く”の

末尾の”く”と、”上わゆけぬ”の”ゆ”が、
右の鎌倉考古学研究所の集成本では切れている

事が、判るかと思う。運悪く西暦2017年に、
鎌倉考古学研究所本を作成したときに、コント
ラストを上げる画像処理をした結果、本来なら
このように画像を切断すると、”ゆ”の字の、
中央の縦棒が、部分的にはっきり見える、はず
なのだが、”ゆ”の字自体が元々薄かったので、
コントラスト調整の処理で、”ゆ”の字自体が
見えなくなり、画像処理をした作業者に、ミス
が気が付かれないまま、不公正な画像で、冊子
に載ってしまったようだと、比較により判るだ
ろう。
 何れにしても、このケースに限っては、史料
の確認は、汎用で、目下の所あちらこちらで

見かける、平凡社本で出来、より入手が煩雑な
鎌倉考古学研究所本”集成鎌倉の墨書”を敢え
て入手しないと、更に詳しくできない訳では、
特に無い

点を、ここでは強調しておこう。
 なお、現物は無いようだから、それ以上の事
は、今となってはお手上げのようだ。
 ちなみに今述べた、集成鎌倉の墨書編集時の、
木製品313番の画像の劣化の件は、メモで、
鎌倉考古学研究所へ、既に私が伝えた。
 将棋史というと、政治史からは軽視される懸
念もある領域からの、忙しい人間にとっては恐
らく迷惑な”いちゃもん”だろうが。そう言わ
れてチェックし出すと、たとえばこの書籍で、
オモテ表紙裏のトップを飾るカラー写真の遺物、
今小路西御成小学校遺跡の花形出土品、

”結番交名札”の発掘年が、共出土の不成り
金将駒等と同じく、本文中で20年ズレて、
西暦2008年になっている間違い

もこれとは別に見つかるだろう。だから次回に、
鎌倉の墨書が増刷される際には、国宝館行きと
なった、結番交名札の正しい発掘年である、
1988年への書き換えと共に、ついでに、
中将棋木札(南北朝?)の写真も、正しく下の
縁まで写っているものと、交換して貰えるに違
い無いと、このケースに関しては、私は勝手に
期待しているというわけである。(2019/06/09)

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神奈川県鎌倉市より、土将と淮鶏は出土したのか(長さん)

前に紹介した、神奈川県鎌倉市の鎌倉考古学研究所
が西暦2017年に発行した、”集成鎌倉の墨書”
には、天童市将棋資料館が西暦2003年に発行し
た、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”には無い、
鎌倉市若宮大路の鎌倉駅駅前小町出土の王将駒が載っ
ている。その他に3例記載が有るが、将棋駒では無
いと結論される2例について今回は述べる。残りの
”本当の将棋駒”は(2)西暦2002年に鎌倉市
扇ガ谷ニ丁目出土、裏今崩し字”と金”香車駒(南
北朝期)である。さて、将棋駒では無いとみられる
方について述べると、このカタログ書により、

鶴岡八幡宮に近い、雙六盤が出土した事で著名な、
①北条時房・顕時邸跡から、西暦2005年発掘時、
”土口”木片(木のNo.280)が、
②西暦2002年発掘時に、鎌倉市二階堂荏柄で、
第1字さんずい?将棋駒(?)(木のNo.139)
が、出土

していると見て取れる。
 何れも本ブログでは将棋駒では無いと考えるので、
以下に説明を加える。
 なおその結果、前回述べた、(1)1999年出土
の若宮大路鎌倉駅東口駅前(小町)出土の王将駒、
(2)西暦2002年の扇ガ谷ニ丁目出土、
”裏今崩し字『と金』香車駒”(南北朝期)が、成書
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(2003)に、書か
れて居無い出土駒であると、本ブログは認識する。
 では、以下にもう少し詳しく書く。
 まず、北条時房・顕時邸跡出土の土口木片は、五角
形であり、口が鎌倉考古学研究所”鎌倉の墨書”によ
ると、”門”だが、写真が載って居無い。だから、

門は将と解釈すると、摩訶大大将棋の土将にも見える。

ただし、荷札だと疑われるのは、

上部に穴が開いているから

である。また大きさも、やや将棋駒にしては大きく、
裏は無地で奔土に成らない。出土地点が雙六盤の出土
場所で、おまけに五角形なのが悩ましいが、これは、
鎌倉考古学研究所の説の通り

荷札だと、私も思う。

 次に、②大蔵幕府跡の近くの二階堂荏柄で、僅かに
”にすい”のような、”さんずい”のような墨跡の残
る、五角形の将棋駒状の木片が出土している。これに
ついてであるが、

”集成鎌倉の墨書”では、将棋駒に入れている。

”さんずい”として将棋駒をあてれば、摩訶大大将棋
の、”成り仙鶴の淮鶏”駒しか、私には考えられない。
しかし、これについても、

駒の大きさが、将棋駒にしては大きいし、スケッチが
正しいとして、さんずいが、やや巾が広すぎる感じだ。

個人的見解で、正直当てずっぽうであるが、”土口”
木片が、”土門”が土だったのに対し、こちらは”水”
系であって

一文字で”氷”と書いてあった

のではないかという気が私にはする。大蔵幕府跡の近
くの二階堂荏柄で、氷を貯蔵する倉庫のような物が、
鎌倉時代の初期に、ひょっとしら有ったのかもしれな
いと思う。何れにしても、スケッチを素直に読むと、
”さんずい”や”にすい”では、強い駒名のイメージ
が作りにくいので、これが、かなり大振りの将棋駒の
可能性は少ないのではないかと、本ブログでは考える。
こちらも、

上部に穴は無いが、将棋駒では無くて、何かの表示用
の木札だったのではないか。

よって、冒頭に述べた通り、鎌倉考古学研究所、
鎌倉市教育委員会、その他、大学の先生等が発掘した
将棋駒のうち、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に無い
ものは、2枚だろうと、私は考えている。
 ちなみに天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にも書いて
ある出土駒だが、スケッチが、別々の2人の研究者に
書かれて、相互間に、かなりの個人差があるらしく、
今小路西御成小学校遺跡1988年出土の、
不成り金将駒の字の捉え方が、天童市将棋資料館
と、鎌倉市考古学研究所の書籍の両者の間で、同じ出
土駒史料に関して、かなりの差が付いている。
前者の方には写真があり、今の所、天童市将棋資料館
の言い分を取って”将も明確に見える”不成り金将駒
としておくしか、本ブログでは仕方が無いと、これに
ついては考える。(2019/06/08)

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(コラム)童話”ウサギとカメ”。鎌倉時代成立の謎(長さん)

集成鎌倉の墨書に今小路御成小学校遺跡

地番御成625番地区の遺物

として、鎌倉時代末とされる、比較的乾いた地層を
中心に出土した、墨書カワラケが4枚程度紹介され
ている。病人が全快を祈願して作成した呪い用とさ
れる、”人面墨書かわらけ”が、比較的有名で、
別の考古学成書でも見かける。だがその他、やはり
呪術用と聞く、格子模様カワラケ(これだけ東の、
少し離れた水場井戸)と、”×/×夜人”(?)と
書かれた字のカワラケが出ている。しかし、それら
よりも、むしろ奇怪なのは、

内面にカメ、外側にウサギの絵が書かれ、童話の
”ウサギとカメ”を連想させる、鎌倉時代末成立の
墨書カワラケが出ている事だ。

 なお、4枚のカワラケは、だいたい同じ時代の成
立で、本ブログでは、中将棋木札より、約30年早
いと見る。
 言うまでも無く、童話の”ウサギとカメ”の
日本への伝来は、戦国時代後期のはずである。
 発掘場所が、端とは言え御成小学校なため、捏造
という言葉も思い浮かぶが、

何のためにする捏造なのか、動機が特に思い当たら
ない。だから恐らくこれ自体は、本物なのであろう。

 なおカワラケは、酒を飲む道具なので、昔は、
このような図柄のカワラケを使って少年も、酒を飲
まされた事を示しているのか、その他の理由なのか、
何れにしても詳しい事情は、判るはずもなかろう。
カメがカワラケの内側なので、注いだ酒を池の水に
例えて、”カメは池に、ウサギは山の中に居る”と
宴会で称した、単なる鎌倉末期の大人の、おふざけ
程度のアイテムかもしれないが。
 近くから出土した別のカワラケや、事実上同じ敷
地内出土の中将棋ルール表示の、中将棋木札札とは、
この”ウサギとカメ”絵付きカワラケは、互いに題
材がバラバラで、私には繋がりが、特に感じられ無
い。恐らく出土地点は、

いろいろなゴミが元々、大量にごちゃ混ぜて捨てら
れている、”街のゴミ捨て場”ような場所

だったに、違いは無いのだろう。(2019/06/07の2)

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従来の鶴岡八幡宮汚れ歩兵駒の裏写真は香車のオモテ(長さん)

前に、集成鎌倉の墨書の鶴岡八幡宮境内出土駒の
写真が、ズレている他人事の話をした。今回は、

別のパターンの間違いなのだが、私も間違えてとん
でもない、勘違いを今までして来た

という旨を論じる。
 結論から言うと、

①汚れた歩兵(5)の”発川”に見えるスケッチの
元写真は、開示されて居無い。
②その対応写真だと従来理解されていた写真は、
不成りの香車駒(3)のオモテ面の写真に過ぎない。
③前に、白駒に見えると指摘した写真は、従来、天
童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、
香車駒(3)のオモテ面の写真と称して、公開され
ているものと同じ写真である。天童の将棋駒と全国
遺跡出土駒にも写真は、従って載っており、集成
鎌倉の墨書で初出では無い。天童将棋資料館本では、
白駒は、はっきりしない。

では以上につき、以下に説明を加える。
 以下は、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、写真
スケッチ紹介順序の図である。

勘違い天童.gif

 この図の素直な見方は当然、左から、五角形に見
える部分につき、
汚れた歩兵駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ、裏写真、不成り香車駒のオモテ写真、
オモテスケッチ、裏スケッチ(右端)と紹介されて
いるかに見える。

しかし、これは違う。

 本ブログでは、単純に今まで、汚れた歩兵駒の
オモテスケッチと裏スケッチが逆だと解釈してきた。
つまり、左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、
裏スケッチ、オモテスケッチ、裏写真、
不成り香車駒のオモテ写真、オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)と解釈してきたのである。
 しかし、よみがえる中世3武士の都鎌倉の、鶴岡
八幡宮境内出土駒のカラー写真と、天童の将棋駒と
全国遺跡出土駒の写真を比べて、

汚れた歩兵駒(5)の裏写真と天童の将棋駒・・に
書いてある写真は、実は不成香車駒(3)のオモテ
の写真、

不成り香車駒のオモテの写真と示されたものは、不
成り香車駒の裏の写真であるのに、さいきんようや
く気がついた。そこで上の図に、正しい解釈と思わ
れるものを、書き込んでおいた。
 つまり、正しくは、
左から、汚れた歩兵駒のオモテ写真、裏スケッチ、
オモテスケッチ、不成り香車駒のオモテ写真、飛ん
で、不成り香車駒の裏の写真、同オモテスケッチ、
裏スケッチ(右端)となっていたのである。
 その結果、
汚れた歩兵駒(5)の成りはスケッチには有りかつ、
飛車ともされるものの、
(1)意味不明であり、金成りだとも、奔何がし駒
だとも判別できない。
(2)金成りないし、奔何がし駒の根拠だと、本ブ
ログで論じた部分は、

香の字の第4画目と第5画目の、続けると”へ”の
字を、本ブログが単に誤認したもの

と考えざるを得ないとの結論に到達した。
 なお、上記の写真の書き込みの解釈でよい事は、
集成鎌倉の墨書で確認できる。すなわち従来、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で”汚れた歩兵駒(5)
の成りの写真”とされたものと、同じく同書で従来、
”不成り香車(3)のオモテの写真”とされたものが、
鎌倉考古学研究所の集成鎌倉の墨書で囲みで、
不成り香車駒のオモテの写真と、不成り香車駒の裏
の写真として、ペアで記載されて居る事からも、
裏付けられる。
 また、前に本ブログで述べた、
不成りとされた香車駒の裏面が、”集成鎌倉の墨書
で初出写真である”というのは誤りで、既に天童の
将棋駒と全国遺跡出土駒で”不成り香車駒のオモテ
写真”として、

誤ってだが、開示されている。

縮尺が違うせいのようだが、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の同じ不成り香車駒
の、正しくは裏の写真では、成書で見る限りは、

はっきりと白駒とは読めない。

本ブログで画像を小さく見せると、上記の図のように
白駒と、あいかわらず読めるので、ややこしいのだが・・・
 そして話が代わるが、汚れた歩兵駒の裏のようす
は謎としか言いようのない現状であり、問題が残っ
ている。
 が、何れにしても、
香車駒のオモテ面にある、引っかき傷を良く見て、
天童の将棋駒と全国遺跡出土駒で、汚れた歩兵駒

(5)の裏とされた写真が、不成り香車駒(3)
のオモテ面の写真だと、気がつかなかった私は
とんだマヌケだった

と、この件今回は、大いに反省させられたのだった。
(2019/06/07)

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”集成鎌倉の墨書”の鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒情報(長さん)

前に述べた通り、西暦2017年に神奈川県鎌倉市
の鎌倉考古学研究所が発行した、”集成鎌倉の墨書”
により、鎌倉市内の将棋出土駒の情報は、幾分増加
した。今回は、成り奔王鳳凰駒の出土で名高い、
鶴岡八幡宮境内遺跡出土(5駒)に関して、”集成
鎌倉の墨書”の発行によって、判った情報について
述べる。結論から書く。
 不成り香車駒の裏に墨跡が無いとは断定できず、

”白駒”と書いてある疑いが、否定できない。

 以上について、以下に説明する。この件について
は1/3という、かなりの現物からの縮小ではある
ものの、

香車駒の裏の写真が、載っている事から判明した。

これは私にとり、とてもありがたい情報であった。
 なお、問題のカタログを見るとき、以下の点に、
注意してほしい。
 後期大将棋を思わせる不成り歩兵と、本ブログが
推定し、”集成鎌倉の墨書”では133番と
ナンバリングされた歩兵駒の写真と、
 成りが今まで開示された例が乏しかった、同じく
”集成鎌倉の墨書”で135番とナンバリングされ
た、ここで問題にする、本ブログでは、やはり
”後期大将棋を思わせる香車駒”と指摘した写真が、
上下逆になっている。
 つまり、香車の写真は、”集成鎌倉の墨書”では、

誤って、歩兵のスケッチの右横に載っている

のである。
 そこで、歩兵の右の所の、香車の写真を見ると、
オモテに香の字が有るのは従来通りだが、2つ並ん
だ写真の右側の裏の写真を見ると、2文字目の”駒”
の”句”の部分が、薄く有るようでもあり、また、
一字目の”白”も、右にズレている感じもするが、
何かその字が、有るようにも見える。

集成墨書鶴岡香車.gif

 よって、この香車は、後期大将棋系の不成り香車
ではなくて、

典型中将棋駒の、成り白駒香車駒で有る可能性が、
否定できない

ように、私には思える。
 なお、鶴岡八幡宮境内出土駒については、残念
だが”集成鎌倉の墨書”には、駒のどちら面に、
墨跡が有るのか、または無いのか、墨跡構成が示さ
れていない。だから、写真を見て判断するしか、
判断材料は、さしあたり無いように私には思える。
 ただし鶴岡八幡宮出土駒は、鎌倉時代末期の地層
と見られる、第2面第1溝という所から出土したと
いう情報が、”集成鎌倉の墨書”には、明確に示さ
れていた。従って、遺物の成立年代が、

鎌倉時代末期であって、南北朝時代にかかる可能性
が、余り無い

ということになる。
 よって、我々には

成り白駒香車駒は、出現が早すぎる感じがはっきり
判る

ように、カタログには明示されていた。
今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札は、記録が
不鮮明なのか、出土地点の地層が明示されていない。
 ただし、幸運だったが、同類の木片同カタログ
224~5番が、水場として”第2面井戸5”地層
から出土していて、14世紀中葉と確定している。
木札が持ったのは、同じ井戸に浸っていたからだろ
う。やはり、異性庭訓往来著作直前の14世紀中葉
頃成立なのではなかろうか。そうしてみると、
鶴岡八幡宮の境内の将棋出土駒に関しては、他の四
枚に比べて、

 微妙だが、成り白駒香車の成り白駒が、”少し早
く作られ、すぎている”感じが私にはする。

香車の裏の状況については、もう一歩詳しい情報が
ほしい所だろう。
 相当前のことだが私は、栃木県栃木市星野町の
星野遺跡記念館で、斉藤常民氏から、”昔東北大学
の芹沢長介先生が、層順序による、遺物の年代推定
方法を確立した”と、教わった事があった。鎌倉市
の考古学研究所では、今もそれが、綿密かつ正確に、
遺跡遺物の年代の推定に、生かされているようだ。
そのおかげで、将棋史もその恩恵を、次第に受ける
ようになってきたと、私にも今回、この書籍を見て
しみじみと感じられるようになってきた。(2019/06/06)

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20年前、神奈川県鎌倉市で王将駒が出土していた(長さん)

本ブログでは、平安時代と鎌倉時代については、王将
駒は奈良県を除く近畿地方以外では、これまで出土し
ていないと認識していた。根拠は西暦2003年発行
の”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”の記載による。
しかしこの認識が、厳密には間違いだったのに、よう
やく最近になって気がついた。実際には、

西暦1999年に、神奈川県鎌倉市の若宮大路沿いの、
小町1丁目で、西暦1175年~1225年程度成立
の”不成り王将駒”が一枚出土している

と言う事だ。親王将軍の時代どころか、頼朝の時代に
近い時点で、京都の皇族流に、鎌倉の若宮大路沿いで
は少なくとも、王将のある将棋を指し、田舎流の玉将
将棋では無かったようだ。なお、王の横線は等間隔で、
少なくともスケッチの写しが正しいとすれば、比較的
皇族風の、品のいい雰囲気の駒の、マネのように私に
は見える。”摂関と院の争い”という経緯は、鎌倉ま
で京都から離れると、少なくとも鎌倉時代の草創期に
は、”別世界の出来事”だったのだろう。
 発掘は当時、地元鎌倉市の大学の先生グループで行っ
たらしく、報告書が少し後に出たので、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒(天童市将棋資料館の出土駒カタロ
グ集)の編集に、間に合わなかったようである。
 何れにしても鎌倉時代の初期、京都の習慣は、鎌倉
幕府が成立すると、ただちに鎌倉市には入ったようだ。
そこから先の地方へは、王将を使う習慣は、余り広が
らなかったとしか、説明のしようも無さそうだが。ち
なみに、鎌倉幕府の成立に加勢した、北関東の武家に
は、源氏より、平氏や藤原秀郷流等、藤氏系の者が多
いという、事実はあると聞いている。
 なお、上記の情報は、”集成 鎌倉の墨書-中世遺
跡出土品-”(2017)鎌倉考古学研究所編で、私
は最近ようやく知った。本ブログの内容が、学術研究
として体を成しているかどうか、自信は余り無いので、
後追いで、今述べた成書の紹介結果に関しては、まと
めてでも、著作権がらみの許可を取る予定でいる。そ
の他この本には、幾つも新しい知見が載っているので、
追々本ブログでは、述べてゆくつもりで居る。
(2019/06/05)

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水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、大将棋畧頌26句の謎(長さん)

今回は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄で、泰将棋の初
期配列の覚え方を7文字づつ40句(合計280文字)
で水無瀬兼成が、漢詩風に書いた著作の第26句目が、

左右非対称駒配列について書いてあるのだが、単なる
配列であるかのように、雑に書いてある理由

についてを論題とする。
”金翅、行鳥、南蛮、狄。”と書いてあるが、これは、

配列順を示して居無い。

最初に正しい漢詩に直して、話を判りやすくしてみる。

①大龍金翅左右対。
②其中古鵄行鳥対。
③東夷西戎蛮狄対。

一句が三句に増えるが、40句が42句になって、相
変わらず合計は偶数だから、正確に書いても問題が無
かったはずである。
 そこで回答である理由を最初に書いて、次いで、
いつものように説明を加える。
②の”其中古鵄行鳥対。”が問題で、実は泰将棋では
なくて大大将棋の配列で、古鵄と左右対称駒が、毒蛇
にしてあるのを、

豊臣秀次に万が一にも、気が付せないための誤魔化し

だったと考えられる。すなわち元々、大大将棋では、

古鵄の左右対駒は、毒蛇でなくて猛鷲だった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 大大将棋には猛鷲が有り、その初期位置は、毒蛇の
位置、かつの成りが有り、斜めに歩める鉤行の動きの、
猟犬等であったろうという説を、本ブログで前に既に
述べている。
 天正遣欧少年使節が欧州へ行き、ヨーロッパの人間
が猛獣狩りという遊びをする事を、日本に伝えた後に、
大大将棋が成立した事を示しているのだろう。しかし
その事が、一般的に言ってバレルと、大大将棋が、
摩訶大大将棋より新しいどころか、将棋纂図部類抄
著作のための作成ゲームである事が、あからさまにな
るので、猟犬成り猛鷲を水無瀬兼成が、オリジナルの
大大将棋から、削除し、毒蛇に変えたのだろうという
推定だった。重要な点を最初に述べると、大大将棋は、
泰将棋製作を事実上、水無瀬兼成に依頼した殿様(水
無瀬のパトロン)である、豊臣秀次も、内容を知って
いたと考えられるという事である。根拠は、それを示
唆する内容が、将棋纂図部類抄の奥付に書いてあると
いう事実があるという点が挙げられる。つまり、

将棋纂図部類抄の大大将棋を、豊臣秀次が良く見たと
すると、自分が水無瀬兼成に紹介した大大将棋を、
水無瀬がほんの一部だが、黙って書き換えている

と言う事になる。豊臣秀次が、大大将棋の古鵄の右対
駒に興味が有るとは、私にはとても思えないのだが、
極めて低い確率でも、ばれれば、話が水無瀬兼成にとっ
て良い方向へは行かないと考えたのだろう。そのため、
殿様でパトロンである豊臣秀次が気がつかないように、

”②其中古鵄行鳥対。”という句を大将棋畧頌へ入れ
なかった

と私は考える。なお、そもそも古鵄と行鳥が対になっ
ているのは、行鳥と猛鷲を、泰将棋でも入れ替えたか
らだと、考えられる。つまり当初水無瀬は、泰将棋の
成りを、大大将棋に合わせようとして、途中でやめ、
中将棋に合わせる事にしたのであろう。だから、本来
の対駒である猛鷲を、古鵄の対の位置の、行鳥の所へ、
元々は1枚だけ入れて、古鵄を天狗に、猛鷲を猟犬に
成らせるつもりだったに違いない。
 そして現行の泰将棋の、猛鷲の位置には行鳥が左右
で2枚作るつもりだったのであろう。蛇足だが行鳥も、
元々は奔鬼に成らせる、はずだったのかもしれない。
 以上の事から、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄、泰将
棋を意味する”大将棋”畧頌の第26句で、”金翅、
行鳥、南蛮、狄。”と、配列順を書いているように、
ゴマ化しているのは、

”古鵄と対”という文字を、豊臣秀次には見せない為

であると、私は考える。水無瀬兼成は、当然かもしれ
ないが、時の権力者との関係で自分に、ほんの僅かで
も不利益が無いように、細心の注意を払って、事を進
めていたという証拠の一つと、これは言えるのではな
かろうかと私は思う。(2019/06/04)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄の”立馬畧頌”は水無瀬作(長さん)

将棋六種之図式にも転載されているが、水無瀬兼成
の将棋纂図部類抄に、摩訶大大将棋の初期配列を
記憶するために作成されたと、通常見られている、
表題の立馬畧頌という、漢詩の字列を連想させる、
七文字組で続いた、28句の詩文が存在する。今回
は、その著作者が誰なのかを論題とする。
回答と根拠を先に書く。

水無瀬兼成の疑いが強い。

12句目に、”走馬与利、立(二)于端(一)。”
と、書かれているが、

実際と合って居無い。泰将棋と摩訶大大将棋が、
ごちゃ混ぜであり、泰将棋の作者が書いたみなせる

からである。
 では、以下に説明を加える。
 摩訶大大将棋に関する立馬畧頌を読むと、問題の
箇所は、無いと27句になってしまい、奇数句の詩
になるのが見苦しいので、後で加えたように見える。
が、作者は、

摩訶大大将棋の端列に、車句の類だけが置かれてい
るのではなく、小駒の驢馬が有るのを、うっかり忘
れた

ようだ。実際には、厳密にこの句の通りになってい
るのは、後期大将棋と泰将棋だけである。
後期大将棋の端列に車駒が集められているのが他の、
より上位の将棋種類でも、デザイン上参考にされた
事は、確かと見られる。しかし、摩訶大大将棋では、
桂馬を2升目動き駒に入れて、3段目に持ってきた
ので、端列に、驢馬を、たまたま入れている。
だから現実として、

摩訶大大将棋は、その立馬畧頌のようには、なって
いない。

 他方、本ブログで何回か述べたように、豊臣秀次
の来客室等に泰将棋を飾るときに、お抱えの者が、
事故なく配列できるように、泰将棋の成りは中将棋
程度に、作者の水無瀬が抑えたと考えられている。
 ツジツマが合わなくなったので、大将棋畧頌で、
玉駒を玉将と記載しながら、実際には不成りの自在
王に変えているのが証拠と、本ブログでは以前指摘
した。このような”手直し”は、泰将棋の実際の作
者で無ければ、簡単にはできないからである。
 しかし問題の立馬畧頌を作成するとき、恐らく他
ならぬ、著作者の水無瀬兼成は、摩訶大大将棋の”
立馬畧頌”で、泰将棋デザイン製作時の記憶と混同
して、摩訶大大将棋の驢馬の存在を、うっかり忘れ
たようだ。そのため、問題の第12句目を、偶数化
のため、苦し紛れに付け足してしまったのだろう。
 だから水無瀬兼成以外の人間が、摩訶大大将棋の
立馬畧頌を作成したとしたら、第20句目が、やや
くどいために、それを削除するやり方を、幾らか考
え抜いた末えに、気が付いただろう。その結果、
第12句目の、結論で書いた一節は、そもそも加え
なかったのではないかと、私には疑われる。
 摩訶大大将棋の初期配列図だけしかないとすると
当然だが、泰将棋がそもそも無いと、摩訶大大将棋
を含めて、

”走馬与利、立(二)于端(一)。”は例外が多く
おかしい

ように、見えるはずである。
 よって、将棋纂図部類抄の特に、”出来たて”
泰将棋有っての、摩訶大大将棋の立馬畧頌であり、
その立馬畧頌も、署名のある、

”大将棋(=泰将棋)畧頌”同様、
水無瀬兼成本人の作である可能性が、かなり高い。

以上のように、私は疑うのである。(2019/06/03)

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麒麟と鳳凰の駒ルール。江戸時代記録は信用できない(長さん)

今でこそ、佐藤敬商店が中将棋の6000円のセット
を出し、故大山康晴永世名人等の筆で、中将棋の棋譜
を開示しているので、中将棋の駒の動かし方ルールは、
比較的安定して残っているかに見える。概ねそうだが、
本ブログで前に指摘したように、

麒麟と鳳凰の”飛龍に似ない”ルールは、江戸時代の
百科辞典の中将棋のルールの記載で、反映されている
とは限らない。

個人的には、東洋文庫本として、現代語で簡単に読め
る和漢三才図絵の、麒麟、鳳凰ルールのフレが、

社会的には、最も厄介な問題

だと思っている。麒麟の縦横と鳳凰の斜めが、東洋文
庫本和漢三才図絵では、2升目まで走りになっている
のである。今回は、こうした現状を、どう説明するの
かを問題とする。結論から書く。

専門書を見れば良いという結論には、ならない。

江戸時代の将棋書は総じて中将棋に関して衰退期に
書かれていて、

末期的なフレがある

と考えるべき。
以上が結論であり、以下に説明する。
 状況として、私が知る限り、麒麟と鳳凰のルールが、
佐藤敬商店版”中将棋の指し方”や、中将棋連盟ホー
ムページと整合しているのは、江戸時代本では

中将棋指南抄位

である。和漢三才図絵は冒頭に説明した通りおかしい。

中将棋麒麟.gif

将棋図式(松浦大六氏所蔵)には、シャンチーの象型
に読み取れるように書いてある。中将棋絹篩には、
”合い駒が利かない”程度しか、注意書きが無い。
故大山康晴永世名人は、中将棋の麒麟・鳳凰に関して
は、ざっとみると水無瀬兼成の、将棋纂図部類抄に合
わせているのであろう。なお、どちらも中将棋の専門
書と言えるので、

中将棋絹篩と中将棋指南抄では、同格だ。

将棋纂図部類抄に権威が無かったら、中将棋の麒麟と
鳳凰の駒の動かし方ルールには、現代ではフレが生じ
ていた事だろう。
 以上の結果から概ね中将棋は、江戸中期以降には、
普通の日本将棋に押されて、世継ぎが絶えて皇族が、
跡目を継いだりした公家が、玉将の有る中将棋を指さ
なくなると、中国シャンチー等の文化の流入もあって
それらと溶け合い、どちらかと言うと”西洋チェス
の香りが元々はした”との旨、日葡辞書に出ている

日本の中世的な中将棋では、次第に無くなってきた

と、認識した方が良いように私は思う。よって、
江戸時代の将棋の専門書だからと言っても、棋譜
を全くチェックしないで、字面でルールを書いている
ルール書を標準にしては危ないと、見た方が良いので
はないかと私は思う。つまり、信用してよいのは、
水無瀬家という公家の家の者で、自身が将棋の棋士の
家系の子孫でもある、

水無瀬兼成からの情報程度

と、他人に伝えた方が良いのかもしれない。つまり、
和漢三才図絵等、江戸時代の史料のルールは、一般に
判りやすいが

中将棋が、やや衰え始めた江戸時代のものなので、
何から何まで信用するのは良くない。

以上の主旨の情報を、web等上では流すべきだと言
う事かと、私には結論される。(2019/06/02)

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