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西暦1996年㈱おうふう発行祭礼行事猪俣百八燈伝説(長さん)

今回は表題のように、栃木県小山市神鳥谷曲輪一文字
金成り角行駒関連と、本ブログが独自に疑う、埼玉県
児玉郡美里町の、猪俣の百八燈に関する論文、成書の
㈱おうふう発行、祭礼行事埼玉県、埼玉の祭り探訪、
”猪俣の百八燈”にも書かれた加藤健司氏による
”猪俣百八燈の由緒”に関する記載を、話題にする。
未解明の問題とみる内容を最初に書くと、史料として
の記録自体に、

戦国時代以前には、猪俣党が先祖崇拝を、していなかっ
たように見える不自然さがある

というものである。そして、それは史料が無いため
であり、栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館の

西暦2000年代終わりの頃に撤去された、屋敷神の
稲荷が室町時代にも、猪俣党には、先祖崇拝があった
証拠かもしれない

との旨を論じ、将棋の史料に関連すると疑われる物品
の地方公共団体による、十年程度前の

撤去は遺憾

と結ぶ事にする。
 では、以下に説明を加える。
 加藤健司氏の㈱おうふう発行の祭礼行事・埼玉県の
埼玉の祭り探訪”猪俣の百八燈”の出だし、
”猪俣の地と猪俣小平六範綱”に猪俣百八燈の由緒が
記載されている。要旨は次の通りに、なっている。
①祭りが行われている堂前山は、平安末期に猪俣小平
六範綱が館を構えたところであり、武蔵武士・武蔵七
党の一つ、猪俣党が、埼玉県児玉郡美里町を本拠とし
て活躍した史実が有る。
②猪俣小平六範綱は、一の谷合戦で平家の越中前司
盛俊を討って勇名をとどろかせた。
③猪俣党は、鎌倉期、南北朝期、室町期に存在した。
④猪俣党の終期の惣領の猪俣能登守範直が、安土桃山
時代に、後北条氏の北条氏邦に加担し、名故桃城争奪
戦で、豊臣秀吉の小田原攻めの原因を作った。そして、
小田原攻めの際に、現埼玉県大里郡寄居町の鉢形城に、
北条氏方として篭城して豊臣秀吉に攻められ、一族
もろとも、西暦1590年に滅ぼされた。
⑤天正年間の末年(西暦1592年)頃に徳川家康が
関東に赴任すると、徳川家康との関連は書いてないが、
猪俣党の本姓を名乗る、小野満開という宗教家が、
猪俣小平六の守り本尊を背負って、堂前山に草庵を建
て、盆に先祖の霊を弔ったと言われる。(火を使用)
⑥⑤の後に、小野満開の跡を、地元の若者達が継いだ。
⑦百八燈を作るという工夫等は、⑤の後に形成された。

 ここで問題にしているのは、室町時代や戦国時代に、
猪俣党は存在はしたが、

先祖の霊は弔っていたかどうか不明

だと言う事である。つまり、

はっきりとした史料が無いという事

であろう。傍証は、この地域にも寺院があると言う事
で、小山義政の乱、小山若犬丸の乱、小田氏の乱、
田村庄司の乱等の合戦で、猪俣党を、かり出していた、
鎌倉公方の足利氏満が、西暦1386年前後に広木地区
に、大興寺を新設しているという点がある。また広木上宿
から南北朝時代の五色宝塔が出土しており、加藤健司
氏も言及している、猪俣百八燈の中央の塚は、五重塚
という名で呼ばれており、概念として共通性が有る点
で、無形有形の証拠のようなものが、淡く残っている。
 だから、”小野満開”という宗教家が、堂前山
で、盆に先祖の霊を弔った、発起人だというのは怪
しいと、本ブログでは見る。猪俣党は安土桃山時代に、

 豊臣秀吉に攻められる以前にも、堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を、盆には弔っていた疑いも有るの
ではないか。

 つまり宗教家の小野満開は、
安土桃山時代に戦乱で、盆に美里町の堂前山で、
猪俣党の先祖の霊を弔う行事が、一旦途切れたのを、
復活させた、

中興の功労者という事にすぎない

のではないかと、私は大いに疑うという事である。
 そこで根拠となる史料としては、ほんの十年前
までは実在した、

栃木県小山市天神町の小野塚イツ子氏記念館の、
敷地の、ど真ん中にあった、実質的に屋敷神である
稲荷

が挙げられるのではないかと、言う事になる。
何故なら、

その小野塚家は、室町時代の旧家だったから

である。また猪俣党を名乗る人物は通常、小野満開
がその典型であるように、小野の付いた苗字であり、
小野塚の中に、小野が有る。なお残りの塚は言うま
でも無く、墓に繋がる。また稲荷が、先祖霊崇拝の
アイテムであるのは、文献を挙げるまでも無く、
例外が無いほど、自明であろうから略すとして、
何れにしても、撤去されたのは、誠に残念だったが、

敷地のど真ん中に、デンと座ってかなり破格に広い
場所を占拠している、見ていて余裕ムードの稲荷

とキツネの置物が、確かにあった事自体は、私自身
が、撤去される少し前の某年8月15日に、確かに
確認している。その頃、下野新聞に写真が載ってい
たが、付近の庭木を撤去すると、更にいい眺めの、
水天宮風の、御ヤシロが稲荷についていた。
 ここで大事な事は、以前に述べたが

埼玉県児玉郡美里町猪俣とは隣接する、某大字地名
と全く同じ苗字の、”小山のまちづくりを考える会
の会長”を名乗る人物

が、今も在職と聞く”小山市市長派”と、地元で見
られているらしい、建設業者による稲荷の撤去に、

尋常で無い、怒りをぶちまけていた

と地元の新聞で報じられていた点だ。撤去者が市長
派なのは”特定の宗教的な文物を、小山市が推奨し
て保護できない”というような、史蹟保護に対して
比較的慎重な旨の文書を、当時小山市市長自身が、
出している点が、証拠とされているようだ。何れに
しても、史的事実として、

室町時代からの旧家なら、敷地の真ん中に有る事か
らみても、相当に大切にされる、先祖供養のアイテ
ムが、室町時代からあったと、一応見てよい

のではないだろうか。
 なお、”事件”は、今からたった約十年前なので、
webにも未だ、怒りをぶち上げていた当事者の氏
名や、元の都内の女子大学教授で、政治活動家の
小野塚姓の、親戚の人物の職場連絡先等が載ってい
る。証拠となる史料として漠然とした、しかし妙に
大切にされていた稲荷は、無くなったものの、
当事者住人や、私のような目撃者が、存在していて
記憶が残っており、完全には消滅して居無い史料と、
見なせると言う事かと考える。
 なお南北朝時代の小山義政・若犬丸の乱では、
小山氏の全財産を、結局の所、嫡男小山若犬丸では
なくて、小山義政の姉の息子の、結城氏の次男、
小山泰朝(後に改名したとの説有り)が相続する事
になった。そして、その都内の某女子大学教授で、
親族で、政治家の小野塚姓の人物の大学学生時代の
専門は、

”戦後”の相続制度と、相続税制度

であると聞く。成立時、武力というイメージを払拭
させる為に、GHQの影響で成立されられた感が強
いとされる、

現在の民法相続制度(ポイント→男女同等)の起源

の研究にも詳しいようだ。つまり、西暦1382年
と西暦1945年とが、二重写しにされている世界
が有るらしいと言う事である。
 そのため先祖が、西暦1381年頃から、屋敷稲荷
のある、栃木県小山市天神町に確かに住んでいた事
を、あたかも、その専門分野自体が、

淡く示唆するような、大学での研究経歴の持ち主だ

と常々、個人的には不思議に思っていた。
 ちらりと内容を見たような気がするのだが、以下
を確認する事が、今ではwebページが消失して、
できない。すなわちその内容とは、この小野塚イツ
子氏の親類の大学教授で、政治活動もされていた
小野塚某女氏は自身の大学の学生ないし教員時代の
論文として、

歴史的な相続制度の変遷や、日本の中世武家社会の
相続について、本論を論じる準備として等で、論じ
たよう

である。それは東京家政学院大学の紀要だったと、
私はウル覚えで記憶しているが、今も納められてい
るとも聞いた事が有る。だいぶん以前、15年位前
だと思うが、今は大学教授も定年退職されている、
その女性の方の、大学学生時代ないし教員時代の
論文の表題および、コンテンツ内のセクション名が、
webに出ていたように記憶している。東京家政大
学の紀要の34号~35号に出ていた論文の事かも
しれないが、詳細不明である。
 代々家に伝わる口伝を混ぜながら、論じた論文だっ
たとしたら、本ブログにとっては、

中世史史料としても、たいへんなお宝

だ。
 何故なら本ブログの思惑からすると、猪俣百八燈
を西暦1381年起源程度に、遡りたいからだ。
 従って本当に、それが期待通りのものならば、そ
れも将棋史にとって、貴重な史料の一つとかと見る。
なぜかというと、本ブログでは、

普通唱導集時代の将棋駒の駒総数108枚は、
108燈の108。5将は五色宝塔、五重塚の5だ
とみていたから

である。
 何れにしても繰り返すと、猪俣党を名乗る人物は、
通常小野の付いた苗字であり、栃木県小山市小野塚
記念館の小野塚もいっしょだし、怒りをぶち上げて
いた人物も、埼玉県児玉郡美里町町史にも載ってい
るように、平安末期の猪俣小平六範綱の、孫程度の
代から始まる、支族の苗字と同じである。なお、後
者の方の苗字は、武蔵七党・猪俣党の、構成一族
苗字一覧表にも含まれていて、埼玉県児玉郡美里町
猪俣の、至近の地名でもある。ただし小山市の小野
塚氏の苗字は、問題の記念館の元の住人にとり、
母系だったと、公開されていると認識する。
 よって今の所、残念ながら”現小山市市長によっ
て撤去されてしまった”と、小山のまちづくりを考
えるの会の会長と名乗る人物が、十年程度前に、
怒りをぶちまけていた、小野塚イツ子記念館の稲荷
は、猪俣百八燈式の、猪俣党等、武蔵武士による
先祖崇拝が、安土桃山時代起源ではなくて、

室町時代や、戦国時代にも有ったと疑われる、状況
証拠の疑いのある史料物品である

と、以上のように、捉えるべきかと私は考えている。
 よって、以上のように、地方公共団体の一による、
栃木県小山市天神町の小野塚イツ子記念館に、十年
程度前まであった、屋敷神とみられる稲荷の撤去は、

遺憾な、歴史資料の破壊活動だった疑いも、未だ残っ
ている

という結論を、本ブログでは独自に、下しているとい
う事になるのである。(2019/04/24)
 
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