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京都市上久世城之内遺跡出土”酔象”駒を記載する文献

前に、表題の南北朝時代の駒で、京都市上久世にて出土した成り
不明酔象駒の情報が、少なくとも「天童の将棋駒と全国遺跡出土駒」
記載の写真では、字が全く判らないとの旨の紹介をした。
 さいきん考古学の或る成書を読んでいて、成書で別の本にも、こ
の駒の図が載っているとの情報を得た。次の本である。

歴史手帳編集部発行(西暦1977年)「歴史手帳第5巻4号」
歴史時代の考古学「上久世荘の発掘」(京都)、㈱名著出版

なお、上記京都市の上久世から酔象駒が、一枚だけ弧立して発掘
されたのは、西暦1976年の事である。
 とりあえず、歴史手帳とは何者であるのかを、急ぎ調査した。

どこかの出版社の新刊出版書籍の案内のような、小型の薄い小冊子

であった。かなり古いため、別の近い番号の巻号も劣化しており、
この書籍の方から、本当に”酔象”の文字が読み取れるのかどうか

今の所良く判らない。

 ㈱名著出版という出版社は、私には余りなじみが無かったが、か
つて東京都文京区に1970年代には、少なくとも存在した、歴史
学関連の出版社のようである。webを調べた感じでは、今は無さ
そうだ。
 なお、著作権は著者が亡くなってから50年だから、まだ切れて
居無い。出版社が存在しないと、この冊子が仮に、古本屋等で見つ
かったとしても、このようなケースは、今は無い”歴史手帳編集部”
なるもののみが、著作権情報を握っている事が、まま有って、著作
権者に転載許可を取る連絡等が、不能なケースが、多々有ると考え
られる。そのため日本の法では、このような、昭和時代の宣伝用の
チラシのような”図書らしくない図書”のケースは、写真のweb
掲載や、web上での議論が困難と見られるのが、なんとも不便な
点である。
 なお、文献のユーザーとして、我々と実質的に同じ立場の、国立
国会図書館でも、以上の事情とほとんど同じ、デジタル時代の著作
権法の”迷惑”を被っているとみられる。
 と言うのもこの文献は、国会図書館のデジタル閲覧図書に、含ま
れているのである。すなわち、”著作権の確認が不能なため、国立
国会図書館サイトからのweb上での、この図書閲覧は、問題の酔
象論文の閲覧を含めて現在不能”との旨、今回紹介した、歴史手帳
のweb閲覧に関して、国会図書館サイトで表示される状態になっ
ている。この図書がweb閲覧図書として、国会図書館サイド運良
く見つかったときには、一瞬私も喜んだのだが。無念ながら、この
図書のweb閲覧希望時、デットサインが出たのである。以上ここ
でも念のため報告しておく。だからどうやら国会図書館には、この
文献の、もともとの紙媒体”図書”自体は、実在はするようである。
 東京の営団地下鉄永田町駅近くだったと思うが、国立国会図書館
へ見に行って、酔象の字の見えない駒の写真が”歴史手帳”に載っ
ているだけだったら、わざわざ紙の図書を閲覧しに来た遠方の将棋
史研究者は、さぞやがっかりする事だろうと、私には懸念される。
(2018/09/10)

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”庭訓往来”と”異制庭訓往来”とはどう違うのか(長さん)

南北朝時代の異制庭訓往来は、現在の有力な説では”泰将棋の存
在が示唆された文献”として著名である。ただし今回は、

将棋史の話ではなくて、異制庭訓往来という史料の解説

をする。異制庭訓往来には、類似名称の古文書として”庭訓往来”

という書物がある。
 個人的にだが私には、正直に言うと両者の違いが、これまで、
正確には判っていなかった。
 別史料という事は判るのだが、”庭訓往来には、書写や、改題
版が多数ある”とのweb情報もあり、両者が関連するものであ
るかのような心象が、個人的に有ったのである。そこで、今回は
両者の違いについて、web上でしっかり調べてみた。判ってい
る人には、答えが明らかだろうから、この論題については特に、
結論から書く筋合いでもないかもしれないが、習慣で、いつもの
ようにそうする事にしよう。

異制庭訓往来だけ、玄恵が西暦1386年頃に著作した庭訓往来
とは全く別の、類似形式の文書である。他方、庭訓往来○○、
○○庭訓往来という名の古文書は、異制庭訓往来を除いて、他は
すべて庭訓往来が元の文書

である。
 では、以上について以下、いつものように、補足説明をする。
情報は、

”往来物解題”

とweb検索すると、トップでヒットするサイトに、
少なくとも西暦2018年8月末までは、詳しく記載されていた。
 以下は、その内容の受け売りである。
異制庭訓往来は、西暦1358年から始まって、少し時間を使っ
て、虎関師錬が著したものとされている。記述形式は、私が解説
を読んでも、以下の庭訓往来と、区別がつかない。しかし、
庭訓往来とは、基本的に関連しない別の古文書である。こちらの
方に、将棋の項目があり、360枚ないし、360升目の将棋を
示唆する記載や、獣駒の存在、”将棋を知らない、王(天皇・皇
帝)運命はどうなるものかは判らない。”という旨の記載が有る。
 それに対して、庭訓往来には、その解題本が古文書として多数
あり、本家の庭訓往来は、虎関師錬の弟との説もある、玄恵が、
西暦1386年に、著した別物とされる。そしてこちらには、
○○庭訓往来、庭訓往来○○という史料が多種類有り、変形して
本家とかなりズレたものもあるものの、元々は庭訓往来の内容を
解説しながら、コピーした類のものである。しかも、

○○庭訓往来および、庭訓往来○○という表題の史料の中で、
庭訓往来が元でないのは、上記のwebサイトを、私がチェック
した限りにおいては、異制庭訓往来という書ただ一種

だけである。異制庭訓往来と庭訓往来は、書の項目の組み立て方
がほぼ同じであるが、”将棋”について説明してあるのは、国会
図書館の”庭訓往来”の公開文書を、私がチェックした限り、
異制庭訓往来だけであって、

庭訓往来とその系列に、”将棋”の項目は無い

と見られる。
 なお、庭訓往来の著者の玄恵は、”太平記”の出だしの方の
著者ではないかと、されていると聞く。
 また、冒頭の方で述べたように、虎関師錬と玄恵は、兄弟との
説があると言う。両者はともに、中国の古典史料に共に詳しいと
みられ、人格に類似性の有る人物同士のようである。そのため、
両者とも

日本の天皇を、中国の適当な王朝の太祖、即ち徳川家康のような
イメージに、なぞらえる傾向があるのかもしれないと、私は個人
的に想像

している。日本は王朝が交代するイメージではなかったが、中国
は古代より、王朝交代が繰り返された。そのため、太祖となった
武将として中国国内を平定した各王朝の初代皇帝が、日本で言う、
神武天皇以外にも複数人イメージでき、任意の王朝の初代皇帝を、
将棋の大将としての王や後醍醐天皇にも、中国史観という色眼鏡
で見て、当てはめる事が可能になったとみられる。
 太平記が”平清盛になぞらえられる、後醍醐天皇”という、
万世一系の天皇制をイメージしやすい、我々から見ると違和感が
ある調子で描かれているとされるのは、虎関師錬・玄恵兄弟の、
古代中国寄りの知識で、日本の南北朝時代の歴史を見る傾向に、
起因しているのではないかと、素人考えだが、私にも理解できる
ような気がした。”将棋駒の動かし方ルールを知らない王の未来
は、保障できない”と意訳できる、異性庭訓往来の将棋の説明の、
末尾部分の特徴的な記載も、初代皇帝は、中国では、日本人の感
覚では一人しか居無いはずの神武天皇よりも、徳川家康のような、
国を統一した武将に近いイメージで、中国史観的に、南北朝時代
の後醍醐天皇を、見ているためなのであろう。
 以上のように、庭訓往来(西暦1386年成立)の玄恵と、
異制庭訓往来(西暦1358年)の虎関師錬とが、兄弟と言われ
るほど関連し、思想まで関連していたために、異制庭訓往来は、
庭訓往来なのかと、間違えてしまう要因が有ったのかもしれない。
しかし、実際には以上の説明のように、

庭訓往来に書いてない全く別の内容が、著者が別だし、その方が
古いために、異制庭訓往来には、別の文書内容として記載される

と、認識しなければならない事が、webの上記サイトの存在の
おかげで、私にもようやく判った。異制庭訓往来は庭訓往来とは
異なり、”極端に普及した書物”では無く、たとえば豊臣秀次が、
その内容を知っていたとみられるのは、彼が勉強家だったからだ
ろう。
 なお最後に私がこのように、無知だった言い訳を簡単に書こう。
 異制庭訓往来の内容について、いろいろな項目を記載したサイ
トが、web上で、簡便な検索で、どんどんヒットする割りに、
異制庭訓往来とは何者かという、言葉を定義したサイトが、今回
紹介したサイト以外には、なぜか余り、web上に見当たらない。
 つまり、

異制庭訓往来には、かくかくしかじかの事が、書いてあるという、
紹介サイトは複数見受けられるのだが、異制庭訓往来とは何者で
あるのかに関して、往来物であるという以上の正体を、補足説明
するサイトが、今回紹介したサイト以外には、余り見当たらない

ので、庭訓往来系列と、間違えやすかったという事である。
 こうしたwebの簡易検索ヒットサイトの現状を見るにつけ、
異制庭訓往来を、これまで誤解していたのは私だけだったと、
祈らずには居られないように、私には思われる。(2018/09/09)

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なぜ日本は、米も将棋も雲南原産なのか(長さん)

本ブログの将棋伝来の謎に関する回答は、中国雲南省から北宋時代
に、宋の交易商人による、基本が日本の朝廷への伝来という事になっ
ている。ただし、流行のきっかけは、将棋ゲーム情報が、将棋具を
博多で陸揚げする際に、輸入品検査が原因で情報として、博多の輸
入経典写経所で経帙牌を扱っていた僧侶と、大宰府詰めの藤原隆家
配下の武者に漏れて、五角形駒の将棋が発生・普及したからである。
 ところで、雲南と言えば、日本人の主食の米が同様に主食である
事でも著名であり、明治や大正の頃には、日本人の祖先との関連な
どが、議論された地として知られている。今回の論題は、本ブログ
に関してだけだが、

どうして米と将棋の原産地が、ほぼいっしょになってしまったのか

を論題とする。いつものように回答から書いて、後で今回は、ごく
総論的に、荒く説明を加える事にする。では、先ず回答を書く。

実質的に文化人類学の心得のある人物の手によって、平安時代とい
う、考古的には比較的新しい、歴史時代に将棋が伝来したため

と、本ブログでは考える。ようするに、

あるがままの、人文科学的法則によって、伝来元であるべき雲南か
ら、将棋が来たのではなくて、文化人類学者が、日本の文化は、雲
南から伝来すべきであるという、実質的に学術的な論理に基づいて、
人為的・作為的に将棋を、雲南から日本に持ってきた

というのに、こと将棋伝来のケースは近いという意味である。
 では、以下に上記の結論に至る論理を、荒く説明する。
 ポイントは、個人的に私は、周文裔という人物を疑っているが、

この日宋交易船団の長とみられる人物は、当時としては、今の文化
人類学者に近い教養を身につけており、それゆえに、船団の長だっ
たし、藤原道長とも交渉等、交流関係が持てた

と考える。
 周文裔に限らず、日宋貿易の時代(10~11世紀)ころの、
中国の交易船団の長クラスは、それなりに世界の民族風習・文化に
関する、文化人類学者的知識を、身に着けた者達だったと私は思う。
でなければ、立場上、業務は勤まらないだろう。
 従って周文裔のような人間は、

漢民族と東南アジア人の中間に、人類学上の位置を占める、中国
南部の人種と、日本人の間に、”中間混合種族”であるがゆえに、
容姿に関して近似関係がある点は、常識として当然知っていた

と少なくとも私は見る。しかも、
当時雲南の大理国は、仏教国である事、宮廷の生活物品が金や銀で
装飾してある事、雲南であるが故に、国土には田圃が広がっている
事、同じ漢字文化圏であり、補助的に自国独自の文字を混ぜて使用
している事、その時代は対外紛争が余り無く、対外的には比較的国
が安定している事等、政治・文化面で、ほとんど同じである事にも、
当然気がついていただろうと、私は見る。
 特に、平安時代の王朝文化最盛期には、宮廷の生活物品が金や銀
で著しく装飾している事が、日本と雲南の古代国家とでは、特に似
ており、かつ

藤原道長が(一例)周文裔に、将棋具の購入を結果として依頼した
のが、天皇の居所の火災による、金銀財宝の消失や、皇太子の遊戯
具の補充

が動機であったとみられるために、

大理国と日本の朝廷とを、同一物品で結びつける、自明の動機付け
までがあった

と見るのである。
 むろん、雲南の中国人と、日本人とが同じ、漢人と東南アジアの
ハイブリッドだという事は、常識で知っていても、それだけでは、
(一例)周文裔には、同一視できるという根拠として、まだ弱かっ
たのかもしれない。
 ところが彼には、雲南の中国人と、日本人とが同じとみなせる、
更なる動機があったと、私には思われるのである。それは、

彼が日本人と結婚して、間に息子もいる

という事である。この話は、web上で私は”森公章著。東洋大学
文学部紀要、西暦2014年、「朱仁聰と周文裔・周良史:来日宋
商人の様態と藤原道長の対外政策」というpdf論文”で、知った
話である。中国と博多の港を、しばしば行ったり来たりしていても、
(一例)周文裔が、日本人に接する機会が、交易の際だけなら、

顔形の、漢人よりも東南アジア寄りは、極端に強い印象を抱かせる
とまでは行かなかった

だろう。しかし(一例)周文裔は、彼自身の妻が日本人であった為、

日本人の顔形に関し、雲南地方の人間と同じく、漢人と東南アジア
のコンタミで、雲南の大理国と、日本の朝廷には似たところが多い
という点を、日ごろから強く感じていた

に違いない。そのため彼にとっては、

雲南から将棋具を持ってくるというのは、同じ国の中で、ある場所
から、他の場所へ富豪の指示で、嗜好品を運ぶのとおなじイメージ

と感じられたに違いない。また、稲作等の共通性も、当時の大理国
と、平安時代の日本には既に共通性が有ったので、

類似の風土のために、植物が伝来して別の場所に定着したように、
将棋文化を人為的に尤もらしく自分が今、伝来させようとしている

という意識にも、当然なれたものと考えられるのである。
 以上の事から、恐らく藤原道長に端を発した、金銀の補充要求に
基づいて、金・銀で飾った将棋具が送られるというイベントが考え
られる場合に、雲南以外の、例えば東南アジアにも、そうした贅沢
品の輸入を選択する余地は有ったのかもしれない。しかも、東南ア
ジアの場合、中国奥地の雲南と違って、陸路で運搬しなくても良い
という利点に関しては、むしろ雲南よりも、条件が良かったのだろ
う。しかし、もしそうだとしても、

(一例)周文裔には、東南アジアではなくて、その北隣に位置する
中国南部の大理国産の将棋道具を、選択的に伝来させる、明解な
動機付けが、以上のように幾つも有ったのではないか

と、私には推定されると言う事である。(2018/09/08)

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宝応将棋は、取り捨てなのか、持ち駒ルールなのか(長さん)

松岡信行氏は、2014年著「解明:将棋伝来の『謎』」に於い
て、”二中歴の将棋の記載のうち、終局条件を書いた、「相手を
裸玉にした側の勝ち」と、通常解釈される記載から、平安小将棋
の、持駒ルール有りが示唆される”との旨の仮説を発表している。
なお、2013年発行の「将棋の歴史」等で、遊戯史研究家の
増川宏一氏は、”持ち駒ルールが、西暦1500年頃の、厩図の
時代には、成立していたとの証拠が有る”と、松岡氏よりも著し
く遅いとする意見を、示唆している。
 以上のように、持ち駒ルールの成立年の説には、現状も大きな
バラツキがあり、近年、早期派が更に非常に早い成立を、示唆・
議論するようになって来ている。そこで今回は、表題のように
いっその事、唐の時代の怪奇小説である、玄怪録岑順の記載の元
になったと、仮説的に推定されている、

宝応将棋が、取り捨てであるのか、持ち駒ルール有りであるか、
どちらなのか

を論題として取り上げる事にしようと思う。
 最初に結論を書こう。
 怪奇小説から、元ネタの将棋の持ち駒ルールの有無を、

正確に特定するのは無理

であると私は見る。しかしながら、著作者の(伝)牛僧儒は、
玄怪録岑順の物語中では少なくとも、

”取り捨てルールで、通常玉駒の討ち取りで終わるところだが、
しかし、相手玉を裸玉にしても勝ち”という終局条件の将棋を
示唆するストーリーで、物語を描いている

と、私は認識する。
 では、以上の結論について以下に、説明を加える。
 実戦での描写が、より尤もらしく見えるように、元ネタのゲー
ムのルールが、改竄される可能性が、まま有るであろう事は、
小説の描写としては、当然予想されると私は考える。従って、

小説内の描写は(伝)牛僧儒が元ネタの、(仮説)宝応将棋を、
怪奇小説の展開上、都合の良いように変形した、玄怪録岑順物語
中の将棋でしかない

と見るべきだと見られる。ともあれ、将棋の中盤以降に対応する、
金象軍と天那軍の斬り合い場面の小説内での描写を、実際に調べ
てみた。それによると、東洋文庫版と、日本将棋連盟発行、
木村義徳氏「持駒使用の謎」で、それぞれ、”物語として”
以下のように口語訳されていると、私には理解される。

まず、東洋文庫版では以下の通りの表現である。
”しかし、まもなく天那軍は大敗して崩れたち、戦死者と負傷者
が床一面に倒れる。王はただ一騎で南に走り、(もともと5万人
居たと本ブログでは見る、天那軍の兵隊のうちの、残存兵である)
数百人は西南のすみに逃げ込んで、どうやら敵の手をのがれた。
 西南のすみには前から、薬を撞く臼がおいてあったのだが、王
がその中へ逃げ入ると、見るまに城壁と変わった。”

次に、日本将棋連盟発行、木村義徳氏「持駒使用の謎」では、
以下の通りの表現である。
 ”まもなく天那軍は大敗して壊滅し、死者や傷ついたものが地
にまみれた。(天那軍の)王は一騎だけ南に逃げ、(もともと
5万人居たと本ブログでは見る、天那軍の兵隊のうちの、残存兵
である)数百人は西南の隅に逃げ、辛くも逃れた。(以下は、
「持駒使用の謎」では省略されている。)

”室内床”が”地面”に変わっているので、東洋文庫版は将棋局
面の描写に近く、持駒使用の謎は、映画の描写で言えば”実戦争
場面へ、幻想的に切り替わっ”て描写されていると見られる。が、
注意すれば、この程度の差では、議論に影響は無いだろう。強い
て言えば、玄怪録岑順物語中の(伝)牛僧儒イメージ将棋と、
元ネタ宝応将棋とを、きちんと区別できるのは、木村義徳氏紹介
の、玄怪録の方なので、将棋連盟の図書の方が、少し良いかもし
れない。
 何れにしても、描写から次の事が判る。つまり、小説中では、
1)ヤラレた兵は、持ち駒として兵が再利用されず、ヤラレた、
だけである。
2)5万人居た味方が、負けた方は1/100程度に戦力が縮小
するという、取り捨てルールと良く合う消耗戦が行われ、天那軍
が、”ジリ貧負け”したと表現されている。
3)王が一騎つまり、裸王となった所で、そうなった方が投了す
るというゲームと、この物語の文学表現には親和性がある。
4)天那軍の王は、この戦闘では、ジリ貧負けで降伏し、天那王
は一目散に、金象国軍の追っ手を逃れて退散した。ので戦力を立
て直せば、次回の対局がまた行なえる状況となった。逆に言うと、
王が討ち取られて負けというケースがある、国の滅亡が結果とし
て起こる戦闘が、別のケースに存在すると、(伝)牛僧儒も想定
していると推定できる。ので、第2局以降が存在するようにする
ためには、話の流れを第1局目が、天那国は滅亡しない”裸王に
なっての負け”にするように、作者が工夫した結果が、この小説
で表現されていると、明らかに見る事が出来る。
以上1)から4)より、ルールは取り捨てルールで、”玉詰みで
勝ちかまたは、裸王で勝ち”の将棋とすれば、この物語の話の上
での展開とは、親和性の良いものである事は明らかだと私は思う。
つまり、玄怪録岑順物語では、

取り捨てルールの将棋でありかつ、”玉詰みで勝ちかまたは、
裸王で勝ち”のルールの将棋で、戦闘がシミュレーションできる
ような、戦争を物語として記載している

と言う事である。ようするに、玄怪録岑順物語「小人の戦争」は、

寝返りが、その社会でたまたま、余り無かったとすれば、普通の
戦争としては、ごく尤もらしい物語展開と言える

のではないかと、少なくとも私は思う。
 裸玉の結果となったのは、合戦を更に続けるように物語の上で
するためのものだが、松岡信行氏の言うように、この物語から、
将棋ゲームを作成するデザイナーが、日本の宮中等にもし居ると
すれば、

ジリ貧負け表現とほぼ同じ、相手裸王勝ちルールを、玉詰みと、
同時にor条件で取り入れるだろう

という予想が出来る事も確かであろう。つまり、将棋や象棋を、

取り捨てルールならば相手王を討ち取るか、相手裸玉で勝ちの、
論理記号orで結ばれた終局条件ルールにするのは古来より自明

というだけの事ではないかと、私は大いに疑う。
 私に言わせると松岡氏は、前記の玄怪録岑順の描写では、明ら
かに天那国の王は、普通に必死に逃げようとしているように、描
かれているのに、”王は相手の駒では、条件によっては取れない”
という、妙な補足ルールを勝手に作り出して、”二中歴の将棋で、
相手裸玉勝ちしか終局条件は無い”と、決め付けた上、持ち駒ルー
ルの存在の、根拠にしようとしているのだと思う。なお”逃げる
途中で、天那国王は、自国の敗残兵と、常に行動を共にした。”
といった、ユニークな記述も特に無い。従ってこのゲームには
持駒ルールは存在せず、取り捨てルールで、玉の討ち取り勝ちも
存在するとして、相手裸玉でも勝ちというゲームになっている事
は明らかである。ようするに松岡説では、”平安将棋の親”であ
るはずの、玄怪録岑順の小説それ自身に、取り捨てルールも、玉
詰みルールも事実上、書いてあるのではないのか。しかも、この
ルールが、典型的な実戦闘のイメージと、さほどの違和感が無い
事をも、確かに玄怪録岑順の怪奇小説自体で、はっきりと示して
いる訳だから、少なくとも松岡説を取るなら、

平安小将棋は、取り捨て将棋であると解釈するのが、最も楽な事
だけは確か

という事なのではないかと私は、少なくとも個人的には疑うので
ある。
 よって、松岡氏が「解明将棋伝来の謎」で述べている、西暦
1200年頃に、平安小将棋が持ち駒ルールであるという仮説は、
”玄怪録岑順物語が、そのゲームを成立された源”という彼の論
との間に、自己整合性が無いため、今の所私には、

信用できない。

 つまり以上の事から、日本の小将棋が持ち駒ルールになったの
は、文献として普通唱導集の”小将棋”で、”駒損が僅かなのに、
相手が、銀を桂馬に替えられて、私に言わせれば、不思議なくら
いに、困った顔をした”との意味の、唱導が記載された、

西暦1300年頃から徐々に、取り捨てルールから持ち駒ルール
へ移行したという説を、他の証拠の材料が乏しいために、今の所
取らざるを得ないのではないか

と、私にはやはり思えるのである。(2018/09/07)

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日本の将棋の立体駒。中国シャンチー型交点置きで配置される可能性(長さん)

さいきん大阪電気通信大学の、高見友幸研究室の摩訶大将棋の
ブログでは”摩訶大将棋等、日本の駒数多数将棋が、囲碁型の
盤に、交点置きして、配列される可能性があるのではないか”
と論じられている。
 本ブログでは、書き駒のケースについては、五角形駒を前提
として論じる立場なため、交点置きのルールとは整合しない。
上記摩訶大将棋のブログでも、交点置きのケースは”彫り駒”
すなわち彫ったか、成形したかで、立体的に駒を作ったケース
のみを、考えているように今の所、私には見える。
 そこで今回は、後者のように、摩訶大将棋用の立体駒が
有ったして、それが、ドンピシャ囲碁盤型の交点置き駒として、
うまく使える可能性が、あるのかどうかを論題とする。
 結論から先に書く。

本ブログのように、将駒の色を、駒種の識別のためとしている
という議論を前提とした場合には、高見研究室の”駒交点置き
仮説”は、我々の考えと、すこぶる相性の悪い仮説である

と、本ブログでは考える。
 では、以上の結論につき、以下に、

何が言いたいのかについて、説明する。

 すなわち、以下の説明は、高見研究室の論の正否ではなくて、
本ブログの論と合わないというのは、どういう意味なのかにつ
いて、説明しているという事である。本ブログが、今までして
きた、前提条件を変えれば、高見研究室の日本の将棋の駒の交
点置き仮説の正否は、正にもなり得ると見られる。あらゆる場
合の議論は、非常に煩雑で、以下では説明しきれないので、そ
のような内容は、今の所書けないと言う事である。
 では以下に、そのような限定的な内容の説明を書く。
 本ブログの今までの論の流れでは、伝来時の立体駒では、
玉将、金将、銀将の駒種について、駒色が、ネフライト色、金
色、銀色という色で区別をするという仮説になっている。
だから、将駒について

色を敵味方の区別のためには使わないという前提が基本に有る。

だから、汎用西洋チェス駒のように、駒の前後の向きに加えて、
色を白と黒に色分けして、二重に、敵味方に関する駒の属性を、
表現する事はできないとみる。駒の形を工夫して、駒の顔と体
等が、どちらに向いているかで、敵味方を区別するだけである。
 なお、このやり方は、字書きの五角形駒と、原理的に同じな
ので、以下の議論は、五角形字駒にも実は、そっくり同じに適
用される。
 何れにしてもそのため、駒を上から見下ろしたときに、少な
くとも、例えば立体駒の日本将棋の将駒は、

前後非対称の図形になるというのが、本ブログでは前提

である。そのため本ブログの認識する日本将棋の立体駒の場合、

将棋盤の線に関して交点置きをしようとすると、駒の重心と、
位置を示す盤面交点とを結んだ直線が、碁盤状の将棋盤の盤の
平面に対して、行儀良く、ぴたりと垂直になるように置くよう
にするには、熟練と秒数がかかる

と予想される。もし、上から見下ろした将棋駒の形が、円や
偶数正多角形となる囲碁の碁石、シャンチー、チャンギの駒等
なら、駒の重心は図形から、容易にプレーヤーに判断できるの
で、行儀よく、駒を配列する事が簡単に出来る。が、図形が
前後非対称になると、五角形駒程度の、比較的簡単な図形の駒
であっても、駒の少し下部の、どのへんに将棋駒の重心点があ
り、盤の交点の真上に合わせる重心点は、どこなのかを把握す
るという事につき、

容易には判断できないのではないか

と思われると言う事である。ましてや、立体駒のように造形が
複雑になると、見積もりは更にめんどうだろう。

だからそのような立体駒を、交点置きにするのは不便であるか
ら、やらないのではないか

と、本ブログでは考えるという訳である。
 そこで、以上の一般論を前提として、問題の摩訶大将棋の、
駒の交点置きについて考えてみる。まず、通常のように五角形
駒を仮定した場合には、上で述べたように、重心決定困難の難
点が五角形駒でも出る。だから、五角形駒の交点置きは、少な
くとも無いだろう。そこで造形で駒種を表す、彫り駒・立体駒
のケースを、仮定的に想定してみる。
 ところで本ブログの見解では、摩訶大将棋の立体駒がある
とすれば、その玉将、金将、銀将、銅将、鉄将、瓦将、石将、
土将は、それぞれ敵味方同じ色のネフライトの白、金色、銀色、
銅色、鉄黒、陶器色、灰色、土の色で、やはり駒種を区別する
のに使用されざるを得ず、敵味方互いに同色となるとみる。
そこで、

本ブログのこれまでの議論に従うと、駒は前後が、絶対に形で
区別できなくてはならず、駒の重心の判別が難しいという、
以上の難点は、個別、摩訶大将棋でも、我々の仮説の立体駒で
は、日本将棋と同様に克服されない

とみる。
 よって、高見研究室の最近の仮説である、”摩訶大将棋の立
体駒、ないしは、五角形の書き駒は、囲碁盤のような将棋盤で、
交点置きだったかもしれない”という論は、

本ブログのこれまでの論の流れとは、すこぶる相性が良くない

と言う事になるのである。ちなみに、大大将棋の木将も茶色で
有る点を考慮すれば事情は同じ。その他の駒数多数将棋は概ね、
摩訶大大将棋の将駒の、一部のみを含むゲームなので、その他
の将棋についても、事情は同じである。
 以上で、今回の論題には答えたと判断するが、蛇足として、
この事は、前に話題にした、中国の怪奇小説、玄怪録岑順物語
に出てくる、

金銅製の立体駒の将棋

にも成り立つ点を指摘しておきたい。なぜなら、敵味方で本来
色分けは可能であったはずなのだが、かの怪奇小説ではなぜか、

物語中に現われた将棋駒は、敵味方を色で区別せずに、金銅色
のままであり、恐らく兵士の形に成形してあるのだろうが、
顔と体をどっちに向けているのかで、敵味方を区別していると
みられる

からである。つまり、(伝)牛僧儒と、玄怪録の読者の中国人
は、升置き型の象棋が、唐代にはイメージできたのである。
 次に、その小説の将棋の元ネタと、本ブログでは推定する、
宝応将棋の駒についても、

本ブログの見解によれば、王の駒と軍師の駒の交点置きは少な
くとも都合が悪い

とみる。なぜなら、本ブログによれば、王は金将という名称
(動きは玉将)であって、敵味方金色同色。軍師は銀将とい
う名称(動きは金将)であって、敵味方銀色同色である。従っ
て、この2枚は、敵味方を、置かれた向きだけで区別するはず
で、前後非対称な形に、上から覗いたときの形がなっていると
見るから、同じ難点が有るのである。
 以下、宝応将棋から、現代の日本将棋まで、日本の将棋の駒
は、立体駒の時代は、将駒について全部事情は同じ。五角形駒
になっても、前後非対称である点は同じであるから、

日本の将棋について、交点置きに適した将棋駒が現われるとい
うケースは、敢えて碁石のような駒に字を書いた、荻生徂徠の
広将棋と七国将棋以外に日本では、今まで現われた事が、余り
無いのではないか

と本ブログでは疑う。よって以上のように本ブログのこれまで
の見解を前提にすると、日本の将棋が、歴史の最初から今まで
一貫して、交点置きには、かなりなりにくい事だけは、恐らく
確かであろうと、結論するのである。(2018/09/06)

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玄怪録岑順。物語中の将棋の着手が1天馬2歩卒3輜車なのは何故(長さん)

前に引き続いて、今回も(伝)牛僧儒の玄怪録岑順の話題である。
物語中で進行する将棋では、各訳書が紹介するように、
1手目が先手の天馬の移動、2手目が後手の天馬の移動、
3手目が先手の歩卒の移動、4手目が後手の歩卒の移動、
5手目が先手の輜車の移動、6手目が後手の輜車の移動と実質的
に表現できる着手で、将棋が進行したと読み取れる。
 ところが、本ブログの宝応将棋の初期配列は、歩卒が3段目配
列なため、

1手目2手目に天馬動かす手は、移動先の歩卒が障害となり、
原理的に有り得ない手

である。そこでさっそくだが今回は、この困難を、どう説明する
のかを論題とする。
 まず、最初にいつものように回答を書き、次いで説明を書く。
まず回答は次のようになる。
 物語中で表現された一局の着手は、宝応将棋のルールで指して
居無い。

実は、インドの古典チャトランガのルールで駒を動かし、古代イ
ンド将棋流の指し方で、局面を進行させている

と、本ブログでは物語の”攻め鼓が鳴ると・・”部分を解釈する。
 では、以下に以上の結論について、説明を加える。
 この文を私が書いたのよりかなり前の事であるが、将棋史研究
家の(故)溝口和彦氏が、”玄怪録岑順物語の将棋は、中国にそ
の時代に存在した、幾つかの象棋を混ぜて記載したものと見られ
る”と、表明されている。私は、混ぜている事は正しいと見るが、
混ぜたものは、

中国国内の将棋・象棋ではなくて、世界中の将棋

だと思う。つまり、

牛僧儒は唐王朝内で、外交を担当していた高官であるため、武術・
軍事に関する、各国の機密情報を、個人的にも役目として組織的
にも、政権内で集積し、取り扱っていた可能性がかなり高い

と、私は見ていると言う事である。
 つまり、イスラムシャトランジや宝応将棋(南詔将棋)位は、当
時の中国人は大衆でも、存在を知っていたと見られるが、牛僧儒の
場合はそれに加えて、東南アジアのカンボジアのクメール・アンコー
ル王国の象棋とか、インドの9世紀のチャトランガの知識等、ほぼ
当時の世界中の、武芸と絡んだ将棋・象棋類のルールや、指し方に
関する知識があっても、特におかしくないのではないかと、私は見
るのである。
 実は、その当時唐の都の長安で、イスラム・アッパース朝の移民
が指していて、中国人には、最も馴染みが深かったとみられる、
イスラムシャトランジでは、

5手目と6手目で車駒は移動させない。車駒の前の歩卒を1歩上げ
てから、飛車動きの車を上げる手が意味不明

だからである。なお、少なくとも私はこの将棋は取り捨てだとみる
ので、左穴熊の類の戦法を取る可能性は、少ないと思う。何れにし
てもだから、玄怪録岑順物語中の、将棋の序盤のシーンは、

宝応将棋でも、イスラムシャトランジでもなく、9世紀のインド
チャトランガの指し方

のように私には見える。
 なお、9世紀のインドチャトランガは、1段目と2段目が以下の
初期配列の8×8升目のゲームだったと見られる。

2段目:卒卒卒卒卒卒卒卒
1段目:車馬象王将象馬車

問題は、駒の動かし方のルールであるが、
11世紀にインドを旅行して、インド人からチャトランガのルール
を聞き取ったとされる、

アル=ビルニの言「イスラムシャトランジとインドチャトランガで
は、象と車のルールがあべこべだ」が正しい

のではないかと、私は思う。
 つまり、9世紀のインドチャトランガの駒の動かし方ルールは、
少なくとも唐の牛僧儒には、以下のように認識されたルールだった
のではないか。
王:日本将棋の玉将の動き。
将:日本将棋の金将か、あるいは酔象の動きの類。
象:日本将棋の飛車の動き。
馬:前升目の斜め前動きという、日本将棋の桂馬の動きか、当時
既に、八方桂馬。
車:跳ぶだけの飛龍の動き。すなわち斜め2升目先に跳ぶ。
卒:チェスのポーンの動き。すなわち前に一歩。駒を取るときだけ
斜めに1歩進む。

ここで、9世紀のインドチャトランガをする要領で、ゲームを進め
る場合には、卒が2段目なので、いきなり馬、つまり物語中の天馬
は動かせるし、イスラムシャトランジの象動きの小駒の車は、3番
目に動かすのも、余りおかしくないはずだ。卒を動かす手が一手
間に入るのは、相手の卒が、高飛びした馬や象動きの車を、両取り
で餌食にしないように、予め右馬前の卒を、進めてブロックしてお
くという事だろう。すなわち、実際の着手は、

▲1六天馬△8三天馬▲2六歩卒△7三歩卒▲3六輜車△6三輜車

と、その直ぐ前の物語中の、駒の動かし方のルールは、全く無視し
て、インドチャトランガ流に、動かしたのではないかと私は疑う。
 なお、インドチャトランガでは、当時は特に象は飛車動きで強かっ
たので、”強い象は、最初からは動かさない”という、インドでは
今でも格言にされていると、私が聞いている指し方が、玄怪録岑順
物語中でも、適用されたと見る事ができる。なお、ここで”象”は、
玄怪録岑順では、”上将”と表現されている。
 ようするに、

宝応将棋は、どちらかと言えば、イスラムシャトランジ系の象棋で
はなくて、インドチャトランガ系の将棋に近いと、世界の将棋研究
家の牛僧儒には、9世紀に認識されており、物語中の将棋の局面の
進行は、インドチャトランガで代用したのではないか

と、私は考えるという事である。
 ちなみに、上記のインドチャトランガ、(仮説)宝応将棋、玄怪
録岑順で、駒の名称はそれぞれ違うが、インドチャトランガと宝応
将棋は、実質的に以下の4点だけが、違うゲームであると、本ブロ
グでは見る。なお以下の説明内の駒の名称は、上記のインドチャト
ランガ流で表現する。また下記文では、宝応将棋を説明している。
1.車が後期大将棋の飛龍の動きではなくて、日本将棋の香車。
2.馬が、桂馬の動きであって、八方桂馬の可能性が無い。
3.卒が2段目ではなくて、3段目配列である。
4.卒が相手陣の最奥で、王と桂馬動きの場合の馬を除いて、その
位置に初期配列時存在した、1段目駒に成るのではなくて、卒以外
にも馬と車も成り、かつ成るのは相手陣の3段目であって、最奥で
はなく、成り駒が単純で、全部将に成るのである。
 確かに、以上4点程度なら、チャトランガで代用したいという気
持ちも起こる事であろう。
 何れにしても逆に言うと、この長安の大食人将棋、イスラムシャ
トランジ流の指し方でも無い、玄怪録岑順の、物語中の将棋の指し
方から、著者が、世界中の将棋をかなり把握していたと、推定もさ
れるのではないかと、私は疑うのである。つまり、唐代

中国には将棋・象棋の類は無かったが、西暦650年に発明された、
チャトランガの約200年後の各国分岐に関する情報は、少なくと
も唐王朝政府部内では、当時かなり把握できていたのではないか

と、疑われると言う事である。
 むろん、宝応将棋の指し方を、9世紀のインドチャトランガ流で
代用しても、当時の中国の一般大衆読者には、どう指しても、将棋
に見える事には、変わりが無かったのだろう。だから作者の(伝)
牛僧儒は、以上のような、

手抜き

をしたと考えられる。そして以上の”手抜き”に、気がつく読者も、
少なくとも当時は、居なかったに違いない。そのため、

インドチャトランガの戦法という情報が、玄怪録岑順には暗号のよ
うに隠れている

のに、気がつく人間も、少なくとも唐代には、ほとんど居なかった
し、まあ特に、娯楽でこの物語を読むのに、気がつく必要も無かっ
たのではないかと、私には想像されると言う事である。(2018/09/05)

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宝応将棋は、なぜゲーム用の盤・駒が中国雲南で出土しないのか(長さん)

将棋史研究家で遊戯史学会会長の増川宏一著「将棋の歴史」
(㈱平凡社・2013年)を読むと、玄怪録の岑順物語は、
史料として信憑性の低い文献との記載になっている。そして、
その根拠は、ゲーム・ルールが記載されている、中国唐代、
西暦820年前後の宝応将棋に関して、盤・駒等、遊戯具で、
それを示唆する物品が、未発掘であるという点が、その実在
説にとっての最大の難点と、前記成書から読み取れる。文献
上にはあるのだが、その他には、ゲームとして存在する、別
の証拠が全く無いゲームであるという主旨が、増川氏の指摘
の骨子と、私は取ると言う事である。そうだとすれば、

その論理は今の所充分に、正しい

だろう。
 他方宝応将棋の遊具の絶対量が少なく、確率的に出土しに
くいとしか考えられないとすれば、

その割に、中国の唐代の人間には、広く知られていたように、
玄怪録物語という文献からは、見える理由

を説明しなければならないと、私も思う。そこで、今回の論
題は、宝応将棋の遊戯人口が、極端に少なかったと見られる
にも係わらず、西暦820年頃、中国の恐らく都の長安では
著名だった訳を、論題とする。
 いつものように答えを最初に書いて、ついで説明を後から
する事にする。

純銀の塊を遊びにまで使用できた、雲南の富豪に、唐代の中
国人大衆の注目が広まっていて、ゲーム自体がそれで有名

だったからだと、私はみる。
 では、以下にその説明をする。
 本ブログの、100円ショップの将棋具をも用いた、独自
のゲームルールの解析によると、このゲームの最大の特徴は、
実質的に

銀の塊である、軍師という名で玄怪録岑順物語中に出てくる
銀将(動かし方のルールは、日本将棋の金将とみられる)が、
最初から2枚存在するのに加えて、次の駒が成る事によって、
合計18枚、中盤以降に現われたとみられる

という点である。
 すなわち16枚の歩卒から、討ち取られてしまう8枚を除
いた8枚と、4枚の馬、4枚の香車動きでしか無い”車”の、
合計16枚が、銀将として最大で成れる可能性があるので、
元から存在する2枚の銀将に加えて、合計18枚の銀将ない
し、成りで生じた銀将が、その最大数でゲームの後半に盤上
に陳列されるゲームとなる。なお飛車動きの玄怪録岑順物語
上の上将、実際には宝応将棋では、象だったと見られる駒が
無ければ、銀将はより残り易くなるのだろうが。実際には、
かなり食われてしまうだろう。それでもある程度は残り、
2枚の王(玉駒)を示す金将(現在の玉将の動きで、玉と同
じ意味)という名の金の塊と、数枚の銀将という名の銀の塊
を、後半は、将棋盤上で、雲南南詔国の大富豪が、優雅に、
操作するゲームになるのだろう。
 つまり雲南南詔国の王侯貴族は当時、遊戯に過ぎない将棋
でも、最大18枚の銀塊の駒を使って遊んでいたのである。
なお南詔の王室内は、将棋だけでなく、日常製品は、何から
何まで金・銀だったとの話は現在でも、雲南省大理市の
三塔主塔の出土遺物を根拠に、web上では噂されている。
実際には、南詔国時代なのか大理国時代なのかとの区別が、
つきにくいという難点だけが、考古学的には残っているようだ。
 以上のようにこの状況を、唐代の中国の庶民からみると、

宝応将棋に関しては、遊んでいた人間の数は、確かに少なかっ
たのだろうが、銀塊が遊び道具ですら、あるという、山奥の
鉱山の有る国の王族の話は、当然中国人大衆の茶の間の話題
に、かなり上り易かった

のではないかと、少なくとも私は疑う。唐代の中国人なら、
この雲南省の山奥、鉱山近くの王国の、大金持ちの王族の遊
びの話は誰でも知っていて、どのような遊びをしているのか
は、人づてに、どんどん中国国内に話が広がっていったので
はないかと、予想するのである。
 そのため、宝応将棋を指す人口は、中国雲南省の大富豪の
王侯貴族に限られ、ごく少なく、その遊戯具の総数も、わず
かだったのであろうが。その将棋については道具が豪華であ
るという事が特に有名で、中国国内では、”雲南の王侯貴族
の豪華な将棋”という語り草で広がっていて、ゲーム自体を
知らない者は少なかったと、当然想定できるのではないかと、
私は疑う。従って、宝応将棋の盤・駒が出土しないのは、

そのような純銀の塊が、ゴミとして処分される可能性が少な
い事に加えて、使う人間が少なく、元からの絶対量が、著名
な割りに極端に少ないため

ではないかと、私は以上のように考えるのである。
 だから、現時点で、宝応将棋の遺物が、全く発見できてい
ないのは、不自然な事ではないと、私は考える。
 一旦ごく部分的にでも、その

一部がワンセット発掘されれば、増川氏の指摘は、いっぺん
で覆ってしまうという、性質の批判

ではないのだろうかと、私は懸念するのだが。しかしながら
このケースは、そのような遺物が、現時点で発見されないか
らと言って、以上のような事情から、そのようなゲームが
存在しない、強い証拠とまで言い切るのは、かなり危険
なのではないかと、個人的には、増川氏の論をその点、
かなり疑問視もしているのである。(2018/09/04)

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宝応将棋は駒数多数の将棋なのか(長さん)

大阪電気通信大学の高見友幸研究室の摩訶大将棋のブログで、
宝応将棋の話題を取り上げた事がある。”駒数多数将棋の類で
はないか”と、高見友幸氏は考えているとの事である。根拠は、
物語中に、駒の数が多数であるとの表現が、現われているとい
う点だけ、今の所公開されていると私は認識している。
 その問題の表現については探すのは簡単で、駒が四門から入
場する記載、つまり将棋のルール記載よりも、少し前の所に
出てくる。東洋文庫版では、

”つらなる旗さしものは何万と数えられ、(兵卒たちは、)
風や雲のごとくすみやかに、両側に分かれて陣を取る。”と
書かれている。

木村義徳氏の「持駒使用の謎」(日本将棋連盟2001)では、

”つらなる旗指物は万を似て数え、(兵士たちは、)
風のように馳せ、雲のように走る。やがて両軍とも陣を敷いた。”
と書かれている。

そこで、これらの表現から今回の論題は、ずばり高見友幸氏の
言うように、宝応将棋は駒数多数の将棋なのかとする。
 回答を最初に書く。

どうとも取れる

と本ブログでは考える。では以下に、以上の回答につき説明
する。
 本ブログで以上のように考えるのは、この史料が、

怪奇小説であって、将棋のルール本では無い

からである。なお、前記に引用した部分に関し、駒の動かし方
ルールを、軍師が述べているというのとは違い”それが将棋の
駒数に関するルールだった”等とは、物語中で特に言及されて
いる訳ではない。将棋駒が、まるでコンピュータに制御されて
いるかのように、自分で勝手に動く上に、

40人だったものが10万人に増え、また40人程度の将棋駒
に戻ったりするから怪奇小説

なのだろうとも、私には疑われる。ようするに、
高見友幸氏の玄怪録に関する解釈は、怪奇小説は小説なので、

高見氏の説は合否に関して、”正しい”または”間違い”と
いう表現に、”絶対”が付けられない彼独自の考え

だと、私は思う。
 ただし、この小説の中で、作者の(伝)牛僧儒がイメージし
ている”将棋(東洋文庫)、象棋(持駒使用の謎)”とは別に、

盤升目10×10駒総数40枚よりも少し小さな小説のモデル
となったゲーム(本ブログでは将棋)が、別に存在する

というのが、かなり尤もらしい点は明らかではないかと、少な
くとも本ブログでは考える。
 なぜなら、

歩卒駒が2列升目分あり、その他六甲のうちの5甲が4枚づつ、
10×10升目盤だとして、駒総数40枚になるという形式の
チェス・象棋・将棋類ゲームは世界中にあり、実はその類の
ゲームはほぼ全部、その形式の物だけが知られているから

である。なお、ゲームに左右非対称駒があり、また玉が通常は
一方一枚なので、実在するチェス・象棋・将棋類ゲームは、盤
升目が8~9程度で少し小さくなり、それに準じて駒総数も
40個ではなくて、36個とか32個になるケースが多いと、
私は認識もする。特に、”各一軍が2門に分かれて入場”して
いるので、王と軍師は一人づつであり、少なくとも本ブログの
見解では、この物語の発生した9世紀から見て、200年ほど
後存在の、4人制化した8×8升目32枚制の、軍師が近王型
の動きルールの、インド型の原始将棋を、私には明確に連想さ
せる。
 何れにしても玄怪録岑順物語に、モデルとしてのゲームが
実在するとすれば、今の所、世界の将棋種としては、今述べた
8~9×8~9升目32~36枚制将棋しか、物語を作る時点
で、実在するものが無かった可能性がかなり高いと、本ブログ
では見る。
 なお、今述べた6甲の内訳については、本ブログで既に述べ
ている。物語中に現われる駒名に準拠すると、

王、軍師、上将、天馬、輜車、歩卒

である。
 次に、そもそも玄怪録岑順物語の物語中に、全体として、
摩訶大将棋に近い関連ゲームが想定されるかどうかと言うと、

否だと私は考える。

まず今回論題にした部分の兵士の数の記載について、”旗が万~
数万”なのだから、兵士は10万人前後なのだろう。
40枚制の小将棋を考えるのでなくて、その数倍の192枚制
の摩訶大将棋を考えたところで、

これでは、焼け石に水だ。

ちなみに蛇足だが。この部分の訳文は、木村義徳氏の「持駒使
用の謎」の方が、判りやすく、東洋文庫版の兵卒は、中国語と
して、確か正しいはずだが、日本人には判りにくい表現だ。
兵卒が日本語では一兵卒と良く言われ、兵士ではなくて、歩兵
と、大して違わない述語に、混乱して使われているからである。
歩兵が10万個で、その他の駒が20個のゲームに、中国語で
はなくて、日本語では見えてしまうのだ。これではゲームとし
ては、非現実的なのは、確かだが。意味を取るとき、諸橋徹次
の大漢和辞典で、兵卒を引き直す手間が居るのは不便だ。また
”両側に分かれて陣を取る”は、両側に分かれるとは、考えに
くいので、東洋文庫の訳文は適切では無い。実際には、分かれ
て出てくるのは、偶数升目の盤に並ぶそれぞれの駒が、将棋盤
の左辺と右辺の駒で、別々の控え室に居るから4門なのであり、
初期配列に並ぶときには”合流する”に、近いはずだ。

その点でも、この部分の訳は、木村義徳氏の著書の方が勝る

と思う。
 さて摩訶大将棋との関連性に話を戻すが、

摩訶大将棋の駒種が50種類なのに、物語で6種類しか記載さ
れていないのも、読者に摩訶大将棋の事だと伝わらない原因

だと、私は思う。

駒の数が192枚であるだけでなく、駒の種類が50種類、
更に欲を言えば、仏教関連の駒種が多くないと、摩訶大将棋の
匂いは感じられない

のではないだろうか。
 特に以上述べた事から、宝応将棋が駒数多数将棋で無いと、
言い切るのは無理だが、

摩訶大将棋とは、関連性が余り感じられない

という表現が、適切では無いとは、どうしても私には思えない。
(伝)牛僧儒が、表現しようとしているゲームが、駒数多数の
将棋だったとしても、種族としては摩訶大将棋からは遠いと、
私は考える。(2018/09/03)

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玄怪録岑順。将棋の駒の着手はなぜ、2手につき太鼓1鼓なのか(長さん)

今回は引き続いて玄怪録岑順物語の”駒の動かし方ルールの説明~
序盤の対局様描写”部を話題にする。駒のルール説明の後、金象将軍
と天那国の王の開始スタートの号令で、一つ太鼓が鳴り、▲口口天馬、
△口口天馬と、着手された事に、物語上なっている。つまり、
初手が▲口口天馬、二手目が△口口天馬のはずだが、描写では同時
着手のようであり、かつ太鼓の音は、1つだけである。少なくとも、
現行の日本将棋では、▲口口天馬、△口口天馬は2手と数えるので、

日本将棋の棋譜表記と、玄怪録岑順とは合って居無い。我々の感覚
だと、総手数が半分程度になる西洋チェスと、手数の数え方が同じ

である。そこで今回は、”この事から何が判るのか”を論題とする。
 結論から、いつものようにまず書く。
イスラムシャトランジのゲームの手数の数え方が、概ねそうなって
いて、(伝)牛僧儒も唐代の中国人も、イスラムシャトランジ流で
手数を数えていた証拠だと私は思う。また、現在の西洋チェス流の
手数表現の方が、日本将棋や少し前の時代の、中国シャンチーのよう
に、片方の手毎に手数を数えて、一局でチェスの約2倍の総手数程度
の表現になる数え方に比べて、

西洋チェスやイスラムシャトランジの数え方の方が、より始原的

と、推定もされる。
 では、以上の結論について以下に説明を加える。
 日本将棋については、一局内の着手数の数え方が上記の通りである
事は、自明であろう。他方、西洋チェスが先後手一組で、1手と数を
数える事も、どのゲーム本にも出ている。中国シャンチーについては、
その点で、日本でのプレーヤーが少なくやや曖昧だ。既に紹介してい
るが、

鶴書房1975年発行、「中国象棋」李木山著には、片方の1つの着
手ごとに、1手と数える旨の記載が有る。

ところが、日本人の将棋史家の自費出版書である、2000年発行、
「中国の諸将棋」岡野伸著では、玄怪録岑順物語流なのである。

どちらが実体に近いのかは実は、私には今の所良くわかって居無い。

両方有った可能性が強いが、西洋チェスの普及とともに、全体的には
日本将棋に近かった片方1着手表記型から、両者1着手づつ2着手で
1手のチェスや、恐らくイスラムシャトランジ流に、

中国シャンチーの手の数え方は、近年先祖返りしている

のかもしれない。
 ただし、唐代中期に中国では、象棋ゲームは両者1着手づつ2着手
で1手と見ていた事だけは確かであろう。しかも、

先手も後手もなく、2着手は同時であるように、物語中には記載され
ている。

当時のイスラムシャトランジでも、同時に双方2着手というゲームで
は無かった事は、そのような芸当が、後手には不可能なので明らかだ。

しかし、同時着手のように書いてある事が、実は重要

だと、本ブログでは見る。
 ゲームとしてではなくて、実合戦・戦争の際、シミュレーションを
していた参謀本部では、

双方相討ちを素過程として、戦術・戦略の合否を、実戦争の作戦戦略
本部の模型を使ったシミュレーションでは、実際に行っていた

はずだからである。つまり、

(1)動かして相手の駒を取ったら、ゲームでは別の相手の駒で
取り返して、実戦争での相討ちが置き換えられる。
(2)その際駒それぞれで動けない方向があるため、只取りになる場
合があり、特に大駒では取る手の数が増えるので、相手の駒を只取り
に出来る確率が増す

と言った、(1)(2)の着手に伴う現象は、ゲームとしての面白さ
を増やす元になった、駒の動かし方ルール上の単純化、つまり、”動
いた方が、止まった方を、重なる場合は取る。”という規則で遊戯化
した際に発生したものと、少なくとも本ブログでは推定する。それに
対して実戦争時の、参謀本部のシミュレーションでは、行軍将棋また
は、軍人将棋のように、車や象が走って行って、相手兵を倒す際は、
衝突する場合は一着手で、走る側はどちらでも兵だけ倒れる場合や、
どちらも消滅消耗する場合も、細かくあると言った、実戦争に近いよ
うに規則を、複雑に決めて、作戦を練ったに違いない。その結果

始原的シミュレーションの方がむしろ複雑なシミュレーションルール

だったに、間違いないという事になる。
 しかし後には、戦争の勝ち負けの実体と、多少乖離していても、
ゲームでは支障が無いので、動いた方が静止側を捕獲するで、単純化
して、ゲームしやすくなり、例えば北インドのマウカリ国のカナウジ
あたりで、二人制チャトランガが発生したに違いないと、私は考える。
 よって、実際の原始実戦シミュレーションでは、交戦すれば相討ち
とカウントするので、普通のチェス・象棋・将棋型ゲームで、

”取って取り返し素過程法”で、それを置き換えた際に、2着手1手
になった

のではないかと、私は考える。イスラムシャトランジもその類であり、
中国人は、唐代には、シャトランジも知っているので、玄怪録では、
冒頭に述べた表現になっているのであろう。そして、それから長い年
月が経つと、”動いた方が静止側を捕獲”は、ゲームとして確立して
しまうと当たり前になり、着手をナンバリングをしてデータベース化
し、手の良否を議論するにはむしろ、そう数えたほうが間違いが無い
ため、

日本将棋のように片側一着手で一手にして、手数番号として名前を
付ける方法が発生

したのではないか。ただし、西洋チェスは有力なゲームで、たまたま
2着手1手記法を、習慣で変えなかった。そのため、チェスが進入し
てローカルゲームに切り替わった所では、近代になると再び、

”素過程は相討ち”の大昔の歴史を残す、2着手1手表現に戻った

という歴史の流れのように、私には感じられる。
 つまり、玄怪録岑順は、2着手同時を物語上表現しているので、

将棋が、参謀本部の作戦会議で使われる、シミュレーションの小道具
の実際の使い方に近かった頃の記憶を、時代が近いために、さすがに
色濃く残している

と、冒頭に述べた結論のように、私には結論されるのである。
(2018/09/02)

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唐代伝奇”囲碁”物。”くらやみの碁””日本の王子”から判る事(長さん)

前に紹介した、㈱平凡社が1964年に発行した、東洋文庫16
”唐代伝奇集”2/2巻、前野直彬訳には、玄怪録以外の怪奇話
が、玄怪録の4話を入れて、77話(作品数21作品)が載って
いる。なお、全2巻なので”唐代伝奇集”1/2巻という成書が
あるが、1/2巻よりも2/2巻の方が遊戯史に関連する情報が、
豊富とみられる。1/2巻と2/2巻は、物語の長さで分けられ
ているが、遊戯をする話で怪奇物を作ると短くなるためのようだ。
 そして将棋史のブログである本ブログでは、唐代の囲碁の怪奇
話には、近接するゲームなため、参考になる点がある。そこで今
回は、東洋文庫16”唐代伝奇集”2/2巻前野直彬訳の囲碁話、
集異記の「くらやみの碁」と、杜陽雑編の「日本の王子」という
唐代の囲碁を題材とした怪奇短編小説から、何が判るのかを論題
とする。
 いつものように、結論から書く。プロ級のブレーヤーだけに指
せる妙手や、定跡手が存在し得ないような、

ルール調整の不完全な、ゲーム性の低いゲームについては、唐代
中国人には術芸とは見なされない

事が、この二つの短編小説からは、明らかに判ると本ブログでは
考える。
 では、以上の結論について、以下に説明する。
以下が重要だが、囲碁話の出てくる、上記の2つの短編小説は
何れも、唐代の中国人作の怪奇短編小説とされる。
 まず”くらやみの碁”の集異記は、薛用弱の作とされ、唐代、
西暦821~835年程度の成立とされている。作者は河南省の
光州に在住していたと見られるとの事である。
 次に、”日本の王子”の杜陽雑編は、蘇鶚の作とされ、唐代、
8世紀末の昔話と西暦876年までの、伝えられた話をまとめて
編集したとされるとの事である。
 以上の事から、どちらもだいたい9世紀の作で、玄怪録岑順の
作られた、9世紀初め頃と、時代の差は余り無い事になる。
 次に以前述べたように、玄怪録岑順では、物語内で、宝応将棋
を指しているのが、小人の駒の2つ、金象将軍と、天那国の王と
なっているが、以上の囲碁話では、囲碁の駒の一部の器物霊等が、
囲碁を指しているという、設定にはなっていない。

普通に囲碁の盤駒で、器物霊ではなくて、人間ないし人間類似の
妖怪・幽霊の類が、囲碁ゲームをしているという設定

になっている。以上の点が「岑順」と「くらやみの碁」ないし
「日本の王子」では大きく違う。すなわち、
「くらやみの碁」では、山の中にあるヤモメの婆さん宅の、姑と
嫁という妖怪ないし幽霊が、囲碁を36手まで指す、設定になっ
ている。また、「日本の王子」では、長安の都の宮廷内で、日本
の何代目かの皇太子と、接待役の師言という名人の碁打ちが、同
じく囲碁を、33手ないし34手まで指す設定になっている。
 次に、「岑順」と「くらやみの碁」ないし「日本の王子」では、

棋士の一部が”名人”や”高段者”となっているかどうかが違う。

「岑順」では、金象将軍と、天那国の王は、互いに勝ったり負け
たりしているが、妙手や新手や新定跡を作り出すような、強い指
し手との、物語上の設定には、特になっていない。それに対して、
「くらやみの碁」では、前述のヤモメの婆さん宅の、姑と嫁が、
何れも他人の読みを許さぬ高段者との、設定になっている。また、
「日本の王子」では、日本の皇太子の相手をする、接待役の師言
が、唐の国の名人という設定になっている。
 更に、以下が最重要だが、「岑順」と「くらやみの碁」ないし
「日本の王子」では、

名人ないし、高段者にのみ指せる、定石か妙手に、物語上の用語
(名前)が、記載されているかどうかが違う。

すなわち、「岑順」では、金象将軍を岑順が褒めてはいるのだが、
特定の着手について、名称を付けるなどして、戦法や特定の着手
の巧みさを、賞賛褒めているような、表現は全く無い。
 それに対して、
「くらやみの碁」では、物語上に、「鄧艾開蜀流の定石」という
高段者の開発した、形勢判断が36手の時点では、他人に解析不
可能な定石の名とされるものが、現われている。また、
「日本の王子」では、物語上に、「顧師言が33手ののちの鎮神
頭」と後に伝えられたとの設定の、唐の碁打ちの名人が指した、
妙手名が記載されている。
 以上の事から、玄怪録「岑順」の将棋話は、当時の宝応将棋に
は、熟達した者だけに指せる、妙手や定跡が、生成されるような、
ゲーム性の調節が、特に行われて居無い、ゲームとして性能が
たいした事の無いゲームであるという事を、前提として書かれた
話であると、読み取れると私は考える。ゲーム性が低くても、当
時の宝応将棋は、負けて相手に殺されないようなするために、
読みの力を競い合い続ける、実戦の技術であると、認識するのが
当たり前と、(伝)牛僧儒にも、中国の小説の当時の読み手にも、
それが前提として、物語が展開されているのであろう。
 しかし、それに対して囲碁の話の方は、恐らく現在と、余り差
の無いルールが、中国では唐代に確立されていたので、今と同じ
程度に奥深さがあり、唐代には高段者も居れば、定跡、妙手も、
現実に幾つも存在したのだろう。当然だが、術芸とは、稽古によ
る熟達により、

新たな定跡や、妙手を生み出すような高段者、名人を目指すもの

であろう。よってこれら3つの話を比較すると、特に、その術芸
に上達した人間にだけに出来る、

定跡名や妙手名を示す事の出来ないゲームは、ゲーム性の低い、
気晴らしに近い、術芸の類とは見なされないゲーム

と、当時の中国人に考えられた事が、良く判るように私には読み
取れる。
 ちなみに、現在の中国シャンチーの入門書を見ると、”仙人
指路”とか、”横鋒賦詩”といった妙手や、終盤の定跡(駒捨て)
が書いてある。(「中国象棋」李木山著、鶴書房、1975年)
つまり、中国シャンチーは当時の囲碁と、肩を並べた術芸に属す
るゲームである、という事である。従って以上のように、中国シャ
ンチーと、宝応将棋との内容や状況が、大きく違う事は、少なく
とも、これだけの事からも判る。
 恐らく宝応将棋というゲームは、序盤の駒の動かし方に、一定
のパターンしか存在せず、終盤の詰めも、コツが決まっているか、
ないし、取り逃がし引き分けが、多いゲームだったのであろう。
であるから、和名類聚抄にも当然、少なくとも宝応将棋は、
練習による上達、奥義の習得という目標の無い”術芸では無いゲー
ム”と見られて、記載されなかったのではあるまいか。
 つまり、たまたま東洋文庫版の唐代伝奇集の2を読むと、囲碁
を題材にした、玄怪録以外の話が載っており、囲碁話同士には
一定の、物語の進行パターンがあるおかげで、将棋話と囲碁話と
の作りを比較する事により、背後に何が有るのか、かなり判りや
すく理解する事が、できるように私には思えた。
 以上で、論題の解説は済んだように思う。
 その他、この東洋文庫版の唐代伝奇集の2には、続玄怪録の
「張老の物語」の注釈(1)で、”ペルシア人屋敷”という用語
の解説が載っている。その注釈内容から、ようするに長安の都に、
イスラム・アッパース朝の外国人町があった事が、示唆されてい
ると言える。他の中国歴史書にも書いてあるので、自明なのだろ
うが、”大食人”と言われた、イスラム・シャトランジをプレー
する事のできる、アッパース朝から来た外国人が、長安に唐代、
外国人街を造っていたと言う事を、この伝奇集だけでも確認でき
た。
 よって東洋文庫版の唐代伝奇集の2は、将棋史の史料になりえ
る情報を、玄怪録岑順物語以外にも幾つか、ぽつりぽつりと含む
成書と、言えるのではないかと私には思われた。(2018/09/01)

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