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後期大将棋の悪狼と猫叉は、何故隣接して配置されないのか(長さん)

少し前に、後期大将棋のジグザグ2~3段目獣駒配列、すなわち
中央3段目から、獅子、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、
反車と並び、反車は車駒で別だが、中国雲南省の雲南博物館に、
昆明市の少し南から、2000年前程度の遺物として出土した、
闘獣棋のモデルのような、動物闘争造形物の、勝ち負けの順の
配列に近いと、述べた。ただし厳密には、順番になってはおらず、

悪狼の類で勝ち組と見られる、猫股(駒名:猫叉)が、負け組み
の側に配置されている。

なお、猫と獅子は、雲南博物館の造形物に、たぶんだが記録の無
い、日本で”列位”の決定された動物種でもある。今回の論題は、
この、日本で考え出された、犬の大きさの妖怪、”猫叉”が、

後期大将棋では、負け組みの猪の、更に外側に配列された理由

とする。なお、良く見れば明らかだが、残りは闘争動物種で、
強いものから、弱いものの順番で、概ね並んでいる。
 いつものように、回答から書いて、その後で説明を加える。

猫叉は、駒の動かし方ルールが、当初から斜め歩みで、猛牛に
繋ぎを付けるために、調整時に嗔猪と、交換されたと疑われる。

では、以下に説明を加える。
 仮に、15升目130枚制の後期大将棋で、

獅子、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、反車
ではなくて、
獅子、盲虎、猛豹、悪狼、猫叉、嗔猪、猛牛、反車

とジグザグに並べば、悪狼と猫叉は、隣接配列だったはずである。
そうでなくても、
獅子、盲虎、悪狼、猛豹、猫叉、嗔猪、猛牛、反車
でも、空升目は一つ隔てているとは言え、狼とその類似妖怪と、
鎌倉時代前期の、藤原定家の明月記では言われた”猫股”は、悪
狼の類だと、よりはっきり判る、配列だったはずである。
 ところが、実際には猫股は、猪よりも袖に追いやられた。猫が
猪位の大きさである事は、鎌倉時代にも判っていたから、全く不
自然では無いのだが。強いて言えば猫叉が、狼や山犬の類の妖怪
との観念が少し薄れた、吉田兼好の徒然草の時代以降に、南北朝
プロト後期大将棋の時代になってから、始めて取り入れられた駒
である事を、この事は、疑わせる材料の一つなのであろう。
 そもそも、藤原定家の言及した、猫股が、吉田兼好の徒然草の、
”猫また”の影響を受けたのか、猫叉と、猫っぽい名称で、後期
大将棋に加えられた事も、猫股が”犬の大きさ”から”猫の大き
さ”に、イメージが変わってから、後期大将棋に、入った証拠な
のかもしれない。今述べたように、猫の

大きさが猪並みなので、袖に追いやられる原因が元から有った 

と、私は考える。が、更に決定的になったのは、

相手の角筋が、猛牛に当たっていたこと

だったと思う。つまり、普通唱導集の大将棋唱導唄の第2節で
述べられている内容は、”反対側の相手の角筋が、反車に当たっ
ているのをかわすために、その手前の仲人や竪行上の歩兵、横行、

猛牛に、繋ぎを付ける必要がある”

というのが”心”である。そのため、この唱導唄の内容は、
普通唱導集の大将棋の初期配列を決めたに留まらず、角行で睨み
の存在する、各種の数多数将棋で、処置が行われたと私は見る。
 すなわち、中将棋の堅行の後ろに空升目を加えたり、摩訶大大
将棋で斜めに動いて、竪行前の歩兵に繋ぎをつける横飛を加えた
りするだけでなく、15升目制の後期大将棋が成立するときには、

猛牛に、猫叉で繋ぎを付けるように、初期配列が調整された

という事だと言うわけである。
 恐らくその結果、15升目130枚制の後期大将棋が成立する
直前に嗔猪と猫叉が、初期配列で入れ替わり、横と前にしか動け
ないため、猛牛の繋ぎ駒にならない嗔猪が、より中央に寄せられ
たのではないかと、私は考える。
 またそのときまでには悪狼が、後退できない動きになっていた
とすれば、嗔猪も、悪狼の空升目を置いて一つ袖に配置されたた
め、尤もらしく、悪狼の動きに合わせて、

後退する動きが、嗔猪については、15升目130枚制の現行の
後期大将棋が成立する直前に、削除された

とも考えられよう。
 何れにしても、後期大将棋は、文書化されるまでは、実体が正
確には確定しておらず、

曼殊院の失われた将棋図が成立する事によって、始めて精密化
された将棋

の疑いも、完全には否定できないように、私には思えるのである。
(2018/10/31)

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滋賀県滋賀里遺跡と大阪府上清滝遺跡王将の中央横棒下よりの訳(長さん)

前に、奈良の興福寺を除き、京都市近郊から、少なくとも南北朝
以前の出土遺物として、玉将が出ない事、およびその理由が、
本ブログによれば、西暦1080年代の白河天皇と大江匡房によ
る平安小将棋の玉将の廃止と、王将への標準化の詔の、発行によ
るものだとの旨を述べた。なお、王将に統一されただけでなく、
そのとき8升目32枚制の原始平安小将棋や、同じく8升目制で、
酔象が右銀将位置にある、真性大理国平安小将棋が廃止命令を受
け、9升目36枚制の標準平安小将棋だけに変えるようにとの、
詔も出ているはずだとした。そこで今回は、その結果として、
本来玉将であるはずの駒が、王将になったと見られるケースにつ
き、そのより詳しい、書体を問題にする。そこで表題に書いた、
(1)滋賀県大津市の滋賀里遺跡出土の鎌倉時代とされる王将、
(2)大阪府四条畷市の上清滝遺跡出土の平安末期とされる王将、
それに、
(3)京都府京都市の鳥羽離宮135次の鎌倉時代かと見る王将
の書体が、以下の議論の主な対象である。
 すると実は

(3)だけ、正常

なのだが、

(1)と(2)の出土駒については、以下の点で奇妙な書体

である。すなわち表題のように、王の字の中央横棒が、(1)と
(2)の出土駒では、中央より下に来る。ただし(1)について
は、特に裏面の一文字”王”の方を、問題にしている。
 ちなみに、九州の博多や大宰府、岩手県の平泉から王、玉駒は
たまたまだろうが、出土していないので、地方の状況については
残念ながら判らない。
 なお、これらの書体が異常であるのは、以下の成書に、正しい
”王”の書体について、解説があるので、そのように判断できる。

角川書店、1976年「漢字の語源」、加藤常賢著

すなわち、上記の成書の王、玉の漢字に関する解説によれば、

王は、国王の王であれば、
中央横棒は下の横棒より、上の横棒に、少しで良いようだが
近くなければならず

玉の正字であれば、
中央横棒は中央に引かれなければならない

と書いてある。つまり、

出土駒の(1)と(2)は、そのどちらでもなく、

”王様の王”に近いのは、(3)の鳥羽離宮135次の鎌倉時代
とされる、王将一枚だけである。
 そこで今回はこの、(1)と(2)の王将ないし一文字の王の、
”異常な書体”について、原因を論題にする。
最初に回答を書き、ついで、いつものように解説する。
 まず、以下が回答である。
興福寺の玉将ないし、その系統の玉将の書体を、玉の点だけ取り
除いて残りを(1)、(2)は真似たと見られる。
 そして大事なのは真似た理由だが、

玉の正字に近い形にして、朝廷の詔に対して、意識的に抵抗して
見せた

と考えられる。
 では、以下の以上の結論について、解説を加える。
 西暦1080年代に、大江匡房の原案に基づいて、平安小将棋
は、玉将を王将へ変え、酔象の廃止等が朝廷より、オフレの形で
出されたとみられる。だが、中央の政治勢力に対して、抵抗勢力
の強かった、

延暦寺や興福寺では、命令は”いつものように”徹底しなかった

と考えられる。すなわち、興福寺では1098年頃にも、酔象を
使う将棋が指されていたし、1098年物の出土駒に玉将が、た
またま、出土してい無いため、はっきり断定できないが、朝廷の
命令を無視して、玉将駒が使われ続けていたと、私は想象する。
 そもそも、将棋は当時賭博の一種だったので、棋士はアウトロー
が多かった。そこで元々、お上の命令や、寺の戒律に逆らう感覚
の人間が多かったので、

興福寺の駒師や、棋士のやり方は、京都府や滋賀県、大阪府の
将棋の駒師、棋士には当時、共感を持って受け止められた

と考えられる。実は、興福寺の西暦1058年物の出土駒の王駒
は、玉将ばかりで王将が無いだけでなく、

玉の字の中央横棒が、中央より下に来る、玉の正字である事を点
と横棒の位置で、”過剰に強調した書体”に、概ねなっていた。

 そこで朝廷の命令が、内心気に食わなかった、京都府と滋賀県、
大阪府のお寺の僧侶が、かなりの割合を占めると見られる小将棋
の駒師と棋士たちは、

表面上、玉の点を削除しただけで、玉の正字と本来より更に強調
して読める、王の字の中央横棒が、中央より下に来る、王を書い
た(1)や(2)の書体の駒で、将棋を指し続けた

と考えられるという訳である。形の上では、点が無くなったので、
”おう”とも読めなくは無かったのだろうが、中央横棒が、上の
横棒ではなくて、興福寺の下の横棒に近い、我々から見ると、不
可解な書体のままだったため、ゲーム中彼らは、その駒を相変わ
らず、

玉の正字の類と見て、”ぎょくしょう”と読んだ

と、推定できる。
 ただし、鳥羽離宮の賭博場等では、白河法皇が滞在している等、
朝廷の力が強く、さすがに朝廷の命令通り、王の中央の棒は、上
の棒に少し近づけて、王将に直したとみられる。そこで、(3)
の出土駒だけ、正しい”王将”になっていると、私は推定するの
である。
 なおその状態は、鎌倉時代も中期を過ぎて、詔がうやむやにな
ってしまい、単に、王の字の中央横棒は、真ん中にあった方が、
意匠として、見栄えがよいという事だけが、広範な識字層に認識
・理解されるようになると、(1)(2)も、逆の(3)も、
やがて、武家に識字層の広がった、鎌倉中期以降には、共に廃れ
てしまったとみられる。そして、

王と書くにしても、玉と書くにしても、中央横棒は、中央に引く
書体だけが生き残り、点があれば”ぎょく”、無ければ”おう”
と、我々21世紀の人間と、同じように読まれるようになってし
まった

と考えられる。
 以上の結果から、平安末期から鎌倉初期の頃には、将棋を指す
棋士は、治外法権のような場所で暮らしている、興福寺の僧侶の
ような立ち位置の人間が、少なくとも廃棄されてしまう、低級出
土駒史料を使っていた階層としては、多数派だったと、結論でき
るように、私には思われるという事になる。(2018/10/30)

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京都の出土駒について、実態が一般には広く公開されては居無い(長さん)

前に本ブログで、京都市の木製出土駒が、意外に少ない点につき、
地下水脈の枯渇という、自然条件であろうとの旨を、述べた事が
あった。更にその後、たとえば南区の上久我酔象駒(?)について
は、情報の希薄化を指摘した。
 他方最近、京都市内で行われている、イベントに出土将棋駒が
出典されているという情報があり、その内容から、

京都市の将棋出土史料については情報が分散しているのではないか

と、私は個人的に、更に疑うようになってきた。なお、そのような
疑いを、私に抱かせるようになった出土駒の、具体的な出展情報と
いうのは、下記のイベントである。

特別展「文字のささやき~京都府出土の文字資料~」
開催日:2018年10月13日~同年12月9日
開催場所:京都府立山城郷土資料館

この”特別展”で、将棋駒が出典されているのだが、”以下の施設
に保管されている出土駒を、この特別展のために、出展した”とさ
れるものである。

京都市資料館

出典駒は、具体的には恐らく”と金成りの歩兵”で、江戸初期
程度の形だが、

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒にはリストされていない。

最近出土したのか、以前からあるのかは不明だが、後者なら昔から

京都市には考古学研究団体が乱立しているので史料が分散している

のではないかと、疑わざるを得ない一例だと、私は思う。

歴史の街ならではの、情報収集の難しさといった所か。

 これでは、研究者が仲間内だけで、将棋史の史料を保管してい
たりしているという事が、京都では今でもあったとしても、余り
不自然な事では、無いのかもしれないと、

この特別展の展示物の内容を見て

私はさいきん疑うようになってきた。(2018/10/29)

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上久世酔象駒の真偽は迷宮入り(長さん)

さいきん京都市にある、京都埋蔵文化財研究所へ、西暦2017年
の京都市南区上久世の遺跡発掘調査報告に、参考文献として載って
いる、西暦1976年頃の報告書の在庫あるかどうかを、問い合わ
せてみた。酔象駒の写真が、有るかもしれないとみられた為である。
文献名は、以下の通りである。

『上久世城の内遺跡発掘調査中間報告』 六勝寺調査会・上久世城
の内遺跡発掘調査団 1977年

結果から言うと、京都埋蔵文化財研究所にも、上記の

文献は現存しない

との事である。
 本ブログで、前に問題視したが、この酔象駒については、

”酔象と、書かれている”という話があるものの、証拠となる史料
が、”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”でも写真が不鮮明で、よく
判らず、その他にも確たる画像情報が、全く見当たらない。

言うまでも無く、成り不明酔象駒で正しいとすれば、

南北朝時代に、酔象が復活していた重大な証拠

になる。しかしながら、大学の先生が入って、考古学の研究をする
会だったとみられる、西暦1970年代の、”六勝寺調査会”なる
研究会は、今や存在せず、その”考古学研究団体を引き継いだ”と
の記載が、web上には有る、今の

京都埋蔵文化財研究所にも、前記の調査報告等の記録は、ストック
されて居無いという事態

のようだ。2017年に作成された、最近の調査報告書の参考文献
は、文献名だけ、京都埋蔵文化財研究所に記録が有るのだろう。
 更に言えば、赤外線写真で撮影された酔象駒の図が、問題にした
1977年作成の調査報告書には、絶対有るとの保証もない。
”中間報告”と表題が表現されており、”最終報告”に当たるもの
が、最近の別の発掘作業の報告、西暦2017年報告書の参考文献
リストに無いのも、多少引っかかる所である。
 だから残念だが今の所、

酔象は興福寺で平安時代の11世紀に使われた後は、15世紀末に、
一乗谷朝倉氏遺跡で、復活したというのが確実な情報

としか、言えなくなったようだと、本ブログではみなす事にした。
そもそも、一乗谷朝倉氏遺跡の将棋駒の研究者さえ、上久世酔象駒
については、写真等の、はっきりした画像情報を、入手していない
ようなのである。なので、一般人の本ブログの管理人が、証拠を入
手するというのも、どだい無理があったのかもしれない。
 六勝寺調査会のメンバーには悪いが、残念ながら、上久世酔象駒
に関しては、彼らの成果を後代に引き継ぐ事が、少なくとも本ブロ
グでは、難しくなったように思う。よって本ブログでは、この史料
に関しては今後、”一説に京都市南区上久世で南北朝時代の酔象駒
出土(?)”等と、記載する予定でいる。(2018/10/28)

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平安大将棋の横行は、なぜ後退できないのか(長さん)

最近たいへん喜ばしいことだが、大阪電気通信大学の高見研究室の
”摩訶大将棋”のブログの、記事更新が再開した。
 それによると、摩訶大将棋ではなくて、今度は本ブログの中心的
題材である、平安大将棋に関する議論が行われている。すなわち、
平安大将棋の猛虎、銅将、鉄将が、後期大将棋の盲虎、銅将、鉄将
と、どうして動かし方のルールが違うのか、が論題になっている。
 本ブログは大将棋のブログであるため、既にバラバラにだが、こ
れらについては解答した。が、”まだ論理は、webに公開してい
ない”としているが、

高見研究室ではその他、表題のように”平安大将棋の横行が非後退

である理由も判っている”としている。
 他方たぶんだが、この平安大将棋の、横行のルールについて、本
ブログでは論題にしたり、回答をしたりした事は、今まで無かった

書き抜け部分

だったと記憶する。そこで、今回は、この平安大将棋で横行が後退
できず、後期大将棋の横行のルールと、異なる理由を論題とする。
以下に、最初に回答を書く。

堅行と並べる、普通唱導集の大将棋に変化した時代に、縦横を対応
させるため、横行に後退ルールが発生した

と、本ブログでは考える。
 では、以下に説明を加える。
 横行のルールが、平安大将棋から変化する理由としては、他に

本ブログの推定する、西暦1260年の大将棋のモデル、すなわち、
三段目に左から、飛車、横行、堅行、角行、龍馬、龍王、奔王、
龍王、龍馬、角行、堅行、横行、飛車と並んだ大将棋が出来た時点
で、前後対称性の無い駒が、横行だけであるのを防ぐために、横行
に後退するルールを加える事は、相当に尤もらしかった

と、考えられる点も挙げられる。むろん、堅行のルールを縦横交換
すると、横行になるという点でも、大将棋のルールを判りやすくし
て、普及力を高める必要という点で、必然だったと見る。ソラ覚え
で大将棋を指せる事が、鎌倉時代中期に何故重要だったかと言えば、

賭博の類として、ゲームが禁止される場所が多く、ルールブックを
見ながらゲームをするという事が、鎌倉時代中期には、し辛かった

からであろうと、歴史史料から私は推定する。
 では、平安大将棋が、逆に横行が後退できなかったのは何故かと
言えば、

貴族のたしなみとして、西暦1200年頃までは、文書化もされて
いた位に、規制はまだ緩かった

という事と、

横行を横行人というふうに、人間駒のようなイメージで捉えており、
将駒の非対称性と共通な要素が有っても、不自然と見られなかった

からではないかと、想像している。
 以上のように、前から頭の中では考えていたが、高見研究室のブ
ログで論題にされ、文書として本ブログに表明するのを、たぶん、
うっかり忘れていた事に気がついた。
 高見研究室のブログの再開は、その点でも喜ばしい事である。
 最後に蛇足であるが、本ブログでは、平安大将棋と後期大将棋そ
れぞれの、3種類の駒のルールの違いは以下の理由、すなわち、”

(1)猛虎と盲虎の差は、中将棋作成時のゲーム調整。
(2)銅将の差は、普通唱導集大将棋で、縦横歩みの嗔猪を作っ
たので、元々将駒が、前後対称性でなくても構わないという、
性質を利用した、バッティングを無くすための銅将のルール変更。
(3)鉄将の差は、二中歴の平安大将棋が、記載ミスである疑い
が濃い。

”であると、以前にそれぞれに表明した。なお、”
(4)平安大将棋の猛虎の動きは、虎が獲物を狙うときに、抜き足
差し足なために、その類の動きの小駒にした。
(5)平安大将棋の銅将の動きは、盤双六のサイコロの4の目の形
が起源。
(6)同じく後期大将棋の鉄将の動きで、平安大将棋本来の鉄将の
動きである、前3方向歩みも、盤双六のサイコロの3の目の形が、
起源。
”との主旨も、ブログでだいぶん前に表明した記憶がある。
 更に、悪狼と猫叉の動きのルールは、平安大将棋のお古の動き等
を取り入れても良いし、そうしなくても、これらの妖怪動物のイメー
ジから、自然に考え出せないほどの、複雑さは元々無いと私は思う。
 他方高見研究室のブログでは”猫叉、嗔猪、悪狼の起源が古く、
それらを、平安大将棋で猛虎、銅将、鉄将に取り入れた”としてい
る。(嗔猪の、大阪電気通信大学ルールの変更については、経緯を、
個人的には、はっきり私が把握しては居無いので、様子を見る事に
する。)
 近々学会できちんと発表され、論文には判りやすく書くと、高見
研究室のブログには、記載されているようである。
 これに関しては、前に飛龍と猫叉の大大将棋の成りの時に、本ブ
ログでは、してみせたと考えるが、

このようなケースは、可逆論理化が困難な事を、説明しなければ
ならない点も、大切

だと私は思う。

私は、この高見研究室のブログの論理は、後期大将棋が、平安大将
棋より後との、高見研究室にとっての帰無仮説を立てると、
逆の推移が執行困難な、”阻害要因”が、どの動きも、考え出すの
は容易なために、たぶん見当たらないだろうと思う。そのため、
他人に説得可能な、判り易い論文は、かなり書きにくいだろう

と予想する。しかし、その予想が仮に外れるてしまうと、

本ブログが、大将棋をメイン題材にしているだけに、大きな失態

になるだろうと言う事だけは、残念ながら、確かだろうとも思って
いる。だから高見研究室のブログの、最近の平安大将棋の駒のルー
ルに関する、以上の蛇足で述べた内容は、私にとっては、喉元に
槍を、突きつけられたような気持ちで、たいへんに、ヒヤヒヤもの
の記事のように、感じているのは確かである。(2018/10/27)

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栃木県小山市市役所の小山評定跡で、何か出土したようだ(長さん)

前に、この栃木県の遺跡発掘については、下野新聞西暦2018
年10月14日版で、同年9月上までの発掘経過が報道されて
いた旨を、本ブログで紹介した。
 その後最近、問題の発掘現場を、再度見学した。
 発掘地点は正確には、9月よりも10月下旬の方が、15m
前後西にシフトしており、9月時点で発掘した場所は、残土が
積まれた状態に変わっていた。明らかに、後半は重点が、幾分
別の場所に移動している。井戸跡は1箇所だけのようで、下の
写真の上の方で、2人の作業者が、作業している場所が井戸で、
現在ゆっくりと掘っているようである。その他、手前に遺構の
ような、発掘ポイントが有る事が、上の写真からは判る。

小山評定10月.gif

 現在重点となっている発掘場所は、実は写真から外れた、さ
らに左手の西側に在り、そこでは深部の遺物を捜索するために、
この写真を撮影した時点で、急ピッチで、深堀が行われている
所であった。写真の右側に残土の山があり、9月上旬には、今
は残土に覆われた所で、深堀が行われていた。ちなみに、写真
の右上の白い部分は、昔の市役所の建物の土台のコンクリが、
発掘により露出した姿の一部とみられる。
 以上の事から恐らくだが、下野新聞で紹介された”裕福な武
家の所有する青磁”のカケラは、写真の右側に切れた所、つま
り、発掘地点の東の方で、発見されたのだろう。発掘は前半が
終了し、後半が始まって、少したった所のように見える。
 今の発掘現場は、溝状に、遺物を探すために掘られた起伏が
余り無く、神鳥谷曲輪遺跡よりも、遺物があるとすれば深い事
を示唆しているようだった。作業の難しさからみて神鳥谷曲輪
の方が、最終的には、遺物が多くなりそうなように私には見え
た。
 なお、2018年10月25日の午後の発掘で、下の写真の、
正体が、私には不明な、何らかの遺物が出土したようである。

20181025出土.gif

2~3本の棒に袋が付いている形の物か、棒を作業員が袋に入
れたのか、何なんだか、遠くから見ただけだったので、私には
良く判らなかった。後で冷静に考えてみると、ディスカウント
ショップ等でたまに見かける、小型のカメラ用の三脚が、入れ
物の袋から、足先だけ、はみ出ているようにも見えるのだが。
 ちなみに、発掘した作業者の様子からみて、かなりの成果物
だったと、本人は自慢している様子だった。なお、ザルのよう
な物に、この正体の私には良く判らない遺物と、いっしょに入っ
ている写真の、石のように見える物体は、瓦のようである。
 この発見が、そのうち地方の新聞に載るほどの物かどうかは、
私には判らない。将棋の道具が出たようには、一見しては見え
ないが、何だったのだろうかと、帰り道でも私には、かなり気
にはなっていた。(2018/10/26)

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静岡県焼津市小川城出土、裏飛口竜王駒。飛口はやはり飛鷲(長さん)

前に、図説・静岡県の歴史(河出書房新社、永原慶ニ編集、
1987年)という成書に、表題の焼津駒の鮮明な写真
が掲載されているが、竜王駒の成りの、飛口の口の部分は、
判読がかなり困難とのコメントを、本ブログでした事があった。
 さいきん、電柱の看板に”鷲”の字が書かれているのを眺め
ているうちに、不意に、次の事に気がついた。

 鷲の鳥の部分で、頭の部分だけが仮に残ると、白や日のよう
に見える。

実は、出土駒を見て、少なくとも私に謎に思えたのは、2文字
目の”下部分”が”日”のように”天童の将棋駒と全国出土駒”
のスケッチ図には、描かれていた事であった。これは、
鷲の字の最下部は、鳥のはずであり、もしそうなら鳥の下部の、
馬の下部のような形とは、かなり様子が違う。飛口の口は、
”智”のようでもあり、これでは”鷲”からは、かなり遠い。
従って、焼津竜王中将棋駒の成りは謎だったのである。
 しかし、良く考えてみると、この出土駒の下端部分の墨跡に
ついては、飛口と書かれた字の、

本当に、最下段が見えているのかどうか、確実とは言えない

のではないかと、考えるようになった。良く見れば、この駒
は割れており、もともと形が歪んでいるから、

下部も少し、擦れているとも考えられる。

つまり、この飛□成り竜王駒の裏の墨跡で、最下段に見えてい
るのは、

字の最下段ではなくて、鷲の鳥部分の、真ん中より少し上

なのかもしれないと気がついた。そのきっかけは、街の看板の
”鷲”の鳥部に、白や日の形が、下の方ではないにしろ、有る
のに気がついたからである。そこで図説・静岡県の歴史の駒の
写真をもう一度良く見ると、まさにその通りのようであり、
更にこの成書の駒を見ると、鳥の真ん中の”長い横棒”も、
駒の下の縁付近に、有るように見えてきた。
 以上のように下部に見える部分は、鷲の最下段ではなくて、

単に下の方の一部

だったのかもしれない。以上の認識から今後は、焼津小川城の
飛口竜王駒については、飛口ではなくて、飛鷲と解釈し、本ブ
ログに於いても、飛鷲という駒名が、西暦1500年頃には有
ったという証拠になるものとして、通説に近い解釈で、中将棋
の進化を語るようにしたいと考えている。(2018/10/25)

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摩訶大大将棋の走り駒や跳び・踊り駒はなぜ金将に成るのか(長さん)

前に摩訶大大将棋の、走り駒や跳び駒や踊り駒が、不成りと
金将成りの、どちらを選ぶかは、元駒の動きが金将を包含して
いるか否かによって選択されているようだと述べた。
 ところで、では成る場合に、摩訶大大将棋の走り駒や跳び・
踊り駒は、何故総じて金将成りなのであろうか。今回は、金将
成りに限定される事、そのものの理由を論題としてみた。
 最初に回答を書き、後で説明を加える。

中将棋の走り駒を含めた多彩な成りに比べて、より古い時代の
将棋とのイメージ作りのために、中将棋型の成りは選択されな
かった

と考えられる。
 では以下に、以上の回答に関して説明を加える。
 実は上記の回答では、

それが、いつの作業だったのか

が問題なのであるが、特定するのは、たいへんに難しい。そも
そも、元駒の初期配列を決めてから、ずっと後に、成りは調整
されていても原理的には構わないだろう。だから本ブログでは、

中将棋が成立した西暦1350年頃から、曼特院の将棋図が
作成された西暦1443年の間のどこかで、摩訶大大将棋の
走り駒、跳び駒、踊り駒等の成りは、決定された

と、今の所一応、考えている。

中将棋の龍王成り飛車や、龍馬成り角行よりも、金将成り
飛車や角行が、前に存在したという、少なくとも”伝説”が
残っていた時代までには、摩訶大大将棋の成りは成立

したのだろう。
 しかし、その裏付けとなる”伝説”の根拠、発生の経緯につ
いては、余り多くの事柄・関連史料は残って居無い。
 せいぜい”(1)麒麟抄が本当は、南北朝時代に成立したも
のであるらしい”という事と、”(2)栃木県小山市
神鳥谷曲輪出土の、裏一文字金角行駒が、その出土地点が、
小山義政館と称されている事から、南北朝時代末期の
西暦1381年前後のものかとも印象付けられている”という、
2点位なものである。
 また、状況証拠としては、中将棋が成立したときに、猛豹が
猛将と洒落られたとも想像できる事と、悪狼は悪党の洒落、ま
た、横行も横行人から来るとすれば、猛豹、悪狼、横行は、人
間とも見なせるので、将駒一般同様、鎌倉時代末期以降には、
かなりの種類の駒を、一旦は金将成りに、したのかもしれない
と言う仮説も成り立つのだろう。ただし、金将成りより不成り
方が、更に古いという”伝説”も有ったのかもしれないが。後
期大将棋では、逆に成りが減らされたようだ。その他かなり前
に、本ブログで、鎌倉時代の御家人体制から、室町時代の裕福
な守護が、南北朝以降に動乱で、更に伸し上ったのを、”強い
駒の金将化”で、擬人化したのかもしれないとも述べた。
 以上の事から暫定的に本ブログでは、西暦1290年にほぼ
成立して、自明の定跡が生じて放置された、普通唱導集大将棋
は、西暦1320~50年の最末期時点で、行駒と飛車も、
歩兵、仲人、玉・金将以外の将駒、桂馬、香車、反車同様、
金将成りだったと仮定してきた。あるいは、最初期の中将棋も、
同じく行駒、飛車、玉・金将以外の将駒、香車、反車、そして
猛豹、また、その頃は仲人が無くて、あるいは悪狼が一時期、
中将棋に入っていたのかもしれないが、その悪狼も、金成りだっ
たのかもしれない。
 そのような事情が、あるいは実際にあって、その影響なのか、
麒麟抄の内容を根拠にしているのか、その他なのかは、今の所
不明であるが、冒頭に述べたように、

”伝説”のイメージに基づいて、摩訶大大将棋の走り、跳び、
踊り駒は、総じて金将成りになっている

と、今の所本ブログでは、以上のように推論している。ただし、
それが何時成立したのかも、正確には判らない摩訶大大将棋の
成りを、どのような経緯で決定したものなのか。詳細を解明す
るのは、今の時点ではかなり困難なのではないかと、私は疑う。
 先行研究でも、ルール調整だったのではないかという主張が、
wikipediaにあるのと、金将成りの賛美性を大阪電気
通信大学の高見友幸氏が、以前強調されていた。が、金将で無
ければならない、理由については、言及が無かったと記憶する。
 つまり南北朝時代の将棋史料が、将来もう少し増えないと、
摩訶大大将棋の”意味ありげな金成り”の意味は、完全には
解けないのではないかと、私は残念ながら、今の所考えている、
という事である。(2018/10/24)

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栃木県小山市市役所前、小山評定跡(市役所)から遺物数千出土(長さん)

下野新聞、2018年10月14日版によると、かねてより
本ブログでも注目していた、栃木県小山市の市役所前の駐車場
付近の、新市役所の建設予定の遺跡発掘現場から、中国産青磁
等の遺物が、9月上旬までに破片数千点発掘され、

井戸跡も発見された

という事である。井戸は深いので、それ以降に調査するのであ
ろう。神鳥谷曲輪遺跡からも、わずかながら青磁の破片は見つ
かったと聞いており、

神鳥谷曲輪の発掘に比べて、小山評定跡の重要度に、差は無い

とする、本ブログの見解が、

やはり正しかった

事が、無事証明された。なお、一部の新聞には、発掘当初、

”有力な遺跡の存在は、期待できない”

との旨の、結果として適切で無かった”小山市の、何処からか
のコメント”が、一部のマスコミで報道されていた。この分だ
と、ここはやがて、”栃木県小山市中央町の

小山評定跡遺跡”と命名され、当然保存も検討される

事であろう。
 ちなみに、”遺物数千点”との報道から”意外に遺跡らしい
場所だった”との心象を、誰もが抱く報道内容だと、本ブログ
では見る。だから少なくとも、

世論の印象作りの上では、本ブログの言う通りになった

と考えられる。ただし、この数千という数は、同じ小山市の
遺跡である、神鳥谷曲輪遺跡の遺物数に比べると、まだ桁違い
に少ない。神鳥谷曲輪遺跡の遺物数は、最終的には十万の桁だっ
たはずである。よって、どこまでこれが延びるのかは、やはり
今から後の、”後半の発掘”に、期待するしか無いだろう。
 なお、何処を掘ってもこの回りなら、だいたい同程度の遺物
が出るというのは、例えていうなら東京都文京区本郷元町遺跡
は、そこだけ名づけても、実際には回りに遺跡だらけなので、
特にそのポイントだけ取り上げられないのと、小山市の場合も、
一緒という状況だと、本ブログでは理解している。
 ともあれ井戸跡が、ここにも有ったようなので、最終的には

木製遺物を中心に、更なる遺物の多数の出土を期待したい

と、本ブログでは考える所である。(2018/10/23)

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水無瀬兼成将棋纂図部類抄大大将棋。飛龍猫叉の龍王龍馬成の訳(長さん)

松浦大六氏所蔵の将棋図式では、余りにも奇妙と考えられて、
採用されなかったのだろうが、水無瀬兼成作の将棋纂図部類抄の
大大将棋では、飛龍が龍王は良いとしても、猫叉が何故か龍馬
に成るルールになっている。
 恐らく、将棋纂図部類抄の方が、将棋図式よりも、オリジナル
の大大将棋に近いと見られるため、大大将棋のデザイナー自身は、
飛龍は龍王成り、猫叉は龍馬成りにしようとしたに違いない。
今回の論題は、ずばり特に、

猫叉の成りを龍馬にするという、大大将棋の成りの奇妙な意図

とする。
 いつものように、先に回答を書いてから、説明を加える。
 2升目行きと1升目行きの違いだけの駒は、類似名称の大駒が、
縦を横に入れ替わった駒になるという例が実際にある。すなわち

後期大将棋の猛牛・嗔猪を、中将棋では牛と猪とで、飛牛・奔猪
という、縦と横の違いの、一対の組駒で、置き換える例がある
と大大将棋のデザイナーは、見ていた。そしてその事から、大大
将棋のデザイナーには、これを、対応成り駒のパターンに応用で
きそうだと連想できた。

そこで斜めに2升目と1升目動きの、
後期大将棋等の飛龍と猫叉に関して、成りを龍王、龍馬にする
というアイディアが、浮かんだので、そのようなルールにしたと
考えられる。
 では以下に、以上の結論について説明を加える。
 以上の論理は、そもそも中将棋で、牛小駒の成りが飛牛、
猪小駒の成りが奔猪である訳でもないので、

相当に複雑

である。実際には、堅行と横行が、縦と横とで入れ替わりの対応
駒であり、その成りが堅行が飛牛に、横行が奔猪になっているの
である。ただし、牛駒も猪駒も、後期大将棋には猛牛、嗔猪とし
て小駒が存在する。ただし、後期大将棋では猛牛が縦横に2升目
踊り、

嗔猪は、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄では、前と左右に歩み

の動きになっており、

後ろへ後退できないはず

である。しかし、なんらかの文献に、嗔猪が前後左右に歩みであ
るとの記録が、南北朝時代に有ったに違いなく、大大将棋のゲー
ムデザイナーには、

中将棋の飛牛と奔猪は、縦横に2升目踊りの猛牛と前後左右に歩
みの嗔猪の拡張駒と、少なくとも大大将棋の作成時に認識できた

とみられる。なお、”嗔猪が前後左右に歩み”は、水無瀬兼成作
の将棋纂図部類抄では採用されて居無いが、経緯は謎だが、今度
は松浦大六氏所蔵の将棋図式では、こちらを採用している。
 そして以下が、極めて大切な点であるが、この事から、

(1)嗔猪のルールには、南北朝時代から2系統有った事
(2)大大将棋のゲームデザイナーが大大将棋を作成したのが、
中将棋の成立した、南北朝時代よりは少なくとも後である

事が判る。
 つまり、

大大将棋は、鎌倉時代にはやはり無い

のである。
 つまり以上の知見から、大大将棋では、猛牛・嗔猪の理屈を、
飛龍・猫叉という、縦横が斜めに変わって、同じパターンの、
小駒の、今度は本当に、これらの成り駒を決めるときに、応用
したようである。つまり、

飛龍が龍で強化された、龍王を成りとするとしたときに、2升目
踊りが、同じ方向で、隣接升目行きになっている猫叉に対して、
縦横を斜めに取り替えた、一対の組み物の走り駒を当てて、動き
の方でツジツマを合わせ、名前は、猫から馬は連想しにくいが、
猫叉の成りを龍馬とした

と、見られるのである。なお、飛牛と奔猪との差は、縦か横か、
龍王と龍馬との差は、縦横か斜めかであるが、一対ペア駒である
点では一緒なので、同じ理屈を使っていると、大大将棋のデザイ
ナーは、認識したのであろう。
 しかしこの、駒名の字面ではなくて、動きのルールの中身で合
わせる、成り駒の対応付けは、

一般には理解が、余りにも困難

だったようだ。水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、そのままコピー
で、大大将棋のデザイナーのオリジナルのルールが、記載された
ようなのだが、江戸時代の棋書では、かなりのケースに無視され
てしまったようである。つまり大大将棋については、

飛龍も猫叉も、そのうち不成りに取り替えられてしまった。

だが、将棋纂図部類抄が正しいと認識して、大大将棋の作者の思
考パターンを辿ると、大大将棋は中将棋よりも後の成立という事
を、大大将棋の作者はことさらに隠そうとはしていない事。また、
嗔猪のオリジナルの動きに、

後ろに後退する、前後対称性が、元々は有ったらしい事が判る

という、重大な痕跡が隠されているようようだという事実が、新
たに、浮かび上がって来るという事なのだろうと考える。
 以上で説明は終わるが、最後に論理を逆に辿って、中将棋の
飛牛、奔猪が、堅行と横行の成りとして、大大将棋を真似て、中
将棋のゲームデザイナーにとって、作れないかどうかを、確認し
ておく。つまり、中将棋は本当に、大大将棋より前なのかという
問題である。答えは、

そのような経緯で中将棋が成立したとは考えにくい

と思われる。理由は、

中将棋のデザイナーは駒の名称で順当な物を探したいという意識

だったからである。つまり、大大将棋が中将棋よりも先行してい
たという帰無仮説を立てたとする。すると、中将棋のデザイナー
は、自身の作成した中将棋の、堅行と横行の成りのルールの問題
は、彼にとって既に解決済みだったが、何という名称にするかが
問題だったとみられる。そのような意識で既存の将棋種を眺める
場合、駒の名称で、どのような種類が既存なのかを、見るはずで
ある。この点で中将棋の飛牛と奔猪、後期大将棋の、猛牛と嗔猪
の”動かし方のルール”に、着目していた、大大将棋のゲーム
デザイナーとは、意識が異なる。
 そのため、大大将棋が仮に中将棋に対して先行していたとして
も、大大将棋の駒の名称として、現に有る駒の名称しか、中将棋
のゲームデザイナーには、関心が行きにくいとみられる。だから、

大大将棋の飛龍と、猫叉の成りが龍王と龍馬である事から、
中将棋の堅行と横行の成りを、飛牛と奔猪にすると良いという
発想は、中将棋のデザイナーは、絶対とまでは行かないものの、
持ちにくい

と私は考える。中将棋の作者は、先行する将棋種に、猛牛と嗔猪
が有りさえすれば、飛牛と奔猪という名称は、自力で考え出せた
のだろう。従って、実際に起こった事柄は、やはり今述べた事の
真逆で、大大将棋の作者が、

中将棋の堅行と横行の成りが、飛牛と奔猪であるという、動き
ルールのパターンから、大大将棋の飛龍と、猫叉の成りを、
龍王と龍馬にした

という事だったのではないかと、私は考えているという事になる。
(2018/10/22)

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