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後期大将棋の悪狼と猫叉は、何故隣接して配置されないのか(長さん)

少し前に、後期大将棋のジグザグ2~3段目獣駒配列、すなわち
中央3段目から、獅子、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、
反車と並び、反車は車駒で別だが、中国雲南省の雲南博物館に、
昆明市の少し南から、2000年前程度の遺物として出土した、
闘獣棋のモデルのような、動物闘争造形物の、勝ち負けの順の
配列に近いと、述べた。ただし厳密には、順番になってはおらず、

悪狼の類で勝ち組と見られる、猫股(駒名:猫叉)が、負け組み
の側に配置されている。

なお、猫と獅子は、雲南博物館の造形物に、たぶんだが記録の無
い、日本で”列位”の決定された動物種でもある。今回の論題は、
この、日本で考え出された、犬の大きさの妖怪、”猫叉”が、

後期大将棋では、負け組みの猪の、更に外側に配列された理由

とする。なお、良く見れば明らかだが、残りは闘争動物種で、
強いものから、弱いものの順番で、概ね並んでいる。
 いつものように、回答から書いて、その後で説明を加える。

猫叉は、駒の動かし方ルールが、当初から斜め歩みで、猛牛に
繋ぎを付けるために、調整時に嗔猪と、交換されたと疑われる。

では、以下に説明を加える。
 仮に、15升目130枚制の後期大将棋で、

獅子、盲虎、悪狼、猛豹、嗔猪、猫叉、猛牛、反車
ではなくて、
獅子、盲虎、猛豹、悪狼、猫叉、嗔猪、猛牛、反車

とジグザグに並べば、悪狼と猫叉は、隣接配列だったはずである。
そうでなくても、
獅子、盲虎、悪狼、猛豹、猫叉、嗔猪、猛牛、反車
でも、空升目は一つ隔てているとは言え、狼とその類似妖怪と、
鎌倉時代前期の、藤原定家の明月記では言われた”猫股”は、悪
狼の類だと、よりはっきり判る、配列だったはずである。
 ところが、実際には猫股は、猪よりも袖に追いやられた。猫が
猪位の大きさである事は、鎌倉時代にも判っていたから、全く不
自然では無いのだが。強いて言えば猫叉が、狼や山犬の類の妖怪
との観念が少し薄れた、吉田兼好の徒然草の時代以降に、南北朝
プロト後期大将棋の時代になってから、始めて取り入れられた駒
である事を、この事は、疑わせる材料の一つなのであろう。
 そもそも、藤原定家の言及した、猫股が、吉田兼好の徒然草の、
”猫また”の影響を受けたのか、猫叉と、猫っぽい名称で、後期
大将棋に加えられた事も、猫股が”犬の大きさ”から”猫の大き
さ”に、イメージが変わってから、後期大将棋に、入った証拠な
のかもしれない。今述べたように、猫の

大きさが猪並みなので、袖に追いやられる原因が元から有った 

と、私は考える。が、更に決定的になったのは、

相手の角筋が、猛牛に当たっていたこと

だったと思う。つまり、普通唱導集の大将棋唱導唄の第2節で
述べられている内容は、”反対側の相手の角筋が、反車に当たっ
ているのをかわすために、その手前の仲人や竪行上の歩兵、横行、

猛牛に、繋ぎを付ける必要がある”

というのが”心”である。そのため、この唱導唄の内容は、
普通唱導集の大将棋の初期配列を決めたに留まらず、角行で睨み
の存在する、各種の数多数将棋で、処置が行われたと私は見る。
 すなわち、中将棋の堅行の後ろに空升目を加えたり、摩訶大大
将棋で斜めに動いて、竪行前の歩兵に繋ぎをつける横飛を加えた
りするだけでなく、15升目制の後期大将棋が成立するときには、

猛牛に、猫叉で繋ぎを付けるように、初期配列が調整された

という事だと言うわけである。
 恐らくその結果、15升目130枚制の後期大将棋が成立する
直前に嗔猪と猫叉が、初期配列で入れ替わり、横と前にしか動け
ないため、猛牛の繋ぎ駒にならない嗔猪が、より中央に寄せられ
たのではないかと、私は考える。
 またそのときまでには悪狼が、後退できない動きになっていた
とすれば、嗔猪も、悪狼の空升目を置いて一つ袖に配置されたた
め、尤もらしく、悪狼の動きに合わせて、

後退する動きが、嗔猪については、15升目130枚制の現行の
後期大将棋が成立する直前に、削除された

とも考えられよう。
 何れにしても、後期大将棋は、文書化されるまでは、実体が正
確には確定しておらず、

曼殊院の失われた将棋図が成立する事によって、始めて精密化
された将棋

の疑いも、完全には否定できないように、私には思えるのである。
(2018/10/31)

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