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狛犬型今小路西福祉センター中将棋。何故幾らか普及したのか(長さん)

既に述べたように、南北朝時代の神奈川県鎌倉市の遺跡、今小路西
(鎌倉市福祉センター)遺跡出土の木板で、将棋場で選択されてい
ると見られる、通常の獅子の位置に狛犬が入っている中将棋は、
獅子に比べて狛犬の威力が小さいため、獅子についての特別規則と
いう、煩雑なルールが存在しないにもかかわらず、現在淘汰されて
残って居無いと考えられる。以前の考察では、いとも簡単に、その
差が、この中将棋の一変種を消失させるかのように述べたが、実際
には、現に遺跡からルールが書かれた遺物が出る程度には、普及し
たとは明らかに考えられる。
 では、前とは逆に、獅子に関する特別な規則の無い、獅子が狛犬
である中将棋が、ある程度は存続して、痕跡史料が出土する程度だっ
たのは何故なのかを、今回は論題にする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。
まず、回答は次の通りである。

通常の獅子が攻め駒中心である中将棋が、次の3つのタイプに分裂
していたと考えられる。

1.獅子が居喰いでき、現在のように獅子に関する特別な規則を持
つ、普通のルールの中将棋。
2.獅子に関する特別な規則を持たず、獅子が居喰いできないとい
う、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部等に記載された、
獅子のルールの中将棋。
3.2と同じく獅子が居喰いできないが、1と同じように、現在の
ように獅子に関する特別な規則を持つという、最も煩雑なルールの
中将棋。

そのため、この3つのバージョンの間で競合が起こり、狛犬タイプ
の中将棋を、漁夫の利を与える形で延命させたと考えられるため。

以上が結論としての回答であり、以下に説明を加える。
 前にも述べた事があったが、安土桃山時代に成立した、水無瀬兼
成の将棋纂図部類抄の中将棋後の注釈で、

”或説云居喫獅子許也”は、同じく将棋纂図部類抄の行然和尚まと
め部に記載されている、”獅子は16方向に不正行度する(踊る)
だけで、居喰いという、戻る手が無い”という説を否定する意図で、
水無瀬が記載したもの

と、本ブログでは考える。なお、この”或説云居喫獅子許也”の
解釈については諸説あり、大坂電気通信大学の高見友幸氏は、
”獅子が仲人を居喰いで取る事に関するものである”と論じている。
今の所、この高見氏の考えが、比較的普及しているのは確かだ。
 しかし本ブログでは、この説を、その直ぐ後の一文、
”仲人立聖目外”で、”仲人”をわざわざ再度記載している事から、
”居喫獅子許也”では、仲人に関する内容を記載しておらず、
”或説云居喫獅子許也”は、仲人を目的語とする一文ではないと、
この”仲人を、獅子が居喰いする事に関する記載”との説を否定し
ている。以下では仮に、本ブログの見方”単純な獅子の居喰い能力
の有無を記載”説が、仮に正しいと仮定し論じる。
 ようするに、”或説云居喫獅子許也”は、

行然和尚は、獅子は2手目で後戻りが出来ないと言うことだから、
獅子は居喰(喫)できないと、考えているという事であり、それに
対し、水無瀬兼成が、中将棋図注釈で紹介した異説では、獅子が
居喰いできるルールである

というふうに、安土桃山時代にも、獅子のルールに関して、結論で
述べた、異説の痕跡が残っていたと見られるのである。だから、
行然和尚がまとめ部で記載した、現在の中将棋の獅子ではない、
居喰いできない獅子が、南北朝時代にも有ったと考えるのは、自然
だと私は思う。
 以下は、想像の領域を出ないが、居喰いできない獅子は、

めんどうくさい、獅子に関する特別な規則を無くそうとして、むし
ろ、居喰いできる普通の獅子よりも、後設定した疑いが強い

と私は思う。何故なら、獅子の駒の動きのルールを玉将2歩とする
方が自然であり、2歩目でのみ、元に戻る升目だけを排除するのは、
より複雑化の流れだからである。敢えてこの複雑化をするとすれば、

獅子の力を少し弱めて、獅子同士の相討ちの手を少なくする狙い

だったとしか、少なくと私には考えられない。そこで中将棋の獅子
のルールとしては、当初結論の1で述べた、”
(1.)現在のように獅子に関する特別な規則を持ち、獅子が居喰
いできるルールの中将棋”に続いて、”
(2.)獅子に関する特別な規則を持たず、獅子が居喰いできない
という、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部に記載され
た獅子のルールの中将棋”が発生して、競合していたと想像される
のである。
 ところが、

獅子の踊り喰いは、狛犬とは異なり不正行度でなされるため、居喰
いの有無の変更による、駒の性能低下は、余りなかった

事が、指しているうちに、だんだん判ってきたに違いない。つまり、
居喰いの能力を無くしても、

獅子はまだ強いので、相変わらず、獅子同士の相討ちが発生してし
まった。

そこでやむなく、結論で述べた、”
(3.)2と同じく獅子が居喰いできないが、1と同じように、現
在のように獅子に関する特別な規則を持つという、最も煩雑なルー
ルの中将棋”に、2を止めて、取り替えようとした。が、その混乱
や、3と、1の居喰いが出来て、獅子に関する特別な規則もあるバー
ジョンとの間に、三つ巴の生存競争が起こってしまったのだろう。
 結局は、後戻りが出来る獅子の方が、後戻りだけ出来ない獅子よ
り、その分ルールが簡単なため、1.のバージョンが勝ったのだろ
うが。その競り合いに伴う、獅子中将棋派間の派閥争い時に発生し
た、”獅子に関する、特別の規則の是非に関する論争”の消耗が、
狛犬中将棋派を、ある程度延命させたのではないかと、私は考える。
 つまりこの混乱の結果、恐らく南北朝時代が、観応の擾乱のせい
で長引いた如くに、獅子を狛犬に取替え、かつ獅子に関する特別な
規則を止めた、第4の、すなわち鎌倉今小路西(鎌倉市福祉センター)
遺跡型のタイプの中将棋を、ある程度、記録が残る程度に、延命さ
せたのではなかろうか。
 何れにしても、安土桃山時代の水無瀬兼成著作の、将棋纂図部類
抄の行然まとめ部”狛犬”の項目に、もとの升目に戻れないとみら
れる、獅子が示唆され、”獅子駒とは一般に、居喰いができないも
のだと、多数派にはみなされている”という意味にもとれる、記載
が、同じく中将棋図の後の、水無瀬兼成のものと思われるまとめに、
書いてあるように、ここでは見る。よって、

居喰いできないルールの獅子駒

の存在について、南北朝時代から安土桃山時代にかけての実在を、
少なくとも頭から、否定はできないように、私は思うのである。
(2018/11/30)

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将棋纂図部類抄、中将棋注釈部の鳳凰仲人等行度如・の等の中身(長さん)

今回問題にする、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、中将棋図の後に
書かれた注釈部の最後に、”鳳凰仲人等行度如大象戯”と書かれて
閉められている。この一文をどう解釈するのかについては、大坂電気
通信大学の、高見友幸氏の詳しい先行研究がある。そこで、この文を
どう解釈して、駒数多数将棋の原初ルールをどのように推定するのか
に関しては、高見氏の研究を参照して頂くことにして、ここでは、こ
の文の読解ではなくて、

単に、”鳳凰仲人等”と書かれた、”等”の駒種の範囲に関して、何
者を指しているのかについてだけ問題とする。

最初に結論を書き、後で説明と、そう考えられる理由について述べる。

ずばり”等”には、龍王と龍馬の二種が含まれると考える。

では、次に以上の結論につき、根拠等を説明する。
 まず、鳳凰と仲人の例出してから、その他にたくさんの駒種を範囲
内にするとしたら、このような表現は、まずしないはずである。
”中象戯行度如大象戯”で良いはずだ。だから、等に含まれる駒の種
類は、せいぜい2~3種を、執筆者はイメージしているとするのが、
自然だと私は考える。
 そこで、2~3種類になるとして、何を言わんとすれば、このよう
な表現が出てくるのかだが、

論の枠組みに関しては、中将棋図の後で問題にしている駒の、範囲に
ついてだけに限定していて、そこで現われる駒のうち”獅子と飛鷲と
角鷹を除いた駒種類は、後期大将棋のルールを援用する”と言わんと
していると考えると、つじつまが合う。

なぜなら、将棋纂図部類抄の中将棋図の後の注釈で、駒のルールに関
する補足説明をしている駒種は、獅子、鳳凰、飛鷲、角鷹、仲人、
以上5種類と、駒名だけが登場する駒種類として、龍王と龍馬の2種
類があり、合計して7種類になる。そして、
獅子に関しては、居喰い、或る説曰く獅子の居喰いを許す(也)。と
記載され、一般的な獅子のルールが、中将棋の獅子には一部援用され
ない事を示唆する表現がある。また、飛鷲、角鷹は、中将棋に有って
も、後期大将棋には無いから、大将棋のルールが中将棋に、これら2
種類の駒に関して、援用される事はありえない。
 以上で、3種類の駒は”等”の範囲からは、除外される事は、明ら
かである。そうすると、残りは4種類になるが。鳳凰と仲人は、”等”
の前に具体的な駒名で挙げているから、”等”の範疇に当然入らない。
 すると、残りは龍王と龍馬の2種類だけになるのである。
 なお、なぜ龍王と龍馬を、”その他”にして差別したのかと言えば、

名前を挙げただけで、ルールの中身を、この将棋纂図部類抄中将棋図
後注釈部で、全く書いておらず、扱いが明らかに軽かったため

と考えれば、ぴたりと説明がつく。
 水無瀬兼成にしてみれば、後期大将棋に有る駒のルールに関しては、
将棋纂図部類抄では、詳しく別途に駒の動かし方のルールを示したの
は、前記の5種の駒だけであり、残りは単に、曼殊院将棋図の打点や
線を、基本的には写しただけであるから精度は低いと、認識していた
だろう。だから、今述べた獅子、鳳凰、飛鷲、角鷹、仲人、の5種類
以外の駒種については、

中将棋の駒の動かし方ルールは、後期大将棋と同じとか、そうでない
と議論しても、余りに元データ漠然としすぎている

と考えていた事は、少なくとも確かとは言えそうだと、私には思われ
る。
 将棋纂図部類抄の島本町教育委員会バージョン(水無瀬宮所蔵の、
正調、将棋纂図部類抄)の、後期大将棋の図には、鳳凰の打点がない。
これは、元々の曼殊院将棋図の、後期大将棋の鳳凰には打点があった
のだが。ひょっとすると、前後左右の歩みの点が無い等、水無瀬本人
が見ても、おかしなところが有ったのだろう。そこで将棋纂図部類抄
では水無瀬兼成は、大将棋の鳳凰に、ひょっとして打点を打たなかっ
たのではないか。
 恐らく加賀前田藩の書写者の書き込みかと思うが、将棋纂図部類抄
の後期大将棋の右猛豹の6升目上に、小さく、

”猛豹の真後ろの打点が抜けている。この図はおかしい”との旨の、
他人による書き込みの跡もある。

猛豹間違い.gif

曼殊院の将棋図自体、駒の動かし方ルールを示す打点に、元から幾つ
か、おかしな所も有ったのであろう。個別の駒の動かし方ルールに関
しては、本当に古来より、将棋纂図部類抄の島本町教育委員会バージョ
ン(水無瀬宮所蔵の、正調、将棋纂図部類抄)の通りだったかどうか
については、可能なら、鶴岡八幡宮遺跡出土の鳳凰駒の打点等、別の
史料も参照して、補正が必要な場合もあるのかもしれないと、私は、
個人的には考えている。(2018/11/29)

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奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡から後期大将棋の駒は出土したか(長さん)

日本共産党機関紙赤旗の2018年11月16日号に、増川宏一
氏の筆で、将棋が歩んだ歴史(3)が掲載されている。その2段
目の最初方に表題のように、”奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡か
ら後期大将棋の駒が出土している”との旨が、簡単にこれだけの
内容で記載されている。が、

この駒は、二中歴の大将棋そのものの駒であると思われる。

なお、奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡からは、

”両面草書飛龍駒”一枚しか、今の所出土していない。

よって、増川氏の言う、改良(後期)大将棋の駒とは、この駒の
事であると、まずは確定する。
 今回は、この増川氏の見方が、

誤りであろう

との観点から、以下解説する。
 何れにしてもこれについて、これ以上の説明が、新聞赤旗の該
当記事には見あたらず、これ以上の相手の主張は述べる事ができ
無いのだが。新たな説を、歴史研究者の間では、当たり前に知ら
れているかのように、啓蒙目的での日刊新聞に、増川氏が制限な
く書いているのは甚だ妙なので、以下私の主張も一方的に、どん
どん書いてしまうことにする。私の説の根拠は主に、

奥州藤原氏館跡から出た遺物は、二中歴の元になった、挙中歴、
懐中歴の著者の三善為康の時代と、二中歴が成立した鎌倉時代初
期の間にピタリと収まるとみられる事、

以上の点である。
 では増川氏は何を考えて、安土桃山時代に初出の、後期大将棋
の駒と考えたのかだが。これは私には、平凡社版2013年の
”将棋の歴史”と、今回の2018年11月の赤旗記事の間で、
増川氏の論を聞き取ったのは、前に本ブログで紹介した大橋文書
に関する講演会の一回だけだったので、ほとんど判らない。

両面飛龍駒の時代解釈が変わってきたとしたら、かなりのトピッ
クのはず

だが。日比谷図書館での大橋文書の講演会では、この両面飛龍駒
に関して、増川氏の言及は、特に無かったと思う。
 ただし、

二中歴の”大将棋の成りは玉将と金将を除いて、金将である”と
いう仮説が、同文献の(小)将棋のルールが大将棋には援用され
るというあくまで仮定仮説から、現在流布している事だけは確か

である。よって、両面飛龍なら、一般に流布した二中歴大将棋の、
全部金成りルールと合わないと考えると推論すれば、赤旗に増川
氏が記載した論が出てくる事が、一応納得できる。
 だが、本ブログでは、この考えは

誤りだ

と見ている。理由も、どんどん主張しないと、ここ以外には出て
こないため、主張の場としての学会を解散させるという割には元
気な、声の大きい増川宏一氏の論文の説だけを、どんどん載せて
いる日本共産党機関紙の赤旗に、このまま圧倒されそうだ。そこ
で、少なくともここでは、とっととすばやく、結論を書いてしま
おう。

二中歴の大将棋の記載の最後の10文字”如是一方如此行方準之”
は誤記とされているが、”如是行方一方如此成方準歩兵”と変更
するとほぼ意味が通り、”(注人)不行傍立聖目内成金将”と意
味が同じで、成りのルールが書いてあると、私は見ているから

である。なお、”(注人)不行傍立聖目内成金将”は、
”(仲人)不行傍立聖目内成酔象”と書かれた、安土桃山時代、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋と後期大将棋に挟まった
注釈部に書かれた文句を、注人を仲人へ、酔象を金将に、私が入
れ替えたものである。なお、この一行については、大坂電気通信
大学、高見友幸氏の別解釈もある。ここでは、関連しないので、
高見氏の説の紹介は略す。
 話を元に戻すと、

少なくとも、二中歴の最後の十文字は未解読なので、二中歴大将
棋のルールには、不明の点があると見なさざるを得ず、この赤旗
の増川氏記載の記事ように、飛龍の成りのルールを、将棋に準じ
て金将と、最初から決め付けてはいけない

という事である。
 なお、不明十文字の解釈には”これは先手側の配列等を示した
ものなので、後手の初期配列等は、先手側と点対称にする”と解
釈する別説(決め付けに近い主張も、web上に散見される)
がある。ちなみに、二中歴大将棋は線対称陣形なので、先手後手
を点対称で並べようが、盤中央で折り返し対称で並べようが、
いっしょで、この説が正しいとして、敢えて注記しているとすれ
ば、理由は謎である。また”行方”を動かし方のルールと解釈し、
先手、後手とで駒の動かし方ルールが同じであると解釈する見方
もあろうが、日本の将棋の駒は、位置不変性という特徴もあり、
先手と後手とか、盤上の位置とかで、動かし方のルールが変化す
るという懸念も、元々乏しいし、その観点の、二中歴での提示は、
あるとすれば不自然で、唐突である。
 つまり、私の解釈の方が仮に正しいとすると、注人は成りのパ
ターンの一例の例示であり、他の、平安大将棋で新たに現われる
駒の成りは、そのコンセプトに準拠するという意味。すなわち、

”飛龍は、横方向へも走るし人間駒でも無いから、二中歴大将棋
では、不成りである”と、解釈できると言う事

である。だから両面飛龍駒は、

後期大将棋にも、1320年頃のバージョンは謎だが普通唱導集
大将棋にも、そして問題の平安大将棋の駒としても、全部使える

と言う事である。
 しかし、発掘された遺跡の時代は、ほぼ二中歴の大将棋の時代
に合うという事である。だから、可能性としては、

奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡の両面飛龍駒は、二中歴大将棋用
の駒の可能性が最も高い

と、いまのところ見なさざるを得ないのではないかと、少なくと
も本ブログでは、以上のように考えているのである。
 なお、二中歴のルールに関する”如是一方如此行方準之が、
誤記である”という認識は、増川宏一氏自身が、ものと人間の文
化史23-1、将棋Ⅰ(1977)、法政大学出版会で指摘した
のが、最初とみられる。
 ここ数年の間に、増川氏自身が”後手の初期配列は、先手側の
陣と点対称である”との説に、確定させたかどうかは謎であるが。
何れにしても新聞赤旗に、これ以上の事が全く書いていないため、

赤旗2018年11月16日10面の志羅山遺跡の両面飛龍駒に
関する主張は、執筆者の従来の結論を、充分に踏まえて居無い疑
いが拭いきれない

と、今の所読手としての私には、見なさざるを得ないと、結論す
るしかないというわけである。(2018/11/28)

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平安小将棋が中国中原文化所属であるなら、大将棋は発生するか(長さん)

さいきんwebの一部のブログで、”増川宏一氏執筆記事の新聞連載
が始まった。”との情報が流れている。具体的に新聞が何なのかが、
そのブログでは公開されていなかったため、しばらく私には謎だった。
 しかし、ようやく最近になって、日本共産党の機関紙の赤旗に、
2018年11月の頭から、金曜日だけ”将棋が歩んだ歴史”という
連載がある事を、そのホームページから知った。赤旗のホームページ
には、第1回目の同年11月2日の切り抜きの画像が、公開されてい
る。そこで、この連載を調査した所、大将棋関連では、表題に書いた
ように、日本の将棋の伝来経路に関連して、増川氏流の東南アジア説
を補強するため、

”もし将棋が中国から伝来したのなら、規範が厳しくてこんなに容易
に(平安小将棋、平安大将棋、後期大将棋と、)変更することはでき
なかったであろう”

との文言が、一言だけ第3回連載分(同年11月16日 10面)に
入っている事が、判明した。この証拠立ては、今の所、この赤旗の新
聞記事でしか、私は見かけた事が無い。
 そこで今回は、この論が正しく、平安大将棋や後期大将棋の存在が、
元になる平安小将棋が中国中原文化所属で無い事の、根拠に成り得る
のかどうかを、本ブログが主題としているという立場上、記載の当否
を問題にする事にしよう。
 最初に結論を書き、ついで根拠を後で述べる。

平安小将棋が、中国中原起源との仮りの事実が在り、日本で権威が有っ
た中国文化との間に強い関連が仮想的に有ったとしても、平安大将棋
は陰陽五行との関連、後期大将棋は、易学九星との関連で、それぞれ
先代の形態よりも優位と根拠づけられるので、後続の改良大将棋の発
生は必然だった

と、私は考える。
 では、以下に説明を加える。
 まず、小将棋から平安大将棋が出来るという点に関しての、仮想の
阻害要因との関係について議論する。
 仮に平安小将棋は、現在の中国シャンチーとは違うが、中国中原に
て、その原型が指されており、中国中原文化の一部としての、精神的
権威が、日本人の特に知識人層には、存在したものとする。
 しかしながら、この将棋には、

陰陽三行はあるが、陰陽五行に従って居無い。

つまり、平安小将棋には8升目であろうが9升目であろうが、将駒が
3種類しかない。だから仮に、平安時代の朝廷内で、中国中原文化の
権威を後ろ盾にしながら、平安小将棋の特定のタイプを、国の将棋と
するような制度を制定しようと”詔に近いもの”を、たとえば白河天
皇が発したとする。その時に、その詔の原案作成で、采配を仕切って
いる勢力が、対立する勢力にとって、仮に気に食わなく、かつ、玉将
を王将へ変更するといった、具体的内容に関して、対立二番手勢力が、
嫌気を持っている等の事情が、仮にあったとする。そうすると、

小将棋は陰陽道に合わないという点を攻撃点として、平安小将棋の標
準化等を阻止しようとして、実際には日本への軍事的脅威の及ばない、
北宋王朝との関係を見据えた上で、平安大将棋の、玉将、金将、銀将、
銅将、鉄将の五将形大将棋を容易に、対抗的に生み出し得る

と、私は考える。だから、増川氏の論のように、平安小将棋に、中国
中原の文化の一部であったとして、規範となる権威が日本の特に、上
流階級に、仮想的に有ったとしても、”平安小将棋から平安大将棋が、
改善されて、出てこない”という仮説は、成り立たないと考える。
 次に、平安大将棋から後期大将棋への改善に、中国中原で、日本型
の将棋が、仮想的に文化の一部であり、その思想に権威があったとし
て、阻害要因になるのかどうかを考察する。
 この場合も、改善の阻害要因にはならないと私は考える。
 なぜなら、平安大将棋には、13升目であるために、15と異なり、
3で割り切れないという性質があるからである。すなわちその将棋盤
は、中国の易学の九星占いのデザインに、作成しても合致しないとい
う関連文化上の瑕疵がある。それに対して、
15升目の後期大将棋は、聖目の位置が5升目ごとにすれば、九星占
いの図を模したものになるため、九曜のデザインとして、中国易学と
の親和性がより大きい。

だから、13升目の平安大将棋に対して、中国易学からは遠いという
点を攻撃材料にして、15升目に変化させる根拠があると考えられる。
従って、13升目から15升目の将棋への変更は、中国中原が日本の
将棋の源であっても、平安大将棋を絶対化、固定化するほどの、強い
要因になるはずが無い

と、私は考える。
 よって、平安大将棋から後期大将棋への変化も、日本の将棋が中国
中原起源では無いと言うほどの、根拠にはならないのではないかと、
私は考える。
 以上の論をまとめると、日本の特に小将棋の最下段配列、玉将、金
将、銀将、桂馬、香車に、元となる中国の古将棋が対応するという、
仮想仮説が正しいとする。そしてそのために、日本の原初将棋に、
中国中原印といういわばブランドがイメージとして付いており、その
規範感が、次代の将棋への進化を、遅らせるように作用したとする。
 しかしそうだとしても、同じく中国中原印が付いている陰陽五行説
や、易の九星占いの方が、よりその汎用性が、日本人にとってはずっ
と大きいだろう。そのため両者の力関係の差で、結局の所は、平安大
将棋や、後期大将棋の発生を遅らせる事には、ならないのではないか
と、ここでは見ると言う事である。
 以上で、今回の論題に関する説明は終わる。
 蛇足だが朝鮮チャンギは明らかに、中国中原文化起源とみられる。
が、ある時期、このゲームは朝鮮広将棋を生み出している。つまり、
日本よりも大将棋様のゲームが、増川氏のこの論で出にくい地域にも、
改善ゲームが、現実として現われている。だから、そもそも中国の古
ゲームに、増川氏の言う、厳しい規範性があり、関連各国では、それ
からの、ゲーム変化が少なかったったはずだと言う論理自体、事実か
らかなり遠いのではないのだろうかと考える。すなわち私は、この
11月16日の赤旗の記事を読んで、不可解感を正直感じているとい
う事である。(2018/11/27)

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南北朝時代今小路西社会福祉センター中将棋は何故淘汰されたか(長さん)

前に、神奈川県鎌倉市今小路西(社会福祉センター)遺跡よりの
出土木札に書かれた、南北朝時代の中将棋のルールは、今のとは
異なり、恐らく獅子に関する特別な規則が無く、奔王隣が獅子で
はなくて、狛犬の将棋であろうと述べた。
 そして、この将棋の特徴は、今述べたように、狛犬には獅子に
関する特別な規則が不要で、成り麒麟にも一般的に、そのルール
が存在する必要性が無いために、今の中将棋のような、合否判定
の、特殊なケースの煩雑さが無い。また、狛犬には居喰いの性質
が無いため、さしあたりそれで問題が無く、比較的有望な中将棋
ゲームになるのではないかとの見解を、本ブログで示した。
 では、良い事ずくめに見える、この古中将棋が、実際には、
奔王の隣に、普通に獅子の有る中将棋に、淘汰されて残らなかっ
たのは、どういう理由によるものだろうか。以上を今回の論題と
する。
 いつものように、結論を先に書き、その次に説明を加える。
以下結論である。
 攻撃力(オフェンス)が、主力の狛犬に居喰いのルールが無い
ため、防御(ディフェンス)に比べて、やや弱かった。そのため、
通常の中将棋にゲーム性能で少し劣り、遂に淘汰されて消えたと
みられる。
 では、以下に説明を加える。
 さいきん私は、実際に、このゲームを駒を並べて、チェックし
てみた。下の写真は、この将棋の初期配列である。

今小路初期配列.gif

写真で紙を張ってあるのが、狛犬駒である。この駒は、大坂電気
通信大学のルールで8方3升目踊りのルールであるとした。なお、
居喰いはできない。
 ざっと、駒を動かしてゲームをしてみると、終盤は一例として
以下のような局面に、到達する。

今小路終盤.gif

 この局面では、攻め駒の主力が、先手・後手とも狛犬だけの状
態になった所である。まだ、引き分けとまでは行かないが、勝負
は、このあとだらだらと続くという、両者共に、攻めが失速した
状態になっている。ようするに、

攻め駒が足らず、両軍とも玉を守りきったに近い状態

である。こうなったのは、やはり獅子と異なり狛犬には、踊り喰
いはできても、居喰いが出来ないため、壊れかけた相手陣を、

完全に破壊する能力に関して、狛犬の方が獅子より弱い

ためである。また、攻め駒が一枚だけになっても、相手陣が大き
く崩れていると、獅子なら単独で詰むことが多いのだが、狛犬に
は、その性質が無い。

だから、普通に特別の規則の煩雑性に我慢しながら指した中将棋
に、この狛犬中将棋は、だんだんに淘汰されるだろうと予想

される。
 ちなみに鉄将も、守り駒としては、その存在が有効で、鉄将を
取って、猛豹を1升目後退させ、96枚制を92枚制にすれば、
ディフェイスが弱まるのと、麒麟が自陣の中で移動しやすくなっ
て、相手に取られにくくなるため、

92枚制の方が、96枚制よりも、良い

とみられる。
 更に、いっそ盲虎を猛虎に戻すという手もあるが、このケース
は、守りがいっきに弱まり、恐らく今度は攻め方が強くなりすぎ
て、狛犬が追いかけまわすが、捕まらない玉の将棋になり、駄目
だろう。
 少なくとも同じ条件なら、狛犬よりも獅子の方が終盤は、中将
棋は面白く、この2種類しか無いとすれば、現代の中将棋の方に、
やがては収斂しそうである。(2018/11/26)

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興福寺出土駒の中に香車が無い理由は、聞香札への転用ではない(長さん)

以前に、本ブログでは、興福寺出土駒1058年物、1098年物
に何れも、香車が無い事、鎌倉時代から南北朝時代にかけての、
全国遺跡出土駒に、新安沖沈没船駒を除くと、小将棋用の香車が少
ない事、近畿地方で、香車駒の出土数の割合が少ない傾向が有る事
等を述べた。その際、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡では香車の駒が多
い事から、公家は使っても、武家が聞香札をあまり使わなければ、
香車駒を、聞香札に転用する事が無いため、聞香札等への、将棋駒
の転用によって、香車だけ捨てられにくいのではないかという、論
を述べた。
 しかしながら、最近調べた所、

 一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館では、将棋駒と聞香札が、共出土して
いる

事が判った。文献としては、成書の次の物が挙げられる。

図解日本の中世遺跡 小野正敏他著 東京大学出版会 2001年

上記の書籍に、朝倉館から出土した聞香札として、6枚の図が載っ
ている。

裏一文字(以下同様)春一駒。裏秋一駒。裏秋二駒。裏秋う駒。
裏花う(?)駒。裏花叶駒。

以下の成書によると、上記は室間時代から続く、”十種香”(香
当てゲーム)用の札だという事である。

香の本(増補版) 荻須昭大著 ㈱雄山閣 2017年

 上記の成書の解説を読む限りの、以下は私の印象であるが。
ゲーマーのレベルは進化したが、ゲームの仕方自体は、将棋などと
は異なり、聞香については、室町時代と今とで、ほとんど変化が
無いようだった。なお、駒はほぼ長方形であるが、他と区別する
何らかの必要性があるのか、裏一文字秋う駒だけ、五角形で、将棋
駒の外見と、良く似ている。
 何れにしても、それなら香車が捨てられないはずの、朝倉館から
香車駒は、不足無く出ているから、

聞香札に使うため、香車駒だけ、捨てられなかったという以前の
仮説は、間違いの可能性がある

と言う事だけは、確かだとみられる。
 そこで、だいぶん前置きが長かったが、今回は、では興福寺出土
駒に、香車が無いのは何故かと、再度問うこととする。
結論を書く。

将棋場を案内する道しるべ用に、興福寺の香車駒は取っておかれた

からだと考える。以下に、そう考えられる理由を説明する。
 言うまでも無く、香車とその他の駒の違いは、一般には歩兵を除
いて小ぶりな事と、書いてある字の内容だけである。しかも、興福
寺遺跡の出土駒は、11世紀のものなため、今と違い、

他の将棋駒と、香車との間で大きさの違いはほぼ無い。

だから小ぶりなため、無くし易いという理由付けをする事が、そも
そもできない。そこで私は考えたのだが、香車と他の駒とで差は、

将棋駒を場所案内用の矢印の小板道標と見たときに、目的地の方向
を示す機能が在り、かつ指し示す目的施設が、”将棋場”である事
を示唆できるのは香車駒だけ

だという事である。なぜなら、矢印の先にだけ、香車は進み、かつ
距離は問わないので、香車だけが、方角表示に使えると考えられる
からである。では、案内用の小板だとして、直進とか、目的地の場
所とかを書かずに、香車にした理由だが、ずばり

将棋場は、賭博施設とみなされているため、場所名をずばりは書け
なかったため

ではないかと、私は考えた。ようするに”矢印香車”という立て札
としての小板は、

”賭博場はこちら”という意味ではないか

という事である。
 特に少し後に、興福寺奏状で”囲棊が寺院内で、はびこる事に対
する苦言”を、貞慶が述べている事からも判るように、興福寺内で
の賭博施設への出入りは、原則的に禁止されていただろう。だから、
場所の看板も、おおっぴらには出せなかったのではないか。そのた
め、”香車はこっち”と書けば、判る下っ端の僧には、将棋場の場
所だと判ったので、立て札代わりに、それとしてはかなり小ぶりの
将棋駒がこっそり、しかし公然と使われ、しかも、それはいつも、
隠語で賭博場を意味する、香車の駒であったのだろう。そのために
香車は、興福寺の賭博場では劣化しても、簡単には捨てられずに、
立て札用に、取っておかれたのではなかろうか。
 なおその他、香車が出ない遺跡として、時代は下るが、滋賀県の
観音寺城下町遺跡がある。この遺跡も地名からして、寺の城下であ
るから、興福寺と同類と言える。ただし、岩手県の中尊寺境内金剛
院遺跡からは、香車が有る程度は出ているから、これで謎が完全に
解けたわけでもない。だから、

近畿地方の寺院では、将棋を僧侶が指す事に関する、戒律違反の責
めが、地方よりも厳しかった

と、今の所考えるほかは無い。
 ただし時代が下れば、香車駒とほかの将棋駒との間で、大きさに
差が出てくるので、中尊寺の例を除けば、以上のような考えでも、
香車の欠乏は、今の所は説明できそうな気がする。(2018/11/25)

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兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒。駒字が下にズレて歪んでいる訳け(長さん)

西暦1986年頃発掘された、表題の兵庫県日高町深田遺跡の成り
が良く判らない、歩兵と言われる駒は、西暦1094~1096年
を示唆する年号木簡が共出土し、西暦1058年物の、奈良県興福
寺の出土駒が発掘されるまで、日本で最古級の駒史料とされてきた。
 オモテ面の中央すこし下に、歩兵の歩の下の”少”の最後の画と、
兵の”丘”の、最初の画が薄っすらと成書、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒の写真でも検知される。そのため歩兵の歩の字が、幾分か
下から書き出した上に、兵の字が駒の下に少し歪んでいるように、
一般には見られている。
 しかしながら、歩の上の空白が少し大きすぎ、兵の字を書く余裕
が、余り無くなった、不自然な書である。今回は、どうしてこのよ
うに、兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒が

歩兵の字が駒全体から見ると、下にズレたような配置になったのか

を論題とする。
 回答を最初に書き、そのあといつものように説明を加える。
以下回答である。

この駒は磨耗しており、下部が、元々の長さよりかなり短くなって
いる。恐らく歴代の駒としては、4.5cm程度の最長の駒で、
全体として、その後の標準的な、日本の将棋駒に比べて、やや大振
り、将棋盤もそれなりに升目が粗く、少し規格が今とは違っていた

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログによると、日本へは立体駒を使った、原始平安小将棋が
1セットだけ伝来し、西暦1015年の年初頃に、五角形駒が、九
州恐らく福岡県の博多付近の、国内で発生したとみている。従って、
西暦1094~1096年に、この日高町の深田駒が作成されたと
すると、発明から約80年後である。
 以下はあくまで本ブログの見解に過ぎないが、駒が五角形である
という点では、80年という時間は、安定性が発生する長さだが、

駒の全体的な大きさと、将棋盤があるとして、その規格がきちんと
決まるには、やや時間が足りない

のではないかと考える。つまり、国府に駐屯する平安時代の播磨の
武士が、この駒を使い、紙ないし布、あるいは木の切り株等に、線
を引いて作った、将棋盤を指すとした時に、

但馬武士には、将棋駒が五角形(まだ、寸胴形)とすべしという常
識は存在したが、駒の全体寸法については、聞き取りが曖昧であっ
ても、特におかしくなかった

ように、私には思える。いわゆるゲーム用の駒の大きさであるとの、
認識程度だったのであろう。
 そのため、

たまたま、一辺の長さで30%位大きく、体積や重さで、奈良興福
寺の将棋駒を標準としたときに2倍強ある、将棋駒セットが、
日高町では作られた

としても、さほどおかしくは無いように、私には思える。
 我々が、この歩兵の字を見て、奇妙な書体に取るのは、

標準的な将棋の駒を見慣れているために、この駒の大きさを
過小評価し、駒の下部が磨耗して消失しているのに気がつかず、
駒字が下に、普通にはみ出しているだけなのに、
兵が下で、寸ヅマリになっているように、間違って見ているだけ

なのではないか。
 つまり、現在この遺物が、普通の駒の大きさに見えているのは、
単に長い年月で、木片が磨耗して下部が無くなって短くなり、たま
たま大きさが、普通なように見えているだけなのではないか、と言
う事である。
 ようするに駒木地が大振りだと、比較的駒字のスペースには余裕
が出来るので、

単に歩兵の歩の字の書き出しが、他の将棋駒より幾分下から始まっ
ているだけではないか

と言う事である。
 この事から、日本の将棋駒は五角形駒が発明されてから、

100年位は、良く見れば気がつく”初期の混乱”が有った

と言えるのではないかと、私は考える。つまり、”五角形駒が伝来
品ではなくて、日本での発明品だとすると、初期の混乱が無いのは
おかしい”という指摘は、

事実認識自体が間違い

なのではないかと、私は個人的に、疑っているという事である。
 なお私は、興福寺出土駒の西暦1058年物のオモテの、

崩し字”也”(成りの意味)のばらつきも、元駒金将と各駒の成り
の金将の表現を別にして、配列時、どちらがどちらかが、裏返さな
いと判らないような、めんどくささを無くすための工夫の手法の、
具体的内容に関する、初期のばらつきによる混乱

だと考えている。ただし興福寺出土駒の、この現象については、

”棋士への教育のための、也の字の付け加えであり、そのバラツキ
は、原始平安小将棋(のゲームとしての定着)が、発展途上であっ
たことを示す”

との説が根強い。しかし、日高町深田遺跡歩兵駒の大きさが、普通
より大きくなる事により、初心者の将棋ゲームに対する理解が、よ
り深まるとは考えにくい。こうしたバラツキは、五角形将棋駒とい
う、ゲーム器具が、発展途上であったのであって、原始平安小将棋
は、ルール自体は格別複雑でもないので、48年や80年経った後
には、初心者も駒を手にした時点で、混乱は特に無かったのではあ
るまいか。そもそも、少なくとも本ブログでは、原始平安小将棋の
ルール自体は、立体駒を使った輸入時点で、外国(ここでは大理国
と推定)で確立されており、内容は”自殺手と裸玉の優先度”といっ
た、細則を除けば、ほぼ、安定していたと見ているのである。

”『日本の将棋駒は、五角形にすべし』と言うから、五角形駒にし
ただけではないか。大きさを、他の地方とピタリとあわせろとまで
は聞いてない”と、日高町深田遺跡の歩兵駒を作成した駒師の声が
聞こえる。

私にはこの駒を見ると、そのように感じるのである。(2018/11/24)

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滋賀県大津坂本城遺跡2018年発掘駒。西暦1500年頃の物(長さん)

前に紹介した、滋賀県大津市の琵琶湖のほとり、坂本城遺跡から
出土した、成り一文字金(?)桂馬駒に関連して、少し詳しい情
報が、新聞各紙で報道された。

坂本城の城内から出土したものでは無い疑いがある

という事だ。城と考えて発掘調査をしたところ、城は少し狭くて、
城の近くの町場を、発掘していたとい事であったらしい。
 また、年代も少し古くて、共出土した遺物は、

西暦1450年から西暦1550年位のもの

ではないかと言う事である。既に本ブログでは、桂馬駒の形から、

安土桃山時代よりは新しそうだ

と述べた。具体的には、富山県の石名田木舟(B2)遺跡の王や
金の駒よりは、形が今のに近いし、島根県出雲市の高浜I遺跡で、
将棋盤の一部と駒二つが出土したが、その将棋駒よりも、写真で
見る限りは、坂本城の今回桂馬の方が、より末広がりで、今の駒
に近い感じである。なお滋賀県大津市坂本では、

以前にも成り不明な、形の崩れた香車駒が出土していて、これも、
江戸時代とされる、大坂城下町の将棋駒に、強いて壊れた部分を、
想像で補うと似た形

であった。京都の出土駒が少ないため、より流行の先端に近い、
京都の傾向が、京都そのものの遺物からは、従来判らなかったか
らの誤差かもしれない。
 更に今の所、飛車か角行駒が、坂本遺跡からは出土していない
ため、確実では無いが、ひょっとすると、

西暦1500年には、現行の日本将棋が、琵琶湖のほとりでは、
指されていた

事を証明する遺物の一つになる可能性もあるのだろう。よって、

この、保存の良かった桂馬駒の発掘はやはり貴重なものだった

確率が大きいように、現時点で充分考えられる。(2018/11/23)

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伝北宋時代の裏絵付きシャンチー駒。裏面砲の絵は投石器(長さん)

webにも載っているが、北宋時代の都の開封から、裏面に絵が
書かれた、シャンチー駒が出土している。一説には北宋王朝期の
駒であるとされるが、明王朝の時代との説も有ると、持駒使用の
謎(木村義徳著。日本将棋連盟発行、2001)には書いてある。
 この裏の絵についてであるが、最近まで私は、砲の裏の絵は、
砲弾であると勘違いしていた。そこで今回じっくりと、この絵が
何を表現したものなのかを、正確に確認する事にした。
 答えを先に書くと、

投石器しか、書いてないようである。

つまり、投石器部隊を表現したものである。以下に、もう少し説

北宋砲.gif

明する。
 この良く話題にされる、裏面絵付きシャンチー駒は、銅製であ
ると言う事だ。砲駒の裏面には、正立させて見ると、
右に、砲弾をセットする操作兵が人形型に書いてあり、左側の、
一見、ジャングルジムのように見える塊は、例えば霹靂砲の砲弾
が書いてあるのではなくて、

投石器、正確にはトレビュシェットが書いてある

だけのようだ。そして下の方にU字形に見えるのが、投石部分で
あり、U字の左端の付近に、実際の絵では、細かくなりすぎて、
表現できないのだと思うが、砲弾セット部分があると見られる。
つまりこの絵から、

砲弾が何なのかは、全く判らない

と言う事である。
 なお、左上から斜め下に向かって右下の方に、太い線で描かれ
ているのが、投石器の心臓部である、投石アームであると見られ
る。他の駒との比較から、人間と投石器の大きさの比は、余り当
てにならないと思われる。実物は数メートルの桁の大きさだろう。
 絵から、”砲駒は投石部隊が、中国には古代から存在するので、
シャンチーの駒の要素に加えられるのは、シャンチーの起源が
何時であったとしても自然”との主張が、一応感じられる。実際
の戦争では、西洋の初期の頃の十字軍が、この武器で成果を挙げ
たと聞いている。なおモンゴル帝国来襲時には、砲弾の震天雷は、
手榴弾として投げられたものが威力を発揮し、大型の投石器が、
のんびりと設置された後で、使われたという記録は無いようだ。
何れにしても、

中国人には投石器部隊の象棋駒を、古代から考える能力はあった

ようだ。
 成功はしなかったが。イスラムシャトランジに、だいたい砲の
ルールに近い駒を入れて、ゲーム性を改善しようと言う、精神自
体を、中国人のゲーマーが持つようになったのは、北宋王朝の
成立期よりも、かなり前であっても、ひどい矛盾は無いのかもし
れない。砲という駒の発生の萌芽は、玄怪録の、”石火矢が飛び
交う”との記載の時代には、恐らく有る事は有ったのだろう。
(2018/11/22)

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朝倉遺跡”天童の将棋駒”176番の歩兵の字は何故曲がったか(長さん)

本ブログでは、将棋駒は原初、その駒木地である経帙牌が、中国交
易商人から、五角形駒の発明者である博多等の写経所僧侶が、原始
平安小将棋のルールを聞き取る際に使用した、ルールブックである
との見方をしている。今回はそれに対応する、史料の話である。
 さて成書”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”(山形県天童市将棋
資料館発行・2003年)には、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の第9次
発掘の出土将棋駒(約173枚)のうち65枚程度が、一部写真と、
スケッチ図で載っている。なお、この遺跡からは40次や49次、
84次等でも、9次よりは数は少ないが、将棋駒の出土がある。
前記9次の出土駒には、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の番号だろ
うが、通し番号が付いていて、表題の歩兵駒で176番という駒が
ある。ただし、成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、176番
歩兵の写真は、ひどく不鮮明だ。そこで最近別の次の成書で、この
歩兵の、より鮮明な写真を見つけて、その観察精査を行った。

考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび(雄山閣、
1998年)大塚初重他編集。将棋駒部分執筆:水野和雄(福井県
立歴史民俗資料館(当時))

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒によると、問題の176番の”と金
に成る歩兵”は、表面の歩兵の字が、右に大きくカーブした、

異常な書体である。

ここでは、表題のように、この歩兵が異常な書体である理由を、よ
り鮮明に撮れている、前記の別の著書から解明する事を、今回の論
題とする。最初に結論を書く。

”歩兵は金に成る(也る)”という、成りのルールを示すルールブッ
クに、この駒のオモテ面が、兼ねられていると見られる。


歩兵金也.gif

では、以下に説明を加える。
 考古学による日本の歴史 芸術・学芸とあそびの写真によると、
一乗谷朝倉遺跡出土(9次)176番の歩兵の兵の字が、右にカー
ブした結果、表面の左下に空きが出来る事になる。だが、そこには、

金也と、極薄く書いてある

ようである。也の方は、上記成書にかなりはっきり写っている。た
だし、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真では、金も也も良く
判らなかったし、同じく天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のスケッチ
の紹介では、

”金”は薄いのでかなり存在がきわどいが”也”の方も書いてない。

写真から、少なくとも”也”の字が、176番歩兵の表面に有るの
は、ほぼ確実なのではないかと、私は思う。

貴重な写真が、成書に掲載されていて、たいへんありがたい事だ。

この駒は将棋駒が、古代にはルールブックであった事を、示唆して
いるようにも見える。また、この駒を見て、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒記載の、一乗谷朝倉氏遺跡第9次発掘第180番の、

実用性の無い両面歩兵駒が、これ見よがしに作られた

のかもしれない。”176番よ、ウソをつけ。所詮、一生懸命戦っ
ても、歩兵は歩兵じゃないのか”と言いたげな、180番歩兵作者
の姿が想像されよう。
 一乗谷朝倉氏遺跡からは、別に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
番号178番の成りホータン(和田)歩兵駒も出土している。特に
歩兵の話題が多い所を見ると、将棋の現地の棋士が、足軽クラスが
多かったとも想像できる。ともかく将棋史の話も交えながら、わい
わい騒ぎ、恐らく酒でも飲んで、将棋駒を作りながら、一乗谷朝倉
館では、皆で将棋を指していたのだろう。
 将棋駒は木札の一種なため、表面には基本的に何でも書ける。だ
から、本来の遊戯具の駒とは、その点で異質な特徴があると言う事
が比較的はっきりと出た、興味深い史料だと、この駒を見て私は考
えている。(2018/11/21)

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