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狛犬型今小路西福祉センター中将棋。何故幾らか普及したのか(長さん)

既に述べたように、南北朝時代の神奈川県鎌倉市の遺跡、今小路西
(鎌倉市福祉センター)遺跡出土の木板で、将棋場で選択されてい
ると見られる、通常の獅子の位置に狛犬が入っている中将棋は、
獅子に比べて狛犬の威力が小さいため、獅子についての特別規則と
いう、煩雑なルールが存在しないにもかかわらず、現在淘汰されて
残って居無いと考えられる。以前の考察では、いとも簡単に、その
差が、この中将棋の一変種を消失させるかのように述べたが、実際
には、現に遺跡からルールが書かれた遺物が出る程度には、普及し
たとは明らかに考えられる。
 では、前とは逆に、獅子に関する特別な規則の無い、獅子が狛犬
である中将棋が、ある程度は存続して、痕跡史料が出土する程度だっ
たのは何故なのかを、今回は論題にする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。
まず、回答は次の通りである。

通常の獅子が攻め駒中心である中将棋が、次の3つのタイプに分裂
していたと考えられる。

1.獅子が居喰いでき、現在のように獅子に関する特別な規則を持
つ、普通のルールの中将棋。
2.獅子に関する特別な規則を持たず、獅子が居喰いできないとい
う、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部等に記載された、
獅子のルールの中将棋。
3.2と同じく獅子が居喰いできないが、1と同じように、現在の
ように獅子に関する特別な規則を持つという、最も煩雑なルールの
中将棋。

そのため、この3つのバージョンの間で競合が起こり、狛犬タイプ
の中将棋を、漁夫の利を与える形で延命させたと考えられるため。

以上が結論としての回答であり、以下に説明を加える。
 前にも述べた事があったが、安土桃山時代に成立した、水無瀬兼
成の将棋纂図部類抄の中将棋後の注釈で、

”或説云居喫獅子許也”は、同じく将棋纂図部類抄の行然和尚まと
め部に記載されている、”獅子は16方向に不正行度する(踊る)
だけで、居喰いという、戻る手が無い”という説を否定する意図で、
水無瀬が記載したもの

と、本ブログでは考える。なお、この”或説云居喫獅子許也”の
解釈については諸説あり、大坂電気通信大学の高見友幸氏は、
”獅子が仲人を居喰いで取る事に関するものである”と論じている。
今の所、この高見氏の考えが、比較的普及しているのは確かだ。
 しかし本ブログでは、この説を、その直ぐ後の一文、
”仲人立聖目外”で、”仲人”をわざわざ再度記載している事から、
”居喫獅子許也”では、仲人に関する内容を記載しておらず、
”或説云居喫獅子許也”は、仲人を目的語とする一文ではないと、
この”仲人を、獅子が居喰いする事に関する記載”との説を否定し
ている。以下では仮に、本ブログの見方”単純な獅子の居喰い能力
の有無を記載”説が、仮に正しいと仮定し論じる。
 ようするに、”或説云居喫獅子許也”は、

行然和尚は、獅子は2手目で後戻りが出来ないと言うことだから、
獅子は居喰(喫)できないと、考えているという事であり、それに
対し、水無瀬兼成が、中将棋図注釈で紹介した異説では、獅子が
居喰いできるルールである

というふうに、安土桃山時代にも、獅子のルールに関して、結論で
述べた、異説の痕跡が残っていたと見られるのである。だから、
行然和尚がまとめ部で記載した、現在の中将棋の獅子ではない、
居喰いできない獅子が、南北朝時代にも有ったと考えるのは、自然
だと私は思う。
 以下は、想像の領域を出ないが、居喰いできない獅子は、

めんどうくさい、獅子に関する特別な規則を無くそうとして、むし
ろ、居喰いできる普通の獅子よりも、後設定した疑いが強い

と私は思う。何故なら、獅子の駒の動きのルールを玉将2歩とする
方が自然であり、2歩目でのみ、元に戻る升目だけを排除するのは、
より複雑化の流れだからである。敢えてこの複雑化をするとすれば、

獅子の力を少し弱めて、獅子同士の相討ちの手を少なくする狙い

だったとしか、少なくと私には考えられない。そこで中将棋の獅子
のルールとしては、当初結論の1で述べた、”
(1.)現在のように獅子に関する特別な規則を持ち、獅子が居喰
いできるルールの中将棋”に続いて、”
(2.)獅子に関する特別な規則を持たず、獅子が居喰いできない
という、水無瀬兼成将棋纂図部類抄の行然和尚まとめ部に記載され
た獅子のルールの中将棋”が発生して、競合していたと想像される
のである。
 ところが、

獅子の踊り喰いは、狛犬とは異なり不正行度でなされるため、居喰
いの有無の変更による、駒の性能低下は、余りなかった

事が、指しているうちに、だんだん判ってきたに違いない。つまり、
居喰いの能力を無くしても、

獅子はまだ強いので、相変わらず、獅子同士の相討ちが発生してし
まった。

そこでやむなく、結論で述べた、”
(3.)2と同じく獅子が居喰いできないが、1と同じように、現
在のように獅子に関する特別な規則を持つという、最も煩雑なルー
ルの中将棋”に、2を止めて、取り替えようとした。が、その混乱
や、3と、1の居喰いが出来て、獅子に関する特別な規則もあるバー
ジョンとの間に、三つ巴の生存競争が起こってしまったのだろう。
 結局は、後戻りが出来る獅子の方が、後戻りだけ出来ない獅子よ
り、その分ルールが簡単なため、1.のバージョンが勝ったのだろ
うが。その競り合いに伴う、獅子中将棋派間の派閥争い時に発生し
た、”獅子に関する、特別の規則の是非に関する論争”の消耗が、
狛犬中将棋派を、ある程度延命させたのではないかと、私は考える。
 つまりこの混乱の結果、恐らく南北朝時代が、観応の擾乱のせい
で長引いた如くに、獅子を狛犬に取替え、かつ獅子に関する特別な
規則を止めた、第4の、すなわち鎌倉今小路西(鎌倉市福祉センター)
遺跡型のタイプの中将棋を、ある程度、記録が残る程度に、延命さ
せたのではなかろうか。
 何れにしても、安土桃山時代の水無瀬兼成著作の、将棋纂図部類
抄の行然まとめ部”狛犬”の項目に、もとの升目に戻れないとみら
れる、獅子が示唆され、”獅子駒とは一般に、居喰いができないも
のだと、多数派にはみなされている”という意味にもとれる、記載
が、同じく中将棋図の後の、水無瀬兼成のものと思われるまとめに、
書いてあるように、ここでは見る。よって、

居喰いできないルールの獅子駒

の存在について、南北朝時代から安土桃山時代にかけての実在を、
少なくとも頭から、否定はできないように、私は思うのである。
(2018/11/30)

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将棋纂図部類抄、中将棋注釈部の鳳凰仲人等行度如・の等の中身(長さん)

今回問題にする、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄には、中将棋図の後に
書かれた注釈部の最後に、”鳳凰仲人等行度如大象戯”と書かれて
閉められている。この一文をどう解釈するのかについては、大坂電気
通信大学の、高見友幸氏の詳しい先行研究がある。そこで、この文を
どう解釈して、駒数多数将棋の原初ルールをどのように推定するのか
に関しては、高見氏の研究を参照して頂くことにして、ここでは、こ
の文の読解ではなくて、

単に、”鳳凰仲人等”と書かれた、”等”の駒種の範囲に関して、何
者を指しているのかについてだけ問題とする。

最初に結論を書き、後で説明と、そう考えられる理由について述べる。

ずばり”等”には、龍王と龍馬の二種が含まれると考える。

では、次に以上の結論につき、根拠等を説明する。
 まず、鳳凰と仲人の例出してから、その他にたくさんの駒種を範囲
内にするとしたら、このような表現は、まずしないはずである。
”中象戯行度如大象戯”で良いはずだ。だから、等に含まれる駒の種
類は、せいぜい2~3種を、執筆者はイメージしているとするのが、
自然だと私は考える。
 そこで、2~3種類になるとして、何を言わんとすれば、このよう
な表現が出てくるのかだが、

論の枠組みに関しては、中将棋図の後で問題にしている駒の、範囲に
ついてだけに限定していて、そこで現われる駒のうち”獅子と飛鷲と
角鷹を除いた駒種類は、後期大将棋のルールを援用する”と言わんと
していると考えると、つじつまが合う。

なぜなら、将棋纂図部類抄の中将棋図の後の注釈で、駒のルールに関
する補足説明をしている駒種は、獅子、鳳凰、飛鷲、角鷹、仲人、
以上5種類と、駒名だけが登場する駒種類として、龍王と龍馬の2種
類があり、合計して7種類になる。そして、
獅子に関しては、居喰い、或る説曰く獅子の居喰いを許す(也)。と
記載され、一般的な獅子のルールが、中将棋の獅子には一部援用され
ない事を示唆する表現がある。また、飛鷲、角鷹は、中将棋に有って
も、後期大将棋には無いから、大将棋のルールが中将棋に、これら2
種類の駒に関して、援用される事はありえない。
 以上で、3種類の駒は”等”の範囲からは、除外される事は、明ら
かである。そうすると、残りは4種類になるが。鳳凰と仲人は、”等”
の前に具体的な駒名で挙げているから、”等”の範疇に当然入らない。
 すると、残りは龍王と龍馬の2種類だけになるのである。
 なお、なぜ龍王と龍馬を、”その他”にして差別したのかと言えば、

名前を挙げただけで、ルールの中身を、この将棋纂図部類抄中将棋図
後注釈部で、全く書いておらず、扱いが明らかに軽かったため

と考えれば、ぴたりと説明がつく。
 水無瀬兼成にしてみれば、後期大将棋に有る駒のルールに関しては、
将棋纂図部類抄では、詳しく別途に駒の動かし方のルールを示したの
は、前記の5種の駒だけであり、残りは単に、曼殊院将棋図の打点や
線を、基本的には写しただけであるから精度は低いと、認識していた
だろう。だから、今述べた獅子、鳳凰、飛鷲、角鷹、仲人、の5種類
以外の駒種については、

中将棋の駒の動かし方ルールは、後期大将棋と同じとか、そうでない
と議論しても、余りに元データ漠然としすぎている

と考えていた事は、少なくとも確かとは言えそうだと、私には思われ
る。
 将棋纂図部類抄の島本町教育委員会バージョン(水無瀬宮所蔵の、
正調、将棋纂図部類抄)の、後期大将棋の図には、鳳凰の打点がない。
これは、元々の曼殊院将棋図の、後期大将棋の鳳凰には打点があった
のだが。ひょっとすると、前後左右の歩みの点が無い等、水無瀬本人
が見ても、おかしなところが有ったのだろう。そこで将棋纂図部類抄
では水無瀬兼成は、大将棋の鳳凰に、ひょっとして打点を打たなかっ
たのではないか。
 恐らく加賀前田藩の書写者の書き込みかと思うが、将棋纂図部類抄
の後期大将棋の右猛豹の6升目上に、小さく、

”猛豹の真後ろの打点が抜けている。この図はおかしい”との旨の、
他人による書き込みの跡もある。

猛豹間違い.gif

曼殊院の将棋図自体、駒の動かし方ルールを示す打点に、元から幾つ
か、おかしな所も有ったのであろう。個別の駒の動かし方ルールに関
しては、本当に古来より、将棋纂図部類抄の島本町教育委員会バージョ
ン(水無瀬宮所蔵の、正調、将棋纂図部類抄)の通りだったかどうか
については、可能なら、鶴岡八幡宮遺跡出土の鳳凰駒の打点等、別の
史料も参照して、補正が必要な場合もあるのかもしれないと、私は、
個人的には考えている。(2018/11/29)

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奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡から後期大将棋の駒は出土したか(長さん)

日本共産党機関紙赤旗の2018年11月16日号に、増川宏一
氏の筆で、将棋が歩んだ歴史(3)が掲載されている。その2段
目の最初方に表題のように、”奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡か
ら後期大将棋の駒が出土している”との旨が、簡単にこれだけの
内容で記載されている。が、

この駒は、二中歴の大将棋そのものの駒であると思われる。

なお、奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡からは、

”両面草書飛龍駒”一枚しか、今の所出土していない。

よって、増川氏の言う、改良(後期)大将棋の駒とは、この駒の
事であると、まずは確定する。
 今回は、この増川氏の見方が、

誤りであろう

との観点から、以下解説する。
 何れにしてもこれについて、これ以上の説明が、新聞赤旗の該
当記事には見あたらず、これ以上の相手の主張は述べる事ができ
無いのだが。新たな説を、歴史研究者の間では、当たり前に知ら
れているかのように、啓蒙目的での日刊新聞に、増川氏が制限な
く書いているのは甚だ妙なので、以下私の主張も一方的に、どん
どん書いてしまうことにする。私の説の根拠は主に、

奥州藤原氏館跡から出た遺物は、二中歴の元になった、挙中歴、
懐中歴の著者の三善為康の時代と、二中歴が成立した鎌倉時代初
期の間にピタリと収まるとみられる事、

以上の点である。
 では増川氏は何を考えて、安土桃山時代に初出の、後期大将棋
の駒と考えたのかだが。これは私には、平凡社版2013年の
”将棋の歴史”と、今回の2018年11月の赤旗記事の間で、
増川氏の論を聞き取ったのは、前に本ブログで紹介した大橋文書
に関する講演会の一回だけだったので、ほとんど判らない。

両面飛龍駒の時代解釈が変わってきたとしたら、かなりのトピッ
クのはず

だが。日比谷図書館での大橋文書の講演会では、この両面飛龍駒
に関して、増川氏の言及は、特に無かったと思う。
 ただし、

二中歴の”大将棋の成りは玉将と金将を除いて、金将である”と
いう仮説が、同文献の(小)将棋のルールが大将棋には援用され
るというあくまで仮定仮説から、現在流布している事だけは確か

である。よって、両面飛龍なら、一般に流布した二中歴大将棋の、
全部金成りルールと合わないと考えると推論すれば、赤旗に増川
氏が記載した論が出てくる事が、一応納得できる。
 だが、本ブログでは、この考えは

誤りだ

と見ている。理由も、どんどん主張しないと、ここ以外には出て
こないため、主張の場としての学会を解散させるという割には元
気な、声の大きい増川宏一氏の論文の説だけを、どんどん載せて
いる日本共産党機関紙の赤旗に、このまま圧倒されそうだ。そこ
で、少なくともここでは、とっととすばやく、結論を書いてしま
おう。

二中歴の大将棋の記載の最後の10文字”如是一方如此行方準之”
は誤記とされているが、”如是行方一方如此成方準歩兵”と変更
するとほぼ意味が通り、”(注人)不行傍立聖目内成金将”と意
味が同じで、成りのルールが書いてあると、私は見ているから

である。なお、”(注人)不行傍立聖目内成金将”は、
”(仲人)不行傍立聖目内成酔象”と書かれた、安土桃山時代、
水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の、中将棋と後期大将棋に挟まった
注釈部に書かれた文句を、注人を仲人へ、酔象を金将に、私が入
れ替えたものである。なお、この一行については、大坂電気通信
大学、高見友幸氏の別解釈もある。ここでは、関連しないので、
高見氏の説の紹介は略す。
 話を元に戻すと、

少なくとも、二中歴の最後の十文字は未解読なので、二中歴大将
棋のルールには、不明の点があると見なさざるを得ず、この赤旗
の増川氏記載の記事ように、飛龍の成りのルールを、将棋に準じ
て金将と、最初から決め付けてはいけない

という事である。
 なお、不明十文字の解釈には”これは先手側の配列等を示した
ものなので、後手の初期配列等は、先手側と点対称にする”と解
釈する別説(決め付けに近い主張も、web上に散見される)
がある。ちなみに、二中歴大将棋は線対称陣形なので、先手後手
を点対称で並べようが、盤中央で折り返し対称で並べようが、
いっしょで、この説が正しいとして、敢えて注記しているとすれ
ば、理由は謎である。また”行方”を動かし方のルールと解釈し、
先手、後手とで駒の動かし方ルールが同じであると解釈する見方
もあろうが、日本の将棋の駒は、位置不変性という特徴もあり、
先手と後手とか、盤上の位置とかで、動かし方のルールが変化す
るという懸念も、元々乏しいし、その観点の、二中歴での提示は、
あるとすれば不自然で、唐突である。
 つまり、私の解釈の方が仮に正しいとすると、注人は成りのパ
ターンの一例の例示であり、他の、平安大将棋で新たに現われる
駒の成りは、そのコンセプトに準拠するという意味。すなわち、

”飛龍は、横方向へも走るし人間駒でも無いから、二中歴大将棋
では、不成りである”と、解釈できると言う事

である。だから両面飛龍駒は、

後期大将棋にも、1320年頃のバージョンは謎だが普通唱導集
大将棋にも、そして問題の平安大将棋の駒としても、全部使える

と言う事である。
 しかし、発掘された遺跡の時代は、ほぼ二中歴の大将棋の時代
に合うという事である。だから、可能性としては、

奥州藤原氏館跡(志羅山)遺跡の両面飛龍駒は、二中歴大将棋用
の駒の可能性が最も高い

と、いまのところ見なさざるを得ないのではないかと、少なくと
も本ブログでは、以上のように考えているのである。
 なお、二中歴のルールに関する”如是一方如此行方準之が、
誤記である”という認識は、増川宏一氏自身が、ものと人間の文
化史23-1、将棋Ⅰ(1977)、法政大学出版会で指摘した
のが、最初とみられる。
 ここ数年の間に、増川氏自身が”後手の初期配列は、先手側の
陣と点対称である”との説に、確定させたかどうかは謎であるが。
何れにしても新聞赤旗に、これ以上の事が全く書いていないため、

赤旗2018年11月16日10面の志羅山遺跡の両面飛龍駒に
関する主張は、執筆者の従来の結論を、充分に踏まえて居無い疑
いが拭いきれない

と、今の所読手としての私には、見なさざるを得ないと、結論す
るしかないというわけである。(2018/11/28)

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平安小将棋が中国中原文化所属であるなら、大将棋は発生するか(長さん)

さいきんwebの一部のブログで、”増川宏一氏執筆記事の新聞連載
が始まった。”との情報が流れている。具体的に新聞が何なのかが、
そのブログでは公開されていなかったため、しばらく私には謎だった。
 しかし、ようやく最近になって、日本共産党の機関紙の赤旗に、
2018年11月の頭から、金曜日だけ”将棋が歩んだ歴史”という
連載がある事を、そのホームページから知った。赤旗のホームページ
には、第1回目の同年11月2日の切り抜きの画像が、公開されてい
る。そこで、この連載を調査した所、大将棋関連では、表題に書いた
ように、日本の将棋の伝来経路に関連して、増川氏流の東南アジア説
を補強するため、

”もし将棋が中国から伝来したのなら、規範が厳しくてこんなに容易
に(平安小将棋、平安大将棋、後期大将棋と、)変更することはでき
なかったであろう”

との文言が、一言だけ第3回連載分(同年11月16日 10面)に
入っている事が、判明した。この証拠立ては、今の所、この赤旗の新
聞記事でしか、私は見かけた事が無い。
 そこで今回は、この論が正しく、平安大将棋や後期大将棋の存在が、
元になる平安小将棋が中国中原文化所属で無い事の、根拠に成り得る
のかどうかを、本ブログが主題としているという立場上、記載の当否
を問題にする事にしよう。
 最初に結論を書き、ついで根拠を後で述べる。

平安小将棋が、中国中原起源との仮りの事実が在り、日本で権威が有っ
た中国文化との間に強い関連が仮想的に有ったとしても、平安大将棋
は陰陽五行との関連、後期大将棋は、易学九星との関連で、それぞれ
先代の形態よりも優位と根拠づけられるので、後続の改良大将棋の発
生は必然だった

と、私は考える。
 では、以下に説明を加える。
 まず、小将棋から平安大将棋が出来るという点に関しての、仮想の
阻害要因との関係について議論する。
 仮に平安小将棋は、現在の中国シャンチーとは違うが、中国中原に
て、その原型が指されており、中国中原文化の一部としての、精神的
権威が、日本人の特に知識人層には、存在したものとする。
 しかしながら、この将棋には、

陰陽三行はあるが、陰陽五行に従って居無い。

つまり、平安小将棋には8升目であろうが9升目であろうが、将駒が
3種類しかない。だから仮に、平安時代の朝廷内で、中国中原文化の
権威を後ろ盾にしながら、平安小将棋の特定のタイプを、国の将棋と
するような制度を制定しようと”詔に近いもの”を、たとえば白河天
皇が発したとする。その時に、その詔の原案作成で、采配を仕切って
いる勢力が、対立する勢力にとって、仮に気に食わなく、かつ、玉将
を王将へ変更するといった、具体的内容に関して、対立二番手勢力が、
嫌気を持っている等の事情が、仮にあったとする。そうすると、

小将棋は陰陽道に合わないという点を攻撃点として、平安小将棋の標
準化等を阻止しようとして、実際には日本への軍事的脅威の及ばない、
北宋王朝との関係を見据えた上で、平安大将棋の、玉将、金将、銀将、
銅将、鉄将の五将形大将棋を容易に、対抗的に生み出し得る

と、私は考える。だから、増川氏の論のように、平安小将棋に、中国
中原の文化の一部であったとして、規範となる権威が日本の特に、上
流階級に、仮想的に有ったとしても、”平安小将棋から平安大将棋が、
改善されて、出てこない”という仮説は、成り立たないと考える。
 次に、平安大将棋から後期大将棋への改善に、中国中原で、日本型
の将棋が、仮想的に文化の一部であり、その思想に権威があったとし
て、阻害要因になるのかどうかを考察する。
 この場合も、改善の阻害要因にはならないと私は考える。
 なぜなら、平安大将棋には、13升目であるために、15と異なり、
3で割り切れないという性質があるからである。すなわちその将棋盤
は、中国の易学の九星占いのデザインに、作成しても合致しないとい
う関連文化上の瑕疵がある。それに対して、
15升目の後期大将棋は、聖目の位置が5升目ごとにすれば、九星占
いの図を模したものになるため、九曜のデザインとして、中国易学と
の親和性がより大きい。

だから、13升目の平安大将棋に対して、中国易学からは遠いという
点を攻撃材料にして、15升目に変化させる根拠があると考えられる。
従って、13升目から15升目の将棋への変更は、中国中原が日本の
将棋の源であっても、平安大将棋を絶対化、固定化するほどの、強い
要因になるはずが無い

と、私は考える。
 よって、平安大将棋から後期大将棋への変化も、日本の将棋が中国
中原起源では無いと言うほどの、根拠にはならないのではないかと、
私は考える。
 以上の論をまとめると、日本の特に小将棋の最下段配列、玉将、金
将、銀将、桂馬、香車に、元となる中国の古将棋が対応するという、
仮想仮説が正しいとする。そしてそのために、日本の原初将棋に、
中国中原印といういわばブランドがイメージとして付いており、その
規範感が、次代の将棋への進化を、遅らせるように作用したとする。
 しかしそうだとしても、同じく中国中原印が付いている陰陽五行説
や、易の九星占いの方が、よりその汎用性が、日本人にとってはずっ
と大きいだろう。そのため両者の力関係の差で、結局の所は、平安大
将棋や、後期大将棋の発生を遅らせる事には、ならないのではないか
と、ここでは見ると言う事である。
 以上で、今回の論題に関する説明は終わる。
 蛇足だが朝鮮チャンギは明らかに、中国中原文化起源とみられる。
が、ある時期、このゲームは朝鮮広将棋を生み出している。つまり、
日本よりも大将棋様のゲームが、増川氏のこの論で出にくい地域にも、
改善ゲームが、現実として現われている。だから、そもそも中国の古
ゲームに、増川氏の言う、厳しい規範性があり、関連各国では、それ
からの、ゲーム変化が少なかったったはずだと言う論理自体、事実か
らかなり遠いのではないのだろうかと考える。すなわち私は、この
11月16日の赤旗の記事を読んで、不可解感を正直感じているとい
う事である。(2018/11/27)

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南北朝時代今小路西社会福祉センター中将棋は何故淘汰されたか(長さん)

前に、神奈川県鎌倉市今小路西(社会福祉センター)遺跡よりの
出土木札に書かれた、南北朝時代の中将棋のルールは、今のとは
異なり、恐らく獅子に関する特別な規則が無く、奔王隣が獅子で
はなくて、狛犬の将棋であろうと述べた。
 そして、この将棋の特徴は、今述べたように、狛犬には獅子に
関する特別な規則が不要で、成り麒麟にも一般的に、そのルール
が存在する必要性が無いために、今の中将棋のような、合否判定
の、特殊なケースの煩雑さが無い。また、狛犬には居喰いの性質
が無いため、さしあたりそれで問題が無く、比較的有望な中将棋
ゲームになるのではないかとの見解を、本ブログで示した。
 では、良い事ずくめに見える、この古中将棋が、実際には、
奔王の隣に、普通に獅子の有る中将棋に、淘汰されて残らなかっ
たのは、どういう理由によるものだろうか。以上を今回の論題と
する。
 いつものように、結論を先に書き、その次に説明を加える。
以下結論である。
 攻撃力(オフェンス)が、主力の狛犬に居喰いのルールが無い
ため、防御(ディフェンス)に比べて、やや弱かった。そのため、
通常の中将棋にゲーム性能で少し劣り、遂に淘汰されて消えたと
みられる。
 では、以下に説明を加える。
 さいきん私は、実際に、このゲームを駒を並べて、チェックし
てみた。下の写真は、この将棋の初期配列である。

今小路初期配列.gif

写真で紙を張ってあるのが、狛犬駒である。この駒は、大坂電気
通信大学のルールで8方3升目踊りのルールであるとした。なお、
居喰いはできない。
 ざっと、駒を動かしてゲームをしてみると、終盤は一例として
以下のような局面に、到達する。

今小路終盤.gif

 この局面では、攻め駒の主力が、先手・後手とも狛犬だけの状
態になった所である。まだ、引き分けとまでは行かないが、勝負
は、このあとだらだらと続くという、両者共に、攻めが失速した
状態になっている。ようするに、

攻め駒が足らず、両軍とも玉を守りきったに近い状態

である。こうなったのは、やはり獅子と異なり狛犬には、踊り喰
いはできても、居喰いが出来ないため、壊れかけた相手陣を、

完全に破壊する能力に関して、狛犬の方が獅子より弱い

ためである。また、攻め駒が一枚だけになっても、相手陣が大き
く崩れていると、獅子なら単独で詰むことが多いのだが、狛犬に
は、その性質が無い。

だから、普通に特別の規則の煩雑性に我慢しながら指した中将棋
に、この狛犬中将棋は、だんだんに淘汰されるだろうと予想

される。
 ちなみに鉄将も、守り駒としては、その存在が有効で、鉄将を
取って、猛豹を1升目後退させ、96枚制を92枚制にすれば、
ディフェイスが弱まるのと、麒麟が自陣の中で移動しやすくなっ
て、相手に取られにくくなるため、

92枚制の方が、96枚制よりも、良い

とみられる。
 更に、いっそ盲虎を猛虎に戻すという手もあるが、このケース
は、守りがいっきに弱まり、恐らく今度は攻め方が強くなりすぎ
て、狛犬が追いかけまわすが、捕まらない玉の将棋になり、駄目
だろう。
 少なくとも同じ条件なら、狛犬よりも獅子の方が終盤は、中将
棋は面白く、この2種類しか無いとすれば、現代の中将棋の方に、
やがては収斂しそうである。(2018/11/26)

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興福寺出土駒の中に香車が無い理由は、聞香札への転用ではない(長さん)

以前に、本ブログでは、興福寺出土駒1058年物、1098年物
に何れも、香車が無い事、鎌倉時代から南北朝時代にかけての、
全国遺跡出土駒に、新安沖沈没船駒を除くと、小将棋用の香車が少
ない事、近畿地方で、香車駒の出土数の割合が少ない傾向が有る事
等を述べた。その際、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡では香車の駒が多
い事から、公家は使っても、武家が聞香札をあまり使わなければ、
香車駒を、聞香札に転用する事が無いため、聞香札等への、将棋駒
の転用によって、香車だけ捨てられにくいのではないかという、論
を述べた。
 しかしながら、最近調べた所、

 一乗谷朝倉氏遺跡の朝倉館では、将棋駒と聞香札が、共出土して
いる

事が判った。文献としては、成書の次の物が挙げられる。

図解日本の中世遺跡 小野正敏他著 東京大学出版会 2001年

上記の書籍に、朝倉館から出土した聞香札として、6枚の図が載っ
ている。

裏一文字(以下同様)春一駒。裏秋一駒。裏秋二駒。裏秋う駒。
裏花う(?)駒。裏花叶駒。

以下の成書によると、上記は室間時代から続く、”十種香”(香
当てゲーム)用の札だという事である。

香の本(増補版) 荻須昭大著 ㈱雄山閣 2017年

 上記の成書の解説を読む限りの、以下は私の印象であるが。
ゲーマーのレベルは進化したが、ゲームの仕方自体は、将棋などと
は異なり、聞香については、室町時代と今とで、ほとんど変化が
無いようだった。なお、駒はほぼ長方形であるが、他と区別する
何らかの必要性があるのか、裏一文字秋う駒だけ、五角形で、将棋
駒の外見と、良く似ている。
 何れにしても、それなら香車が捨てられないはずの、朝倉館から
香車駒は、不足無く出ているから、

聞香札に使うため、香車駒だけ、捨てられなかったという以前の
仮説は、間違いの可能性がある

と言う事だけは、確かだとみられる。
 そこで、だいぶん前置きが長かったが、今回は、では興福寺出土
駒に、香車が無いのは何故かと、再度問うこととする。
結論を書く。

将棋場を案内する道しるべ用に、興福寺の香車駒は取っておかれた

からだと考える。以下に、そう考えられる理由を説明する。
 言うまでも無く、香車とその他の駒の違いは、一般には歩兵を除
いて小ぶりな事と、書いてある字の内容だけである。しかも、興福
寺遺跡の出土駒は、11世紀のものなため、今と違い、

他の将棋駒と、香車との間で大きさの違いはほぼ無い。

だから小ぶりなため、無くし易いという理由付けをする事が、そも
そもできない。そこで私は考えたのだが、香車と他の駒とで差は、

将棋駒を場所案内用の矢印の小板道標と見たときに、目的地の方向
を示す機能が在り、かつ指し示す目的施設が、”将棋場”である事
を示唆できるのは香車駒だけ

だという事である。なぜなら、矢印の先にだけ、香車は進み、かつ
距離は問わないので、香車だけが、方角表示に使えると考えられる
からである。では、案内用の小板だとして、直進とか、目的地の場
所とかを書かずに、香車にした理由だが、ずばり

将棋場は、賭博施設とみなされているため、場所名をずばりは書け
なかったため

ではないかと、私は考えた。ようするに”矢印香車”という立て札
としての小板は、

”賭博場はこちら”という意味ではないか

という事である。
 特に少し後に、興福寺奏状で”囲棊が寺院内で、はびこる事に対
する苦言”を、貞慶が述べている事からも判るように、興福寺内で
の賭博施設への出入りは、原則的に禁止されていただろう。だから、
場所の看板も、おおっぴらには出せなかったのではないか。そのた
め、”香車はこっち”と書けば、判る下っ端の僧には、将棋場の場
所だと判ったので、立て札代わりに、それとしてはかなり小ぶりの
将棋駒がこっそり、しかし公然と使われ、しかも、それはいつも、
隠語で賭博場を意味する、香車の駒であったのだろう。そのために
香車は、興福寺の賭博場では劣化しても、簡単には捨てられずに、
立て札用に、取っておかれたのではなかろうか。
 なおその他、香車が出ない遺跡として、時代は下るが、滋賀県の
観音寺城下町遺跡がある。この遺跡も地名からして、寺の城下であ
るから、興福寺と同類と言える。ただし、岩手県の中尊寺境内金剛
院遺跡からは、香車が有る程度は出ているから、これで謎が完全に
解けたわけでもない。だから、

近畿地方の寺院では、将棋を僧侶が指す事に関する、戒律違反の責
めが、地方よりも厳しかった

と、今の所考えるほかは無い。
 ただし時代が下れば、香車駒とほかの将棋駒との間で、大きさに
差が出てくるので、中尊寺の例を除けば、以上のような考えでも、
香車の欠乏は、今の所は説明できそうな気がする。(2018/11/25)

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兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒。駒字が下にズレて歪んでいる訳け(長さん)

西暦1986年頃発掘された、表題の兵庫県日高町深田遺跡の成り
が良く判らない、歩兵と言われる駒は、西暦1094~1096年
を示唆する年号木簡が共出土し、西暦1058年物の、奈良県興福
寺の出土駒が発掘されるまで、日本で最古級の駒史料とされてきた。
 オモテ面の中央すこし下に、歩兵の歩の下の”少”の最後の画と、
兵の”丘”の、最初の画が薄っすらと成書、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒の写真でも検知される。そのため歩兵の歩の字が、幾分か
下から書き出した上に、兵の字が駒の下に少し歪んでいるように、
一般には見られている。
 しかしながら、歩の上の空白が少し大きすぎ、兵の字を書く余裕
が、余り無くなった、不自然な書である。今回は、どうしてこのよ
うに、兵庫県日高町深田遺跡歩兵駒が

歩兵の字が駒全体から見ると、下にズレたような配置になったのか

を論題とする。
 回答を最初に書き、そのあといつものように説明を加える。
以下回答である。

この駒は磨耗しており、下部が、元々の長さよりかなり短くなって
いる。恐らく歴代の駒としては、4.5cm程度の最長の駒で、
全体として、その後の標準的な、日本の将棋駒に比べて、やや大振
り、将棋盤もそれなりに升目が粗く、少し規格が今とは違っていた

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログによると、日本へは立体駒を使った、原始平安小将棋が
1セットだけ伝来し、西暦1015年の年初頃に、五角形駒が、九
州恐らく福岡県の博多付近の、国内で発生したとみている。従って、
西暦1094~1096年に、この日高町の深田駒が作成されたと
すると、発明から約80年後である。
 以下はあくまで本ブログの見解に過ぎないが、駒が五角形である
という点では、80年という時間は、安定性が発生する長さだが、

駒の全体的な大きさと、将棋盤があるとして、その規格がきちんと
決まるには、やや時間が足りない

のではないかと考える。つまり、国府に駐屯する平安時代の播磨の
武士が、この駒を使い、紙ないし布、あるいは木の切り株等に、線
を引いて作った、将棋盤を指すとした時に、

但馬武士には、将棋駒が五角形(まだ、寸胴形)とすべしという常
識は存在したが、駒の全体寸法については、聞き取りが曖昧であっ
ても、特におかしくなかった

ように、私には思える。いわゆるゲーム用の駒の大きさであるとの、
認識程度だったのであろう。
 そのため、

たまたま、一辺の長さで30%位大きく、体積や重さで、奈良興福
寺の将棋駒を標準としたときに2倍強ある、将棋駒セットが、
日高町では作られた

としても、さほどおかしくは無いように、私には思える。
 我々が、この歩兵の字を見て、奇妙な書体に取るのは、

標準的な将棋の駒を見慣れているために、この駒の大きさを
過小評価し、駒の下部が磨耗して消失しているのに気がつかず、
駒字が下に、普通にはみ出しているだけなのに、
兵が下で、寸ヅマリになっているように、間違って見ているだけ

なのではないか。
 つまり、現在この遺物が、普通の駒の大きさに見えているのは、
単に長い年月で、木片が磨耗して下部が無くなって短くなり、たま
たま大きさが、普通なように見えているだけなのではないか、と言
う事である。
 ようするに駒木地が大振りだと、比較的駒字のスペースには余裕
が出来るので、

単に歩兵の歩の字の書き出しが、他の将棋駒より幾分下から始まっ
ているだけではないか

と言う事である。
 この事から、日本の将棋駒は五角形駒が発明されてから、

100年位は、良く見れば気がつく”初期の混乱”が有った

と言えるのではないかと、私は考える。つまり、”五角形駒が伝来
品ではなくて、日本での発明品だとすると、初期の混乱が無いのは
おかしい”という指摘は、

事実認識自体が間違い

なのではないかと、私は個人的に、疑っているという事である。
 なお私は、興福寺出土駒の西暦1058年物のオモテの、

崩し字”也”(成りの意味)のばらつきも、元駒金将と各駒の成り
の金将の表現を別にして、配列時、どちらがどちらかが、裏返さな
いと判らないような、めんどくささを無くすための工夫の手法の、
具体的内容に関する、初期のばらつきによる混乱

だと考えている。ただし興福寺出土駒の、この現象については、

”棋士への教育のための、也の字の付け加えであり、そのバラツキ
は、原始平安小将棋(のゲームとしての定着)が、発展途上であっ
たことを示す”

との説が根強い。しかし、日高町深田遺跡歩兵駒の大きさが、普通
より大きくなる事により、初心者の将棋ゲームに対する理解が、よ
り深まるとは考えにくい。こうしたバラツキは、五角形将棋駒とい
う、ゲーム器具が、発展途上であったのであって、原始平安小将棋
は、ルール自体は格別複雑でもないので、48年や80年経った後
には、初心者も駒を手にした時点で、混乱は特に無かったのではあ
るまいか。そもそも、少なくとも本ブログでは、原始平安小将棋の
ルール自体は、立体駒を使った輸入時点で、外国(ここでは大理国
と推定)で確立されており、内容は”自殺手と裸玉の優先度”といっ
た、細則を除けば、ほぼ、安定していたと見ているのである。

”『日本の将棋駒は、五角形にすべし』と言うから、五角形駒にし
ただけではないか。大きさを、他の地方とピタリとあわせろとまで
は聞いてない”と、日高町深田遺跡の歩兵駒を作成した駒師の声が
聞こえる。

私にはこの駒を見ると、そのように感じるのである。(2018/11/24)

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滋賀県大津坂本城遺跡2018年発掘駒。西暦1500年頃の物(長さん)

前に紹介した、滋賀県大津市の琵琶湖のほとり、坂本城遺跡から
出土した、成り一文字金(?)桂馬駒に関連して、少し詳しい情
報が、新聞各紙で報道された。

坂本城の城内から出土したものでは無い疑いがある

という事だ。城と考えて発掘調査をしたところ、城は少し狭くて、
城の近くの町場を、発掘していたとい事であったらしい。
 また、年代も少し古くて、共出土した遺物は、

西暦1450年から西暦1550年位のもの

ではないかと言う事である。既に本ブログでは、桂馬駒の形から、

安土桃山時代よりは新しそうだ

と述べた。具体的には、富山県の石名田木舟(B2)遺跡の王や
金の駒よりは、形が今のに近いし、島根県出雲市の高浜I遺跡で、
将棋盤の一部と駒二つが出土したが、その将棋駒よりも、写真で
見る限りは、坂本城の今回桂馬の方が、より末広がりで、今の駒
に近い感じである。なお滋賀県大津市坂本では、

以前にも成り不明な、形の崩れた香車駒が出土していて、これも、
江戸時代とされる、大坂城下町の将棋駒に、強いて壊れた部分を、
想像で補うと似た形

であった。京都の出土駒が少ないため、より流行の先端に近い、
京都の傾向が、京都そのものの遺物からは、従来判らなかったか
らの誤差かもしれない。
 更に今の所、飛車か角行駒が、坂本遺跡からは出土していない
ため、確実では無いが、ひょっとすると、

西暦1500年には、現行の日本将棋が、琵琶湖のほとりでは、
指されていた

事を証明する遺物の一つになる可能性もあるのだろう。よって、

この、保存の良かった桂馬駒の発掘はやはり貴重なものだった

確率が大きいように、現時点で充分考えられる。(2018/11/23)

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伝北宋時代の裏絵付きシャンチー駒。裏面砲の絵は投石器(長さん)

webにも載っているが、北宋時代の都の開封から、裏面に絵が
書かれた、シャンチー駒が出土している。一説には北宋王朝期の
駒であるとされるが、明王朝の時代との説も有ると、持駒使用の
謎(木村義徳著。日本将棋連盟発行、2001)には書いてある。
 この裏の絵についてであるが、最近まで私は、砲の裏の絵は、
砲弾であると勘違いしていた。そこで今回じっくりと、この絵が
何を表現したものなのかを、正確に確認する事にした。
 答えを先に書くと、

投石器しか、書いてないようである。

つまり、投石器部隊を表現したものである。以下に、もう少し説

北宋砲.gif

明する。
 この良く話題にされる、裏面絵付きシャンチー駒は、銅製であ
ると言う事だ。砲駒の裏面には、正立させて見ると、
右に、砲弾をセットする操作兵が人形型に書いてあり、左側の、
一見、ジャングルジムのように見える塊は、例えば霹靂砲の砲弾
が書いてあるのではなくて、

投石器、正確にはトレビュシェットが書いてある

だけのようだ。そして下の方にU字形に見えるのが、投石部分で
あり、U字の左端の付近に、実際の絵では、細かくなりすぎて、
表現できないのだと思うが、砲弾セット部分があると見られる。
つまりこの絵から、

砲弾が何なのかは、全く判らない

と言う事である。
 なお、左上から斜め下に向かって右下の方に、太い線で描かれ
ているのが、投石器の心臓部である、投石アームであると見られ
る。他の駒との比較から、人間と投石器の大きさの比は、余り当
てにならないと思われる。実物は数メートルの桁の大きさだろう。
 絵から、”砲駒は投石部隊が、中国には古代から存在するので、
シャンチーの駒の要素に加えられるのは、シャンチーの起源が
何時であったとしても自然”との主張が、一応感じられる。実際
の戦争では、西洋の初期の頃の十字軍が、この武器で成果を挙げ
たと聞いている。なおモンゴル帝国来襲時には、砲弾の震天雷は、
手榴弾として投げられたものが威力を発揮し、大型の投石器が、
のんびりと設置された後で、使われたという記録は無いようだ。
何れにしても、

中国人には投石器部隊の象棋駒を、古代から考える能力はあった

ようだ。
 成功はしなかったが。イスラムシャトランジに、だいたい砲の
ルールに近い駒を入れて、ゲーム性を改善しようと言う、精神自
体を、中国人のゲーマーが持つようになったのは、北宋王朝の
成立期よりも、かなり前であっても、ひどい矛盾は無いのかもし
れない。砲という駒の発生の萌芽は、玄怪録の、”石火矢が飛び
交う”との記載の時代には、恐らく有る事は有ったのだろう。
(2018/11/22)

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朝倉遺跡”天童の将棋駒”176番の歩兵の字は何故曲がったか(長さん)

本ブログでは、将棋駒は原初、その駒木地である経帙牌が、中国交
易商人から、五角形駒の発明者である博多等の写経所僧侶が、原始
平安小将棋のルールを聞き取る際に使用した、ルールブックである
との見方をしている。今回はそれに対応する、史料の話である。
 さて成書”天童の将棋駒と全国遺跡出土駒”(山形県天童市将棋
資料館発行・2003年)には、福井県一乗谷朝倉氏遺跡の第9次
発掘の出土将棋駒(約173枚)のうち65枚程度が、一部写真と、
スケッチ図で載っている。なお、この遺跡からは40次や49次、
84次等でも、9次よりは数は少ないが、将棋駒の出土がある。
前記9次の出土駒には、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の番号だろ
うが、通し番号が付いていて、表題の歩兵駒で176番という駒が
ある。ただし、成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、176番
歩兵の写真は、ひどく不鮮明だ。そこで最近別の次の成書で、この
歩兵の、より鮮明な写真を見つけて、その観察精査を行った。

考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび(雄山閣、
1998年)大塚初重他編集。将棋駒部分執筆:水野和雄(福井県
立歴史民俗資料館(当時))

天童の将棋駒と全国遺跡出土駒によると、問題の176番の”と金
に成る歩兵”は、表面の歩兵の字が、右に大きくカーブした、

異常な書体である。

ここでは、表題のように、この歩兵が異常な書体である理由を、よ
り鮮明に撮れている、前記の別の著書から解明する事を、今回の論
題とする。最初に結論を書く。

”歩兵は金に成る(也る)”という、成りのルールを示すルールブッ
クに、この駒のオモテ面が、兼ねられていると見られる。


歩兵金也.gif

では、以下に説明を加える。
 考古学による日本の歴史 芸術・学芸とあそびの写真によると、
一乗谷朝倉遺跡出土(9次)176番の歩兵の兵の字が、右にカー
ブした結果、表面の左下に空きが出来る事になる。だが、そこには、

金也と、極薄く書いてある

ようである。也の方は、上記成書にかなりはっきり写っている。た
だし、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の写真では、金も也も良く
判らなかったし、同じく天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のスケッチ
の紹介では、

”金”は薄いのでかなり存在がきわどいが”也”の方も書いてない。

写真から、少なくとも”也”の字が、176番歩兵の表面に有るの
は、ほぼ確実なのではないかと、私は思う。

貴重な写真が、成書に掲載されていて、たいへんありがたい事だ。

この駒は将棋駒が、古代にはルールブックであった事を、示唆して
いるようにも見える。また、この駒を見て、天童の将棋駒と全国遺
跡出土駒記載の、一乗谷朝倉氏遺跡第9次発掘第180番の、

実用性の無い両面歩兵駒が、これ見よがしに作られた

のかもしれない。”176番よ、ウソをつけ。所詮、一生懸命戦っ
ても、歩兵は歩兵じゃないのか”と言いたげな、180番歩兵作者
の姿が想像されよう。
 一乗谷朝倉氏遺跡からは、別に、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
番号178番の成りホータン(和田)歩兵駒も出土している。特に
歩兵の話題が多い所を見ると、将棋の現地の棋士が、足軽クラスが
多かったとも想像できる。ともかく将棋史の話も交えながら、わい
わい騒ぎ、恐らく酒でも飲んで、将棋駒を作りながら、一乗谷朝倉
館では、皆で将棋を指していたのだろう。
 将棋駒は木札の一種なため、表面には基本的に何でも書ける。だ
から、本来の遊戯具の駒とは、その点で異質な特徴があると言う事
が比較的はっきりと出た、興味深い史料だと、この駒を見て私は考
えている。(2018/11/21)

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滋賀県大津市坂本城より将棋駒が出土(長さん)

久々と言うよりは、本ブログが開設して、恐らく初とみられるが、
全国の遺跡の中から又、将棋駒が出土したとの情報が入った。
 場所は、滋賀県大津市下坂本3丁目の、確か琵琶湖に面した
坂本城で、明智光秀が築城。本能寺の変で城が焼け落ち、西暦
1582年に廃城になった所の、三の丸の調査で発掘されたもの
との事のようである。
 将棋駒は、気品の有る、江戸時代以降風(つまり、当時の最先
端)の、恐らく成一文字金の桂馬駒とみられる。

玉将/王将類に、滋賀県では玉将の出土例が無いため、特に注目

していたが、今回の出土駒は残念ながら、その類では無かったよ
うだ。
 なおこの城は落城当時、光秀配下の重臣と、明智光秀の嫡男の
明智光慶が守りに付いていた。明智光慶は、豊臣秀吉方に攻め
られた際の、城への味方の放火のおりに、軍記等では味方によっ
て処分処刑され、明智光秀の跡取りは、とにかくこのとき、事実
上廃絶したとされている。
 なお本ブログの管理人は、別の所で表明した事が有ったが、
本当に、明智光秀の嫡男の

明智光慶が西暦1582年の、このとき死亡したのかどうかは謎

との見方を、以前から独自の見解でしている。全く飛び離れた、
栃木県日光市に、前半生の経歴がほぼ不明な、日光東照宮ゆかり
の僧、南光坊天海が命名したと伝えられる、”明智平”という
地名が有る事等、良く噂される”天海は、元々誰なのかという
議論”関連というのが、その主な動機だ。
 そこで、今回のこの将棋駒の出土に関連し、東京都台東区上野
の寛永寺付近にある、その

上野の寛永寺の開基・開山者としても著名な僧侶、南光坊天海
上人ゆかりの寛永寺開山堂へ行き、”坂本城の将棋駒に関して、
天海上人の存在が、そもそもの出土理由とも疑われるため、念の
ための感謝表明”

の御参りを東京都台東区上野へ行き、個人的に行ってきた。

寛永寺開山堂.gif

 そのあと、寛永寺中堂にも御参りした。堂内で、観光客向けの
ビデオが流れており、ちょうど、

東京都台東区上野の不忍池(しのばずのいけ)は、南光坊天海が、
滋賀県の琵琶湖を模して作成した、人手の入った天然池である

という音声が、入った所であった。不忍池と天海と滋賀県琵琶湖
との関係について、気になる方がおられたら、調査するなり、
東京都台東区上野桜木の寛永寺に、確認するなりされると、よろ
しかろうと私は考える。
 なお昨今は、東照宮裏山で著名な、栃木県日光市”明智平”付
近、いろは坂の紅葉も、だいぶん深まる季節となったように、私
にも伝えられている。(2018/11/20)

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将棋盤の足の形。水無瀬兼成駒が関連しては、い無いのか(長さん)

前に、将棋盤の足の形が蓮座型なのは、江戸時代からかもしれない
との旨の予想を、本ブログでした事があった。その根拠として、
絵画史料に関して、平安時代末から戦国時代中期の碁盤は逆L字型、
江戸時代の絵画や、将棋盤の現物はほぼ全部蓮座であり、江戸時代
草創期に入れ替わったと仮定して、矛盾しは無いことを挙げた。
今回は、その後の調査結果について報告する。結論として、

北野天神を配下に置いている曼殊院が、水無瀬兼成作の駒を使用す
る将棋盤として、北野天神縁起に記載の足型の将棋盤が、似合いで
あると宣伝したのが、そもそもの蓮座型普及の始まりではないか

という仮説を以下に提示する。
 理由は、

北野天神縁起に、蓮座とは形が同じでは無いが、逆L型では明かに
無い絵画史料があるのを、成書で私も見たから

である。
 では、以上についてより詳しく説明する。
 囲碁盤の足を描いた絵画資料を集めた成書に、前に一度紹介した
もので、次の書籍がある。

日本常民生活絵引 渋沢敬三著 平凡社(1984)

それには、逆L型の足を持つ碁盤が3点、鳥獣戯画の碁盤と、上記
で述べた、北野天神縁起の”火事場から避難させられた碁盤”の絵
が載っている。
 以下が、北野天神縁起の、裏側だけ描かれた碁盤である。

北野天神碁盤.gif

 話を最初に戻すとまず、逆L型の3点だが皆、増川宏一氏著書の、
ものと人間の文化史23-1将棋Ⅰ(法政大学出版局、1977)
に載っている。なお、将棋Ⅰには、将棋盤の足を論じているところ
で、6例の逆L型将棋盤の話または、絵画が紹介され(厩図も、数
に入れる)、将棋の渡来伝説、吉備真備説で、同入唐絵詞の逆
L足囲碁盤が紹介されている。そこで逆L足囲碁盤が、合計7例載っ
ている事になる。日本常民生活絵引を見ても、全部その中に含まれ
るから、

逆L型足囲碁・将棋盤は、平安時代末から戦国時代末に関しては、
発見されている絵画史料が、恐らくその7例だけなのであろう

と、私は想像した。数がそれなりに多い事や、日本常民生活絵引に
載っている中世の碁盤も、多くはこの形であることから、

逆L型足囲碁・将棋盤は、古代末期から中世の戦国時代中期までは、
ほぼ定番の形と言って良い

と、私も考えるようになった。
 次に、良く知られた鳥獣戯画(西暦1252年より前に成立)の
囲碁盤であるが、

L型ではなくて、丸い玉のような足だが、はっきりしない絵なので
良く判らないとしか言えない

と、私は思う。そこで、本ブログではこの鳥獣戯画の囲碁盤の議論
は、詳細には、し無い事にした。
 最後に残った、

北野天神縁起(西暦1219年成立)の
”火事場から避難させられた碁盤”の足の絵は、どちらかと言えば、
逆L型より、蓮座型に近い絵だ

と、私は思う。ただし、多角形ではなくて、丸い塊が先に付いてい
るだけなので、江戸時代の将棋盤と同じとは、言えない。中央クビ
レは、有るように私は見る。何れにしても、鳥獣戯画もそうだが、
この北野天神縁起の碁盤の足も、逆L型の普通の碁盤とは、足の形
が何故かは、私には判らないが、少し違って見えている。ただし、

両方とも単に、足になる材料を適当に見つけて使用しているだけ

というのが、理由の疑いも有る。
 しかしながら、仮に将棋盤の職人の誰かが、安土桃山時代の末に、
江戸時代流の将棋盤をたまたま作成して、”水無瀬兼成が売ってい
る、水無瀬将棋駒用である”と称して、追加セットにして売りつけ
ようとしたときに、

その将棋盤は、水無瀬兼成が作成した将棋図の元になる曼殊院配下
の、北野天神の縁起絵巻にある将棋盤を象っているので、曼殊院将
棋図にちなんでいる、水無瀬駒とセットで使うのが似合い

と、曼殊院に、推薦して貰えるような、安土桃山時代後期からの、
新型将棋盤になりそうな事だけは、確かではないかと思う。つまり、
珍しい碁盤の足の書いてある、北野天神絵巻の、その北野天神を、
配下として支配しているのが、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元と
なった、西暦1443年将棋図の曼殊院というふうに、

将棋駒で名高い水無瀬兼成駒と、蓮座型に似た足の囲碁/将棋盤が、
”曼殊院”という共通項で、くくれる形になっている

のである。恐らく水無瀬駒は、安土桃山時代以降の上流階級の使う
将棋駒の、定番と言ってよいのではないか。だから上流階級が、
水無瀬駒を使うとき、”それを指すための将棋盤は、北野天神絵巻
の蓮座型足の将棋盤にすると良い”と言われば、元々金銭的には余
裕があるため金の力で、連座型の将棋盤を選択的に購入しただろう。
そしてその上流階級の将棋盤を、少し後の江戸時代の絵師が、将棋
盤の代表形として、北野天神縁起の碁盤の足類似の蓮座型将棋盤の
形で、縦線の切れ込みを加えて、描いているうちに、

江戸時代の特に、上流階級の使う将棋盤は、ますます蓮座の足型に
転換してしまったのではないか。

以上のように経緯を説明しても、特に今の所、少なくとも矛盾は無
いのではないかと、私には思えるようになってきた。つまり、

将棋の水無瀬駒の出現を境に、囲碁/将棋の盤の足の形が、逆L型
とか猫足型と言われる形から、蓮座とかクチナシと言われるものに、
転換しているのではないか

と私には、今の時点では疑われるという事である。(2018/11/19)

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今小路西社会福祉センター中将棋の成ルールはどうなっていたか(長さん)

前に述べたように、表題の鎌倉市今小路西社会福祉センター遺跡
出土の、従来判読不能とされた木簡は、14世紀半ばの、言うな
らば、南北朝中将棋の内容を記載したものと、本ブログでは推定
している。念のために、この狛犬型中将棋の初期配列を書くと、
5段目以下が、次のようになっていたとみられる。

5段目:口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
4段目:歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
3段目:横行堅行飛車龍馬龍王狛犬奔王龍王龍馬飛車竪行横行
2段目:反車猛豹角行口口盲虎麒麟鳳凰盲虎口口角行猛豹反車
1段目:香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なお、この時代には、中将棋にもまだ鉄将が存在して、96枚制
だったのではないかと、本ブログでは一応推定する。
 ところで以前同様に示したが、まだこの時代、飛鷲、角鷹、
飛鹿、一例・走兎、白駒、鯨鯢、飛牛、奔猪等の成り駒名は、無
かったと見られる。では、これらの駒は、敵陣の4段目に入ると
き成り、その次には成れないが、敵陣内にて相手駒を取った時等
には成るが、具体的に、とんな駒に成るルールだったのだろうか。
すなわち、この将棋の成りのルールがどうだったのかを推定して、
実際にプレーできる程度まで復元する事を、今回の論題とする。
 最初に回答を書き、その次に説明を加える。
以下のように成ったと、本ブログでは推定する。

5段目:口口口口口口不成口口口口口口口口不成口口口口口口
4段目:金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将金将
3段目:不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成不成
2段目:不成不成不成口口不成獅子奔王不成口口不成不成不成
1段目:不成不成不成不成不成不成太子不成不成不成不成不成

なお、ひょっとすると歩兵も不成だったのかもしれない。つまり、

この成りパターンは、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の後期大将棋
と同じ

である。
 では、以下に以上の結論について、説明を加える。
 かなりの不確定性があるが、今の所本ブログでは、

普通唱導集大将棋の成りのルールが、西暦1290年から、
西暦1350年の間で、大きく変化した

とみている。つまり、普通唱導集大将棋に有る駒は、上記の、
鎌倉市今小路西社会福祉センター遺跡で、西暦1350年頃のバー
ジョンと見られる南北朝中将棋でも、同じになるように、ルール
が援用されると見るのであるが、成りのルールについて、

基準となる普通唱導集大将棋のルールに関して、西暦1350年
時点での、普通唱導集大将棋のバージョンが適用される

と見るのである。具体的には、
 西暦1290年頃には、二中歴の大将棋とほぼ同じ成りルール
であった普通唱導集大将棋は、結論を言えば、西暦1320年に
は、飛車、角行、竪行、横行が金将成りとなって、足利尊氏時代
の、成りの多いパターンになった後、西暦1350年頃以降には、
逆に今述べた駒に加えて、少なくとも将駒と、桂馬、香車、反車、
仲人の金将成りが、逆に急に消失して不成となり、

のちの、後期大将棋のパターンと同じになって行った

と、ここでは見ているのである。従って、問題の南北朝中将棋も、
一応1350年盤の後期大将棋型に成るとみられる、普通唱導集
大将棋の成りが適用されて、結果として、

麒麟、酔象、鳳凰、と、もしかして歩兵の4種類の駒だけが、
獅子、太子、奔王、金将(と金)に成るだけだったのではないか

と、ここでは見るのである。
 無論相当の不確定性があるから、以上の論は確度は低い。だか
ら今、このタイプの将棋を楽しむ程度なら、

獅子に関する特別な規則を除外した上で、獅子を狛犬に入れ替え
て、後は普通の中将棋のルールで指しても、木簡の記載に合って
いるので、良いとも言える

のではないかと、少なくとも私は思う。
 ちなみに、本ブログでは、同じ鎌倉市の鶴岡八幡宮遺跡から
出土した5枚の将棋駒は、成りのパターンから後期大将棋系では
ないかと見ているので、これらの駒が、

実は後期大将棋用ではなくて、鎌倉市今小路西社会福祉センター
遺跡1350年頃用の、南北朝中将棋の駒だと見なしても、
当然矛盾は起こらない

事になる。
 なお、西暦1420年代の”奔王を出して勝つ将棋”は、鳳凰
の成りの書体が楷書だと、元駒の奔王がどちらかなのかが、判ら
なくなって将棋具としてまずいため、鎌倉鶴岡八幡宮遺跡出土駒
を使ってする将棋では無かったのだろうと以前述べた。足利義持
の御前で指された将棋は、以上のべた南北朝中将棋が、このあと
更に進化し、今の中将棋に、より近くなった形の物だろうと、私
は推定する。
 話を元に戻すと、今話題にした”南北朝中将棋”は、香車や鉄
将が、後戻りできないで、相手陣奥で、身動きできないのが気に
なるが。これでもゲームとしては、ひどくおかしいものとまでは、
行かなかったので、今小路西社会福祉センター遺跡に対応する、
南北朝時代の遊技場では、これで将棋が指されたのかもしれない
と私は思う。(2018/11/18)

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将棋纂図部類抄の桂馬の点。動きルール±2,2の動かぬ証拠か(長さん)

だいぶん発表され、それから時間が経ったが、大阪電気通信大学の
高見友幸氏により、大阪府島本町教育委員会編集の将棋纂図部類抄
(以下”水無瀬神宮所蔵の正調・将棋纂図部類抄”とも記載)の
チェックが行われ、当時の桂馬のルールが、現在の相対X,Y座標
表記で±1,+2型ではなくて、表題のように±2,+2型であっ
たとの説が出された。将棋纂図部類抄には、そのほかに、
加賀前田藩書写本があり、”桂馬の二番目の点が、上に向いている”
等で、(故)溝口和彦氏が、この説に異議を唱えていたことでも
知られている。本ブログとしては、水無瀬神宮所蔵の正調・
将棋纂図部類抄が、比較的源流に近いと見ているため、

事実としては、高見氏の言い分に理が有る

との立場である。しかし、桂馬がこのようなルールだと、本ブログ
の普通唱導集大将棋の第2節の解釈は、当然おかしくなるし、二中
歴の”前”の字を、古流の解釈である”前進”と意味が同じという、
本ブログの見方とも合って居無い。
 ではそもそも、図として、±2,+2型に見えるように、行き先
ルールの点が打ってある古文書が存在するなら、確実に桂馬の動き
ルールは±1,+2型ではなくて、±2,+2の、動かぬ証拠かど
うかを、今回は論題とする。最初に結論を書き、後で説明を加える。

動かぬ証拠とは言えない。理由は将棋六種之図式に、桂馬のルール
が±2,+2型になるように、点が打たれた図があるからである。

では、以下に説明を加える。高見氏の論は、前提として、

±2,+2型になるように点が打たれた図について、完全に写実的

であるとの仮定があると、私は思う。しかし桂馬のルールに関する

この仮定は将棋六種之図式に±2,2型の図が有るから正しくない

のではないか。すなわち将棋六種図式は江戸時代の文献であるから、
安土桃山時代の水無瀬兼成の将棋纂図部類抄を写す筋合いも無いし、

そうしたとの記載も無い。

水無瀬の業績は、国会図書館蔵の将棋六種之図式でも言及されてい
るが、将棋纂図部類抄を紹介してもいない。先行文献の紹介の後、
一般的に古将棋のルールを、将棋六種之図式という独立の書物で、
江戸時代の著者が、記載を続けているに過ぎないと私は思う。
 そして、将棋六種之図式が成立した時代には、将棋の家元が存在
して棋譜があるし、類似棋書の諸将棋図式の、”酔象を入れて42
枚制の小将棋の図”を、将棋盤に示した図の中に、

この別の棋書には、桂馬の駒の行き所のルールが、X,Y座標表記
で±1,+2型であると明記

されている。従って、±2,+2型を自明には連想させる、点を打っ
たルール図は、一般的に実際の桂馬のルールが、

±2,+2型かまたは、±1,+2型のどちらかであるという証拠
にしか、依然ならない

と、私は思う。なお近年作成された、増川宏一氏所蔵の教育用の桂
馬の駒に点を打って示したルール図には、もっと写実的に、桂馬の
前方に、点を2列に3点ずつ打ち、黒丸を左右の前方の2点だけに
付けたものも、あるようだ。
 従って、中世に桂馬が

±2,2型である事を、確定するには、もっと確実な証拠が要る

事は確かなのではないかと、本ブログでは考える。つまり、

高見氏の説は、古代の桂馬のルールに関して、現行の定説では疑問
と結論される材料の一つを、単に示したに過ぎなかった

のではないかと、本ブログでは疑っているのである。(2018/11/17)

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日本の将棋に”舟”駒が無いのは何故か(長さん)

本ブログの見解によると、現在の中国雲南に中国の北宋、日本の
平安時代後期に有った大理国から、現在の日本の将棋の源のゲー
ムが伝来する以前の10世紀程度にも、東南アジアのカンボジア、
アンコール王国等から、散発的に土地の将棋が漂着していたと
している。所で、カンボジアやタイの将棋の車駒は、少なくとも
現在は舟になっている。飛車の動きで香車相当の車駒が、当時の
アンコール王国等でも舟という駒だったかどうかは、正確には判
らない。が、漂着したものの廃れ、今では日本人一般には”異形
の駒名称”のカテゴリーとなってしまった、東南アジアの将棋の
舟が、必要な駒名称数に欠乏感の強い、後の大大将棋・泰将棋等
にも、取り入れられなかったとしたら、理由は何だったのであろ
うか。以上を今回の論題とする。最初に本ブログの見解を書き、
その後で説明を加える。答えはこうである。

日本人は江戸時代の末まで、舟で攻めてきた外国の軍団に、国内
が占領された経験がたまたま無かった。そのため、舟という名称
の将棋駒名に、コワモテするようなイメージを抱けなかったため

と本ブログでは考える。では以下に、以上の内容についての説明
を加える。
 現在知られている日本の将棋で、舟に関連の有りそうな駒名は、
和将棋の牛車の成りの、前牛だけである。前牛の前は別字で、止
の下に舟であるが、一応”前牛”の事だと見られる。ただし、江
戸時代になると、東南アジアの象棋の情報も、それなりに増加し
たであろうから、東南アジアの象棋の舟駒が、漢字の一部に有る
字を、車駒の類である、和将棋の牛車の成りに入れたとは、一応
推定は出来る。ただしこの程度では、舟駒を日本の将棋の駒名と
して使うという文化の存在が、中世から有るとは言えないだろう。
 ところで、日本の将棋では、将棋の駒名として、戦力になりそ
うな名前のだけが、取り入れられるという性質がある。一旦は
一部の将棋種の駒名となっても、その名称に恐怖感が有るという
性質が、全く無いと、後続の将棋種に、取り入れられ無いと言う
共通性が、必ずあると私は認識するのである。日本の将棋に、
西洋流の城駒や、僧侶駒、農夫駒が無いのは、そのためだと考え
られる。
 他方、カンボジアの将棋が10世紀までに、日本に一度も漂着
した事が無かったとは、私にはとても考えられない。以上の点で、
個人的には、将棋史研究家の増川宏一氏に私は賛成する。しかし、
舟というカンボジアの駒種に接した、海岸端に居住する日本人の
記憶が、他人に伝わらなかったから、舟駒は、日本の将棋駒の名
称として残らなかったとしか、少なくとも私には考えられない。
その理由としては、別の日本の将棋の駒名の、名づけのパターン
から、やはり、

舟という”武器”に対して、中世以前の日本人には、恐怖感が無

かったからだとしか、私には考えられない。日本人自体は、中国
や朝鮮半島の海岸を、倭寇として荒らしまわって、外国人へ武器
としての舟の、恐怖感をかなりの程度与えたのだろうが。逆に、
モンゴル帝国の来襲時も含めて、船団でやってきた、外国人の軍
隊に、日本の少なくとも領土の一部が占領される事が、その可能
性を含めて、日本の江戸時代の末までは現実無かった。そのため
に、舟という将棋の駒名が、恐怖感の有る事物と認識される事は
ほとんど無く、その関連熟語が駒名として残らなかったのでは、
あるまいか。
 そのうちに、中国雲南の大理国の将棋で、舟駒が車駒の将棋が
伝来してきた。その時代には、日本の朝廷の宮廷人が、車を使用
する時代になっていたので、車駒は、その上に武器を持った兵隊
の群を乗せて走る物といったように、武器として想像する事の可
能な事物になっていたのだろう。逆に言うと、奈良から平安時代
にかけては、移動用の車もあまり無かったため、吉備真備が、
イスラムシャトランジを長安等で学んで帰ってきても、”終盤に、
それで王を追い掛け回す、車”と、指し方のコツを聞いたところ
で、”車”と言う駒名の意味も、謎であったのだろう。それもあっ
て、8世紀程度では、日本には将棋類が伝来しがたくする要因に、
なったのかもしれないと、私は推定する。
 逆に言えば、前世紀の1977年に著作された、増川宏一氏の
将棋歴史書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ、法政大学出
版で、”香車駒は、その存在が謎”と記載されているのは、日本
への将棋の伝来時期の定説が、数世紀程度とされるから、謎なの
であろう。つまり将棋の伝来時期が、数世紀から西暦1000年
前後に切り替わってしまうと、書いている増川氏にとっても、伝
来時期の定説が、貴族の乗物としての車の発生時期以降にシフト
しただけで、簡単に謎では無くなってしまったという事なのであ
ろう。(2018/11/16)

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将棋盤の足の蓮座型。近世になってからなのでは無いか(長さん)

前に、中国の碁盤の足と日本の碁盤の足とが、前者が典型的には
床脚、後者が仏座の台座の蓮座型であるのは、仏教の影響力が、
日本の方が強いためとの議論を、本ブログでした事があった。
 しかし、文献を良く調べてみると、今述べた事は、一般論とし
ては正しいのかもしれないが、日本の中世に、中国と日本の碁盤・
将棋盤の足に、仏教の影響力という意味での差が有ったとの、確
かな証拠が無いのに、遅ればせながら本ブログの管理人にも、判っ
てきた。
 増川宏一氏の代表著書、ものと人間の文化史23-1、将棋Ⅰ
に、将棋盤の足の形についての、変遷の説明が載っている。それ
によると、将棋盤の足は、

平安時代から室町時代まで、逆L字型であって、蓮座型では無い

という。なお、同著書のこの部分で、増川氏は西暦1500年頃
とみられる、”厩図の将棋盤に足が無い”と記載されているが、
私の認識だと、

西暦1500年頃の厩図の将棋盤の足も、逆L字に書いてある

と認識する。つまり少なくとも

安土桃山時代前期まで、日本の将棋盤に仏座の台座の蓮座型の物
が有ったとの確たる証拠が、ひょっとして、無いのではないか

と、最近になって私には、疑うようになってきたと言う事で
ある。たとえば、”戦国大名の遺宝”山川出版(2015)の、
増川宏一氏記載のパートにも、足の有る将棋盤の現物の写真は、
江戸時代のものしか載っていなかったように思う。そこで確かに、
日本と中国で、碁盤や将棋盤の足の形に差があるのは、一般論と
しての、仏教勢力の相対的影響力の差だとは言える。しかし個別
には、日本の将棋盤の足が、仏座の台座の蓮座型であるのは、

江戸時代に、将棋の家元が寺社奉行管轄であったため程度の理由

であるという仮説を、これでは完全に否定できるほどのものでも、
無いように思えると言う事である。
 実際には、安土桃山時代の将棋盤や囲碁盤の脚がどうなってい
たのか、

事実認識そのものを、もう少し正確にすべきなのではないか。

以上のように、この問題については、さいきん私は考えるように
なってきたのである。(2018/11/15)
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鳥羽離宮(59次)遺跡の裏墨跡金将。裏は一文字”成”か?(長さん)

前に、鎌倉時代末期のものとされる、京都市鳥羽離宮出土の
金将は、裏にも墨跡があり、飛車であるなら、中将棋の初出
かもしれないとの旨を、本ブログで述べた。その後、草書体
の常用漢字辞典をあたり、この裏側の墨跡について、微かに
特徴として残された、上部の△模様を頼りに、表題のように、

”成”の崩し字とも読める事が判った

ので、以下に報告する。
私が今回あたった辞書は、以下のものである。

亀田秋陽著。漢字・くずし字早わかり辞典(2013)。
メトロポリタンプレス発行

 上記辞書によると、△型の出る草書にしたときの漢字とし
て、他には土を中央含む字がある。一応、将棋駒に出てきそ
うな字で、可能性が高そうなのは、”成”のケースだけであ
るようだ。
 下の写真は、私がマジックインキで書いた、△部分が”成”
の草書の何処なのかを説明した、模式図である。

成草書.gif

 なお成書の一部で指摘されている、”飛”の崩し字でも、
三角が一番上に出て来るように出来る可能性も有るが、反時
計回りに45°位回転した、別の形になる可能性が高いと、
私は思う。
 それに対して成りの草書で△が有るのは、伐の字の作りの
部分が、∫のような形に、なるからのようである。なお以上の検
索時、△以外の部分で本物の墨跡は、介の字の第1画目に見
える部分程度と考えた。すなわち残りは、2文字目に見える
延のニョウに見える部分も含めて、墨が、木目の隙間に侵入
したためのニセモノと仮定した。
 ところで、今問題にしている、鎌倉時代末期の京都市出土
の金将駒の裏に”成”と書いてあった理由であるが、次のよ
うに、今の所は考えている。

すなわち、この将棋駒具では、玉将を除いて全部の駒の裏側
に、ひょっとして、これと同じ字体で”成”と書いてあった

のではないか。つまり、駒の形だけで区別する、飛車角の無
い、持ち駒ルール有りの時代の、平安小将棋用の駒だったの
だろう。
 本来何も書いてないのが正常な金将にまで”成”を書いた
のは、たまたま、それで良いと見て作った駒なのか、あるい
は、木地だけで、未使用の駒が同じ道具箱の中に入っていた
ので、実使用する物である事を強調するためかもしれない。
 従ってこの駒自体は、

鎌倉時代の末期に飛車成り金将が有ったという証拠としては、
それに当たる可能性の、比較的少ない駒

なのではないかと、私には思えるようになってきた。なお、
この駒の現物を、この2018年の12月9日まで、
京都府立山城郷土資料館の展示会にて、一般公開しているら
しい。(2018/11/14)

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(写真の説明)地球の温暖化に追われる生物達

本ブログの写真は、S□ny社のハンディカムで撮影している
が、カールツアイスのレンズが暗いので著名なのと、当方の
腕が悪いのとで、余り鮮やかな写真が撮れない。申し訳ないの
で、出土史料等ではなく”自然”を一枚撮影して、ブログの左
に置いてみた。この写真の意味は地球の温暖化で、昆虫類の発
生の調子がおかしいというものである。撮影は、2018年の
11月12日に、関東の市街地でした。写っている昆虫の名前
は、アサマイチモンジ蝶の第3化と言われるものとみられ、市
街地では、埼玉県さいたま市大宮区で、私は昔見かけた事が有
るが、比較的珍しいものだ。只の、イチモンジ蝶も、都市には

アサマイチモンジ.gif

余り居無い。この昆虫は通常は、この環境では10月頭程度に
出現する。一月以上遅れたのは、さいきん異常に暖かいからだ。
 なお、いっしょに写っている植物はフリージアの葉で、冬に
緑色の葉がフサフサの、この球根の葉が、こんなに伸びている。
近くに、当方のネームプレートとしても使用している、小菊も
八部咲きだったので、こっちにいる所を撮影すれば、なおさら

異常が強調された

のかもしれない。
 このブログの管理会社に免じて、S□ny社のハンディカム
は、普通の写真なら結構良く撮影できる点を、とりあえず強調
しておくことにする。(2018/11/13。その2)

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大大将棋に酔象が無いのは何故か(長さん)

本ブログも、これまで駒数多数将棋の個別の駒種の謎を、多数取
り上げて来た。がしかし、たまに聞く表題の件につき、回答を与
えた事が、未だ無かったようだ。そこで今回は、大大将棋の特徴
の一つとして以前から著名な、近王に置き換わっていて、成り太
子酔象が、この将棋種に無い理由についてを論題とする。
 本ブログの回答を、いつものように最初に書き、説明をその後
で加える。

ずばり、大大将棋の作者は、摩訶大大将棋で酔象の成りが、太子
ではなくて、王子になっている理由を知っていたから

だと、本ブログではみる。つまり王子にした経緯を聞いた大大将
棋の作者は、

釈迦を意味する太子を、自ら作成した将棋ゲームに加える事に対
して、嫌気がさした為

だという事である。なお、摩訶大大将棋に習って、太子を王子に
変えると、摩訶大大将棋に関する、言い伝えの残っている時代の
ため、摩訶大大将棋の方が、大大将棋より古いのが、ばれるので、
それはできなかったと見られる。
 それでは以下に、以上の内容につき説明を加える。
 本ブログの見解では、大大将棋の作者は、書家であり、恐らく
寺院に関連のある人物である。また作成された時代は、水無瀬兼
成が、生まれた後だと、本ブログでは推定している。大大将棋を
水無瀬兼成自身が、新しいという事が判らないように、デザイナー
の了解のもと、一部手直ししていると、見ているのである。また、
大大将棋が、せいぜい戦国時代末期から安土桃山時代のものであ
る事は、水無瀬兼成作である泰将棋と、将駒の並びが似ている事
や、同じく、水無瀬兼成の将棋馬日記の、駒数多数将棋の大阪城
からの注文に関して、駒木地の枚数を集計する際に、摩訶大大将
棋と泰将棋の間に挟んで、大大将棋の駒の数を加えている等、
複数の証拠がある。
 なお泰将棋が水無瀬兼成作である事は”将棋纂図部類抄の行然
和尚まとめ部”の、水無瀬兼成自身による、成りを中将棋のパター
ンで、とどめたいがゆえの、大将棋の駒数の改変(記載された
将棋種の、実質的交換)から判る。
 従って、本ブログでは西暦1443年には存在したと見られる、

摩訶大大将棋より大大将棋の方が、新しい事は確か

だと考える。他方、大大将棋の作者は水無瀬兼成と繋がっている
し、また、そもそも将棋のゲームデザイナーなのであるから、
摩訶大大将棋だけ、

酔象の成りが太子ではなくて、王子になっている理由について、
かなり詳しく知っていたと見るのが自然

である。その理由であるが、本ブログでは、前に天文の錯乱とも
言われる西暦1532年頃の、浄土真宗系の一向宗の門徒による、
奈良県侵攻時に、それ以前は太子成りであった、摩訶大大将棋の
酔象を、十市氏や筒井氏といった、反一向一揆派の在来武闘勢力
を束ねるための政治的な意図から、

摩訶大大将棋の自在王を世自在王になぞらえて、玉将を浄土真宗
流の阿弥陀如来に仕立てた上、”仏教宗派闘争という、そもそも
教祖の望まない戦闘による、殺性を毛嫌いする釈迦が、将棋駒の
構成要素から抜けて、善財王子等に交代した”というルール変更
話を、実際にそれをして見せた上で、奈良県の在来勢力の親方格
が、その時代に作りあげた

のではないかという仮説を、述べた事がある。なお善財王子は、
善財童子が、近畿地方の熊野信仰と習合した物と、ここでは見る。
つまり奈良一向一揆、撲滅作戦時の戦意高揚に、奈良県では
摩訶大大将棋が、西暦1532年頃に政治利用され、そこから広
がったのが、太子から代わった摩訶大大将棋の王子だったという
事である。
 もちろん元になる話が、今述べた仮説に間違い無いと、特定す
ることは困難だろうが。この例に限らず元々、

殺生も原因となる死の苦しみが、出家の原因である釈迦が、
合戦行為を模した将棋に、駒種として加わる事の不自然さ

が、太子から王子への転換であろうと言う一般論自体が、尤もら
しいと思われるのは、充分に確かだと私は見ている。だから、
”そもそも将棋一般に、太子があること自体が、おかしいのでは
ないか”という議論が、何らかの経緯で、安土桃山時代頃までに
は発生したと考えるのが、自然なのだろうと考える。
 そして、大大将棋の作者もまた寺院の関係者なら、駒数多数将
棋に釈迦が入っているという事に対し、今述べた釈迦の性格が、
追随への疑念を感じさせる、原因になったのではないか。そのた
め、摩訶大大将棋の、酔象の成りの変更の、上記仮説例に限らず、
とにかくその経緯を知っていた大大将棋の作者は、以上の思考で

大大将棋には、酔象を入れる事自体を止めた

のではないかという結論自体に、不自然感が無いと私は考えるの
である。
 ただし、彼は象駒が将棋に有ってはならないとは考えなかった
のだろう。そのため、釈迦の伝説に関連の深い、酔象という駒は
構成要素から外したのだが、その代わりに、仏教上の聖人の名と
しても名高い香象や、イメージの良い白象は、大大将棋で新たに
追加したようだ。
 なお、水無瀬兼成の方は仏教徒ではあっても、寺院関係者では
無かったし、中将棋の流行を加勢して、自身も駒師として身を立
てたいと思っていたので、泰将棋では、酔象や太子を排除しなかっ
た(2枚にした)と私は見る。
 従って以上の事から、大大将棋に

成り太子酔象が無い事もまた、この将棋が摩訶大大将棋より後

の作である事を示唆している証拠の一つなのではないか。以上の
ように、今の所私は、考えているという事になるのである。
(2018/11/13)

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今小路西社会福祉センター遺跡木簡。消失した三枚目は有るのか(長さん)

既に本ブログで述べたように、表題の神奈川県鎌倉市市内の今小路
西遺跡、社会福祉センター出土の木簡または木札は、様子では割れ
ていた、2片からなっていたとみられるものである。本ブログの読
み下しによると、”近く”の近の字が、2枚目の札の右の方で切れ
ていたり、1枚目の猛豹の”う”の字が下の方で切れていたりする
ので、擦り切れが多少有ると見られる。では、この木簡または木札
は、その程度の破損であって、これ以外にも、このシリーズの別の
木片がまだ有ったのだが、3枚目以降については、消失したという
事は無いのだろうか。以上の疑問を今回の論題とする。
 最初にいつものように回答を書き、後で説明を加える。

これだけであって、3枚目以降は恐らく存在しないと、本ブログ
では推定する。

では、以下に説明を加える。
 ようするに中将棋のルール説明とみられる、この木簡または木札
の説明が、以下の形で言い尽くされているかどうかだと考えられる。

鎌倉木簡.gif

本ブログでは、狛犬と猛豹と盲虎の説明で、この木簡または木札が
作成された時点での、中将棋のルールは、基本的に言い尽くされて
いるのではないかと、推定する。理由は、

狛犬、猛豹、盲虎、この3種類だけ言及しさえすれば、
西暦1300年頃の普通唱導集大将棋に無く、問題のプロト中将棋
にはあると見られる駒が、全部出てくる

と、少なくとも本ブログでは認識するからである。ようするに、
この木簡は、初心者にルールを説明するためのものではなくて、

鎌倉今小路西の、この遊戯場で、どのバージョンで、中将棋類を指
す事になっているのかを、来場者に周知徹底するため、この遊技場
の主催者が作成したと見られるもの

だと言う事である。
 従って、

これ以上のルール説明は、普通唱導集大将棋と、狛犬のルール、
猛豹のルールを予め教わっていて、以上を知っている者には、特に
必要ない

と考えられると言う事である。恐らく、この木簡は西暦1350年
頃のものだろうが、このプロト中将棋には、成り駒の、飛鹿、飛鷲、
角鷹、飛牛、奔猪、白駒、鯨鯢も、まだ無かった時代のものなので
はあるまいか。以上の点でこの、昔から皆にアクセス可能だったが、

成書に堂々と載り放置されていた今小路西遺跡の、木簡または木札
は、将棋史、特に黎明期の中将棋の様子を知るには、最重要な史料

だった可能性が今の所、簡単には否定は出来ない、状況なのではあ
るまいか。私は以上のように考えるのである。(2018/11/12)

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中将棋。遊学往来に言及あるが、康富記まで対局記録が何故無い(長さん)

増川宏一氏の将棋の歴史(2013)によると、南北朝時代の
遊学往来(1372年より少し前、岡野伸氏)が中将棋の初出
であるが、公家の日記等に、対局記録が現われるのは、西暦
1443年の中原康富の康富記が初出だという。そのため、
中将棋の記録(一。自費出版。2004年)の著者である、
岡野伸氏は”遊学往来の中将棋の文字は、後世の加筆ではない
か”と疑っておられる。今回は、前に紹介した、鎌倉市今小路
西遺跡木簡等の内容も踏まえながら、中将棋の日記対局記録が、
遅かった理由を論題にする。
 いつものように、結論を先に書き、説明を後で述べる。

駒数多数将棋は、ルールのコンテンツとしての分量が多くなる
傾向が強いため、亜流ゲームを作りやすく、標準平安小将棋の
強かった京都では、一本化に100年位掛かったのが原因

と、本ブログでは考える。
 では以下に、以上の結論に関して説明を加える。
 本ブログでは、西暦1320年頃に、普通唱導集大将棋が、
自明定跡の発生という、ゲーム性の難点から衰退し、いわば
モンゴル帝国来襲時代の、カリスマが去って以降、

駒数多数将棋に関しては、戦国時代がしばらく続いた

と、見ている。鎌倉市今小路西出土の木簡または木板の、

”志ろいぬ”駒と疑われる文字の存在は、それを支持するもの

であろう。異制庭訓往来の虎関師錬の駒数多数将棋に関する記
載も、この考えと大きく矛盾するものではない。
 他方、京都はもともと、初期院政の時代に発生したと、ここ
ではみる、9升目36枚制の平安小将棋が発展した、持ち駒型
の同形小将棋が、皇族に距離的かつ対人関係上近い、公家には、

他に有力な将棋が何も無ければ、指される傾向が強かった

のではないかと考えられる。恐らく南北朝時代の北朝の公家、
洞院公賢の指した将棋も、単純に持駒有り型の9×9升目36
枚制平安小将棋だったろうと、私は想像するのである。
 しかし、新安沖沈没船出土将棋盤(?)が示唆するように、
9×9、12×12、15×15といった、易経の九星占いを
連想するような盤升目の将棋は、何れも継続して研究が進んだ
のであろう。その結果、結局の所

中将棋は発生してから100年程度で、駒数多数将棋の覇者と
なった

と考えられる。鎌倉市今小路西の木簡は、その試行錯誤に、鎌
倉市近郊のゲーマーの寄与が、比較的大きかった事を、あるい
は示唆しているのかもしれない。
 ひょっとして、花営三代記の足利義持が大御所の時代の
西暦1424年に、京都よりも早く、中将棋の少なくとも亜流
であると疑われる将棋の記載が、武家政権の記録に現われるの
は、それを示唆しているのかもしれない。なぜなら室町幕府は
京都だが、そこに、東国の武家の棋士の活躍が、記載されてい
るからである。
 そして、西暦1440年代になると、

相変わらず旦代の難点が、持ち駒ルールになっても残っていた
標準型平安小将棋(9×9升目、36枚制、持ち駒有り)に、
京都に於いても駆逐されずに、京都で中将棋を指す団体棋士集
団が、発生するまでに至った

のではないか。以上のような流れで、駒数多数将棋と後の、
日本将棋の親である、小将棋が並立する状態が、15世紀にな
ると、当時の首都であった日本の京都で、ほぼ定着したのだろ
うと、以上のように私は見ていると言う事である。(2018/11/11)

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ブログ”世界遊戯史博物館”に源師時長秋記袋物占関連記事在り(長さん)

 将棋の文献で新猿楽記に次いで古い、西暦1129年5月02日
(宣明暦)に書かれた、源師時長の長秋記の日記に現われる記事、
鳥羽上皇の、”12枚の将棋の駒を使った袋物占い”という内容は、
将棋史では著名だ。実はそのシーンを、そのまま撮影したような、
将棋駒として、中国シャンチーの駒名を書いた札を、黒い布袋につ
めて、目隠しして1枚取り出す、この場合占いではなくて、賭博の
記事が、web上に2年近く前に掲載した記事として、ブログ、
”世界遊戯史博物館”の、西暦2017年01月06日のページに
公開されている。
 ページ自体は、”世界遊戯博物館”と検索すれば、ブログ自体が
hitする。ので、最近は更新されておらず、3ページ目程度に、
この記事が出るのだが、比較的簡単に見つかるだろう。
 ブログの説明記事によると、ブログの写真は、テレビドラマから
の転載で、”シンガポールのTVドラマ「双天至尊(1993年)」
の、第一話に登場する”との事である。なお、双天・至尊というの
は、賭博ものという意味らしく、劇中に様々な賭博ゲームが、登場
すると、同ブログで紹介もされている。
 よって占いとは異なり、袋から駒を選択した後は、賭博ゲームに
なると言う事である。具体的には袋に、中国シャンチーの駒名とし
て兵卒駒を除いて、残りは、敵味方を1枚づつとして、親が象棋の
12種類、すなわち

「帥・将・仕・士・相・象・俥・車・人偏馬・馬・炮・砲」と書い
た札を、黒い袋の中に入れ、ついで袋の中に手を入れて、手探りで
一つ選び、

それを、小さなケースに入れて蓋をし、その札が何であるかを、
子が賭けるというのが、劇中の賭博シーンの内容らしい。
 なお、賭博なので、子は掛け金の倍率を選択する事ができる。大
きな倍率を賭けると、当たったときにその分、大金が帰ってくる。
ので、これは典型的な賭博である。なおこの形の賭博は、日本にも、
明治時代以降中国より入り、”手本引”と言われていると言う事で
ある。ただし日本の手本引は、中国シャンチーの駒は使わず、問題
の1993年のシンガポールのTVシーンが、中国のどこの文化を
題材にしたものかは、世界遊戯博物館のブログの管理人にも、良く
判らないとの事のようだ。

何れにしても中国には、シャンチーの駒に関する、覆物選択行為が
古くから何処かにあるのだろう。

 より正確な話は、そのブログを見ていただくことにして、覆物占
いでかつ、将棋の駒の12枚という、源師時長の長秋記の日記に
現われる記事に、このテレビ番組のシーンに現われる、道具のパター
ンが、完全に対応しているという事が、ここでは重要である。
 つまり、西暦1993年は西暦1129年よりは、だいぶん後代
だが、中国から伝来した、中国シャンチーの駒を12枚と、黒い袋
を使って、駒を選択する行為という点で、1129年の将棋駒覆物
占いは、

本ブログの見解のように、将棋の駒とは、中国シャンチーの駒の事

と考えると、ピタリと話が合っているという事である。なお、
web上の未確認情報だが、源師時が長秋記で描いた、鳥羽上皇の
袋物占については、博多経由でもたらされた、

中国からの占い方法に関する文献の、存在記録がある

という話もあると、本ブログでは以前紹介した。
 繰り返すが従来は、この将棋占いの

将棋駒は、日本の五角形駒との説が、学界では強かった。

しかし、中国からシンガポールに最近だろうが伝来した、中国シャ
ンチー駒12枚を使う、覆物賭博が今でも有るとなると、

やはり、本ブログのように、鳥羽上皇の覆物占いとは、中国シャン
チーの「帥・将・仕・士・相・象・俥・車・人偏馬・馬・炮・砲」
の12枚を使った、覆物占いである疑いが濃いのではないか

と、私には思えてくる。実は、中国シャンチー駒の出土初出は、こ
の鳥羽上皇の覆物占いの、たった23年程度前でしか無い。
 この日本の将棋史のカテゴリーと従来見られた鳥羽上皇の覆物占
いの記録は、ことによるとむしろ、中国シャンチーのゲーム史にとっ
て、重要な史料なのかもしれないと、少なくとも私には、前から疑
われているのである。(2018/11/10)

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(コラム)本ブログ開設満2年が経過(長さん)

 今11月の第ニ週で、本ブログも開設より2年が経過した。
 この2年間、最初の方からほとんど欠かさず本ブログに注視
してくださった方が、明らかに何人かおられる。それに助けら
れて連続投稿日数731日を、無事通過する事ができた。特に
後者の記録は、その方々のおかげだったと言って良い。誠に
感謝いたしたいと思います。
 さて、その連続毎日投稿の記録であるが、途切れるとすれば、
当然ながら、本ブログのように、小論形式であって、内容が日
記ではないブログのケースは、書くネタが枯渇したときである
と考えられる。その見通しであるが、能力に限界が来て、ネタ
が考え出せなくなったときだろうとしか、今の所答えることが
出来ない。史料を見直しても、まだ言及していない内容がある
事に気がつくことは、最初の頃と違って最近では、めったに無
くなった。が、このような状態は、1年以上前からであるから、
今日は、どう見ても投稿する物が無いという気持ちになった事
は、幸いな事に、これまで一度も無かったという事である。
 また天災とか、身内の不幸とか、自分自身の病気等の不慮の
事態で、途切れることが有るのか無いのかは、今の所予想がで
きない。
 なお研究のため、ブログを立ち上げずに、調査に集中すると
いう事も、将来無いとは断言できない。が、将棋史の場合、
既存の史料の調査がほとんどなのが現実なので、私はそういう
生き方が、個人としては好きなのだが、そのような生活に移行
する確率は、少なくとも今のところ低いかもしれない。
 よって間違いなく、残念だと心より感じながらであろうが、
連続毎日投稿記録が途切れるのは、どうしても原稿が考え付か
ない事態が、私の能力不足と、題材が多少枯渇傾向になった時
に、これから未来のある日に、突然起こってしまうという事で
あろう。以上のような可能性が、一番高いのではないかと、今
の所漠然と予想しているだけである。
 思えば遊戯史学会が、あと2か月弱で消滅すると言われてい
る。そんな中、その中の一分野である、増川宏一史学会会長の、
メイン研究テーマ”将棋史”の、古い時代の方のパートのブロ
グが、学会の消滅日を待たずに、ろくに更新されない状態には
ならないように、したいものだ。だから管理人の能力が無いた
め、連続で、毎日本ブログへの投稿が、このまま続くとまでは、
とても確約できないが。少なくともできるだけ長く、本ブログ
を生きた状態で、保ち続けて行きたいものだと、現時点で考え
ている事は、確かである。(2018年11月将棋の日の少し前)

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中将棋。獅子を狛犬に変えたら、初手▲7七狛犬は良い手か(長さん)

前に、鎌倉市今小路西遺跡の木簡の記載に基づき、西暦1350
年頃の初期中将棋で、特別規則のある獅子の代わりに、狛犬の
配置された中将棋の存在の可能性について、本ブログでは論じた。
しかし、安直に獅子を狛犬に変えたならば、1手で動ける範囲が
獅子より狛犬の方が広いので、ゲームとして、おかしな事に本当
にならないのかどうか、懸念が有ると言える。たとえば、初手で
先手が狛犬を3歩前に進めて、支配領域を確保しようとすると、
この狛犬には繋ぎ駒は無いが、後手が3歩狛犬を進め返して、同
形にし、バランスを取る事が出来ないように思える。つまり、

先手必勝型のゲームになってしまい、このような変更が行われた
とは、最初から考えにくいという事は、本当に無いのかどうかが
問題という事

になろう。そこで今回は、表題に有るように、この先手が初手に
狛犬を3歩進める手の、善悪についてを論題とする。
 最初に回答を書き、それについて、その次に説明を加える。
以下回答を書く。

先手初手▲7七狛犬は、恐らく悪手のため、このゲームに、先手
有利の難点は、一応無いと見られる。

では、以下に説明を加える。
 すなわち先手初手▲7七狛犬には、後手は2手目で△8五歩と、
普通に駒数多数将棋では良くある、龍王前の歩兵を上げる手を指
してくると見られる。その後3手目▲7八歩とか▲5八歩なら、
後手4手目は、何れの場合も△6六龍馬である。その後、
▲4四狛犬(龍馬踊り喰い)△同龍馬の、狛犬と龍馬+歩兵交換
では、先手がやや不利なので、3手目には狛犬を移動させなけれ
ばならず、そうだとすると、

第1手目の▲7七狛犬は、位を取れないので無駄な手であった

という事になる。
 なお以上の推論で、狛犬は、同一方向に3歩歩むではなくて、
自駒を跳び越せる、大阪電気通信大学の踊りルールであると仮定
した。なお自駒を飛び越せない状態は、西暦1280年頃、
大阪電気通信大学ルールの形には、西暦1350年頃になったと、
本ブログでは、今の所一応推定している。
 獅子を狛犬に変えた中将棋では、恐らく先手は第1手目に、
▲7八狛犬とか、▲4七狛犬といった手を、指してくるのではな
いか。それなら特に、後手の方が、いきなり不利にはならないだ
ろう。
 つまり、

本ブログでは、狛犬は居喰いの能力は無いと見る

ので、攻撃力では獅子よりかなり劣り、早い時期に狛犬同士を、
敢えて相討ちにする事は、起こら無いのではないかと考えている。
 大阪電気通信大学の高見友幸氏により、以前、獅子-狛犬、同
時出現説が論じられた。狛犬が、金剛、力士、羅刹、夜叉に比べ
てこれだけが、早期に出現とも取れる説であり、当時私には、違
和感があった。しかし”中将棋の、しちめんどくさい点を何とか
しようとして、獅子を狛犬に変えてみる”という話の、可能性が
出てきてみると、確かに彼の言うのが、正しかったのかもしれな
いと、最近は私も思うようになってきた所である。(2018/11/09)

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将棋駒の盲虎。普通唱導集大将棋時代に何故出現できなかったか(長さん)

本ブログでは、中将棋の出現時に盲虎が成立したと考えている。
 つまり、普通唱導集の時代の13升目108枚制の大将棋、
仮説普通唱導集大将棋に有る虎駒は、猛虎だったと考えるとい
う事である。しかしながら、もしこの時代に猛虎が盲虎になっ
ていたとしたら、普通唱導集第1節の意図する、”香車と反車
が耳を破り、飛車を退け”て、次に成麒麟を作っても、それで
玉が成り麒麟に捕まってしまうと、自明には言えなかったはず
である。つまり猛虎に、盲虎のような守り駒としての性能が無
いからこそ、こう表現できた、普通唱導集の大将棋唄だと考え
ると言う事である。しかし、”猛虎の4方向歩みの、方向数を、
もっと増やして盲虎の7方向にすると、ゲーム性が改善される”
という事を、西暦1300年頃には考える事が難しかったとは、
とても思えない。ではなぜ、そうしさえすれば良い、虎駒の
変更が、中将棋の時代まで行われなかったと考えられるのかが、
今回の論題である。
 そこで、いつものように最初に答えを書いて、後で説明を加
える。まず、以下が答えである。

普通唱導集大将棋は二中歴平安大将棋の駒にほぼ、適宜別の駒
を加えて作られるべき将棋であり、その枠組みをはみ出す改善
は、棋士に支持されなかった。そのため、猛虎の動きに問題が
あっても、盲虎に変更する事が難しかった

と考えられる。
 では、以下に上記の結論につき、説明を加える。
 まず、獅子の動きの駒である麒麟の成りの獅子が考え出され
た時点で、虎駒が猛虎より盲虎の方が良い事は、ほぼ間違い無
い話である。だから、ゲーム性が常に優先されて、将棋ルール
が決まるとすれば、虎駒が猛虎のままで留まるという事は、有
り得ない。従って、

二中歴の大将棋の記載というのは、西暦1300年時点で、ゲー
ムルールを決める、原典として最重要視され、そこからはみ出
す事が難しいという事情が無い限り、普通唱導集大将棋第1節
の内容を、矛盾なく説明する事は難しい。

恐らく、大将棋のルール本として、よりどころになる情報は、
西暦1300年には、二中歴の内容しか、存在しなかったと、
結論せざるを得ないと私は思う。だから、

普通唱導集時代の大将棋で、銀将前升目の位置の駒は必ず、
猛虎で無ければならなかった

のであろう。ちなみに、隣に牛駒を置き、たまたま雲南省の
豪族の名前の一字をとって、猛牛としてしまったために、鬼門
でペアーになる、12支という意味での虎駒の名前としても、
猛虎の方が、別の字を書くよりも、ゲンが良いと言う事も、
猛虎を盲虎に変えにくい要因に、なったのであろうと見られる。
何れにしても、だから、

”大将棋は、二中歴大将棋が骨格となるべき”という時代には、
盲虎を採用できなかった

と、私は見るのである。
 それに対して、中将棋は、本ブログによれば12升目96枚
の駒で作る事から出発した、13升目108枚の駒の将棋、
普通唱導集大将棋とは、別の新しい将棋と、最初から見なされ
た。そこで、大将棋の駒種や配列を参考に作るにしても、中将
棋では、駒名を平安大将棋に、完全に合わせる理由が無くなっ
たと言える。だから、

中将棋にも獅子に成れる麒麟があるため、虎駒が猛虎より盲虎
の方がよければ、それだけの理由で盲虎を採用する事が出来た

と、考えられる。
 そのため、中将棋の時代に始めて、盲虎が現われたと、本ブ
ログでは考える。
 だから逆に言えば、前に述べたように、中将棋のごく初期の
形が、今の形とは完全に同じで無く、

成って出現する獅子はあるが、元駒の獅子が無くて、狛犬に置
き換わったような初期変則中将棋の時代でも盲虎は出現できた

と私は考える。つまりこの事は、

盲虎が出現したのは中将棋の時代だが、原因は成り麒麟の獅子
の存在のせいだったと、厳密に考えると、そう言える

という意味である。たとえば鎌倉市今小路西遺跡の墨跡木簡に、
”盲虎のルールの強調”のような、記載の跡が見られるのは、
今述べたような、事情によるものかもしれない。(2018/11/08)

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今小路西遺跡出土”内容不明木簡”はプロト中将棋ルール説明文(長さん)

鎌倉時代から南北朝時代の遺跡として知られる、鎌倉市の鶴岡八幡宮
からは、成り楷書奔王鳳凰駒等が出土している事で著名だ。が近隣の
鎌倉市市内の、北条氏や千葉氏の鎌倉邸跡等の遺跡からも、将棋駒が
出土している事で知られる。その他、賭博場かともみられる、今小路
西遺跡から、将棋駒や遊戯具が出土している。以上のように、全体と
して鎌倉市市内は、鎌倉時代から、南北朝時代にかけての将棋遺物が、
かなり出土する場所となっている。
 ところでいま最後に述べた今小路西(御成小学校)遺跡と、さほど
離れていない所とみられるが、今小路西(社会福祉センター)遺跡か
ら、今回話題にする、”読み下し不能な木簡”が一枚出土している。
 さっそくだが、この木簡に、

何と書いてあるのか、それが将棋史と関連するのかが、今回の論題

である。最初に結論から書いておく。
最初から、ほとんど”ひらがな”ばかりで、内容が書いてあると仮定
すると、

南北朝時代の中将棋の、ルール説明の一部のようにも読める。

では、以下に以上の結論につき、説明を加える。
 この木簡は、中央から上下に2つに折れてしまっていると、鎌倉考
古学研究所には見られたようだが、

そう考えると、内容が全くわからない。

今小路木簡.gif

2つを切り離して、

上の半分から説明が始まり、一部切れている

が、木簡の下半分とされるものへ、説明が続いていると見ると、この
木簡の文字が、ほぼ”ひらがな”ばかりだとして、次のようにも読め
るように、私には思える。

(本ブログの、読み下し案。上半分)
志ろいぬ、
もうひゃ(う)。
まうこは、
(以下、下半分の部分)
(近)くわ行が、
上わ(?)ゆ
け無。

つまり、読み下しのポイントは、このケース、いぬ、ひゃ、こ、と
いう、動物名に見える平仮名が、はっきりしているのが、ヒントの
ようにも、とれると言う事である。
 そこで、やや判りにくい、上記の読みを、本ブログなりに意訳す
ると、以下のようになる。

(以下意訳。)
西暦1350年頃現在、中将棋には
白犬。猛豹が在る。また更に、
盲虎が有って、隣接升目へ動くルールになっている。
が、盲虎はすぐ前の升目には進む事が、でき無い。

つまり、志ろいぬと書かれた、狛犬駒が、獅子の代わりに、一時期
中将棋に入っていて、獅子の”複雑な特別規則”が無くても、ゲー
ムになるように、変形中将棋が試験的に作られた時代が、一時期有っ
たらしい

とも取れるような、内容に読めると言う事である。これは、原初の
中将棋のルール説明を、ぼんやりと記したものと見る事ができるが、
中将棋のゲームルールの内容を知らない、かなりの数の木簡研究者
には、”意味不明”と取られてしまう内容であったという事になる。
 この木簡は、鎌倉考古学研究所が中心となり作成した成書、よみ
がえる中世(3)、武士の都鎌倉で、”判読不能”との烙印が、西
暦1989年に、権威ある専門家によって押されたため、

恐らく成書に堂々と載っているが、その後の解明の努力は無かった

ようだ。
 全国出土木簡には、まだこういった、内容未研究なものが、幾つ
かはあるのだろう。少なくとも、このケースについては、

読者が”読めない”と成書に書かれていても、それを頭から信じて
中身を、さいしょから、読もうとしなくなってはいけない例の一つ

に間違いないと、私は問題の、珍しい中世木簡の写真を見てからは、
思っているという事である。(2018/11/07)

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鎌倉時代から南北朝時代の出土駒。銀将が少ないのは何故(長さん)

今回は単純に成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、”鎌倉時代
から南北朝時代とされた出土駒リスト表”の中身を問題にする。た
だし、石川県金沢市の堅田B遺跡の、成り不明”飛馬ないし龍馬”
は、大将棋系の駒とし、これ一枚だけ、除くことにしよう。すると、
上久世酔象(?)駒も、普通の小将棋系という帰無仮説を適宜立て
るとして、この集計では加えると、合計42枚の駒が有る事になる。
 ところが、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒の、今度は、各駒種の
内訳表によると、このうち銀将が、鳥羽離宮54次の、成り極端草
書の今金の銀将駒一枚だけと言う事になっている。
 そこで、次に以上の42枚が、9升目36枚製標準平安将棋の駒
との帰無仮説を立てて、銀将の期待出現数を計算すると、
4.6・・枚前後になり、銀将の出る11.1%は小さいとして、
ポアソン過程で近似すると、0枚ないし1枚しか銀将の出ない確率
は、1/15程度で、かなり小さい。

従って、単純に考えると、9升目36枚制の平安小将棋系に、何か
別の小将棋種が、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、混じっていた

と、背理法で結論されるのだが、これは正しいのか。また正しくな
いとすれば、どう考えたら良いのかを、今回の論題にする。
 結論を先に書き、説明を後で加える。

正しくないと、今の所考える。理由は、神奈川県の鎌倉市佐助ケ谷
遺跡より、西暦1993年頃出土した、駒種不明とされる駒は、成
り一文字金銀将駒であろうと、今の所、本ブログではみなす為

という事になる。では、以上の結論について以下に、説明する。
 この新たに問題として出てきた、鎌倉市佐助ケ谷遺跡より、
西暦1993年頃出土した、”駒種不明”とされる駒は、

劣化が激しく、字を読むのが相当に難しい。

しかし、あくまで私見だが、

この駒の表面の残った墨跡は、銀将と書いてあると見て矛盾が無い

と、本ブログでは考える。

佐助ケ谷.gif

 著作権の関係で、正確に実体が示せないが、表面に13箇所程度、
墨の短い線が残り、裏面にも2箇所、墨跡らしきものが、スケッチ
された絵が、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に載っている。
 以下は、複写の承諾のために、このスケッチを作成した著作権者
を探すのが、後で述べる事情で、やや困難と見られたので、スケッ
チを更に、私が雑で申し訳ないが、更にしてみた再スケッチである。
なお、字だけ模写し、五角形の輪郭等、駒自体の像の線は、上の図
では省略している。
 上記成書、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒では、上図のように、
余りの墨跡の少なさに、両面とも判別不能と、判断したという事に
なる。
 本ブログでも、以上の本ブログの、これが成り金銀将だという見
方に、絶対の自信は無いのだが。銀将と考えて矛盾のない、鎌倉市
佐助ケ谷駒は、”銀将”と厳しく判定して、ユニークな仮説への結
論を、今後の新たな事実の出現まで、今の所は一応

先延ばしにすべきだと

考える。まあ、そもそも銀将の割合が、標準的な平安小将棋よりも
少ない将棋が有ったと、現行結論してみても、

京都市南区の、上久世酔象駒の酔象の文字の、実在性が疑われる

から、大理国平安小将棋が混在と結論するのも難しいし、現時点で
は”なるべく、つまらない状況認識をするしか無い状態”だと考え
ている。ちなみに、金将は予備駒を作る傾向が有るからかもしれな
いが、比較的多く出土する。銀将の次は、異常性がやや減るが、
新安沖沈没船出土駒以外に見当たらない、香車の少なさである。こ
れについては前に述べたが、問香札への転用による保存期間の延長
傾向が、疑われる。
 なお、鎌倉市佐助ケ谷遺跡を発掘した団体は、佐助ケ谷遺跡発掘
調査団という、正体が私には良く判らない団体である。また、別の
団体として、鎌倉市には、鶴岡八幡宮発掘調査団という、それより
10年ほど前の、西暦1983年頃に活動した団体があったとされ
る。以上の事から両団体には、平安大将棋と後期大将棋の如くに、
何か関連性があるようにもとれる、大将棋のごとくに”謎めいた”
名称の、考古学研究集団が、少なくとも鎌倉には2団体あるよう
である。
 ちなみに、鶴岡八幡宮発掘調査団の調査結果は、鎌倉市に今も有
るとみられる、鎌倉考古学研究所の著作物に引用されているので、
銀将(?)駒のスケッチの、著作の転載依頼という著作権問題も、
鎌倉考古学研究所に問い合わせれば、これについては、何とか、
なるようには思えた。
 何れにしても、こういった例は、京都府上久世駒に絡んだ、前に
紹介した著作物の複写問題といっしょで、

まったくめんどくさい話であり、早く50年が経って、著作権が、
切れてしまえば、権利者を探す手間が省けて良いのに

と、思われるような例ではある。
 何れにしても、この佐助ケ谷遺跡駒を、銀将駒と見れば、京都の
鳥羽離宮54次の、成り今極端草書金の銀将駒とあわせて、

42枚中に2枚銀将があり、期待値4.6枚よりは少ないが42枚
は標準平安小将棋系の駒群と考えても、説明可能という程度のフレ

という、統計的な結論にはなるわけである。
 しかし原則として銀将は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての
出土数が、平均すると少し少ない。これは更に発掘が行われると、

鎌倉時代~南北朝時代には平安小将棋の他に、別の銀将の割合が少
ない、小将棋種が混在していた

という結論にも、変わりうる可能性があると言う事である。
(2018/11/06)

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静岡県焼津市の小川城”中将棋系列3枚目駒”裏は軽く崩した金(長さん)

これまでに述べように、静岡県焼津市小川の小川城址遺跡の
出土駒のうち、中将棋の駒は、成り飛鷲竜王、成り飛鹿盲虎
とみられる。その他、もう少し新しい時代の物のように見え
る一文字略書体彫込み”馬”角行駒が、3枚目として出土し
ていると聞く。そして4枚目だが、中将棋駒と同一出土の、
細長い、これまで駒名不明とされていた駒が、出土している。
今回は、この4枚目の、歩兵系の形態の、中将棋駒と共出土
した、駒名不明とされる駒の、正体を論題とする。
いつものように、結論を先に述べると、

成りが銀将の裏の金型の一文字”金”の不明(歩兵)駒

で恐らく形から歩兵だが、中将棋の駒とみられる。
 では、以上の事に付き、以下に解説する。この第4の駒に
ついては、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、駒の表裏の写
真が、裏、表の順で反対に載っている。が、写真が不鮮明で、
何なのかは、良く判らない。天童の将棋駒と全国遺跡出土駒
の解説表でも、この駒は”()”と表記されていて”書いて
ある字の、内容の判断が不能”と、判定された事が判る。
 他方この駒は、成書「静岡県の歴史」(1987)河出書
房新社、永原慶ニ他編集に載っていて、こちらの方が、中将
棋駒同様、写真が鮮明である。そこで今回は、赤外線写真と
いったハイテク技術を私が使ったのではなくて、単に、

成書の写真を良く見て駒の種類を判断した。

その結果、この細長い焼津の第4の駒は、

裏面に、崩しが余り強くない、金が一文字、銀将の成りの書
体とみられる形で写っている

のを、私には確認できた。よって、表面は不明だが、この
一見して歩兵の駒の形に見える遺物は、金の崩し方が当時の
日本将棋の駒よりも弱い、

中将棋の歩兵駒のようだ

と私には判断できた。そして言うまでも無く、金が余り崩れ
ていないのは、

中将棋は取り捨てルールでかつ、金に成るのは、歩兵だけだ
からである

と判断できる。この駒は当然ながら、水無瀬兼成の将棋纂図
部類抄の中将棋の、歩兵の成り金の記載より古いし、大阪の
高槻城三の丸遺跡の小型中将棋駒の、成り”と金”歩兵より
も古い。よって、少なくとも上の事から、この余り注目され
てこなかった、焼津の細長い小型駒は、

中将棋の歩兵駒の書体が、昔は本当はどうだったのかを知る
うえで、たいへん貴重な遺物である事だけは確かであるとい
う事

が、少なくとも確認されたように、私には思われたのである。
(2018/11/05)

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チャンギの漢/楚と士駒が、同じ動きなのはなぜか(長さん)

交点置きが共通で、河の意匠が無いのを除けば、盤も良く似て
いるため、いっしょくたんに、ごちゃごちゃに論じられること
のある中国シャンチーと朝鮮チャンギであるが、イスラムシャ
トランジと比較すれば、前者の方が類似性が大きく、後者は少
し小さくなっている。なお中国シャンチーについても、帥/将
の動きが王型では無くなり、以下あくまで本ブログの見方だが、
北宋時代の、プロトシャンチーの士駒の偏牌の偏を、帥/将に
移した形になっている。かなり前に述べたが、帥/将のルール
の変化は、攻守のバランス調整の結果と、ここでは見ている。
 それに対して朝鮮チャンギの漢/楚駒と士駒は、九宮を同一
のルールで動くという点で、将駒同士のルールが類似している、
日本の将棋と類似と言えば、類似のパターンに変化していると
も言える。今回は、この朝鮮チャンギの士駒のルール変化が、
何によって、もたらされたのかを論題とする。
 いつものように、回答を先に書く。

日本の将棋の影響もあると、本ブログではずばり推定する。

では、以下に根拠等につき、説明を加える。
 根拠としては、朝鮮半島周辺に、このルールの変化を起こす
ような材料が、日本将棋の将駒以外に、特に見当たらないとい
う点が挙げられる。
 そもそも、少なくとも本ブログの見解では、この日本の将駒
の、古インド型の原始的な、王と副官(大臣)駒との動きのルー
ルが類似であるという性質は、インドにより近い、”田舎”よ
り、元となるゲーム、すなわち大理国平安小将棋が、伝来した
からこそ、起こった現象という事になっている。しかしながら、

中国雲南の大理国は、韓国からは遠い。

従って、中国から朝鮮半島へ伝来したシャンチーが変化して、
チャンギになってから、更に、中国の雲南省から、王に似た副
官のある将棋のルールが、朝鮮半島へも入って、朝鮮半島のチャ
ンギゲームに影響するとは、かなり考えにくい。
 それよりは、

古インド型のゲームに感染した日本のゲーマーの影響で、
韓国人も、古いインド型ルールを、後で導入してしまった

と考えた方が、よほど自然なように、私には思える。
 つまり日元貿易が盛んな頃に、日本将棋の玉将と金将が同じ
ような動きであるという習慣が、朝鮮半島のチャンギに影響し
て、それまでの、斜めにしか動けなかった、チャンギの士駒を、
漢/楚と同じ動きに変えてしまったのではないか。
 さらには、元々朝鮮半島には、駒の種類に関係なく、線に沿っ
て駒を動かす、十六ムサシ型の、将棋とは全く別のゲームがあ
って、それが流行っていた。そのため、日本の将棋とともに、
そのゲームの駒の動かし方パターンも、別系統のゲームである
朝鮮チャンギに取り入れられる傾向があり、日本の将棋のルー
ルと、十六ムサシ型ゲームの雪隠の所も、線に沿って移動させ
るルールが、チャンギに共に影響して、士駒のルールの変化に
なったのかもしれないと、考えられる。
 はっきり断定はできないが、中国シャンチーと違い、朝鮮チャ
ンギは、元々砲(包)駒を、やや弱くしている。だから士は強
くしない方が、かえって良かったはずである。にも係わらず、
朝鮮チャンギの方が、中国シャンチーより士駒がやや強いのは、
ゲーム性の改良というよりは、他のゲームの習慣に引っ張られ
て、多数派の方に、ルールが変えられてしまった結果のように、
私には思えてならない。
 大きいのは、朝鮮半島に元からあった、ボードゲームのルー
ルの習慣だったのだろうが、日本の将棋の玉/金駒のパターン
の影響も、その次ぐらいに、たぶん有ったのだろう。
 古くから、朝鮮半島と日本の間では交易が行われたため、文
化交流の結果、それぞれの国内のゲームのルールも、隣国から
の影響を受け続けたと見られる。そのため例えば、一旦桂馬駒
が別のルールに変わっても、朝鮮半島の馬駒のルールの影響で、
元に戻ったり、嗔猪のルールが、チャンギの卒駒と混同されて、
後退できなくなったりと、日本の将棋の方へも、朝鮮半島のゲー
ムのルールの影響が、当然有ったであろう。以上のように、私
は推定しているのである。(2018/11/04)

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戦国時代の将棋の棋士は、本当に全員字が読めたのか(長さん)

将棋を指すのが庶民層に広がった時代に関しては、諸説あるが、
本ブログでは、鎌倉時代の鳥獣戯画の頃からであると見ている。
それ以前は、識字の出来る古代の武家が将棋を指し始め、貴族
と僧侶の識字層に広がったと見る。鎌倉時代の鳥獣戯画の書か
れた頃に、僧侶に教わりながら、小将棋の字だけ庶民が読める
ようになり、庶民にも将棋が広がりだしたと、ここでは見てい
るのである。では、一乗谷朝倉遺跡の頃の、戦国時代中後期に
は、僧侶や城主に教わり、字が読めるようになってから、下級
武士等皆が将棋を指したと言えるのかどうかを、今回は論題と
する。
 回答を先ず書くと、

字を読むのが、すこぶる苦手な、駒師と棋士が一乗谷には居た

と推定できる。
 そこで、以上について以下に説明を加える。
 一乗谷朝倉氏遺跡から、香車の字が削られた、裏やや崩し金
香車駒が出土しており、この駒の作者は、たぶん香車という字
を読もうとしていないと、推定される。

一乗谷香車.gif

 この、木地への習字を無視して、形を切った駒には、書き師
に対する、駒師の、香車の大きさのデザインに関する、

怒り

が、ヒシヒシと感じられる。
 つまり細長い形で無いと、香車だとはピンとこないと、認識
するにも係わらず、幅広の”ミヤコ気取りの駒”用の習字をし
た、書き駒師への怒りと言った所だろうと、私には見える。
 そこで駒師は、最初の幅広の香車駒を、わざと、片方の側だ
け削り落として、

香車の字の切れた、細長い、彼に言わせれば、正常な形の香車
駒に”暴力的に”作り直してみせた

といった所だろう。つまり、駒師にとっては、香車駒は、形で
判断すれば良いのであり、

香車という字が、正常に表示されていなくても、さして目障り
ではない

と見ていた事になる。なお、この出土駒では、裏の金の書体は
と金である歩兵と区別できるように、成り金の金までは、切れ
るように、挟みを入れて居無い。つまり、依然として、

普通の持ち駒ルールの、日本将棋用の駒としては使える

と、駒師は認識していると見られるのである。
 以上の事から、一乗谷の恐らく朝倉館の中間部屋には、金
程度しか、字が判らないが、将棋駒は形で区別して指せる、
識字力が、ほぼ無い棋士や駒師も居たと、推定できるのではな
いかと私は考える。
 将棋駒の場合、字の代わりに絵を描くなどしなくても、将棋
駒の外見で、立体駒式に、有る程度駒の種類が判別できた。
だから、少なくとも10通り程度しか駒種名の無い、日本将棋
や朝倉小将棋を指すのに、識字のハンデは、さほど無かったの
かもしれないと、想像される。(2018/11/03)

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