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大阪府四条畷市上清滝遺跡の細長い”成り不明歩兵”駒の謎(長さん)

表題の、大阪府上清滝遺跡の出土駒では、斜めの傷の部分にも
墨跡が付着したらしく、石将ではないかとの説の有る、王将駒
が著名である。増川宏一氏著書”将棋の歴史”平凡社(20
13年)によると、少なくともこの王将ないし石将駒は、西暦
1184年の、平安時代最末期の頃のものとされている。
 しかしながら、天童の将棋駒と全国遺跡出土駒(山形県天童
市将棋資料館、2003)によると、上記遺跡の出土駒は、も
う2枚有る。
 一枚は、今紹介した(不成り)王将または石将駒と、厚みも
含めてほとんど同じ形だが、墨跡からは判読不能な駒、そして、
第三のもう一枚が、今回ここで問題にしようとしている、

成りの不明な、厚さ1ミリ程度の薄板の歩兵駒(成りは何なの
か不明)

である。なお、王将・石将駒および、第二の墨跡不明駒の厚さ
は5mm程度とされている。
 問題は、この第三の歩兵駒の形であり、一乗谷朝倉遺跡等で
おなじみの、

細長い歩兵駒である点

である。近郊では、京都市猪熊殿遺跡から、一枚だけ出土した、
成りが観音寺城下町遺跡歩兵の成金書体と類似である歩兵駒と、
ほとんどサイズがいっしょである。(猪熊殿遺跡歩兵の厚みの
情報は、天童市将棋資料館の成書には無い。)なお、京都市
猪熊殿遺跡の歩兵駒は、たぶん戦国時代程度のものであると、
成りの一文字金の書体が、観音寺遺跡の歩兵と良く似ているの
で、私には推定できる。
 そこで今回は、問題の大阪府上清滝遺跡の歩兵駒は、なぜ、

西暦1184年ころの物なのに、戦国時代の歩兵の形なのか

を論題とする。そこで、いつものように本ブログの回答を先に
書いて、後で補足する。

上清滝遺跡の遺物には、西暦1300年ないし、それ以降の物
が、混じっているとしか考えられない

と、本ブログでは、今の所推定する。以下、説明である。
 そもそも成書天童の将棋駒と全国遺跡出土駒を読む限り、上
記大阪府上清滝遺跡の王将/石将等と、細長い歩兵駒は、いっ
しょの発掘で、発見されたように読める。本ブログの立場は、
その点ですこぶる不利だ。

だから、歩兵駒も西暦1184年のもので無いという積極的な
根拠は、実は無いと言える。

だが、もしそうだとしたら、本ブログの論理で行くと、
持ち駒ルールが二中歴で将棋が記載された時代に、場所によっ
て、というよりも、貴族の住む京都の喉元で存在した事になり

大きな問題になる

のである。もし、王将/石将が王将であり、今回問題にしてい
る細長い歩兵と、同じゲーム具セットの駒であるとすると、金
将が歩兵より太く大きく、銀将は金将よりやや小型だが、歩兵
よりも太く大きく、桂馬は歩兵より太く、香車は歩兵より更に
細長い姿が想定される。これは、西暦1323年頃のものとさ
れる、

新安沖沈没船出土駒の、形のパターンと同じ

である。むろん、歩兵が細長い理由としては、他に美術観賞用
で、王将と縦の長さを合わせたとか、歩兵が前のみ歩みである
事を強調する意匠である事も、本ブログで前に述べたように、
可能性として考える事はできる。しかし、

細長い歩兵駒は、普通唱導集の西暦1300年以前の駒として
は、この駒以外に、余り知られて居無いため、持駒ルールの存
在が、駒の形から単純には示唆されるのも事実

なのである。だから仮に、この駒の

年代測定に、誤りが無いとすると、とんでも無い事になる

のである。
 妙な話、幸いなのは、大阪府の上清滝遺跡から、金将~香車
が出土せず、この歩兵駒の、今の所一枚だけである点だろう。
更に、この問題の歩兵駒の

厚みが、他の2枚の出土駒に比べて、極端に薄い事は、別の将
棋駒セットが、たまたま同時に発掘されたと考えられる

点も挙げられる。つまり、

誤って、西暦1300年程度の遺物が、西暦1184年程度の
遺物に、たまたま混入したと強弁する事も、今の所まだ可能だ

と、本ブログではみなす。なお、それを、知っているのかどう
かは、私には良く判らないが、”将棋の歴史”の増川宏一氏は、
この歩兵に、成書の中では特に言及していない。
 ただし、将来また、大阪府四条畷市の上清滝遺跡で発掘が
行われ、西暦1184年頃の遺物として、この歩兵駒が確定し
てしまうと、

将棋史上は、たいへんな事になる事だけは確か

だと、本ブログでは考える。王将が石将にも見える件は”天童
の将棋駒と全国遺跡出土駒”の写真を見る限り、右斜め上から、
左斜め下に走っている、二列の引っかき傷のいたずらのように、
私には思え、石将と最終結論される可能性は余り無い”学会の
小さな擾乱”のように私には感じられる。それに対して、四条
畷市の上清滝遺跡の駒は、この歩兵の方がむしろ大問題で、こ
の歩兵が前兆現象であって、更にここから、明解に王将、金将、
銀将、桂馬、の順で小さくなり、香車が細長くて、香車よりも
やや短いが、歩兵も細長いというパターンの、西暦1184年
頃の将棋駒の遺物が、将来出土してしまったら、たいへんだ、
という意味である。
 従って繰り返すと王・石論争より、大阪府四条畷市上清滝の
将棋遺物については、

この妙な歩兵駒の方が、かえって大問題

なのではないか。さしあたり、下面が切れて居無いと、更に長
い、持ち駒ルールの駒っぽい形になるので、この歩兵駒の、底
の面の状態等に関する程度の目視の再確認は、現行でも最低限
必要なのではないかと、私は思っているのである。(2018/11/02)

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