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(御断り)ブログの本文中の、来年初の挨拶省略させて頂きます(長さん)

本ブログは、管理人の性格が気分屋だった関係で、論題の
カテゴリーが、一まとめではなく、バラバラになっている。
 そこで意味のあるコンテンツにまとめるには、いつの日
にか、並べ替えて、カテゴリーごとにセクション付けする
作業が必要だ。
 そうしてカテゴリーごとに、内容が並んだときには、た
またま年初に当たった記事は、章の中の中間に存在する事
が多いだろう。そこで、年初の挨拶が、章の半ばにポコッ
と出てくるのも、まとまりの有るコンテンツとしては、不
自然だ。以上の事情で、少なくとも2019年の、
年初の挨拶は、恐縮ながら、遠慮させて頂きたく希望する。
 おかげさまで本ブログは、2018年は年末まで、更新
されないブログに陥る事は、何とか避けられた。一番の要
因は、読んで下さる方が、おられたためである。だが特に、
今回の場合は、それにプラスして、次の要因が加わった。
つまり再三出てきた、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡か
ら出土した中将棋木札が、たまたま鎌倉市市役所が、紛失
していた、皮肉にも、そのおかげだった。それで書く内容
が、正直だいぶん増えて、力の無い私は、だいぶん助かっ
た。この事件が無かったら、年末まで、本ブログを持たせ
るのは、実際より、かなりきつかっただろう。
 事実、神奈川県鎌倉市御成町の、鎌倉市市役所近傍、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札の紛失の
悔しさから私には、自然に後から後から、文が湧き出て来
た。そのため、2018年の12月に入ると、本ブログの
年内の継続については、楽勝ムードが漂い始めていた。
 そのような、つかの間の事情も有ったが、大きく見ると、
遊戯史学会の解散という、本ブログにとっては、喪中のよ
うな出来事が、今年は年末に、予定の事とはいえ発生した。
 私的に、身内に不幸は無く、2019年の年賀状は、い
つも通りに作成した。しかし、このブログにとっては、
遊戯史学会が無くなったという事実は、やはり身内の不幸
に近い事柄であろう。だから2019年の新年の挨拶は、
このブログとしては、当座控えたほうが無難と言うもので
あろうと考える。それもあり来年の新年の挨拶は、本”だ
い将棋のブログ”に於いては、遠慮させて頂くことにした。

では皆さん、良い御年を御迎えください。(2018/12/31の2)

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南北朝期今小路西中将棋の狛犬交換原因。獅子の特別規則の定義(長さん)

前に述べたように、本ブログでは、今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡で西暦1987年に発掘された木札の、出だしが狛犬(志ろ
いぬ)なのは、中将棋の獅子に関する特別規則で、着手の合否判
定が微妙なケースに、将棋棋士の間でトラブルになり、あるいは、
刃傷沙汰になったケースがあったため、それを教訓にして、南北
朝時代の、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターでは、獅子の
所に、特別規則の無い狛犬を入れて指すシステムに、変えたため
だろうという事であった。つまりそれで今小路鎌倉市福祉センター
遺跡で発掘された、中将棋木札の内容は、つじつまが合っている
という事である。
 ここでは、本ブログなりに、問題にしている”中将棋の獅子に
関する特別な規則”の中身を、以下、次回以降の考察で見通しが
良くなるようにするために、より正確に定義しておこうと思う。
 ただし、南北朝時代の今小路西御成小学校ゲームセンターで問
題になった、中将棋の獅子に関する特別な規則が、正確に判るア
テは無い。あくまで、今後の議論の見通しをつけるために便宜上、
判りやすくして置くだけのものである。
 そこで、具体的に中将棋の獅子の規則だが、次の4つの細則の
和だと見るのが、現在定説で間違いないと考える。
1.相手の獅子の位置に、別の駒が利いているとき、自分の獅子
を、相手の2升目先から移動して、相手獅子を取ってはいけない。
なお、隣接升目から取って、2歩目に別の場所に逃げて、相手が
返し取りが出来ないケースは、相手獅子を取っても良い。(足の
付いた獅子を、獅子で取る事の禁止則)
2.1のルールについて、本来禁手となるケースあっても、歩兵
と仲人以外の駒が、自分の獅子の第1歩目で取れ、2歩目で相手
の獅子を取る、2枚取りのケースは、別の相手駒が利いている
相手の獅子を、自分の獅子で取る事ができる。(付け喰い例外則)
3.自分の獅子に相手の駒が当たって、獅子取りを相手から宣言
されている状態で、相手の獅子に対抗して獅子取りを掛けても、
相手の獅子に繋ぎ駒が付いている時には、相手が自分の獅子を取っ
たすぐ後の手で、相手の獅子を別の所で、直ぐに取り返して、イー
ブンにする事が出来ない。イーブンにしようとするなら必ず、
相手獅子を取り返す前に、一手別の手を指さなければならない。
次いで相手が、相手の獅子が取られ無いようにするような手立て
を、特段打たなかったときだけ、更に次の自分の手で、相手の
獅子を取って、イーブンにする事ができる。(先獅子の規則)
4.3の規則が適用されそうではあるものの、2の付け喰いの
ケースで、相手が繋ぎ駒が付いているにも係わらず、自分の獅子
を付け喰いの例外則で取った場合は、3の先獅子の規則は適用さ
れずに、ただちに相手の獅子を、自分の獅子に利かせていた駒で
取り返して、イーブンにする事ができる。(獅子討ちの規則)
 なお、本ブログでは前に述べたが、1~4の”獅子に関する
特別な規則”は、元駒の獅子が、12升目型の駒数多数将棋に取
り入れられ、中将棋が発生した当初から、最初から有る規則と考
えている。
 ルールの説明は、以上である。
 なお、上記の内容について、”厳密には、少し違うのではない
か”と見た方は、たぶん

冒頭で述べた、”刃傷沙汰仮説”を支持してくれるだろうと、私
は期待している。

 特に、”繋ぎ駒”とか”足”とかいう類の言葉を正確に定義す
ると、中将棋の獅子に関する特別な規則の”繋ぎ駒”とか”足”
の言い方は、中将棋では獅子が、片方に正確には2枚有るので、
トートロジィとなる恐れが、考えられる事は確かだ。
 ところで、では、今小路西御成小学校遺跡で指された、
狛犬型中将棋の問題を考える際の、”獅子に関する特別な規則”
の、議論を見通し良くするため、

1~4だけ、”獅子に関する特別な規則”と呼んでいて、それだ
けでで良いかと言うと、違うと思う。

理由は、

獅子と獅子の直接的な取り合いに関するという点では、3が異質

だからである。そこでここでは、”直接対決する獅子に関する
特別な規則”を新たに定義し、さしあたり、3の先獅子の規則を
取り除いた

1+2+4の意味としよう

と、私は考えている。
 つまり3の先獅子の規則は獅子の互い取りであっても、敵味方
が別々な駒で、互いに相手の獅子を狙っている場合に主に適用さ
れる。つまり、

3の先獅子は、続けざまの着手という、別の観点の規則と取れる

からである。その点は前に述べたが、近世と近代とで解釈が違い、
近世の文献の解釈の方が明確で、本ブログの解釈は、近世の解釈
にむしろ近い。
 南北朝時代に、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターに於い
て、合否判定の、あいまい性が問題になり、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札の記載で、
しょっぱなに”志ろいぬ”と記載させたのは、1~4の部分要素
が全て有った、”獅子に関する特別な規則が問題”だったと、
とりあえずは、考えるのだが。
 その中で要素3のルールは、残りのルールよりも、いくぶん後
になって、むしろ獅子の中将棋棋士やデザイナーが、3の先獅子
の規則を考え付いたからこそ、狛犬の中将棋はその後に、せっか
く考え出せても獅子の中将棋に、最終的には駆逐されたのかもし
れないとも、考えられる。以上のような、漠然とした予想が、本
ブログの管理人には、更に有るからである。もっとも、3の形で
狛犬をも、敵味方が別々な駒で、それぞれ相次いで狙う手も指せ
るので、獅子と狛犬とで、条件が違うのかどうかは、本ブログの
管理人には、今日の所は謎なのではあるが。
 とりあえず次回以降、少しの間、以上のような見通しと言葉の
定義をした上で、やや気楽に、中将棋について考察して見たいと、
今の所考えている。(2018/12/31)

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鎌倉市市役所隣の中央図書館。1987年頃の発掘報告書は無い(長さん)

少し前に、神奈川県鎌倉市の市内出土物の文献の所在について
人づてに私は調査してもらった事がある。さいきん調査の結果
の連絡文を読み直して、表題に書いた内容が、書いてあるのに
気がついた。

結論を述べると、西暦1995年以前に関しては、鎌倉考古学
研究所の発掘結果の報告は、市役所の文化財課に対してするだ
けで、更に”発掘報告書”自体が、一般人の目に止まる形で、
たとえば鎌倉市の手で、増刷される事は無かった

ようである。
 神奈川県鎌倉市の市役所に隣接して、鎌倉市には中央図書館
がある。そこの2階に”郷土資料室”が有ると私は、報告者の
知人から聞いているのだが。それによると、最も古い史料が、

”かながわ考古学財団調査報告(1995)”だ

という話だ。つまり、西暦1987年の、本ブログで再三述べ
た、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、中将棋木札の、
発掘時の報告に代表される情報に関して、鎌倉市より市民に対
しては、

鎌倉市教育委員会等または、鎌倉考古学研究所、以上の発行の、
発掘報告書類は、見やすい場所には、大量には公開していない

という事だとみられる。なお、報告してくれた知人は、その後
引っ越したが、元鎌倉市民だった。
 史料を見たければ、隣の建物に、文化財課が以前よりあった
とみられるため、報告書は、そこに問い合わせば良いと考えた
という事だろうか。逆に言えば、発信された情報が少ないため、

神奈川県の考古学財団が介入するまでの、古い史料情報につい
ては、鎌倉市市役所内の、文化財課に情報が残っていなければ、
隣接する鎌倉市中央図書館へ行ったとしても、ほぼお手上げ

の状態のようだ。しかし神奈川県も、さすがに、これではまず
いと見たのだろう。1995年(平成7年)頃、考古学財団を
使ってテコ入れしたので、1995年以降の鎌倉市の出土史料
については、比較的目に付きやすいところに置いてあるという
のが、人づてに私が聞いた内容という訳である。
 なお、1987年~89年頃にかけて盛んに行われていたと
みられる、鎌倉市市役所近傍についての、今小路西御成小学校
遺跡等の発掘については、

鎌倉考古学研究所が、よみがえる中世3武士の都鎌倉以外にも、
少なくとも1冊、成書を発行して啓蒙していたとの情報がある。

 鎌倉考古学研究所は結局の所、発掘成果に関する一般啓蒙書
を、恐らく”餅は餅屋の役割の分担”の考えで、前世紀に複数
出したようだ。
 だが”発掘報告書は市役所対応のための書類、それから先は、
市役所の仕事”という認識が、当時はよほど強かったのだろう。
彼ら自身が、鎌倉市の対応のマズさに気がついて、ただちに

1980年代の発掘に関して、じまいで、専門的な発掘報告書
を一般の研究者向け等に、目に付くように出す事はし無かった

と、図書館の蔵書の内容からは見てとれる。従って今回問題の
中将棋木札のように、記録物が、成書にかすかに残った写真以
外に、たまたま事実上無い、すなわち、鎌倉市市役所に対して
の発掘報告書の中に、万が一抜けがあったりすると、

鎌倉市市役所の近傍の将棋史研究者を除いて、瑕疵に気がつか
ずに放置され、例えば今回のように30年経った後で、誰かが
たまたま運良く気がついても、発掘作業をした河野真知郎氏に
連絡がつかないと、それで終わり

になりかねない状況のようだ。鎌倉市と言えば、かなり前から、
史料がたくさん出土して、研究資料が豊富な場所とのイメージ
が強かったが。実際には、ここの文化財行政は、前世紀の
1995年より前には、かなり御寒い状況のよう、だったらし
かった。
 平成も間もなく終わる。ので昭和から平成の切れ目に発掘さ
れた、本”中将棋木札”に象徴される、このネガティブ状況は、
次の時代には改善されて、”少なくとも日本の遺跡発掘遺物に
関しては、今じゃ考えられないような不祥事”と言われるよう
に、当然なってほしいものだ。(2018/12/30)

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鎌倉時代の今小路の順位戦。今の将棋連盟の日本将棋とは違う(長さん)

これまでの所、本ブログでも定説とも一致する為、鎌倉時代
の今小路殿の御所での、平安小将棋類の順位戦の解釈は、
現代のA~C2組の、日本将棋連盟内での、プロ棋士の順位戦
の類を想定してきた。
 しかしながら元史料の大日本史料の1221年7月13日
の項を読むと、次の点でこの解釈には矛盾が有るようだ。
すなわち、

”良い手を少し連発しただけでBクラスの上位からAクラス
の下位に昇格できる”かのように書いてある。

言うまでもなく日本将棋のプロ棋士の順位戦は、年間を通し
てそのクラスで勝率が良く、レイティングが長期に上昇した
というふうに、

かなり長い期間に亘り棋力上昇がないと、上のクラスに上が
れない。

従って、鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が隠岐に流されたときに、
”今小路殿の御所”では、

将棋道を極める事を目指す、全国の将棋棋士が集まった棋戦
が行われていたとは考えにくい。

では、大日本史料の1221年7月13日の、清寂の自慢話
の前半の鎌倉時代初期の彼の”今小路での活躍”は、今小路
という将棋の強豪が、少なくとも集まったとみられる場所で、

何が行われていたと考えられるのか

を今回の論題とする。
 最初に結論を書いて、その後で説明を加える。
幾つかのクラス分けしたランクに、安定して存在する常連の
客が、新入りで、自分のレーティングの程度を知りたい客と
ゲームセンターでは対局して、新入り客のレベルを計測する
サービスをする。

すなわち、今のゲームセンターのゲーム機に、最後に表示さ
れる、今なら点数で示す使ったゲーマーの得点等を、当時は、
1マチ上、1マチ末、2マチ上、2マチ末というふうに、
常連と対局した結果によってクラス分けして、明らかにして
くれるサービスを、対価を払うと、してくれる

ような場所が、今小路に有った。そしてその話を清寂は、
後鳥羽上皇の御前で、しているとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 以上のように考えると、何回か連続して、今小路殿の御所
のゲームセンターに通うと、今ならレーティングと表現でき
る、棋士の将棋の棋力が、史料では、1マチの下とか、2マ
チの上位というふうに、明らかになるように、いてある事が、
自然に説明できる。
 つまり、

今小路のゲームセンターは近世~現代の将棋所や日本将棋連
盟の会館のように、”将棋道を極める”というよりは、遊び
で通う、今のゲームセンターに、むしろ酷似している場所

だと、以上の仮定をすると、すんなりと理解する事ができる
という訳だろう。以上で、大体説明は終わる。
 ところでこの事から、次のようにも考えられる。
 今のゲームセンターにゲーム機は通常複数あり、類似のゲー
ム種でも、機械のバージョンによって、ゲームの内容、すな
わちゲームのバージョンが異なるという事がある。だから、
それと同じ事が、後鳥羽上皇御前での、清寂の自慢話に出て
くる小将棋に関して、鎌倉時代初期にあったのだろう。
 清寂は、バージョンによって、駒落ちが必然(大江匡房・
白河天皇標準型)と、不要(原始型)が有る事を知っていて、
後鳥羽上皇の御前では、今小路殿ゲームセンターでの常識に
則って、話を使い分けていると考えられる。まさに、熟練ゲー
マーらしい話の仕方だ。
 だから、大日本史料の文献の今小路殿が、何処にあるのか
は不明だが、その今小路の将棋所にも、

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋の木札と、同じ
機能を持った、ゲーム・バージョン指定の立て札のような物
が何らかの形で、必ず置かれていたはず

だ。大日本史料の今小路と、鎌倉市の今小路西の遺跡の今小
路とは、同じでないのかもしれないが。清寂が通った、今小
路殿の御所と、鎌倉市の今小路西御成小学校遺跡ゲームセン
ターとは、鎌倉時代には

同じ類の、施設

だったと推定して、ほぼ間違い無いのではないかと、私は思
う。将棋駒の金将が発見された時点では、その点がぼんやり
としていた。が、ここに来て、

紛失したのが残念だが、ルール木札が認識された事によって、
その事が、よりはっきりしてきた

ように、私には思える。
 京都の鎌倉時代の初期の今小路ゲームセンターに対抗して、
類似の施設を、南北朝時代までには、

その時点で、”今小路”と呼ばれていた鎌倉の場所に、洒落
で開いたとは考えられないのか。

以上の点から見て、鎌倉市の”今小路”の地名の由来が、
ぼんやりとしている時点での、

この木札の発掘は、鎌倉市史全体にとってかなり大きかった

ように私には思えるのだ。早く、紛失木札が見つかってほし
いものだ。(2018/12/29)

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連座(宝珠系・クチナシ)型囲碁の脚。戦国期の付喪神絵に有る(長さん)

前に、連座(宝珠系・クチナシ)型の将棋・囲碁盤の足は、水無瀬
兼成等の、水無瀬駒が出現した時代に、北野天満宮の絵巻の、碁盤
の足近似で、発生した疑いがあると述べた。
 この説によれば、戦国時代には、連座(宝珠系・クチナシ)型の
将棋・囲碁盤の足は、無かったはずだ。
 しかし、さいきん私は、絵巻物を調査して、奈良の東寺の僧侶が、
戦国時代(16世紀)に書いた絵と、考えられている、岐阜県の、
崇福寺所蔵の”付喪神絵(つくもがみえ)”の中に、16世紀

戦国時代に、連座(宝珠系・クチナシ)型の、囲碁盤の足が書かれ

ているのを発見した。
 器物霊の妖怪が、囲碁を差している、戦国時代成立の絵巻らしい。
その付喪神絵の上巻第7段という場所に、その絵は有る。妖怪は、
他に盤双六・博打・絵合をして、遊んでいるという絵とのことだ。

この囲碁盤の足は、多角形なだけでなくて、縦スジが入っていて、
たしかに、江戸時代の碁盤や将棋盤の足の絵に、いっけんして似て
いる。

付喪神絵.gif

 よって、

水無瀬駒の時代から、将棋盤の足の”クチナシ”になったとの以前
本ブログで記載した内容は、

事実として、誤り

だ。
 少なくとも京都の東寺では、囲碁盤の足は、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰで、増川宏一氏が示唆しているように、仏座の蓮座
を象ったような、デザインが、普通であると、

16世紀には認識

されていた。水無瀬兼成は長寿であるので、こうした仏教界でだけ
通用したのかもしれない常識が発生したのが、彼が生まれる以前と
までは、断言できない。しかし彼が若い頃から、水無瀬駒を作成し
ていたという記録は、今の所無い。だから、彼の作成した将棋駒の
出現より後に、今の将棋盤の足の形、連座(宝珠系・クチナシ)型
が成立したとは、この絵図からは考えられない。
 何れにしても、法曹界では将棋盤とは、逆L字の足ではなくて、
仏座の蓮座であると、戦国時代には既に考えていたようだ。ただし、
厩図の絵師等、僧侶で無い階層の者は、その時点で、くちなしでは
なくて、逆Lと考えていたとも私には認識される。
 ようするに、

僧侶の常識が、安土桃山時代以降に、社会を制圧する傾向が有った

とは言えそうだ。
 つまり江戸時代になり、寺社の力が、幕府と結びつく事によって、

仏教の影響力は、室町時代後期から戦国時代に比べると、江戸時代
の方が強くなり、時刻の制度へ影響力を持ったり、囲碁盤・将棋盤
の足の形を、仏教界の常識流に決めてゆく等の、浸透力を発揮した

という事なのかもしれない。
 その結果が、逆に江戸幕府が崩壊すると、廃仏毀釈に繋がったと
いう事なのではないだろうかと、私には想像される。(2018/12/28)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木板。近の次の文字は何(長さん)

前に述べた所までによると、表題の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木板は、”しろいぬ、もしひゃう。まうこは、
近くへ行が、上わゆけぬ。”と書いてあると言う事だった。
”中将棋の初期配列で、獅子を狛犬に変えたゲームを、鎌倉時代
または、南北朝時代の今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターで
は中将棋として、順位戦等で指しなさい”との指示をしている
立て札と、本ブログでは、今の所解釈している。
 ところで、前回までの解読では、下側の板の最初の読みである
”近”は、下の段の板から上に切れて見えなくなっており、”く”
との間に、短い棒状の

未読文字があり、”?”で表記してあった。

今回の論題は、この未読文字が何なのかとする。
 結論を書く。
”斤”と書いてあって、

”しんにょう”を省略しており、にもかかわらず”近”と読ませ
るための文字であり、”近”は、はみ出ていたのではなくて、元々
残っていた

という事だとみられる。
 では、以下に説明する。
 以下に未読文字と、拡大図を示す。

近の謎.gif

 写真のように”斤”の第一画目の後半だけの墨跡が、くっきり
残っているが、拡大して良く見てみると、消えかかった画も、薄っ
すらと見え、”斤”が、右にズラして書いてあるようである。し
かし、”しんにょう”は、字の位置から見ても、さいしょから、
無かったのであろう。だから作成者の意図としては、どうやら、

カッコウをつけて、”しんにょう”を省略した”近”を、”斤”
と書いて、表現したつもり

のようだ。”狛犬が白犬なので、『近く』も『斤く』で良い”と、
見ているという、気持ちと言う事か。
 だからこの木札は、近は元々書いてあったのであり、2枚目に
ついては、本ブログで今まで考えていたように、上部が欠落して
いるという事は、あるいは無かったのかもしれない。
 従って、この短い棒のような部分は、”近”と読むのが、恐ら
く正解のようだ。これで、この木札の解読は、私なりには、ほぼ
できたような気がした。
 残りは、”行くが”の”く”の字が、私には無いように見える
のは何故か、位であろうか。

今後解釈が完全に行われて現物が見つかり、この遺物が今度こそ、
安全な所で、大事に保管されるようになる事を

心より祈りたいものだと思う。(2018/12/27)

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鶴岡八幡宮境内遺跡出土、”3枚目の歩兵”裏面は何か(長さん)

大坂電気通信大学の高見友幸氏により、”奔成り”と指摘
のある、鶴岡八幡宮境内遺跡出土の、成書”天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒”で、5番とナンバリングされた駒の、
問題の成り面の文字について、今回は何なのかを論題とす
る。答えから書き、今回は背景を含めて、その後で説明し
よう。

比較的崩しの少ない、一文字”金”と見て、矛盾はない

と、本ブログでは考える。
 では、以下に最初から説明する。
 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡からは、本ブログ
の見解によると、後期大将棋系の駒および、平安小将棋類
とみられる歩兵駒が、出土していると言う事になっている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、全部のスケッチと、
香車の裏と、不成り歩兵駒の裏を除いて写真が載っている。
また成書、よみがえる中世3、武士の都鎌倉に、カラー写
真で、オモテ面の写真のみが載っている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のナンバーで表現すると、
以下のような構成だ。
NO.1 成り楷書奔王鳳凰駒(後期大将棋系)
NO.2 成り”と金”歩兵駒(小将棋?)
NO.3 不成り剥がれた墨跡香車駒(後期大将棋系)
NO.4 不成り歩兵駒(後期大将棋系?)
NO.5 初期鑑定で飛車成り金将駒(中将棋?)

今回は汚れが酷く、異説が幾つも有る、”3枚目の歩兵”
と本ブログでは呼ぶ、NO.5の出土駒について、問題に
している。
 本ブログは、

オモテ面を”歩兵でも矛盾無し”と主張したが、裏面につ
いて、これまでは、言及してこなかった。

 先行研究は、次のようになっている。
 鎌倉考古学研究所の鑑定で、汚れがひどく、本ブログ以
外には、断定的に駒名を示した事の無いオモテ面について、

金将と鑑定した。

そして、同時に裏面については、上部の二画目のカーブや、
その右上の筋から、

裏面は楷書の飛車と鑑定した。

 表面については、卒や傘の上半分にも見える程度に、汚
れが酷いのだが、研究は進まず、金将に賛成する意見も多
かった。
 他方、今回問題にする裏面については、その後研究例は、
しばらくなく、?とする意見が多かった。しかしながら、
最近になって、大坂電気通信大学の高見友幸氏により、
楷書の”飛”に見えている字は、”奔”ではないかという
意見が出てきた。
 以上の程度だと思うが、苦情が出てから、”失念したの
は確かに悪かったが、これほど汚れが酷いのに、断定でき
るため、忘れてならない先行研究とまで、言い切れるのか
どうか”という立場から、本ブログでは、より詳しく反論
をしたいと思う。
 他方オモテ面の本ブログの主張について、簡単に復習す
る。特に強い墨跡は、最上段だけであり、

歩兵であるという説を、否定できるほど、きれいな状態の
出土駒では無い

というのが、本ブログでの見解だった。しかし、

金将では絶対無いとは、言うつもりは最初から無い。

 さて、今回は、鶴岡八幡宮遺跡出土のNO.5駒の、成
りを問題にする。ポイントは、

飛車の上部だと判定した、金とは少し違うと見たらしい、
第2画目のカーブの仕方は、栃木県小山市神鳥谷曲輪出土
の成り一文字金角行の金の字の、2画目のカーブと瓜二つ
である。つまり、

前半が凸、後半が凹になる、金の字の第2画目のカーブは、
金としては、普通の範囲内である。だから、

この駒は、普通に、やや崩しの軽い、金成り歩兵駒である

と見ても大きな矛盾はない。ただし、成りがと金だったり、
不成りだったり、軽い崩しの金だったりと、ばらばらな理
由は、問題になるだろうが、今の所、私には解明できない。
 NO.5番目の駒は、NO.1の鳳凰駒とは、カラーで
見ると少し色が違うようだが、汚れているので、鳳凰駒と
の仲間で無いとは断定できない。しかし、気まぐれで平安
小将棋の歩兵の、裏の金の文字が、崩しが弱かったと、本
ブログではみると、言う意味だ。つまり、より価値の高い、
中将棋の飛車成り金将が出土したという説を、絶対おかし
いと、完全否定は出来ないものの、

もっと無難な見方を、逆に完全否定できるほど、出土駒は
綺麗とは言えない

と、本ブログでは考えると言う事である。
 なお、裏面の字の一番最初を、飛と見るよりは、奔と見
た方が、マシだと、本ブログでは見ている。奔の字の大の
部分の第3画目のカーブと、金の字の第2画目のカーブは、
似たり寄ったりであり、

飛と見るのは、やや無理があるが、奔でも金でも同じ程度
だろう

と見る。つまり、その右上に有る、”ノ”の字のような部
分は、墨跡ではなくて、”汚れ”だと言う説を、本ブログ
では取るという意味である。
 以上で、本ブログの主張は終わる。
 なお、この駒を紹介した、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒の、この駒に関するスケッチ図が、元面と成り面で、逆
に書いてあるのを最近みつけた。
 卒ないしは、傘の崩れたように見える書体がある方が、
成り面であり、

相当に無理があると、私は個人的には思うのだが、”金”
と書いてあるスケッチが表面

である。駒が欠けていて、その欠け面の形が、スケッチと
写真とで、裏表がアベコベになっている。
 汚れで字の変形が酷く、この書を編集するときに、うっ
かり間違えたのであろう。(2018/12/26)

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牛僧儒の玄怪録。”巴キョウの橘園”の”将棋”を確認した(長さん)

前に、塩谷賛著”露伴と遊び”、創樹社(1972)に、
幸田露伴の将棋雑考の現代語訳が有り、玄怪録には、小人の戦争
と共に、同じ玄怪録に、”巴キョウの橘園”という”将棋”の文
字が現われる短編怪奇小説があると、その将棋雑考現代語自由訳
には書いてある事を、本ブログで前に一度紹介した。最近成書本
で、その内容が普通に今の日本語で書いてある書を、私も確認し
た。成書名は、次の通りである。

平凡社”中国古典文学大系 六朝・唐・宋小説選”
前野直彬著(1968)

上記著書では、問題の短編怪奇小説は”橘の中の仙人”になって
いた。
 結論から述べると、ここで”将棋をさしている”と表現された
”将棋”は、運に左右されない”チェス・象棋類”かどうかは不
明である。お互いにサイコロを振らずに、手を指しているのかど
うかも、この物語中では謎だし、日本語化された前野氏の文面で
は、”勝負がつくと”とは書いてあるが”一方が投了すると”と
は書いてない。だから、ゲームがチェス・象棋・将棋類と異なり、
終端局面まで進んでから終わるのか、チェス・象棋・将棋類と同
様、読んでみて、駄目だという局面で不利な側が、投了して終わっ
たのか、明確でない。ただし盤双六同様、2人制のゲームである
事は、日本語化された物語では、明確に述べられていた。
 牛僧儒が、”小人の戦争”を、この物語とは、別に書いてい無
いと、中国での象棋か将棋の初出文献には、”巴キョウの橘園”
は、入れられなかったと私は思う。
 次に、以上を踏まえて、物語の内容をざっと紹介する。なお、
以下の私の文は、本ブログの管理人の言葉で、日本語現代語の成
書を、更に意訳している。

四川省の巴キョウという所に、かんきつ類の橘の果樹農園があっ
た。持ち主は、霜の降りた季節の後で、普通の橘の実は摘み終え
ていた。が、売り物にならないような、大きさが大きいという点
で奇形の実が二つ残っていた。持ち主はそれも、もぎ取らせたが、
元々の普通の実を、大きく膨らませたようなもので、ふわふわで
異常に密度が低かった。
 そこで不思議に思い、実を割ってみると、中に身の丈が1尺位
の小人の老人が2人づつ、計4人入っていて、熱中して将棋を指
していた。老人達は実が割られたことも気にせず、2局ともその
まま指し続けられた。
 やがて、そのうちの一局の勝負がついた。すると、勝った方の
老人が、
「あんたの負けだ。賭けた品物を、王先生の所で会合がある日に、
渡してもらおう」と言った。すると、負けた方の老人が、
「会合の日が待ち遠しいものだ。橘の実の中で暮らす楽しみは、
商山での暮らしに劣らないが、但し橘の実を固定する根が、深く
がっちりと、実が動けないようにしてくれて、いなかったようだ。
そのため農園の主に、実がもぎ取られてしまったわい」と言った。
 すると、別の対局をしていた老人も、対局が済み、「腹が減っ
たので龍の乾肉を食べようかねぇ」と言い、袖の中から乾肉を取
り出すと削りながら食べ出した。しかし削りだす量が、ほんの僅
かでも、不思議な事に、膨らんで肉のステーキになるので、食べ
ても食べても、肉がほとんど減らなかった。そして肉を食べてい
た小人の老人が、食べ残った肉に水を吹きかけた。
 すると更に不思議な事に、その肉が生きた龍になってしまった。
 四人の小人の老人が、出てきた龍に跨ると、見る間に群雲が発
生して、激しく風雨が果樹農園を襲い、龍は空を飛んで4人の老
人といっしょに、消えてしまった。
 以上の話は150年ほど前の、隋から唐にかけての話であるが、
何時の事かはどうも、はっきりとはしない。(以上物語り内容)

 この”将棋”は、賭博の道具として使われているとの表現が、
少なくとも日本語の成書では、示されている。その点が同じ、
牛僧儒の玄怪録の”小人の戦争”とは少し違う。だから、ここで
の将棋は、日本の古代の盤双六系のゲームではないかとも、疑お
うと思えば疑えるようだ。
 ちなみに、本ブログでは、塩谷賛著”露伴と遊び”の将棋雑考
で、漢文で書いてあった”但不(レ)得(ニ)深(レ)根固(一レ)
帯爾”(のためここに居るのは不満)らしいが、本ブログの、
管理人の力では訳せないと、前に書いた。が今回、日本語の前野
氏の物語りの表現から、上記のように、

但し橘の実を固定する根が、深くがっちりと、実が動けないよう
にしてくれて、いなかったようだ。(そのため、農園の主に実が
もぎ取られてしまった)ので、ここには居られなくなった。

の意であるらしい事が、私にもようやく判って、ほっとした。
 以上のように玄怪録については、典型的に将棋と判る宝応将棋
が、小人の戦争に書いてある。そしてその他に、将棋とだけ書い
てあって、内容は不明だが、別の所にもあるという点で、多少の
サポートになるかもしれない、”巴キョウの橘園”という話が、
確かに存在はする。以上の事実自体が、ようやく今回、私にも判っ
たという訳である。(2018/12/25)

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虎関師錬の時代、占い36禽の資料は摩訶止観他五行大義が有り(長さん)

前に、虎関師錬が、異制庭訓往来の将棋の説明を記載した際に、
彼の言う36禽は、摩訶止観の知識からのみのであろうと、
本ブログで述べた。その際、36禽の元になる資料が、南北朝
時代の時点で、日本には、少なくとも代表的には、仏教の経典
の、摩訶止観の煩悩の項目に関する記載位ではないかと、ここ
では考えたからであった。その後、36禽について、中世の
日本人が入手可能だった、大陸伝来の書籍を捜索した結果、

日本の陰陽寮で平安時代から、教科書として使用されたものと
見られる、中国の隋王朝時代に蕭吉(しょうきつ)によって編
纂された、”五行大義”が有る事が判明した。

 webに、漢文で全文が載っているページがある。
そこには、確かに子~亥までの、36禽のリストが記載され、
”名数数詞辞典”と似たような、動物名のリストが、この史料
では子から亥まで並んでいる。

.子.朝爲燕.晝爲鼠.暮爲伏翼
.丑.朝爲牛.晝爲蟹.暮爲鼈
.寅.朝爲狸.晝爲豹.暮爲虎
.卯.朝爲狐.晝爲兔.暮爲貉
.辰.朝爲龍.晝爲蛟.暮爲魚
.巳.朝爲蝉.晝爲蚯蚓.暮爲魚蛇
.午.朝爲鹿.晝爲馬.暮爲麋
.未.朝爲羊.晝爲鷹.暮爲鴈
.申.朝爲猫.晝爲猿.暮爲猴
.酉.朝爲雉.晝爲鶏.暮爲馬
.戌.朝爲狗.晝爲狼.暮爲豺
.亥.朝爲豕.晝爲契蝓.暮爲猪

子の最初が、猫ではなくて燕、巳の真ん中が、鯉ではなくてミ
ミズ、申の最初が尾長ザルではなくて、猫に変わるくらいの差
のようだ。なお、記載場所は書籍の最後の部分であり第二十四.
禽蟲就 二.三十六禽 となっていた。
日本には現在、元弘3年(1333年)と天文年間の写本が完
本として残っていて、中国には他の陰陽五行説の書籍が多数あ
った為に、不要と見られて、全部廃棄されてしまい無いという。
 ちなみに36禽自体は、この本の記載によると、漢代の書籍
がオリジナルだという。
 以上の状況から見て、南北朝時代の時点で、

五行大義ないし、陰陽道の占い関連の中国からの、今は無い
書籍を、京都に在住した虎関師錬は、経典の摩訶止観とは別に、
参照できた可能性がある

と考えられた。なお、私は確認していないが、日本の書籍とし
て二中歴に、”36禽”の内容は、転載されているとの情報が
英語のwikipediaにある。言葉自体が、さほどマイナー
ではない事だけは、確かなようだ。
 よって結局の所虎関師錬は、密教も学んでいるので、占星術
関連で使用されると聞く、エジプト起源の黄道36星座は、
五行大義等で、名前を聞いた上で、他の占いに関する当時は
存在した中国からの書籍で調べて、内容を知っていて、”1年
の日数の1/10の数”の動物名の羅列だと認識した上で、
異制庭訓往来に載せた可能性も、

残念ながら、否定できない

ようだった。
 なお、造形物として、わが国にも36禽の像等は、幾つか
有り、京都の祭りの、屋台の飾りにあるとも聞いている。
 星占いと言うと、星座は12、室も12が今ではポピュラー
だが。36室制にしようと思えば、出来るわけだろう。そうす
ると、地面に固定のいわゆる、”第一赤道座標”の時角の、
36禽表記が、当然時制の一種と見なせると言う事だろう。
つまり、

虎関師錬が、星占いの世界でだけ使われる、特殊な時刻の表記
は理解できるような、占星術に関する専門的な知識を、有る程
度は持っていた可能性を否定できない

という事かと見る。
 なお、今に伝わる36禽説話の内容から見て、摩訶止観の教
義の三十六禽は、形の上では仏教の説法だが、”座禅等仏法修
行中の星が、40分単位で、36星座星占いで使われる、
第一赤道座標の経度(時角)の類の、ホロスコープの『室
(ハウス)』を変えてゆく”と言っているのと同じであって、
実質これは”星占いの話”だ。
 禅僧だから、密教系の星占いの情報資料として、具体的には
摩訶止観を、頭に描いている疑いも大きいのだが。”将棋は、
天文・占い道と同程度に帝王にとって大事だ”と異制庭訓往来
では、漠然と言っているだけの可能性も、完全には否定できな
いと言うところかと、私は結論した。(2018/12/24)

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時刻表記法の36禽。日本での定着、摩訶止観よりと特定できる(長さん)

前に述べた通り、虎関師錬の異性庭訓往来の”将棋は・・”
の36禽は、元ネタが天台宗の主要仏典である、摩訶止観に
記載されているのを、持ってきた疑いが強いという事が、
南方熊楠の随筆から判ってきた。
その後調査すると、小学館(1972)の国語大辞典に、対
応する、摩訶止観の文面が、次のように載っていた。

又一時為(レ)三。十二時即有(二)三十六獣(一)。寅有
(レ)三。初是貍。次是豹。次是虎。

この文の摩訶止観の中の記載位置は、私には正確には判らな
い。が、”(七章)正観(ニ.)煩悩境”の当たりらしい。
所で、東京堂出版(1980)の”名数数詞辞典”森睦彦著
には、三十六禽または、同じ意味だそうだが三十六獣の意味
が書いてあった。すなわち、

今のニ時間に当たる、いわゆる”いっとき”に対して3獣づ
つ配当し、時間の名前として使う。仏教上の使用方法であり、
対応する獣はその担当時間の間中に、修行をする仏教行者に、
悟りを開かせないように、邪魔をする悪獣である

との旨だった。
 個人的には浅学の私には、このような”いっとき”を三分
割する時制表記には馴染みが無かった。が、江戸時代に上刻、
中刻、下刻という、2時間すなわち、”いっとき”について
の分割用単語は、過去耳にした事が有った。従って、それと
関連しており、これだけから摩訶止観だけが、36禽に結び
つくのかどうか、いっけんすると疑問と思えた。そこで今回、
その点を調査してみた。よって今回は、以上のように、

ニ時間に当たる”いっとき”に3獣づつ配当し、36禽時制
表示をするという情報が、虎関師錬にとって、摩訶止観から
しか得られないのかどうか

を論題とする。
 結論を書いて、後で説明を加える。

得られにくいとみられる。理由は、わが国の中・近世の時制
では2時間に当たる”いっとき”を4分割する制度が、定着
しており、3分割法は、特定の法典に書いてある程度の、か
なりマイナーな、なんらかの大陸からの伝来情報と見られる

からである。
 では、以下に説明を加える。
 中国・唐代の暦や時制を導入したわが国の時制・漏刻制度
では、12支名で1日を分割する、2時間単位の定時法、
いわゆる”いっとき”という言い方の分割方法が取られた。
ここまでの12分割は、48へ細分割しようと、36へ
細分割しようと同じである。しかし、それを更に、

3分割するのではなくて、2分割2分割して、ほぼ4刻で、
1辰刻つまり”いっとき”、つまり正確に2時間とする、
30分に近い単位の分割方法が、王朝時代から江戸初期まで
続いた。

つまり、40分単位法は、正式な精度としては、取られた事
が無いのである。
 また、江戸時代は更に2分割して8分割し、15分の8倍
が、”いっとき”のパターンになった。ただし天保暦から、
幕末までは、定時法のこの時刻表記が、正式に不定時法の
時刻表記に、援用されたと言われる。
 つまり、2の倍数の分割法の方が、頻繁にわが国に伝来し
ていたと、見られると言う事である。

だから、日本の古代末期から中世の、特に知識人の感覚に、
基本的に2時間すなわち”いっとき”を3つに分けて、40
分づつ単位で、時間を考える習慣も、他人に薦める事も無い

と見て取れる。
 なお、陰陽道占いの”六壬式盤”に36禽が書いてあると
するサイトも見られる。が、同じweb上にある”復元模型”
を見る限り、24分割しているように、私には見える。
 だから、36禽の元になったと、この場合はかなり疑われ
る、摩訶止観の元である中国仏教(エジプト起源の天文学の
影響を受けた、台密系か?)には、40分で36禽の動物を
対応させるやり方が、どうやら、正式ルートで入ってくる
中国からの、暦文化とは別に有って、情報流入量は、少なかっ
た(細かった)とみられる。恐らくは、日本にもたらされて、
少なくとも広がった情報は、摩訶止観に書いてあっただけと、
事実上特定できるのではないのか。ちなみに具体的には、
以下のような36禽が有ると、”名数数詞辞典”には、書い
てあった。

子:猫、鼠、蝙蝠
丑:牛、蟹、鼈
寅:狸、豹、虎
卯:狐、兎、狢
辰:竜、鮫、魚
巳:蝉、鯉、蛇
午:鹿、馬、麋
未:羊、雁、鷹
申:尾長猿、猿、猴
酉:鳥、鶏、雉
戌:狗、狼、豺
亥:豚、契蝓(あつゆ)、猪

”名数数詞辞典”では、説明が実際には寅から始まって、
丑で終わっているので、出典はこれも、摩訶止観に、ま違い
ないと見られる。
 将棋駒の名前には有る、12支に無い生き物がかなり有る
が、現存の摩訶大将棋の動物駒の様子は、本ブログが、蝙蝠
を本来の摩訶大将棋の駒と見て居無いために、”熊”が無い
分だけ、わずかに雲南博物館の闘争動物種彫刻との相関の方
が、高いように見える。
 元に戻すして繰り返すとつまり、

天台宗の経文、摩訶止観位にしか、2時間=”いっとき”を、
3分割する方法は書いてないマイナー情報なので、4分割法
と違い、日本では前者が、中世までに普及した形跡は無い、

のである。
 そして、近世に使われた、上刻・中刻・下刻は、江戸時代
には、

天台宗が強かったので、確かに36禽思想の影響で、現われ
た言葉と認められる。

だが、実際には、上中下で”いっとき”を3分割し無かった
そうである。つまり”いっとき”4分割の源になる、2分、
2分流が強かったために、時間の区間名ではなくて、上刻と
中刻が、それぞれ、現在の偶数時0分、奇数時0分の時刻の
切り目の意味で使われ、下刻は意味をなさない等、

判然としない定義で使われただけだ

と、”暦の大辞典”、朝倉書店、岡田芳朗他(2014)に
載っている。出所のスジが細く、天台宗の教義位しか、出典
が無い証拠と本ブログは見る。なお、(1)3分割法なのに
2分割法に、用語を代用してしまった混乱のほかに、(2)
1時間、対応名称が過去側にずれ、上刻と中刻がそれぞれ、
現在の奇数時0分、偶数時0分の、むしろより正しい意味で、
使われたり、(3)それを定時法ではなくて、不定時法に、
更に転用したり、以上、
(1)~(3)の3通りの混乱が重なってしまったと言われ
る。そのため暦学者で、囲碁の強豪棋士の、渋川春海から、
”使わない方が良い”との指摘がなさせる事もあったようだ。
 つまり、

36禽の思想は、江戸幕府内の天台宗の隆盛で、江戸時代に
は、上刻、中刻として有る程度、それに影響を受けた言葉が
発生したにも係わらず、明治維新まで、遂に定着しなかった

という事らしい。
 なお、中世には上刻、中刻・・は無かった。つまり”いっ
とき”はだいたい4分割、正確には藤原道長も使った、宣明
暦のダイヤリー付き具注暦は、十二支で表される”いっとき”
は、近年の研究で、刻の単位に4+1/6分割されていた
そうだ。(追記参照)
 だから日本の上流階級の中に文化として定着していない、
いっとき=3禽思想は、36禽という言葉自体が、流布して
いたとしても、意味が曖昧で、古代と違い、朝廷の力が衰え
た日本の中世には、

天台宗の経文、まさしく摩訶止観に詳しい、僧の虎関師錬位
しか、意味を正しく知りえるはずの無い情報

に間違いなさそうだ。
 よって、”いっとき”を4分割程度する文化しか、そもそ
も普段は彼自身も使わない、異性庭訓往来の著者、虎関師錬
の頭の中には、”・・36禽の獣の列位を象り、多いのは”
と記載したときには、”摩訶大将棋”という単語が、恐らく
浮かんで居たことは、今の所かなり確かなように私は思う。
(追記)
 日本の時制については、個人的に若い頃に何冊かの成書を
読んだ事があった。が研究がその後進んで、”いっとき”=
4+1/6分割法というやり方が、公家の日記の暦(具注暦)
では取られていた事が、今回勉強しなおしてみて判った。
成書は前述の”暦の大辞典”、朝倉書店、岡田芳朗他(20
14)に詳しい。ただし、この著が漏刻制度をメインの論題
にはしていないため、説明が論文の写しであり、租借が無い
ため、文章がやや判りにくい。
 ようするに藤原道長といった具注暦のユーザーは、次のよ
うな時計を使っていたのだ。
 一日を十二支名で12に分ける。ただし、子は前日の23
時から翌日の1時までの二時間、丑寅以下、これに習う。
 ”いっとき”を25分に分ける。0分から6分までを、簡
単に言うと第0刻、6分から12分までを第1刻、12分か
ら18分までを第2刻、18分から24分までを第3刻、残
りの1分、24分から25分だけを第4刻と呼び、頭に時刻
の十二支名を付ける。
 だから、今と違って、1分は4分48秒間になり、第3刻
までは、中世には1刻が28分48秒、第4刻だけ4分48
秒の長さだった。
 たとえば”草木も眠る丑三つ時”の丑三つ時(丑3刻0分)
は、実は近世では無くて中世の日本語であって、今の日本語
の、午前2時26分24秒の意味と言う事になる。
 以上の事から、各いっときの5番目の第4刻は、他の1刻
の1/6の長さしか無い。一日は12の”いっとき”に分け
たので、刻は第0刻から第3刻という正常な、28分48秒
の合計48の刻と、その1/6の時間、4分48秒しかない、
12の第4刻から成る。1/6は12倍すると正常な2刻の
時間の長さである。
 よって結局の所、正常な第0刻から第3刻までの時間28
分48秒を単位として考えると、一日は、平安時代から室町
時代前後の、日記用暦の具注暦では、50”正常刻”に分け
られていた。ちなみに、江戸時代には、”いっとき”が、
初刻と正刻に2分割されて1/2の時間の長さ、今の一時間
と同じ時制が生まれ、刻も1/2化されて、1刻イコール、
現在の時間で14分24秒になった。これにより、良く聞く、
”昔の定時法の1日は、100刻分割”という制度が、実は
昔の説とは違って、近世になってから、始めて現われたと、
現在の研究では考えられているそうだ。(2018/12/23)

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今小路西福祉センター遺跡出土中将棋木札の、原寸はどの位か(長さん)

今の所、本ブログの解釈では、問題の、神奈川県鎌倉市の
今小路西福祉センター遺跡出土の中将棋関連の木札は、
今小路の将棋道場に於いて、いわば、中将棋順位決定戦の
大会規定を、張り出した札という事になっている。
 なお既に本ブログで述べたとおり、”今小路の御所”と
いう場所で、将棋の順位戦が行われている事は大日本史料
の、1221年7月13日の部分に記載されている。その
際、後鳥羽上皇の御前で指す将棋は、9升目36枚制標準
平安小将棋駒落ち型だが、”今小路の御所”で指す将棋が、
8升目32枚制原始平安小将棋で、今小路の順位戦では、
将棋のバージョンが、ゲーム性がその時点で最も良い、特
定の物に変えられていた疑いが、有り得るとここではした。
小将棋と木札記載の中将棋とで、ゲームの系統がそもそも
違うが、この木札の内容は、前記文献史料と、本当に場所
が同じかが今の所謎だが、驚くほど良く対応しているので
ある。
 そういう訳で、ここで指される中将棋が、遊びであって
も真剣勝負と考えられ、実際に対局する際に、合法手か、
非合法手かの境目の着手を、一方の棋士がしたときには、
ナアナアで済まされず、刃傷沙汰になる恐れまで有った事
を、示しているとみられる。だから、ゲームバージュンが、
将棋場に張り出されていただけでなく、バージョンの内容
自体が、ゲーム性能が良く、かつ問題が起こりにくい、獅
子に関する特別な規則等が無いものに、タイプを選択して
いた疑いがあるのだ。つまり、この木札を見る棋士には、
性格が荒っぽい武家が、多数含まれており、賭け試合まで、
今小路西御成小学校付近で、かつて行われていたのだろう。
 むろん、以上の仮説を証明するには、出土木札に、掲示
物としての、機能が有るという事が、確定するというのが、
一つの必要条件だ。それには、木札に書かれた文字は、
中将棋盤を置いて、指している棋士から、部屋の隅に置か
れたこの木札を見ても、かなり目立つ大きさの字だったと、
証明できなければならない。
 この史料は現物が紛失し、実は成書、”よみがえる中世
3 武士の都鎌倉”の221ページの下の図に、情報が有
るのみだ。しかも、たまたま縮尺が書いていない。今回は、
この木札の字が、将棋場の隅に置かれて、棋士から見える
程度に、木札に有る程度の大きさが有ったのかどうか、
木札の原寸の概略を論題とする。
 結論を先に書く。最小の大きさに推定したとして。

上下に繋がった、現状の状態で、横が10.5センチより
少し大きい程度、縦が15センチより少し大きい程度、字
は、12畳程度の部屋だと端から端までの距離程度になる
と見られる5メートル離れて、視力0.5の人間が何とか
読める、1.2センチ程度の大きさだった

とみられる。
 では、説明を以下に加える。
 この木札の写真に、実寸を推定する手がかりは、残念な
がら

ほとんど無い。

 なお現時点で、この成書以外に、この木札が撮影された
との情報も無い。手元に、鎌倉考古学研究所が昨年出した、
鎌倉市出土の墨書遺物に関する2000円の自費出版の某
書を、所持していると聞いている鎌倉市の職員の話から、
ざっと見た限り、

成書以外に、問題の木札が載っている書は見当たらない

と、私は聞いているからだ。従って今の所は何としても、
この成書だけから、木札の実際の寸法を割り出すしか無い。
 成書”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”221ページ
下には、横約3.5センチ、縦約5センチで木札が載って
おり、文字の大きさは、だいたい4ミリ程度だ。

手がかりは、”志ろいぬ”の字付近に散らばる、3~4個
の白い点のような物体だけだ。この物体はポリエチレング
リコールの析出物のように、私には見える。

保存処理をしたときに、木札の細かい割れ目から噴出して
固まったのだろう。常識的に考えると、2~3ミリの大き
さの丸く潰れた塊になりそうな気が、私にはするが、小さ
めに

1.5ミリ程度だと推定

してみた。これが、成書に、画像で0.4~0.5ミリ程
度に写っている。だから、

成書の縮尺は、最大値で1/3倍と計算される。

ポリエチレングリコール析出物の実際の大きさが、もう少
し大きいと、縮尺は小さくなるが、1/6倍が最小だろう。
そうすると、この木札は、実寸最小の見積もりで、結論に
書いたように、

字が1.2センチ位の大きさになり、12畳の将棋場の
隅からでも、ひらがななら棋士は、何と書いてあるのか、
何とか判りそう

だ。ただし、10.5×15センチ角の木札自体は、ハガ
キに近い大きさであって、目立つと言うには、やや不足だ。
実際には、縮尺は1/4で、14センチ×20センチ位は、
ほしいかもしれない。
 なお鎌倉末期から南北朝時のここのゲームセンターの管
理人は、木札ではなくて紙に書いて、中将棋バージョンの
徹底を図った事も、有ったのかもしれない。しかし、紙で
はそのうち切れてしまうし、順位戦は、現在の日本将棋
のプロの順位戦といっしょで、1年単位といった、長期の
バッチで、行われていたのかもしれない。だから、耐久性
のある、木の札へ、紙から変えたと考えて、一応矛盾は無
いだろう。
 何れにしても、

ゴミのような、ポリエチレングリコールの析出物の像から
しか、木札の実際の大きさが、割り出せないとはつたない

話だ。誰か30年前の発掘成果発表会で、この木札を見た
事があり、現物のだいたいの大きさ位覚えている目撃者が、
いないのか。さらには”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”
の該当部分の執筆者で、西暦1948年生まれの、現在、
70歳前後と見られる、上智大学元講師の河野真知郎氏が
存命で、木札の大きさを知らないのか。または、そもそも

この木札を持ち去った犯人に、返却してもらえないのか。

この中では、河野真知郎氏の記憶が、速効では最も期待で
きそうに、私には思える。
”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”、文字のある生活の
執筆者の上智大学元講師の河野真知郎氏が元気なら良いが。

彼が他界したら、この木札は、そもそも出土しなかったの
と、同じになってしまった

と言う事に、くれぐれもならないように、願いたいものだ。
(2018/12/22)

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今小路西鎌倉市福祉センター中将棋木札。何故充て字用法不統一(長さん)

今となっては貴重な、紛失木札の写真が載っている成書、
”よみがえる中世3 武士の都鎌倉”平凡社(1989)
で、当時、上智大学講師だった、紹介執筆者の河野真知郎
氏によれば、この木札に象徴されるように、鎌倉市の遺跡
の墨書出土物は、”多くが、くずし字やあて字の用法が、
不統一”で、この木札については、”字の崩し方がひどく、
内容は良く判らない”との旨されている。後者については、
一部の、存在が推定される、”近”と、”行”、”上”と
見られる楷書で書かれた漢字を除いて、全部”ひらがな”
か、”変体かな書きのひらがな”であったというのが、
本ブログのこれまでの解釈だ。
 ちなみに”普通のひらがなの元漢字を崩すか、典型的な
変体ひらがなの元漢字を崩すのかは、江戸時代でも、同一
文書内で、統一されないのが普通”との情報が、”よくわ
かる くずし字 見分け方のポイント”山本明著、メイツ
出版(2017)に有る。
 では、

河野真知郎氏の認識が間違いかと言うと、そうではない。

 毛ひゃうの毛の崩し方が、毛は”も”の標準的な元漢字
なのだが、

この”も”は尋常な形ではなく、崩し字のやり方が判りに
くい

のである。つまり、ほぼこの一点だけが、河野真知郎氏の
言い分の根拠だろうというのが、本ブログの見方だ。そし
て、内容が黎明期の中将棋に関するものであったために、

意訳するという意味での解読は、駒数多数将棋の歴史や、
有る程度のゲームルールを知っていないとまず無理

だったとみられる。
 では、この”う-”にも見える、毛の崩し字の、やり方
の適切ではない、

”ひどい崩し方”は、何故起こったのか

を、今回の論題とする。
 最初に何時ものように、答えから書く。

猛豹は猛将の洒落で有る事を、字の表現からニジませる為

である。
 では、以下に説明する。
 一見すると、問題の木札の上段二列目は、”うし”にも
見える。しかし、”う”ではなく、第一字目は”も”だと
言うのが、本ブログの解釈だ。理由は、

(1)うに見える字の第2画目の”つ”の細長い部分が、
第1画目の”ゝ”と、通常の近世の”う”習字のようには、
繋がって居無い事。
(2)第2画目の”つ”の最初の鉤部分が、”う”の正し
い崩し方にしては、食い込みすぎている事。

以上である。しかし、ここを”も”と、本ブログでは読ん
だわけだが、崩し字の”も”は第2画目が”つ”の形では
なくて”8の字”にループして返って来るのが、普通のは
ずだ。
 そうなっていないのは、次に”|”を書こうとしたから
だと見られる。中途半端な”も”と棒との間には、一瞬の
筆の停止による、にじみのような跡も、少なくとも写真か
らは見える。”|”には、更に次の”ひ”との間に隙間が
あるが、読み手に

”しひ”と読ませようとしたというのが、本ブログの見方

だ。つまり詳細に見ると、不完全な字で”もしひゃう”と、
書いてあると見られる。ただし、不完全なので”毛ひゃう”
と表現しても、間違いでは無いと見る。

もしひゃう.gif

 なぜこのような、”しひゃう”で、豹を表そうとしたか
だが、これは中将棋の将棋駒では特別に、猛豹が猛将の洒
落だが、本当の旧仮名遣いが、”へう”であったため

と見る。
 つまり、”「もっしょう」と「もっひょう」の、言わば、
中間発音の駒が有る”と、書き手は言いたいので、
”しひゃう”なる、”豹”の読みを、後世の我々に提示し
たのであろう。これでは河野真知郎氏らが、困惑するのも、
無理が無い事だ。
 つまり、本ブログで前に指摘したように、麒麟が退避で
きないと、中将棋の性能が落ちる等のため、

鉄将は取り除いて、その位置に、本来なら鉄将の前の升目
に有った猛豹を、最下段に落とす、駒数92枚制中将棋を
指すようなゲームルールの改良を、この時までにはしたと
言う事を、”もしひゃう”の字の存在は恐らく示している

と言う事なのだろう。
 恐らく、くずし字の読みが堪能な、古文書の専門家なら、
この木札の字を、読み下す事は、既にできているのだろう。
 しかし、大坂電気通信大学の高見研究室で紹介している

摩訶大将棋を普通に指せる程度の、駒数多数将棋の愛好者
でなければ、この木札が何を言いたいのか、内容を理解す
る事は、まず困難

だ。
 よって、この木札は、遊戯史の専門の研究者が、皆再研
究できるように、

現在、現物を占有している者は、すぐに鎌倉市役所に現物
を返すべきだ

と、私は再度ここで発信する。(2018/12/21)

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南方熊楠の随筆”四神と12獣について”に36禽の説明あり(長さん)

南北朝時代の西暦1350年頃の往来、異制庭訓往来で、
虎関師錬が、将棋を一文で比較的詳しく説明している。
その中に”36禽の獣の列位を象り”とあり、小さい将棋
は9×9升目36枚制の標準型の平安小将棋のようである
と見るのが、今の所一般的だ。
 ただし、小将棋は、将駒が3種あり、獣駒だけで出来て
いる訳でもない。従来は、この点について、はっきりと解
明されていなかった。ところが最近私は、南方熊楠の、
表題の西暦1919年に、人類学雑誌に発表された随筆に、

36禽の説明があるのを見つけた。

 南方熊楠によると、36禽の記載は、中国伝来の仏教書
で、仏教宗派の天台宗が重視する経典、

”摩訶止観”に説明がある

という。

12支の子丑寅卯・・・を、12の動物ではなくて、3つ
対の36の動物に対応させたもの

と言う。たとえば、寅には虎と豹と狸、戌には狗、狼、豺
を対応させるとの事だ。この話から、今回は何が判るのか
を論題とする。結論から先ず書く。

西暦1350年の異性庭訓往来成立時に、”摩訶大将棋”
という名前の12支の動物名を、将棋駒種類に多数含む、
駒数多数将棋が存在していた事を示唆している

と見られる。
 では、以上の結論につき説明を加える。
 元々、お経の摩訶止観は、中国伝来の経典であるから、
異性庭訓往来著者の虎関師錬には、馴染みの文献だったと
みられる。ここで重要な事は、

36禽の獣の列位を象るのは小将棋であるが、その内容は、
摩訶大大将棋の摩訶を表題に含んだ、お経の摩訶止観に書
いてある内容だ

と言う事である。つまり次いで記載された大将棋は、
360の一年の月日の数に則るのであるから、”36禽の
獣の列位を象り”というフレーズを、コンピュータプログ
ラム言語で言う、マクロとみなして”摩訶止観の”という
文字列で置き換えると、
”摩訶止観の”+”多い360の一年月日の数に則る将棋”
という文字列が合成される。つまり異性庭訓往来の将棋は、

”摩訶大将棋”は、36禽の獣の列位を象った摩訶止観の
一年の月日の数に則る大将棋である

という、暗号文を含んでいるようにも見えるという意味だ。
 36禽は小将棋の説明でも有るが、摩訶大(大)将棋は、
19×19=361の囲碁升目の将棋であって、12支駒
が、ほぼ全部入っている。だから、

異性庭訓往来には、この時代に、今の摩訶大大将棋の特徴
である、12支駒を含んで、囲碁升目である将棋が、その
時代に存在している事を、淡くだが示唆

しているという事になるようなのである。
 36禽・・のは、確かに異制庭訓往来で小将棋の駒数を、
虎関師錬は表現しようとしたのだろうが。摩訶止観の、
36禽の説明をここに持って来ているのは、駒数多数将棋
が具体的には、摩訶という名前で始まる盤升目361升の
将棋である事を、短い異制庭訓往来フレーズの中に、落と
し込むための、ものだったようにも見えるのである。
 次回以降でこの点を、より詳しく確認したいと思う。
(2018/12/20)

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大日本史料の後鳥羽上皇時代の今小路。京都なのか鎌倉なのか(長さん)

前に述べたように、大日本史料の西暦1221年宣命暦7月
13日の所に、隠岐に流された後鳥羽上皇の所に、僧侶で、
小将棋棋士の清寂が訪れて、小将棋等の棋士としての自慢話
をするくだりがある。
 当時、有力な棋士が、”今小路殿の御所”で、少なくとも、
AクラスとBクラスの順位制を取っており、清寂はAとBと
の間位であると、自慢するという内容で、始まるものである。
ところで、本ブログでは、将棋駒遺物の出土状況から、この

今小路は、神奈川県鎌倉市の今小路西御成小学校遺跡付近の
”殿”を指すという論を、その後展開した。

ただし、鎌倉市の今小路という道路名が、史料に現われるの
は、江戸時代頃からと聞く。なお地名辞典の類には、
”吾妻鏡に今大路と書いてある”との旨を、指摘するものも
ある。
 他方、本ブログでもだいぶん前に書いたが、この”今小路”
には、もう一つ候補地がある。

京都市の元誓願寺通りの一帯で、堀川今出川の交差点付近

である。
 そこで今回は、この小将棋の専門集団が、鎌倉時代の初期
に存在した”今小路”とは、鎌倉市なのか、京都市なのかを
論題とする。
 回答を先に書き、後で説明を加える。

今の所、京都御所と、さほど離れていない京都市の元誓願寺
通りの一帯を指すと見るのが有力だが、考古学等の進展によ
っては、ひっくり返る可能性もある

と、本ブログでは見る。
 では以下に、説明する。
 後鳥羽上皇は天皇の時代に、京都に居たのだから、京都市
の堀川今出川付近が、清寂が西暦1221年に言った将棋場
に、ま違い無いと言うのが、現在の将棋史会では有力のよう
に、本ブログでは認識する。

が、この決め付けは甘い

と思う。なぜなら、
後鳥羽上皇は、隠岐に流される前だと思うが、しばしば病気
の治療のため、栃木県現鹿沼市の医師、中野智玄の所に行っ
ている事で知られているからである。よって

途中で、鎌倉に寄っていた事は明らか

だ。だから、神奈川県鎌倉市の今小路西にゲームセンターが
有って、そこの話を清寂がしていたとしても、後鳥羽上皇に、
話が見えないはずが無いと、私は思う。
 そもそも、鎌倉市今小路西御成小学校遺跡近傍では、将棋
駒も出土しているし、今回のように、近接する鎌倉市福祉セ
ンターからは、専門棋士に見せるための、ルールを書いた
木札らしいものさえも、出土している。
 ただし、

まだ、清寂が自慢していると見られる、8升目制の原始平安
小将棋の存在を示唆する、岩手県平泉町の中尊寺境内遺跡の
タイプの小将棋駒は、鎌倉市のここからは出土していない。

そこで御成小学校に近接する、鎌倉市市役所が改築する等が、
将来もしあるとすれば、そのときには、現在の栃木県小山市
の小山市役所前の発掘調査のごときの発掘調査が、鎌倉市で
も行われるだろう。だから今度は、

現状の鎌倉市の出土駒よりも、少し古いタイプの将棋駒等の
出土に、期待したい

ところだ。
 他方、京都市の方の今小路を意味する、元誓願寺通りのあ
る、堀川今出川交差点付近からは、遺物としての将棋駒は、
出土しては居無い。が、

北野天満宮という、水無瀬兼成の将棋纂図部類抄の元史料の
出所、曼殊院関連の支配神社と、京都御所との中間という、
いかにも、将棋と関連が有りそうな場所

にある。おまけに、栃木県の小山市を南北朝時代にも支配し
た、小山氏の当時の9代目の殿様、小山朝氏と関連のある
堀川関白の近衛経忠は、あだ名の通り、京都の堀川今小路近
傍にも屋敷が有った可能性が高いと、私は思う。なお何回か
紹介したが、栃木県小山市神鳥谷曲輪の、南北朝時代からの
遺跡から、摩訶大(大)将棋系の裏一文字金角行駒が出土し
ていて、間接的に京都市に関連するように、私には見える。

だから、遺物が出てないからと言っても、京都市の今小路が
小将棋棋士、清寂の言う今小路の将棋場で無いとは、言い切
れない。

 どちらも有力だが、今の所は今小路という道路名の史料が、
神奈川県鎌倉市の今小路につき鎌倉時代に無いという理由で、

仮に京都市に、軍配を挙げて置くしか無い

と、私は思う。しかし、鎌倉市の今小路西からは、繰り返す
が多くの遊戯類の史料が出土しているし、30年前に出土し、
本ブログでは最近、解読に成功した、

木札の内容は、来場した専門棋士に、周知徹底させるような
しろもの

である。だから今の所、岩手県平泉町中尊寺境内遺跡のよう
な、駒の大きさが、種類で余り変わらない将棋駒が、鎌倉市
の今小路西御成小学校付近から出土しないと言っても、

大日本史料の西暦1221年に記載の今小路が、鎌倉市の、
今小路の通り付近の施設を、指さないとは断言できない

のではないだろうか。逆に言うと、遊戯遺物がこれだけ鎌倉
市の今小路西御成小学校遺跡近傍から、出ているのであるか
ら。ほとんどもう2~3点、どれも同じ大きさの将棋駒が、
たとえば、鎌倉市市役所の改築工事の発掘調査で、将来出土
すると、鎌倉時代の西暦1221年記載の、今小路は、鎌倉
の今小路の事として矛盾が無い事に、なってしまう可能性が
高いような気がする。そうなると、

現行の”今小路”という地名の初出が、大幅に繰り上がる点

に、遊戯史以外の他の分野、例えば都市の史学家等も、注意
が必要だと言う事になるだろう。
 以上の点から見ても、神奈川県鎌倉市御成町出土の、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札の内容は、
都市の歴史学等、他の分野にも影響を与える、重要な遺物で
あった事は、明らかだ。行方不明の問題の木札が、早く見つ
かってほしいものである。(2018/12/19)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木札の年代推定は可能か(長さん)

現時点で表題の神奈川県鎌倉市御成町にある、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋のバージョンを
記載したとみられる木札は、中将棋の初出文献である遊学往来
の年代から、南北朝時代であると、本ブログでは仮定している。
 しかしながら、共出土物やその他の情報から、別の方法で、
年代が推定できるのが好ましい。今回は、それが出来る可能性
について、現時点の成書程度の情報を元に、推定してみる。
結論を先に書き、その後で説明を加える。

建武の新政の頃の物で無い事は確かだが、その前後、鎌倉中・
後期か南北朝時代かの特定は、関連する武家がどちらの時代に
も健在と見られるために、困難と思われる。

では、以下に説明を加える。
 今の所、私が知りえる限りで、成書等として簡単に入手でき
る文献で、最も有力な手がかりになるのは、成書

よみがえる中世(3) 武士の都鎌倉(平凡社・1989年)
の3武士の屋敷・庶民の住まいの”武家屋敷の構造”、
河野真知郎氏執筆の、終わりの方の”屋敷の変遷”

である。その他、その後出た単行本に、屋敷の持ち主の諸説が
述べられているものがある。
 元に戻すと、河野真知郎氏執筆の成書の”武家屋敷の構造”
での記載で大切な事は、今小路西鎌倉市福祉センターの直ぐ隣
の遺跡、今小路西御成小学校遺跡で”北武家屋敷”と、
河野真知郎氏が命名したらしい、大きな屋敷が、

貴族的な武家屋敷

であると言う点である。なお、御成小学校の敷地を発掘すると、
北西に北の武家屋敷、西に南の武家屋敷、南部に町屋が出現
すると、河野真知郎氏は前記成書の中で述べている。言うまで
もなく、駒数多数の将棋は、武家よりも貴族に好まれる傾向が
有るのは、少なくとも安土桃山時代の、水無瀬兼成の将棋馬日
記から明らかである。
 従って、確定的ではないが、この中将棋木札は、
鎌倉市福祉センターの北隣にある、鎌倉市市立御成小学校から
発掘された、2軒の武家屋敷のうち、北側の屋敷と何らかの
繋がりがあると考えるのが、かなり自然なように私には思える。
 そして重要な事がもう一つある。河野真知郎氏によれば、
この北側の屋敷は、建武の新政期の戦乱等による火災で、一旦
焼失した可能性が高いが、

持ち主により、南北朝時代に再建された疑いがある

と言うのだ。つまり、北条得宗家とは繋がりが無い武家豪族な
ので、中先代の乱以外の時期には、追放された一族、つまり得
宗北条氏とは関連が薄かったため、南北朝時代になり、鎌倉府
の政権が安定すると、疎開先から帰ってきて、建武の新政で焼
けてしまった自分の屋敷を、建て直す事のできる一族だったと
いう事である。該当する武家一族としては、たとえば千葉氏と
か、あるいは西暦1285年頃の霜月騒動で、鎌倉幕府から
既に追われていた、安達泰盛方に付いた一族の関係者か、そう
いった者の家だったという事になろう。
 だから、

この木札を、建武の新政の混乱期、西暦1333年~1340
年位の間には作れないが、西暦1305年~1333年または、
西暦1340年~1380年には、どちらの時期でも作れた

と、今の所するしかないと考えられる。ちなみに木札自体は、
北の武家屋敷のある、今小路御成小学校遺跡からは出ておらず、
南隣の福祉センターにあった、町屋ないしは、粘土の採掘現場
の跡からの続きのような所で、出ている。が、至近であるので、
この程度の距離なら、元々の持ち主の居場所から外れていても、
常識的に見て、矛盾する距離では無いように私には思える。
 以上の事から、普通唱導集が成立した西暦1300年前後か
らは、後なのであろうが。そこから南北朝時代の後期頃の、
西暦1380年までの間の、建武の新政の動乱期を除いて何時、
木札が使われたのかは、現地の出土の様子から割り出すのは、
今の所困難で有るように、私には感じられる。

現物も紛失してしまったため無く、手がかりが今の所余り無い
のは、とても残念

な事だと思う。(2018/12/18)

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中将棋はどうして、”中将棋”という名で残ったのか(長さん)

現在の定説では”日本の将棋には先に大将棋と小将棋が、西暦
1300年には有って、盤升目がその間なので、12×12升
目92枚制の将棋が中将棋に、南北朝時代になった”というも
のである。しかしながら、この定説は、南北朝時代に大将棋が
健在で有った事を前提としている点に、注意しなければならな
い。
 他方、本ブログでは、西暦1320年以降、大将棋、正確に
は普通唱導集で唄われた13×13升目108枚制普通唱導集
大将棋は、衰微し、

後継の後期大将棋は、西暦1400年以降の作である

としている。つまり、たとえば西暦1370年時点頃に、遊学
往来に、中将棋を”中将棋”と、絶対に書かなければならない
筋合いが、大将棋というゲームが、別に健在で存在するのかと
言う意味では

特に無い

と見ていると言う事である。にもかかわらず、遊学往来には、
将棋とは別に、大将棋と中将棋が、確かに書いてあるのである。
 では、これを本ブログ流では、どう説明するのか。
以上を今回の論題とする。
 最初に結論を書き、後で説明を加える。

13升目108枚制の本ブログで言う、普通唱導集大将棋以外
のゲームで、特に、(1)3段目中央に奔王、龍王、龍馬、
(2)2段目袖から、反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、(3)
2段目中央に太子成り酔象、(4)一段目中央から、玉将
(王将)、金将、銀将、銅将、鉄将、(5)袖列に最下段から
香車、反車と並ぶ、自陣4段組構成の将棋以外を”大将棋”と
呼ぶのが、南北朝時代には、当時の棋士仲間の常識が壁となり、
困難だったから

だと、ここでは見る。
 では、以下に説明を加える。
 本ブログによれば、13升目108枚制の普通唱導集大将棋
が、

西暦1370年頃の時点で、棋士の記憶には存在して、それか
ら改善されて中将棋ができつつあった

という事になっている。
 その当時の棋士の認識では、普通唱導集大将棋は、右翼3筋
の歩兵を高く上げてから、堅行を歩兵下の段に付け、嗔猪を2
段目から一歩づつ、右仲人の居る5段目に上げて、桂馬を2つ
前升目の左に、一手跳ばすという将棋ばかりが指されて、お決
まりすぎて、つまらないものと見なされていたというのが、
本ブログの、普通唱導集大将棋第二節の解釈からの結論である。
 そこで本ブログで言う、西暦1290年盤普通唱導集大将棋
が記憶として残っていても、改善がもしできれば、改善された
駒数多数将棋を、大将棋と、本来は呼び直しても、良い状態だっ
た、はずである。ところが結論で述べたとおり、棋士には、

大将棋は13升目68枚制平安大将棋の、実質的な拡張であり、
かつ、モンゴル帝国来襲に対応して、宗教的に、(1)3段目
中央に奔王、龍王、龍馬、(2)2段目袖から、反車、飛龍、
嗔猪、猛牛、猛虎、(3)2段目中央に太子成り酔象が、加わっ
た形しか、許されなかった。

なお、(4)一段目中央から、玉将(王将)、金将、銀将、銅
将、鉄将、(5)袖列に最下段から香車、反車と並ぶのは、
二中歴に書いてある平安大将棋の元もとの特徴点である、だか
ら本来なら、普通唱導集大将棋が西暦1320年程度の頃から
衰退した時点で、後継のたとえば12升目96枚制の中将棋は、
大将棋と読んでも良かったが、

当時の大将棋の定義に関する認識から、それが出来なかった

と、少なくとも本ブログでは考えるのである。
 そこで、中将棋を発明したゲームデザイナー、ないしはその
少し後に、初期の中将棋を熱心に指したゲーマーは、

普通唱導集大将棋、平安大将棋の升目数である、13升目から
新しく出来た中将棋は、一角落として12升目にしていたので、
大将棋と小将棋の中間との意味で、中将棋と呼び、守旧派の批
判を封じた

と考えられる。
 恐らく、猛虎を盲虎に変えたのも、中将棋が出来た後であり、
守旧派の”(2)2段目袖から反車、飛龍、嗔猪、猛牛、猛虎、
という配列になって居無い、別の将棋に、伝統ある大将棋の駒
名が有るのはおかしい”と、いった類の追撃の批判を、初期に
はカワすためだったのであろう。
 今小路西鎌倉市福祉センター遺跡の、中将棋ルールを書いた
出土木札(現物は行方不明)に、盲虎ではなくて、猛虎という
熟語が存在するからこそ表現できる、”まうこ”が有るのも、
猛虎が盲虎になったのが西暦1300年頃の普通唱導集大将棋
の時代ではなくて、西暦1370年頃の、中将棋が成立しつつ
あった時代であるという、証拠だと考えられる。つまり、

今の中将棋指しと異なり、南北朝時代の中将棋指しにとっては、
盲虎は猛虎と、熟語で有名な方のカナで綴る方が普通に見えた

という事である。
 以上の事から、

実質的に、西暦1370年の遊学往来の頃、日本には大将棋が
滅んでしまったので無かった

と結論できるように思う。
 遊学往来に、大将棋と中将棋が続けて書いてあり、将棋が、
かなり離れて書いてあるのは、遊学往来の筆者自身が、大将棋
など指されて居無いのだから、中将棋を本来、大将棋と書いて
もおかしくないと、ひょっとしたら思っていたので、その気持
ちが現われているのでは無いだろうか。(2018/12/17)

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鶴岡八幡宮出土鳳凰、不成香車、歩兵駒。なぜ今小路に無かった(長さん)

何回か述べたが、神奈川県鎌倉市今小路西御成小学校、および
福祉センター遺跡付近は、大日本史料の1221年7月13日
の僧清寂の、後鳥羽上皇御前での小将棋自慢話に、今小路殿と
いう場所で将棋の専門家が、順位戦をしている旨の記載が有る
ため、鎌倉時代のやや遅れるが、少なくとも後期には、ゲーム
センターとして、著名だったのではないかと疑われる。
 御成小学校遺跡からは、実際、やや粗雑な文字の金将駒と、
文字が消えたと見られる駒が計2枚出土している。しかし、こ
の出土駒の総数は、鶴岡八幡宮境内遺跡の5枚に及ばない。ま
た、駒種も前者は、2枚の形の差から持駒ルール有りと見られ
る平安小将棋の駒と、比較的ありきたりであるが、
鶴岡八幡宮境内遺跡の駒は、南北朝時代頃の後期大将棋系の駒
のようであり、明らかに格が上である。
 普通に考えると、鶴岡八幡宮の境内で、後期大将棋系の将棋
が指され、たまたま出土したようにも見える。しかし、在来仏
教の時代、大将棋と小将棋は神社仏閣では賭博行為として禁止
されていたし、南北朝時代の遊学往来では、大将棋と中将棋は、
博打の道具と記載されている。そもそも、博打は今小路で盛ん
に行われているのに、なぜ表向きにせよ、禁止されているよう
な所に、わざわざ大将棋の道具を運んで指したのか、良く考え
てみると、若干だがおかしい点があるのではなかろうか。
 そこで今回は、鶴岡八幡宮境内遺跡から出土の、後期大将棋
系の駒が、たとえば今小路西鎌倉市福祉センター遺跡で、なぜ
出土しなかったのか、考えられる理由についてを論題とする。
 いつものように最初に答えを書いて、その後で解説する。
鎌倉市の鶴岡八幡宮には現在、鎌倉国宝館が有って、今小路西
御成小学校出土の、安達氏一族のメンバーを記載した木簡等が、
鎌倉市の指定文化財として保管されている。が鎌倉時代等にも、

鶴岡八幡宮は、少し前の時代の遺物を安全に保管するのに使用

されていたのではないかと、推定される。
 では、以下に説明を加える。
 前に、仏教の戒律に触れるため、将棋駒が魚型に変化しなか
ったとの論を、本ブログで述べた事があった。その際、生臭僧
侶が、寺院で将棋賭博をするために、寺院から将棋駒が出土す
るケースとは別に、棋士が故人となった後で、宗教施設に、将
棋具が奉納されるケースが、あるのではないかと論じた。
 他方、神奈川県鎌倉市の今小路西鎌倉市福祉センターから、
中将棋のバージョン指定の木札が出た事から、成りのルールが
完成していない”鶴岡八幡宮境内遺跡タイプ”の黎明期の中将
棋にも使える後期大将棋系の駒が、かなりの数、鎌倉市の何処
かにあった疑いが出てきた。

言うまでも無く、御成小学校遺跡や鎌倉市福祉センター遺跡の
付近は、鎌倉武家でも、かなり位の高い人物が出入りしていた

所である。よってそこで使われた、特に上流階級が使うと、ほ
ぼ特定できる、中将棋の駒等は、出入りしていた、実は鎌倉幕
府や次の時代の、南北朝時代の鎌倉府内の重要人物である、
ゲーマーが亡くなると、遺品として、保存が考えられたであろ
うという事を、一応想定する事はできるのではないか。

鶴岡八幡宮境内遺跡の出土駒は、鎌倉時代等には、今の
鎌倉国宝館に保管されている、文化財のような扱いの遺品

だった可能性が、実はあるような気がする。鶴岡八幡宮の下級
の神官が、後期大将棋系の将棋をわざわざこっそりと、
鶴岡八幡宮の境内内で、近くの高級武家が出入りする、今は
今小路通り西の御成小学校の建っている、ゲームセンターへは
行かずに指すというのも、不自然と言えば不自然だからだ。
 では鎌倉幕府等の要人である、今小路ゲームセンターのゲー
マーの遺品を、鶴岡八幡宮に、なぜわざわざ運んだかだが、

将棋駒等は、次の時代のゲーマーにも使われるので、そこに
置くと盗難の恐れがあったから

だとみられる。つまり、

今小路西御成小学校遺跡近傍で、遺物を保存管理させるのは、
昔も今も危険

という事なのかもしれない。
 そもそも、鎌倉幕府自体が、講談社、2011年出版の、
細川重男氏(東洋大学講師等)著”北条氏と鎌倉幕府”にあり、
彼のブログ”日本中世史を楽しむ♪”にも書いて有るとおり、

極道の巣のような所であったとしたら、法を守るかどうかは謎

であったのだろう。また特に蒙古来襲の後、カリスマ執権と
現代評される北条時宗が他界した後は、鎌倉幕府内には政治混
乱や、退廃がひどかったと、私は上記細川氏の、前記本等で読
んだ事がある。南北朝時代になると、更に混乱が起こったのも
明らかだ。
 そのため、将棋のうちでも価値の高い後期大将棋系の遺品が、
他界した幕府や府の高官の、記憶の品として後世に残るように、

黎明期中将棋が好きだった、他界した鎌倉幕府等高官の遺族は、
遺品を鎌倉鶴岡八幡宮の、当時の”国宝館”に当たる所に奉納

したのではないだろうか。しかし時代が変わり、その時代の国
宝館が、戦乱等で消滅したため、遺物の一部が地下に埋もれ、
たまたま水分の量が適切であったために、鎌倉市鶴岡八幡宮境
内遺跡の出土将棋駒として、現在我々は目にする事ができてい
るのかもしれない。
 最近紛失が発覚した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土
の中将棋木札も、鶴岡八幡宮境内遺跡出土駒といっしょで、
重要な故人の記憶である。
 なぜならそれは、雄山閣出版が、だいぶん前の西暦1998
年に出した”考古学による日本歴史12 芸術・学芸とあそび”
で、福井県の一乗谷朝倉氏遺跡を扱った、出土品研究者の
水野和雄氏が、”輸入された娯楽”の最後で結んでいる、

成書によれば近いはずの、”日本将棋の成立過程を解明する日”

を実際に迎えるための、最大の難所になった部分に関する

核心的な疑問、すなわち

鎌倉時代頃大将棋と中将棋はどこでどう、線で結んで繋がるか

に関する

決定打となる情報を含んでいる

からである。
 従って運良く、紛失した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡
中将棋木札が、仮にまもなく見つかったなら、

安達氏の武士名を羅列した、御成小学校遺跡の西暦2016年
に鎌倉市指定遺跡となった木簡同様、鎌倉市の指定遺跡に昇格
させ、鎌倉国宝館に移したほうが、御成小学校近傍の施設に、
他の大量の有形文化財と、混ぜ合わせに置くより、ずっと安全
で適切な事は明らか

だ。
 だから鎌倉市は、この木札の管理場所も、

その重要性から見て、

行く行く鶴岡八幡宮に移して、保管を強化すべきではないかと
私は考える。それが文字通りの、”温故知新政策”であると、
このケースは、言えるのではなかろうか。(2018/12/16)

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今小路西鎌倉福祉センター遺跡木札。現物が有れば何が判ったか(長さん)

表題の神奈川県鎌倉市の鎌倉市役所に近い市役所膝元遺跡、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋に関する木札は、
残念な事に、現物が見当たらない状態と言う。ただし成書、
”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”に、幸い貴重な写真が、
かなり鮮明に掲載されていて、それが今の所、唯一残された
史料である。この写真に基づいて、本ブログはこれまで、問題
の木札につき、一応突っ込んで議論してきた。写真だけでも、
相当いろいろな事が言えたが、現物が見れれば、更に情報自体
が確実になるし、より詳しい事も、本来なら明らかになるはず
だった。
 そもそも研究者が、それぞれにこの史料を分析できれば、情
報量は、現物が有るのか無いのかで、相当差が出るはずだ。
一例では、化学的な分析が出来たり、裏面が見れたり、大きさ
が正確に計れたりできよう。本ブログでは、元々の情報は、恐
らくこれだけだろうと見る。が例えば裏面に、表面記載の中将
棋バージョンで指す期間が、具体的に書いてあったとしたら、
紛失したために判らないのは、我々にとっては致命的な打撃だ。
 しかし、想像で一般論を述べても、ピンと来にくいとの指摘
も出るかもしれないので、明らかに現物が有れば判ったと予想
される事柄で、今回は最も大きな、現物の有無の差につき論題
にしたい。最初に、いつものように答えから入る。

豹を示すと見られる、”ひ口▲”が、”ひゃ▲”なのか、
”ひょ▲”なのかが、現物が有ったとしたら確実に判定でき、
中将棋が92枚制に、この遺物が作成できる時点で、なる間近
だったかどうかを、正しく知る事ができた所だった

と考える。
 では、以下に説明をする。
 成書、”よみがえる中世(3)武士の都鎌倉”の221ペー
ジの写真から、上三列、下三列それぞれについて、

志ろいぬ 毛ひゃう まうこ波 (以上上三列)
近くへ行が 上わゆ けぬ   (以上下三列)

と今の所、本ブログでは読んでいるわけだが、

ひゃうの”う”、近くへの”近”は、磨耗で消失している

と本ブログでは見ている。また、以下が重要だが、

ひゃうの”ゃ”は、上端だけが、かろうじて残っているだけで、

実際には”ゃ”か”ょ”かは、微妙である。

やかよ.gif

現物が有れば、ちょうど中央付近の、切れ目に掛かった所の

この”ゃ”か”ょ”か判らない字が、完全に判定できた

所だっただろうと、私は見る。それが何故重要かと言うと、

”ょ”だったとしたら、単に音通りに書いただけ

だからである。つまり今の所、本ブログで見ているように”ゃ”
だったとしたときには、これを書いた、南北朝時代の今小路
ゲームセンターの管理人は、故意にか、当時の旧かなづかいと
我々が表現する日本語の理解が、足らないためかは不明だが、

”将”の字の旧かなづかいの”しやう”に合わせて、豹のかな
づかいを本来の”へう”ではなくて、誤った”ひゃう”にした

可能性が高い。しかしながら単純に、現代の我々の表記と同じ
になる音通りの”ひょう”にするのが目的だったとしたら、

”ひょう”では、将の旧かなづかい”しゃう”と結びつかない
ので、その時にはまだ中将棋が92枚制に、なって無いと確定

するからである。つまり、本ブログの管理人は、

南北朝時代の今小路ゲームセンターの管理人が、間違った旧日
本語を使っている所から見て、猛豹を猛将と関連付ける動機付
けが有ったのであり、この木簡が作成された時点で中将棋が、
92枚化していたか、あるいは、中将棋は96枚制から92枚
制に移行間近かだったかの何れか

ではないかと、現時点で疑っているのである。
 この判定は、現物が有れば、”ひ□▲”の

”□”が”ゃ”なら、写真からの印象どおり”+”と墨跡があ
るはずだし、
”□”が”ょ”なら、写真からの印象と違い”ト”と墨跡があ
るはず

と、判断が付くのだ。いまや現物が無いので、豹が”ひゃう”
なのか”ひょう”なのか、確定できなくなってしまった。現物
を誤って廃棄したか盗まれたか、今の所良く判らないようだが。
とにかく”何処かへ行ってしまって無い”とは。鎌倉市役所に
は、余り他では聞かない、遺跡の発掘成果発表会での、遺物の
取り扱いに関する相当な落ち度が、30年前には、少なくとも
あったようだ。(2018/12/15)

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今小路西鎌倉市福祉センター木札。猛豹が”まうへう”で無い訳(長さん)

中将棋史にとって最重要な、行く方不明の南北朝時代の木札、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の木札は、将棋史全体
にとっても、重要な遺物である。特に、しょっぱなに記載さ
れている、”志ろいぬ”が初期の中将棋に有る事は、この
木札が出るまでは、誰も予想も出来なかった事だとみられる。
ちなみに最近、日本将棋連盟の関西本部の対局室、水無瀬の
間に、将棋駒の狛犬駒の置物があり、将棋のプロ棋士、
藤井聡太七段(現在)と共に、撮影されているのが話題になっ
ている。
 関西地方は、中将棋が昭和の時代に、盛んであった事で著
名だが、たぶん、この置物を置いた方に、予知の超能力が有っ
たのであろう。それは、今の所ともかくとして。
 他方、大将棋にとっては、この木札に、猛豹を意味すると
見られる、本ブログの管理人の現在の認識では、

”毛ひゃう”と書いてある部分が、中将棋の前段の、
鎌倉時代後期の大将棋の内容を示唆する点で、最重要である。

 その後、次の崩し字の入門者用の成書等、幾つかの成書を
参照し、特に”毛ひゃう”との読みが正しいのかどうかを、
私なりに、できるだけチェックしてみた。特に参考になった、
崩し字入門者のための成書の一冊に、次のものがある。

よくわかる「くずし字」見分け方のポイント、齋藤均監修
メイツ出版(2017)

 するとそれ以前に、諸橋徹次著の漢和大辞典等から、

猛豹の豹は、旧かなづかいは、”ひやう”ではなくて、”へう”
である

事が判った。つまり、旧かなづかいで、この木札には、豹を
或る理由で、普通に”へう”と書かなかったか、

この部分の私の意訳が、間違っていたかの、どちらか

だという事が判った。なお、木札の猛豹の猛が、”まう”で
はなくて、”う”か”も”か”毛”かの、どれかで表現されて
いるらしい事は、前記の”「くずし字」見分け方のポイント”
等、くずし字関連の辞書等から、だんだん察しが着いてきた。
 そこで今回は、表題にも書いたが、木札に旧仮名遣いが使わ
れていないか、私が間違っていたのか、この問題の今小路西鎌
倉福祉センター遺跡出土木札の2列目の読みに、何か問題があ
るようなので、以上の事を論題とする。
 最初に結論を書き、後で説明を加える。

”毛ひゃう”は猛豹で間違いないと見られる。
”まうへう”と書かないのは、正式旧かなづかいを書くと、
なにを言っているのか、南北朝時代の、今小路西ゲームセンター
に来場しているゲーマーには、一見では意味がわからないため
敢えて避けたと、ここでは見る。

では、以上について説明する。
 豹がかな書きで、特に”ひよう”と、戦国時代頃から、注記
されるようになった事が、日本国語大辞典(小学館)から判っ
てきた。しかし、少なくとも平安時代末の頃までは、いつも
”へう”表記であったようだ。なお、先の大戦まで、正式な旧
かなづかいでは、豹は”へう”だ。
 しかし、江戸時代草創期の日ポルトガル語辞典等から、中世
の上流階級が、豹を”fioo”と、発音しているとの情報が
あった。だから、

口語表現としては、戦国時代よりももっと前の、南北朝時代の
下世話の木札に、”まうひゃう”とか”まうひょう”とか書い
てあっても、おかしくは無さそうだ。

他方、猛虎・盲虎の方は、この木札では、ただしく”まうこ”
と表現されている。なお蛇足だが、”まうこ”のまは、この
木札では、末の崩し字ではなくて、変体仮名が使われ、”万”
の崩し字になっている。”ま”と読みづらかったのは、その
ためと見られる。
 話を元に戻すと、

猛虎と違い、猛豹は熟語として存在しない。

この点が大切だとみられる。がその他、南北朝時代の人間には
豹自体が、当然だが日本には居無いので、なじみの薄い動物だ。
 そのため伝えられた動物名の通りに、豹を”ひょう”と発音
して、将棋駒名として、使っていたはずである。だから、知識
人しか知らない、”へう”を、今小路西ゲームセンター(当時)
の管理人は、表現としてはそれが正しいのだが、”feu”と
言っている人間が居無いため、使いたがらなかったのだろう。
つまり、

”猛”がナマじ頭に付いていたのが、表現方法として、問題だっ
たのだ。

 そもそも正式文書のかなづかいを真似て、かっこつけても、

”猛豹が有る”という内容自体が、相手に伝わらなかったら、
木札を作成した意味が、この場合は、ほぼ無い。

 そこで、将棋場で、猛豹を呼ぶときに、普通に発音している
ひらがなに、名前を変えたのではないか。その証拠に、猛も、
”まう”と書かずに、明らかに”も”とか、”う”とか”毛”
とかに読める、崩し字に直している。つまり多分、

”毛ひゃう”と、木札に書いてある

と私は思う。ちなみに、猛豹の豹と、鉄将の将とで、音が似て
いると、南北朝時代の将棋棋士に認識してもらえないと、少し
後に、

猛豹は言うならば、猛将であると解釈

されて鉄将の位置へ、猛豹が移動して、中将棋が96枚制から、
92枚制に変わったとか、悪狼が悪党の類似パターンの洒落と
か仮定できなくなるため、少なくとも本ブログの論にとっては、
問題が更に発生する。しかし実際には、

外来語をカタカナで書く感覚に、近い表現にたまたまなってい
たために、少なくとも標準的な旧仮名遣いから、ズレて、実際
に書かれているのではないだろうか。

 結論として、本ブログの読み方は間違って居無いと思う。そ
してむしろ、そのために、30年前から現在までの木簡解読者
は、この木札の正体を見破るためには、更なる困難に直面した
のだろう。
 他方私のような、将棋史には興味が有るが、崩し字の素人は、
ひょうが、”へう”ではなくて、”ひゃう”だったのには、む
しろ今の表現に、たまたま近かったため助けられた。そして
逆に当然の如く、崩し字解読の、基本の所で随分苦労した。
 よく読むと、この木札の最後の一字は、

無ではなくて、”ぬ”の変体仮名である可能性

が有りそうだ。
 つまり”奴”の崩し字ではなくて、”怒”の崩し字のために、
下の部分が見えていて、無だと、私は勘違いしただけという
意味である。
 その他の点では、何べん読み返しても、この木札は、以前に
本ブログで表明した読みと、特に解釈で、間違っているように
は、私には依然思えない。
 だからこの木札の現物が見当たらないというのは、本当に残
念な事だと思う。(2018/12/14)

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平家一族。”奢っていた”割には将棋の史料が無いのは何故か(長さん)

俗に、”奢る平家は久しからず”という文句がある。遊戯史に
興味がある者の立場からすると、この言葉から、平家一族関連
の遺物に、囲碁・将棋・盤双六・サイコロ等の遺物が期待でき
そうだと、にわかに活気付く。しかしながら実際には、平安時代
最末期の将棋史料に、平家に関係した物が有ると言う話を、少
なくとも本ブログの管理人は、聞いた事がない。ここではこの、
”かつての平安時代中期の藤原貴族に取って代わり、一時期
貴族的状態に有った”とされる平家一族関連に関して、将棋史
に関係する遺物や史料が、なぜ今の所、未発見とみられるのか
についてを、今回の論題とする。
 いつものように、回答を先に書き、後で説明を加える。
以下回答を書く。

平家は奢っていなかったと疑われる。

では、以下に説明を加える。
 平家は京都を勢力圏とした状態で、平治の乱で事実上の国の
制圧に成功したとみられる。平清盛やその一族の日記が、見当
たらないが、恐らく彼らに、京都で政権を奪取した時代に、日
記等を書く能力や、余裕が無かったのではなくて、壇ノ浦等の
海に沈んでしまい、残って居無いだけであろう。
 京都の内大裏を、平清盛軍は制圧して、後白河上皇を事実上
屈服させていたと見られるため、平家政権が、京都であった時
代の遺物は、有っても、彼らの物とは判別できないとみられる。
 従って彼らが遊戯をしたとの跡は、福原遷都の後、そこでの
遊戯の跡が、遺物として残っているかどうかであろう。が、

今の所臨時の都、福原から、将棋駒等が出土しているという
話は聞かない。

なお、この時代の史料としては、西暦1183年に、京都で、
”暲子内親王が、将碁を指していた”と、権春門院中納言日記
または、健寿御前日記で、藤原俊成の娘が、記載している例や、
西暦1185年に、同じく京都の神護寺で、僧文覚起請文が
書かれ、”囲碁・双六・将基・蹴鞠を禁止する”という記載が
された例がある。
 しかし、二中歴成立の時代に近いのに、我々にとっては残念
な事に、

平家が制圧していた地域で、その重臣等によって、将棋が指さ
れていたとか、そういった類の、”平家時代の将棋史料”で、
明確なものは、今の所無いとみられる。

 平家物語絵巻を見ても、平清盛が水浴びをしているような絵
は見るが、彼の居所に、双六盤・囲碁盤・将棋盤が有るような、
家具・道楽品が、部屋の隅にあるような中に、一族が住んでい
るように描いた絵は、少なくとも私は見かけない。少なくとも
一般成書の範囲で探して見つかるのは、厳島神社に平家が奉納
した、王朝時代の絵を描いた物品位ではないかと思う。これは、
ひょっとして、

”平家が奢っている”という証拠が、文学作品に書かれている
等程度で、客観的には乏しい事を、意味してはいないだろうか。

なお、少し後だが、藤原定家が西暦1203年に明月記で、朝
廷の間に、複数の貴族や皇族が遊戯する目的で、囲碁盤・双六
盤・将棋盤が並んでいたと、公家の暮らしの様子の一種を、
明確に記載している。
 つまり、平家政権時代には、戦乱が続いていて、側近の武者
は、合戦に出動するケースが多く、実際には平家一族には、

暇で贅沢三昧をしており、将棋も指していたという事が、遺物
が出るほどには無かった

という事なのではないか。
 将棋史の目だけで、平清盛一族の日常を、判断するのは危険
だろうが。

”奢っていたとしたら、その時代には、どの程度の遊戯品の遺
物、史料が、本来なら残るはずだという調査”からも平安末期
史のヒントの一つが、得られると言う点だけは確か

なのではないかと、私は疑うのである。(2018/12/13)

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文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋。玉将周りの囲いを解く理由(長さん)

かなり前に述べたが、15世紀頃の、小将棋のある物に太子が有る事
を確定する重要な将棋史料に、表題の謡曲とみられる表題の、
文禄本幸若(舞)信太記載の”将棋”がある。
 小学館の日本国語大辞典の、幾つかの将棋駒の項に、使用例として
記載され、概訳を再掲すると以下の内容と見られる。

別の物にたとえて言うのならば、「天台しゆうの戦(いくさ)」に於
いて、まず歩兵が先陣を切って攻めかかると、ついで玉行と角行が、
相まみえる事になる。ついで金将、銀将、桂馬が攻めかかると、ほど
なくして太子も、それに加わる事になる。以上は戦いの兵法を、
将棋盤の上に作ったものであるけれども、ああ、これに勝る(シミュ
レーションモデルの)例が、はたして有る物なのであろうか。

なお、「天台しゆうの戦(いくさ)」が”天竺衆の戦”になったり、
玉行ではなくて、王行または横行との説もあるらしい。
 前に、この将棋が室町時代から戦国時代にかけての朝倉小将棋で
あり、表題のように、本来の守り駒を、次々に攻め駒として繰り出し
ているとの内容から見て、取り捨て型の朝倉小将棋であろうと、本ブ
ログの見解を述べた。
 では、勝負を付けるために、本能寺に居る織田信長のように、武装
勢力を次々に、敵陣に繰り出すのは良いが、

なぜ玉将も繰り出して、全軍が体当たりするような、勝負を決するた
めには自然で、普通の戦法を取らないのか

を、今回は論題にする。
 回答を書いて、その後で説明する。
 すなわち、この文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、

盤面の相手陣方向を、天空つまり上部とみなし、釈迦が悟りを啓いて
往生するという局面を表現する、勝負を度外視する儀式的将棋だった

と見られる。
 では、以下に説明を加える。
 少なくとも本ブログでは、問題の将棋が発生した時点で、

平安小将棋に持ち駒ルールの類は、有った

と考える。にもかかわらず、文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋では、

明らかに、取り捨てルールで小将棋を指している。

なお、本家の西暦1560年頃の、一乗谷朝倉氏遺跡で指された、
朝倉小将棋は、日本将棋の駒と共出土している所からみて、

持ち駒ルール有りの、朝倉小将棋だった可能性が高い。

 つまり、文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、一乗谷朝倉氏遺跡
で指された朝倉小将棋よりも前のものであるが、その時代には既に、
平安小将棋には、持ち駒ルールが存在したと見られる。
 では朝倉小将棋も何故、最初から持ち駒ルールにしないのかが、
問題だろう。なぜなら、

朝倉小将棋の持ち駒有り型は、朝倉小将棋の持ち駒無し型より、ゲー
ム性は”まし”だからである。

 従って、この事から、

文禄本幸若(舞)信太の朝倉小将棋は、ゲームをして楽しむ事が目的
で開発されたのではなく、仏教教義の普及の為に作られた疑いが強い

と言う事であろうと、想像できる。ようするに、将棋の盤の自陣が手
前、相手陣が向こうと認識せずに、将棋の盤の自陣が下、相手陣が上
と見るのであろう。そうすると、走り駒、小駒、酔象の順序で駒を繰
り出すのは、走り駒までは、普通の取り捨て将棋と同じとして、

小駒、酔象を繰り出し、相手陣で酔象を太子に成らせるのは、仏教の
成仏を表しているのではないか

と、予想が付く。小駒、酔象、玉将を、全部じわじわと上げてゆくの
が、取り捨て型将棋で、走り駒を相討ちにした後の、一般的指し方で
あり、文禄本幸若(舞)信太の戦法は、

いっけん尤もらしいが、取り捨て将棋としては邪道

である。しかし、往生思想を大衆に理解させるために、元々朝倉小将
棋を僧侶が作ったとすれば、教える側が僧侶で、教わる側が檀家な
らば、この頃は、神仏習合の時代なので、龍神信仰も取り混ぜられ、

邪道な戦法を、儀式的に指すように教わるだろう

とは、今の所ぼんやりとはしているが、予想可能ではある。特にこの

儀式的将棋では、酔象が相手陣で太子に成って、成仏する事を表すの
が、クライマックス・シーン

だったのかもしれない。その唱導が、運よく謡曲に残ったのではない
か。
 そう考えると、平安小将棋よりもゲーム性で、ディフェンスが強す
ぎるために劣ると見られる朝倉小将棋が、なぜ室町時代末期から戦国
時代初期の、すさんだ、大衆宗教が隆盛を極めた時代に発生したのか
が、じょじょに明らかになってくるような気がする。すなわち、この
小学館の日本国語大辞典でしか、余り見かけない史料を読むと、現在
の日本将棋の発生の要因が、少しずつ見えてくるような気が、私には
するのである。(2018/12/12)

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日本最古の将棋の棋譜。本因坊算砂の終盤106手目の悪手の謎(長さん)

最近、日本将棋の江戸時代の棋譜にを見る機会があり、日本最古
の棋譜が、西暦1607年のもので、桂馬が7七の位置から、先
手▲6五桂馬と、63手目に大橋宗桂(初代)が指しているのが、

現行の桂馬のルールと、昔のルールに差が無い

ことの、一番古い証拠である事が判った。将棋六種之図式の桂馬
のルールの表記は、図式書の正確な成立年代は不明なものの、西
暦1607年よりは後である事が、間違いなく、よって将棋六種
之図式の桂馬の、動かし方ルールは、略式のために、鳳凰の跳ぶ
動きと同じに、たまたま表現されていると私には理解できた。

高見友幸氏の”中世以前の桂馬の駒の動かし方ルールが、今とは
異なる”との説には、弱いところがやはりありそうだ。

 更に、日本最古の棋譜を見た所、終盤、本因坊算砂が、受けで
悪手を106手目に打ち、初代大橋宗桂に負けている事も判った。
 今回は後者の方の、本因坊算砂が、106手目に指してしまっ
た悪手から、何が推定できるのかを論題とする。
 いつものように、結論から先に書いて、後で説明を加える。

本因坊算砂が日本将棋を習いたての、西暦1960年代後半、
持駒ルールの細則の、二歩の禁手と、打ち歩詰めの禁手が、その
時点でまだ、ローカルルールに過ぎなかったと推定

できる。
 では、以上について以下に説明を加える。
 この日本で最初の日本将棋の棋譜は、例えば次の成書で詳しい
内容と、解説がある。

日本将棋大系1 初代大橋宗桂・二代大橋宗古 勝浦修著
筑摩書房(1979)

それによるとこの棋譜は、133手で大橋宗桂が、本因坊算砂を
下した、西暦1607年の将棋に関するもので、恐らく関西方面
で指されたが、日は不詳と言う。
 終盤、競り合って寄せ合いになり、比較的堅い陣を守っていた、
後手の本因坊算砂に、先手の大橋宗桂が攻めで打った、105手
目の▲6四香車の王手に対して、

合駒の歩兵を、(2)6三の位置に打つべき所を(1)6二の位
置に、打って負けてしまった

と、将棋棋士で名高い、勝浦修氏の解説がある。誠に判りやすい
解説で、さすがだと感心させられる。

最古棋譜.gif

 日本将棋の現行のルールからすると、通常は、この手は単なる
ミスなのであろう。
 が、仮に正しく△6三歩兵打ちと、持ち駒歩兵を打ったとして、
この将棋に、二歩の禁手が仮に無かったら、日本将棋の結果とは、
違ってくるのではないか。即ち107手目▲6二歩に対し、以下
△7一玉と逃げれば▲8二銀△同金▲同金で、詰みだから、たぶ
ん107手目▲6二歩(2歩)には後手は△同金と、金を動かす
しかないだろう。すると、▲同桂△同角▲6三香不成になるから
9七の地点に、先手の馬が利いて、詰めろになっていた原因のは
ずの、後手の飛車打ちが出来なくなる。だから、二歩が禁手であ
る普通の場合と、そうで無い場合とは、後者の方が、先手にとっ
て有利になるように、状況が大きく変わってくるに違いない。
 ひょっとしたら、本因坊算砂が日本将棋を習った、彼が7歳
の西暦1566年に、二歩の禁手はローカルルールだったとして、
彼が二歩の禁手の将棋を指したのは、西暦1570年代になって
からだったとしたら、

本因坊算砂には、二歩指しに対応する癖が、幾分か残っていた

という事は、ひょっとして無いのだろうか。
 そのため、問題の局面では、後手が106手目に指すはずだっ
た、△6三歩をうっかり止めて、子供の頃のルールと錯覚して、
△6二歩と、香車の合い駒の歩兵を、自玉の直ぐ前に打ってしまっ
たのではないだろうか。

そうだとすれば、この将棋には、持ち駒ルールの変遷の歴史が
刻まれて居る事になり、たいへん貴重だ。

 なお、解説した勝浦氏は、そもそもその前の先手の▲6四香車
自体も、△6三歩を見落として打った手の可能性があると、指摘
している。ちなみに、初代大橋宗桂の方が、本因坊算砂より、更
に少し年上だ。
 という訳で、仮に持ち駒ルールが発生したのが、西暦1300
年頃と古かったとしても、禁手という細則に関して、一本化に
長い年月がかかり、そのため持ち駒ルール自体が、余り記録に
残されなかったとしたら、実際と比較的、残存している史料の
傾向が、合っていないだろうか。そもそも、普通唱導集の小将棋
の第2節の記載も、

平安小将棋の持ち駒ルールバージョンにしては、銀・桂交換で、
銀を失った側が、酷く落胆しているという、不自然さがある点

を、前に本ブログでは指摘した事があった。
 つまり持ち駒ルールは、

発生したのが西暦1300年より少し前でも、細則がほぼ一本化
されたのは、西暦1570年前後という事は、ひょっとして無い
のだろうか。

 たとえば、一乗谷朝倉氏遺跡では、西暦1560年代に、二歩
が、まだ出来る、持ち駒ルールで指されていたのかもしれないと
言う意味だ。
 そのような可能性に関する情報が、西暦1607年前後の、
江戸時代の日本将棋の棋譜に、かすかに残っている。その可能性
が、全く無いとも言えないような気が、この悪手に関して、私は
するとの印象を受けた。(2018/12/11)

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鎌倉市今小路西鎌倉福祉センター出土の中将棋木札は紛失!(長さん)

前に本ブログで大きく話題にした、表題の、鎌倉市文化財部に
本来保管されていたはずの、鎌倉市今小路西鎌倉福祉センター
出土の中将棋木札について、ここへ来て極めて、ショッキング
なニュースが入った。すなわち問題の、南北朝時代の中将棋の、
極めて貴重な、ルール情報が記載された疑いの高い出土木札を、
何と

鎌倉市は出土してから、かなり早期の段階で紛失していた

事が、最近判明したのだ!
 鎌倉市市役所の文化財部へ、問題の遺物の保管状況を、本ブ
ログの管理人が、少し前に問い合わせた所、上記の驚くべき、

公共財産の紛失の事実

が判明したのである。
 本遺物は、西暦1987年に出土したが、西暦1989年頃
に開催したという出土遺物の報告展示会で、存在が確認された
のを最後に、それ以降

鎌倉市役所では、行方がつかめて居無い

という事なのだ。
 常識的に見て、展示会の後片付けで、鎌倉市役所の係りによっ
て、正しく遺物が保管庫に、戻されなかったのではないかと疑
われる。だから、当時の展示会の関係者の責任が、今更ながら
ではあるものの、客観的に問われても仕方が無いのでは、なか
ろうか。
 将棋史の研究家が、こんなに大事な史料の存在に、発掘公開
から30年近くも経って、始めて気が付いたと言う事に対して、
ひょっとすると、我々にとっての”地底に棲む悪魔の加害者”
は、にんまりと笑っていそうだが。結局の所、これは、
鎌倉市の過去の行政が、一種の盗難事案を処理できなかった、
管理責任になると言う事に、間違い無いのだろうが。

全くひどい話も有ったものだと、私は深い憤りを感じる。

 以下は、裁判係争用の資料として、著作権は行使できないと
判断し、どの遺物かを明示するため写真で、本ブログの領域で
ある将棋史にとって、極めて重大な史料が、どれなのかをはっ
きりと示しておく事にする。つまり、窃盗に有った貴重品が
具体的にどれなのかを、

警察等に見届けさせるため

に特に、本ブログのこのページで、公開しているという意味だ。
盗難にあった、極めて貴重な出土品は、良く知られた成書、
”よみがえる中世(3)、武士の都鎌倉”平凡社 (1989)
の221ページの下にある、下の赤枠で囲った出土遺物である。

盗難木札.gif

 なお、話に聞いた、目撃された最後の展示会と、”よみがえ
る中世(3)、武士の都鎌倉”との出版が、同じ年なので、
鎌倉考古学研究所所員等を名乗る、執筆者のリストも、疑う訳
ではないが、以下に参考までに、本ブログでも、羅列しておく
ことにしよう。

大三輪龍彦(おおみわ たつひこ)鶴見大学教授(当時)
河野真知郎(かわの しんじろう)上智大学非常勤講師(当時)
斎木秀雄(さいき ひでお)鎌倉考古学研究所所員
手塚直樹(てづか なおき)鎌倉考古学研究所所員
原 廣志(はら ひろし)鎌倉考古学研究所所員
松尾宣方(まつお のりかた)鎌倉市教育委員会学芸員(当時)
馬淵和雄(まぶち かずお)鎌倉考古学研究所所員

 問題の遺物が、どうみても、南北朝時代から30年前の間に
盗難に合いそうな、金銭的価値の高い物品とも思えないので。
私物として、現在誤って返却を失念している、考古学に興味を
持っていたために、出来心でそうした御人が、もしどこかに居
るというのならば、速やかに、神奈川県鎌倉市の

鎌倉市役所文化財部に、上記史料は返却すべき

だ。(2018/12/10)

(付記)
鎌倉市役所の上記件の紛失発見担当者は、本ブログの公開から
10日以内に、同じ鎌倉市の文化財管理の責任者宛に、記録に
残る形で、紛失の確認と、その保管場所ないし、居所の変遷経緯を、
すみやかに届けるべきだ。でないと、文化財保護法ないし関連規則
の、有形文化財に関する保護の精神には、合致しないのは明らか
だからだ。(2018/12/11)

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鎌倉考古学研究所では現在、実質的研究が行われて居無いようだ(長さん)

成書、よみがえる中世(3)武士の都鎌倉で、前世紀の1989
年に、前に紹介した、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、
中将棋木札を紹介した、鎌倉考古学研究所(神奈川県鎌倉市岩瀬)
に、最近木札関連の問い合わせをした。前記成書では、少なくと
も前世紀の当時、複数の研究員が所属していたと記載されている。
 しかしながら、問い合わせの返事をもらったので読んでみたが、
考古学上の

個人または団体に対して、(現在は)助成できない

との旨の内容が書かれていた。
 そして恐らく、過去の鎌倉考古学研究所の、過去の研究成果を
まとめたものと見られる、

書籍の案内だけが記載

されていた。webの鎌倉考古学研究所のホームページを見ても、
近々のものに関して、考古学的な発掘活動のニュースのようなも
のは、特に記載されてい無い。よって、

恐らく鎌倉考古学研究所では、新たに集積されるという意味での、
考古学研究所的な活動は、今世紀初で終息しており、過去の活動
を記載した書籍の自販部だけが、現在も残存

している状況なのではないかと見られる。なぜなら、そうでない
としたら、研究所の現活動自体の、宣伝をするのが普通だからだ。
 前に鎌倉市役所の文化財部から”鎌倉考古学研究所は、今も活
動している”という旨を聞いた事がある。が私宛に届いた、前世
紀に活躍した研究所員の、遺族の手紙のような内容から察すると、

鎌倉市役所からの情報は、たぶん間違っているのではないか

と、少なくとも国内の遠方から見ると、そう見えた。
 とりあえず鎌倉考古学研究所とは、前世紀に盛んに活動し、一
例として冒頭の成書を出した団体と、私は把握して置く事にした。
(2018/12/09)

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今小路西鎌倉福祉センター中将棋木札。何故バージョン特定可能(長さん)

今の所本ブログの見解によれば、表題の神奈川県鎌倉市出土
の鎌倉~南北朝時代の、木製遺物、今小路西鎌倉市福祉セン
ター出土木簡は、推定南北朝時代に、いわゆる後鳥羽上皇の
時代から在る、今小路のゲームセンターでプレーする、中将
棋のバージョン情報を記載したものと言う事になっている。
 しかし、中将棋のルールを知っている者なら、狛犬、猛豹
が有って、”もうこ”が盲虎の駒の動かし方ルールであって、
猛虎では無いという記載だけからでは、余りに指定項目が
少なすぎて、これで中将棋のバージョンが特定できるという
事自身に関する、疑問がわいて来るに違いない。これなら、
現行の中将棋が、

獅子が有って、居喰いができ、特別の規則があると言う事と、
猛豹が有って、もうこが盲虎であるから、前升目を除く、隣
接7方向歩みという、3つの事項だけから、駒数多数将棋の
中から、現行の中将棋が特定できる

と言うのに、等しいからである。
 そこで今回は、以上のべたように、3項目という少ない要
素で、南北朝時代の駒数多数将棋の棋士が、今小路西の将棋
場で指されている将棋種を、特定できると考えられる理由を、
論題とする。回答を先に書いて、後で説明を加える。

中将棋の前駆体が、13升目108枚制の本ブログの言う、
普通唱導集大将棋であるから、それと比較するとこれで済む

と、考えられる。つまり

中将棋は15升目130枚制の後期大将棋から生まれたもの
ではない

と、いう証拠になり得る史料ではないかと言う事である。
 では、以上の結論について、以下に説明を加える。
本ブログの普通唱導集大将棋は、繰り返すと、5段目という
の中将棋でも同じ自陣段数の、仲人の段から下を書くと、
5段目を退ければ、以下のトランプの七並べのパターンで
52枚、それに2枚の仲人を入れて、以下54枚の駒が並ぶ。

口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛車
反車飛龍嗔猪猛牛猛虎麒麟酔象鳳凰猛虎猛牛嗔猪飛龍反車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

なお、玉将は、安土桃山時代に、双玉が水無瀬兼成等により
推薦されたと見られるが、鎌倉時代に親王将軍に転移した、
西暦1350年代から後は、しばらく王将と玉将一枚づつ
だったとみられる。
 既に述べたように、13升目が12升目になり、南北朝時
代に中将棋化が始まったとき、桂馬が消え、角行が下がった。
 そのとき、以下の平安大将棋の2段目を参照して、猛牛と
嗔猪も、二中歴の大将棋に無い駒と考えられて、取り除かれ
たと考えられる。

口口口口口口口口口口口口注人口口口口口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
奔車飛龍口口口口猛虎口口横行口口猛虎口口口口飛龍奔車
香車桂馬鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将桂馬香車

普通唱導集時代の大将棋の13升目が12升目になり、桂馬
が消え、角行が下がった図は、よって以下の通りである。

口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車横行堅行龍馬龍王獅子奔王龍王龍馬竪行横行飛車
反車飛龍角行口口猛虎麒麟鳳凰猛虎口口角行飛龍反車
香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なお、この時点で成りは、水無瀬兼成が安土桃山時代の、
将棋纂図部類抄で書いているように、麒麟、酔象、鳳凰が
それぞれ獅子、太子、奔王。それにもしかすると、歩兵が、
金将だったとみられる。

鎌倉市鶴岡八幡宮出土の、鳳凰や香車、歩兵で指せる形だ。

 実は、上記の配列を、飛車と角行の動きが、縦横と斜めで
対応している事から、竪行、横行、飛車を入れ替えて、猛虎
を盲虎に変えた

次の配列が、南北朝時代の、当時の将棋棋士には、
中将棋の標準形に見えたはず

口口口口口口仲人口口口口口口口口仲人口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
横行堅行飛車龍馬龍王獅子奔王龍王龍馬飛車竪行横行
反車飛龍角行口口盲虎麒麟鳳凰盲虎口口角行飛龍反車
香車鉄将銅将銀将金将玉将酔象金将銀将銅将鉄将香車

なのである。
なお、飛車の位置を入れ替えるのは、龍馬・角行筋が横行に
当たらないようにするためだったと見られる。つまり、獅子
や狛犬の有る中将棋では、駒の価値が、横行≧角行≧竪行で、
横行の価値が、守りの力が強いために、高いからである。
 以上は、

南北朝時代の中将棋の棋士には、ここまでは概ね、あるべき
姿としてのコンセンサスが、取れていた

と、考えられる。
 この形を頭に入れた上で、今小路西鎌倉福祉センター出土
中将棋木札の内容を考えると、そこでの中将棋のルールが、

1.獅子を狛犬に入れ替えること。
2.平安大将棋のように飛龍を使わず、猛豹にする事。
3.盲虎は、七方歩みである事を徹底する事。

以上の3点で、ゲームのパージョンが特定できることは、明
らかだと言う事である。
 逆に言うと、当時の中将棋棋士には、上記の形が標準形に
見えていたと言う事は、中将棋の元が130枚制の後期大将棋で
はなくて、本ブログの言う、平安大将棋により近いような、
13升目108枚制の、普通唱導集大将棋だったと言う事を
示していると考えられる。特に、後期大将棋と96枚制の、
古中将棋とで、2.で特定されるはずの猛豹は、どちらにも
有って、しかも位置が相似的な、2段目で似通っているため、
ゲーム・バージョンを特定するための、問題の木札に、”ま
うひゃう”の文字が出てくるはずは無いと考えられるのであ
る。そこで、少し前の、鎌倉時代後期の西暦1300年頃の
駒数多数将棋が、以下の15升目の後期大将棋ではなくて、

口口口口口口口口仲人口口口口口口口口口口仲人口口口口口口口口
歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵歩兵
飛車飛龍横行堅行角行龍馬龍王奔王龍王龍馬角行竪行横行飛龍飛車
口口猛牛口口嗔猪口口悪狼麒麟獅子鳳凰悪狼口口嗔猪口口猛牛口口
反車口口猫叉口口猛豹口口盲虎酔象盲虎口口猛豹口口猫叉口口反車
香車桂馬石将鉄将銅将銀将金将玉将金将銀将銅将鉄将石将桂馬香車

13升目108枚制の普通唱導集大将棋(本ブログ版)であ
るという事の、証拠という点で、

普通唱導集の大将棋の第2節で、仲人段が桂馬で支えられる
ように、5段目になければならない事

に加えて、事実上、新たな証拠が加わったという事になる。
だから、大将棋の歴史を考える上でも、極めて重大な結論が、
この新たに解読された木札の記載内容から、間接的に導かれ
ると、言う事になるのである。(2018/12/08)

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中将棋の最下段配列。誤写二中歴記載の大将棋と類似の理由(長さん)

良く知られているように、江戸時代の加賀前田藩筆者の二中歴の
大将棋の配列には、銀将がダブっていて、桂馬が抜けているとい
う、誤写がある。ただし、飛龍の位置の説明で、桂馬が基準位置
を示す駒として記載されているため、平安大将棋のルールの推定
に、影響が無いという見かたが一般的だ。
 ところで、この桂馬が無いパターンは、中将棋の初期配列の最
下段に、桂馬が無いのと共通している。今回は、これが偶然かど
うか、何か関連があるとすれば、何故なのかを論題とする。
 回答を先に書き、説明を後で書く。

かなりの率で、中将棋が成立する前に問題の誤写が発生し、関連
性が発生していると考える。

 すなわち、たまたまの誤りが、中将棋の最下段配列に、桂馬が
無くても良いという、一つの口実を与えた。その結果、大将棋か
ら中将棋への転換が、よりスピーディに起こった。結果として、
現在の駒数多数将棋は、余分なら、桂馬を除いてよいという理由
付けが発生したために、誤記した配列と、デザインされた中将棋
の形が近似し、

駒数多数将棋の代表は、現在専ら中将棋の状態になった

と考えられる。
 では、以下に説明を加える。
 12升目の駒数多数将棋が発生した、ゲーム性の観点からの原
因は、本ブログで前に述べたとおり、龍馬角行筋を、左右で筋違
いにし、相手陣の攻撃点が、集中しないようにするためと見られ
る。その際、中国の易経の九星占いの図に対応するように、将棋
盤を、等間隔に3つに区切り、4升目ごとに聖目を付けて、12
升目の12が一年の月の数や、12支の数と同じな事をも主張し
ながら、ゲーム形としての、標準的な文化との同一性を、主張し
たと見られる。
 しかし、駒の配列は、普通唱導集時代の大将棋に、近似させた
方が、普及からは有利なため、そのようにしたと見られる。その
とき、13升目の平安大将棋や、普通唱導集時代の大将棋から、
12升目に転換させるためには、最下段に関して、桂馬ないし、
香車を抜いてから酔象を入れ、2段目の猛牛と嗔猪は抜いてから、
三段目歩兵下の段の角行を、2段目に落とせば、獅子が余分に入
るようになって、だいたい今の中将棋の形になるのは明らかだっ
た。だから桂馬を抜く事は、普通唱導集大将棋の第2節の定跡を
やめさせる結果にもなるため、最初から中将棋のデザイナーは、
そうするのが当然のように、考えていた事だったに違いない。
 が、普通唱導集時代の、

大将棋を温存しようとしている、保守的なゲーマーを説得するに
は、二中歴の大将棋に誤写が有れば、ゲーム性からの改善の理由
付けとは別に、絶好の正当化の口実となる

のは、明らかだったように、少なくとも私は考える。
 結果として、たまたま

中将棋が成立する前の鎌倉時代に、二中歴の大将棋の初期配列の
最下段の説明で、桂馬を落とす誤写があった

おかげで、

南北朝時代の12升目化への転換は、スムーズに行ったのではな
かろうか。

 そう考えると、たとえば前に紹介している、今小路西鎌倉福祉
センター出土の、中将棋のバージョンを指定する木札に、指す中
将棋に桂馬が無い事が、何処にも書いていない事をも、すんなり
説明できるように思える。二中歴が正しいという信仰を逆手に取
り、最下段は、玉や太子駒、金将、銀将、銅将、鉄将、香車と、
桂馬を除いて並ぶのが、正調の平安時代の大将棋だと、言いくる
める事が、中将棋の成立時、一応できた。そのため、桂馬の有無
を、バージョンを特定するときには、言及していないのであろう。
 だから、振り返れば、単なる幸運という事に過ぎないのだが。

中将棋が今の配列なのと、二中歴の大将棋の記載に間違いがある
のとは、結果として制圧したゲーム種が、中将棋だった理由とい
う意味で、大いに関係が有るのではないか。

以上のように、少なくとも今の所、その可能性は完全には否定で
きないとの疑いを、私は持っているという事である。(2018/12/07)

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今小路西鎌倉福祉センター出土木札。なぜ文字がひらがな書きか(長さん)

今小路西の鎌倉市福祉センターまたは、鎌倉市の”社会福祉センター”
の地面から出土した、南北朝時代のものとみられる、中将棋の変種
のバージョンを表記したように見える木札は、変体仮名まじりのひ
らがな書きだったとみられる。それと、左右に分かれた木札が、運
悪く、上下に接着されてしまったために、解読が遅れ、木簡自体の
存在が、広く社会に成書で公開されてから、30年も経った今、よ
うやく解読不能と考えない、本ブログの管理人が出現するに至った。
 ではそもそも、なぜ遊技場の、中将棋ゲームを仕切っていたとみ
られる、鎌倉時代の今小路の遊戯場の管理者は、

志ろいぬ。もうひょう。もうこ波、(近)くへ行が、上わゆけ無い。

等とは問題の木札には書かずに、

白犬。猛豹。盲虎波、(近)くへ行が、上わゆけ無い。

等と、後世の木簡研究者等が間違えないようには、書かなかったの
だろうか。以上を今回の論題とする。
 答えを先に書いて、後で説明を加える。

広い遊戯場(ゲームセンター)の部屋の隅からも、読めるように
ひらがなで書いたと見られる。

 では以下に、説明を加える。
 まず、この中将棋には、飛鹿、飛牛、奔猪、飛鷲、角鷹、白駒、
鯨鯢等の、現在の中将棋に有る大部分の成り駒は、まだ無かった
とみられる。しかしながら、それでも駒種類は玉将、金将、銀将、
銅将、鉄将、酔象、香車、麒麟、鳳凰、猛豹、反車、獅子、狛犬、
奔王、龍王、龍馬、飛車、角行、堅行、横行、歩兵、仲人、太子
と23種類程度有り、平安小将棋の6種類の4倍弱に達したと考え
られる。なお狛犬と鉄将は、後に中将棋からは消えた。だから元々、

漢字が読めないゲーマーには、ゲームができるとは考えにくい。

よって、”ひらがな”しか読めない人間のために、わざわざ仮名を
多くした”中将棋の、ゲームバージョン情報案内の看板”を、ゲー
ムセンターの管理人が立てたとは、このケースに関しては、とても
考えにくい。
 他方、当時の今小路西の遊戯場(ゲームセンター)は、今の施設
に比べて、かなり狭かったとは考えられる。が、裕福な武家の屋敷
を間借りするなどし、将棋や囲碁、盤双六、サイコロ賭博等が、盛
大に行われていたのではないか。従って、中将棋を指すコーナーは、
たたみ10畳ないし、それ以上のそれなりの広さの所で、何面かの
中将棋盤を置いて、行われていたのではないかと当然考えられる。
 恐らく、競技する中将棋の問題の、バージョン情報案内版として
の木札は、壁の少し高い所に、棚を作って置くなどしていたに違い
ない。その際、棚から遠い方の、中将棋盤のゲーマーからも、記載
内容が判るように、字画の少ないひらがなで、内容を書いたのでは
ないのだろうか。
 すなわち、漢字で書いてしまうと、特に猛豹が、猛豹だか猛牛だ
か、猛狼だか、少し離れて見ると、何だか判らなくなってしまった。
そこで、判読できないために、木札を置いただけ無駄だったという
結果を防ぐために、猛豹は”もう(ー)ひょ(や)う”と書いたのだろう。
 もしかすると、もう一つ理由があって、用意された中将棋の将棋
駒に、古いタイプのものが混じっていて、盲虎が、盲虎表記だけで
なく、猛虎の古い表記の遊戯駒があったのかもしれない。そこで、
盲虎と書かずに、”も(ま)うこ”と書いて、”用意した将棋駒が
盲虎の場合も猛虎の場合も、この遊戯場(ゲームセンター)では、
七方歩みの動きですよ”と表現し、間違いや、ゲーマー同士の喧嘩
が起きないように、しようとしたのかもしれない。
 公平に見れば、”ひらがな”なら字画が少ないので、遠くからも
目立つという、最初に述べた理由が最も確からしいとは思うのだが。
 現物がイメージ通りで、小型の木札だとしたら、以上の解釈で、
ほぼ間違いないのではないかと、私は思うのだがどうだろうか。
(2018/12/06)

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歩兵の歩の少の部分の、3画目が外側にある書体の正体は何か(長さん)

前に将棋出土駒の歩兵の、歩の字の少の部分の、第3画目が有る
のは、平安時代には今と同じになった、新書体であるとの話を、
諸橋徹次の大漢和辞典を参照して、本ブログで論じた事があった。
 出土駒は概してカスレていて、はっきりしないものが多いが、
その他の書体としては、表題のように、歩の第3画目が、右に
大きくはみ出した書体もあり、今は見かけないため、比較的目立っ
ている。
 成書に良く出てくる例では、興福寺出土木板の、五角形で囲わ
れて居無い面の方の歩兵の字の歩がある。その他、天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒には、大宰府より出土した、桂馬・香車・歩兵
木簡の歩兵の歩の字とか、岩手県平泉町の、柳之御所遺跡の歩兵
の歩の字とか、全国に散らばって、少の部分の第3画が右に出た
歩兵駒が出土している。書名を忘れてしまったが、

増川宏一氏が彼の成書で、この、今とは違う歩の書体を問題提起
された事があった

と記憶する。彼の見解ははっきりとは、書いていなかったと思う。
 そこで今回は、この歩の変形書体に見える、出土駒独特の字が、
何なのかを論題にする。
 答えを最初に書くと、
成書、”文字と古代日本5 文字表現の獲得”吉川弘文館
2006年、平川南他編書、深津行徳(執筆)によると、

6世紀前後に成立の、”正倉院蔵の新羅村落文書”の中の歩の字
と、字体がほぼいっしょの、古代正式文書の楷書の歩の字

であるとの事である。
 紹介した新羅村落文書の内容からみて、荘園の荘官等が、記録
文書に使う、長さや面積の単位に出てくる歩の字を、歩兵駒の字
書き師が見て、写したと考えられる。よって、

古代末期の、地方役人にも将棋を指す者がおり、そうした階層と
係わりのある駒師が、各地の将棋場に居て、字体を真似た

と考えられる。
 では以上につき、多少補足説明する。
 まずこの書体は、日本でも平安時代10世紀頃には、新撰字鏡
の”少”の部分の有る漢字に出てくる等、歩の字の表現としても

公式文書に使われる、歩の形の一種

だったようだ。だから、将棋駒だけに使われる、独特の歩の字で
は無いようである。この書体は、冒頭で述べたように、古代末期
の遺跡よりの出土将棋駒の歩兵で、幾らか見かける書体であるが、

時代が下っても幾分か使われ、例えば一乗谷朝倉氏遺跡の歩兵駒
にも、このタイプが2~3枚出土

している。従って古代から有る書体なので、たまたま、この歩の
書体を知っている将棋駒の駒師が、全国アトランダムに居て、
部分的に、この書体で歩兵の字を書いたという、ほぼそれだけの
事のように、少なくとも私には見える。
 ただし、個別の駒師の情報源は、近くの荘園の年貢記録の文書
とか、そのような類なのであろう。だから、既に11世紀には、

興福寺のような寺院や、大宰府のような武者の詰め所だけでなく
て、地方の荘官クラスの居る城館の、将棋場でも将棋が指された

事を、間接的に示しているのかもしれない。
 何れにしても問題の”歩”は、妙な書体ではなくて、朝鮮半島
では、チャトランガがインドで成立した頃の古代から、正式文書
に使われた、計量単位の”歩”の字等が起源の、その模倣と見ら
れる、字の形のようである。(2018/12/05)

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豊臣秀吉は、何を考えて玉将/王将を大将に変えようとしたのか(長さん)

豊臣秀吉と将棋との関係と言えば、日本将棋の変種である、
大閣将棋と、表題の”玉/王駒を大将に変えろ”との発言で
有名である。水無瀬兼成が、豊臣秀次が助成して、玉駒が
双玉将の、将棋纂図部類抄を著作した、西暦1592年頃か
ら約3年たった、西暦1595年宣明暦5月5日の、朝廷の
女官の日記、”御湯殿上日記”に、秀吉の大将駒の提案に関
する、朝廷への報告の記録が載っているのが、元史料である。

なお変更前の駒”わうしやう”は、玉将ではなくて、王将

であると見られる。
 これ以上の事が、少なくとも私には判らないが、安土桃山
時代までの、京都からの出土駒に今の所、玉将が無い所をみ
ると、大坂府島本町付近に在住していたとみられる、水無瀬
兼成の将棋纂図部類抄の玉駒表現が、全部玉将であるという
事に関して、”王将で無いのは何故か”というニュアンスで
の朝廷からの問い合わせが、水無瀬兼成の監督者と見られて
いた、豊臣秀次等宛てに有ったのだろう。そのためその返事
を親分格の、

豊臣秀吉が、京都の朝廷へ使いを出して、回答を伝えたとい
うような、感じの日記の記載

のように思える。
 では、豊臣秀吉は、玉将・王将以外で、何かネーミングを
する必要があったと見られる、将棋の玉駒を

大将がよいであろうと豊臣秀吉名で述べたとされるのはなぜ

であろうか。以上を、今回の論題とする。
 回答を先に書いて、説明を後でする。
 恐らく、豊臣秀吉は

大坂に幕府を開く事を、真剣に考えていたので、大坂の将の
洒落で、大将という名称を考え出したのではないか

と、本ブログでは考える。では、以下に説明を加える。
 少なくとも、朝廷へ豊臣秀吉が、将棋の玉駒に関して、考
えを述べる、使いを出している事実が、御湯殿上日記に記載
されているという点は、史料として

たいへん貴重なものと言わざるを得ない

と私は考える。
 なぜなら現実、京都府から王将駒以外の将棋の玉駒は、未
だ全く、出土していない。だからその謎を解くための、少な
いヒントの一つとみられるからだ。
 他方、後奈良天皇が詔で”酔象を除いて日本将棋を指せ”
との命令を出している事は、複数の江戸時代の文献に記載が
あり、また一乗谷朝倉氏遺跡の酔象駒の出土が有る以上、事
実の可能性が極めて高いとみられる。つまり、少なくとも、

日本将棋の周辺の、小型の将棋のルールのうち特に、構成駒
の内容に関して、戦国時代には、朝廷が介入する事があった

とは、言えるのではないかと私は考える。豊臣秀吉の大将発
言は、配下の大名を集めた宴会等で、余興で出しているもの
ではなく、朝廷へ報告しているというスタンスのものである。
だから、

将棋のルールは、安土桃山時代の時点でも、朝廷に、形式上
かもしれないが、管理の権限があった

と考えるのが、自然なのではないか。
 そして朝廷は、将棋のルールの詔関連の記録が、今では行
方不明となって、経緯に関する証拠が、全く無いのが、甚だ
残念だが

それまで、玉駒は王将一本であるべき

との立場を、恐らく貫いていたのではなかろうか。それが、
豊臣秀吉の家の秀次の、お抱え貴族である、藤原氏流水無瀬
家の、水無瀬兼成によって、公然と双玉が推薦され、水無瀬
作の将棋駒も、京都市中へ出回るようになり、朝廷内でも、
近衛信伊や雅朝親王等が購入し、後陽成天皇自体も目にする
までに、なってきたのだろう。そのため、力関係では、
武家の豊臣にはその時代は、とてもかなわないとはいえ、
対面上、双玉推薦に関する見解の問い合わせを、天皇の名で、
豊臣秀次等へ一応したのであろう。
 そして豊臣家では、秀頼が水無瀬駒を多数購買していたが、
豊臣秀吉が、水無瀬兼成駒を購入したり、兼成を直接抱えて
いるわけでもなかった。また、将棋に関する秀吉の興味度に
ついても、秀吉自体、大閣将棋の事実上の下手を持って、将
棋家の者と、たまに将棋を指す程度の、低い棋力だったので、

豊臣秀吉は、公平な第三者の立場に近いと評価されるだろう
と、豊臣家では考えたのだろう。

”それなら王将でも玉将でもなく、第3の大将が良いではな
いか”と、第三者としての私見を京都の朝廷に、秀次からで
はなくて、秀吉の方から伝えたのだろう。なおこの時点で、
豊臣秀次が切腹する、2か月ほど前の事であった。豊臣秀吉
は、大坂に幕府を開く事を、この頃真剣に考えていたのであ
ろう。

 しかも、唐突ではなく、秀吉の回答の発進地は、その大の
付く地名、大坂からであった。

 合戦を模したゲームの、玉駒が征夷大将軍であるのは自然
で、自分が征夷大将軍格。その自分は大坂に居るから、大坂
の将で、大将ではどうですかと、

豊臣秀吉としては、自分の野望もこめて、朝廷にはさらりと
返事をしたつもり

といった所なのではなかろうかと、私には思える。つまり、
大江匡房による標準平安小将棋の設定を発端とする、朝廷と
藤原家との間の古代、西暦1080年からの軋轢等に、豊臣
秀吉は、西暦1595年の時点で加わるつもりは当然無く、
恐らく仲裁するつもりで述べた、私見が伝わっているのであ
ろう。なお事の発端の、将棋史の内容については、秀吉は一
例として、水無瀬兼成本人の家伝にあるのを、人づて等で、
本人から聞き取ったと見られる。
 大将は武家専門の言葉であるから、主張してみた所で、
京都の公家の間で流行るのかどうかは、謎であるのだが、

豊臣秀吉は、彼なりに良く考えて、”そこそこ”の答えを
発している

と、私は個人的には、この答え方を一応評価している。
 つまり大坂幕府というのが、もしこのあと成立していたら、
日本将棋の玉駒は、玉将、王将の他に、大将のケースが在り、

天竺大将棋の攻め駒の大将は、別の名称にしなければならな
かった

のかもしれないと言う事であろうと、私は考えるのである。
(2018/11/04)

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将棋の駒の飛の字の草書。いつも”十九”の縦続け字なのは何故(長さん)

出土駒を見始めた2年位前には、岩手県平泉町の志羅山遺跡の
両面飛龍駒の草書を、簡単にそう読んだ、木簡の字の解読の専
門家に関心したものだった。しかし、出土駒を見慣れてくると、
草書体に慣れていなくても、出土駒の字に見慣れていれば、こ
の駒の字は、簡単に読めるのが当たり前だと、思うようになっ
た。元々、飛龍の飛の字も、龍の字も、飛車と龍王・龍馬に有
るという事は、そうなのだが。実は、表題に書いたように、

草書の飛という字には、いろいろな字体があるにも係わらず、
将棋の駒では、ほぼ似たような形でいつも、書かれている

という事実があるのである。ここでは、”縦に十九と続けた形”
と、仮に将棋駒書体”飛”を、表現しておく。だから、書道で
草書を知っている本物の専門家には、余り見かけない、将棋駒
の飛の字の解読は、かえって困難だったかもしれないのである。
 今回は、場所や時代や、将棋駒に草書体で飛が使われる頻度
に関係なく、飛の字の将棋の駒の草書が、いつも”十九”の、
縦続け字なのは、何故なのかを論題とする。結論から書いて、
説明を後でする。

”縦続けの十九の飛”が、古代~中世の日本人には、兵器とし
て、強そうに見えたから

だと考えられる。ただし、今の日本人の我々に、現実にその感
覚が判らないため、

注意した方が良い、将棋駒の字体

だとも考える。特に、平泉町志羅山遺跡の

両面飛龍駒は、その時代の駒でも楷書が普通と考えられるため、
他の十九飛の字駒との関連性が薄いと見られるだけに、要注意

と私は見る。
 では、以下に説明を加える。
 所詮日本は、国土が狭いため、将棋駒の字体に関する情報は、
数十年という時間のオーダーで、何れ全国に行き渡ると見るの
が自然だと考えられる。だから、

1.平安時代末期に、岩手県で飛龍駒の飛が縦十九の続け字型。
2.15世紀末頃に、静岡県で飛鹿駒の飛が縦十九の続け字型。
3.16世紀半ばに、福井県で飛車駒の飛が縦十九の続け字型。

なのだが、お互いに情報が伝播できない時間ズレの量では無い。
なお、静岡県の例とは、焼津市の小川城跡の中将棋駒、福井県
の例というのは、一乗谷朝倉氏遺跡のオモテ面が草書の飛車駒
の事である。
 特に、2の静岡県の例は、公家の能筆家が、飛鹿や飛鷲の書
体を、縦十九の続け字の飛で書いているので、3の朝倉館の書
き駒師が、その情報の伝播によって、飛車の字を、普通は楷書
なのに、ほんの一部だが、草書で書いたときに、同じ字体にマ
ネしそうである。そもそも、全国的に歩兵の字を書くとき、歩
の最後の画と、兵の最初の画を続けてしまうという特徴が、地
域に無関係に存在する。この書き方は、興福寺出土駒から、一
乗谷朝倉氏遺跡駒まで、連続的に存在する。この事から見ても、
日本程度の狭い国土では、字体が、体裁が良いと見られるよう
になると、全国的に同じ字体になるのは、当たり前である事を
示しているように思える。
 ただし、問題の縦に続ける十九の飛が、平泉町の志羅山遺跡
の駒が起源とは、どうみても考えられない。京都の雰囲気を真
似て、気まぐれに草書の飛龍駒を、平泉では少数作成した秘蔵
駒のようにしか、見えないからである。つまり、特定の将棋種、
たとえば平安大将棋の駒は、全部両面草書で書いたという説は、
絶対無いとは言えないものの、古代末期の小将棋の遺物に、そ
の類例が見当たらないため、今の所考えにくいと言う事である。
 残りの2つの史料については、焼津駒の字書き師が、戦国時
代の京都の公家の書体を真似たのが、起源だろう。たまたま、
縦に続く十九の飛は、将棋駒に相応しい書体に、戦国時代には
見えたのだろうと、想像される。
 だから、種類のたくさんある飛の草書から、平泉町の飛龍駒
の書体が選ばれるとすれば、

我々草書で字を書く習慣がほとんど、無くなってしまった現代
人には、全くピンと来ないのだが、縦に続く十九の書体の飛は、
他の飛の書体に比べて、兵器としてよほど強そうに、古代末期
から中世までの日本人全てには見えるらしい

と仮定する事によってしか、1と2~3との間の、良く似た書
体の性質は、説明できないような気がする。実は、志羅山遺跡
出土の飛龍は、12世紀ではなくて、16世紀だったと極端に
遅く変えたら、その頃には縦に続く十九の書体の飛を、いつも
使っていたと考えれば、矛盾は消えるのかもしれないが。
 従って今の所は、飛の書体が、産地や年代に余りよらずに、
縦に続く十九の書体の飛であるのは、戦争駒のイメージに相応
しい書体であるだろうからであり、

そうでないとしたら、何らかの重大な情報を含んでいる

との、警戒心を持ちながら認識しておく必要があると、今の所
は私は、考えている。そんな状況なのである。(2018/12/03)

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