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(御断り)ブログの本文中の、来年初の挨拶省略させて頂きます(長さん)

本ブログは、管理人の性格が気分屋だった関係で、論題の
カテゴリーが、一まとめではなく、バラバラになっている。
 そこで意味のあるコンテンツにまとめるには、いつの日
にか、並べ替えて、カテゴリーごとにセクション付けする
作業が必要だ。
 そうしてカテゴリーごとに、内容が並んだときには、た
またま年初に当たった記事は、章の中の中間に存在する事
が多いだろう。そこで、年初の挨拶が、章の半ばにポコッ
と出てくるのも、まとまりの有るコンテンツとしては、不
自然だ。以上の事情で、少なくとも2019年の、
年初の挨拶は、恐縮ながら、遠慮させて頂きたく希望する。
 おかげさまで本ブログは、2018年は年末まで、更新
されないブログに陥る事は、何とか避けられた。一番の要
因は、読んで下さる方が、おられたためである。だが特に、
今回の場合は、それにプラスして、次の要因が加わった。
つまり再三出てきた、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡か
ら出土した中将棋木札が、たまたま鎌倉市市役所が、紛失
していた、皮肉にも、そのおかげだった。それで書く内容
が、正直だいぶん増えて、力の無い私は、だいぶん助かっ
た。この事件が無かったら、年末まで、本ブログを持たせ
るのは、実際より、かなりきつかっただろう。
 事実、神奈川県鎌倉市御成町の、鎌倉市市役所近傍、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土中将棋木札の紛失の
悔しさから私には、自然に後から後から、文が湧き出て来
た。そのため、2018年の12月に入ると、本ブログの
年内の継続については、楽勝ムードが漂い始めていた。
 そのような、つかの間の事情も有ったが、大きく見ると、
遊戯史学会の解散という、本ブログにとっては、喪中のよ
うな出来事が、今年は年末に、予定の事とはいえ発生した。
 私的に、身内に不幸は無く、2019年の年賀状は、い
つも通りに作成した。しかし、このブログにとっては、
遊戯史学会が無くなったという事実は、やはり身内の不幸
に近い事柄であろう。だから2019年の新年の挨拶は、
このブログとしては、当座控えたほうが無難と言うもので
あろうと考える。それもあり来年の新年の挨拶は、本”だ
い将棋のブログ”に於いては、遠慮させて頂くことにした。

では皆さん、良い御年を御迎えください。(2018/12/31の2)

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南北朝期今小路西中将棋の狛犬交換原因。獅子の特別規則の定義(長さん)

前に述べたように、本ブログでは、今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡で西暦1987年に発掘された木札の、出だしが狛犬(志ろ
いぬ)なのは、中将棋の獅子に関する特別規則で、着手の合否判
定が微妙なケースに、将棋棋士の間でトラブルになり、あるいは、
刃傷沙汰になったケースがあったため、それを教訓にして、南北
朝時代の、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターでは、獅子の
所に、特別規則の無い狛犬を入れて指すシステムに、変えたため
だろうという事であった。つまりそれで今小路鎌倉市福祉センター
遺跡で発掘された、中将棋木札の内容は、つじつまが合っている
という事である。
 ここでは、本ブログなりに、問題にしている”中将棋の獅子に
関する特別な規則”の中身を、以下、次回以降の考察で見通しが
良くなるようにするために、より正確に定義しておこうと思う。
 ただし、南北朝時代の今小路西御成小学校ゲームセンターで問
題になった、中将棋の獅子に関する特別な規則が、正確に判るア
テは無い。あくまで、今後の議論の見通しをつけるために便宜上、
判りやすくして置くだけのものである。
 そこで、具体的に中将棋の獅子の規則だが、次の4つの細則の
和だと見るのが、現在定説で間違いないと考える。
1.相手の獅子の位置に、別の駒が利いているとき、自分の獅子
を、相手の2升目先から移動して、相手獅子を取ってはいけない。
なお、隣接升目から取って、2歩目に別の場所に逃げて、相手が
返し取りが出来ないケースは、相手獅子を取っても良い。(足の
付いた獅子を、獅子で取る事の禁止則)
2.1のルールについて、本来禁手となるケースあっても、歩兵
と仲人以外の駒が、自分の獅子の第1歩目で取れ、2歩目で相手
の獅子を取る、2枚取りのケースは、別の相手駒が利いている
相手の獅子を、自分の獅子で取る事ができる。(付け喰い例外則)
3.自分の獅子に相手の駒が当たって、獅子取りを相手から宣言
されている状態で、相手の獅子に対抗して獅子取りを掛けても、
相手の獅子に繋ぎ駒が付いている時には、相手が自分の獅子を取っ
たすぐ後の手で、相手の獅子を別の所で、直ぐに取り返して、イー
ブンにする事が出来ない。イーブンにしようとするなら必ず、
相手獅子を取り返す前に、一手別の手を指さなければならない。
次いで相手が、相手の獅子が取られ無いようにするような手立て
を、特段打たなかったときだけ、更に次の自分の手で、相手の
獅子を取って、イーブンにする事ができる。(先獅子の規則)
4.3の規則が適用されそうではあるものの、2の付け喰いの
ケースで、相手が繋ぎ駒が付いているにも係わらず、自分の獅子
を付け喰いの例外則で取った場合は、3の先獅子の規則は適用さ
れずに、ただちに相手の獅子を、自分の獅子に利かせていた駒で
取り返して、イーブンにする事ができる。(獅子討ちの規則)
 なお、本ブログでは前に述べたが、1~4の”獅子に関する
特別な規則”は、元駒の獅子が、12升目型の駒数多数将棋に取
り入れられ、中将棋が発生した当初から、最初から有る規則と考
えている。
 ルールの説明は、以上である。
 なお、上記の内容について、”厳密には、少し違うのではない
か”と見た方は、たぶん

冒頭で述べた、”刃傷沙汰仮説”を支持してくれるだろうと、私
は期待している。

 特に、”繋ぎ駒”とか”足”とかいう類の言葉を正確に定義す
ると、中将棋の獅子に関する特別な規則の”繋ぎ駒”とか”足”
の言い方は、中将棋では獅子が、片方に正確には2枚有るので、
トートロジィとなる恐れが、考えられる事は確かだ。
 ところで、では、今小路西御成小学校遺跡で指された、
狛犬型中将棋の問題を考える際の、”獅子に関する特別な規則”
の、議論を見通し良くするため、

1~4だけ、”獅子に関する特別な規則”と呼んでいて、それだ
けでで良いかと言うと、違うと思う。

理由は、

獅子と獅子の直接的な取り合いに関するという点では、3が異質

だからである。そこでここでは、”直接対決する獅子に関する
特別な規則”を新たに定義し、さしあたり、3の先獅子の規則を
取り除いた

1+2+4の意味としよう

と、私は考えている。
 つまり3の先獅子の規則は獅子の互い取りであっても、敵味方
が別々な駒で、互いに相手の獅子を狙っている場合に主に適用さ
れる。つまり、

3の先獅子は、続けざまの着手という、別の観点の規則と取れる

からである。その点は前に述べたが、近世と近代とで解釈が違い、
近世の文献の解釈の方が明確で、本ブログの解釈は、近世の解釈
にむしろ近い。
 南北朝時代に、今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターに於い
て、合否判定の、あいまい性が問題になり、
今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋木札の記載で、
しょっぱなに”志ろいぬ”と記載させたのは、1~4の部分要素
が全て有った、”獅子に関する特別な規則が問題”だったと、
とりあえずは、考えるのだが。
 その中で要素3のルールは、残りのルールよりも、いくぶん後
になって、むしろ獅子の中将棋棋士やデザイナーが、3の先獅子
の規則を考え付いたからこそ、狛犬の中将棋はその後に、せっか
く考え出せても獅子の中将棋に、最終的には駆逐されたのかもし
れないとも、考えられる。以上のような、漠然とした予想が、本
ブログの管理人には、更に有るからである。もっとも、3の形で
狛犬をも、敵味方が別々な駒で、それぞれ相次いで狙う手も指せ
るので、獅子と狛犬とで、条件が違うのかどうかは、本ブログの
管理人には、今日の所は謎なのではあるが。
 とりあえず次回以降、少しの間、以上のような見通しと言葉の
定義をした上で、やや気楽に、中将棋について考察して見たいと、
今の所考えている。(2018/12/31)

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鎌倉市市役所隣の中央図書館。1987年頃の発掘報告書は無い(長さん)

少し前に、神奈川県鎌倉市の市内出土物の文献の所在について
人づてに私は調査してもらった事がある。さいきん調査の結果
の連絡文を読み直して、表題に書いた内容が、書いてあるのに
気がついた。

結論を述べると、西暦1995年以前に関しては、鎌倉考古学
研究所の発掘結果の報告は、市役所の文化財課に対してするだ
けで、更に”発掘報告書”自体が、一般人の目に止まる形で、
たとえば鎌倉市の手で、増刷される事は無かった

ようである。
 神奈川県鎌倉市の市役所に隣接して、鎌倉市には中央図書館
がある。そこの2階に”郷土資料室”が有ると私は、報告者の
知人から聞いているのだが。それによると、最も古い史料が、

”かながわ考古学財団調査報告(1995)”だ

という話だ。つまり、西暦1987年の、本ブログで再三述べ
た、今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の、中将棋木札の、
発掘時の報告に代表される情報に関して、鎌倉市より市民に対
しては、

鎌倉市教育委員会等または、鎌倉考古学研究所、以上の発行の、
発掘報告書類は、見やすい場所には、大量には公開していない

という事だとみられる。なお、報告してくれた知人は、その後
引っ越したが、元鎌倉市民だった。
 史料を見たければ、隣の建物に、文化財課が以前よりあった
とみられるため、報告書は、そこに問い合わせば良いと考えた
という事だろうか。逆に言えば、発信された情報が少ないため、

神奈川県の考古学財団が介入するまでの、古い史料情報につい
ては、鎌倉市市役所内の、文化財課に情報が残っていなければ、
隣接する鎌倉市中央図書館へ行ったとしても、ほぼお手上げ

の状態のようだ。しかし神奈川県も、さすがに、これではまず
いと見たのだろう。1995年(平成7年)頃、考古学財団を
使ってテコ入れしたので、1995年以降の鎌倉市の出土史料
については、比較的目に付きやすいところに置いてあるという
のが、人づてに私が聞いた内容という訳である。
 なお、1987年~89年頃にかけて盛んに行われていたと
みられる、鎌倉市市役所近傍についての、今小路西御成小学校
遺跡等の発掘については、

鎌倉考古学研究所が、よみがえる中世3武士の都鎌倉以外にも、
少なくとも1冊、成書を発行して啓蒙していたとの情報がある。

 鎌倉考古学研究所は結局の所、発掘成果に関する一般啓蒙書
を、恐らく”餅は餅屋の役割の分担”の考えで、前世紀に複数
出したようだ。
 だが”発掘報告書は市役所対応のための書類、それから先は、
市役所の仕事”という認識が、当時はよほど強かったのだろう。
彼ら自身が、鎌倉市の対応のマズさに気がついて、ただちに

1980年代の発掘に関して、じまいで、専門的な発掘報告書
を一般の研究者向け等に、目に付くように出す事はし無かった

と、図書館の蔵書の内容からは見てとれる。従って今回問題の
中将棋木札のように、記録物が、成書にかすかに残った写真以
外に、たまたま事実上無い、すなわち、鎌倉市市役所に対して
の発掘報告書の中に、万が一抜けがあったりすると、

鎌倉市市役所の近傍の将棋史研究者を除いて、瑕疵に気がつか
ずに放置され、例えば今回のように30年経った後で、誰かが
たまたま運良く気がついても、発掘作業をした河野真知郎氏に
連絡がつかないと、それで終わり

になりかねない状況のようだ。鎌倉市と言えば、かなり前から、
史料がたくさん出土して、研究資料が豊富な場所とのイメージ
が強かったが。実際には、ここの文化財行政は、前世紀の
1995年より前には、かなり御寒い状況のよう、だったらし
かった。
 平成も間もなく終わる。ので昭和から平成の切れ目に発掘さ
れた、本”中将棋木札”に象徴される、このネガティブ状況は、
次の時代には改善されて、”少なくとも日本の遺跡発掘遺物に
関しては、今じゃ考えられないような不祥事”と言われるよう
に、当然なってほしいものだ。(2018/12/30)

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鎌倉時代の今小路の順位戦。今の将棋連盟の日本将棋とは違う(長さん)

これまでの所、本ブログでも定説とも一致する為、鎌倉時代
の今小路殿の御所での、平安小将棋類の順位戦の解釈は、
現代のA~C2組の、日本将棋連盟内での、プロ棋士の順位戦
の類を想定してきた。
 しかしながら元史料の大日本史料の1221年7月13日
の項を読むと、次の点でこの解釈には矛盾が有るようだ。
すなわち、

”良い手を少し連発しただけでBクラスの上位からAクラス
の下位に昇格できる”かのように書いてある。

言うまでもなく日本将棋のプロ棋士の順位戦は、年間を通し
てそのクラスで勝率が良く、レイティングが長期に上昇した
というふうに、

かなり長い期間に亘り棋力上昇がないと、上のクラスに上が
れない。

従って、鎌倉時代初期、後鳥羽上皇が隠岐に流されたときに、
”今小路殿の御所”では、

将棋道を極める事を目指す、全国の将棋棋士が集まった棋戦
が行われていたとは考えにくい。

では、大日本史料の1221年7月13日の、清寂の自慢話
の前半の鎌倉時代初期の彼の”今小路での活躍”は、今小路
という将棋の強豪が、少なくとも集まったとみられる場所で、

何が行われていたと考えられるのか

を今回の論題とする。
 最初に結論を書いて、その後で説明を加える。
幾つかのクラス分けしたランクに、安定して存在する常連の
客が、新入りで、自分のレーティングの程度を知りたい客と
ゲームセンターでは対局して、新入り客のレベルを計測する
サービスをする。

すなわち、今のゲームセンターのゲーム機に、最後に表示さ
れる、今なら点数で示す使ったゲーマーの得点等を、当時は、
1マチ上、1マチ末、2マチ上、2マチ末というふうに、
常連と対局した結果によってクラス分けして、明らかにして
くれるサービスを、対価を払うと、してくれる

ような場所が、今小路に有った。そしてその話を清寂は、
後鳥羽上皇の御前で、しているとみられる。
 では、以下に説明を加える。
 以上のように考えると、何回か連続して、今小路殿の御所
のゲームセンターに通うと、今ならレーティングと表現でき
る、棋士の将棋の棋力が、史料では、1マチの下とか、2マ
チの上位というふうに、明らかになるように、いてある事が、
自然に説明できる。
 つまり、

今小路のゲームセンターは近世~現代の将棋所や日本将棋連
盟の会館のように、”将棋道を極める”というよりは、遊び
で通う、今のゲームセンターに、むしろ酷似している場所

だと、以上の仮定をすると、すんなりと理解する事ができる
という訳だろう。以上で、大体説明は終わる。
 ところでこの事から、次のようにも考えられる。
 今のゲームセンターにゲーム機は通常複数あり、類似のゲー
ム種でも、機械のバージョンによって、ゲームの内容、すな
わちゲームのバージョンが異なるという事がある。だから、
それと同じ事が、後鳥羽上皇御前での、清寂の自慢話に出て
くる小将棋に関して、鎌倉時代初期にあったのだろう。
 清寂は、バージョンによって、駒落ちが必然(大江匡房・
白河天皇標準型)と、不要(原始型)が有る事を知っていて、
後鳥羽上皇の御前では、今小路殿ゲームセンターでの常識に
則って、話を使い分けていると考えられる。まさに、熟練ゲー
マーらしい話の仕方だ。
 だから、大日本史料の文献の今小路殿が、何処にあるのか
は不明だが、その今小路の将棋所にも、

今小路西鎌倉市福祉センター遺跡出土の中将棋の木札と、同じ
機能を持った、ゲーム・バージョン指定の立て札のような物
が何らかの形で、必ず置かれていたはず

だ。大日本史料の今小路と、鎌倉市の今小路西の遺跡の今小
路とは、同じでないのかもしれないが。清寂が通った、今小
路殿の御所と、鎌倉市の今小路西御成小学校遺跡ゲームセン
ターとは、鎌倉時代には

同じ類の、施設

だったと推定して、ほぼ間違い無いのではないかと、私は思
う。将棋駒の金将が発見された時点では、その点がぼんやり
としていた。が、ここに来て、

紛失したのが残念だが、ルール木札が認識された事によって、
その事が、よりはっきりしてきた

ように、私には思える。
 京都の鎌倉時代の初期の今小路ゲームセンターに対抗して、
類似の施設を、南北朝時代までには、

その時点で、”今小路”と呼ばれていた鎌倉の場所に、洒落
で開いたとは考えられないのか。

以上の点から見て、鎌倉市の”今小路”の地名の由来が、
ぼんやりとしている時点での、

この木札の発掘は、鎌倉市史全体にとってかなり大きかった

ように私には思えるのだ。早く、紛失木札が見つかってほし
いものだ。(2018/12/29)

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連座(宝珠系・クチナシ)型囲碁の脚。戦国期の付喪神絵に有る(長さん)

前に、連座(宝珠系・クチナシ)型の将棋・囲碁盤の足は、水無瀬
兼成等の、水無瀬駒が出現した時代に、北野天満宮の絵巻の、碁盤
の足近似で、発生した疑いがあると述べた。
 この説によれば、戦国時代には、連座(宝珠系・クチナシ)型の
将棋・囲碁盤の足は、無かったはずだ。
 しかし、さいきん私は、絵巻物を調査して、奈良の東寺の僧侶が、
戦国時代(16世紀)に書いた絵と、考えられている、岐阜県の、
崇福寺所蔵の”付喪神絵(つくもがみえ)”の中に、16世紀

戦国時代に、連座(宝珠系・クチナシ)型の、囲碁盤の足が書かれ

ているのを発見した。
 器物霊の妖怪が、囲碁を差している、戦国時代成立の絵巻らしい。
その付喪神絵の上巻第7段という場所に、その絵は有る。妖怪は、
他に盤双六・博打・絵合をして、遊んでいるという絵とのことだ。

この囲碁盤の足は、多角形なだけでなくて、縦スジが入っていて、
たしかに、江戸時代の碁盤や将棋盤の足の絵に、いっけんして似て
いる。

付喪神絵.gif

 よって、

水無瀬駒の時代から、将棋盤の足の”クチナシ”になったとの以前
本ブログで記載した内容は、

事実として、誤り

だ。
 少なくとも京都の東寺では、囲碁盤の足は、ものと人間の文化史
23-1将棋Ⅰで、増川宏一氏が示唆しているように、仏座の蓮座
を象ったような、デザインが、普通であると、

16世紀には認識

されていた。水無瀬兼成は長寿であるので、こうした仏教界でだけ
通用したのかもしれない常識が発生したのが、彼が生まれる以前と
までは、断言できない。しかし彼が若い頃から、水無瀬駒を作成し
ていたという記録は、今の所無い。だから、彼の作成した将棋駒の
出現より後に、今の将棋盤の足の形、連座(宝珠系・クチナシ)型
が成立したとは、この絵図からは考えられない。
 何れにしても、法曹界では将棋盤とは、逆L字の足ではなくて、
仏座の蓮座であると、戦国時代には既に考えていたようだ。ただし、
厩図の絵師等、僧侶で無い階層の者は、その時点で、くちなしでは
なくて、逆Lと考えていたとも私には認識される。
 ようするに、

僧侶の常識が、安土桃山時代以降に、社会を制圧する傾向が有った

とは言えそうだ。
 つまり江戸時代になり、寺社の力が、幕府と結びつく事によって、

仏教の影響力は、室町時代後期から戦国時代に比べると、江戸時代
の方が強くなり、時刻の制度へ影響力を持ったり、囲碁盤・将棋盤
の足の形を、仏教界の常識流に決めてゆく等の、浸透力を発揮した

という事なのかもしれない。
 その結果が、逆に江戸幕府が崩壊すると、廃仏毀釈に繋がったと
いう事なのではないだろうかと、私には想像される。(2018/12/28)

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今小路西鎌倉市福祉センター遺跡中将棋木板。近の次の文字は何(長さん)

前に述べた所までによると、表題の今小路西鎌倉市福祉センター
遺跡出土の中将棋木板は、”しろいぬ、もしひゃう。まうこは、
近くへ行が、上わゆけぬ。”と書いてあると言う事だった。
”中将棋の初期配列で、獅子を狛犬に変えたゲームを、鎌倉時代
または、南北朝時代の今小路西御成小学校遺跡ゲームセンターで
は中将棋として、順位戦等で指しなさい”との指示をしている
立て札と、本ブログでは、今の所解釈している。
 ところで、前回までの解読では、下側の板の最初の読みである
”近”は、下の段の板から上に切れて見えなくなっており、”く”
との間に、短い棒状の

未読文字があり、”?”で表記してあった。

今回の論題は、この未読文字が何なのかとする。
 結論を書く。
”斤”と書いてあって、

”しんにょう”を省略しており、にもかかわらず”近”と読ませ
るための文字であり、”近”は、はみ出ていたのではなくて、元々
残っていた

という事だとみられる。
 では、以下に説明する。
 以下に未読文字と、拡大図を示す。

近の謎.gif

 写真のように”斤”の第一画目の後半だけの墨跡が、くっきり
残っているが、拡大して良く見てみると、消えかかった画も、薄っ
すらと見え、”斤”が、右にズラして書いてあるようである。し
かし、”しんにょう”は、字の位置から見ても、さいしょから、
無かったのであろう。だから作成者の意図としては、どうやら、

カッコウをつけて、”しんにょう”を省略した”近”を、”斤”
と書いて、表現したつもり

のようだ。”狛犬が白犬なので、『近く』も『斤く』で良い”と、
見ているという、気持ちと言う事か。
 だからこの木札は、近は元々書いてあったのであり、2枚目に
ついては、本ブログで今まで考えていたように、上部が欠落して
いるという事は、あるいは無かったのかもしれない。
 従って、この短い棒のような部分は、”近”と読むのが、恐ら
く正解のようだ。これで、この木札の解読は、私なりには、ほぼ
できたような気がした。
 残りは、”行くが”の”く”の字が、私には無いように見える
のは何故か、位であろうか。

今後解釈が完全に行われて現物が見つかり、この遺物が今度こそ、
安全な所で、大事に保管されるようになる事を

心より祈りたいものだと思う。(2018/12/27)

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鶴岡八幡宮境内遺跡出土、”3枚目の歩兵”裏面は何か(長さん)

大坂電気通信大学の高見友幸氏により、”奔成り”と指摘
のある、鶴岡八幡宮境内遺跡出土の、成書”天童の将棋駒
と全国遺跡出土駒”で、5番とナンバリングされた駒の、
問題の成り面の文字について、今回は何なのかを論題とす
る。答えから書き、今回は背景を含めて、その後で説明し
よう。

比較的崩しの少ない、一文字”金”と見て、矛盾はない

と、本ブログでは考える。
 では、以下に最初から説明する。
 神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮境内遺跡からは、本ブログ
の見解によると、後期大将棋系の駒および、平安小将棋類
とみられる歩兵駒が、出土していると言う事になっている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒に、全部のスケッチと、
香車の裏と、不成り歩兵駒の裏を除いて写真が載っている。
また成書、よみがえる中世3、武士の都鎌倉に、カラー写
真で、オモテ面の写真のみが載っている。
 天童の将棋駒と全国遺跡出土駒のナンバーで表現すると、
以下のような構成だ。
NO.1 成り楷書奔王鳳凰駒(後期大将棋系)
NO.2 成り”と金”歩兵駒(小将棋?)
NO.3 不成り剥がれた墨跡香車駒(後期大将棋系)
NO.4 不成り歩兵駒(後期大将棋系?)
NO.5 初期鑑定で飛車成り金将駒(中将棋?)

今回は汚れが酷く、異説が幾つも有る、”3枚目の歩兵”
と本ブログでは呼ぶ、NO.5の出土駒について、問題に
している。
 本ブログは、

オモテ面を”歩兵でも矛盾無し”と主張したが、裏面につ
いて、これまでは、言及してこなかった。

 先行研究は、次のようになっている。
 鎌倉考古学研究所の鑑定で、汚れがひどく、本ブログ以
外には、断定的に駒名を示した事の無いオモテ面について、

金将と鑑定した。

そして、同時に裏面については、上部の二画目のカーブや、
その右上の筋から、

裏面は楷書の飛車と鑑定した。

 表面については、卒や傘の上半分にも見える程度に、汚
れが酷いのだが、研究は進まず、金将に賛成する意見も多
かった。
 他方、今回問題にする裏面については、その後研究例は、
しばらくなく、?とする意見が多かった。しかしながら、
最近になって、大坂電気通信大学の高見友幸氏により、
楷書の”飛”に見えている字は、”奔”ではないかという
意見が出てきた。
 以上の程度だと思うが、苦情が出てから、”失念したの
は確かに悪かったが、これほど汚れが酷いのに、断定でき
るため、忘れてならない先行研究とまで、言い切れるのか
どうか”という立場から、本ブログでは、より詳しく反論
をしたいと思う。
 他方オモテ面の本ブログの主張について、簡単に復習す
る。特に強い墨跡は、最上段だけであり、

歩兵であるという説を、否定できるほど、きれいな状態の
出土駒では無い

というのが、本ブログでの見解だった。しかし、

金将では絶対無いとは、言うつもりは最初から無い。

 さて、今回は、鶴岡八幡宮遺跡出土のNO.5駒の、成
りを問題にする。ポイントは、

飛車の上部だと判定した、金とは少し違うと見たらしい、
第2画目のカーブの仕方は、栃木県小山市神鳥谷曲輪出土
の成り一文字金角行の金の字の、2画目のカーブと瓜二つ
である。つまり、

前半が凸、後半が凹になる、金の字の第2画目のカーブは、
金としては、普通の範囲内である。だから、

この駒は、普通に、やや崩しの軽い、金成り歩兵駒である

と見ても大きな矛盾はない。ただし、成りがと金だったり、
不成りだったり、軽い崩しの金だったりと、ばらばらな理
由は、問題になるだろうが、今の所、私には解明できない。
 NO.5番目の駒は、NO.1の鳳凰駒とは、カラーで
見ると少し色が違うようだが、汚れているので、鳳凰駒と
の仲間で無いとは断定できない。しかし、気まぐれで平安
小将棋の歩兵の、裏の金の文字が、崩しが弱かったと、本
ブログではみると、言う意味だ。つまり、より価値の高い、
中将棋の飛車成り金将が出土したという説を、絶対おかし
いと、完全否定は出来ないものの、

もっと無難な見方を、逆に完全否定できるほど、出土駒は
綺麗とは言えない

と、本ブログでは考えると言う事である。
 なお、裏面の字の一番最初を、飛と見るよりは、奔と見
た方が、マシだと、本ブログでは見ている。奔の字の大の
部分の第3画目のカーブと、金の字の第2画目のカーブは、
似たり寄ったりであり、

飛と見るのは、やや無理があるが、奔でも金でも同じ程度
だろう

と見る。つまり、その右上に有る、”ノ”の字のような部
分は、墨跡ではなくて、”汚れ”だと言う説を、本ブログ
では取るという意味である。
 以上で、本ブログの主張は終わる。
 なお、この駒を紹介した、天童の将棋駒と全国遺跡出土
駒の、この駒に関するスケッチ図が、元面と成り面で、逆
に書いてあるのを最近みつけた。
 卒ないしは、傘の崩れたように見える書体がある方が、
成り面であり、

相当に無理があると、私は個人的には思うのだが、”金”
と書いてあるスケッチが表面

である。駒が欠けていて、その欠け面の形が、スケッチと
写真とで、裏表がアベコベになっている。
 汚れで字の変形が酷く、この書を編集するときに、うっ
かり間違えたのであろう。(2018/12/26)

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牛僧儒の玄怪録。”巴キョウの橘園”の”将棋”を確認した(長さん)

前に、塩谷賛著”露伴と遊び”、創樹社(1972)に、
幸田露伴の将棋雑考の現代語訳が有り、玄怪録には、小人の戦争
と共に、同じ玄怪録に、”巴キョウの橘園”という”将棋”の文
字が現われる短編怪奇小説があると、その将棋雑考現代語自由訳
には書いてある事を、本ブログで前に一度紹介した。最近成書本
で、その内容が普通に今の日本語で書いてある書を、私も確認し
た。成書名は、次の通りである。

平凡社”中国古典文学大系 六朝・唐・宋小説選”
前野直彬著(1968)

上記著書では、問題の短編怪奇小説は”橘の中の仙人”になって
いた。
 結論から述べると、ここで”将棋をさしている”と表現された
”将棋”は、運に左右されない”チェス・象棋類”かどうかは不
明である。お互いにサイコロを振らずに、手を指しているのかど
うかも、この物語中では謎だし、日本語化された前野氏の文面で
は、”勝負がつくと”とは書いてあるが”一方が投了すると”と
は書いてない。だから、ゲームがチェス・象棋・将棋類と異なり、
終端局面まで進んでから終わるのか、チェス・象棋・将棋類と同
様、読んでみて、駄目だという局面で不利な側が、投了して終わっ
たのか、明確でない。ただし盤双六同様、2人制のゲームである
事は、日本語化された物語では、明確に述べられていた。
 牛僧儒が、”小人の戦争”を、この物語とは、別に書いてい無
いと、中国での象棋か将棋の初出文献には、”巴キョウの橘園”
は、入れられなかったと私は思う。
 次に、以上を踏まえて、物語の内容をざっと紹介する。なお、
以下の私の文は、本ブログの管理人の言葉で、日本語現代語の成
書を、更に意訳している。

四川省の巴キョウという所に、かんきつ類の橘の果樹農園があっ
た。持ち主は、霜の降りた季節の後で、普通の橘の実は摘み終え
ていた。が、売り物にならないような、大きさが大きいという点
で奇形の実が二つ残っていた。持ち主はそれも、もぎ取らせたが、
元々の普通の実を、大きく膨らませたようなもので、ふわふわで
異常に密度が低かった。
 そこで不思議に思い、実を割ってみると、中に身の丈が1尺位
の小人の老人が2人づつ、計4人入っていて、熱中して将棋を指
していた。老人達は実が割られたことも気にせず、2局ともその
まま指し続けられた。
 やがて、そのうちの一局の勝負がついた。すると、勝った方の
老人が、
「あんたの負けだ。賭けた品物を、王先生の所で会合がある日に、
渡してもらおう」と言った。すると、負けた方の老人が、
「会合の日が待ち遠しいものだ。橘の実の中で暮らす楽しみは、
商山での暮らしに劣らないが、但し橘の実を固定する根が、深く
がっちりと、実が動けないようにしてくれて、いなかったようだ。
そのため農園の主に、実がもぎ取られてしまったわい」と言った。
 すると、別の対局をしていた老人も、対局が済み、「腹が減っ
たので龍の乾肉を食べようかねぇ」と言い、袖の中から乾肉を取
り出すと削りながら食べ出した。しかし削りだす量が、ほんの僅
かでも、不思議な事に、膨らんで肉のステーキになるので、食べ
ても食べても、肉がほとんど減らなかった。そして肉を食べてい
た小人の老人が、食べ残った肉に水を吹きかけた。
 すると更に不思議な事に、その肉が生きた龍になってしまった。
 四人の小人の老人が、出てきた龍に跨ると、見る間に群雲が発
生して、激しく風雨が果樹農園を襲い、龍は空を飛んで4人の老
人といっしょに、消えてしまった。
 以上の話は150年ほど前の、隋から唐にかけての話であるが、
何時の事かはどうも、はっきりとはしない。(以上物語り内容)

 この”将棋”は、賭博の道具として使われているとの表現が、
少なくとも日本語の成書では、示されている。その点が同じ、
牛僧儒の玄怪録の”小人の戦争”とは少し違う。だから、ここで
の将棋は、日本の古代の盤双六系のゲームではないかとも、疑お
うと思えば疑えるようだ。
 ちなみに、本ブログでは、塩谷賛著”露伴と遊び”の将棋雑考
で、漢文で書いてあった”但不(レ)得(ニ)深(レ)根固(一レ)
帯爾”(のためここに居るのは不満)らしいが、本ブログの、
管理人の力では訳せないと、前に書いた。が今回、日本語の前野
氏の物語りの表現から、上記のように、

但し橘の実を固定する根が、深くがっちりと、実が動けないよう
にしてくれて、いなかったようだ。(そのため、農園の主に実が
もぎ取られてしまった)ので、ここには居られなくなった。

の意であるらしい事が、私にもようやく判って、ほっとした。
 以上のように玄怪録については、典型的に将棋と判る宝応将棋
が、小人の戦争に書いてある。そしてその他に、将棋とだけ書い
てあって、内容は不明だが、別の所にもあるという点で、多少の
サポートになるかもしれない、”巴キョウの橘園”という話が、
確かに存在はする。以上の事実自体が、ようやく今回、私にも判っ
たという訳である。(2018/12/25)

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虎関師錬の時代、占い36禽の資料は摩訶止観他五行大義が有り(長さん)

前に、虎関師錬が、異制庭訓往来の将棋の説明を記載した際に、
彼の言う36禽は、摩訶止観の知識からのみのであろうと、
本ブログで述べた。その際、36禽の元になる資料が、南北朝
時代の時点で、日本には、少なくとも代表的には、仏教の経典
の、摩訶止観の煩悩の項目に関する記載位ではないかと、ここ
では考えたからであった。その後、36禽について、中世の
日本人が入手可能だった、大陸伝来の書籍を捜索した結果、

日本の陰陽寮で平安時代から、教科書として使用されたものと
見られる、中国の隋王朝時代に蕭吉(しょうきつ)によって編
纂された、”五行大義”が有る事が判明した。

 webに、漢文で全文が載っているページがある。
そこには、確かに子~亥までの、36禽のリストが記載され、
”名数数詞辞典”と似たような、動物名のリストが、この史料
では子から亥まで並んでいる。

.子.朝爲燕.晝爲鼠.暮爲伏翼
.丑.朝爲牛.晝爲蟹.暮爲鼈
.寅.朝爲狸.晝爲豹.暮爲虎
.卯.朝爲狐.晝爲兔.暮爲貉
.辰.朝爲龍.晝爲蛟.暮爲魚
.巳.朝爲蝉.晝爲蚯蚓.暮爲魚蛇
.午.朝爲鹿.晝爲馬.暮爲麋
.未.朝爲羊.晝爲鷹.暮爲鴈
.申.朝爲猫.晝爲猿.暮爲猴
.酉.朝爲雉.晝爲鶏.暮爲馬
.戌.朝爲狗.晝爲狼.暮爲豺
.亥.朝爲豕.晝爲契蝓.暮爲猪

子の最初が、猫ではなくて燕、巳の真ん中が、鯉ではなくてミ
ミズ、申の最初が尾長ザルではなくて、猫に変わるくらいの差
のようだ。なお、記載場所は書籍の最後の部分であり第二十四.
禽蟲就 二.三十六禽 となっていた。
日本には現在、元弘3年(1333年)と天文年間の写本が完
本として残っていて、中国には他の陰陽五行説の書籍が多数あ
った為に、不要と見られて、全部廃棄されてしまい無いという。
 ちなみに36禽自体は、この本の記載によると、漢代の書籍
がオリジナルだという。
 以上の状況から見て、南北朝時代の時点で、

五行大義ないし、陰陽道の占い関連の中国からの、今は無い
書籍を、京都に在住した虎関師錬は、経典の摩訶止観とは別に、
参照できた可能性がある

と考えられた。なお、私は確認していないが、日本の書籍とし
て二中歴に、”36禽”の内容は、転載されているとの情報が
英語のwikipediaにある。言葉自体が、さほどマイナー
ではない事だけは、確かなようだ。
 よって結局の所虎関師錬は、密教も学んでいるので、占星術
関連で使用されると聞く、エジプト起源の黄道36星座は、
五行大義等で、名前を聞いた上で、他の占いに関する当時は
存在した中国からの書籍で調べて、内容を知っていて、”1年
の日数の1/10の数”の動物名の羅列だと認識した上で、
異制庭訓往来に載せた可能性も、

残念ながら、否定できない

ようだった。
 なお、造形物として、わが国にも36禽の像等は、幾つか
有り、京都の祭りの、屋台の飾りにあるとも聞いている。
 星占いと言うと、星座は12、室も12が今ではポピュラー
だが。36室制にしようと思えば、出来るわけだろう。そうす
ると、地面に固定のいわゆる、”第一赤道座標”の時角の、
36禽表記が、当然時制の一種と見なせると言う事だろう。
つまり、

虎関師錬が、星占いの世界でだけ使われる、特殊な時刻の表記
は理解できるような、占星術に関する専門的な知識を、有る程
度は持っていた可能性を否定できない

という事かと見る。
 なお、今に伝わる36禽説話の内容から見て、摩訶止観の教
義の三十六禽は、形の上では仏教の説法だが、”座禅等仏法修
行中の星が、40分単位で、36星座星占いで使われる、
第一赤道座標の経度(時角)の類の、ホロスコープの『室
(ハウス)』を変えてゆく”と言っているのと同じであって、
実質これは”星占いの話”だ。
 禅僧だから、密教系の星占いの情報資料として、具体的には
摩訶止観を、頭に描いている疑いも大きいのだが。”将棋は、
天文・占い道と同程度に帝王にとって大事だ”と異制庭訓往来
では、漠然と言っているだけの可能性も、完全には否定できな
いと言うところかと、私は結論した。(2018/12/24)

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時刻表記法の36禽。日本での定着、摩訶止観よりと特定できる(長さん)

前に述べた通り、虎関師錬の異性庭訓往来の”将棋は・・”
の36禽は、元ネタが天台宗の主要仏典である、摩訶止観に
記載されているのを、持ってきた疑いが強いという事が、
南方熊楠の随筆から判ってきた。
その後調査すると、小学館(1972)の国語大辞典に、対
応する、摩訶止観の文面が、次のように載っていた。

又一時為(レ)三。十二時即有(二)三十六獣(一)。寅有
(レ)三。初是貍。次是豹。次是虎。

この文の摩訶止観の中の記載位置は、私には正確には判らな
い。が、”(七章)正観(ニ.)煩悩境”の当たりらしい。
所で、東京堂出版(1980)の”名数数詞辞典”森睦彦著
には、三十六禽または、同じ意味だそうだが三十六獣の意味
が書いてあった。すなわち、

今のニ時間に当たる、いわゆる”いっとき”に対して3獣づ
つ配当し、時間の名前として使う。仏教上の使用方法であり、
対応する獣はその担当時間の間中に、修行をする仏教行者に、
悟りを開かせないように、邪魔をする悪獣である

との旨だった。
 個人的には浅学の私には、このような”いっとき”を三分
割する時制表記には馴染みが無かった。が、江戸時代に上刻、
中刻、下刻という、2時間すなわち、”いっとき”について
の分割用単語は、過去耳にした事が有った。従って、それと
関連しており、これだけから摩訶止観だけが、36禽に結び
つくのかどうか、いっけんすると疑問と思えた。そこで今回、
その点を調査してみた。よって今回は、以上のように、

ニ時間に当たる”いっとき”に3獣づつ配当し、36禽時制
表示をするという情報が、虎関師錬にとって、摩訶止観から
しか得られないのかどうか

を論題とする。
 結論を書いて、後で説明を加える。

得られにくいとみられる。理由は、わが国の中・近世の時制
では2時間に当たる”いっとき”を4分割する制度が、定着
しており、3分割法は、特定の法典に書いてある程度の、か
なりマイナーな、なんらかの大陸からの伝来情報と見られる

からである。
 では、以下に説明を加える。
 中国・唐代の暦や時制を導入したわが国の時制・漏刻制度
では、12支名で1日を分割する、2時間単位の定時法、
いわゆる”いっとき”という言い方の分割方法が取られた。
ここまでの12分割は、48へ細分割しようと、36へ
細分割しようと同じである。しかし、それを更に、

3分割するのではなくて、2分割2分割して、ほぼ4刻で、
1辰刻つまり”いっとき”、つまり正確に2時間とする、
30分に近い単位の分割方法が、王朝時代から江戸初期まで
続いた。

つまり、40分単位法は、正式な精度としては、取られた事
が無いのである。
 また、江戸時代は更に2分割して8分割し、15分の8倍
が、”いっとき”のパターンになった。ただし天保暦から、
幕末までは、定時法のこの時刻表記が、正式に不定時法の
時刻表記に、援用されたと言われる。
 つまり、2の倍数の分割法の方が、頻繁にわが国に伝来し
ていたと、見られると言う事である。

だから、日本の古代末期から中世の、特に知識人の感覚に、
基本的に2時間すなわち”いっとき”を3つに分けて、40
分づつ単位で、時間を考える習慣も、他人に薦める事も無い

と見て取れる。
 なお、陰陽道占いの”六壬式盤”に36禽が書いてあると
するサイトも見られる。が、同じweb上にある”復元模型”
を見る限り、24分割しているように、私には見える。
 だから、36禽の元になったと、この場合はかなり疑われ
る、摩訶止観の元である中国仏教(エジプト起源の天文学の
影響を受けた、台密系か?)には、40分で36禽の動物を
対応させるやり方が、どうやら、正式ルートで入ってくる
中国からの、暦文化とは別に有って、情報流入量は、少なかっ
た(細かった)とみられる。恐らくは、日本にもたらされて、
少なくとも広がった情報は、摩訶止観に書いてあっただけと、
事実上特定できるのではないのか。ちなみに具体的には、
以下のような36禽が有ると、”名数数詞辞典”には、書い
てあった。

子:猫、鼠、蝙蝠
丑:牛、蟹、鼈
寅:狸、豹、虎
卯:狐、兎、狢
辰:竜、鮫、魚
巳:蝉、鯉、蛇
午:鹿、馬、麋
未:羊、雁、鷹
申:尾長猿、猿、猴
酉:鳥、鶏、雉
戌:狗、狼、豺
亥:豚、契蝓(あつゆ)、猪

”名数数詞辞典”では、説明が実際には寅から始まって、
丑で終わっているので、出典はこれも、摩訶止観に、ま違い
ないと見られる。
 将棋駒の名前には有る、12支に無い生き物がかなり有る
が、現存の摩訶大将棋の動物駒の様子は、本ブログが、蝙蝠
を本来の摩訶大将棋の駒と見て居無いために、”熊”が無い
分だけ、わずかに雲南博物館の闘争動物種彫刻との相関の方
が、高いように見える。
 元に戻すして繰り返すとつまり、

天台宗の経文、摩訶止観位にしか、2時間=”いっとき”を、
3分割する方法は書いてないマイナー情報なので、4分割法
と違い、日本では前者が、中世までに普及した形跡は無い、

のである。
 そして、近世に使われた、上刻・中刻・下刻は、江戸時代
には、

天台宗が強かったので、確かに36禽思想の影響で、現われ
た言葉と認められる。

だが、実際には、上中下で”いっとき”を3分割し無かった
そうである。つまり”いっとき”4分割の源になる、2分、
2分流が強かったために、時間の区間名ではなくて、上刻と
中刻が、それぞれ、現在の偶数時0分、奇数時0分の時刻の
切り目の意味で使われ、下刻は意味をなさない等、

判然としない定義で使われただけだ

と、”暦の大辞典”、朝倉書店、岡田芳朗他(2014)に
載っている。出所のスジが細く、天台宗の教義位しか、出典
が無い証拠と本ブログは見る。なお、(1)3分割法なのに
2分割法に、用語を代用してしまった混乱のほかに、(2)
1時間、対応名称が過去側にずれ、上刻と中刻がそれぞれ、
現在の奇数時0分、偶数時0分の、むしろより正しい意味で、
使われたり、(3)それを定時法ではなくて、不定時法に、
更に転用したり、以上、
(1)~(3)の3通りの混乱が重なってしまったと言われ
る。そのため暦学者で、囲碁の強豪棋士の、渋川春海から、
”使わない方が良い”との指摘がなさせる事もあったようだ。
 つまり、

36禽の思想は、江戸幕府内の天台宗の隆盛で、江戸時代に
は、上刻、中刻として有る程度、それに影響を受けた言葉が
発生したにも係わらず、明治維新まで、遂に定着しなかった

という事らしい。
 なお、中世には上刻、中刻・・は無かった。つまり”いっ
とき”はだいたい4分割、正確には藤原道長も使った、宣明
暦のダイヤリー付き具注暦は、十二支で表される”いっとき”
は、近年の研究で、刻の単位に4+1/6分割されていた
そうだ。(追記参照)
 だから日本の上流階級の中に文化として定着していない、
いっとき=3禽思想は、36禽という言葉自体が、流布して
いたとしても、意味が曖昧で、古代と違い、朝廷の力が衰え
た日本の中世には、

天台宗の経文、まさしく摩訶止観に詳しい、僧の虎関師錬位
しか、意味を正しく知りえるはずの無い情報

に間違いなさそうだ。
 よって、”いっとき”を4分割程度する文化しか、そもそ
も普段は彼自身も使わない、異性庭訓往来の著者、虎関師錬
の頭の中には、”・・36禽の獣の列位を象り、多いのは”
と記載したときには、”摩訶大将棋”という単語が、恐らく
浮かんで居たことは、今の所かなり確かなように私は思う。
(追記)
 日本の時制については、個人的に若い頃に何冊かの成書を
読んだ事があった。が研究がその後進んで、”いっとき”=
4+1/6分割法というやり方が、公家の日記の暦(具注暦)
では取られていた事が、今回勉強しなおしてみて判った。
成書は前述の”暦の大辞典”、朝倉書店、岡田芳朗他(20
14)に詳しい。ただし、この著が漏刻制度をメインの論題
にはしていないため、説明が論文の写しであり、租借が無い
ため、文章がやや判りにくい。
 ようするに藤原道長といった具注暦のユーザーは、次のよ
うな時計を使っていたのだ。
 一日を十二支名で12に分ける。ただし、子は前日の23
時から翌日の1時までの二時間、丑寅以下、これに習う。
 ”いっとき”を25分に分ける。0分から6分までを、簡
単に言うと第0刻、6分から12分までを第1刻、12分か
ら18分までを第2刻、18分から24分までを第3刻、残
りの1分、24分から25分だけを第4刻と呼び、頭に時刻
の十二支名を付ける。
 だから、今と違って、1分は4分48秒間になり、第3刻
までは、中世には1刻が28分48秒、第4刻だけ4分48
秒の長さだった。
 たとえば”草木も眠る丑三つ時”の丑三つ時(丑3刻0分)
は、実は近世では無くて中世の日本語であって、今の日本語
の、午前2時26分24秒の意味と言う事になる。
 以上の事から、各いっときの5番目の第4刻は、他の1刻
の1/6の長さしか無い。一日は12の”いっとき”に分け
たので、刻は第0刻から第3刻という正常な、28分48秒
の合計48の刻と、その1/6の時間、4分48秒しかない、
12の第4刻から成る。1/6は12倍すると正常な2刻の
時間の長さである。
 よって結局の所、正常な第0刻から第3刻までの時間28
分48秒を単位として考えると、一日は、平安時代から室町
時代前後の、日記用暦の具注暦では、50”正常刻”に分け
られていた。ちなみに、江戸時代には、”いっとき”が、
初刻と正刻に2分割されて1/2の時間の長さ、今の一時間
と同じ時制が生まれ、刻も1/2化されて、1刻イコール、
現在の時間で14分24秒になった。これにより、良く聞く、
”昔の定時法の1日は、100刻分割”という制度が、実は
昔の説とは違って、近世になってから、始めて現われたと、
現在の研究では考えられているそうだ。(2018/12/23)

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